南アフリカの歴史 第四部

   建国後のアフリカーナー共和国と第一次オレンジ・バスト戦争  (目次に戻る)

 トンプソン曰く「1854年当時、彼らはまだ貧しく、分散し、団結しておらず、政治的に未経験であり、事実上、まわりをアフリカ人に包囲されていた」というアフリカーナーの2つの国家のうちの北側に位置するトランスヴァール共和国の正式名称は「南アフリカ共和国」であるがそれだと21世紀現在の南アフリカ国の正式名称たる「南アフリカ共和国(1961年に「南アフリカ連邦」から改称)」と紛らわしいのでこれと区別し易いよう「トランスヴァール共和国」と表記するのが慣例となっている(註1)。ジャン・モリスによるとこの地のボーア人の理想では「政府の介入は最小限に留められ、市民は好きなところへいって、好きなように農耕生活を送り、聖書の教えに従って現地人を遇し、選出支配者を完全に対等な相手として扱う」というものだったといい、吉田栄右氏によると「質朴単純なる、敬神の念を有すると共に、欧人をして厭悪の情、禁ずる能はざらしむる品性を有」したというポール・クリューガー(第三部にもチラッと登場したが1883~1899年にトランスヴァール共和国大統領をつとめてイギリスと戦うこととなる人物)をはじめとするこの地のボーア人たちの抱く理想は外界との交通を遮断して他の白人と隔絶し孤立の生活を送ることにあって、とにかく貢税を嫌い徴税は政府あるがためであるから「無政府の国」を築いて「各農民は己の所有地を、己が意のままに支配して、他の干渉を受くることなからんを欲した」けれども現実問題としてアフリカ人勢力との衝突に備えるためには政府を持つしかなく、それでもその「孤立的精神は凝りて其法律とな」って他国人(白人)が共和国内で土地を保有したり鉱物を採集したりする権利すら厳禁、他国に道路を開通する者にも厳罰に処すると定めていたという。実際にはおいおい解説するように他国人が広大な土地を占めることとなるのでその法律なるものは遵守されなかったのか抜け道があったのかは筆者(当サイト管理人)にはわからない(吉田栄右氏によればトランスヴァール国家として出来るだけ孤立政策を踏襲していたとしている)が、とりあえずデ・キーウィトによると「共和国政府は土地の占有や効率的開墾についてきちんとした要求をしなかった」という。

 註1 以下この節はロバート・ロス著 石鎚優訳『南アフリカの歴史』48、50頁 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』186、193〜201頁 岡倉登志著『ボーア戦争』23〜24頁 ジョン・ガンサー著 土屋哲訳『アフリカの内幕2』46頁 林光一著『イギリス帝国主義とアフリカーナー・ナショナリズム 1867~1948』15~16頁 ジャン・モリス著 椋田直子訳『ヘブンズ・コマンド 下巻 大英帝国の興隆』230〜233頁 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』71、75〜76、80〜81、88〜89頁 吉田賢吉著『南阿聯邦史』152〜161、168頁 鈴木正四著『セシル・ローズと南アフリカ』17頁 池谷和信著「南部アフリカ」川田順造編『新版世界各国史10 アフリカ史』339頁 北川勝彦著『南部アフリカ社会経済史研究』98頁 リヴィングストン著 菅原清治訳『世界探検全集8 アフリカ探検記』84頁 吉田栄右著『杜國大統領クルーゲル』13〜14、45〜46、49〜53、55〜62、65〜67頁による。このうち『杜國大統領クルーゲル』は訳者名が記載されているのみで原著者名が見当たらない(ただし奥付けには「著者 吉田栄右」とある。明治33年刊行の古書である)ため、本稿本文中で参照・引用する際には「吉田栄右氏によると…」と記しておく。それとその「杜国大統領」氏については本稿の筆者の地の文では「クルーゲル」ではなく「クリューガー」と表記する。

 またロスによると(第三部で軽く触れたことにもう少し詳しく言及しておくと)この方面のボーア人がトランスヴァールから更に北進しなかったのはオレンジ自由国地域との経済的結びつきを維持するためだったとのことで、とすると筆者思うに間接的にでもケープ植民地との関係を完全に断つのは困ると思っていた筈(輸入に頼るしかない必需品が色々あった筈)であることとて、彼らの理想が外界との交通を遮断して他の白人から隔絶し孤立の生活を送ることにあったというのは全くの理想論としては彼らの頭にあったとしても、本気でそんなことが可能だと考えていたとはちょっと考え難いと思うのであるが、どうだろうか。吉田栄右氏によるとボーア人たちは「進歩の精神機運」を嫌ってはいたがしかしそういったものも「時々刻々其国内に侵入濔蔓するが故に、青年は無教育無学の域に安んずる事を欲せず、学校の建設を要求し、文明利器の便を得て、以て其生を楽まん事を欲」するようになる訳で、とはいえ製造品を得ようと思えば物々交換よりも金品交換の方が便利、しかしトランスヴァールでは政治指導層ですらも単に印刷機を回して金額を紙片に印すれば通貨になる思っていたというような見識でしかなかったといい、その一方でこれより前の時期にトランスヴァールを周遊した旅客の証言に曰く「ブーア人中にありては、狡猾を以て、才幹ある最大証拠と認識す。未だ嘗て何れの国民も、彼等の如く外に誠意を装うて、内に人を欺き、平気にして恥づる色なきものはなし、彼等は、陽に質朴の風を擬して、隠にその奸策を蔵するが故に、其為んとする所のものは概皆、能く之を成功す」ということで、そのような性質はグレート・トレックに際しての「黒人土蕃」との「生存競争」を通じて「蕃族」から習い得たのであったのだという。それとボーア人の主たる生業が牧畜だったことはこれまでに縷々説明してきたが、北川勝彦氏によるとトランスヴァールでは「農業や家畜の飼育よりも狩猟、交易および輸入の方がトレッカーの経済にとっては重要であった」のだそうである。「交易および輸入」ということはやはりイギリス領との経済的結びつきが現実として必須だったということであろうか。

 トランスヴァールの政界では建国翌年の1853年3月にまずポトヒーテルが、7月に大プレトリウスが死去してそれぞれの息子が後継者となった。大プレトリウスの子のマルチヌス・プレトリウスは父親と区別して「小プレトリウス」と称されることとなり1857年には「臨時大統領」に選出(註2)されて更にオレンジ自由国の併合を狙い、ポトヒーテルの息子の方は1854年に「マカパン人」との戦いで戦死したためその勢力はステファヌス・スコマンという人物が引き継ぎこれは「総司令官」となる。吉田栄右氏によるとアフリカ人は絶えずボーア人の家畜を略奪し無防備の白人を見るや殺戮していたといい、しかしそういったことはアフリカ人ばかりが悪いとは言えなくて、というのは「元来ブーア人は、神の選民にして、黒人は神罰を受くべきガナン人の裔と看做し」ていたとか、「黒人種の、霊魂を有する事を否定」していたとか、平和なアフリカ人たちを襲撃して婦女子を掠め取って奴隷にしたりしていたとか、小プレトリウスが一応は奴隷売買を抑圧する布告を出してはいたが国際感情を気にしただけの全くの死文で小プレトリウス自身がその布告を出した時にも多数の奴隷を所有していたとか、その後になっていよいよ外国からの批判が強まるや「微薄なる仮面を装へる奴隷制度」にすぎない年期奉公制を導入して誤魔化していたとかいう。ということで上記のポトヒーテルの息子は以前に近辺のアフリカ人の子供を略奪したことの報復で殺されたといい、その更なる報復に出撃した小プレトリウスたちは地下の巌窟に立て籠る敵軍の水源を絶ち、渇きに迫られて出て来た人々を次々に射殺、3週間後に巌窟内に突入した時には射殺したアフリカ人900名、窟内で渇きのために死んでいた者は数知れずという惨状を現出したという。大統領とか総司令官とかいうけれどもデ・キーウィトにいわせれば「ヨーロッパ人の入植地は、ほとんどの地域で、秩序ある政府ができないうちに、拡大していった」のであり、そこここで遭遇するアフリカ人の振る舞いについて「ヨーロッパ人社会が一番よく目にしたのは部族生活のあまり好ましくない面だった。迷信、魔術、残忍性を目撃したのである」「しかし、部族生活の合理的な構造、個々の部族構成員への保護体制、人々の心に与える安らぎ(中略)といったものは見逃すか、気づいたとしても全く不十分だった」のである。

 註2 1857年以前のトランスヴァールの国家元首的な地位がどうなっていたかについては筆者の手元の資料では不詳。1844年の「三十三ヶ条例」とその後の展開から察するにこの時期になっても誰が元首なのかも曖昧なままいくつかの政治集団がトランスヴァール各地に散らばっていたものか。

 ところでこの頃の南アフリカの内陸部では探検家として名高いデイヴィット・リヴィングストンが活動していてボーア人の乱暴狼藉に巻き込まれている。吉田栄右氏の引く彼リヴィングストンの証言によると小プレトリウスの命を受けた総勢400のボーア軍が「バツクウエィンス人」を攻撃して数名を殺害、リヴィングストンの営んでいた学校の生徒200名を奴隷として連れ去ったということがあったといい、そのバツクウエィンス人というのはボーア人がイギリス人の教師の邪魔をするのを阻止していた以外には特に何もボーア人を怒らせるようなことはしていなかったと断言出来るし、この時の攻撃はボーア人がバツクウエィンス人が従事していた商売を奪い取るためのものであって、更にはリヴィングストン個人の財産まで略奪・破壊していったのだそうである。トンプソンによればリヴィングストンは「クウェナ人」の首長に武器を供与している、もしくは首長の銃を修理しているという理由で今回のことがなされたそうだが、「クウェナ人」と「バツクウエィンス人」が同じものかどうかは筆者には分からぬ(その首長の名を吉田栄右氏は「セチール」と表記しトンプソンは「セチェレ」と表記している)。ちなみにこの時の攻撃にも上記のマカパン人攻撃にも例のクリューガーが参加していた由である。筆者が参照したリヴィングストン本人の手になる探検記によると「バクウェン人」が襲われて60名が殺され女性や子供が拉致されたといい、ついでに「ボーア人」についても説明して「この者達は、土人を奴隷として使用し、土人達が少しでも穏やかでないことをすれば、一向平気でみな殺しにしてしまうのである」のだそうである。

 話を政界の動向に戻して、ポチェフストルームに所在したトランスヴァール国民参議会は1855年に大プレトリウスの名に因む新首府「プレトリア」に移転、ここが21世紀現在の南アフリカ共和国の行政上の首都ともなっている。「行政上の」というのは旧オレンジ自由国の首都ブルームフォンテインが現南アフリカの司法上の、同じく旧ケープ植民地のケープタウンが立法上のそれぞれの首都となっているからである。1858年には「南アフリカ共和国憲法」が制定されて改めて小プレトリウスが大統領に選出され……、しかしスコマンはこれに協力せずトランスヴァール北部地域に「ザウトパンスベルク共和国」を構えてその独立を主張するも間もなく合流に同意する。とはいえトランスヴァールには元々ポトヒーテル(父)と大プレトリウス、ジュウベルト、エンスリンという4名の総司令官がいたこと、そのうちエンスリンは早期に死去していたことは第三部で解説した通り、この時期になっても健在だったジュウベルトは副大統領に選ばれつつも東部地域に独自勢力「リイデンベルグ共和国」を構え、他に旧ナタール派の一部が「ユトレヒト共和国」を建てていて両者提携してのトランスヴァール共和国からの自立を唱えたが、これらも1860年には全て吸収合併となる。以上のこの段落の記述は主に吉田賢吉氏によっているが、吉田栄右氏によると上記の南アフリカ共和国憲法というのは小プレトリウスが1844年制定の三十三ヶ条例にかわるものとして唱導したもので、それによってその頃のトランスヴァール諸地域を抑圧していた「ラィデンバルグ」市に対抗し「政権の平等分配」を実現しようとしたのだという。「ラィデンバルグ」というのは「リイデンベルグ」のことと思う。吉田栄右氏が続けて語るには南アフリカ共和国憲法には「欧州より移住せる人民は、其新古を問わず、悉く国会議員を選挙するの権あり」という一条が定められていたのだが、これに「杜国(註3)の開創者たる人民にして、従来最上権を握れる人々」が猛反発して独自の共和国を建設したのだといい、これを武力で圧伏せんとラィデンバルグに侵攻した小プレトリウスはしかし「軍利なくして遂に平和条約とな」り1860年の統一となったのだという。

 註3 「杜」とは「トランスヴァール」の漢字表記である。

 これでトランスヴァールの統一はなったと言いたいところだがさにあらず、オレンジ自由国との関係を巡っても混乱はなお続く。しかしその前にオレンジ自由国側の情勢にも触れておく。

 オレンジ自由国では1854年の建国直後の選挙で臨時大統領に選ばれたジョシアス・ホフマン(吉田賢吉氏は「臨時大統領」、トンプソンと岡倉登志氏は「初代大統領」とする)はその翌年にはレソトのモシェシェ王に外交儀礼として弾薬樽を贈ったことが問題視されて追放、後任の大統領職にはボショフが就任して1858年に「オレンジ自由国憲法」の公布となるが、レソトの方もトンプソン曰く周辺のアフリカ人諸勢力を征服・吸収し勢力を蓄えていてボーア人入植民との紛争となる。この時期のオレンジ自由国内ではいっそケープ植民地もしくはトランスヴァールと合併してはどうかという話も持ち上がることともなり、そのうちの「ケープとの合併論」というのはやはり、第三部の最後の方で紹介した「オレンジ川主権国家のボーア人はむしろ独立反対だった」という話は本当にそういう論が強かったということなのか、一時の勢いで独立してみはしたものの現実は甘くはなかったということなのか、それについてはまた後述するとして、まずレソトとの紛争については岡倉登志氏によるとホフマン大統領はモシェシェと親交があって合意に基づく国境を定めていたのにボショフ大統領はその修正を強く主張(オレンジ川主権国家時代にワーデンというイギリス人が提唱していた国境線があったのでそれが有効だと主張)して次第に激しく対立、1858年3月に至って開戦となったとしている。トンプソンは上記のようなレソトの勢力拡大という状況下においてオレンジ自由国との衝突は避けられないものになったとしており、ロスはどっちの方により原因があるという書き方はせず、とにかくカレドン川流域の肥沃な土地を巡るオレンジ自由国とソト人の紛争が絶えなかったとする。デ・キーウィトは「バスト人の国境付近にオランダ人が畜牛を伴ってやって来た時、バスト人も時を同じくして丘陵地から降りてきた。初めから、入植は豊かな穀倉地帯にじわじわと不規則に浸透していったため、白人農家と黒人牧夫とを境界線で区切ることはできなかった」としつつも続けて「オレンジ自由国は設立以来4年間にわたって、策を弄して先住民から優良な土地を奪おうとした」とも述べている。池谷和信氏によると「1840年代初めには、多数のボーアがソトの土地の南西部に定着していた。当時のボーアは、モショエショエ(註4)がその土地を支配しているのを知っていたので、彼の許可を求めていた」のがやがて両者間で肥沃な土地を巡る紛争になったのだとする(註5)。またトンプソンはオレンジ自由国とレソトとの以上のような紛争に関してイギリスがまるで動かなかったと付言している。

 註4 モシェシェのこと。

 註5 ただし池谷氏はここで本稿が解説している1858年の戦争には触れずに1860年代になってから両者間の紛争が頻発したのだとしている。1860年代のオレンジ自由国とレソトの争いについては後述する。

 とにかく争いは土地を巡り互いの家畜を襲撃するものから本格的な戦争へと発展、南北からレソトに侵入したオレンジ自由国軍(トンプソンは「コマンド部隊」と書き岡倉登志氏は「連隊」と書いている)がモシェシェの本拠地タバ・ホシウの麓にて合流した。しかしそこは難攻不落の山岳要塞だった上にデ・キーウィト曰く「バスト人は数で勝っていた。自由国は弱体で文無しだった」「オレンジ自由国のボーア人はバスト人を打倒する力も、バスト人を追い払う力もないことを自覚した」。裏ルートで買い入れた銃と馬を揃えた1万のレソト軍はタバ・ホシウを守りつつアフリカーナーの農場を襲撃して略奪、焼き払うという戦法で白人の志気を萎えさせ、トンプソンによるならばコマンドを解体にまで追い込んだ。岡倉登志氏によるとレソト軍に押しまくられたボショフ大統領が和平を乞うて、モシェシェの同意の元にケープ総督に調停を頼むことで講和となったという。この講和は「第一次アリワル・ノース協定」と称される。林光一氏は今回の戦争と後述する1865年に起こる戦争を一括して「オレンジ・バスト戦争」と表記し、吉田賢吉氏は去る1852年の戦争(詳しくは本稿第三部を参照のこと)と今回の戦争、その後の戦争まで一括して「バスト戦争」と呼んでいるが、本稿では今回の戦いのことを「第一次オレンジ・バスト戦争」とでも呼んでおく。

 池谷和信氏によると1850~1860年代のレソトはボーア人に備えるための鉄砲を揃えつつケープ植民地との交易のための小麦とトウモロコシを生産して豊かな富と政治的安定とを達成していたといい、デ・キーウィトによると1858年のオレンジ自由国の歳入はケープのそれの50分の1だったという。ということで「オレンジ自由国とケープもしくはトランスヴァールとの合併」論についてなのだが、鈴木正四氏によるとオレンジ自由国とトランスヴァール共和国が独立して間も無くの時期に「南アフリカ連邦形成の考えが、イギリス、ブーアをとわず起こってきた」といい、というのはその頃のケープの白人住民の間ではイギリス系とボーア系(ケープ植民地でもイギリス系よりボーア系の方が多かった)とを問うことなく「立憲自治獲得の運動」がなされていて、その一方でオレンジ自由国・トランスヴァール共和国では(詳しくは後述するが)有色人からは一切の権利を奪いつつ白人には「平等自治の権利」を認め、ナタールに新たに来着していた移民(これも詳しくは後述)もまた自治権を要求していたということで、これらの「自治国家の自由な意思による連邦国家創設の声が、市民の間から叫ばれはじめた。この意見におされて南アフリカ政治家の間にも南アフリカ連邦創設の考えが懐かれはじめた」のだという。

 それを具体的にどういう形態で実現するか……。まず「オレンジ自由国とケープもしくはトランスヴァールとの合併」のうちの「オレンジ自由国とトランスヴァールとの合併話」についてはトランスヴァール側の小プレトリウスが熱烈に望んでいて自由国内の合併論者と通謀、しかしボショフは猛反対で両者間に戦端が開かれるまでになるが例のクリューガーが仲裁に入って一旦和解、相互国境尊重となる……というのは吉田賢吉氏の記すところだがそれが正確にいつ頃の話なのかは明記しておらず、トンプソンによると両国の合併話は1857年にケープ総督グレイの「弾薬の供給を断つ」という脅しで阻止されたのだといい、曰くグレイは両国の合体が辺境地帯の騒擾をもたらすと考えたのだという。吉田栄右氏は前述のトランスヴァールの諸国統一に至る騒乱の中で小プレトリウスが「ラィデンバルグ」に侵攻した際にオレンジ自由国に対しても出兵したとしている……、

 ……このあたりは筆者の手持ちの資料も乏しい上に経緯が錯綜していてよく分からないとしか言いようがない。続いて1859年7月にボショフが退いて同年中のオレンジ自由国大統領選が告知されると小プレトリウスがこれに出馬、当選してしまった。1859年というとトランスヴァールの統一も未だ成っていない時期のことである。吉田賢吉氏曰く「今日から考えると実にふざけた話であるが、御当人は自分が両国の大統領を兼職すれば何時かは両国合併に導きうるものと真面目に考えていたものらしい」。オレンジ自由国側ではバスト人対策を小プレトリウスに期待したというがトランスヴァール側の国民参議会は彼(国民参議会から半年の休暇を貰ったという形でオレンジ自由国首都ブルームフォンテインに出向いていた)を大統領職から罷免してグロべラールという人物を大統領代理に任命、それとは別にスコマンが自前の国民参議会を召集して大統領代理となる。グロべラールがその後どうなったかは手元の資料にも記載がないのだが、以降数年間のトランスヴァールでは急ぎ帰国して来た小プレトリウスとスコマン、それとクリューガーの3派による内戦となった。しかし吉田賢吉氏曰く「この間二度も大統領選挙を行なっている。そしてやれ投票総数が不足したとかやれ買収が行われたとか理屈をつけて選挙の無効を主張する、やはり選挙を重視している。全くこの頃のボーアの心理位分からないものはない」。そして1864年5月の選挙で小プレトリウスが大統領、クリューガーが総司令官となることで内戦も終焉、吉田賢吉氏の評に曰く「親爺に比して人物は小さく、識見才能にも乏しく、おっちょこちょいであると云う感じがする」小プレトリウスはそれでも「大プレトリウスの声望の余沢」と「ボーア人は一度ある人に私淑するとどこまでも之を支持する固陋な性格」のおかげで再選を決めたのであろうという。

 オレンジ自由国大統領職の方は内戦中の1863年4月に辞任している。そちらの新任大統領J・H・ブラントはトランスヴァール内戦の調停を繰り返し頼まれていたが醜い争いへのかかわりを避けてこれを固辞、他にナタール判事長ハーディングが「大統領を巡る憲法上の紛争」……吉田賢吉氏によると「実は法律上の論争などと云う高尚なものでなく権勢目あての泥試合にすぎないのである」……の裁定を頼まれてやはり断ったという。トランスヴァールがそこまでグダグダ揉めていた要因は吉田栄右氏によると前述のような憲法問題に加えて宗教における信者の服制や礼拝式に関する細かい問題で「国民互に相反目争論して四分五裂の有様を呈するに至れり」ということであったといい、ジャン・モリスによるとトランスヴァールのボーア人というのは「政治意識は高いが、きわめて偏狭な人々」で、「小さな国にもかかわらず意見の衝突が絶えず、共和国の威令が草原に点在する農家に届く頃には、まことに弱々しいものになっていた」という。

 次にオレンジ自由国とトランスヴァール共和国の制度について。まず「オレンジ自由国憲法」は全61条で吉田賢吉氏曰く「簡明直截ですっきりしている」、トンプソン曰くケープ植民地の地方行政制度と旧ナタール共和国の立法制度と更に「あるオランダからの移民がコピーを持っていたアメリカ合衆国憲法」からいくつかの内容を取り込んだ(法の前の平等や個人の自由、出版報道の自由といった規定にアメリカの影響が明らかだという)「混合物」である。立法・司法・行政の三権分立主義であるが立法に優位が与えられ、その立法機関は12名からなる国民参議会のみの一院制で選挙権資格は吉田賢吉氏によれば在留1年以上で一定の財産を有するヨーロッパ系もしくは在留3年以上のヨーロッパ系の全員でアフリカ人・カラードには認められず、トンプソンによれば共和国に半年以上住んでいる白人男性(アフリカーナーに限らず)かつ軍役登録者である。「アフリカーナーに限らず」というのは例えばオレンジ自由国首都ブルームフォンテインはロスによれば1846年にイギリスの弁務官事務所が設置された新しい町だったといい、ガンサーによれば1848年にボーア人ではなくイギリス人が創建した町で、それ以来ずっとイギリス系の住民が多数住んでいるとのことである。大統領(直接選挙で選ばれ任期は5年)のみならず「総軍司令官」職や多くの官僚も民選で、その上で大統領を中心とした中央集権的体制である。国民参議会が平和的な集会・陳情を排するような立法措置を講ずることは禁止、裁判所が法令審査権を有する。憲法修正には3年連続して国民参議会の4分の3以上の議員が賛同する必要がある。行政は吉田賢吉氏によると大統領を議長として総務長官、首都の知事、官僚2名と市民参議員3名からなる「行政参議会」が担当したといい、トンプソンによるとその市民参議員というのは国民参議会による任命だったようである。地方行政は政府任命のラントドロスト(地方行政長)、地元選出のフェルトコルネット(行政役人)、そして指揮官が担当する。「指揮官」というのはトンプソン書にあるのだがどういう役職なのかの解説は見当たらない。吉田賢吉氏によると小プレトリウスの後任のブラント大統領というのが「人格高潔で政治的識見と行政的才能を兼備し」て自由国の内外から声望を集め1888年まで四半世紀に渡って在職、彼の才幹に加えて政治組織が簡単だったこと、農業メインの経済で「商人的な物質的な気風が浸潤せず農民的純朴さを保持し得た」こととでトランスヴァールと比べて平静な進展を遂げることが出来たといい、ジャン・モリス曰くトランスヴァールの連中が「伝統的な生き方を頑固に守り抜くために」ケープから見て奥地に自前の国を建てただけあって「英国に限らずおよそあらゆる人々と敵対的だった」のに対してオレンジ自由国は比較的穏健、イギリスとも友好関係を取り結んでいたという。

 トランスヴァールの「南アフリカ共和国憲法」は全232条で吉田賢吉氏曰く「オレンジ自由国のそれに比し著しく膨大且冗長なもので之を通読するには余程の忍耐を要する」「言いたいことを無闇矢鱈に強調したり繰り返して法律の形態や構造等全く軽視して頗る不体裁なもの」でまた同氏の引くエイバース曰く「彼等がケープ植民地で忌み嫌ったものは尽く捨て去り、自分達が適当と思ったものは何でも彼でも取り入れた。それが(彼らの経験から)旧弊なものであろうと新奇なものであろうと問うところではなかった」という。これまた同氏に曰く政治組織は概ねオレンジ自由国と同じで民選大統領と官僚、参議員からなる「行政評議会」が行政を担当して立法機関たる国民参議会もやはり12名、そこに席を占めるための被選挙権は3年間選挙権を持っていた30歳以上60歳以下の「オランダ新教徒」であること、選挙権者は21歳以上のオランダ新教徒に限られてアフリカ人・カラードはその資格無し、宗教資格については後に撤廃されたが他の制限がキツくなっていったという。トンプソンもこの憲法を評して曰く「冗長かつ曖昧で体系だっておらず、本質と瑣末が奇妙に入り混じっていた」もので、「市民としての資格」は明記はされなかったが第9条「教会においても国家においても、非白人と白人住民との平等を一切認める用意はない」でその意思を示唆していたという。吉田賢吉氏によれば行政評議会は国民参議会に対して責任を負っており条約・協定にも国民参議会の同意が必須、大統領は国民参議会を通過した法律を拒否出来ない上に解散権も無し、官僚は国民参議会の議員にはなれず、ラントドロストやへームラート(地方参議)も国民参議会の同意の上で行政評議会が任命、裁判所は国民参議会を通過した法律を審査し得ないといった「国民参議会の優位」がこの憲法の3大特色のひとつで、更に国民をもって権利の源泉であるとする規定や司法においても国民こそが最後の審判者であるとする「民主主義」が第2の特色、そして条文の解釈が多様で法律規定の改変が容易いといった「独特な柔軟性に富むこと」が第3の特色であったという。「民主主義」とはいってもトンプソンによれば「国民的な主権にかかわる問題」が曖昧で、国民参議会こそが「国家の最高機関であり立法機関である」とされているかと思うとそこで議論される全問題は有権者の4分の3の賛成により決定されるとあったり、主権は白人全体にあるとの含意があったりしたといい、吉田賢吉氏によれば「独特な柔軟性」が後々濫用されて種々の紛争を惹起することともなったという。ジャン・モリス曰く「トランスバールは原理主義の国だった。真の国境線といえるものがなく、行政組織はごく未発達で、正規軍も存在しなかったが、神の定めた上下関係を信じていた……上に白人、下に黒人がいて、疑問を持つことなくモーセの律法に従うのである」。

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 さて「南アフリカ連邦」構想である。

 ケープ総督は1847年以来「高等弁務官(高等委員)」を兼ねていて、筆者には詳細がよく分からぬのだがこの職はケープのみならずアフリカーナーの2国家のことも管轄していたようであるのだが、吉田賢吉の引く1858年にグレイ総督から本国政府に宛てた報告(以下にいう「国」とはアフリカーナー国家だけを指すのかケープ及びナタールをも含めているのかは筆者にはよく分からぬ)に曰くその職は「現在欧人及び土人をひっくるめて諸国を結びつけている唯一の綱」であったから「総督の一寸した気まぐれや判断の失敗はすぐに土人戦争、土人の全般的蜂起、白人の叛乱を惹き起こす」「一国が或る戦争で勝ったとする。土人は分散する。しかし分散した土人が何処へ行くのか全く分からない」「土人は欧人の各国が弱小で各々孤立していることを知っているから抵抗したり反抗したりする」のであって、各国の側は「絶えざる陰謀、内部的動揺、革命、内乱の焦点となる」ばかりで「有能な弁護士、学識ある判事、能率の上がる司法制度などを全然欠いている。貿易も商売も萎縮するの外はない。国家の収入は僅少で国防費を捻出することは出来ない」ことがまた「周りにいる土人達の襲撃を誘発する」のであった(註6)。吉田賢吉氏自身の見解ではこれは本国向けに殊更に悲観的な言い方をしているようにも思えるが「しかしその核心は決して実情を離れたものではなかった」のであり、同年末頃に本国のリットン植民相から駐屯軍削減のために南アフリカのイギリス領を合同することは可能かとの照会を受けたグレイはその頃のオレンジ・バスト戦争に苦しんでいたオレンジ自由国の有力者の間で回覧されていた「ケープ植民地と合併しない限り永久に平和と繁栄を享楽することは出来ない」という内容の陳情書なるものを本国に転送した。この陳情書では合併実現の場合もオレンジ自由国側は国民参議会を残置して自治を行うこと、教会を保護すること、関税収入の一部を与えられること、「連州議会」の議席を与えられるべきことを求めていて、グレイ総督としても「頗る望まし」いものと思われ、オレンジ自由国側の国民参議会でも至急グレイと協議を開始しその件に関する委員会を設けるべきとの方向が示された。しかしそのことを聞いたグレイがその件をケープ州議会(註7)に諮ったところ本国側から「英国政府はどんな形式にしろオレンジ自由国に英国の主権を及ぼすような意向は全然ない」「合併を行うや否やは英本国政府のみが決定すべき問題である」との指令がなされてグレイの首も飛ばされることとなった。吉田賢吉氏によれば「当時ケープ州議会の英帝国内に於ける地位は至って低かった」のに「おこがましくも英帝国の領土を変更する大問題を審議するなどとは越権も甚だしい」と本国に思われたのではないかとのことである。グレイは1年後には本国の植民相がリットンからニューカッスルに交代したことで復職となるが、この件については2度と蒸し返さなかった。

 註6 以下この段落は吉田賢吉著『南阿聯邦史』169〜172頁による。

 註7 ケープ植民地において従来の立法参議会にかえて二院制議会が設置されたのはこの数年前である。それについては後述。

 デ・キーウィトによるならばケープとオレンジ自由国との合併話はオレンジ自由国側からグレイ総督への請願として切り出されたものだったようで、グレイとしてはこれをもってボーア人をイギリス支配下に引き戻し両者が共有している先住民地帯をイギリス単独の政策管理下に置く好機と見て本国に対し熱心にこの話を推奨したが、本国側は前回のカフィール戦争の費用が100万ポンド近くにも達していたことから植民地の増大を望まず、ボーア人やバスト人の住む地域となれば尚更であると考えたのだという(註8)。林光一氏も今回の話はオレンジ自由国側から要請されたものとしていて、その時点のオレンジ自由国はレソトとの戦争で疲弊していたこと、そして手続き上の問題で流産したのであるという吉田賢吉書と同様のことを述べている(註9)。鈴木正四氏によるとまず連邦案というのは前節で解説した「自治国家の自由な意思による連邦国家創設の声」に加えてイギリスとボーアの共通の問題としてのアフリカ人対策がその背景としてあったのであって、今回の話が潰れたのはその頃のイギリスがヨーロッパではクリミア戦争の直後で東アジアではアロー戦争、インドではセポイの乱といった「植民地統治の困難」を味わっていたが故であったという(註10)。しかし堀内隆行氏によるならば連邦案却下の背景として「この時期、自由放任はイギリスの植民地政策の基本となっていた。当時は他国に対して圧倒的な覇権を確立して」いたから、アフリカーナー共和国を独立国として認めておいてもそれに対する影響力を失うことがなかったのであるとのことである(註11)

 註8 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』81頁

 註9 林光一著『イギリス帝国主義とアフリカーナー・ナショナリズム 1867~1948』16頁

 註10 鈴木正四著『セシル・ローズと南アフリカ』17〜18頁

 註11 堀内隆行著『異郷のイギリス 南アフリカのブリティッシュ・アイデンティティ』16〜17頁

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 次にケープ植民地内部の動向である(註12)

 註12 以下この節はC・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』68〜69頁 吉田賢吉著『南阿聯邦史』145〜149頁 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』136〜141頁 ロバート・ロス著 石鎚優訳『南アフリカの歴史』55〜56頁 堀内隆行著『異郷のイギリス 南アフリカのブリティッシュ・アイデンティティ』15、145頁 峯陽一著『南アフリカ 「虹の国」への歩み』81〜83頁 北川勝彦著『南部アフリカ社会経済史研究』99頁 歴史学研究会編『世界史史料8 帝国主義と各地の抵抗Ⅰ』第1節収録の「ケープ植民地憲法」と270頁の前川一郎氏の解説による。

 ケープ植民地においては1834年に行政参議会と立法参議会が設けられていたが前者は官僚だけからなり、後者は市民参議員を含んではいたが官撰だったということは第二部で解説した。そんなものよりも「代議政府」を求めた市民たちは1841年に本国政府に陳情書を送付したが芳しい反応を得られず、1848年になると本国からケープに囚人を送り込むという話が持ち上がったことが市民たちを憤怒させた。この時代のイギリスの流刑植民地といえばオーストラリアであるが、南アフリカでも同じことをやろうという試みに対してトンプソン曰く「白人住民の全員……イギリス人もアフリカーナーも、西部の住民も東部の住民も、金持ちも貧乏人も……から、またとない激しい憤慨が返ってきたのである」。吉田賢吉氏によれば「曰く、ケープには既に土人あり、混血人あり、さらでだに人種的に錯綜せるところへこの上囚人連中が来られては混乱を来すこと火を見るよりも明らかである」と断固反対の気勢を挙げるべく「反囚連合」が市民たちによって立ち上げられる中、更にフェアバーンなる人物が立法参議会の市民参議員が官撰であることをも糾弾して人々の同調を得た。ちょうどその頃に新たに3名の議員の指名があったところで、おりしもヨーロッパでは1848年の二月革命の騒乱の最中だったことにも煽られた市民たちは議場から出てきた問題の3名の議員たち(フェアバーンたちからすれば指名を受諾したこと自体が裏切り行為だった)を袋叩きにし、その議員たちの像を作って火をつけ街中を練り歩いたという。この事件の前の時点で既に情勢を憂慮していたケープ植民地当局は本国に対し囚人を送らないよう要請、それを無視して1850年2月に入港してきた囚人輸送船は猛烈な抗議行動を受けての退散を余儀なくされた。ということでトンプソンに言わせるならば「ケープはオーストラリアの植民地のような、イギリスの囚人を捨てるごみ捨て場にはならなかった」のである。

 吉田賢吉氏は以上の話に続けて、当時ケープ植民地当局が市民の要望に答えて代議政府を許諾されるべきことを再三に渡り本国に進言するもなかなか許されなかったとしている(以下この段落は吉田書のみに依拠している)。板挟みとなったケープ総督スミスは立法参議会の市民議員の欠員補充の際には市民から適当な候補者を選出してその中から総督が任命するという案を提起、市民側の了承を得て5名の定員に対し23名が立候補する運びとなった。上記のフェアバーンに加えて既に何度か登場しているストッケンストロムも当選して1850年9月6日に参議会召集となるがストッケンストロムの提出した「真の代議政府組織の草案が議決されるまでは他の問題を審議しない」という動議が否決されるやただちに(聴衆の大喝采を受けつつ)退出し、これに従う者も3名いて参議会瓦解となった。ところがストッケンストロムとフェアバーンが「議会の草案」を持ってイギリス本国に出向いて帰ってくると「案外人気がな」く、総督の説得に「だらしなく屈服して」改めて参議員に任命されることとなったというのだが、何故に人気がなかったのかは吉田氏も説明していない。「議会の草案」なるものが一般の市民から見て微温的に過ぎたということなのだろうか。

 そしてこれまた吉田賢吉氏によれば1851年10月に再び参議会が開催され、更に「1854年に至り英本国政府も遂にケープに代議政府を與えることに同意した」とのことである。しかしロスによれば実は既に去る1848年にイギリス本国政府がケープ植民地に「立法議会制度」を導入すると宣言していて、選挙権に財産資格を課すことが既定方針となったもののその額について紛糾した末の1853年にそのことについての法案が可決されたのだという。吉田賢吉氏は1854年にケープでの「代議政府」が認められ、続いて1872年に「代表政府」が認められたと記していて、前者がロスのいう「立法議会」のことを指しているらしいのだが(年が違うのは単なる間違いなのかどうなのかは筆者には分からぬ(註13))、1872年の話はまた後でするとして、とりあえずは1848年に立法議会制度導入宣言を行うに至るまでの本国側の動向である。まずロス曰く1830年代の本国の歴代植民地相たちは南アフリカの政治を奴隷の元主人やアフリカ人を敵視する者に任せることは出来ないとの見解からケープの自治強化に反対していて「現地ケープ政府のリベラルな政治家」もこれと同意見だったのだが、1840年代になると本国で政権を握ったホイッグ党が1832年成立の改正選挙法を南アフリカにも導入すれば「イギリス同様に所有財産に基づく民主主義を導入することができる」と思い込んだところにケープの現地政界では「リベラル派が保守派に追い落とされ、オランダ人がイギリス政府の方針に譲歩するようになり、それまでの両者間のエスニックな緊張感が和らいだ。なぜなら、オランダ人エリートたちは、たとえどんな選挙制度になろうとも選挙に勝てると先を読んでいたからである(註14)」ということで1848年の立法議会制度導入宣言に至ったのだという。デ・キーウィトによるならば1840年代のイギリスでは植民地の入植者たちにもっと自治を与えるべきとの自由主義的な意見や、自治・独立採算が可能な植民地を本国が統治するのは無駄だという意見、それに絡んで現地入植者の野心にイギリス軍が使われるのは困るといった意見……入植者はアフリカ人との戦争に際してイギリス軍をあてにするばかりで自分の責任を果たそうとしない(植民地の統治に責任を負っているのは本国であって自分たちではないのだから当然そうなる)と考えられていた……が提示されていたこと、ケープの現地での羊毛業の発展や人口増、歳入改善といったこととで1845年にはケープ世論も本国植民地省も「住民自治の制度の時期が到来したという点で一致していた」という。トンプソンによるならば「イギリスの工業力は絶頂期にあり、生産と貿易と財力において外国人と競争しても負けない能力に自信をもっていたイギリスの実業家たちは、植民地という従属物の価値を疑問視していた。公的な政治的絆が切れることになっても、住民は自分たちの必要を満たすためにイギリスの製品を輸入し、自分たちの生産物の市場をイギリスに求めるであろう。それなのに、海外領土を統治し、その治安を維持するためにわれわれの税金が使われなければならないのか」という意見をホイッグ党が支持したことによってケープの自治強化容認へと舵が切られたのだという。

 註13 また更に北川勝彦著『南部アフリカ社会経済史研究』99頁では1854年に「代表政府」が置かれたと表記している。研究者によって訳語がバラバラである。

 註14 前述したようにケープでもイギリス系よりボーア人の方が数が多い。

 で、トンプソンは囚人船が来た頃に本国政府からケープの現地に対して「代議制機関をつくるための憲法上の枠組み」を提案するよう求めていたとしている。それはつまりロスの言う「立法議会制度」導入宣言に基づく行動だったのだろうと思われるが、とにかくトンプソンによるとそれについてケープ側で協議がなされている間に反囚連合が崩れて「エスニックな、人種的な、そして階級的な亀裂が目立つようになった」、というのは代議制機関というのは要するに植民地議会のことで、その議員を選出するための選挙権資格について、ケープの白人社会の中では少数派ではあっても経済力に優るイギリス系は厳し目の財産資格を、数は多くても貧乏人の多いアフリカーナーはその逆をそれぞれ要望したということで、ただし後者も有色人を排除するためには厳し目の基準にした方が良さそうだという方向に傾いていったのだが、ストッケンストロムをはじめとする少数の「有力白人リベラル」や『コマーシャル・アドバイザー』紙の編集者ジョン・ヘェアベン等が有色人の一部にも参政権を与えるべしと唱え、結果的に総督代理チャールズ・ダーリングと法務長官ウィリアム・ポーターによって「リベラルな解決法」が選択されたことにより1853年をもってイギリス本国政府からケープに対して二院制議会の設置が認められたのだとする。フェアベンというのは吉田賢吉書に見える「フェアバーン」と同一人物とだと思うが筆者には確言しかねる。堀内隆行氏によると有色人の選挙権が認められたのは「イギリスによる、オランダ系への対抗目的の協力者づくりだった」といい、吉田賢吉氏によると「これは土人の権利を保護しようとする英本国政府の自由主義植民地政策の現われである」という。

 上記に「憲法上の枠組み」とあるようにこのことに関する法案は正式名称「希望峰憲法令」、通称「ケープ植民地憲法」と称され、歴史学研究会編『世界史史料』によると1852年4月3日に布告され1853年3月2日の修正を経て7月1日に発効した。「希望峰」とあるのはケープ植民地の正式名称を「希望峰植民地」というからである。前川一郎氏にいわせれば元々イギリスはケープ植民地に対してオランダ東インド会社時代のそれを引き継いだ「最小限の行政機構」を提供するのみだったのが19世紀前半のカフィール戦争や奴隷解放を遂行していく中で「この地にある程度の法と秩序を打ち立てる必要に迫られるようになった」ことで「いよいよ本格的な植民地経営と権力機構の確立を余儀なくされた」結果が今回の憲法であったのであるという…、ともあれこれをもって成立したケープ議会は本国の拒否権を認めた上で国内(ケープ植民地内)問題に関する立法権を持つ「立法院」と「衆議院」からなって前者は「判事長」を議長とし15名の民選議員からなり予算修正権を有し、後者は48名の民選議員と5名の高級官吏からなる。高級官吏は両院での討論権を持つが投票権は無し。選挙権を有するのは選挙人登録日に至る12ヶ月の間に25ポンド相当の土地を所有してそこに家屋等の建造物を単独もしくは共同で所有しているか前記12ヶ月間に年間50ポンド以上の俸給(もしくは25ポンドの俸給と無料の宿所・食事を支給されている)を得ている成人男子で、人種制限は無しというのがアフリカーナー国家との大きな違いである。ロスによればこのことによって「イギリス人や大半のオランダ人」のみならずカラードやコイサンも「有権者になると思われた」こととて当時の世界で最も「民主的」な選挙制度と考えられていたといい、前川一郎氏曰く「非人種的選挙権の存在は、同時代の他の植民地の状況と比較しても、さらには後のアパルトヘイトの展開を考えても大きな意味をもっており、植民地国家の正当性を表明する“ケープ・リベラリズム”の根拠として、当時から衆目を集めた」、峯陽一氏曰く「財産や性別によって選挙権が制限されることなど、今日では容認できるものではないが、イギリス本国でさえ、男女の普通選挙権が認められたのは1918年である。その後の南アフリカの歴史を考えれば、当時のケープ植民地で白人と黒人の選挙権が形式的にせよ平等だったことは、大きな意味を持っている」ということになりはするが、トンプソン曰く「リベラルな視点から見れば勝利であった」といい得るこの憲法の下ではしかし経済的にも社会的にも白人の風下に置かれていた非白人の有権者(有権者を登録し選挙を実施する機構を白人に握られていた)が全有権者の15%を超えることはなく、ロスによればまさかその後66年間のケープ議会史においてカラードの議員が1人も現れないとまでは誰にも予測し得なかったのだという。峯陽一氏も今回のことで黒人の立場が大きく変化した訳ではないと補足しつつ、しかし同時期のアフリカーナー共和国では白人でない者はいくら財産を有していても市民権を得られなかったのは「ケープ植民地で達成された水準からすれば、大きな後退であった」とも述べている。

 堀内隆行氏は前述のように非白人への選挙権付与がイギリス系によるオランダ系への対抗のためだったといいつつ、その後は「ケープ・リベラリズムは変質した」と述べ、「リベラリズムの構成要素として、イギリス系とオランダ系の協力にもとづく入植者ナショナリズムが前面に出るようになる一方、非ヨーロッパ系の権利の問題は二次的な意味しか持たなくなった」と述べている。「入植者ナショナリズム」についてはまたおいおい触れていくとして、前川一郎氏も上の段落に引用した記述に続けて曰く「非人種的選挙権といっても、それはあくまで形式的な“リベラリズム”であり、白人住民の優位を脅かすものでは決してなかった」ということで、せっかくの「原住民」票も「原住民の友」と称される白人議員に流れていたと補足している。1856年にはさっそく雇用に関して契約違反を刑事犯扱いし労働拒否や雇用主に対する暴言に投獄で報いる法がケープ植民地議会を通過、本国政府からも何のクレームもつけられなかった(本国の自由主義もその頃には衰えていた)といい、1857年にはアフリカーナーの信奉するオランダ改革派教会において白人とカラードの分離が行われ、1861年には公立学校からカラードの放逐がなされることとなった。ただ「原住民の友」に関しては北川勝彦氏が「財産の資格が厳格でなくまた人種差別もない」憲法下の「東ケープでは、市場の動向に敏感に反応する比較的裕福な黒人農民層が白人の商人や専門家を政治的代表として承認した」といった動きがあったことを指摘している。それと、議会は出来ても「責任政府」が出来るのは1872年まで待たねばならないし、総督・高等弁務官職もそのまま残っていたことはいうまでもない。

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 ところで第八次カフィール戦争(ロスによると捕虜は即座に処刑、コーサ人の農場は破壊、牛は押収)後の東部地域ではトンプソン曰く「忠実」なアフリカ人には比較的気前よく土地の所有を認めつつそうでもない者は狭い土地に詰め込み、イギリス領カフラリアの土地の多くは白人のために保留、1854年12月にケープ総督グレイの打ち出した方針に基づき首長たちを俸給を貰い白人地方判事に対して責任を負う官吏に仕立て、アフリカ人民衆の(随所に散らばる白人入植地を模範とする)「文明化」を推進すべきものとしていた(註15)。アフリカ人にとっての最大の財産は牛なのだが、1855年になると今度はその牛の間に肋膜肺炎というヨーロッパから持ち込まれた病気が大流行(ロスは1855年に急速に広まったと記し、峯陽一氏は1853年に感染源のバクテリアがヨーロッパから伝播したとする)してロスによれば地域によっては牛の3分の2が死に、それまで多数の牛を持っていた首長もその大半を失ったということで前例のないほど混乱したコーサ社会は「これらすべての災厄は土地が悪病に汚染されていることを示しており、土地を癒すためにはなんらかの思い切った手段を発見しなければならな」いという状況に立ち至ったという(註16)

 註15 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』157〜158頁 ロバート・ロス著 石鎚優訳『南アフリカの歴史』60頁

 註16 ロバート・ロス著 石鎚優訳『南アフリカの歴史』60頁 峯陽一著『南アフリカ 「虹の国」への歩み』74頁

 重複が多くて申し訳ないがこのことに関する諸書の解釈をいちいち紹介しておく…、トンプソンによれば全ての首長国に災難が広まって牛の80%を失ったところもあったといい、敗戦と牛の病とで大混乱に陥ったコーサ人たちはまずは病牛の移動制限や今回の不幸をもたらした呪術を使ったと思しき個人を死刑にしたりしていたが、やがて「呪術や不浄、犠牲といった在来型の観念」と宣教師の説く「罪と復活の観念」とをミックスして「もしも、この災難を引き起こした不浄が生き残った牛と穀物を大量に犠牲に供することで清められるならば、呪術は根絶され、祖先たちが戻ってきて、“幸福な環境”を回復できるかもしれない」と考えるに至った(註17)。峯陽一氏はこの考えを「死者は常に生者のそばにいるというコーサ人の伝統的な宗教観」と「キリスト教の贖罪と復活の観念」との結びつきであると解釈し、そのことによって「あまりにもコーサ人の心の琴線に響くもの」となったその考えが以下に述べるような強力な波及力を持つことになったのだとしている(註18)。「牛と穀物を大量に犠牲に供する」というのは具体的にはデ・キーウィトによれば「部族の畜牛を殺し、穀物を種用の分まで残らず食いつくさなければならない」「そうすれば、部族の霊がその力を天国で書き記し、白人を海へと吹き払う嵐を引き起こし、彼らの土地を畜牛と穀物で豊かにする日が来るだろう」(註19)ということで、それは予言者たちによる宣告として人々に下された。デ・キーウィト続けて曰く「豊穣の夢を一番見たがるのは窮乏にあえぐ人々である」「大地から現れるはずの見事な畜牛」が「やせこけた病気持ちの家畜に代わるはず」であり「芽を出すとまたたく間に熟す穀物」がいまだかつて経験したこともない豊作をもたらす筈だし、それより何より白人が海へと追い払われるという奇跡が敗戦続きのコーサ人たちに「一番痛切に希求された」という(註20)

 註17 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』158〜159頁

 註18 峯陽一著『南アフリカ 「虹の国」への歩み』75頁

 註19 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』79〜80頁

 註20 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』80頁

 トンプソンによればそのようなことを何人かの予言者が述べたてていたが、その中で最も有名なのはカイ川の東10キロほどのところに住んでいたノンガウセという16歳の少女の前に現れて自分たちはずっと昔に死んだと者だと名乗ったという2名の男性が語ったという話で、曰く「お前たちは、死者の世界から共同体全体がふたたび立ち上がろうとしていると、人びとに告げるのだ。そして、いま生き残っている牛は、殺さなければならないと伝えよ。人びとが呪術を使ってきたからには、これらの牛は汚れた手で育てられたのであるから。土地を耕してはならない。深い穴(穀物庫)を掘り、新しい小屋を建て、広く丈夫な牛囲いを備えつけ、牛乳袋をつくり、ブータの根で戸をこしらえるがよい。呪術師に見破られる前に、自分から呪術をやめなければならない。これが首長たちの言葉であると人びとに伝えるのだ」(註21)。ロスによるとノンガウセの前に現れたのは「大きな胸板」と「永遠」という名の2名の神だったといい、「生き残ったすべての牛を殺し、すべての穀物を破壊してしまえば、土地は清められ、先祖によって見事な牛と作物がもたらされ、白人は海中に沈められるだろう」と告げて、そうすれば来たる1857年2月17日の朝に先祖が牛を連れて帰ってくると伝えたのだという(註22)(トンプソンはその日付を2月18日としている。それについてはまた後で述べる)。峯陽一氏によるとノンガウセは彼女の周囲にいたキリスト教徒アフリカ人の影響を受けていたらしいともいう(註23)

 註21 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』159頁

 註22 ロバート・ロス著 石鎚優訳『南アフリカの歴史』61〜62頁

 註23 峯陽一著『南アフリカ 「虹の国」への歩み』75頁

 コーサ社会はこの予言を信じる「アマタンバ」と信じない「アマゴゴチャ」の2派に別れて対立、当初は懐疑的だったサリーリ首長(ノンガウセはその顧問の姪)が調査の上で正しいと確信したことで他の多くの首長たちもこれに倣ったが、トンプソンの引くJ・P・ペレイスによればどっちの派に属するかは血縁関係・年齢・性別・社会階級とは明確な関係がなく、アマタンバの方は「自分たちの生活様式の集団的な防衛において……首長と平民を団結させていくという、真に民族的な性格の大衆運動」に参加しているのであり自分たちの民族全体の幸福のために自分の牛を提供できるような旧秩序の忠実な守り手であると考えていたのであって、逆にアマゴゴチャの方は自分たちは賢いと自己認識していたが心中では牛を殺したくないという思いがあったのだという(註24)。峯陽一氏もペイレスを引きつつ(註25)前述の肋膜肺炎を現代の狂牛病に置き換えてみれば当時のコーサ社会の動揺もよく理解出来ると延べ、アマタンバは伝染病の対処のための一斉処分を予言のおかげで「私欲」を捨てて淡々と実行出来たのであり、一方のアマゴゴチャの存在は共同体の利益よりも私有財産を重んじ「迷信」を拒否しようとする層が当時のアフリカ人社会に既に存在していたことの証であるとしている(註26)

 註24 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』159〜161頁

 註25 峯陽一氏は「ジェフリー・ペイレス」と表記しトンプソンは「J・P・ペレイス」と表記している。どちらかの誤記なのか別人なのかは調べるのが面倒なので誤記と見做す。

 註26 峯陽一著『南アフリカ 「虹の国」への歩み』74〜75頁

 「部族の霊もやはり失敗した」(註27)。結局アマタンバ(コーサ社会の多数派を占めた)が自分たちの牛40万頭も殺してしまった=生活の糧を失ったことで峯陽一氏によれば4万名が餓死するという大飢饉に発展、更に3万名が自分たちの土地を離れて白人農場で働く身となったことで、カイスカンマ川とカイ川の間のコーサ人口は1857年の10万5000名から翌年には2万6000名にまで激減したといい、トンプソンによればケープ植民地に移って農場や町・村での労働者となったのが3万3000名、牛の殺戮と穀物の破壊が最高潮に達したのは問題の予言が実現するとされていた1857年2月18日の新月で、その実現の日がどんどん修正されたことで更に混乱が続いたという(註28)。デ・キーウィトは餓死者は数千、一説に2万5000、植民地に流れて生きるための仕事を請い求めたのが数千としている(註29)。ロスによれば牛の9割を殺して穀物も捨てたことで餓死者4万、ケープ植民地に流れて労働者となった者4万である(註30)。またトンプソンによれば1857年の大半の時期を通じてアマタンバがアママゴチャの食料を奪うことともなったことでコーサ社会は無政府状態化、これに乗じたケープ総督グレイがカフラリアの首長たちの実権を地方判事とその部下のアフリカ人の手に渡るようにした(註31)。カフラリアというのはカイスカンマ川とカイ川の間の地域のことで、第七次カフィール戦争の時にケープ植民地とは別枠のイギリス領となったことは第三部で説明した。峯陽一氏によると18世紀以来のカフィール戦争によってその支配圏を徐々に削られつつも何とか持ちこたえていたコーサ人の社会の自律性は今回の大惨事によって大きく損なわれたのである(註32)

 註27 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』80頁

 註28 峯陽一著『南アフリカ 「虹の国」への歩み』74頁 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』161頁

 註29 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』80頁

 註30 ロバート・ロス著 石鎚優訳『南アフリカの歴史』62頁

 註31 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』161頁

 註32 峯陽一著『南アフリカ 「虹の国」への歩み』73〜74頁

 峯陽一氏の1996年の文章によると現代コーサ人の庶民の間ではこの牛殺し騒ぎはグレイ総督の陰謀だったという説が支配的で、実際にはその確証はないもののイギリス人がこの騒ぎを利用したことは確かであって、アマゴゴチャの土地もこの機に乗じて乗り込んできたケープ植民地軍に奪われ白人入植者の土地に塗り替えられていくこととなったというが、同氏の2010年の文章では「現代のコーサ人の中には“迷信”を信じた祖先を恥じる気持ちも強いが、事件には謎が多く、今でも対立する歴史解釈がある」とのことである(註33)。ロスも「植民地政府にとっては、“牛殺し”はコーサ人を賃金労働者にするめの好機であり、コーサ人自身による農場破壊は白人入植者用の新たな土地を得るための好機であった」と延べ、「牛殺し事件は、コーサ人にイギリス植民地を攻撃させるために首長たちが仕組んだ陰謀である」というその頃になされていた説を信じるフリをしたグレイ総督が有力な首長たちを逮捕させていたといい、そのやり口があまりにも手際良かったせいでノンガウセの前に現れた神の正体はグレイ総督その人だったと考えているコーサ人は少なくないとしている(註34)。ケープ植民地に移り住んだ連中についてはデ・キーウィト曰く彼らを追い立てたのは飢饉だけではなく「それは、もはや、彼らが自分たちの生活様式を守ることも維持することもできないという自覚だった。それは経済的服従の行為だった」(註35)。ロスは牛殺し事件の顛末を語った上で「とりわけ伝承がメタファーとして語り伝えられるように、以上のことは歴史的事実としてではなくメタファーとして解釈すべきだろう。牛殺しを境にして、南アフリカの新しい時代が幕を上げる。コーサランド(註36)で起きたほど過酷ではなかったが、白人に土地を奪われたかつてなく多数のアフリカ人が故郷を去って労働者となり、熱心に宣教師の声に耳を傾ける、ということが南アフリカ各地で繰り返されるのである」と述べている(註37)。ただ北川勝彦氏は確かにこの頃の南アフリカでは賃金労働が普及するようになってはいたが、それは白人による土地の奪取と牛殺しだけで説明し尽くされる訳ではないのであって「初期においては、賃金労働で得た収入でアフリカ人は、銃と家畜をもって帰郷できたし、新しい農場を入手できたのである」としている(註38)

 註33 峯陽一著『南アフリカ 「虹の国」への歩み』76頁 峯陽一著「イギリス人、コーサ人、“ゴールドラッシュ”の時代 南ア史の大転換」『南アフリカ史を知るための60章』第3章

 註34 ロバート・ロス著 石鎚優訳『南アフリカの歴史』62頁

 註35 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』80頁

 註36 「コーサ人の土地」のこと。

 註37 ロバート・ロス著 石鎚優訳『南アフリカの歴史』62頁

 註38 北川勝彦著『南部アフリカ社会経済史研究』100頁

 それと牛殺し運動はムフェングには波及しなかったのだが、カフラリアには1857年のうちにクリミア戦争の帰休兵を多く含む約4000名のイギリス人とドイツ人が、続いて1858~1859年に約2000名のドイツ人が入植した(註39)。吉田賢吉氏によると現在(吉田氏が『南阿連邦史』を書いた1940年代)ではドイツ語は殆ど消滅したがドイツ起源の地名を冠した町村は残っているそうである。カフラリアは1866年1月1日をもってケープ植民地に吸収、後には「シスカイ」と呼ばれることになる。カイ川の更に向こう側の地域は「トランスカイ」と呼ばれることになってそこにまでは白人入植地を作る訳にはいかなかったが、シスカイのアフリカ人たちは自給も叶わなくなってケープ植民地の白人のための労働力を提供して生きて行くこととなる(とトンプソンは述べている。牛殺しの結果としてケープ植民地に移住した連中とシスカイに生活拠点を置いたままケープ植民地に働きに行くようになった連中とは当然分けて考えるべきでありここでトンプソンが言及しているのは後者についてと思われるが、上の段落で諸書の挙げる「牛殺し事件の後にケープに流れた人数」がそこを厳密に区別して数えているかどうかは筆者にはよく分からぬ)。白人入植民に関してはデ・キーウィトによれば1844~1847年に「労働者4300名」、1857~1862年に「ドイツ人とイギリス人1万2000名」だったといい、ただしそれらはカフラリアに限らず「ケープ植民地への入植民」であって、同時期のオーストラリア(南アフリカより遥かに遠い)やカナダへの移民の数とは比較にならず、1820~1860年の間の入植民は年平均750名以下、なんとなれば有色人を安く使えることとて1840~50年代の農業賃金の平均が1ヶ月につき食事付きで10~20シリングに過ぎなかったため新規の移民に二の足を踏ませていたからだといい、故に「新しい移民のエネルギーと積極的な意欲はイギリスの他の大植民地にたっぷりそそがれたほどには、南アフリカにはそそがれなかった」「先に定着した住民が新規参入者から受ける精神衛生上好ましい揺さぶりをケープは受け損なった」のだそうで、そこに内陸部で凝り固まっていたボーア人のトレッカーたちの気質がケープに逆流してきて「その思想の特徴を南アフリカ全体に刻印した」のだという。またこれもデ・キーウィトによるとケープからハイフェルトに対しては「先人の経験的姿勢に挑戦し、その同質性を解消させ、分離状態や孤立性を打ち破るような、開拓者の第二波が続くことはなかった」としているが、トンプソンによればハイフェルトにも「ケープ植民地から新参者が流れ込んできていた」そうである。

 註39 以下この段落と次の段落は吉田賢吉著『南阿聯邦史』166頁 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』160〜162、193頁 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』72〜74頁 コトバンクの「シスケイ」「トランスケイ」による。

 ハイフェルトの話は後でするとして、デ・キーウィトによればオーストラリアでは移民導入のための十分な収入があったのにケープでは例えば入植者から取り立てる免役地代が1850~1870年の間の歳入の1割を超えることはなく、1860年のニューサウスウェールズ(オーストラリア南東部)の収入はケープの地代収入の12倍だったといい、そんなことになったのはそれ以前の1812~1840年の間に3150万エーカーの土地が4万6000ポンド未満で売却されていて当時の免役地代は年当たり1万3818ポンド、1842年時点で残っていた下付(註40)適地500万エーカーは既に下付された土地や荒地の間に分散していて把握もままならず、土地の大半はろくな測量もなされないまま(測量したとしても担当者が無能無学でまともな技術もなかった)下げ渡されていたということで、「ケープ植民地は土地財産の大部分を疲弊させてしまっていたことは明白である」からであったという。

 註40 「下付」というのはデ・キーウィト書にある表記である。「売却」ではなく「下付」なのは1820年の移民が入植時に1人につき100エーカーの土地を購入ではなく賦与されているので、そういう事例を含めて「下付」と呼んでいるのではなかろうか。

 ただし新規の移民は少なくてもケープの白人の数はそれなりに増えていて、それは出生率が高かったおかげである(註41)。対してアフリカ人の方はというと、以前はかなり豊かな農産物や食肉に恵まれのんびりした生活を送っていた彼らはもはやお粥と僅かな肉・生鮮食品等の偏ったカロリー源で食い繋ぐようになり、そこに覆い被さる税金を支払ったり新しい生活様式として定着して来た工業製品や嗜好品を買うために労働者として白人の下で働くしかなくなる訳だが、その仕事レベルはデ・キーウィト曰く「労働力を求める植民者が苦言を呈した怠惰は、しばしば栄養失調からくる無気力だったと言うのは当を得ている」というような体たらくとなる(註42)。これまたデ・キーウィトによれば東部辺境地に新たに白人を入植させることはグレイ総督曰く先住民に白人という新たな隣人から「勤勉の習慣」を学ばせ彼らをして「植民地の力と富の源泉」となさしむることともなり、白人の下で見習い奉公をし「神聖で気高い労働」をすることで部族の原始的な習慣や呪術師の影響から完全に引き離されればそれだけ早く彼らは解放されるのである……、「こうした議論は、必ずしも、白人が先住民労働力を求める貪欲さを弁解しようとしてもっともらしく唱えられたとは限らない。ヨーロッパ人に雇われることこそ野蛮な生活から脱出する方法だと実際、信じられていた。ほんの少数の人々だけが、先住民は実は野蛮な生活から貧窮生活へと移行したにすぎないということを見抜いたが、彼らの言うことに耳を傾ける者はほとんどいなかった」「先住民が裸の代わりにぼろをまとっていても、それは落ちぶれたというより、むしろ進歩のしるしだった」、というのは「白人の農村社会自体が、貧困と富裕の区別をつけ難かった」からで、そもそも南アフリカの白人と黒人とは元々「経済的習慣が類似していた」がために戦ったのであり、戦いに敗れた先住民は白人との類似性の故に白人との「協同関係」を築くこととなった……、「牧夫であり農夫であった先住民は使用人として白人社会に吸収され、その仕事は相変わらず牧畜と農耕だった」「先住民とヨーロッパ人との緊密な経済的連携をいっそう強固にしたのは、両者の非常に強い互換性だった。この互換性は、対立よりも、両者の緊密な経済関係を解き明かす、はるかに重要な鍵だった」「ここに、南アフリカが、カナダやオーストラリアと同じだけの移住者を引き付けられなかった理由が見られるかもしれない。実際には、かなり多数の移住者を受け入れていた。それは、内陸からの移住だった。そして、南アフリカの移住者は黒人だったのである」(註43)ということなのだそうである。

 註41 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』74頁

 註42 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』84〜86頁

 註43 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』87〜90頁

   ナタールの情勢  (目次に戻る)

 ナタールの情勢はどうであったか(註44)

 註44 以下この次の段落は吉田賢吉著『南阿聯邦史』161〜162頁 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』186〜187、189頁 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』74〜75頁 林晃史著「南部アフリカ」 星昭、林晃史著『世界現代史13 アフリカ現代史1 総説・南アフリカ』67頁による。

 ナタールではイギリスによる併合がなされた1843年から1847年まではケープ植民地の一地方として扱われていた(と吉田賢吉書にはあるが林晃史氏によるとナタールは1845年に「ケープ植民地の一州となった」という。「一地方」と「一州」が同じ行政区分なのか否かは筆者には分からぬ)がその1847年に「ナタール副総督」が着任してこれと3名の官僚からなる「諮問評議会」が行政を統括、1856年に正式のイギリス植民地となって憲法も与えられ、官選議員4名と民選議員12名の「立法参議会」が発足した。吉田賢吉氏に曰く「ナタルはケープと密接な関係をもって居り民権獲得の運動は概ねケープに於て行われ、その成果は、多少遅れることがあっても結局ナタルに拡充された」のだが、トンプソン曰く「選ばれた議員が自らの権力を利用して、それぞれの選挙区の利益をはかったとしても驚くにはあたらない」。1849~1851年の間にジョセフ・バーンという人物の音頭で中産階級を主力とする約5000名の移民が到着、トンプソンによれば彼らは少額資本の供託と引き換えにナタールまでの移送と1名につき20エーカーの土地を得られたが概ね農民としては立ち行けずに帰国するか、ダーバン(ポート・ナタール)ないしピーターマリッツバーグの町に移り住むか、或いはハイフェルトへと流出したという。デ・キーウィトによるとイギリス当局はナタール併合の際にボーア人の流出を食い止めるために各人に6000エーカーの土地を本人居住の上で7年間転売しないとの条件付きで割り当てたが効果薄く、そこでそうした条件を外してみたもののボーア人の多くは割り当て地を相場師に売り払ってハイフェルトへと退出した……、という具合にナタールでは「当初から不在地主と投機的土地所有が植民地の土地所有の弊害だった」ということで、併合後12年のうちに300万~400万エーカーの土地が投機家の手に渡ってしまって弱小移民には手が出せなくなり、1857年に公的支援で300名の移民を招致し136万エーカーの土地を割り当ててみたがその大半はやはり投機家の手に渡ったといい、1864年には土地が無さすぎて移民を奨励出来ないという報告がなされていたとしている。吉田賢吉氏もデ・キーウィトと同じことを書いて、ただし「相場師」「投機家」ではなく「土地仲買人」と表記している。1864年に在住のヨーロッパ人が土地不足を嘆いている傍で120万エーカーの土地が土地仲買人の手元に死蔵されていた、とも。

 その一方でナタールがイギリス領となる以前のこの地における戦乱では多くのアフリカ人が離散していたというのは第三部で詳述した話、この頃には彼らも次第に帰還して来てその数は10万近くにも増大、その扱いが当局の頭痛の種となっ来ていた(註45)ところの1846年、原住民担当官としてセオフィラス・シェプストンという人物が着任した。シェプストンはケープ植民地の「1820年の移民」の第二世代として南アフリカに育ちアフリカ人の諸言語に堪能、「原住民を植民者から守る」という建前のもとにナタール植民地の一部を「居留地」に指定してアフリカ人を隔離的に住まわせ、彼らの伝統的首長に白人地方判事の監督下で一定の自治を営ませる「シェプストン・システム」を構築した(註46)。ただし「伝統的首長」といってもシェプストンの見るところムフェカネ等の混乱のために伝統的首長を持たないアフリカ人の方が多かったため、それらの者たちには植民地当局が選んだ地元有力者が新首長として与えられたし、イギリス人の総督(註47)がアフリカ人首長の頂点に立つ「最高首長」を兼任。アフリカ人首長は配下のアフリカ人たちに対してではなく植民地政府に対して責任を負うこととなる(註48)。自治というのは彼らの慣習に基づく行政や裁判といったところで、白人による産業指導や教育等も行われる(註49)。峯陽一氏は植民地当局がアフリカ人の伝統的な慣習法を「少なくとも形式的には尊重しようとした。ただし、ひとたび植民地当局に反旗を翻した首長たちは、世界最強のイギリスの軍事力で無慈悲に弾圧されることになる」といいつつ「アフリカ人首長は、自分が治める共同体の内部の出来事については、かなりの程度まで自分の裁量で処理することができた」と記す(註50)。トンプソンによるとアフリカ人の慣習法というのはシェプストンの編んだものだったといい(註51)、永原陽子氏によるとそれは「植民地政府およびそれに協力する民族学者たちによって採集され成文化されたもの」で、植民地政府が首長を介してアフリカ人を統治する方式はその後の他の地域の植民地でイギリスが採用する「間接統治」の原型ともいえるし、南アフリカ限定の話としても「アフリカ人を空間的にも法的にも植民者から隔離する考え方は、後のアパルトヘイトの核心となるものである」とのことである。(註52)

 註45 吉田賢吉著『南阿聯邦史』162〜163頁

 註46 峯陽一著『南アフリカ 「虹の国」への歩み』88〜89頁 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』188頁 歴史学研究会編『世界史史料8 帝国主義と各地の抵抗Ⅰ』313頁の永原陽子氏の解説

 註47 峯陽一氏は「イギリス人の総督」と表記し永原陽子氏は「植民地副長官」と表記している。他書と照らし合わせるにナタールの最上位者は「副総督」だったようで、書籍によってはそれを「総督」と表記しているようである。本稿ではその都度に参考にした書籍の表記を引き写すこととする。

 註48 峯陽一著『南アフリカ 「虹の国」への歩み』88〜89頁 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』188頁 歴史学研究会編『世界史史料8 帝国主義と各地の抵抗Ⅰ』313頁の永原陽子氏の解説

 註49 吉田賢吉著『南阿聯邦史』163頁

 註50 峯陽一著『南アフリカ 「虹の国」への歩み』89頁

 註51 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』188頁

 註52 歴史学研究会編『世界史史料8 帝国主義と各地の抵抗Ⅰ』313頁の永原陽子氏の解説

 アフリカ人は家屋税や結婚税、高率の関税が課せられて何かやらかした時の罰金も高額、居留地外に住むアフリカ人には白人地主への地代支払いが義務付けられて、逆に植民地当局がアフリカ人のために使う予算はアフリカ人から取り立てた金額の20分の1にも満たなかったという(註53)。これは立法府の議員たちとジャーナリズムの働きかけによるもので、アフリカ人たちは自分たちの家屋にかかる7シリングの税を払うことで年間1万ポンド以上を納めていたのに、彼らのために使われる予算は憲法に明記されていた年間5000ポンドを超えることはなく、時にはそれにも満たないこともあったという(註54)。トンプソンによればシェプストンとしては西洋風の教育と経済的発展によってアフリカ人を文明化しようと考えてはいたのに財政上の問題でそうもいかなかったといい(註55)、その「財政上の問題」というのはつまり上記のように立法府とジャーナリズムの要求でアフリカ人のための予算をろくろく認めてもらえなかったということのようである。しかし吉田賢吉氏によるならばその程度のもの……同氏によるならば「ナタル当局の財政が頗る貧弱で経費を出し渋った」せいなのだという……ではあっても「獰猛で狡猾で手癖が悪く浮浪性の」アフリカ人たちを「漸次向上せしめる上で少なからず貢献した」とのことである(註56)

 註53 峯陽一著『南アフリカ 「虹の国」への歩み』89〜91頁

 註54 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』189〜190頁。ただし上掲嶺陽一書91頁によると1872年に「アフリカ人のために割り当てられた予算」は5891ポンドだったそうである!!

 註55 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』188〜189頁

 註56 吉田賢吉著『南阿聯邦史』163頁 峯陽一著『南アフリカ 「虹の国」への歩み』91頁

 ナタールの北方のズールー王国では以前にボーア人の支援で王位についていたムパンデ王がこの頃、岡倉登志氏によれば「イギリスの傀儡的存在」(註57)として、ロスによるとナタール政府の意向に従うことなく国力の強化に努めていた(註58)。1856年にはムパンデの後継者の座(ムパンデは1872年まで生きるが)を巡る2人の息子セチュワヨとムブヤジの内戦でセチュワヨが勝利、ムブヤジ派の数千の人々がナタールに逃れて来るという出来事があり、これに限らずナタール植民地の域内で増大を続けるアフリカ人の住む居留地は1864年には同植民地の総面積1250万エーカーのうち200万エーカーを占める42ヶ所に達し、他に17万5000エーカーを占める21の伝道基地が設定されていて、ただしアフリカ人の半数はそれらの外に住んでいた(註59)。峯陽一氏によるとナタールの白人たちはズールー王国の軍事力に怯えつつナタール植民地内のアフリカ人を有効に支配しようと努力していたのだといい(註60)、居留地外のアフリカ人はその多くが小作人や借地人だったが、一時的な賃金労働従事者もいたし、地主も少しはいた(註61)。伝道基地では宣教師によって小学校や診療所が作られ、キリスト教を受け入れ西洋的なスタイルを身に纏ったアフリカ人(それまでの戦乱からの救済を宣教師に求めていた)のかなりの部分がとうもろこしの栽培や羊毛で「きわめて富裕な小農」となった(註62)。デ・キーウィトは「ナタールでは、先住民の居住地域は、でこぼこした急斜面が異様な形でそそり立ち、深い峡谷が横切って、夏の激流がすべての有用な土壌を流し去ってしまうような、起伏の激しい広大な丘陵地だった」と述べて、耕作可能地が255エーカー当たり1エーカーしかなかったという居住地を紹介している(註63)が、その一方でケープの東部辺境地やトランスヴァールと比べればナタールの先住民は豊かであったとも言っている(註64)。それにしてもアフリカ人が他所からの流入という形で増えていたことはデ・キーウィトによればそれを迎える白人たちをして「自分たちが最初の移住者だという信念を強固に」せしめるという効果を生み、そのため「すべての先住民居住地が厳密に言えば侵犯だとみなされ」ていて、シェプストンですらも一時は先住民を全て南方へと移動させることでナタールから彼らを一掃すべきだと考えたこともあったという(註65)

 註57 岡倉登志著『ボーア戦争』19頁

 註58 ロバート・ロス著 石鎚優訳『南アフリカの歴史』70頁

 註59 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』187〜188頁

 註60 峯陽一著『南アフリカ 「虹の国」への歩み』89〜91頁

 註61 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』192頁

 註62 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』190頁

 註63 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』83頁

 註64 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』77〜78頁

 註65 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』77頁

   インド人の到来  (目次に戻る)

 初期のナタールの主産業は北川勝彦氏によると象牙の輸出、吉田賢吉氏によると羊毛の飼育だったがインド洋沿岸部では豊かな降雨と陽光を生かした砂糖、コーヒー、綿花の栽培が次第に伸びて1860年頃には砂糖が輸出品目の首位となった(註66)。そのための労働力としては、アフリカ人はその多くが治安対策の観点から居留地に閉じ込められていた(居留地のアフリカ人を「解放」してくれという農園主の要望は容れられなかった)上に伝統的な牧畜・穀物生産とは異なるプランテーションでの単純重労働に慣れていなかったとも、そういったことに興味を示さなかったともいい、そこで既に少数ながら年季契約で使われて好成績をおさめていたインド人(1833年の奴隷解放後の労働力として南アフリカに近いモーリシャスの砂糖産業で大規模に用いられていたという先例があった)をもっと導入したいという話が持ち上がった(註67)

 註66 吉田賢吉著『南阿聯邦史』163頁 北川勝彦著『南部アフリカ社会経済史研究』57頁

 註67 吉田賢吉著『南阿聯邦史』163〜164頁 峯陽一著『南アフリカ 「虹の国」への歩み』92頁 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』191頁 佐藤千鶴子著「南アフリカにおけるムスリムの歴史的形成とアイデンティティ 西ケープ州ケープタウンを中心に」

 インド側の政庁は移民送り出しを渋ったがやがて説得に応じて1859年にこの件に関する条例公布、1860年に第1回のインド人移民が到着、しかし男ばかりで素質不良、第2回目からは一定数の女性を含めることにして(100名あたり最低25名の女性が従うべきとされる)これが良質で好評を博し、トンプソン曰く「やがて植民地に定住するインド系住民が育っていくことは避けられなかった」(註68)。移民導入の費用はデ・キーウィトによるとアフリカ人の消費する物品にかける関税の引き上げでなされたという(註69)が、吉田賢吉氏によるとそれでは足りなかったので公債で賄ったという(註70)。インド人の仕事場はその大部分がサトウキビのプランテーション、それから鉄道の建設現場や炭鉱である(註71)。南アフリカ初の鉄道はケープではなくナタールで1860年にまずダーバン市とダーバン港を繋ぐ2マイルの路線が開通している(註72)。それらの現場で働くインド人たちの待遇については峯陽一氏によれば「契約にもとづいて労働し、最低限の人間的な処遇を受けるたてまえになっていた」といい、鶴見直城氏によれば「実態は奴隷と何ら変わらず、過酷な農業労働を強いられた」という(註73)。報酬は吉田賢吉氏によると食住付き月10シリングから始まり12シリングまでの増額アリ、原則3年契約でその後も本人が希望すれば更に1年もしくは2年雇用され、移住後5年(後に契約期間も5年間に一本化)を経れば自由の身となってインドもしくは他のイギリス植民地へ渡れるだけの旅費を支給される(註74)。トンプソンと峯陽一氏によれば契約期間の5年が過ぎれば自由に仕事を選べるようになって、更に5年経てば旅費無料で帰国出来たとのことである(註75)。その旅費相当分の地価の土地をナタールで貰うのも可ということで大半の者はインドに帰らず南アフリカに住みつき、ダーバンの町での職人や商人、召使、農園の労働者、更には自分の土地で野菜・果物を栽培して町に売る等で生きていくことになった(註76)

 註68 吉田賢吉著『南阿聯邦史』164頁 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』191頁

 註69 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』85頁

 註70 吉田賢吉著『南阿聯邦史』164〜165頁

 註71 峯陽一著『南アフリカ 「虹の国」への歩み』92頁

 註72 吉田賢吉著『南阿聯邦史』177頁

 註73 鶴見直城著「インド人社会の形成と「サティヤーグラハ」 ガンディーが過ごした21年間」『南アフリカを知るための60章』第9章 峯陽一著『南アフリカ 「虹の国」への歩み』93頁

 註74 吉田賢吉著『南阿聯邦史』164〜165頁

 註75 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』191頁 峯陽一著『南アフリカ 「虹の国」への歩み』93頁 トンプソン書192頁によれば1870年に最初のイント人がインドに帰還する資格を得たということなのでトンプソンと峯氏が正しいと思われる。

 註76 峯陽一著『南アフリカ 「虹の国」への歩み』93頁 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』191〜192頁

 峯陽一氏によればこの制度でやって来た「年季奉公インド人」の大半はインド東部出身のヒンドゥー教徒、それとは別に商売でやって来た「旅客インド人」もいてこちらは概ねインド西部出身のイスラム教徒であったといい、トンプソンによれば1860年から1866年までに到来した6000名の大部分は身分の低いヒンドゥー教徒だったが身分の高いヒンドゥー教徒もいてイスラム教徒は12%、キリスト教徒も5%いたという(註77)。吉田賢吉氏によれば1865年頃の時点で6500名が居住していて、ナタール側の世論としてはインド人移入に反対する者もいたが大勢としてはナタール経済に資するとしてこれを歓迎、1866年にインド側の政庁が渡航を禁止するやナタール側の反発を引き起こして1874年には禁止解除、ナタール側は改めて「インド人移民助成局」を設置して年額1万ポンドの補助金を交付するものとした(註78)。佐藤千鶴子氏によると1860~1911年(この年に年季契約労働者の導入停止)の間に年季契約制度に基づき15万2000名を超えるインド人(その4割以上は女性ないし少女。7~10%がイスラム教徒)が来着してその半分以上が南アフリカに定着してナタール各地に住み着き、一部はトランスヴァール等に移住、彼らとは別に自費で来着した商人が1910年までに3~4万いてそのうち8割がインド西部グジャラート州出身のイスラム教徒で、故郷でのイギリスの政策で土地を失ったために南アフリカに移り住んで来たといい、その一部はやがてトランスヴァールやケープに移っていった(註79)。また同氏によるとケープ植民地に以前(オランダ東インド会社時代)からいたイスラム教徒、年季契約で来着したインド人イスラム教徒、そして自費で来着したイスラム教徒ではそれぞれに宗派が違っていたという(註80)。ロスによるとインド移民にはヒンドゥー教徒・イスラム教徒以外にパールシー(ゾロアスター)教徒もいて多くの寺院やモスクが建てられ言語的にはタミール語、テルグ語、ヒンディー語、グジャラート語が話されていたという(註81)

 註77 峯陽一著『南アフリカ 「虹の国」への歩み』93〜94頁 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』191頁

 註78 吉田賢吉著『南阿聯邦史』165頁

 註79 佐藤千鶴子著「南アフリカにおけるムスリムの歴史的形成とアイデンティティ 西ケープ州ケープタウンを中心に」

 註80 佐藤千鶴子著「南アフリカにおけるムスリムの歴史的形成とアイデンティティ 西ケープ州ケープタウンを中心に」

 註81 ロバート・ロス著 石鎚優訳『南アフリカの歴史』67頁

 トンプソンによれば1870年のナタールの白人人口はイギリス系が1万5000にアフリカーナーが3000の計1万8000、アフリカ人はその15倍とも25万人以上ともされ、インド人は6000人を数えた(註82)。これもトンプソンによればアフリカ人の間の法的問題にはシェプストンの編纂によるアフリカ人の慣習法が適用され、白人の間とアフリカ人と白人の間ではケープ植民地流の「ローマ・オランダ法」が用いられたという(註83)が、ならばインド人は法的にどう扱われたかについては手元の資料に見当たらない。そしてこれまたトンプソンによると1843年のナタール併合の際にはイギリス当局は「法的観点からは、皮膚の色、出自、人種、信条による区別があってはならず、法による保護は、言葉のうえでも内実においても、万人に等しく行き渡るべきである」としていたのに、白人入植民たちは植民地における数の上での多数派であるアフリカ人たちを恐れつつ彼らを雇い入れてみても労働者として駄目だったことで彼らを劣等視し、ナタールは「白人入植地」でありアフリカ人は「外国人」だから1843年に言っていた話は適用出来ないと見做すこととなったのであるという(註84)

 註82 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』187、192〜193頁

 註83 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』188頁

 註84 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』181、188〜189頁

 北川勝彦氏によるとズールーという強国と対峙するナタールにはケープと違って「リベラルな社会の理想を求める余裕はなかった」のであって、1856年の憲法付与の際にも「理論的には、人種差別のない選挙が発展させられるはずであったが、実際には、投票は、白人に限定された」のであるというのだが、更に同氏はシェプストン・システムという間接統治システムによって「最小の力でアフリカ人農民から労働と物品が搾取された」と述べつつインド人労働力の移入というのは白人たちにアフリカ人を低賃金労働力として動員出来るだけの強制力がなかったが故のことであったとも述べる(註85)という、筆者の頭では混乱するようなことを言っている(間接統治システムを通じてアフリカ人農民から「労働」を搾取していたと言いながら「アフリカ人を動員出来ないからインド人を導入した」と述べるのは矛盾しているとしか思えない)。それについては永原陽子氏によるとナタールにおける原住民隔離政策は実はアフリカ人を出稼ぎ労働力として確保するためだったという解釈もあるそうで、それが正しいかどうかについては研究者の間でも議論があるそうである(註86)

 註85 北川勝彦著『南部アフリカ社会経済史研究』99頁

 註86 歴史学研究会編『世界史史料8 帝国主義と各地の抵抗Ⅰ』313頁の永原陽子氏の解説

 以下に述べることは先ほどケープ植民地でのアフリカ人の状況について触れたことと少し重複することではあるが、デ・キーウィトによるとインド人を移入せねばならなかったような労働力不足の要因については当時の白人たちがアフリカ人の勤労意識について抱いていた「先住民は怠惰な人間であり、仕事に対する持ち前の消極性が彼らを一種の赤貧の有閑階級たらしめた」という考えにも確かに一定の根拠があって、というのは「富が共有され、人々がその分け前に自由に与れるような後進的社会では、一人ひとりが努力して生活の糧を得ようという動機は強くな」かったからであったという(註87)。しかし続けて曰く「労働者不足の最も重要な要因は、先住民労働者の浪費的、非効率的使用にあった」という。先住民労働者の多くは非経済的に所有された広大な個人農場に拘束されていてその仕事は間欠的で無計画、農耕法の改良も増産のための計画的努力もなかったといい、「もしも、市場用余剰作物の集約的生産のために、先住民労働者に対する工業からの強い需要があったならば、先住民労働者はもっと効率よく配分されただろうし、もっと効率よく使用されただろう」「あらゆる経済法則に明らかに矛盾するにもかかわらず、19世紀後半には、低い労働報酬と労働力不足とが、不条理にも並立していた」ということでイギリス領でもアフリカーナー共和国でも「本当の労働力不足ではなく、慢性的な不完全雇用」が是正の出来ない欠陥として蟠っていたといい、「先住民は自分の土地から追い立てられ、生活手段のためにヨーロッパ人社会へ入ったものの、その社会自体が経済的に立ち遅れ、あまりにも貧しく非生産的だったため、彼らの労働を利益に転ずることができなかった。そのような経済的条件が先住民に過剰な重圧を与える原因になったことは容易に理解できる」、しかもイギリス系にしてもアフリカーナーにしても白人社会は先住民の貧困について何の責任も感じていなかったといい、なんとなれば「仕事ならいくらでもある」からなのであったという。

 註87 以下この段落はC・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』86〜88頁による。

 しかしトンプソンによるならばナタールのアフリカ人たちはここ半世紀のうちにズールー王国の勃興と白人植民地の建設という「二度の劇的な変化」を経験して後に「制限された土地のなかである程度の安全を与えられることになった」ともいえるのであり、インド人たちもまた「制限されたものではあったが、インドに住む大部分の人々よりもはるかに恵まれた機会を活用しはじめた」のであって、更に大部分の土地を所有して立法府のみならず行政府にも影響力を行使していた白人たちとで「1870年までに、ナタールには、歴史、文化、そして植民地状況下での富と権力といった点で互いに区別される三つのコミュニティー」を形成するようになったのであるという(註88)……、しかしついでながら補足すると「三つのコミュニティー」というのは実は正確な表現とはいえないようで、佐藤千鶴子氏によると19世紀後半のナタールにはインド人イスラム教徒以外にもイギリス海軍が東アフリカ沿岸部で拿捕した他国の奴隷船(フランス、ポルトガル、アラブのものだったというが拿捕行為がそれらの諸国との外交問題にならなかったかどうかは同氏も触れていない。フランス・ポルトガルの官憲から見ても違法業者だったのだろうとは思うが)から解放して年季契約労働者として連れてきたアフリカ出身のイスラム教徒というのも数百名いて、その子孫はナタールの地元のアフリカ人とは別に、インド人イスラム教徒の影響を受けつつもそれとも異なる集団として21世紀現在まで存続しているという(註89)

 註88 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』192〜193頁

 註89 佐藤千鶴子著「南アフリカにおけるムスリムの歴史的形成とアイデンティティ 西ケープ州ケープタウンを中心に」

   ケープ責任政府の成立  (目次に戻る)

 既に見たようにケープでは1853年をもって植民地憲法が発効し立法院と衆議院が設けられていた訳だが、その次に実現すべきは責任政府ということになる(註90)。しかし吉田賢吉氏によるとケープ責任政府の発足する1872年という年がカナダ、オーストラリア、ニュージーランドにおけるそれ(註91)と比べて遅かったのは本国の意向よりもケープ側の政情に原因があったのであって、というのは予算修正権を有していた立法院が衆議院と絶えず衝突していたこと、植民地の西部(衆議院に力を持つ)と東部(立法院に力を持つ)が対立していたことで、その頃のケープ総督ウォードハウス(概ね立法院を支持した)としては責任政府を与え得るものではなかったのだといい、ところが本国側ではケープ市民が口を開けば更なる自治を求めることとアフリカ人との戦争等にかかわる経費負担とを勘案して、むしろ責任政府を与えるのと引き換えにケープ現地の事件はケープの独力で処置させればいいのではないかとの声が高まるようになっていたのだという。鈴木正四氏によると1870年の「土人統治費」は10年前の4倍にも達していたといい、吉田賢吉氏に曰く本国議会がケープでの相次ぐ「土人戦争」の費用がかかりすぎることを問題視していたが、これも吉田賢吉氏の引くウォーカーによればケープの連中は「英国政府が土人政策を管掌している以上その経費を支払うのは当然じゃないか」というばかりで、いざ戦争となれば直接的に戦場となった地域以外の土地では軍隊の落とす金で「狂気じみた好景気」を享楽し「費用ばかりかかって能率の上らない戦争」のあいだ商売人たちは敵側にも武器弾薬を売り込んでいたという。

 註90 以下4段落は吉田賢吉著『南阿聯邦史』175〜177、183〜187頁 鈴木正四著『セシル・ローヅと南アフリカ』18頁 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』142〜143頁 ロバート・ロス著 石鎚優訳『南アフリカの歴史』51〜54頁 北川勝彦著『南部アフリカ社会経済史研究』55〜57、143〜144頁 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』70〜72、92〜93頁による。

 註91 1870年代のオーストラリアは6つの植民地に分かれていてそのうち5つが責任政府を有していた。

 責任政府の話から脱線してしまって申し訳ないが、同じく吉田賢吉書のウォーカーからの引用に曰く「イギリスの植民地への投資の中、南阿への投資位くだらない、味も素気もなく、それでいて儲けの少ないものは他になかった」というのだがそれでも吉田賢吉氏の地の文に曰く「この期間南阿の経済が全く停頓したかの如く考えることは誤りである」「経済状態は少しづつ発展した」ということでまず農業では穀物の種類も量も増加、牧畜ではメリノ羊の飼育が進んでその輸出量が1834年の14万4000ポンドから1856年の1490万ポンドを経て1870年には4000万ポンドにまで達していた(数値は原文ママ)といい、金融でも1831年まではケープに銀行がひとつあったきり、1835年でも2つだけで銀行業自体が植民地政府の独占下にあったのが1838年以降は民間銀行の設立が始まり、羊ブームと連動して1862年頃にはケープに26行(と吉田賢吉書にはあるが北川勝彦書では1863年に30行とも「地方銀行」が27行ともする)、ナタールに4行、オレンジ自由国に2行に増え(ただし北川書に曰く1860年を境にして登場した「帝国銀行」が大規模な合併と支店展開を行うようになる)、鉄道も既に見たように1860年のナタールでの開通を皮切りに1863年(註92)にはケープにも開通(ケープタウン〜ウェリントン間)、イギリス本国との間には汽船も通うようになり、全体として1836年から1862年まで好景気が続いたという。これがデ・キーウィトによるならば「植民地の中で最も資源に乏しい所」と見做されていた1850年前後の南アフリカの状況は政治的再分割(アフリカーナー共和国の樹立)と先住民戦争とで厳しさを増し、「資本は入植者に伴って内陸部へ恐る恐る投入されたものの、少しでも危険があれば腹立たしいほどすばやく撤収された」とか、ケープ政庁もナタール政庁もロンドンで6%以下の金利で資金を借り入れるのは困難だったとか、家畜の病気や蝗害、戦争、旱魃等が「周期的な後退」をもたらしていたとか、1860年までに本国の自由貿易政策と害虫とでワインがほぼ壊滅したとかいい、例外的に羊毛だけが利益をあげてグレート・トレック後5年間の平均輸出高3万ポンドだったのが1845~1850年の平均は20万ポンド、1869年には170万ポンドに達したがオーストラリアに比べれば大した額ではなく、それだけではインフラ整備も無理で1860年までのケープでは防波堤もドック設備も整備する余裕がなかった(テーブル湾に停泊した船舶は手漕ぎボートと原始的な桟橋ひとつで諸々の作業を行なっていた)としている。吉田賢吉書とデ・キーウィト書で数値が違いすぎる理由は不明だが(多分吉田賢吉氏の方が桁を間違えている)、デ・キーウィト書には1862年の羊毛輸出を2500万ポンドとする記述もあって、しかしそれでもオーストラリアには遠く及ばなかったそうである。更にケープもナタールも歳入の大半を輸入税に頼っていたため、アフリカーナー共和国との貿易を巡り両イギリス植民地間で険悪な対立を引き起こしていたともいう。

 註92 デ・キーウィトによると1864年。

 トンプソンによるとケープ経済は「比較的ゆるやかではあるが、継続的な膨張を示し」ていて道路や郵便、電信の整備が進められていて、ただし外国貿易はイギリスの支配下にあって輸入の80%に輸出の85%がイギリスによって占められ、また1860~1869年の全輸出の73%が羊毛だったといい、基本的には農業社会だったケープ植民地で最大の町はケープタウンでその人口2万8000、ポートエリザベスで9000であったとする。ロスもこの時期のケープ植民地では道路事情が改善されていたこと、国内市場が拡大していて農家の収入では小麦が最も重要だったが貿易では羊毛が輸出品目の首位でその主産地は植民地の東部、貿易港となっていたポートエリザベスから輸出されていたこと、金融業の発展で支店の開設された町々では商工業・サービス業が伸びて地方新聞も発行され、アフリカーナー系のオランダ改革派教会をはじめとするキリスト教諸派の布教も更に進んでひとつの町に4つも5つも教会があったこと、宣教師による学校も次々にオープンして元奴隷たちも読み書きを習っていたこと、富裕層対象の中等学校や女子学院、英国国教会系のカレッジも創設されたこと、ただ以前には社会に出ての活動も許容されていた女性の仕事場が家庭内に限定されるようになってきていて、しかし当の女性はそれを窮屈とは必ずしも感じておらず、特に元奴隷や事実上の奴隷だったコイサン女性がそのような「女性の仕事」にきっちり順応し白人風の身だしなみを身につけるといった「社会的体面」を身に纏うことで底辺からの脱出を図ろうとしていたこと等を述べている。

 北川勝彦氏によると羊毛業の発展はイギリス本国での毛織物工業の機械化に伴う羊毛需要を受けたもので、それまでは「戦略的には重要であった」が「単なる寄港地」に過ぎなかったケープ植民地はおかげをもって「世界市場向け生産の一つの中心地となっていった」のであり、銀行業や道路建設、新規の移民といったことも「輸出向けの一次産品であった羊毛の生産とそれに関連した経済システム」として形成されたのであって、更には小規模な製造業の発展や農村部での小市場都市の出現なども見られていたという。そしてまた北川勝彦氏曰く「このような植民地経済を支える農業、牧畜業、商業に必要な労働力は、現地のアフリカ人や他の非ヨーロッパ人労働力の輸入によってまかなわれた。ケープ植民地社会は、人種的にも文化的にも多元化することになり、この文化の多元性が経済機能に基づく社会階層と密接に関連して南アフリカ独特の社会構造をつくり出していったのである」。それとケープ植民地が本来はヨーロッパとインド方面との交易ルートの中継地として整備された土地であったからには1854年にフランスのレセップスがエジプト太守からスエズ運河開鑿権を獲得したことと、その実現が将来のケープにもたらすであろう影響はケープ市民にとって吉田賢吉氏曰く「考えるだけでも嫌であった」し上記のように1862年にはケープ経済の好景気も終わってしまう訳だが、実際にスエズ運河が開通する1869年にはそんなことはどうでも良くなる世紀のビッグイベントが巻き起こることとなる……。

 ……その話は第5部に譲るとして、まずは責任政府の件である。ウォードハウスと交代したバークリィ総督は本国の意に沿って責任政府樹立の準備にかかり、1871年にそのための法案が衆議院を通過したが立法院では3票差で否決され、翌1872年に改めて同じ法案が1票差で立法院を通過した(註93)。立法院の反対派は責任政府が樹立されれば自分たちの財政負担が重くなるであろうことや衆議院に蟠踞する西部地方派の我儘が酷くなるのではないかといったことを挙げていたが、ともあれ1872年11月、イギリス女王による勅許を得て外交・関税・防衛等の特殊事項を除く自治権を獲得したケープ植民地にてJ・C・モルテーノ首相等の5名の閣僚からなる内閣が成立する。吉田賢吉氏の表記によれば閣僚の職名は「総理兼植民大臣」「大蔵大臣」「検事総長」「土地土木大臣」「土人大臣」で、うち検事総長の座はそれまでイギリス本国人が占めるのが常例だったのがこの時にはユグノー系ボーアが就任したのが注目に値するという。ただし首相とは別に従来のケープ総督・高等弁務官もそのまま居残ることとなる。1874年には西部と東部の対立を解消するためにケープ全土を7州に区分けして各州ごとに3名の立法院議員を選出することとなり、以後はその立法院よりも衆議院が優越するようになっていった。

 註93 以下この段落は吉田賢吉著『南阿聯邦史』185〜187頁 林光一著『イギリス帝国主義とアフリカーナー・ナショナリズム 1867〜1948』6頁による。

 ところで……これについての詳しい解説も第5部に回すが……イギリスは1871年10月にグリカランドウェストを併合しているのだが、鈴木正四氏によると今回のケープ責任政府創設というのはつまり本国がケープにグリカランドウェストの行政費を負担させる代償として許したことであって、ケープ世論ではむしろかえってこの卑劣な行動を非難する声が高かったという(註94)。前川一郎氏によれば責任政府の認可はケープをしてカナダ等と共に「イギリス帝国の屋台骨の役割」たらんことを期待してのことであっといい(註95)、トンプソンによるならば「南アフリカの未来について検討を迫られた場合、イギリスの政治家は、南アフリカをカナダ……ここも非イギリス系とイギリス系の白人入植者が支配していたが、1867年に両者は共同で連邦制イギリス自治領を形成していた……と同じカテゴリに入れた。カナダの前例にならうとすれば(中略)イギリス領植民地とアフリカーナーの共和国は、イギリス王室の旗のもとで白人が支配する一個の自治国家へと融合しなければならない」「これは、どうすれば実現できるだろうか。一つのやり方は、ケープ植民地に自治政府をつくり、これに他の国家を引きつけることであった」という思惑に基づく責任政府設立許可であったのだが、そのような戦略の推進役をつとめさせるには当時のケープ植民地は「あまりに貧弱だったし、白人住民の分裂もあまりに深刻だった」のだという(註96)。それでも結果的には成し遂げられるイギリス領とアフリカーナー共和国の融合がいかにして進展するかの話は今後のお楽しみとして、とりあえず上記のグカランドウェストについては結果的にケープとは別枠の植民地として扱われることとなり、これはトンプソンによればケープ植民地側が同地の編入を拒んだからだったという(註97)

 註94 鈴木正四著『セシル・ローヅと南アフリカ』21頁

 註95 歴史学研究会編『世界史史料8 帝国主義と各地の抵抗Ⅰ』270頁の前川一郎氏の解説

 註96 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』243頁

 註97 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』243頁

   アフリカーナー共和国の展開と第二次オレンジ・バスト戦争  (目次に戻る)

 アフリカーナー国家の様子はどうなっていたのであろうか(註98)。まずロスによるとオレンジ自由国の南部と中部では牧羊地が増えていて、正規の住民として認められないまま「フィリップポリス」周辺で牧畜を営んでいたグリカ人を圧迫、これをトランスカイ東北へと追いやるまでとなり、おかげでグリカ人との紛争もなくなってかなり効率的な統治がなされるようになったという。第三部でちらりと触れたことだが、吉田賢吉氏によるとそのグリカ人というのはグレート・トレックの頃に3名いたグリカ人の有力者のうちで最も東にいたアダム・コックの率いるそれだったようで、1861年に強制的に「フィリッポリス」の領地を自由国に売却することを強いられてドラケンスベルク山脈の東側の、その後は「グリカランドイースト」と呼ばれることになる地域に移住したのだという。他の2名のグリカ有力者が蟠踞していた「グリカランドウェスト」を1851年頃に旅行したリヴィングストンによれば「土人とヨーロッパ人の雑種の種族」であるところのグリカ人においては「第一代の雑種の人達は第二代の雑種の人達より優れていると思っている」とのことだったといい、ここの地域でこのもう少し後で大騒動が持ち上がるのだが、それよりも先に起こるのがオレンジ自由国とレソトとの「第二次オレンジ・バスト戦争」である。

 註98 以下この段落と次の段落はレナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』201頁 岡倉登志著『ボーア戦争』24頁 ロバート・ロス著 石鎚優訳『南アフリカの歴史』58頁 吉田賢吉著『南阿聯邦史』167〜169頁 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』81頁 リヴィングストン著 菅原清治訳『世界探検全集8 アフリカ探検記』79頁による。

 岡倉登志氏によるとオレンジ自由国は「モシェシュの甥レサワナがボーア人の飼牛を略奪し、その返還要求を拒んだ」という口実で1865年6月にレソトに対して宣戦布告となったといい、トンプソンによるとその頃には「80歳近くになったモシェシェは息子に対する威厳を失いつつあった。息子たちは王位の継承をめぐって陰謀を企て、無秩序な襲撃をくり返していた」という。トンプソンのいう「無秩序な襲撃」とは誰に対するものか書いていないが文脈からいって白人に対するものと思われ、ロスもオレンジ自由国の東の国境地帯にてカレドン川流域の肥沃な土地を巡る自由国とソト人の紛争がかねてから絶えなかったことで1858年の戦争と今回の戦争へと立ち至ったのだとしている。ともあれ今回の戦争ではレソト(総人口15万以上)の戦士2万以上に対してボーア軍は3000名もしくは5000名と親ボーア派アフリカ人の加勢が数千、更にケープ植民地からの白人の加勢が数百であった。オレンジ自由国は1858年の敗戦の時よりも人口も戦闘員も増えて大統領ブラントは有能、装備も優秀である。デ・キーウィトによるならば「迅速な動きの警備隊がバスト人の畜牛を駆り集め、彼らの作物を荷車に積んだ。バスト人の抵抗を打ち破るにはこれ以上確実な方法はなかった」。略奪や放火を伴いつつレソト王国内へと優勢に駒を進めたボーア軍は敵軍の山岳要塞に迫撃砲を打ち込み、1866年3月にはモシェシェの次男で王国北部の首長だったモラポとの単独講和を締結、その翌月にはモシェシェとも講和してトンプソンによれば「王国の大半」、岡倉登志氏によると「王国内の耕作にも適した土地の大半」を割譲させることとなった。吉田賢吉氏はこの年の講和を「タバ・ボシゴ協定」と呼んでいるが3月とその翌月のどちらのことなのか、或いは一括してそう呼んでいるのかは筆者には分からない。どっちにしてもその講和も束の間のことでまた戦争勃発、モシェシェにも一段と疲弊の色が濃くなってくる。

 ところでモシェシェはボーア人よりもイギリス人の方が穏健と考え、後者による保護を1860年代の初頭から求めていた(註99)。その時のケープ総督ウォードハウスもソト人の苦境に同情してトンプソン曰く「南部アフリカの支配勢力としてイギリスはその責任を果たすべき」と考え、1867年12月にはイギリス本国政府もこれに同意、レソトをナタール植民地に組み入れるべしと指示して来たのだが、レソト側が「傲慢な行政官」シェプストンの下に入るのを嫌がったことで、ウォードハウスは1868年3月12日をもってレソトをナタールとは別枠の植民地「イギリス保護領バストランド」として併合した。これに鼻白んだオレンジ自由国(完勝目前だった)はしかし武器弾薬の供給路遮断というカードを切られたら困ることとて容認するしかなく、1869年2月の「第二次アリワル・ノース協定」にてウォードハウスとオレンジ自由国とがレソト人の頭越しに線引きしたバストランドの領域はボーア軍が占領していた地域を自由国領として認めたことで従来のレソト王国のそれよりもぐっと狭いものとなった。デ・キーウィト曰くレソトの喪失地(そこのバスト人は「一掃」された)は「オレンジ自由国の中でもここに匹敵するような土地はなかった」ほどの肥沃地で、その後の「バストランドに残された地域はほとんど岩と山で、侵食された峡谷とほんの僅かな良質の土地の断片が散在するだけ」となった。その頃までに病床についていたモシェシェは1870年3月11日に死去した。とはいえトンプソン曰くモシェシェは「ムフェカネによる無秩序の時代を通じて、フランス人の宣教師、アフリカーナーの農民、そしてイギリス人の官吏が侵入する頃まで……ハイフェルトで起きたすべての決定的な変化を経験していた。彼は、同様の問題に直面した他のアフリカ人よりもずっと巧みであった。彼は混沌のなかから王国を創り出し、多くの危険をくぐり抜けて、19世紀末の変化した世界において許されていたおそらく最良の運命へと王国を導いたのである」。ちなみに山川出版社世界現代史の『アフリカ現代史Ⅰ』巻末の各国便覧ではレソトは1843年にイギリス保護領となったとあり、トンプソンによるとその年に当時のケープ総督とモシェシェが結んだ条約によってモシェシェの領土を画定しその領土内での治安維持に努めさせるのと引き換えにわずかの俸給を与えることとしたそうなので、その1843年の条約をもってレソトの保護国化がなされたと見做す解釈もあるということなのだろうか。

 註99 以下この段落はレナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』183、201〜203頁 吉田賢吉著『南阿聯邦史』168〜169頁 星昭、林晃史著『世界現代史13 アフリカ現代史1 総説・南アフリカ』の付録67頁 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』81頁による。

 話を変えて両アフリカーナー国家の内治に関しては、トンプソンによるならば建国当初の混乱はさておいて「オレンジ自由国の憲法の枠組みは成功し、市民も官吏も法に対する尊重心を育てていった」のに、トランスヴァール共和国のアフリカーナーの間では建国当初の内戦によって示されたように「政治的権威は武力の動員と行使によっていたが、このことは憲法では禁止されてはいなかった」といい(註100)、ロスも「南アフリカ共和国では、共和国政府の統治が行き届いたのは南部と東部の一部だけであり、そもそも政府自体の力が弱かったために、何十年も住民間の紛争が解決されなかった」としている(註101)。デ・キーウィトによればオレンジ自由国は豊かな牧羊業と利益のあがる馬車輸送業に恵まれブラント大統領は有能な指導力を有していてその政府はイギリス領なみの安定と効率を誇っていたが、トランスヴァール共和国では国家が「土地資源を手放」しているが如き放漫すぎる土地政策で簡単至極に土地を得た連中が「国家への責務」について無頓着、「政府は弱体で無能だった。絶え間ない人事の衝突はブランド大統領のような立派な人物の出現を阻んでいた」という(註102)

 註100 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』195〜196頁

 註101 ロバート・ロス著 石鎚優訳『南アフリカの歴史』58頁

 註102 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』107頁

 トランスヴァールの様子についてもっと詳しく見てみよう(註103)。ロスによればボーア人有力者と商社が広大な土地を占めていて、土地の値が上がって利益が出るまでそこの土地でアフリカ人を使役し搾取していたといい、更に(オレンジ自由国でもそうだったのだが)デ・キーウィト曰く「入植者は土地をウワバミのように手に入れた」。これもデ・キーウィト曰く成人ボーア市民には誰でも6000エーカー以上の農地を下付するという慣例があってそのための測量は殆ど無し、イギリス領でも猛威を振るっていた土地相場師がこちらにも押しかけて来て、グレート・トレックの当初から土地所有者がすぐさま変わるという事態が生じていたといい、特にトランスヴァールでは20~30万エーカーにも及ぶ個人所有の土地があった(オレンジ自由国でも広大な土地を不在地主に占められてしまっていて一般のボーア人の苦言の的となっていた)という。ロスが「商社」と呼びデ・キーウィトが「土地相場師」と呼んでいるものが同一のものか否かは筆者にはよく分からないが、トンプソンによっても「イギリス領の各植民地に拠点をもつ商社」が共和国にも広大な土地を確保していて、しかしその土地の大半は「生産的に利用されていなかった」「商社は不在地主であり、自分たちが所有している土地の開発のためにはほとんど何もしなかった」という。またロスのいう「ボーア人有力者」というのはトンプソンによればこの地域は「依然として資本主義世界経済の周縁に位置していた」がために流通貨幣が乏しくて「萌芽期の国家は十分な歳入を調達することができず、しばしば現金でなく土地の譲渡という形で官吏に俸給を払っていた」ということで「土地の行政官や軍の将校に選ばれた有力な野心家たちは、広大な土地を獲得し、明らかな上流階級を構成した」ということだったのであって、アフリカーナーたちはそういった土地でやはり牧畜を営み、穀物はアフリカ人から入手していた。

 註103 この節のこの段落以降の記述はC・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』75〜79、107頁 吉田栄右著『杜國大統領クルーゲル』29、55、67〜70頁 吉田賢吉著『南阿聯邦史』187〜189、200頁 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』193〜194、196〜198、205、237〜239頁 岡倉登志著『ボーア戦争』25〜26頁 岡倉登志著『ボーア戦争 金とダイヤと帝国主義』28〜31頁 北川勝彦著『南部アフリカ社会経済史研究』99〜100頁 ジョン・ガンサー著 土屋哲訳『アフリカの内幕2』10頁 ジャン・モリス著 椋田直子訳『ヘブンズ・コマンド 下巻 大英帝国の興隆』233、236〜237頁 山口昌男著『アフリカ史』310〜311頁 ロバート・ロス著 石鎚優訳『南アフリカの歴史』58頁による。

 吉田栄右氏はオレンジ自由国が周辺のアフリカ人に対して優位を築いていたのに対してトランスヴァール共和国の方はなかなかそうはいかなかったとしている。トンプソンによると1867年にトランスヴァール北部方面にいた「ベンダ人」へとクリューガーが差し向けた討伐隊400名が敗退する(風土病にもやられた)という出来事があって、吉田栄右氏の引くチェソン著『和蘭共和国』によれば1868年のトランスヴァールは「甚だしく貧弱にして、政府の信用墜落して、共和国内唯一の通貨たる紙幣は、殆ど価値なき紙片と同様なり」「法律は虚文に均しく、是れに服従するものほとんど稀なり」ということで名前だけはやたら立派な諸官庁は「相互の間更らに行動に一致なし」で地方にも殆ど独立状態の地域があり、教育事業も等閑視されていて国庫維持の学校は4校だけで教員の給与も滞っていたといい、またこれも吉田栄右氏の引く他の記者の報告に曰く「国会は法律を建つる能わず、何んとなれば、行政部之が実施をなすの力、薄弱にして、多数人民はその律法に服膺するの念なければなり、而して国内唯之れ、乱雑、不秩序、不景気のみなり」という惨状だったという。吉田賢吉氏によっても政治組織は確立せず財政的基盤も薄弱、周囲のアフリカ人勢力との紛争も絶えないところに国民が税金を払いたがらないので極度の歳入不足に陥ったトランスヴァール政府がやむなく発行した不換紙幣は1870年頃には7万ポンドほどに達してケープやナタールでは受領拒否、イギリスの後押しを受ける新国王が即位していたズールーやフランス人宣教師の支援を得ていたレソトにも圧迫される(註104)有様となり、更に第五部で詳述する「ハルツ川沿岸地帯」での境界線紛争も実質的な損得は別としてトランスヴァールの面子を潰していた。ジャン・モリスによると公職俸給が切手で支払われる有り様ともなったという。

 註104 時間的に前後するがこの「レソトにも圧迫された」というのはイギリスによる併合がなされる前の話だと思われる。

 吉田栄右氏によればそういったことはトランスヴァールのボーア人たちが外界からの孤立にこだわりすぎたが故のことで、さすがにそのことを悟ったボーア人たちは1871年に辞職した小プレトリウスの後任の大統領職に進歩主義者のトーマス・ブルガーを選出した。同氏によるとブルガーはヨーロッパに渡って公債を募集し帰国するや学校や道路の整備、政府改造に邁進してこれに私費を投ずることも厭わなかったが、一般のボーア人が奉じている「ドッパー派」とは異なる「廣派教会」という教派の信徒だったことでやがて人々から疑われるようになったという。吉田賢吉氏によるとドッパー派の方が少数派だったといい……筆者思うにトランスヴァール国内の割合とハイフェルト等のボーア人全体の割合とで違うということだろうか……、ずっと後の時代のことだがガンサーによると1950年代のアフリカーナーが奉じていたオランダ改革派教会(カルヴァン派新教の一派)の中に更に3種の教派があって、大きい順に「ネーデルドゥイツ・ゲレフォルメールデ派」「ネーデルドゥイツ・ヘルヴォルムデ派」「ゲレフォルメールデ派」と呼ばれ、このうちの2つ目の信徒を「ドッパー」と呼ぶのだという。ジャン・モリスによるとブルガー大統領は「極端な原理主義者」たる「ダッパー派」から見れば「不信心な異端者」で、「大統領は悪魔に尻尾があることを信じず、しかも罰当たりにもトランスバール・ソヴリン金貨に自分の顔を彫らせた」という噂がなされていたという。吉田栄右氏によるとドッパー派は神の礼拝に人作の讃美歌ではなく経中の詩篇を用い制服として角襟の短胴服と丈の短い背広に広い縁のある帽子を身に纏い、事の良否を問わずあらゆる改革に反対していたという。ガンサーによってもドッパーは「3教派の中で最も保守的、蒙昧で原教旨主義に凝り固まっている」そうである。副大統領になっていたクリューガーの家もドッパー派の信徒で、ブルガー大統領に激しく反発して吉田栄右氏に曰く「互に己れの地位を造り、自家の利便を図るを之れ事とし国家衰滅の途にあるをも顧みずして互いに不平を鳴ら」すに至ったという。

 それとトランスヴァールは1867年にインド洋に面するデラゴア湾の海岸地帯の領有を宣言、しかしイギリスの猛抗議を受けて撤回を余儀なくされたということがあったのだが、その後はイギリスとポルトガルの係争地となっていた同地の領有権はフランス大統領マクマオンの裁定(註105)でポルトガル側に決定、ただしポルトガルは同地を第三国に売却しないと約束させられた。吉田賢吉氏曰くこの裁定によってトランスヴァールは「英領にあらざる港湾を利用し得る可能性が与えられた」のだということで、ちょうどその頃ヨーロッパにいたブルガー大統領はトランスヴァールとデラゴア湾を繋ぐ鉄道を建設すべくその資金9万ポンドの借款をオランダ・ベルギー・ポルトガルから得ることに成功、しかしその9万ポンド(手取り金は8万745ポンド)のうち7万1800ポンドを建設資材の購入と輸送に充てたのに周旋人にいっぱい喰わされてその大部分は到着せず、せっかくの資材を1万5000ポンドの捨て値で払い下げるしかなくなるという失敗をおかしてしまったという。デ・キーウィトによるとブルガーはトランスヴァールとポルトガルの両政府によるトランスヴァール〜デラゴア湾鉄道建設を企図してそのために360万ギルダーの公債発行を企て、そのうち3分の2以上が売れ残ってしまってポルトガル政府としても手の打ちようがなかったのだという。トンプソンにいわせれば仮に鉄道が出来たところでポルトガルもまたイギリスの対外貿易の顧客だったのだから意味があったとは思えないのであった。

 註105 吉田賢吉著『南阿聯邦史』189頁によるとこの問題は「スイス大統領の調停に附することになった」末に「マックマオン大統領の裁定の結果ポルトガルは要求した以上の地域が与えられた」ということなのでマクマオンというのはスイスの大統領なのかと思ってしまうがこの人物はフランスの大統領である。

 これでは2つ上の段落で触れた「道路の整備」というのもどの程度のものだったのか甚だ怪しくなってくる。果たしてトンプソン曰くハイフェルトにおける「道路」というのは「荷車や馬や通行人が踏み荒らしたところ」であって、郵便も「たとえ存在したとしても」行商人やアフリカ人の飛脚頼みだった……、しかしケープ植民地からの後続のアフリカーナーやイギリス系の「よそ者」も来着、前者はやはり牧畜や狩猟に従事し、後者はブルームフォンテインやポチェフストルームで商人や職人、聖職者として働きつつ肉体労働は有色人に任せ、これらの流れを通じて貨幣経済が普及しつつあったが、「1870年には、その結果はまだ不確定だった」とのことである。

 その1870年に約5万名に達していたハイフェルトのアフリカーナーの言い分によれば彼らの住む土地はムフェカネで無人状態になっていたところを発見したのであるが、そのうちに元の住民が戻って来たということは第三部で解説した通り、これも既に見たことだがトンプソンによれば元の住民たちはアフリカーナーのことをンデベレ人を追い払ってくれる解放者だと思って対ンデベレ戦に助力する者もいたのだが、「しかし、彼らにはすぐに、自分たちの抑圧者が交代しただけであることがわかった」。デ・キーウィトによれば「そのような先住者は無断居住者となり、土地の所有権を持たなかったため、支払うべき賃貸料はヨーロッパ人地主のお目こぼしに与かるか、労働奉仕によって多少なりとも大目に見てもら」うこととなったといい、トンプソンによっても白人農場に住まわせて貰うことになったアフリカ人たちはそれと引き換えに白人に労働力を提供したり牛や羊を地代として払ったりしたというが、北川勝彦氏によるとアフリカ人の「不法土地占拠者」たちは地主に金も労働力も支払わないことが多かったという。同氏曰く「トレッカーの建国した国、とくに南アフリカ(トランスバール)共和国では、移住者は、広大な土地を手に入れたが、その地方の労働に対する支配は確かなものではなかった」とのことである。

 トランスヴァール共和国・オレンジ自由国の周辺部に独自の首長国・王国を構えるアフリカ人も多く、これも上の方で解説したことだがアフリカーナーたちは労働力確保のために近隣の首長国を襲撃してアフリカ人を拉致し召使に仕立て上げていたという。西方のカラハリ砂漠に続く地域にあった6つの首長国のうちいくつかはアフリカーナーの圧力で分裂、これに対抗するために宣教師に接近したことで社会的分裂を来す首長国もあったが、ハイフェルト北東部にいた集団は地形・風土のおかげで白人の進出から守られていた。その一方でスワジ王国が岡倉登志氏によれば1840年代にズールー王国に脅かされるようになったことでアフリカーナーと同盟、アフリカーナー側は第2代のスワジ王ムスワチにわずかな牛を贈るのと引き換えに王国周辺の非スワジ系住民の土地を入手させて貰ったり、スワジ側からアフリカーナー側に非スワジ系住民を鎮定するための援助を行なったりしていた(スワジ側としてはこの地域にボーア人を住まわせることでズールーとの緩衝地帯とする意図があった)が、ムスワチがズールー対策強化のためにナタールとも同盟関係を結ぶとアフリカーナーが横暴化してスワジ人の牛を奪ったりスワジ人を奴隷として拉致したりするようになったという。ところが山口昌男氏によるとズールー王国はボーア人との戦い(本稿第三部で詳述)の後は拡大する力をなくしていて、それにかわってスワジ王国の勢力が急速に拡大、その間にスワジとボーア人との緊密な提携が持たれるようになったのだといい、スワジ王国自体にも入り込み始めたボーア人とスワジ人の関係は当初は良好だったのが1875年にムスワチが死んでムバンゼニが即位する頃にはボーア人が横暴化、しかしアフリカーナー共和国の政府の方は「独立した国には干渉しない」という理屈でこれに何の対処も行わず、ムバンゼニとしても報復が怖くて手出しができなかったのだという。岡倉登志氏によるとムスワチが死んだのは1868年のことで、その後の6年に渡る王位継承の内紛に勝利したムバンゼニはその時点ではアフリカーナーの力に頼っていたが、やがて親イギリスに転じることとなるのだという。ちなみにこれも岡倉氏によるとズールー王国のムパンデ王は親ボーア的な政策をとっていたというのだが、それとスワジのムスワチによる親ボーア政策とがかちあわなかったのかどうかは気になるところである。

 両アフリカーナー国家の内部においてはアフリカ人が外出するにはパス携行のこと、火器所有は禁止だが、トンプソンによれば白人との力関係によってはそのような決まりはあまり厳しく遵守されず、アフリカ人首長国・王国との火器取引も厳禁されてはいたが闇で融通する商人があとをたつことはなかったし、ケープやナタールに出稼ぎに行って火器を入手して来るアフリカ人も多くいた。白人が首長たちから馬具、酒、そして銃と引き換えに土地を入手することもあったがデ・キーウィトによればそのために作成される書類を多くの首長は理解出来ず、或いはその規定を尊重しなかったといい、また「多くの宣教師が土地詐欺師の手先になったが、必ずしも皆が皆、善意で知らずに巻き込まれた訳ではなかった」とか、はたまた白人としては土地の使用権よりも所有権の方が重要なのにアフリカ人はその逆だったといったことが厄介の種になっていたとかいう。そしてこれもデ・キーウィト曰く「先住民政策で、英領植民地とオランダ系共和国の間に大差はなかった。なかでも、ヨーロッパ人に土地の特権を与え、先住民に労働の義務を割り当てるという経過は類似していた」「白人に土地を与え、黒人から土地を奪うことは、支配グループが属している社会的倫理的規範に即した行為だった。同様に、一つのグループが過酷な肉体労働を忌避し別のグループが服従することは、経済的格差以上のものだった。それは社会的身分の差別でもあった」のである。

 トランスヴァール共和国の首都プレトリアはジャン・モリスによれば1877年頃になっても「とびきり素朴な首都」で「草原の村に毛が生えた程度の町」にすぎなかったといい、ユーカリの並木道や水路が通じていて「いたるところに木々と庭があった……ベランダの脇には無花果の木、四目垣には薔薇、バンガローの境界線には柳の木、裏手の菜園には豊富な野菜の列。舗装されていない道を大きな牛車が通る」という有様だった町の中心地チャーチスクエアには広場に面して草葺きの教会と広い石段付きの議事堂があって後者の外では3ヶ月に1度の「ナハトマール」という「半ば宗教儀式、半ば住民集会」の集まりが開催されて屋台や幌車でごった返し、結婚や洗礼や揉め事の裁定がなされていたという。北川勝彦氏によるとイギリス領のような商業的農業の確立も進まないままの状態で「貧富の差が広がり、トレッカーの社会は、少数の貴族的階級によって支配される」ようになったという。

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 ここまでに述べた話とも若干重複することだが鈴木正四氏によると「1870年までの南アフリカは単純な農業植民地にすぎなかった」のであってひとつの織物工場もなく家内工業で簡単な車輌の製造や農具の修繕がせいぜい、比較的に商工業が進んでいたケープでも農業従事者が約75%で商業・運輸が10%、南アフリカ全体で約25万と推定されていた白人の大半が牧畜メインの農業(牧場の基準は6000エーカー・600頭と推定されている)に従事していて輸出額の7割以上は羊毛であった(註106)。トンプソンによればケープタウンとその近郊に蒸気製粉所や馬車、馬具、家具、石鹸等の小規模産業、ケープ植民地の全域に羊毛洗浄工場が散らばり、ナタールだとサトウキビ圧搾所、オレンジ自由国には皮なめし工場があったというが、鉄道は1870年時点の南アフリカ全体で70マイルだけだったという(註107)。デ・キーウィトによれば1860年代のケープ(とナタール)は銀行の設立による資本収益の増加や臆することなき高利の借金で「大英帝国の他の植民地にあまり遅れをとらないようにと奮闘努力し」たのであって、羊毛運搬用の牛車のための道路や「働かないカフィル人用」の拘置所の建設が進展、道路や鉄道の建設もなされたが、しかしケープのような「貧しい国では、健全な投資機会はあまりにも不足していた。その結果として、土地への投機とバブル商法が跋扈」することとなり、そこにアメリカで勃発した南北戦争と不況の影響でイギリス本国での織物工場が操業停止、南アフリカも1862年から1870年まで不況に見舞われた上にダメ押しの如き未曾有の旱魃と虫害で大打撃、「いまや、土地価格は下落し、商業信用は落ち込んだ。まる10年間、南アフリカの鉄道にはたった1本の枕木も追加されなかった」、ケープの羊毛もナタールの砂糖も「南アフリカが商工業時代に遅れないようにするのに必要な輸入や公共事業の費用の支払いには十分ではなかった」「何か他に財源が必要だった」のである(註108)

 註106 鈴木正四著『セシル・ローヅと南アフリカ』21〜22頁

 註107 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』203〜206頁

 註108 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』71〜72頁

 (バレバレの思わせぶりを繰り返すのもなんだけれども)その「財源」はこのすぐ後に沸いて来るのだが、とりあえず1870年のケープ及びナタールの対外貿易額は北川勝彦氏によると580万ポンド、同年のサハラ以南アフリカの総海上貿易額だと1700万ポンドと推定され、これではやはりまだまだこの時点でのアフリカの貿易が世界貿易のわずかな部分しか占めていなかったといい得るといい、ケープでは1865年と1866年に恐慌にも見舞われていたという(註109)。それでもまた北川勝彦氏によるとアフリカ大陸全体としてみれば19世紀初頭には実は奴隷が主要対外交易品(主に南北アメリカに輸出)だったのがそれも1870年には東アフリカを除いて消滅、従来の「海外の生産中心地へ奴隷労働を輸出する関係」から「自らの労働力によって生産された商品を輸出する関係」への緩慢な、しかし「アフリカと西ヨーロッパを中心にした国際経済との関係という点からみれば、根本的な」変化があったといえるのだという(註110)。「自らの労働力によって生産された商品」というのはつまりケープの羊毛やナタールの砂糖のことであろう。

 註109 北川勝彦著『南部アフリカ社会経済史研究』58、144頁

 註110 北川勝彦著『南部アフリカ社会経済史研究』40、58〜59頁

 鈴木正四氏の引く1865年の国勢調査によればケープの人口は白人18万1592名に有色人41万4789名、同年頃のトランスヴァールの白人は約2~3万、オレンジ自由国の白人は約3万5000、ナタールの白人は1万8000と推定され、ただし「南アフリカの統計は信用し難い。政府の統計に上げられた数字にも矛盾するものが多い」上に鈴木書が執筆された昭和16年までの南アフリカの人口統計には白人の内訳がなくてボーア人とイギリス人の区別は宗教によるしかなかったという(註111)。トンプソンの引く1865年の「誤っている可能性は十分にある」という「ケープ植民地最初の公式人口調査」では「ヨーロッパ人」が18万に「ホッテントット」と「その他」つまりカラードが20万、「カフィール」が10万であったという(註112)。これまたトンプソンによると1870年の南部アフリカの白人人口25万はアメリカ合衆国の100分の1以下、彼らは年間300万ポンドほどの多種多様な輸入品(輸出額はそれよりかなり少なかった)に依存した生活を送り、ケープ・ナタール・トランスヴァール・オレンジという4つの「白人国家」の歳入は約75万ポンドでそのうちケープだけで4分の3弱を占め、最大の都市ケープタウンの人口は約5万で白人はそのうち半分、ダーバンとピーターマリッツバーグはどちらも7000以下だったという(註113)。イギリス系(都市民に多い)はやはりアフリカーナー(殆どが「農村的環境で生活と労働を続けた」という)から距離を置き彼らを見下していたのだが、アフリカーナーたちはアフリカーナーたちで黒人との関係においてトンプソン曰く「あからさまな奴隷制ではなかったものの、17世紀に起源を持つ家父長主義的な関係を維持しようと努め」ていて、ハイフェルトのみならずケープ・ナタールの都市部に住むイギリス系の連中までもが「こうした既成の道徳的慣習に急速に従うようになった」……、というような話は「牛殺し事件」のところでもデ・キーウィトによる解説として述べておいたことである。

 註111 鈴木正四著『セシル・ローヅと南アフリカ』22〜23頁

 註112 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』142頁

 註113 以下この節はレナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』203〜206、209〜211頁 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』82頁 池谷和信著「南部アフリカ」川田順造編『新版世界各国史10 アフリカ史』332〜333頁 鈴木正四著『セシル・ローヅと南アフリカ』21〜22頁による。最終段落末尾の( )内は峯陽一著『南アフリカ 「虹の国」への歩み』68〜69頁による。

 ただし21世紀現在の南アフリカ国の国境の内側でこの頃でも白人の10倍以上の人口を誇っていたアフリカ人たちのかなりの部分はまだまだ独立した政治体を構えていた。この時点で白人国家の内側にあることになっていた地域ですらも殆ど白人の力の及ばないところがあったし、トンプソン曰く「トランスヴァール、ナタール、そしてトランスカイにおいて、多くのアフリカ人コミュニティが自らの生活を効果的にとりしきっていた。さらに、多数のアフリカ人が、侵略者がもたらした制約と好機に適応しようとしていた。農奴同然の身分に突き落とされた者もいたが、たいていは祖先の土地をよく守っており、彼らは自給し、穀物の余剰を白人に提供していた」といい、とはいえ彼らは「工業製品に依存しつつあり、西洋の技術と宗教に関心をもちはじめていた」のだという。デ・キーウィトにいわせれば「至る所で先住民の生活条件は変更されたが、破滅させられたわけではなかった。はしか、ジフテリア、あるいは酒の力をもってしても、先住民の数を減少させることはできなかった。未開人種の劣弱な生命力は優良人種の活力に屈服せざるを得ないという決まり文句が間違っていることを彼らは証明した」のであるということになる。池谷和信氏によると南アフリカ地域の首長国ないし王国にはズールー王国のように軍事力に基づいて成立したものと、そのような軍事国家から逃れた人々が形成した社会が交易で得た経済的な富によって築いたものとの2種があって、前者は「伝統的な防御や信念」を統治に用いたことで西洋の技術や文化を拒む傾向があったが後者はそういったものを宗教まで含めて大いに取り入れていたといい、またこの時期には(本稿ではあまり詳しくは触れないが)リヴィングストンの探検でその様子が白人勢力にも知られるようになった南部アフリカ内陸部に多数の商人や宣教師が入り込んでいったこともあってアフリカ人国家(イギリス植民地・アフリカーナー共和国の脅威に備えるためにも国家の構築が必要だった)の財政的基盤も整えられることとなったのだという。

 それとアフリカ人の首長国の人的構成はかなり流動的だった(首長国から首長国に渡り歩く者が多かった)一方で階層分化も著しくなっていて、白人側でもトンプソンによるなら自分の土地を持たずイギリス系にも対抗出来ないアフリカーナーの貧困層「プアホワイト」が増大していた。鈴木正四氏によると「当時農民層の分化も、さほど顕著には現れていない」とのことだが、「農民層」ということは自分の土地を持っていればの話なのであろう。カラードは既に詳しく見てきたように出自も職種もバラバラ、宗教的にはキリスト教徒もイスラム教徒もいて、概ね植民地の西部に居住していてアフリカ人と接触することはあまりなかったという。(ところでアフリカ人の社会組織に関して、峯陽一氏はいまだに少なからぬ人が「部族」という語を使っていることを指摘し、「部族」という概念には「後進的」な社会とか「自己増殖的で閉鎖的な社会的実態」とかを連想させるイメージがあるが実際にはかなり流動的な社会だったのだからこの語は南アフリカの先住民社会を指す語として相応しくないと論じている。本稿でも基本的には「部族」を使わないつもりでいるが、引用元に用いられている場合にはそのまま引き写して用いる場合がある)

つづく   

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