南アフリカの歴史 第三部

   ズールー王国  (目次に戻る)

 ここで視点を変えて、アフリカ人の様子を見てみよう(註1)

 註1 以下のこの節「ズールー王国」と次の節「ムフェカネ」はヴァージニア・メイス著 ケイト・ラウントリー ヴキレ・クマロ監修『ナショナルジオグラフィック 世界の国 南アフリカ』35頁 吉田賢吉著『南阿聯邦史』111頁 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』163〜172頁 ロバート・ロス著 石鎚優訳『南アフリカの歴史』32〜40頁 池谷和信著「南部アフリカ」川田順造編『新版世界各国史10 アフリカ史』333〜335 337〜339頁 林晃史著「南部アフリカ」 星昭、林晃史著『世界現代史13 アフリカ現代史1 総説・南アフリカ』68〜74頁 峯陽一著『南アフリカ 「虹の国」への歩み』76〜80頁 岡倉登志著『ボーア戦争』16頁 佐藤千鶴子著「ズールー王国の勃興とシャカ 神話から歴史へ」『南アフリカを知るための60章』第7章 山川出版社編集部編『新版世界各国史28 世界各国便覧』の「レソト王国」「スワジランド王国」 歴史学研究会編『世界史史料8 帝国主義と各地の抵抗Ⅰ』265~267頁の宮本正興氏と永原陽子氏による解説による。

 コーサ人の居住地帯の北東の彼方、21世紀現在の南アフリカ共和国の行政区分でいうところの「クワズール・ナタール州」、1910年から1994年までは「ナタール州」と呼ばれていた地域には「ズールー人」が強大な王国を築いていた。この辺りにそれ以前に存在した首長国群は18世紀の末頃から19世紀の初頭頃までに増えすぎた人口を養うための土地と水を巡る競争に加えて同時期のこの地域を襲った気候変動にも迫られる形で征服・統合活動を進めていたが、1810年代には「ンドワンドウェ王国」と「ムテトワ王国」が激しく対立するようになり、その中から勃興した新勢力がシャカ王の率いるズールー王国であった。ズールーは元々は小さな首長国でシャカは池谷和信氏や峯陽一氏によると1787年、宮本正興氏によると1785~1790年頃にその首長センザンガコナの長男(ただし非嫡出)として生まれ、峯陽一氏の引く伝承によれば「背が高く、色黒で、鼻が大きく、醜く、どもりだった」が、父に背いて22歳の時にムテトワ王国軍に入って頭角を現し、1816年頃に父センザンガコナが亡くなると(父の嫡出の息子たちを差し置いて)ムテトワ国王の後押しでズールーの首長位を継承した。それまで使われていたズールー戦士の長い槍を短くして大型の盾を持たせたり、中央に強力な部隊(その前面を「胸」、後面を「腰」と称する)を配して両サイドの「角」部隊が敵軍を包み込む「牛の角」戦法を練り上げたりの軍事改革に邁進する。やがてムテトワ国王ディンギスワヨがライバルのンドワンドウェ人に殺されるやその勢力を吸収、1818年にはンドワンドウェ王国をも撃破して一大勢力を築き上げ、1820年代には現在のクワズール・ナタール州の大半を支配下に収めるようになる。現在の南アフリカ共和国の最大の言語・民族集団はこのズールー人である。

 実にズールー人だけでアフリカーナーとイギリス系を合わせた白人の総数よりも多いのだが、峯陽一氏曰くその「ズールー人という民族の枠組みそのもの」がシャカの征服活動によって「初めて誕生した」のであり、トンプソン曰く「ズールー方言が王国の言語となり、すべての住民は、出自を問わず、シャカに忠誠を示すことでズールー人となった」のである。またトンプソンによればズールー王国は「よく整備された中央集権的な統治機構と徴兵制をそなえ、4万人規模の常備軍を有していた」といい、佐藤千鶴子氏によるとその軍隊というのは本来は通過儀礼のための男子の年齢別集団だった「アマプト」を軍事集団に変えたもので、それを用いて周辺の首長国を征服し強力な中央集権体制を打ち立てつつ、「その一方で、徳川幕府のように、王国への統合の段階によって首長国や集団ごとに異なる社会的地位を与え、併合した首長国を懐柔した」という。これも佐藤千鶴子氏によれぱ短期間に周辺諸勢力を併合する形で勃興したところのズールー王国においては辺境部の集団は差別的な扱いを受けていたこととて王国中枢部から離れた地域の人々は「ズールー王国の一員としての帰属意識は希薄」だったと考えられ、しかしそれが後年の20世紀の人種差別体制の中で「ズールー王国勃興の歴史やその立役者としてのシャカにまつわる神話」や後々詳しく解説していく「ボーア人やイギリスとの戦いにまつわる歴史的経験」が「ズールーという集団・民族意識を強調する政治運動」として盛り上げられていったのだという。

 それは後の話として、トンプソンによれぱ徴兵期間中の男性は周囲(トンプソンは「市民社会」という語を使っている)から引き離されて年齢別の部隊に配されて各地の兵営で生活させられ女性との接触は禁止、戦争をはじめとする国家のための公共事業に従事し、軍事遠征の際には全軍でシャカの営舎の前で壮大なデモンストレーションを演じたりして志気を高揚した。池谷和信氏によればズールー内の全男子を30~40歳の年長者集団、25~30歳の成人集団、18~25歳の若者集団からなる三つの連隊に編成したというのだが、その全期間で女性との接触を禁じられていたかどうかは筆者の不明のため分からない(たぶん若者集団だけだと思うが)。またトンプソンの引くキャロライン・ハミルトンによればズールー王国の内部には相当な不満も渦巻いていて、ズールー権力の側としては反乱が起こればこれを無慈悲な軍事行動の行使や裁判での暴力的な判決で裁き、王国における絶対的権力の基礎として恐怖感を利用、またそのようなイメージを育てていたという。経済面においても交易が厳格にシャカの手で支配されていて、特に王国内で取れる象牙は全てシャカの所有物として交易用に供されていた。1824年にはファウエルとキングというイギリス人がケープ当局の認可のもとに「ポート・ナタール」の地(現在のダーバン)に来訪してシャカから僅かな土地を購入、林晃史氏によればシャカは彼らから鉄砲を仕入れたというが、吉田賢吉氏によるとファウエルが帰途に土人(と吉田氏は表記しているがどの「土人」かは書いていない)の襲撃に遭ったため同地を商業的地盤とせんとする計画も失敗したという。

 1820年代のズールー王国はますます諸方に出兵しては略奪を繰り広げていたがシャカ個人としても1827年に母親を亡くしたことをきっかけに暴君化、1828年9月24日に異母弟のディンガネとムハランガナによって暗殺されてしまった。その後のズールー王国はムハランガナを殺したディンガネが継承した。追々解説していくようにこの頃から後の南東アフリカ地域ではズールー王国以外にも強力なアフリカ人の王国が複数形成されていくのだが、その中にあってシャカという人物はロスによれば長らく「残忍非道な男、残酷な戦術の考案者、神業のような戦闘力、洞察力、政治力の持ち主」として神話化されて語られて来たし確かに優れたリーダーだったことは間違いないのだが、「しかし、シャカは決して他に類のない人物だったのではなく、19世紀半ばに首長国や王国を築くか拡大した首長たちはすべてシャカのような人物だった」のであり、シャカの手による政治制度は既存の制度に手を加えたもので、社会制度的にも「基本的な経済単位は同じ敷地内の父系制の大家族であり、ズールー王国内の行政単位はシャカに忠誠を誓った既存の首長国だった」という。

   ムフェカネ  (目次に戻る)

 この時期に南東アフリカ地域一帯を見舞った大混乱を「ムフェカネ」と呼ぶ。ここでいう「南東アフリカ」というのは「南アフリカ国の南東部」ではなく「アフリカ大陸の南東部」のことを指し、現在の南アフリカ国の北東部からモザンビーク、ジンバブエ、ボツワナ、更にその北方にまで及ぶ広大な地域を舞台とする騒乱が起こったということなのだが、そのうちで本稿で扱うのは主に南アフリカ国の北東部、ナタールとハイフェルトにおける騒乱である。「ハイフェルト」というのはケープ植民地(アフリカ大陸南端部)の北方、ナタール(インド洋沿岸部)の東方に広がる内陸高原地帯のことで、その北部が後の行政区分でいうところのトランスヴァール州、南部がオレンジ州に相当する(註2)。ナタールとハイフェルトの間にはドラケンスベルク山脈という自然境界が南北1000キロ以上に渡って連なっている。ムフェカネとはトンプソンによれば「苦悩の時代」、林晃史氏や永原陽子氏によれば「衝突」の意である。

 註2 1910~1994年の南アフリカ連邦(1961年に「南アフリカ共和国」に改称)はケープ州・ナタール州・オレンジ州・トランスヴァール州の4州からなっていた。

 峯陽一氏の概説に曰くムフェカネとはズールー王国を巡るこの時代の一連の混乱を指す語であって、或いはズールー王国による攻撃で多数の集団が故郷を追われて広大な土地を流浪し、或いはズールー王国の影響を受けて自前の中央集権的な国家を建設する集団もいたりといった騒乱が続いたのであるが、その原因については「1990年代に入ってもなお、さかんな論争が続いている」として、まず北方のポルトガル植民地(註3)を拠点とする商人(特に奴隷商人)の活動、南方でのカフィール戦争やグリカ人(ケープ植民地から離脱してきたカラードの集団。第一部で軽く触れたが更に詳しくは後述)の北進といった「外的要因」によって19世紀初頭までに深刻な脅威を感じるようになったズールー人たちの動きもまた活発化したという説と、18世紀の末までに人口増加が限界に達したこの地域の人々の間で土地と水を求める競争が激化、それが19世紀初頭の旱魃で一段と先鋭化したところで稠密な人口に合わせて大規模化した政治組織とシャカのイニシアティヴとで大国建設へと邁進したという「内因」を重視する説とがあって、峯氏の判断によれば「実証的には今のところ内因説が優勢」ではある(本稿のここまでの記述もとりあえず内因説によっている)が「19世紀前半、南部アフリカの至る所で白人の侵略の脅威が感じられるようになったことは否定できない」こと、そしてムフェカネが結果的に白人の勢力拡大の好機を作り出してしまったことも見逃せないとのことである。

 註3 モザンビークのことである。現在のモザンビーク共和国の首都マプート(旧称ロレンソ・マルケス)にはまずヴァスコ・ダ・ガマの船隊が到来していて1544年に要塞建設、1721~1732年にオランダの占領下に置かれたが伝染病で撤収、1781年に改めてポルトガルから総督が派遣されて基地化がなされていた。(コトバンクの「マプート」による)

 「白人の勢力拡大」については後で詳しく説明するとして、トンプソンもムフェカネの要因について同様のことを述べ、ポルトガル領からの奴隷輸出は1823年までは殆どなかったしその方面でビーズ玉や真鍮と象牙や牛を交換していたポルトガル商人の活動がムフェカネの第一要因になったと裏付けられる証拠は見当たらないようであり、1823年以降に奴隷輸出が増加するのはこの地域での戦争の結果であって原因ではなく、グリカ人の進出がハイフェルトの一部地域で相当の荒廃を引き起こしたのは事実だがそれよりもナタール方面からやって来た連中による混乱の方が大きかったとする。この件に関して筆者の手元にある資料の中で最新の文章を書いている佐藤千鶴子氏は「つい最近までムフェカーネの原因は、シャカの命を受けた王国の軍事集団が王国への併合を強制する過程で人びとから家畜や牧草地を奪いながら辺境へ攻撃を仕掛け、攻撃から逃れる人びとが、玉突き現象で逃れてゆく途上の土地に住む人びとの生活を破壊しながら散り散りになっていったためであると考えられていた」が、それはその当時に現地を実見したヨーロッパ人の商人や伝道団体の報告に基づくもので、1980年代以降はムフェカネの原因をズールー王国勃興にのみ求める考えは否定されるようになっていて、ズールー王国勃興以前の18世紀末頃に象牙や牛などの交易品、牧草地や狩猟場、交易ルートの支配権を巡って強大化した複数の首長国が相争うようになったことや、ポルトガル商人による奴隷貿易の影響もムフェカネの「重要な原因」であるとする「今日の歴史家」の指摘を紹介している。ということはその方面での奴隷貿易はトンプソンが書いている時期以前から盛んだったことが明らかになって来ているということなのだろうか。ロスはその方面の奴隷貿易の急増は「ズールー人がンドワンドゥエ王国を打倒した後」と書いている。ロスはムフェカネについては1820年を境にして二つの局面に分けることが出来るとして、まず18世紀のうちにモザンビーク沿岸での象牙や獣皮を扱う貿易の増大と旱魃がそれに関係していたと思しきこと、そして1790代からの「オレンジ川中流域とケープ植民地の略奪者たち」の襲来が首長国間の抗争を激化せしめていたとしている。オレンジ川というのはケープ植民地の北辺を流れる川で、その中流域からの略奪者というのは多分グリカ人のことと思う。続けてロスによると1820年以後にはグリカ人(と明記してある。1790年代の略奪者集団の正体をぼかして書いているのは何故なのだろうか)とコラナ人(これについても第一部で軽く触れた。ケープ植民地で形成されたカラードの一派)がケープ市場に大量の牧畜産品と少数の奴隷的労働者を供給するようになっていて彼らが大規模な略奪を行ないハイフェルトに対する南方からの圧力を強めたことと、それより何よりナタール方面での激しい抗争の中からのズールー王国の勃興とがそれまでにない大規模な戦闘といくつかの大きな首長国ないし王国の誕生をもたらしたとしている。

 永原陽子氏の学説整理によると最初期にはシャカと同時代の白人の筆によって「暴君シャカの戦争」として描かれていたムフェカネは1960年代になると「アフリカ人社会内部からの国家形成の動き」として積極的に解釈する歴史家が登場、1980年代にはその背景にポルトガル人による奴隷貿易の影響を見出す解釈が現れ、以降は外因説と内因説の論争として現在に至っているという。峯陽一氏によると「内因説の観点からすれば、外因説は白人の役割を過大評価し、逆境のなかで強大な軍事国家を建設したズールー社会のダイナミズムを等閑視する議論にほかならない。逆に外因説の観点からすれば、内因説は白人の侵略を過小評価し、悲劇の責任をズールー人におしつけようとする議論だということになる」ということでなかなか厄介な問題のようである。それとトンプソンはムフェカネについての大雑把な解説として「ンドワンドウェ人、ムテトワ人、ズールー人によって家を追われた人びとは戦闘的な部隊を組み、南部アフリカ一帯においてムフェカネの名で知られる大混乱を生み出していた」と記している。ズールー人の前にンドワンドウェ人とムテトワ人を挙げているのがポイントであろうか。

 ムフェカネについてもう少し具体的に見てみよう。シャカの脅威にさらされた数多の首長国は或いはその支配下に入り、或いは遠方に逃れた訳だが、まずンドワンドウェ王国の残党は北方に逃れた先の現在のスワジランド(エスワティニ)王国~モザンビーク南部の辺りで騒乱を引き起こし、それとは別に南西へと脱出してコーサ人の居住地へと流入し「ムフェング(フィンゴ人)」と呼ばれるようになる人々もいた。他にドラケンスベルク山脈(ナタールとハイフェルトの境界線)を越えてトランスヴァール南部の地に流れ着き「ンデベレ王国」を建設するムジリカジという首長の率いる一団、それとは別にオレンジ州地域の東部にしばし留まった後に今日のレソト国の南方、コーサ人の居住地帯の北方の「トランスカイ」地方の東北部に移ったングワネ人の首長マティワネの一団がいた。

 以上のうちでムジリカジ首長というのは元々はシャカの仲間だったのがやがて離反、少数の部隊を率いてハイフェルトに入るやズールー流の戦法で先住の「ソト人」や「ツナワ人」を或いは服属させ或いは追い散らし、その脅威を逃れたソト人の一派がまたハイフェルトのはるか北方のザンビアまで至って独自の王国を建てた。それとは別のソト人の村の長の息子だったモシェシェ(註4)という人物がオレンジ州の南東方のダバ・ボシウと呼ばれる絶壁に囲まれた丘に難攻不落の砦を築いて外敵を防いでいたが、そこから発展したのが21世紀現在も全周を南アフリカ領に囲まれた小さな内陸独立国として存続している「レソト王国」である。南アフリカとモザンビークの間にあるもう一つの小さな内陸独立国「スワジランド(エスワティニ)王国」の起源もやはりムフェカネの最中に、こちらはンドワンドウェ人に原住地を追われたソブーザという名の首長が築いた国で、その息子で後継者となったムスワチの名に因む国名である(コトバンクの世界大百科事典によるとこの国は19世紀に「スワジ王国」として形成されたものがその後のイギリス領時代を経て1968年に「スワジランド王国」という名称で独立、2018年に「エスワティニ王国」に改称した由である)。

 註4 書籍によってモシェシュとかモーゼとか表記する。人名表記は本稿の地の文ではどれかひとつに統一する方針をとっているが、引用文では原則として原文ママとしている。

 改めて整理するとズールー王国とスワジ王国はドラケンスベルク山脈の東側に位置し、同山脈の西側に広がるハイフェルトの北部つまり後のトランスヴァール州に蟠踞していたのがンデベレ王国だが、ハイフェルトの南部つまり後のオレンジ州にはこの時期には強力な勢力は存在せず、レソト王国はオレンジ州から見て南東、ナタール州から見て南西に位置してドラケンスベルク山脈に抱かれた山国(その南部でケープ州に接する)である。この時期のハイフェルトの南部にはンデベレ王国からもズールー王国からも襲撃軍が送り込まれ、トンプソン曰く1830年代初頭にはオレンジ州の大部分では「組織的なコミュニティーの生活は、事実上終わってしまっていた。そこでは、山の頂やブッシュの地で細々と生計を立てる生存者の小さなグループが見られるだけだった」「家畜は殺され、畑を耕す者はなく、いくつかの場所ではただ人間の骨が散らばっているだけだった。気力を失った生存者たちは野生の動物やフェルトの雑草にすがって、一人きり、あるいは小グループで放浪していた。人肉を食いはじめた者もいた」とのことで、人肉食の経験者が宣教師に語ったという証言「一度その味を覚えると、とてもうまかった」を伝えている。峯陽一氏も「死者の人肉を食べなければならなくなった人々もいた」と記しているが、ロスは人肉食について「おそらく事実ではなく、あまりにも激しい社会的混乱と窮乏の比喩として広まったと思われる」と述べている。

 またロスは「特に1820年代のハイフェルトでは戦火が収まらず、そのために地域防衛のための小村が建設され、場合によっては、村全体が洞窟のように地下に建設されることもあった」とする。トンプソンも上記の記述の後に「1830年代を通じて、ハイフェルト中央部の大部分の人口は希薄であった。生き残った住民は、それ以上の混乱を恐れて、侵入者から身を隠そうとする傾向があった」と述べ、峯陽一氏も(多分トンプソンの記述をなぞって)「人口密度は一時的に希薄になり、残ったアフリカ人も侵入者から身を隠そうとした」とする。そしてアフリカーナーによる「グレート・トレック」の偵察隊は峯陽一氏曰く「そこに誰も住んでいないと勘違いしたのである」。しかしまたトンプソン曰くその地に対しては「実際には、新たにつくられたズールー、ンデベレ、スワジ、ソトの諸王国の支配者たちは、自分たちの間で領地の分配をめぐって争ってはいるものの、皆で全地域を支配しているものと考えていた」という。ドラケンスベルク山脈の東側でもズールー王国の南側(後のナタール州の南部。コーサ人の居住地帯の北東方)のあたりはハイフェルト南部と似たり寄ったりの状況である。

 それとこれも重要な話。ズールー人もそうだったのだが、例えば21世紀現在のレソト王国の住民はその大半が「ソト人」とされてはいるものの王国建設者のモシェシェは自分の出身母体たるソト人のみならずツワナ人、他所からこの地域に入り込んできた集団のうちで自分の配下に従えることに成功した連中といった様々な出自を持つ人々を帰属させていた。ロス曰く「もし現代の南アフリカ人のアイデンティティーの根底にエスニックな帰属意識があり、その帰属意識がかつて彼らの先祖が忠誠を誓った首長国もしくは王国に対するものだとすれば、彼らのアイデンティティーは比較的最近生じた、ということである。なぜなら、これまで見てきたように、大半の首長国もしくは王国は19世紀に建国されるか急速に拡大されたからである」。ロスの紹介するモシェシェ伝説によるとモシェシェはかつて彼の祖父を捕えてその肉を喰ったという「人肉種族」を前にして、そいつらを殺そうとする部下を「祖父の墓を冒涜してはならない」と制止して王国に受け入れ土地を与えたのだそうだ。

 ついでながらレソト王国は1868年にイギリスの保護領となり、1966年に独立を回復するまでは「イギリス保護領バストランド」と呼ばれていた。吉田賢吉氏はそれ以前のモシェシェのことも「バスト王」と表記しその率いる集団を「バスト族」と呼んでいる。岡倉登志氏も同じく「バスト人の指導者モシェシュ」「バスト王国」「バスト人」と表記する。『アフリカ現代史1 総説・南部アフリカ』の巻末の各国便覧でも「レソト王国(旧バストランド保護領)」の住民は「若干の白人のほか全てバスト族」、「19世紀の初めバスト族の首長モシェシュ」が建国したとある。しかしトンプソンはモシェシェの配下勢力のことを「ソト人」と呼んでおり、Wikipediaの「レソト」では現在の住民の99.7%が「ソト族」とある(2022年3月8日閲覧)が、山川の世界各国便覧の「レソト王国」では「バソト80%、ズールー15%ほか」とあるといった具合で、「ソト人」ないし「ソト族」と「バスト人」「バスト族」「バソト」の関係性がよく分からないのだが、とりあえず本稿ではソト人の一派を母体としてモシェシェによって形成された民族集団を一括りに「バスト人」もしくは「ソト人」と表記する。或いはひょっとすると「バスト人」と「ソト人」のどちらかが蔑称にあたるのかもしれないが、本稿では「ボーア人」と「アフリカーナー」と同じく「バスト人」と「ソト人」という2つ呼称も特にこだわりを持つことなく併記することとする。レソト王国は1830年代以降は穀類の(近隣のアフリカ人と白人の双方に対する)輸出でヨーロッパ製の銃や馬を入手し、またモシェシェと親交を結んだ宣教師たち(特にパリ福音伝道教会所属の者たち)が王国とイギリス当局との仲介を行うようになる。同時期のスワジランドはモザンビーク方面と内陸部での奴隷貿易で稼いでいたという。

   ポート・ナタール、グリカ人、ムフェング  (目次に戻る)

 1833年頃には先にイギリス人が唾をつけておいたポート・ナタールの地に再び少数のイギリス人が来住した(註5)。ケープ当局の許諾を得ての移住ではなく事後的にケープ総督ダーバンに守備隊の派遣を要請、しかし人的経費的に余裕なしとの返答で、更にその2年後にガーディナーという人物がまた少数の移民を連れて同地に来訪し、ディンガネ王との協定で得た土地をケープ総督の名に因んで「ダーバン」と命名した。今回も公式の認可を得ていなかったにもかかわらずイギリス海軍の退役大佐だったガーディナーはケープ総督から「治安判事」の権限を与えられていたといい、それは「ダーバンにおける治安判事」の権限なのか、特に任地を持たない肩書きだったのかは筆者の不明で分からない(前者だとしてもこの時点のダーバンが公式のイギリス植民地として認可された訳ではあくまでもない)。どちらにせよ21世紀現在でこそ南アフリカ有数の大海港都市となっているダーバンも当時はケープ植民地の東部辺境から東北方へと(コーサ人の居住地を飛び越えて)数百キロも離れた地にぽつねんと開かれた交易地にすぎず、ジャン・モリスによれば「住民の大半は得体の知れない象牙商人やハンターで、その習性は半ばアフリカ人だった」といい、取り巻きの現地人や混血の者たちに推戴されて小部族の長となった者も複数いたともいう。この時代のアフリカ大陸のインド洋沿岸部にあったヨーロッパ人の拠点を南から辿っていくならダーバンの次はこれまた東北方に何百キロも離れたモザンビークのポルトガル人入植地ということになる。ダーバンとモザンビークの間の沿岸部は沼沢地と熱病のせいで使用可能な港が皆無だったからである。

 註5 以下この段落は吉田賢吉著『南阿聯邦史』111〜112頁 ジャン・モリス著 椋田直子訳『ヘブンズ・コマンド 上巻 大英帝国の興隆』84〜86頁 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』66頁による。

 混血の者たちといえば、先にちらりと触れた「グリカ人」である(註6)。彼らは本稿の第一部でも軽く触れたようにケープ出身のカラードやコイサン人、白人犯罪者を母体としてケープ植民地の北方に形成された集団で、峯陽一氏によれば18世紀末には首長国を形成するようになったというが、吉田賢吉氏によると彼らは19世紀になってから宣教師の指導下にオレンジ川(ケープ植民地の北方境界となる川)を越えて「グリカランドウェスト」の地に移住したといい(筆者思うに18世紀~19世紀にかけて段階的な移住があったのであろう)、またデ・キーウィトによれば彼らは「ぼろぼろの服をまとった集団」でありボーア人たちと全く同じ方法で動いていたといい、なかなかに良い土地を押さえていたともいう。彼らグリカ人やコラナ人(別派のカラード集団)の攻撃にさらされたレソトのモシェシェ王がズールーのシャカ王に貢物を送ってこれに対抗するというひと幕もあった。また吉田賢吉氏によると1830年代頃のグリカ人には3名の有力者がいて西の「グリカタウン」に拠るニコラス・ウォーターボーアという首長はイギリスと結び、中央の「キャムベル・ラント」の地にはコルネリウス・コックという首長が拠り、東にはアダム・コックという首長が拠っていたが、そのうち西と中央の集団がいた地方のことを「グリカランドウェスト」と呼んだという。東の集団がいた地方がグリカランドイースト、ではなくこの集団が1861年になって白人の圧迫で更なる移住を強いられた先が「グリカランドイースト」なのだが、それは後の話として、トンプソンによると西のグリカ人を率いたのは「アンドリース・ワーターボーア」で、1834年にケープ植民地のダーバン総督と条約を結んだという。

 註6 以下この段落は吉田賢吉著『南阿聯邦史』109 167頁 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』183頁 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』66頁 林晃史著「南部アフリカ」 星昭、林晃史著『世界現代史13 アフリカ現代史1 総説・南アフリカ』73頁による。

 他にも白人との強い関係を持っていた集団が「ムフェング」である。「シャムフェングセ(われわれは空腹で、住み家が欲しい)」に由来するとされるムフェングは(これも既に触れているように)ズールーの攻撃に追われてコーサ人の勢力圏に逃げ込んだ連中だが、立場的に弱くてコーサ人の下働きに甘んじることとなってしまい、そこに入り込んで来た白人の宣教師の影響を被ってケープ植民地側に移り住みイギリス軍の側でコーサ人と戦う者も大勢出る(コーサ人からの没収地を分与される)こととなった(註7)

 註7 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』154 574頁の訳注13 峯陽一著『南アフリカ 「虹の国」への歩み』77〜78頁

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 グレート・トレックとはWikipedia日本語版の「グレート・トレック」によると「1830年代から40年代にかけて、英領ケープ植民地からボーア人たちが大移住を行い、現在の南アフリカ共和国北部に定住した、その移住の旅」のことである(2022年3月8日閲覧)。その移住者たちがやがて「トランスヴァール共和国」と「オレンジ自由国」という2つのアフリカーナー国家を築くことになるのだが、まずトンプソンはこのグレート・トレックの背景として、1828年のコイコイ人解放と1833年の奴隷解放がアフリカーナーの労働力に対する支配権を奪いつつあったこと、相次ぐカフィール戦争がアフリカーナーの財産を損なったこと、そしてかようなアフリカーナーの苦境に理解を示すことなく挑みかかってくる宣教師の影響がイギリス政府に及んでいると考えられていたことを挙げている(註8)。そして曰くアフリカーナーたちは「互いのあいだ、召使いとのあいだ、そして他の住民とのあいだで何らかの制度的な関係を取りかわせるような“約束の土地”を求め」るようになったのだと(註9)。ロスはグレート・トレックの要因として第一に第六次カフィール戦争の惨禍とその後のイギリス政府の対応、第二にコイサン人と奴隷の解放、第三にケープ植民地東部での入植者増加に伴う牧畜用地の不足を解消すべく新規の開拓地を求める必要があったとしている(註10)。吉田賢吉氏は土地制度改革とカフィール戦争の顛末、コイコイ人と奴隷の解放、それに伴う治安の悪化によって「土地、労働、安全」というボーアにとっての「不可分の一体」が保障されなかったことが彼らをしてイギリス統治下からの離脱へと踏み切らせたという(註11)。池谷和信氏は1828年に「ボーア語」が公用語から除外されたこと、「ボーアの地方議会」が廃されて司法権がケープ植民地中央に移ったこと、そして奴隷解放でボーア人の不可欠の労働力が損なわれたことを背景としてあげている(註12)。「 」内は原文ママである。岡倉登志氏はイギリスによる奴隷解放と言語政策、そしてカフィール戦争で大損害を被った挙句のクイーンアデレイドの件をあげている(註13)。林晃史氏はボーア人の選民思想(他人種との混血を避けて自らの伝統・文化を守ることが神に対する義務であると信じていた)が「ケープ政府の非白人への優遇政策」を許さなかったこと、ラントドロスト制度の廃止や英語の公用語化といった「ケープ政府のイギリス化政策」への不満、奴隷解放のせいで労働力の欠乏のみならず「人種間の混血を促進させる」と考えられたこと、そしてクイーンアデレイドの件を挙げている(註14)。ということでトンプソンによると既に1830年代初頭にはケープ植民地外への集団移住とそこ(イギリス当局の手の届かないところ)での自主生活を検討する者がおり、1836年までに派遣された偵察隊よってハイフェルト及びツゲラ川の南の低地(後のナタール州の南部)に肥沃かつ無人のように見える土地があるとの報告がもたらされる(註15)のだが、ロスによると1820年代には既にケープ植民地の北方境界とされていたオレンジ川の北にまで進出する者が出始めていたという(註16)。ちなみにオレンジ川が北辺境界となったのは1826年である(註17)。オレンジ川は南アフリカ最長の河川、グレート・トレックを経てその後のケープ州とオレンジ州の境界ともなる訳である。(ここでこの第三部を執筆・公開した後に筆者が入手した書籍にてグレート・トレックの要因として記されていることを追記しておく。まず吉田栄右氏の『杜国大統領クリューゲル』29〜30頁は植民地政府がボーア人たちの用いる「残忍な戦争法」を禁止したことや「通貨の値を引き下げたること」、「酒税賦課のための不利を農民に来せ」たこと、そして奴隷解放の補償が不十分だったことと解放による治安悪化を挙げている。通貨改革というのは本稿第二部の「経済と制度」で触れた通貨改革のことと思われるが、「残忍な戦争法」「酒税」については筆者の手元にある他書には見当たらない。次に北川勝彦氏の『南部アフリカ社会経済史研究』55頁によると「土地の集約的利用を推進する政策」と奴隷解放を挙げている。土地云々は本稿でも縷々述べた土地制度改革のことであろう)

 註8 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』172〜173頁

 註9 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』143〜144頁

 註10 ロバート・ロス著 石鎚優訳『南アフリカの歴史』46〜47頁

 註11 吉田賢吉著『南阿聯邦史』120〜121頁

 註12 池谷和信著「南部アフリカ」川田順造編『新版世界各国史10 アフリカ史』343頁

 註13 岡倉登志著『ボーア戦争』15頁

 註14 林晃史著「南部アフリカ」 星昭、林晃史著『世界現代史13 アフリカ現代史1 総説・南アフリカ』64〜66頁

 註15 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』173頁

 註16 ロバート・ロス著 石鎚優訳『南アフリカの歴史』46〜47頁

 註17 林晃史著「南部アフリカ」 星昭、林晃史著『世界現代史13 アフリカ現代史1 総説・南アフリカ』59頁

 グレート・トレックの背景に関する当事者の言として1837年2月にピット・レティフという人物が掲げた「フォルトレッカーズ宣言書」から吉田賢吉氏が要点を摘記したものを引用しておく(註18)。「最近われわれ同志の移住に対し世上種々の流説をなし中傷せんとするものがあるがわれわれの立場を明らかにしておきたい。われわれは不正な浮浪人に依って紊乱されたこの国に失望を禁じ得ない。奴隷解放やカフィア(カフィール)戦争に依る損害、宣教師の偏狭にして不公正なる態度、主従の秩序破壊に対し心からなる不満を抱くものである。われわれは如何なる土地に赴くも自由を尊重する、しかし悪は之を罰し主従の秩序を保持しようと決心している。われわれはより平安なる国を欲するが故にこの国を立去ることを厳粛に声明する。人命と財産を保護する所存であり、侵略者に対して是等を擁護することは正当防衛であると確信する。われわれは将来われわれを嚮導すべき法典を作成しようと思う。われわれの旅行の途中及び目的地にある土人に告ぐ、われわれはお前達と平和的且友好的に接触し且つ生活せんとする意向を有するものなることを。われわれは英国政府がわれわれより是れ以上何ものをも要求せず、将来も亦何等干渉することなくわれわれに自治を許すであろうことを確信してこの国を去るものである。われわれは莫大な損失と絶えざる苦痛を蒙ったが依然実り豊かな故郷であるこの国を去り野蛮且危険な領地に入ろうとする。然し乍らわれわれはわれわれの畏敬し服従する神を、万物を照覧し公正にして恵み深き神を確く信じて進まんとするものである」。「フォルトレッカーズ」とは「人に先立って移住する人」の意(英語の「パイオニア」)で、専らグレート・トレックの参加者を指す語となる(註19)。資料によっては「フォールトレッカー」とか「フール・トレッカー」とか、或は「トレッカー」とか表記していて、本稿でも特に統一表記はしないこととする。吉田賢吉氏に曰くケープを去ったボーア人の全員がレティフの宣言文にあるような明確な政治的見解を持っていたかどうかは分からず「或るものは未だ見ぬ天地に活躍を熱望した、或るものはまた行詰まった生活を打開するために兎にも角にも離国を欲した。或いはまた肉親や隣人の旅立つのを見て取残される寂しさに耐えかねて後を追わんとするものもあった」がとにかく総じて多かれ少なかれイギリスの統治に不満だったことは確かで、ただ「彼等を常に励まし力づけたものは信仰であった。彼等は自らを旧約聖書の出埃及記のイスラエルの民に擬えた、圧制から逃れて出国することは神の意思であると」(註20)

 註18 吉田賢吉著『南阿聯邦史』123頁

 註19 吉田賢吉著『南阿聯邦史』142頁

 註20 吉田賢吉著『南阿聯邦史』124頁

 続けてデ・キーウィトや峯陽一氏による解説を紹介したいのだが、その前にちょっとばかりグレート・トレックの具体的推移を綴っておきたいと思う。上で触れたことと重複するが1834年、東部内陸地方の中心地グレアムズタウンにピット・レティフ、アンドリース・ヘンドリク・ポトヒーテル、ヘリット・マリッツ、ピット・アイス等、その後のトレッカーズの指導者たちが集まって今後の方針を検討し、移住するというのは既定事項として具体的な移住先をどこにするかについてはまず北西・北・東の3方向に偵察隊を派遣することとなった」(註21)。北西に向かった隊は現在のナミビア中部の乾燥地帯(人の生活に不適当)に行き当たってこれは駄目、北に向かった隊は後のトランスヴァール州の北部に到達したが彼らのもたらした報告は残っていないといい、東に向かった隊は後のナタール州に到達、沃野広がるその地にてズールー王国のディンガネ王と接触、吉田賢吉氏によるならば「ボーアの移住について大体の諒解迄取付けたと云う」ことでナタール行くべしとなる。ケープ植民地から見たナタールの正確な位置は東というか北東なので、ここからナタールに向かうとなるとインド洋に沿って真っ直ぐ北東に進むルートと、いったん北上してから東へと変針するルートが考えられ、前者だと当然「宿敵」かつ「兇暴」(吉田書の表現)なるコーサ人の居住地帯にぶつかることとて後者のルートが好ましいことと相なった。

 註21 以下この段落は吉田賢吉著『南阿聯邦史』120〜122頁 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』173頁による。

 ……「トレッカーたちはナタールに向かう方針だった」というのは吉田賢吉氏の記述によるが、その後の展開においてはトレッカーのグループによって針路を違えることとなる。しかしそれは北上しながらその場その場の事情・判断で針路を変えたということなのか、吉田氏の記述に誤りがあるということなのかは筆者の不明によりよく分からない。どちらにせよその時点ではまだ第六次カフィール戦争の最中でクイーンアデレイドの件も決まっていなかったこととてボーア人の多くは遠方への移動に踏み切れないでいたが、戦争終結前の1835年の早々にルイス・トリハルトの隊とヤンセ・ファン・レンスブルグの隊が出発している」(註22)。両隊は一旦合流してハイフェルトを北上するもトランスヴァール中部の辺りで分離、そこから東方に位置するポルトガル領モザンビークに向かったファン・レンズブルクの隊はそのまま消息不明、トリハルトの隊は更にトランスヴァールを北進してリンポポ川中流に近いザウトパンスベルクに腰を落ち着けた。しかし後者も1838年頃には東進してモザンビークのロレンソ・マルケス(現モザンビーク首都のマプト)に来着してそちらのポルトガル官憲とボーア人入植について協議したが、仲間の死が相次いだりして解体となったという。リンポポ川というのは現在の南アフリカ国とボツワナ国・ジンバブエ国の国境を流れる川であるから随分と遠くまで来たもので、以下に述べる後続の連中はまずはもっと南側の地域に地歩を定めることとなる。

 註22 以下この段落は吉田賢吉著『南阿聯邦史』122、127頁 林晃史著「南部アフリカ」 星昭、林晃史著『世界現代史13 アフリカ現代史1 総説・南アフリカ』66頁による。

 時間を巻き戻してクイーンアデレイド放棄直後の1835年11月、アンドリース・ヘンドリク・ポトヒーテルの率いる200名のトレッカーが北方へと出立した」(註23)。オレンジ川を渡河して後発のカルル・セリエーの隊と合流、そのメンバーには後のトランスヴァール共和国大統領にして「クリューガー電報事件」にその名を残すポール・クリューガー当時10歳もいた。グリカ人やマクワナ人(この集団については詳しい資料が見当たらなかった)と話をつけながら北進、そのうちにムジリカジの率いるンデベレ人と接触した。このンデベレ王国がその後のオレンジ州とトランスヴァール州の境界となるヴァール川の北側に根拠地を置いて強力な軍隊と行政組織を構え、宣教師の斡旋でケープ植民地に使節を送るという勢いを示していたのだが、その頃はズールー王国軍やグリカ人の侵犯を受けてもいて、その侵犯軍と同じ方向(南方)からやって来たボーア人がヴァール川を渡るというならムジリカジの許可が必要であるとの警告は無視された。筆者思うにトレッカーたちが当初の方針通りにナタールに行きたいのならヴァール川なんか渡らずに(無闇に北進を続けずに)ここらで進路を東にとるべきだと思うのだが、とにかくその後もポトヒーテルたちはナタールに向かうことなくハイフェルトでの活動を続行、1836年10月の「フェッヒ・コップの戦い」にてボーア側50ないし60名の兵力でもってンデベレ軍5000名を撃破したという。筆者の頭で考えても誇張であろうがボーア側の戦死者2名というのはともかく重傷者12ないし14名というかなり際どい状況だったことを示す数字に多少のリアリティがある気もする。馬100頭に牛4600頭、羊と山羊を5万頭も分捕ったという。その後のポトヒーテルたちはいったんフェッヒ・コップ南西のタバ・ンチウ(後のオレンジ州の中部)に戻ったが、そこに新たにヘリット・マリッツの隊が到着してだいぶ賑やかになって来たため1836年12月1日に「国民参議会」を創設、ポトヒーテルを軍事評議会議長、マリッツを国民参議会議長兼裁判長とした。翌1837年1月には再びンデベレ人(吉田賢吉氏によるとボーア人の持ち物を盗むなどしていたという)を攻撃して400名ほどを殺し……、この戦いで名声を高めたポトヒーテルとそれに嫉妬したマリッツの間に亀裂が生じることになる。

 註23 以下この段落は吉田賢吉著『南阿聯邦史』127〜130頁 ロバート・ロス著 石鎚優訳『南アフリカの歴史』47頁 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』175〜176頁  林晃史著「南部アフリカ」 星昭、林晃史著『世界現代史13 アフリカ現代史1 総説・南アフリカ』66〜67頁による。

 ここらでまた筆を転じてその後の時代に編纂された南アフリカ史におけるグレート・トレックの描かれようと、現実のフォルトレッカーズのありよう、それからグレート・トレックの背景に関する(ここまで後回しにしていた)デ・キーウィトや峯陽一氏(に加えてその他の諸氏)の解説を紹介してみよう。まずデ・キーウィトによるとその後の南アフリカでなされた歴史叙述においてグレート・トレックには「叙事詩的な評価」が与えられてその「数多くの苦難」と「苦難の原因の数々」で「豊かに彩られた」物語が「強力な愛国的感情の中心」として語り継がれフール・トレッカーはアメリカ合衆国憲法制定の国父たちと同様に近代南アフリカの創設者と見做されるに至った訳ではあるが、しかし現実のグレート・トレックは「けっして、抑圧され誤解を受けた人々が圧制的な大英帝国の支配から逃れるために荒野に逃げ込んだ、といった単純な話ではな」く、ある意味でこれは既に1世紀かけて進行してきた領地拡大運動を加速したものに過ぎず、それまではケープ植民地の東方へとコーサ人の抵抗を押し退ける形で拡大していたのをイギリスによるクイーンアデレイド返還を経て別方面への拡大へと転換した、つまり「自らの本能的な戦略を用いた自然な行動」として現れたのが即ちグレート・トレックだったのであり、かてて加えて(ここから先は前述の研究者各氏が言ってることと同じだがせっかくだから引用しておく)ボーア人たちはイギリス当局によるコイコイ・奴隷政策への「根深い悲憤慷慨の念にも駆られていた」ところに辺境地帯での旱魃と先住民の跳梁で打撃を被り、はたまたかつてはほぼ無制限に誰でも入手出来るものだった土地の所有関係について弄られるようになったことで遂に我慢の限界、もはや「トレッカーは大切なものを失った。それは、自由を求める心の根本的な要素、すなわち、ひろびろとした空間意識である」「荒野をさまよったイスラエルの全会衆同様、彼らも水を求めて、支配者に対する不平の声を漏らした。境界線を超えて行くことこそ最上の策だった。そこには水と自由な土地があり、イギリス政府の支配は及ばず、浮浪者禁止法が却下されたり、白人が使用人の不平に答えるよう法廷へ引き立てられたりしない場所だった」のだという」(註24)

 註24 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』55〜57頁

 ジャン・モリスは「いかにも経験豊かな開拓民らしく、慣れた物腰で悠然と旅をした」トレッカーたちの様子を描いたその当時の銅版画を紹介して「まさに聖書に描かれているような光景である。移住ボーア人は覚悟を決めて“約束の地”を探していた。出エジプト記にある火の柱に導かれているかのように、神の啓示に従う光景だった」「彼らが突き進んでいるのは、白人にとってほぼ未知の土地だった(中略)光り輝く広大な緑の高原が開けていた。そこは、アフリカの中心に向けて無限に広がっていくかと思われ、ハーブとヒースの香りがたちこめ、夜になると、静寂の上空に、はるか離れた帝国の人道主義者たちには想像もつかないほど明るく澄んだ星々が輝いていた」と、筆者が参照した書籍の中では最も情緒的な叙述をしている」(註25)。「帝国の人道主義者」というのは奴隷解放を推進したイギリス人たちのことである。しかし前川一郎氏によると19世紀後半のアフリカーナー民族主義者が「“神の手に導かれた”移住者たちをフルトレッカー(前進して旅を続ける者)と称え、“グレート・トレック”に重大な歴史的意義を見出した」のに対してイギリス系の白人はそれを「“約束の地”への旅物語は神秘化されたアフリカーナー建国神話である」と見做して強く批判していたといい、更に「近年の研究」においてはグレート・トレックというのは「本質的にはフロンティアの拡大がもたらした経済的動機によるものだった」とされているとのことである」(註26)

 註25 ジャン・モリス著 椋田直子訳『ヘブンズ・コマンド 上巻 大英帝国の興隆』73〜74頁

 註26 歴史学研究会編『世界史史料8 帝国主義と各地の抵抗Ⅰ』267~268頁

 グレート・トレックは後年のアパルトヘイトの形成にも深くかかわっているとされてきた。峯陽一氏によると既に1930年代にはイギリス系の知識人が南アフリカの人種主義の起源を17~18世紀のケープ植民地のフロンティアにおける白人農民の非白人に対する差別的態度にあったと見做していて、そのような人種偏見がグレート・トレックを通じて内陸部に持ち込まれてそこで人種主義として確立したとの「アフリカーナー悪玉論」が英語メディアによって世界に発信され「アパルトヘイトの存在理由の有力な説明として常識化していった」のだが、峯氏曰くそれはイギリス系白人による責任転嫁であって、現実には「もはやヨーロッパに帰るべき祖国を持たないアフリカーナー」の「冒険的な行動」と全世界での豊富な植民地支配の技術を蓄えたイギリス系白人の持つ「洗練」された制度とが「常に相互補完的な役割を果たしてきた」のであるという」(註27)。イギリス系の連中にしたところでボーア人と同じく黒人を蔑視していたというのは本稿でも奴隷解放のくだりで述べた通りである。

 註27 峯陽一著『南アフリカ 「虹の国」への歩み』86〜87頁

 グレート・トレックから少しばかり話が逸れてしまって恐縮だが、南アフリカの歴史全体を考える上でアフリカーナーの間で養われてきた人種主義をどう位置付けるかはかなり重要な問題なのでもう少しお付き合いいただきたい……、ここで本稿の主要参考文献のひとつたるデ・キーウィトの本なのだが、堀内隆行氏の解説によるとデ・キーウィトはその後の南アフリカの歴史における人種差別に関するボーア人とイギリス系の新規の入植者との対比で前者を「野蛮」、後者を「文明」に位置付けて後者の人種差別への関与を強く否定しているといい、これに対して新規の入植者もまた人種主義に関わっていたことを論じてそれを糾弾しつつもデ・キーウィトの『南アフリカ社会経済史』を大いに参照していたハンナ・アーレントはその主著『全体主義の起源』において、「全体主義」の起源のひとつたる「帝国主義」における政治的支配の二大形態を人種主義と官僚制に求め、後者の起源はエジプト、前者のそれは南アフリカにあったとしているという」(註28)。怠惰な筆者には大著『全体主義の起源』を隅々まで読み解く気力はないので、とりあえずボーア人について触れている箇所を抜書き的に要約してみると……、

 註28 堀内隆行著『異郷のイギリス 南アフリカのブリティッシュ・アイデンティティ』136~138頁

 ……」(註29)18世紀の間に「ヨーロッパの出来事の流れ」から遮断されたままひとつの小民族を形成していたボーア人は「粗放牧畜にしか適さない劣悪な土地」に分散して暮らしているうちに「現地の野蛮な遊牧民と余り変わらなくなって」しまい個々の農場で孤立的に生きる「家族ごとの一種の氏族組織」と化していたのだが、「これらの家族が互いに戦い合う部族にまで転落するのを妨げた唯一の原因」は彼ら全体を脅かす強力なアフリカ人勢力であって、しかもアメリカやオーストラリアの先住民と違って相手は根絶するには数が多過ぎ、故に「奴隷制経済が原住民問題も土地の貧困をもともに解決し得る唯一の経済形態であることが、異常な速さで実証されることになった」。そして「いかなる組織も(中略)自由の剥奪」とまで考えるボーア人の「家族以外のいかなる紐帯も知らず、共通の危険によってのみ維持されていたにすぎなかった」というレベルの「未開状態」は「あらゆる形の人間的生産活動を含めた労働への蔑視」を伴っていて、家族ごとに奴隷に対して絶対的専横を持つ「未開民族の酋長」のように振る舞っているうちに「原住民という実に無尽蔵な“原料”」が「白人の労働を不要にし、文明民族の生活形態としての創造活動を廃止してくれると思えたのである」という。

 註29 以下4段落はハナ・アーレント著 大島通義、大島かおり訳『全体主義の起源2』104〜123頁による。

 しかも奴隷を「単なる賤しい仕事」だけでなくあらゆる種類の生産労働に従事させて自らは「怠惰な寄生的生活」をおくるボーア人はもはや「世界の創造と変革に絶えず関与して」いるところの「正常」な「ヨーロッパの生活状態」に二度と復帰出来なくなってしまって「原住民のバントゥー族のように各地を放浪し、原始的きわまる労働に土地が実りを与え尽くし、野生動物が殺し尽くされると、その土地を捨てて他所へと移っていった」。その「生活方法は黒人のそれとほとんど変わるところがなかった」「黒人中の白人種になりかかっていた」というボーア人の人種意識が「最も狂信的なのは驚くに当たらない」、というのは「彼らは白い皮膚以外に失うべきものがなかったばかりでなく、なかんずく人種理論は彼らに危険なまでに適合しているからである」。ということでボーア人たちはキリスト教徒でありながらキリスト教の全人類同一起源説まで否定してしまい、「労働と行為から生れる価値一切」に対する軽蔑と共に「生まれによって決められた自然的・肉体的所与の唯一的絶対視」を身に付けるに至ったという。

 またボーア人は町に住むイギリス人入植者と違って「アフリカをわが故郷と感じてはいた」が、束縛を嫌い未組織に未開状態に生きる彼らにとっての故郷は「アフリカそのもの」であって「境界線で区切られた一定のアフリカの領土」ではなかった(自分の家族が住んでいる土地が公的に測量され境界を画定されるのも嫌がった)、それは「一民族が政治体として構成する patria(郷土)との結びつき」ではなく「定住することも民族となることもせずに大陸を移動し続けていた原住民の部族帰属意識」と同じものであったのであり、そのような「 patria に対する無理解」「土地との真の結びつきの欠如」と前述の「労働と行為から生れる価値一切に対する軽蔑」「生まれによって決められた自然的・肉体的所与の唯一的絶対視」といった、後の時代の人種主義の全ての要素がここに揃っていたのである。しかし人種主義が patria とか土地とかとの結び付きを欠くというのはいかなることかというと、それと比べれば極端なショーヴィニズム(極端な愛国主義)ですらも「自民族のものと定められた世界を共同で築き上げてきたというおよそ遺伝とは関係ない業績に対する誇りから生まれており、つねに国土全体がこの共同の業績の最高のシンボルとなっているからである」。

 それにしてもボーア人は「原住民の酋長として、あるいは白い肌の主人、黒人の神々としてのみ、ここの環境に同化してのみ」その勢力を維持し得たのであって、そうしなければ「彼らは自滅に追い込まれていただろう」。そのことを自覚していたに違いない「彼らの中にはおそらく今日もなお、彼らの父祖たちを野蛮状態に逆もどりさせる原因となった最初の身の毛のよだつ恐怖が生きているのであろう……ほとんど動物的な存在、つまり真に人種的存在にまで退化した民族に対する底知れぬ不安、その完全な異質さにもかかわらず疑いもなくホモ・サピエンスであるアフリカの人間に対する恐怖が。なぜなら人類は、未開の野蛮部族を目のあたりにしたときの驚愕をたとえ知ってはいたにせよ、個々の輸入品としてではなく大陸全体に犇く住民としての黒人を見たときのヨーロッパ人を襲った根元的な恐怖は、他に比すべきものを持たなかったからである。それはこの黒人もやはり人間であるという事実を前にしての戦慄であり、この戦慄から直ちに生まれたのが、このような“人間”は断じて自分たちの同類であってはならないという決意だった。この不安とこの決意との根底には、人間であることの事実そのものに対する疑惑とおそらくは絶望が潜んでいた。そしてこの不安と決意から生まれたものがキリスト教に似て非なるブーア人の新しい宗教であり、その基本的ドグマは、ブーア人自身の選民性、白い皮膚の選民性なのである」……、

 ……。ちょっと(かなり)言い過ぎのような気がする(アーレント書では更にイギリス系の移民の様態についても論じているのだが本稿ではとりあえず割愛しておく)のだが、トンプソンもかなり抑えた筆致でとはいえ「植民地の社会構造において、白人入植民が奴隷と先住民の労働に完全に依存しているということは決定的であった」「白人と入植民は法的、肉体的、文化的な基準によって奴隷や農奴とははっきりと区別される特権階級としての生活を条件づけられていた」「彼らは社会的、経済的条件が著しく異なる北西ヨーロッパの社会からも、ますます離れていった」と述べ、ただし白人入植民と一口に言ってもケープタウンの住民と農耕民、トレックボーアたちとでは利害関係も文化レベルもバラバラではあったが「入植者たちは自らがはっきりと区別された一つのコミュニティーをつくっていると感じていた」こと、彼らの支配下にあった奴隷たちは「多くの点で南北アメリカ大陸の奴隷制よりも過酷な隷属状態を経験していた」ことを論じ、「この階層化された暴力的社会」という表現を用いている」(註30)

 註30 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』118〜119頁

 ここらでまたまた話題を転じる。峯陽一氏の整理(他の研究者による整理と重複する部分もあるが構わず列記しておく)によるとグレート・トレックの担い手については一般にはケープ植民地の中枢の人々だったように思われて来たが実際には東部辺境地でコーサ人と対峙しイギリス人入植者のことも嫌っていた連中を主体としていたのであってアフリカーナーのうちでもケープタウンの商人や職人、官吏、比較的富裕な農民といった人々はイギリスの支配に適応しようとしていた、またトレッカーたちは後世のアフリカーナーの歴史叙述において「神の手に導かれて約束の地に向かった」と神秘的に語られることが多かったが現実には奴隷制廃止への反発に加えて借金を抱えていたり転売目的で土地の占有を目指していたりといった実際的な動機によるものだった、そしてこの時の移民は全員アフリカーナーだったように思われがちだが実は5000名ものカラードを従僕として引き連れていて、移住先では少なくとも建前上は奴隷制を復活する訳には行かないにしても実質的には「新天地において従僕たちを使役し、奴隷労働にもとづくケープの旧体制を復活させようと試みた」のであったとしている(註31)。それに関する当事者の言としてトンプソンの引くピット・レティフの姪のアンナ・ステーンカンプの屁理屈「私たちをここまでつき動かしたのは、彼ら(奴隷)が自由になったからではなく、神の法ならびに人種と宗教の本来の区別に反して、彼らがキリスト教徒と同等の位置に置かれたからです。まともなキリスト教徒にとって、そのような軛の下で頭を垂れることなど耐えがたいからです。むしろ私たちは、純潔なままで教義を守るためにひき下がったのです」ということで、トンプソン曰く結局のところトレッカーたちは「18世紀のケープ植民地の社会的、経済的構造を再創造」すべく自分たちとほぼ同数の従僕を連れていたという、峯氏の解説と同じことを綴りつつ「これは、この移動の構成員としては、これまで無視されてきた人びとである」と補足している(註32)が、しかし移民の構成については吉田書においても概ね東部国境地帯の者がその大半を占めていたこと、相当数のカラードやコイコイ人を含んでいたことを書き記していて(註33)、古い本だからといってなかなかに侮れないものがある。

 註31 峯陽一著『南アフリカ 「虹の国」への歩み』82〜83頁

 註32 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』173〜175頁

 註33 吉田賢吉著『南阿聯邦史』125〜126頁

 またトンプソンによればその「カラード」の一部は奴隷解放後の「見習い期間」中の元奴隷、大部分はコイコイの血を引く者であったという(註34)。これまたトンプソンによれば1840年までにケープ植民地を離れたアフリカーナーは6000名ほどに達したが、この数字はケープ植民地の白人人口の9%、その大半は植民地東部の牧畜民で同地区の白人人口の5分の1、同地区のアフリカーナーの約4分の1で、植民地西部の連中が定住傾向が強くて市場経済に強く組み込まれイギリスの植民地政府の主導による「社会生活に巻き込まれてい」たのに比べて東部のアフリカーナーは「イギリスの体制から疎外され、それこそが自分たちの不幸の元凶であると思いはじめた」が故のグレート・トレックであったという(註35)。それからデ・キーウィトはグレート・トレックの本質はある意味で「18世紀的なものが、後の物質的に豊かで、活動的で、組織的に進んだ新時代から逃避したものといえる」のであって、トレッカーたちは「産業革命などに見向きもせずに移住し、追いつかれる前に離れていった」、というのは彼らの牧畜や農業の技術、土地の活用といったことは同時代のオーストラリアやカナダ、アメリカ合衆国における辺境開拓民たちのように産業革命期の「人や商品を運搬する新しい手段、土地開発の新技術、新市場」に積極果敢に対応するようなものでは全くなかった、それらの人々よりも「数段劣っていた」という(註36)のだが、どうだろうか。

 註34 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』143頁

 註35 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』143、146、173頁

 註36 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』59〜62頁

 それはともかく、トレッカーたちがケープ植民地を出発するにあたっては常日頃から私淑するリーダーを団長とする見知った人々(血縁や隣人、従者)による隊が組まれてリーダーから移動時の注意事項、土地家屋財産の処分についてまでの細々とした注意がなされ、幌馬車ならぬ幌牛車(移動手段と家屋を兼ね、現地民との戦闘が発生すれば輪型に並べた車陣として活用する)に食料・武器弾薬、持ち込めるだけの家財を積み込み、男は馬に跨り女性や子供は幌牛車に乗せて、1家族あたり概ね3台の幌牛車を12~16頭の牛に牽かせて周囲に家畜の群れを従え、大きな隊だと総勢200~300名が1日に10キロほどの速度で移動したという(註37)。デ・キーウィトによるとトレック各隊は通例「同じ地域の隣組同士という仲間によって構成され」たもので「各トレックは土地を求める人々を組織したグループであり、トレック運動を全体的に見ると、巨大な土地組合のようなもので、各会員が内陸部の土地資源をきわめて自由に入手できるよう企図されていた」(註38)。しかし吉田賢吉氏によると各隊の中では和気藹々とした気分でリーダーの命令にもよく服していたが各隊のリーダーたちの間では勢力争いや意見の相違が珍しくなく、それは「ボーアの唯我独尊、頑固一徹、妥協性に乏しい性格による」ものであったという(註39)。ジャン・モリスによると現地アフリカ人との戦いよりも移住民同士の争いの方が多かった、というのは彼らには貧富の差があって読み書き出来る者は少なく、組織の管理指導が出来る者はもっと少なく、ほぼ全員が気難しくて統率困難だったからであったという(註40)

 註37 吉田賢吉著『南阿聯邦史』125〜126頁 池谷和信著「南部アフリカ」川田順造編『新版世界各国史10 アフリカ史』343頁 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』176頁

 註38 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』60頁

 註39 吉田賢吉著『南阿聯邦史』126頁

 註40 ジャン・モリス著 椋田直子訳『ヘブンズ・コマンド 上巻 大英帝国の興隆』74頁

 さてまたここらでグレート・トレックの具体的な推移を眺めてみることとしよう(註41)。既に何度か名前が出ているピット・レティフ……後世「グレート・トレックの総帥」とも称される……は1780年にユグノー系の豪農の家に生まれて当初は植民地西部のステレンボッシュやケープタウンに暮らしていたのが結婚を期に東部内陸のグレアムズタウンに移って土地の顔役となった人である。ジャン・モリスによれば「生まれながの放浪者で、どこにも定住しない運命にあった」。第六次カフィール戦争に従軍・勇戦してダーバン総督と親交を結んだがストッケンストロム弁務官(植民地東部において何かと現地民に優しかった人)と対立、他の指導者たちよりやや遅れたが前記のフォルトレッカーズ宣言書を掲げて約300名の仲間を率い1837年2月グレアムズタウンを出立、おいおい集まった賛同者を合わせた1600名と幌牛車1000台の大集団となって1837年4月にはタバ・ンチウ北方のウイムブルク(後のオレンジ州中部)付近でポトヒーテルやマリッツたちの大歓迎を受けた。ここで諸隊は「南アフリカ市民会社」なる組織を設立、当時56歳と他のリーダーたちより年長で経歴・教養にも優れていたレティフはポトヒーテルの懇願とマリッツの同意により総督兼総指揮官に推戴された。ジャン・モリス曰く古代のヘブライ人がイスラエルを建国したようにフォールトレッカーの大部隊は自前のイスラエルを手に入れて「南アフリカ新オランダ自由国」と称する新国家の樹立を決定、憲法・政策会議・裁判所も設置したというがどの程度の実質を備えていたのだろうか。

 註41 以下この段落と次の段落はレナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』176頁 吉田賢吉著『南阿聯邦史』131〜133頁 ジャン・モリス著 椋田直子訳『ヘブンズ・コマンド 上巻 大英帝国の興隆』74〜76、 79〜80頁による。

 そこに1834年のナタール偵察隊の指導者の一人だったピット・アイスも合流して来たが、前に述べたようなポトヒーテルとマリッツの確執はレティフが仲介に入ってもうまくいかず、アイスも不満を抱くようになった。総指揮権を個人に委ねるのか組織的に率いるのか、イギリスを無視して行動するのか交渉を持つのかも問題だったが、これからの定住地をどこにするのかの衆議でマリッツはこのままウイムブルクに留まりたがり、ポトヒーテルは北方のトランスヴァール方面の開拓を希望、レティフとアイス以下の大多数の者は東方のナタールを主張した。ナタール派にいわせればウイムブルク付近は昼間は温暖にしても日没後は寒過ぎるしケープ植民地からそれほど離れていないのでイギリスの干渉を被る恐れがある。ウイムブルク派にいわせればナタールには既にイギリス人が入り込んでいるのでそっちの方が危ないという具合で、決着がつかないまま各自行きたいところに行くでお流れとなった。

 ということでまずは北に向かったポトヒーテルの動向である(註42)。1837年11月の再々度となるンデベレ人との戦いでも9日かがりで大勝を博しムジリカジをリンポポ川の北へと追い払うことに成功、ンデベレ人の遺棄死体3000~5000というのは吉田賢吉氏の記述によるが、トンプソンはこの年の10月に330の兵力でンデベレ人の根拠地を襲って全住民をリンポポ川の彼方に退散させたとする。ロスによるとこの年(他書と照らし合わせるにロスはこの年1月と10月ないし11月の戦役を分けずに一緒くたにして記述しているようである)のボーア人の勝利は彼らの独力によるものではなくグリカ人やコラナ人、それまでンデベレ人に圧倒されていたツワナ人との連合によるもので、更に別方面からのズールー人の侵攻がンデベレ人を脅かしていたことにもよる。またデ・キーウィトによればボーア人は元々ケープ植民地辺境地でのあれこれで戦士としての素質を備えていたのと、銃による射程と馬による機動力を備えていたことが大きいということになる。その後も多少の衝突は発生したが1853年にはムジリカジとポトヒーテルの子のピエターとの和約が成立することとなる……、というのは先の話として、トランスヴァール方面のボーア人としてはそこから北の地域は羊の放牧に向いていなかったのと、あまりに内陸部に突っ込み過ぎると経済的に困ったことにもなりそうであった。

 註42 以下この段落はレナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』176頁 吉田賢吉著『南阿聯邦史』130〜131頁 ロバート・ロス著 石鎚優訳『南アフリカの歴史』47〜48頁 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』63頁 林晃史著「南部アフリカ」 星昭、林晃史著『世界現代史13 アフリカ現代史1 総説・南アフリカ』72頁による。

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 ここで南アフリカの地勢を改めて(復習を兼ねて)見渡すと、その東はじのインド洋沿岸部つまり後年の(1910~1994年の南アフリカ国家を構成したケープ、トランスヴァール、オレンジ、ナタールの4州区分のうちの)ナタール州の辺りは亜熱帯〜西岸海洋性気候、そこから内陸部(西)に進むと南北1000キロ以上に渡って連なるドラケンスベルク山脈に行手を遮られるが、それを西へと越えた先にはトランスヴァール州からオレンジ州を経てケープ州に至る高原地帯「ハイフェルト」が広がっていて概ね暑くも寒くもなく(夜は寒いらしいのだが)草原に覆われた快適地、その更に西方は人の居住に適さない乾燥帯である。アフリカ大陸南端(ナタールから見て南西、オレンジ州から見て真南)のケープ植民地を飛び出したトレッカーたちがコーサ人の勢力圏を避けつつどこかに新天地を探す場合、北西に進めば乾燥帯に行き当たるので北東に進むことになり、しかし北東と言ってもドラケンスベルク山脈の西側(内陸部つまりハイフェルト)を行くか東側(インド洋沿岸部)を行くかの2ルートがあって、後者のルートにはまずコーサ人が立ちはだかっている。なのでグレート・トレックの各隊はドラケンスベルク山脈の西側を北上して来て一旦オレンジ州地域の中部にあたるウイムブルクに集合した末に行く先を違え、ポトヒーテルは北進してトランスヴァールに地歩を築き、以下に説明するレティフたちはドラケンスベルク山脈を東に超えてインド洋沿岸部、つまりコーサ人の勢力圏の後背(ケープ植民地の東部辺境から見れば東北数百キロの彼方)に位置するナタールの地に出ようというのである。そこは降雨に恵まれ、良港を作ることも出来そうである。

 さて1837年10月にひとまず少人数の騎馬偵察隊を率いてドラケンスベルク山脈を越えたレティフはそこでジャン・モリスの引くレティフ本人の証言に曰く「アフリカで目にしたもっとも美しい土地」に行き当たった(註43)。緑豊かで気候温暖、丘陵と平原の向こうはインド洋である。レティフが入り込んだ地域はディンガネ率いるズールー王国の版図に含まれてはいたがディンガネ自身はそこから北に離れた地域に居を構えていて、レティフが目にした辺りはムフェカネの結果として人口希薄地になっていたとされる。とはいえ既に述べたようにインド洋沿岸部のポート・ナタール(ダーバン)にはディンガネと結ぶ少数のイギリス人が居留して交易に従事していた(ただしイギリス国家としてはここを併合する気はないと明言していた)ため、レティフはまずこのイギリス人たちと話し合いの席を設けて、自分たちもこの地に住みたいのだがイギリス人の権利も尊重するので宜しく頼むと持ちかけた。イギリス人たちはこれを了承、次にディンガネにも入植のための土地の譲渡を申し込む(註44)とディンガネは、最近ズールーの牛を大量に盗んで行ったソト人の首長セコニェラ(ジャン・モリスは「バスト族の族長」と書いているがモシェシェとは別の集団だったようである)から盗牛を取り返してくれるならばとの条件を提示した。これを是としたレティフは早速ソト人の土地に乗り込んで行って問題の牛を確保、その間にもレティフが首尾よくやったとの報知を得たマリッツたちも続々とドラケンスベルク山脈を東に越え、あっという間も無く1000両近くの幌牛車からなるフォールトレッカーの群れ4000名ほどもがナタールの平原地帯に入り込んでしまった。エバンズ・プリチャードの描写に曰く「牛車の車輪を取りはずして、紫色の夕やみのなかを、ドラッケンスバーグ山脈の急斜面をすべり降り、岩山や瀑布を過ぎ、巨礫の間に火矢のように発生した真赤に燃えるポーカーの花を通って、草ゆれる緑の牧場に、そしてはるかなる白波うち寄せるインド洋にたどり着いた集団もあった」。しかし前の衆議(移住先選定会議)ではウイムブルクに留まりたいと言っていたマリッツは結局ナタールに来たのに、その時にナタール行きを主張していたアイスはハイフェルトでポトヒーテルと行動を共にしていたというのだからよく分からない。

 註43 以下この段落と次の段落はレナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』176〜177頁 吉田賢吉著『南阿聯邦史』133〜135頁 ロバート・ロス著 石鎚優訳『南アフリカの歴史』48頁 林晃史著「南部アフリカ」 星昭、林晃史著『世界現代史13 アフリカ現代史1 総説・南アフリカ』70頁 池谷和信著「南部アフリカ」川田順造編『新版世界各国史10 アフリカ史』335頁 ジャン・モリス著 椋田直子訳『ヘブンズ・コマンド 上巻 大英帝国の興隆』80〜84頁 岡倉登志著『ボーア戦争』16〜18頁 E・エバンズ・プリチャード総監修 日本語版総監修梅棹忠夫 第9巻監修田中二郎『世界の民族9 アフリカ南部・マダガスカル』65頁による。

 註44 しかし既に述べたように1834年の時点でナタールに派遣された偵察隊がディンガネからボーア人の入植に関する「大体の諒解」を取り付けていたというのだが、その話はどうなったのだろうか。

 何にしても1838年1月末に問題の盗牛の引き渡し及び土地の譲渡に関する取り決めのためにディンガネのもとに出向こうとしたレティフは、どうも様子がおかしいという周囲の者たちに引き止められそうになった。ディンガネはフォールトレッカーたちがそんなにせっかちに入り込んで来たことに怒っているとか、そもそもボーア人の入植を許す気がなかったとかいう噂が流れ出していたのである。しかし彼らの忠告を退けてディンガネの根拠地ウムグングンドゥロヴに100人ほどの隊を率いて出向いたレティフは、ついこのあいだ(1837年11月)トランスヴァールのポトヒーテルたちがズールー王国の裏切り者だったところのムジリカジ(ンデベレ王国)を撃破したことでもあることとて好意をもって迎えて貰えるだろうと思っていて、そのことを誇るメッセージをディンガネに送りつけてもいた。しかし果たしてトンプソン曰く「これらの出来事について熟考した」上でやはりボーア人を受け入れるのは危険だと判断したディンガネはひとしきりレティフたちを歓待、ツゲラ川とムジンブブ川の間の土地をボーア人に譲渡する旨の正式証書に署名したところで3000名あまりのズールー戦士をけしかけ彼らを虐殺してしまった。撲殺した(トンプソン)とも滅多斬りにしてその屍体を近くの山の上に運び禿鷹の餌食に供した(吉田賢吉氏)とも両手両足を縛って棍棒で頭を殴り尻の穴から胸まで男の腕ほどの杭で突き通した(ジャン・モリス)ともいう。岡倉登志氏はそのような数字は鵜呑みに出来ないとしつつも虐殺は実際にあったとしている。ディンガネは更に間をおかずレティフの仲間たちの宿営地にも大軍を差し向けてこれを攻撃した。吉田賢吉氏曰くツゲラ河畔にあった宿営地にて「不意を喰ったボーアは蟻塚を壊された蟻のように逃げまどうた。ヅールー兵の鬨の声、女子供の泣き叫ぶ声、忽ちにして阿鼻叫喚の巷と化し正に此世の地獄を現出した。最も悲惨であったのはブラーウクランス河で、ヅールーの刃に殪れたもの男子41人、女子56人、子供156人、混血人約250人に達し」て後世その地は「ウイーネン(嘆き悲しむ)」と称されたという……、トンプソンは「ツゲラ川の水源付近にあった移民の宿営地を攻撃し、さらに40人の白人男性、56人の白人女性、185人の白人の子ども、200人以上のカラードの召使を殺害」と記している。岡倉登志氏によればその半分以上が子供だったボーア人300名以上と召使いのコイサン人250名が殺されたという。この段落の記述は主としてトンプソンと吉田賢吉氏、ジャン・モリスに拠っているが、林晃史氏は(以下に紹介する3氏の記述ではレティフとディンガネの間の土地譲渡に関するやりとりには言及されていない)「レティーフに率いられたブーア人が、ディンガネに無断でナタールを占領したので」今回の虐殺に至ったのだとしており、池谷和信氏によるならばディンガネは「グレート・トレックをしていたボーアのワゴンが、肥沃な土地を求めてドラケンスバーグ山脈の峠を越えてきたときに、彼は、ボーアを招き入れて絶滅させようとした」のだそうである。ロスによればディンガネは「フォルトレッカーの意図がナタール入植であることを知った」ので表敬訪問に来たレティフたちを殺したとする。

 急を聞いたポトヒーテルやアイスが「快速軍団」を組織して駆けつけて来たがアイスは峡谷に誘い込まれたところを叩かれ戦死、ポトヒーテルは現状の戦局に利あらずと見てハイフェルトに撤収した(註45)。しかしレティフの麾下にあった者でなおもツゲラ川の上流に車陣を敷いて踏みとどまっていた連中はケープ植民地に救援を要請、1838年4月に来援したグラーフ・ライネトの有力者アンドリース・プレトリウス(その息子で後のトランスヴァール共和国大統領マルチヌスと区別して「大プレトリウス」と称される)や、当時静養中ではあったが総司令官に擁立されたマリッツの弟ステファヌス・マリッツ等とで陣容を立て直す。1838年12月初旬に戦備整い進撃を開始したボーア軍500名(400名とも)は同月15日の土曜日に後世「血の川」と称せられるンコメ川のほとりにて翌日の安息日を守るために一旦停止、野営のために強固な車陣を構えたが、翌16日の夜明け時にはズールー軍推定1万が周囲に同心円状に展開していることを察知した。やがて仕掛けてきたズールー軍をボーア兵全員が最低1丁持っていた鉄砲と2門(3門とも)の小型砲で圧倒してボーア軍の損害は負傷者3名だけで死者は無し、数百人単位による益の無い突撃を数時間に渡って繰り返しては撃退されたズールー軍はやがて車陣から飛び出し騎馬で突進して来たボーア兵たちに殺戮され3000の遺体を残して四散という一方的な結果となる。ジャン・モリスの引くとあるボーア人の回想「叫び声、わめく声、悲痛な声、そしておびただしい数の黒い顔、それ以外なにも覚えていな」かったという戦いの後には多数の死体が「さながら菜園の一画に転がるかぼちゃのように」転がってそこから流れ出る血がンコメ川を真紅に染めていたという。岡倉登志氏はこの数字について「ボーア発表のもので誇張があるにせよ、この戦いは、むしろ虐殺と呼んだ方が適当かもしれない」と述べている。一方で宮本正興氏はこのような戦闘でボーア人たちが犠牲を最小限に食い止めていたことは殆ど奇跡に近いと述べる。「血の川の戦い」のあった12月16日はアパルトヘイト時代の最重要国家記念日となった。吉田賢吉氏とジャン・モリスによるとこの戦いの後にディンガネの本拠地ウムグングンドゥロヴに乗り込んだボーア人たちは既にもぬけの殻になっていた同地を捜索してレティフたちの遺骨と一緒にレティフとディンガネがかわした土地の譲渡に関する証書を発見したという。にわかには信じ難い話だが、果たしてトンプソンはそんな約定など存在しなかった可能性があると述べている。

 註45 以下この段落はレナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』177〜178頁と657頁の原注45 ジャン・モリス著 椋田直子訳『ヘブンズ・コマンド 上巻 大英帝国の興隆』88〜90頁 吉田賢吉著『南阿聯邦史』135〜137頁 岡倉登志著『ボーア戦争』18〜19頁 宮本正興、松田素二編『新書アフリカ史』366頁による。

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 ディンガネとの講和は1839年に成立した(註46)。しかし相手の誠意に疑義を感じたボーア人はディンガネの弟ムパンデと組んでディンガネを攻撃、ディガネは吉田賢吉氏によればスワジランドに逃れてその後の消息は不明、たぶん死んだといい、トンプソンによれば北方に逃れたところでスワジ人に殺されたいう。ムパンデはボーア人の支持のもとにツゲラ川以北の地でズールーの君主となった。ボーア人たちはレティフとマリッツの名に因む新根拠地「ピーターマリッツバーグ」をポート・ナタールの北西約65キロの地に構えて……ジャン・モリスは「みすぼらしい首都」と呼んでいる……立法・行政・司法権を持つ定員24名の「国民参議会」を創設、1839年3月には憲法を制定して「ナタール共和国」を建国した。国民参議会は軍司令官を指名したが大統領職は存在せず、というのは指導者たちの争いがあって総代表を決めかねたからだといい、その後は大プレトリウスの「軍人派」とステファヌス・マリッツの「議会派」が対立、ハイフェルトに留まっていたポトヒーテルたちとも紛糾したが、後者については協議の上でナタール側の国民参議会を本部、ハイフェルト北部(後のトランスヴァール州)の「ポチェフストルーム」及び南部(後のオレンジ州)のウイムブルクにそれぞれ設けられていた参議会を支部とすることで決着した。ただしそれは形式的なもので実質的には3者独立状態だったとされる。ケープ植民地のオランダ東インド会社領時代由来の古い役職「ラントドロスト(地方行政長)」「ヘームラート(地方参議)」「フェルトコルネット(行政役人)」による地方行政が計画され、市民権はボーア人だけに認められた。1名につき2つの農場を持つことが出来る。有色人の召使は「人」ではなく「生物」と呼ばれることが多かった、つまりボーア人とは別種の存在であると考えられていた。ボーア人以外の白人も、忠誠の証拠を示した少数を除き仲間としては扱ってもらえなかった。トンプソンによれば市民権を有したのは「ケープ植民地を後にしたヨーロッパ起源のオランダ語を話すコミュニティーのメンバー」で、「移民たちは、自分たちはオランダ語を話しているものと考えていた」のだが「実際には、彼らの話し言葉は、すでに現在のアフリカーンス語に近かった」由である。1842年までに女性や子供を含めて約6000名の移民が来着した(トンプソンは「大多数の移民がナタールに入植した」と書いている。白人だけでその数なのか有色の従者を含めてなのかは明記していないが文脈から言って前者のようである)が、土地の分配でゴタゴタして行政能力も財力も乏しく、また当初は労働力確保のためにアフリカ人の子供を捕獲して来ていたが、そのうちにかつてシャカに追い散らされていたアフリカ人たちも戻ってきてナタール共和国のアフリカ人の人口は当初の1万から1843年には5万に膨れ上がった。

 註46 以下この段落はレナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』178〜180頁と656頁の原注47 吉田賢吉著『南阿聯邦史』137〜139、149頁 ジャン・モリス著 椋田直子訳『ヘブンズ・コマンド 上巻 大英帝国の興隆』90頁による。

 それとポート・ナタール(ダーバン)のイギリス人である。彼らやケープ植民地の貿易商たちはボーア人がナタールに現れる前から同地をイギリスに併合して欲しいと本国政府に頼み込んでは拒絶されていた(註47)。この頃のイギリス本国政府は出費の嵩みそうな新規の植民地獲得を避ける方針(領土的支配をせずとも海軍力と経済力とで十分な優位を築くことが出来た)で(註48)、グレート・トレックに関しても吉田賢吉氏によるとケープ植民地のダーバン総督としては植民地の白人人口が減ることやボーア人とアフリカ人との紛糾に巻き込まれる可能性を嫌ったこととてこれ(ボーア人のケープ植民地外への移住)を極力阻止しようとするも東部辺境でのコーサ人対策に忙し過ぎて手を打てず、ボーア人がナタールに入り込み始めて以降もそれへの干渉は本国政府に禁止され、その間にケープ総督職はダーバンからネイピアに交代(1838年1月)、既に詳しく述べたボーア人とズールー人との全面衝突に際してボーア人側からケープ当局に繰り返し援軍を要請されてようやく本国のグレネルグ植民相の「ナタールには植民しない」との条件付きの許可でチャーター大佐指揮の援軍を派遣、しかしこれが着いた時には「血の川の戦い」の終わった後で、チャーターの後任のジャーヴィス大尉は大プレトリウスたちと揉めた末に本国の訓令で撤収したという(註49)

 註47 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』180〜181頁

 註48 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』180頁

 註49 吉田賢吉著『南阿聯邦史』138〜139頁

ところがジャン・モリスによると「血の川の戦い」の1ヶ月前の1838年11月14日にネイピア総督が「その地に隣接する地域の一部を女王陛下の臣民たる本植民地からの一部の移住者が不当に占拠することによって、その地域の先住民が混乱した状況に陥り、その混乱が今後も続き、増大するがゆえに」ポート・ナタールの併合を宣言した、というのはイギリス側では去る1836年に制定した「希望峰懲罰法」なる法で南緯25度以南の全ての「英国臣民」に対する管轄権を主張していたのだが、その臣民の一員である筈のボーア人がやりたい放題やってると聞いて安閑としていられなくなった、ということで宣言の2週間後、ということは「血の川の戦い」の半月前にポート・ナタールに上陸したイギリス軍部隊100名が時のイギリス女王に因む「ヴィクトリア要塞」を建設してそこに駐留することとなったといい、ただしこうやってイギリスがその統治下に置いたのはナタール全土ではなくポート・ナタールという拠点だけで、その存在についてはボーア人の側も取り敢えずは黙認、翌1839年のボーア軍とディンガネの講和を取り纏めたのもそのイギリス軍部隊の司令官であったのだが、それでひと段落ついたんだからさっさと出て行って欲しいというボーア人たちからの正式な駐留抗議文書を提示されて「意外なことに、英国は軍隊を撤退させた」「しかし、それは猫が鼠をいたぶるようなふるまいにほかならなかった」のだという(註50)

 註50 ジャン・モリス著 椋田直子訳『ヘブンズ・コマンド 上巻 大英帝国の興隆』86〜87 90〜91頁

 デ・キーウィトによるとここしばらくのトレッカーたちに対するイギリスの態度は「優柔不断の記録」で上記の希望峰懲罰法というのも移住停止を呼びかけるためのものだったがそれに効力を持たせるための実力行使までやる必要があるとまでは思えないでいた、しかしやはり「イギリスへの忠誠を拒む集団の体制」がインド洋沿岸部に樹立されたことは、そのインド洋の航路に占める要衝としてケープを抑えているイギリスとしてはなんとも気がかりなことであり、いやそれよりもナタール共和国の立地がケープ植民地の東部辺境にてしつこく燻り続ける白人入植民(イギリス系入植者もまたボーア人と同じく土地を欲しがりケープ当局やイギリス本国の統制を嫌っていた)とコーサ先住民との間の対立に与えかねない影響を憂慮せざるを得なかったのだという(註51)

 註51 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』64〜66頁

 その後のナタール共和国は近隣のアフリカ人首長国を威嚇しつつ共和国内への必要(労働需要の範囲内)以上のアフリカ人の流入の規制・除去をはかっていた(註52)。この動きを恐れた「ムポンド人(ナタールから見て南西、コーサ人から見て北東にいた集団。ムフェカネの中で形成された王国のひとつ)」のファク首長が宣教師を通じてイギリスによる保護を要請、ケープ植民地でもネイピア総督がイギリス本国に対してボーア人たちを連れ戻すのは今さら不可能であるしナタールの治安維持のためには実力を示す要アリと主張(註53)し、本国側でもグレネルグと交代したラッセル植民相の判断でこれを許可した。ナタールを放置したままだとムポンド人はヨーロッパの他の国の保護を求めるであろうしアフリカ人の間に無秩序が拡大してケープ植民地の東部辺境地にまで混乱が及びそうだからである。また在ポート・ナタールのイギリス人の安全も無論のことアジアへの海上ルートのための戦略拠点ともなる同地の存立まで危うくなるであろう。現地には既にアメリカの商船が出入りしていてボーア人と交易していたし、更にナタールで石炭が見つかったことが同地の重要性を増していた。「血の川の戦い」はその名称からしてボーア人の残酷ぶりをイギリス本国に印象付け、アフリカ人の子供を捕らえて働かせているという話も不快感を呼んでいた。

 註52 以下この段落と次の段落は吉田賢吉著『南阿聯邦史』138〜141頁 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』180〜181頁 ロバート・ロス著 石鎚優訳『南アフリカの歴史』37、50頁 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』66頁 ジャン・モリス著 椋田直子訳『ヘブンズ・コマンド 上巻 大英帝国の興隆』91〜94頁 岡倉登志著『ボーア戦争』19〜20頁による。

 註53 このネイピアの主張は吉田書の「総督は英本国に対し、今となってはボーアを連れ戻すことは不可能である。ナタルの治安を維持するためには派兵の必要あることを説いた」という記述によった。その頃のナタール共和国は幹部の内紛が絶えず移民の土地配分についても紛糾していて「欧人住民より英国政府の容喙を希望するものが出てきた」とあるので、その内紛・紛糾で血を見ることもあった(のでイギリス軍による治安維持の必要が出てきた)ということであろうか。「欧人住民」というのがボーア人なのかイギリス人なのかは記載なし。

 かくしてデ・キーウィト曰く「人道主義を装った戦略的措置」を執行すべく、ジャン・モリスによると1842年5月にイギリス陸軍の騎兵1個中隊と大砲数門、妻子と使用人からなる集団がなんと陸路でポート・ナタールに遠征した。しかし吉田賢吉氏はナタール遠征隊は「ナタルに上陸した」と言っているのでどちらかが間違っているのか、途中で海路に切り替えたということなのかは筆者には不明である。とにかく吉田氏によればこの遠征隊を迎えたナタール共和国側はイギリス政府がナタールの独立を正式に承認してくれるならばイギリスと親善関係を結び在ナタールのイギリス人の権益を十分尊重すると言い送ったが拒絶され戦闘となったといい、ジャン・モリスによればボーア軍は素早くイギリス軍を包囲して兵糧攻めに成功する寸前までいったものの、夜間に包囲陣を突破した1名の若者が三日三晩馬を走らせてケープ植民地に危急を報告、1842年6月25日にフリゲート艦「サザンプトン」が到着したことで「ナタール共和国の命運は尽きた」という。吉田賢吉氏によると「ナタルに上陸し」た遠征隊とボーア軍とが一戦交えた後に更に「サザンプトン」が到着してボーア軍を敗退せしめ「1842年5月」に「ポート・ナタルは英軍の占領するところとなった」としている。ジャン・モリスが正しいとしてもその時点では(「サザンプトン」の到着でナタール共和国の終了が事実上決まったにしても)まだピーターマリッツバーグまでイギリス軍の占領下に落ちた訳ではなかったようで、吉田賢吉氏によるとイギリス軍がポート・ナタールを占領したところに本国でラッセルと交代したスタンレー植民相からナタール至急放棄を訓令してきた(と吉田書にはあるがロス書では今回のナタール占領はスタンレーの意思によるものであったように記している。しかしデ・キーウィト書はラッセルの認可によって占領がなされたとしており、岡倉書も吉田書と同様の記述となっている。ここではとりあえず以上4書のうちで最も記述の細かい吉田書に従うものとする)、が、ネイピア総督はこれに従わず、ナタール側(ピーターマリッツバーグ)の国民参議会は激論の末の1843年8月8日をもってイギリスに主権を引き渡すとの協定をネイピアの代理のクロートとの間に取り纏めた。ただしこの国民参議会にはナタール居住のボーア人だけでなくハイフェルトの連中も代表を送ってきていて、前者は対イギリス戦の無謀さを悟っていたため主権引き渡しに同意したのに後者は猛反発、ハイフェルトはナタール共和国とイギリスの協定に束縛されるものではないとしてドラケンスベルク山脈の向こうへと引き揚げて行った。しかし翌年になるとナタールのボーア人たちもハイフェルトへの移動を開始、当初はイギリス側の施政に期待するところあってナタールに留まろうとした人々の多くもイギリス当局が土地の利用について条件をつけたりしたことに失望してその大半がハイフェルトへと旅立った。一部のボーア人は1846年にツゲラ川支流のクリップ川の河畔に共和国を建てたがこれも翌年頃には終了、ハイフェルトへと撤収する。1844年から1848年頃にかけてなされたこの再度の移住というか出戻りを「第二次グレート・トレック」と呼ぶ。イギリスによるナタール併合は中国におけるアヘン戦争と同時並行的に遂行されたものであったことは念頭に置いておいてもよいであろう。

   ハイフェルトの情勢  (目次に戻る)

 ハイフェルトではンデベレ人の北走の後にソト人やツワナ人が戻ってきて勢力を拡大しつつあり、またグリカ人の勢力も複数あってまさに群雄割拠、特にファール川とオレンジ川の間の地域は著しい混乱の巷となっていた(註54)。先に吉田賢吉氏の記述に依拠してグリカ人には西、中央、東の3名のリーダーがいたと記したが、トンプソンによるとナタール併合の後頃のグリカ人にはアンドリース・ワーターボーアの率い西部グリカ人国家とアダム・コックの東部グリカ人国家があって対立関係にあったといい、また吉田賢吉氏によるとアダム・コックは「始終ボーアとバスト族から圧迫され、英国当局から支持を受けたこともあるが虐待もされた」とのことで、またデ・キーウィトによるとグリカ人はこのあたりでも雨水があって牧草に恵まれた地域を占めていたことがボーア人たちを苛つかせていたという。更にトンプソンによるとこれらの諸勢力間の抗争はこの地域にボーア人とは別個に入り込んできていたヨーロッパの伝道団体複数のうちロンドン伝道協会はグリカ人に同伴、パリ福音教会はモシェシェ王のレソトに拠点を置き、メソジスト派伝道協会はモシェシェ王と敵対するアフリカ人……弱小のアフリカ人首長国が多数あった……を相手に布教しつつそれぞれの勢力の「大義」を応援していたことで一段と激化していたが、既に見たように1834年には西グリカ人がケープ植民地と条約を締結、続いて1843年には東グリカのアダム・コック及びレソトのモシェシェもケープ植民地と条約を結ぶに至った。モシェシェは弱小アフリカ人首長国多数の盟主たることを認められ、しばし後にはアダム・コックとケープ植民地との条約修正で東グリカ領北方での白人入植者の土地獲得が認められるという諸勢力関係の調整がなされた(とトンプソン書にあるが、東グリカの北の白人というのはボーア人のことなのか、それともイギリス系でもその方面に入り込んでいたのか、前者だとするとケープ植民地当局が彼らの土地獲得権を認めてやることに如何なる意味があったというのかは筆者にはよく分からない)。トンプソン曰くこの時期のケープ植民地は「従属国家」を作ることで「北方のフロンティア」を安定させようとしていたということで、その方が植民地化して直接支配するよりも安上がりであったろう。

 註54 以下この段落はレナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』182〜183頁 吉田賢吉著『南阿聯邦史』167頁 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』66頁による。

 そしてハイフェルトにおけるアフリカーナーの動向である。ナタール共和国の建国に際してもハイフェルトに留まっていたボーア人は北部のポチェフストルームと南部のウイムブルクにそれぞれ参議会を構えていたこと、両者ともにナタール側の国民参議会の支部という扱いになっていたことは既に述べた。吉田賢吉氏はポチェフストルームのそれを「参議会」と書いたり「国民参議会」と書いたりしていて一定していないのだが、とにかく氏の記述によればイギリス軍によるナタール制圧の際にポチェフストルームの国民参議会はナタールの主権に関するナタールとイギリスとの協定は自分たちには関係なしとの立場をとり、またイギリス側もその協定の効力はハイフェルトには及ばぬと考えていた(註55)。ハイフェルト北部すなわちトランスヴァールのボーア人のリーターとしてこれまで殆どずっとハイフェルトに蟠踞していたポトヒーテル個人としてもナタールの問題でイギリスとの紛争に巻き込まれたら自分たちの自由まで損なわれるとの意向で、たとえナタールほど豊かな土地ではないにしても自分が苦心して切り拓いたトランスヴァールを手放すようなことになったらかなわないのであった(註56)。ジャン・モリスはナタールとの対比でトランスヴァールについて「今度はあまりにも遠く離れ、あまりにも貧弱で魅力がなく、あまりにも利点がない土地だったので、英国の帝国主義本能でさえ、ボーア人の“豊かな暮らし”をまたもかき乱すことはないだろうと思われた」と記している(註57)が、吉田賢吉氏によれば問題の協定とトランスヴァールの関係についてのイギリスの対応はトランスヴァールの独立を認めたという意味ではなくて(両者の関係を法的に規定するものが存在しないままになっていただけ)、デ・キーウィトによればイギリス側としてはボーア人が海から離れた内陸部でどんな国をつくろうがそれは経済的にイギリス領の港に依存せざるを得ないのであった(註58)

 註55 吉田賢吉著『南阿聯邦史』154頁

 註56 吉田賢吉著『南阿聯邦史』153頁

 註57 ジャン・モリス著 椋田直子訳『ヘブンズ・コマンド 上巻 大英帝国の興隆』94頁

 註58 吉田賢吉著『南阿聯邦史』154頁 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』66頁

 そして果たして内陸部のボーア人がどんな国を作ろうとしたかというと、1844年にポチェフストルームの国民参議会が制定した「三十三ヶ条例」は吉田賢吉氏の評価によれば議場取締規定や民事裁判規定があるかと思うと「村の衆の集会の規則以上を出ないもの」が雑然と並ぶ、「憲章と云うには余りにも杜撰なもの」で「誰が国の首班であり、立法、行政、司法が如何なる機関で管掌されるのか全く分からない」「トレッカーズの行政能力や教養程度がかなり低いものもあったことを如実に示すもの」であったという(註59)。またこれも吉田賢吉氏によるとポトヒーテルはこの条例成立後ポチェフストルームから「オーリッヒスタッド」に移ってそこをトランスヴァールの首府とし自ら「終身総司令官兼行政長官足らんとした」というがその行動に如何なる意図があったのかは説明していない……、そうこうしているうちにナタールを引き払ってきた大プレトリウスたちや「オランダ本国よりの使節と称せられる」スメレンカムプ等の「錚々たる連中」が来着してポトヒーテルを弾劾、「かくて彼等の間に醜い内部闘争が続けられ」たという(註60)。トンプソンによると大プレトリウスはポチェフストルーム付近に居住し、ポトヒーテルはトランスヴァール東部のポルトガル植民地とのアクセスの良い地域に入植地を切り拓こうとしていたが害虫が多い所でうまく行かなかったという(註61)。ロスによるとトランスヴァールのフォルトレッカーたちはその南西部のポチェフストルームと北部の「ザウトパンスベルク」、東部の「ランデンブルク」を中心に多数のコミュニティを形成し、後者2つのそれは小規模で外部からの危険にさらされてはいたがスワジ人の王国との連合で持ちこたえることが出来たという(註62)。スワジ人はズールー流の軍事組織を取り入れて王国の強大化をはかっていた(註63)

 註59 吉田賢吉著『南阿聯邦史』154頁

 註60 吉田賢吉著『南阿聯邦史』155頁

 註61 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』181〜182頁

 註62 ロバート・ロス著 石鎚優訳『南アフリカの歴史』48頁

 註63 林晃史著「南部アフリカ」 星昭、林晃史著『世界現代史13 アフリカ現代史1 総説・南アフリカ』73頁

 そのトランスヴァールの南方、後のオレンジ州地域にいたボーア人たちは「ウイムブルク派」とか「トランスオランジア派」とか呼ばれているがこれが吉田賢吉氏によれば「頗る纏まりのないもの」で、グリカ人の勢力に加えてモシェシェ率いるバスト人(ソト人)の勢力が強力でこれがまた「おいそれとボーアの意のままになる手合いではな」く、1842年頃にはボーア人とグリカの首長アダム・コックとの間でボーア人の犯罪者の引き渡しに関する大騒動が起こったという(註64)。だが林晃史氏によるとモシェシェは1846年にはボーア人に圧迫されたためイギリスに保護を求めて協定を締結、それによってボーア人にも一定の土地を割り当てたがその後も土地紛争が続いたという(註65)。またその1846年には新しく築かれた町「ブルームフォンテイン」にロス曰く「オレンジ川北部がイギリス領であることを示唆するかのように」イギリス弁務官駐在所が設置された(註66)。ブルームフォンテインというのは後のオレンジ自由国・オレンジ州の首都となる町である。

 註64 吉田賢吉著『南阿聯邦史』149〜150頁

 註65 林晃史著「南部アフリカ」 星昭、林晃史著『世界現代史13 アフリカ現代史1 総説・南アフリカ』73頁

 註66 ロバート・ロス著 石鎚優訳『南アフリカの歴史』50頁

   第七次カフィール戦争  (目次に戻る)

 ケープ植民地の東部辺境地の様子はどうであったか(註67)。まず吉田賢吉氏によるならば第六次カフィール戦争の時に一旦獲得したクイーンアデレイドを返還するという「寛容な政策」をとった結果「却って土人を増長せしめ事態は益々紛糾」していたのだそうで、1845年頃から牛泥棒や宣教師に対する暴行等が頻発、1846年に「斧を盗んだ一土人が白人より折檻されたのを憤慨して暴動を起こした」のを契機とする「第七次カフィール戦争」、別名「斧の戦争」が勃発した。ケープ植民地側ではネイピアの後任のケープ総督メイトランドが前線に出向いて戦意昂揚につとめ、当初の苦戦を凌いでコーサ側の住居や家畜や作物を集中的に破壊し飢えに追い込んだことで和平成立、1847年にはメイトランドの後任のスミス総督がカイ川とカイスカンマ川の間のコーサ人の土地を「イギリス領カフラリア」として併合した。「カイ川とカイスカンマ川の間」ということはつまりクイーンアデレイドを(白人目線でいうならば)取り戻したということである。更に細かくは今回の獲得地は「カフラリア」と「ビクトリア・イースト」に区分され、後者はケープ植民地の一部として組み込まれ、前者はケープとは別枠の植民地となったようである。筆者の不明のため「ようである」という曖昧な表現で申し訳ないが、カフラリアの方もスミス総督が独裁的に統治することになったのだそうで、その辺の厳密な管轄区分はよく分からない。

 註67 以下この節は吉田賢吉著『南阿聯邦史』165〜166頁 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』67頁 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』135、155〜156、183〜184頁 ロバート・ロス著 石鎚優訳『南アフリカの歴史』45〜46、59頁による。

 デ・キーウィトは今次の戦争の背景としてもっと客観的に「旱魃、土地に飢えた入植者、陰気で恐怖にかられたカフィル人などの現実が存在していた」と述べて、入植者のコマンドよりもイギリス軍の連隊を主力として戦ったことで要した経費が本国の目を剥かせたという。ロスによればクイーンアデレイド返還後(第六次戦争と第七次戦争の間の時期)も白人入植者によるコーサ人の土地の強奪が続いていて、入植者がコーサ人を労働力として用いるようにもなり、両者間の関係悪化に1840年代に繰り返された旱魃が重なって今次の戦争に至ったのだといい、その一方で戦争中にはケープ植民地側がムフェング(ズールー軍に押されて逃れてきたアフリカ人難民集団)を補助部隊として使用したことを指摘、第六次戦争の際にはコーサ人を擁護した人道主義者たちも今次の戦いでは「非はコーサ人の側にある」と看做して新領土獲得にも反対しなかったと述べている。トンプソンも同様の背景で貧困化したコーサ人が強盗を働くことがあったと述べつつ、今次の戦争勃発前のケープ植民地側で辺境地を担当していたストッケンストロムの方針としてはコーサ人の首長たちと協調しつつ辺境入植民の財産は辺境入植民自身に守らせることにしていたのがコーサ首長の側にはコーサ人一般を厳しく統制出来る程の専制権力がなく、植民地側の辺境民には防衛予算がケープから貰えた訳でもなければ自力でそんなことが出来る訳もなし、それでもストッケンストロムが入植民の不満を抑えていたあいだはまだ良かったが彼がその地位を退いたことで一気に戦争勃発となったのだとする。

 またトンプソンは「斧戦争」という名称の由来について「あるコーサ人の一団が、1丁の斧を盗んだ罪で逮捕されていた男を釈放した際に、この男と手錠でつながれていたコイコイ人の囚人を殺害してしまった事件を発端として、この戦争が起きたからである」と記しているが、どういう状況でそんなことになったのか、それが何故に白人との戦争に繋がるのか筆者には全く分からない。ちなみにスミス総督はナポレオン戦争時のスペイン戦線や米英戦争、1815年のワーテルローの戦いに従軍してインドでも活躍したという、トンプソン曰く「イギリス軍人の傲慢さと純真さの権化たる人物」、デ・キーウィト曰く「ある種のカリスマ性と電光石火の決断力をたずさえ、厄介な民族を扱う最良の方法は相手の土地を接収して支配することだという確信を持ち込んだ」ということで併合地に住んでいたコーサ人たちは追い出すのではなくそのままイギリスの支配下に置くこととし、またトンプソンによるとカフラリア併合宣言の後に首長たちを呼び出して自分の足に接吻するよう求め、その半月後にまた呼び集めた首長たちに火薬を積んだ荷車を見せてこれを爆破、「これがお前たちにしてやれることだ。おとなしくしているのだぞ」と言ったという。

 もうひとつ、前回もそうだったが今次のカフィール戦争でもカト川上流地方のコイコイ人入植民がイギリス軍に伍して(イギリス側に立って)勇戦していた。トンプソンによれば彼らは以前からコーサ人の侵犯行為を被っていて、かようなコーサ人の動きにはムフェングも加わっていた、つまりムフェングは敵味方に割れていたのだが、今次の戦争におけるカト川上流地方の入植者たちはその成人男子1000名のうち900名が実戦参加するという忠勇ぶりであったという。ロスによれぱ同入植地(ロスは「キャット・リバー」と表記しているが多分カト川のこと)は元々コーサ人に対する防波堤として企画されたもので、同地が白人に与えられなかったことに対する白人の不満がグレート・トレックの背景のひとつとしてあったようである。

   オレンジ川主権国家  (目次に戻る)

 話の舞台をハイフェルトに戻す。ナタールからハイフェルトに移った大プレトリウスは自分たちの独立を認めるよう繰り返しイギリス側に要望、ケープ植民地のスミス総督の「ボーア大衆の意向を十分打診するまで手を触れぬつもりだ」との約束を得ていた(註68)。ところがスミス総督は1848年2月に至って土人(と吉田賢吉氏は記しているが具体的にどの土人かは書いていない)がボーア人の圧迫について訴えて来たのを機にヴァール川とオレンジ川、ドラケンスベルク山脈に囲まれた地域をトンプソンの引用に曰く「原住民の全首長の正当な世襲の権利の保護と保持」及び「女王陛下の臣下による支配と統治、その利益と福祉」のために併合するとの宣言を発した(註69)。「ヴァール川とオレンジ川、ドラケンスベルク山脈に囲まれた地域」ということは後のオレンジ州地域に加えてモシェシェの支配領域も併合するということであるが、まずはボーア人の反応である。デ・キーウィトによればスミスは自分で自分のことを「ボーア人に好意を持っているし、ボーア人にも好かれているから、この行動は彼らも賛同するだろうと明らかに確信していた」というが、果たしてスミスの宣言に憤った大プレトリウスはイギリスと一戦すべしとボーア人たちに参集を呼びかけた。ところがポトヒーテル等の北方の連中は加勢せず、装備も補給も整わない750名の人員を揃えるのがやっと、これを片付けんと侵攻して来たイギリス軍は正規兵1200名にグリカ人等の250名の有色兵が従っていた。吉田賢吉氏は「ボーア軍は土人との戦闘は何度もやって経験ずみであるが、制服を着て訓練された正規軍と戦うのは之が始めてであった」としている。なら6年前にナタールに上陸して来たイギリス軍とは小競り合い程度だったのかどうだかよく分からない。ともあれ両軍あいまみえた「ボームプラーツの戦い」の結果は歴戦のスミス総督の陣頭指揮下に騎兵・砲兵を駆使したイギリス軍の勝利、ただしボーア軍よりも犠牲が大きかったという。その後も進撃を続けて諸要地を占領したイギリス軍は翌1849年にはブルームフォンテインに駐在官と12名の議員からなる「立法参議会」を設置して新領土を制度的にも確定していった。

 註68 吉田賢吉著『南阿聯邦史』150頁

 註69 以下この段落とその次の段落はC・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』67〜68頁 吉田賢吉著『南阿聯邦史』150〜151頁 ロバート・ロス著 石鎚優訳『南アフリカの歴史』50〜51頁 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』183〜184頁による。

 イギリス本国は今回の併合を歓迎しなかった。「イギリスの植民地政策は大転換の直前にあった」「ダウニング街の人道主義的良心は奴隷解放運動の頃に比べて、その意気込みと感受性が薄らいでいた」というデ・キーウィトの記述を補足すればつまりナタール併合の時のような「人道主義」という建前(今回のスミス総督による併合宣言も「利益と福祉」とか謳っている)が流行らなくなりつつあったということで、ジョン・フィリップは既に死去していたし、おまけに本国にとっては「戦略よりも経済の方がはるかに重要だった」、このまま問題なくおさまれば良いのだが、もし「イギリス軍が再び進撃を迫られ、再度国庫金の注入が行われるとなると、内閣や議会は容赦するはずがなかった」。トンプソンによれば本国政府は「この領土は財政的に自活できる」というスミス総督の説明で「彼がつくりあげた既成事実」を「しぶしぶ受け入れ」、吉田賢吉氏によれば本国議会も政府に「右併合は治安維持上已むを得なかったと説明されて渋々納得した」のだそうである。今回の併合地に築かれた体制を「オレンジ川主権国家」と呼ぶ。トンプソンが続けて記すにこの地の歳入はせいぜい年に1万2000ポンド、多少の役人と小規模な部隊を置けるという程度であったが、ロスによるとこの地域の南部は確実にイギリスが掌握、その農地は「1820年の移民」の親族を主力とするケープの牧羊業者や金融業者の手に帰して行ったという。オレンジ川主権国家の版図に含まれることになったレソトや他の有色人の国家・首長国は解体された訳でもなく一定の自治を認められた国家内国家として存続したようだがその辺の厳密な法的位置付けは筆者の不明により不明である。とにかく次節で述べるようにレソトに関しては有力・強力な勢力としてその後も存続、白人の攻撃をはねのけることともなるのである。

   第八次カフィール戦争とバスト戦争  (目次に戻る)

 それとスミス総督はケープ植民地の東部辺境地のフィッシュ川とカイスカンマ川の間の地域に白人とムフェングを住まわせてトンプソンの表現に曰く「コーサ人に対する人間の壁」としつつカイスカンマ川以東のカフラリアの首長たちの上に白人の「地方判事」を配して首長たちを徹底的に統制していた(註70)。デ・キーウィトによればそれは「部族の忠誠義務や制裁措置をないがしろにし、そこに新しい社会を創り、土地、労働、裁判をヨーロッパ人に依存させるという経緯」であった。カト川上流のコイコイ人入植地に関しても同地の設定者だったストッケンストロムが1847年に辞任(註71)して後にカト川地区の地方判事として送り込まれてきたT・J・ビドルフとその後任のJ・H・ボーカー(どちらも1820年の移民)がコイコイ人たちへの差別丸出し、コイコイ人たちが材木事業で稼ごうとするとその免許料を4倍に値上げするという横暴ぶりである。コーサ人の方も第七次カフィール戦争の賠償として4万頭の牛を奪われ、1850年に更にまた旱魃に見舞われたことで同年勃発の「第八次カフィール戦争」となったが、ほぼ同時にオレンジ川主権国家でもバスト人との戦争が起こった。後者の「バスト戦争」はトンプソンによれば主権国家当局が移民と宣教師の要求で弱小のアフリカ人首長国をモシェシェから独立して扱うと決定したことに起因し、それを実力で執行すべく移民と親英派アフリカ人の部隊を集めたものの1851年にフィルフートで起こった戦いでモシェシェ軍に大敗した。デ・キーウィトによればこの戦争の背景はボーア人とバスト人とがそれぞれ殆ど無統制にカレドン川の渓谷の肥沃な土地に入り込んだことによるといい、また同じくデ・キーウィトによればケープ辺境地(第八次カフィール戦争)とオレンジ川主権国家(バスト戦争)でのこの2方面の戦争は「密接に関連していた。この戦闘が最も明確に証明したのは、すべてのヨーロッパ人入植地と先住民居住地は相互依存を非常に深めており、バスト人がボーア人の雄牛を盗んだり兵士がコーサ人の小屋に火を放ったりすれば、その影響はとてつもなく広範囲に及ばざるを得ないという状況」であったという。

 註70 以下この段落と次の段落とその次の段落は吉田賢吉著『南阿聯邦史』166頁 ロバート・ロス著 石鎚優訳『南アフリカの歴史』54〜57、59〜60頁 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』69〜70頁 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』136、148〜150、156〜157、184頁による。

 註71 トンプソン書の136頁によるとストッケンストロムは1847年に辞任したとあるが同書155~156頁によるとストッケンストロムがその地位を他の人々に譲って後の1846年に第七次カフィール戦争が勃発したとある。トンプソンが何か勘違いしているのか、ストッケンストロムが複数の役職を有していて段階的に退いたということなのかはよく分からない。

 ロスによればそんなこんなで移民とアフリカ人勢力の争いを統御出来ないことに苛立ったイギリス本国政府はオレンジ川主権国家の設立認可を後悔するようになったというのだが、それは後の話として今次カフィール戦争の方ではコーサ人たちは自分ならヨーロッパ人を駆逐出来ると唱える預言者ムランジェニの「自分は天国に行って神と話してきた。神は自分の息子を殺害した白人に機嫌を損ねておられた。……神は白人にたち向かう黒人に味方してくださるだろう……イソマツでつくった棒を使えば、黒人は決して負けないだろう(トンプソン書からの引用)」に励まされたことで別名「ムランジェニ戦争」とも称され、大首長マコマの巧妙な指揮のもと多量の銃器とイギリス軍から脱走してきたコイサン人の兵士を加えた総勢2万の戦士を揃えてのケープ領内への長駆襲撃やゲリラ戦を繰り広げたが、植民地側も8600名のイギリス正規軍を主力にムフェングや多少のコイコイ人からなる同規模の兵力を集めてコーサ側の糧道を破壊、1853年頃にはコーサ側の内部分裂もあって植民地側の勝利で終戦となった。

 トンプソンによればアフリカ人に銃を売る商売人は絶えなかったがその大半は低性能の旧式で白人の装備に遠く及ばず、またアフリカ人がゲリラ戦に訴えれば白人たちはアフリカ人の家や作物を系統的に破壊し女子供を難民化させる等でその補給を絶つというのがこのところのカフィール戦争のパターンと化してしまっていたという。それと「イギリス軍から脱走してきたコイサン人」というのはロスの表現によったがトンプソンによればそれはつまりカト川上流の入植民の中からコーサ側に寝返った者たちがいたということで、その中には「それ以前の戦争では忠実なコイコイ人部隊を見事に指揮していたアンドリース・ボータのような人物」もいたといい、その後のカト川地域には公的な援助を受けた白人入植民が雪崩れ込んでコイコイ人を締め出して行くこととなった。ロスも「キャット・リバー」や伝道基地のコイサン人、更には農場で働いていたコイサン人の一部がコーサ人の側で戦っていたこと、彼らは「社会的体面」即ちヨーロッパ風の暮らしぶりを身につけるよう努力し高待遇を得ようと頑張っていたのに相次ぐコーサ人との戦争で資産を破壊され白人からの蔑視はますます厳しく、法的にも事実上の奴隷身分に落とされる法案が成立するという噂が広まっていたことをあげている。しかしバスト戦争の方はまた異なる展開を見せていて、それについては後述するとして、とりあえずデ・キーウィトによるとどちらの戦線でも入植者ないしボーア人がイギリス軍の応援に加勢することはなかったとしていて、すると前述のフィルフートの戦いはどういうことになるのかは分からない(そこで戦ったのはトンプソン書によれば「移民とアフリカ人の部隊」とあるので本稿もとりあえずそれに従ったがロスは「イギリス軍」と書いている)のだが、とにかく間違いなくいえることはここまでの記述でくどくどと説明したように白人たちの間にも対立があって、それはボーア人vsイギリス人のみならずイギリス人入植者と植民地政府との間でも多かれ少なかれそうだったのだが、トンプソン曰く「白人は、人種的優位が危ういと考えると、たがいに妨害しあうのをやめた」のであって、しかもそれに加えて「あらゆる争いでアフリカ人の同盟者を獲得することができた」のである。それでもアフリカ人たちはコイサン人やアメリカ・インディアンとは違って白人が植民地に持ち込んだ伝染病で深刻な打撃を被るようなことはなかったし、それらの人々よりもはるかに豊富な人口と複雑な経済、弾力性に富む社会的ネットワーク、持続力のある政治組織を有する強靭な人々だったのであり、最終的には白人に屈服することにはなるが「決して分解はしなかった。彼らは組織されたコミュニティーとしての一体性を保持したのである」というのもトンプソンの言である。

   トランスヴァール共和国とオレンジ自由国の成立  (目次に戻る)

 トランスヴァールではポトヒーテル及び先のボームプラーツの戦いに敗れ逃れて来た大プレトリウス、他にジュウベルトとエンスリンという合計4名の有力者が国民参議会から総司令官に任命されてそれぞれの管轄地域を仕切ることになり、うち西部を管轄していたエンスリンは間も無く死去するが、これらのボーア勢力はオレンジ川主権国家当局からはなかなかの脅威と感じられ、故に速やかにトランスヴァールをも併合すべしとの具申がなされてスミス総督も同意見であったが、しばらくの間はカフィール戦争に忙殺されてそれどころではない状況であった(註72)。ところが1851年頃になってスミスがトランスヴァールの状況を調査して得た結論は「トランスヴァールのボーアは英国主権を及ぼしうる埒外にあり、今や彼等の独立を既成事実として認むべき時に達した」で(註73)、イギリス本国政府も同時期のバスト戦争におけるフィルフートの敗戦を見てハイフェルトからの撤収を企図、まずスミスを解任し、事後処理のために送り込まれた特別弁務官がトランスヴァールとの協議に入った(註74)。ボーア側も妥協を求めていた(註75)こととて1852年1月17日に大プレトリウスとイギリス側の特別弁務官とが取り結んだ「サンド・リバー協定」にてヴァール川以北のボーア人による共和国の建設が承認された(←というのは前川一郎氏の表現で岡倉登志氏は「イギリスは(中略)」ヴァール川以北の自治権をボーア人に与えるとの約束をした」と書いている(註76))ことにより「南アフリカ共和国(トランスヴァール共和国)」が成立する。以下は歴史学研究会編『世界史史料8巻』の引く協定文からの引用。「イギリス政府によるいかなる干渉も受けずに自身の問題を処理し、自身の法律に則って統治を行う権利を、ファール川を超えて移住した農民に保障する」。イギリス政府が最も望むのは「その領土に現在生活する、あるいはこれから生活する移住農民との友好関係を築き、平和と自由貿易を促進する」ことである。ただし「ファール川以北の国では、移住農民によるいかなる奴隷制も容認されず、実践もされない」。ボーア人がイギリス領で武器弾薬を買うのは可であるが「原住民諸部族との武器弾薬の一切の取引は、イギリス政府とファール両岸の移住農民の両者によって禁じられる」等が約された(註77)。以上の約定のうち「自由貿易」はかなり重要と思えるので後でまた触れるとして、とりあえずポトヒーテルはサンド・リバー協定に反対したが「長老連中」の斡旋で大プレトリウスとの和解に至り「涙の中に硬い握手をした」という(註78)。「長老連中」とはどんな連中かよく分からないが、前に出てきた「錚々たる連中」とかのことであろうか。

 註72 吉田賢吉著『南阿聯邦史』155頁

 註73 吉田賢吉著『南阿聯邦史』155〜156頁

 註74 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』184頁 ロバート・ロス著 石鎚優訳『南アフリカの歴史』56〜57頁

 註75 吉田賢吉著『南阿聯邦史』156頁

 註76 歴史学研究会編『世界史史料8 帝国主義と各地の抵抗Ⅰ』268頁の前川一郎氏の解説 岡倉登志著『ボーア戦争』20頁。後者の方がトランスヴァール共和国の自律性の程度を低く見ているようなニュアンスがあると思う。

 註77 歴史学研究会編『世界史史料8 帝国主義と各地の抵抗Ⅰ』267~268頁

 註78 吉田賢吉著『南阿聯邦史』156頁

 次にオレンジ川主権国家である(註79)。ここでまたバスト人との戦争である。まず吉田賢吉氏によると1852年にバスト人が牛を盗んだことでスミスの後任のケープ総督キャスカートに「直ちに牛を返還せよ、言うことを肯かねば軍隊を差し向けるぞ」と威嚇されたモシェシェが「戦争、戦争って騒ぐのは止そうじゃありませんか。犬だって打たれりゃ歯をむき出しますからね」などと「しゃれた口をきいて」牛3500頭で妥協したいと申し出、これを拒絶したキャスカートが差し向けて来た部隊にべレアというところで反撃したことをもってイギリス軍をやっつけたと高言したという。トンプソンによるとキャスカートはまず本国に対しオレンジ川主権国家の統治には2000の常設駐屯軍と充実した民間施設が必要だと申し送って、しかしそんな話が受諾される訳がないと分かっていたので、この領域を放棄する前に「名誉の問題として、モシェシェを辱めるべきだと考え」て1852年12月に出陣、4000頭の牛を捕獲するも激しい反撃にあってイギリス兵37名が戦死、「私はあなたに和平を懇願します……あなたはご自分の力を見せつけられた……あなたは厳しい罰を与えて下さった……もう、それで十分ではないでしょうか。私のことをいつまでも女王陛下の敵だとお考えなさらないよう」とのモシェシェからのメッセージを受けて攻撃中止となったという。そしてイギリス本国政府としてもオレンジ川主権国家からの撤収に関する協議を「領土の統治責任を引き受ける人々(トンプソン書からの引用)」との間に執り行う権限を特別弁務官に付与することとした。

 註79 以下この段落はレナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』184〜185頁 吉田賢吉著『南阿聯邦史』168頁による。

 「領土の統治責任を引き受ける人々」とはつまりボーア人のことである。しかし吉田賢吉氏によればオレンジ川主権国家のボーア人は独立に熱意を示さず、むしろ独立反対の雰囲気すらあったという……、というのは既にケープ植民地からイギリス人や宣教師が多数流入していてボーア人だけの土地とはいえなくなっていた上に自分たち(ボーア人)の指導者層の行政能力に不安があったからといい、イギリス側に「グリカ人・バスト人に対する保障」「英国守備隊の駐屯」「従来の戦争被害に対する救済費の支出」「英本国への忠誠の免除」等々の「小うるさい条件を持ち出して是等を認めてくれるならば英国の主権撤回に同意」してやるといった具合に「全く独立に反対の意向を示した」末に救済金5万ポンドの支出を取り付けたことで1854年2月23日の「ブルームフォンテイン協定」による「オレンジ自由国」の成立となった(註80)

 註80 吉田賢吉著『南阿聯邦史』151頁

 ところがロスはこのオレンジ自由国とトランスヴァール共和国の建国をもってアフリカーナーは「ついに南アフリカの2つの領域で念願の独立を果たすことになった」と述べ、池谷和信氏も「人々の熱意によってイギリスの承認をえ」たと書いているので(註81)、筆者思うに独立を渋ったというのは救済金をせしめるための術策だったのではないかという気もする。続けてロスは「しかし、いずれの協定も、とりあえずヨーロッパ系移民の統治権を認めておこうというイギリス政府の一時しのぎの手段だった」とも述べている(註82)。またこの協定ではイギリス政府はオレンジ川以北においてアダム・コック以外のいづれの原住民首長・部族とも同盟関係を持つことなく、オレンジ自由国側の利益を損なうような条約を結ぶようなことはないと誓約された(註83)が、前川一郎氏によればイギリスにしてもボーア人にしてもアフリカ人の脅威に備えるための白人同士の協力関係構築を模索した結果としての今回の協定締結であったのであって、それは前川氏にいわせれば「帝国主義の時代を予告する植民地“分割”がすでにこの地で行われたことを意味していた」のであった(註84)。ここでいう「帝国主義」とは欧米列強による大規模な領土分割競争を伴うそれであって、それが本格化するのはもうしばらく後になって以降のこと(この時点のアフリカ大陸で白人の支配下に置かれていたのは一部地域だけ。これが急激に分割されていくのは概ね1880年代から)で、イギリスによる世界政策も次の段落で述べるように時期によって大きく変化しているという訳である。トンプソンもこの頃までにはイギリス本国政府にて何かと騒がしいこの地域に費用を注ぎ込んだところで得られる資源がある訳でもないという結論がなされていたことに言及しつつ「1840年代の初頭以来、振り子は、不穏なイギリスの臣民が南部アフリカの黒人を破滅させることのないように黒人たちを防衛するという公然たる政策から、黒人の隣人に対抗するために独立した白人のコミュニティーと同盟する政策へと、激しく揺れていたのである」としている(註85)

 註81 ロバート・ロス著 石鎚優訳『南アフリカの歴史』57頁 池谷和信著「南部アフリカ」川田順造編『新版世界各国史10 アフリカ史』343頁

 註82 ロバート・ロス著 石鎚優訳『南アフリカの歴史』57頁

 註83 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』185〜186頁

 註84 歴史学研究会編『世界史史料8 帝国主義と各地の抵抗Ⅰ』268頁の前川一郎氏の解説

 註85 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』186頁

 それと、「自由貿易」についてである(註86)。前にもケープ産ワインの話のところで少し触れたことだが、18世紀のイギリスでは本国と海外植民地との貿易から外国の関与を締め出すことで植民地をイギリス本国製品のための独占市場と化さしめ、植民地の物産を本国経由で欧州諸国に売り捌くといった手法で稼いでいたのが、19世紀に入る頃の産業革命によって増産が進む本国産工業製品をイギリスの植民地以外の地域にも輸出する必要が生じるようになってきた。しかしイギリス植民地以外の新市場がイギリス製品の輸入と引き換えに輸出し得る産品がイギリス植民地の産品と競合関係にあったため、イギリス本国としては新市場開拓のためにはそれまで外国産品に課していた関税(それまではイギリス植民地→イギリス本国間の貿易の関税は低く、他国→イギリス本国間の関税は高く設定していた。特に19世紀前半のイギリスの国家財政は関税〈と内国消費税〉に依存していた)を引き下げもしくは撤廃する、すなわち従来型の「重商主義」から「自由貿易主義」へと移行せねばならなくなったのである。ということで1842年には所得税の導入と引き換えに関税の大幅引き下げを断行、1845年に430品目を関税リストから削除、そして1846年に最後の保護関税だった穀物法の撤廃によって自由貿易主義の勝利が確定的となったのだが、その背景としては1840年前後の本国の特に綿業が不況下にあって海外市場を強く求めており、そこではまずヨーロッパ(大陸)において自前の工業を整えつつあったドイツ(1834年にドイツ関税同盟結成)から積極的に穀物を買ってやることでその(いづれイギリス工業を脅かし得る)工業化への意思を鈍らせるという思惑もあったというのだが、しかしイギリスが自由貿易を望んでも相手国がそれを拒んだ場合には必要とあらば暴力の行使をもってしてでも自由貿易を認めさせるべしとの「自由貿易帝国主義」がこの時代のイギリスの基本路線ともなり、ナタール併合の時にチラリと触れた中国に対するアヘン戦争がその典型例となった(イギリスが密貿易の形で売り込んでいたインド産のアヘンを清国側が没収・焼却したのを不満として開戦した)訳である。ケープ植民地を含む正式のイギリス領を「公式帝国」、政治的には独立していてもイギリスの圧倒的な経済力・軍事力を背景としてイギリスを中心とする経済構造の中に組み込まれた地域を「非公式帝国」と呼ぶが、中国ほどの市場規模では全くないにしても南アフリカのアフリカーナー国家もまた結局のところトンプソン曰く「非公式な大英帝国の一部であることは明らか」となるのであった。

 註86 以下この段落はレナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』205頁 村岡健次著「改革の時代」村岡健次、木畑洋一編『世界歴史大系 イギリス史3 近現代』90〜100頁 熊谷次郎著「自由貿易帝国主義とイギリス産業」秋田茂編著『パクス・ブリタニカとイギリス帝国』による。

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