南アフリカの歴史 第二部

   第一次ケープ占領  (目次に戻る)

 イギリス軍ケープ占領に伴いスロイスケン以下のオランダ側の主だった者たちは本国への帰国を許され、イギリス軍のうちでもクラーク司令官やエルフィントン提督は撤収、クレイグ将軍と2700名の守備隊が残留して軍政を敷くこととなった(註1)。オランダ東インド領時代に入植した者たちは当時の海運状況からしてそうそうヨーロッパに帰る訳にも行かず(註2)に殆どそのままケープに残ったのであり、21世紀現在でもそのまま残っているのである。トンプソンによるとこの時点のケープタウンの人口は1万5000人でうち奴隷が1万、民家1145戸を数えたがステレンボッシュは70戸、スウェレンダム30戸、グラーフ・ライネトに至っては草葺泥壁の家が10戸ほどであった(註3)。デ・キーウィトによると西部地域の人口が13500で他の地域は7000~8000、後者は10平方マイル当たり1名であったという(註4)。浅田實氏の引く1795年に書かれた史料によるとケープは家畜・農産物・海産物には十分に恵まれていたが従来のオランダの誤った政策のせいでそれが活かされていない、今後はこの地を発展させ、またイギリスの工業製品をケープから更にはアフリカの内陸部まで売り込みたいところであった(註5)。デ・キーウィトの記すところによってもクレイグ将軍とその部下たちの最初の印象ではケープは豊かな地に見え、確かに1795年の小麦は豊作だったが翌年からは殆ど連年の不作、デ・キーウィトのいつもの口の悪さに従えば他のどんな植民地と比べても「経済的に開発が遅れ、政治的に未熟で、文化的にも立ち遅れていた」ということになる(註6)

 註1 吉田賢吉著『南阿聯邦史』91頁

 註2 峯陽一著『南アフリカ 「虹の国」への歩み』80頁

 註3 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』118頁

 註4 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』32頁

 註5 浅田實著「ナポレオン戦争時代のケープ植民地世界」

 註6 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』32頁

 占領直後のイギリス当局はまずオランダ東インド会社の資産を接収、してみてそれにもはや何の価値もないこと、帳簿は赤字で埋まっていることに驚きつつ、市民たちの個人財産は擁護、国内取引に関する制限撤廃(国外貿易は沿岸貿易のみ可)や会社の旧社員の官吏登用、役得収入や手数料の通常の給料への変更や独占権の廃止、従来からのローマン・ダッチ法をイギリス人にも適用すべきことといった人心収攬策も込みの改革を推進、政治制度はあまり弄らなかったが高等裁判所の役員制度を廃止、6名の市民選出議員からなる「市民上院」の設置といった改革を行い、特に経済面においてケープ植民地はデ・キーウィトの見立てに曰く「世界貿易の流れと健全なつながりを持てるようになった」というのだが、吉田賢吉氏によれば東インド会社の乱脈経営の置き土産に加えてイギリス駐屯軍の維持費用とでインフレに苦しめられたといい(註7)、しかしトンプソンによればケープ植民地の経済はオランダ東インド会社時代を通じて多少の中断はあったものの継続的な膨張を続けていて、イギリス領に移行して以降もそれは続くこととなったとしている(註8)。また「改革」についての上記の記述は吉田賢吉氏とデ・キーウィトに拠っているのだが、トンプソンの曰くところによるとこの時点のイギリス当局は時分たちのことを「植民地の一時的な管理人だと考えており、現状を変える意図はなかった」としている(註9)。峯陽一氏も「新参者のイギリス人には、古参のオランダ系入植者と争う意図などなく、植民地の統治機構はそのまま以前のものが引き継がれた」(註10)と述べ、ロスもイギリスがケープの従来の法制度や政治制度を踏襲していて、少なくとも当面の間は状況を大きく変えようとはしなかった、それよりも経済面で東インド会社による規制が取り払われたことで急速な成長を経験することになったとしている(註11)。それと「市民上院」について、吉田賢吉氏は「後の市会の前身をなすものである」(註12)としている。どの程度の権能があったのかは手元の資料乏しくよく分からないのだが、市会というからにはケープ植民地全体ではなくケープタウンのみを管掌していたようで、また後で述べるように1825年までのケープでは総督が専制権力を握っていた筈でもあり、この市民上院というのも大した存在ではなかったのではないかと思われる。

 註7 吉田賢吉著『南阿聯邦史』92〜93頁 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』32〜33頁

 註8 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』142頁

 註9 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』123頁

 註10 峯陽一著『南アフリカ 「虹の国」への歩み』72頁

 註11 ロバート・ロス著 石鎚優訳『南アフリカの歴史』41頁

 註12 吉田賢吉著『南阿聯邦史』92〜93頁

   辺境入植民の叛乱と第三次カフィール戦争  (目次に戻る)

 デ・キーウィトによれぱケープ植民地の住民たちの方は「経済的、法律的、憲政的改革には喜んで応じたが、主従関係や白人と黒人の関係を変えようとしたり、そうした関係に反対したりするものには、即座に強烈な反感を示した」「ケープの社会は根底から保守的だった。社会内部で生じた身分の格差や差別を保持するという願望以上の強い望みはなかった」ということで、クレイグ将軍から「カフィル(カフィール)人に向かって手を振り上げてはならない」「何人にもカフィル人の土地を奪わせてはならない」と注意され、他にも「辺境に明らかに必要とされた」ものではあったが「しばしば、むやみやたらに施行された」法律に憤慨した白人辺境民はイギリス当局に対する叛乱まで起こすに至った(註13)。第一部のおさらいだが「カフィール(カフィル)人」とはアフリカ人の蔑称、ケープ植民地の辺境で白人と対峙しているのはその一派のコーサ人である。デ・キーウィトにいわせればこの時期の白人辺境民はコーサ人を苦しめるよりもコーサ人の蠢動に苦しめられる立場に置かれていたのに、クレイグには「いかに複雑に絡み合った関係がすでに出来上がっていたかを理解できなかった」のだという(註14)。トンプソンによってもこの時期にはコーサ人の農民が西進して来ていて、その上でトンプソン曰く「自分たちの思い通りに振る舞っていたトレックボーアたちは、短命な暴動を起こした」との由である(註15)。またこの暴動の鎮圧にはイギリス側のコイコイ人の小部隊が参加していたという(註16)。この暴動ないし叛乱については手元の資料が乏しすぎてその様相はおろかそれが発生した年すらよく分からない(すみません)のだが、とりあえずデ・キーウィトは白人辺境民の叛乱が「再度」あったと書いていて、その再度の決起は1799年、初回の決起はイギリス占領下でのことではなくオランダ東インド会社領時代末期にあった事件(本稿第一部参照)のことを指しているようにも読める(註17)。浅田實氏によると1800年頃にグラーフ・ライネトの貧しい植民者500名ほどが叛乱を起こし、これが最高潮に達した時には180名ほどが英国から自立し独立しようとしたという(註18)。これは正確に何年とは明記していないがイギリス統治下で起こった白人辺境民の叛乱について吉田賢吉氏の記すところによると、クレイグ将軍が鎮圧作戦にかかったところでヴァンドロェール提督指揮のフランス艦隊とルカス提督率いるバターフ(オランダ)艦隊がケープ奪還のために来攻中との報に接したため一旦そちらへの備えに集中、やがて両艦隊ともケープ沿岸部で撃破したが、フランス軍の一部はうまく脱出してグラーフ・ライネトの反イギリス派住民との合流に成功、しかし間も無く勝ち目のないことを悟って降参したという(註19)

 註13 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』33〜35頁

 註14  C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』34頁

 註15  レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』121頁

 註16  レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』133頁

 註17 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』34〜35頁

 註18 浅田實著「ナポレオン戦争時代のケープ植民地世界」

 註19  吉田賢吉著『南阿聯邦史』91頁

 これと前後して勃発するのが「第三次カフィール戦争」である。『南阿聯邦史』の年表では1799年に第三次カフィール戦争始まるとしか書いていないがWikipediaで調べるとこの戦争は1799〜1803年とある。「カフィール」戦争とは言っても今次の戦争で白人と戦った主体はコイコイ人だったようで、峯陽一氏によれば白人の従僕だったコイコイ人が集団脱走してコーサ人の反白人闘争に呼応する形で4年間に渡る武力抵抗を行ったといい(註20)、浅田實氏もコイコイ人の反乱がメインであったような筆致でこの騒乱について書き綴っており、とはいえ更にコーサ人も白人を攻撃したことで、その後の半世紀ほどの東ケープでもこれほどの広範囲に渡る抵抗はなかったとされる大規模な騒乱となったとする(註21)。白人側はこの戦争の期間中に470の農場を焼かれてそのうちいくつかの農場では殆どの白人が殺害されたといい、地域によっては浅田氏の引く資料に曰く「血に飢えたホッテントットとカフィール人の陰謀で、ヨーロッパ人が全辺境地帯を放棄」したという惨状であったが、浅田氏にいわせればそれも略奪的な白人入植者の侵害行為拡大に対する抗議であったのであって、なんにせよこの時期のボーア人の叛乱に加えてコーサ人・コイコイ人による闘争はイギリス当局をして「法を知らないオランダ・ボーア人の野蛮で過酷な行動に対して東方で生じた騒動」を非難せしめることとなり「正しい法がもっと厳格に施行されなければ、完全なる安全の下での全般的静寂は得られない」と確信させることとなったのだが、しかしそもそもポルトガルの国土に匹敵する面積を有するグラーフ・ライネト地区(1800年頃の人口1万3000。そのうち白人4376名)をたった1名のラントドロストで統括するということに少なからぬ無理があったのである。

 註20 峯陽一著『南アフリカ 「虹の国」への歩み』71頁

 註21 以下この段落は浅田實著「ナポレオン戦争時代のケープ植民地世界」による。

   第二次ケープ占領  (目次に戻る)

 

 1802年の「アミアンの和約」で英仏が和睦するとケープ植民地はバターフ共和国(オランダ)に返還されることとなった(註22)。とはいえオランダ東インド会社は既に1794年に破産を公表、1796年に理事会にかえて「東インド商業及び領土事務委員会」がその職権を執行することとなり1798年に遂に会社解散、その業務・財産はバターフ共和国が引き継ぎ1800年には政府機関の「アジア領及び施設評議会」が旧東インド会社領の植民行政を管掌することとなっていた。ということでバターフ政府からケープへと送り込まれてきたデ・ミスト弁務官とヤンセン総督がイギリス当局から現地の統治を引き継いで各種改革に乗り出す。デ・キーウィトによるならば彼らを理解することは「南アフリカの次の世代を理解するに等しい」「重要なことは、彼らが視線を海から内陸地へと転じたことである」「彼らが着手した刷新において了解されていたのは、この植民地で根本的に必要なことは機構の整備であるという認識だった」。司法機構を強化して徹底的な法律専門教育に委ね、辺境地での恣意が罷り通っていた農場主とコイコイ人使用人との関係やラントドロストと住民の関係、それらと中央政府との関係を法的に整理規制しよう……、と努力していた矢先(努力が実を結ぶようにするための人員も予算も時間も足りなかったが、とにかくその後の南アフリカの発展の礎にはなった)の1803年には再び英仏開戦、きっとまたイギリス軍の侵攻を受けるであろうケープの守備兵力はコイコイ人やマレー人からなる貧弱なもので、1806年1月に来攻したボファム提督率いるイギリス艦隊からベァード少将指揮のイギリス陸軍部隊6700名がケープタウン北方のブラウベルグに折からの烈風をついて上陸して来た時にはケープ側はこの時のために組織しておいた(1795年の対イギリス戦でも組織された)市民兵や傭兵からなる2000の兵力をこれにあてるも忽ち敗退、それではと残存兵力を率いるヤンセン総督がケープタウンを放棄しその東方(ステレンボッシュの南方)のホッテントット・ホランドでの継戦を試みようとすると、それも敢えなく輸送路を断たれて降参となった。池谷和信氏によるとこの時点でのケープ植民地の白人人口は約2万5000であったという。

 註22 以下この段落は吉田賢吉著『南阿聯邦史』91〜97頁 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』35〜37頁 池谷和信著「南部アフリカ」川田順造編『新版世界各国史10 アフリカ史』344頁 峯陽一著『南アフリカ 「虹の国」への歩み』71〜72頁による。

 この「第二次占領」に伴いヤンセンは31名の文官と94名の将校、573名の兵士と共にイギリス提供の艦船でケープを退出し本国へと引き揚げた(註23)。ただし官吏のうちでヤンセンに従ったのは一部であって多くの者は元々オランイェ公の派でイギリス軍を歓迎し現職に留まったといい、逆に一般市民は概ね反イギリス的、ただしイギリス軍の兵士には「むっつりとして取り付きの悪い」イングランド人だけでなく「親しみ易い」スコットランド人やアイルランド人もいるということで、その統治も市民の意見など聞きもしないかわりに第一次占領の時と同様の穏当なもの、市民側としてもオランダ東インド会社の統治に飽きていたこともあって……吉田賢吉氏によるならばバターフ共和国による統治も「大同小異で変わり栄えもしなかった」という……それ程の混乱は発生しなかったという(註24)。むしろナポレオン戦争絡みの軍需で潤ったケープ植民地の輸出入高は1806〜1820年の間に6倍、畜牛の頭数も1806〜24年の間に3倍に膨れ上がっている(註25)。デ・キーウィトはこの時期は辺境民であっても好景気を感じていて畜牛の増加はその証左だとしているのだが、浅田實氏によると一般に東部の入植者は借金まみれで土地に飢え、イギリス当局を深く恨んでいたといい(註26)、詳しくはまた後で解説するが1815年には彼らによる反イギリス蜂起「スラハテルス・ネックの反乱」も発生している。

 註23 大熊眞著『アフリカ分割史』19頁

 註24 吉田賢吉著『南阿聯邦史』97〜98頁

 註25 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』38頁

 註26 浅田實著「ナポレオン戦争時代のケープ植民地世界」 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』38頁

   第四次・第五次カフィール戦争  (目次に戻る)

 ヨーロッパでは1814年には概ね終結したナポレオン戦争の後始末でそれまでハプスブルク帝国領だった南ネーデルラント(ベルギー)がオランダ(註27)領となったのと引き換えにケープ植民地がイギリス領として確定した。「もちろん、南アフリカの黒人や白人には何の相談もなかった」(註28)。黒人といえば……時系列的に前後してしまって申し訳ないが……1808年、その前の年にイギリス本国議会で奴隷貿易廃止法案が成立した影響と思われる奴隷反乱が発生、この奴隷の問題についてはまた後で詳しく述べるとして、1809年にはケープ植民地政府制定の条例によってコイコイ人の法的身分を整理確認……、それについても後で述べるが、それらよりもまずコーサ人関係で東部辺境地を巡回調査した弁務官リチャード・コリンズ大佐の計画書案に基づき、コーサ人とケープ植民地を分離して両者間の接触を避けるという方向の政策がなされた(註29)

 註27 バターフ共和国がどうなったかについての解説は面倒臭いので省略する。

 註28 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』120頁

 註29 浅田實著「ナポレオン戦争時代のケープ植民地世界」

 ということで1811年とその翌年にコマンド及びコイコイ人部隊の援助のもとに動いたイギリス軍部隊がフィッシュ川以西の「ズウルフェルト」に居住していたコーサ人をフィッシュ川まで追い払った(註30)。時のケープ総督クラドックからロンドンに報告して曰く「この任務を遂行するにあたり、これらの野蛮人に適度な恐怖と尊敬を印象づけるのに必要だと思われる以上のカフィールの血が流されなかったことを、喜びをもって申しそえます(トンプソン書からの引用)」。しかる後にフィッシュ川を白人勢力とコーサ人勢力の境界として確定し、その頃「チャレカ人」「ンギカ人」「ンドランベ人」等の分派からなっていたコーサ人のうちのンギカ人の首長ンギカと友好関係を締結して彼を全コーサ人の最高首長に仕立て配下を統制させようとする。しかしこのことでコーサ人社会における信望を無くしたンギガは1818年にチャレカとンドランベの連合軍の攻撃を受け敗退、勢いに乗ったコーサ連合軍は1819年に白人にも攻撃を仕掛けた。この戦いの序盤ではかなり踏み込まれた白人側はしかしやがて優勢に転じてコーサ勢力をフィッシュ川より更に東のカイスカンマ川の彼方(シスカイ)に追い払うことに成功する。峯陽一氏によると「南アフリカにおいて多数のアフリカ人農民が暴力的かつ計画的に土地を奪われたのは、このときが初めて」のことで、それを主導したのが「オランダ系の白人農民ではなくイギリス人であったことは、覚えておいてよいであろう」とのことである。『南阿聯邦史』の年表では1812年に「第四次カフィール戦争」が、1818年に「第五次カフィール戦争」が起こったとしているが、Wikipediaによると前者は1811年から1812年、後者は1818年から1819年の由である。ロスによればそれまでの入植者とコーサ人との衝突ではヨーロッパの武器に対するコーサの人海戦術が拮抗していた上にどちらも長期戦を続け得る補給力がなく、ヨーロッパ人がコーサ人側に雇われることもあったため敵味方の判別が困難だったりで決着がつかないままに戦争が繰り返されていたのが、1811年以降はイギリス軍の投入によって白人側の優位が固まっていったという。

 註30 以下この段落はレナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』123〜124 153頁 峯陽一著『南アフリカ 「虹の国」への歩み』72〜73頁 ロバート・ロス著 石鎚優訳『南アフリカの歴史』44〜45頁 浅田實著「ナポレオン戦争時代のケープ植民地世界」による。

 ところでそのような戦争のための兵力なのだが、イギリスもまた従来型のコマンドと同じく有色人の兵員を用いている。片山正人氏によるとイギリス軍による1795年の第一回目のケープ占領の翌年に治安維持部隊として白人でもコイコイ人でもなくカラードの部隊「ケープ・コア」がジョン・キャンプベル中佐の下に組織され、これが短期間のバターフ共和国統治期にも存続して1806年の第二回目の占領時に約800名の兵員を有する「ケープ連隊」に再編、1817年に名称を「ケープ・コア」に戻したという(註31)。これと別のものなのかどうかよくわからないのだがトンプソンは1830年代以降に関する記述で白人将校と下士官・兵士のコイコイ人からなる「ケープ連隊」というものがあったと述べ、これ(やがて「ケープ騎馬ライフル隊」と改称)が1806年から1870年に解散されるまで(隊員数200~800)の間の辺境でのアフリカ人との全ての戦争及びアフリカーナーとのいくつかの小競り合いに参加していたとしている(註32)

 註31 片山正人著『南アフリカ独立戦争史』17~18頁

 註32 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』133頁

 こういった兵力でその安全を確保した土地に対する入植者の権利についてはオランダ東インド会社時代に徴収されていた名目的な賃貸料(真面目に払う者は少なく誰がどれぐらいの土地を使っているかもアヤフヤなままだった)にかえて1813年にトンプソンの表記では「免役地代制度」、吉田賢吉氏の表記では「永代租借権」、池谷和信氏の表記では「自由保有システム」が導入され、デ・キーウィトによるとそれは「当時、カナダでは、社会の発展の重荷となる旧弊な施策とみなされていた」ものだったが「南アフリカでは重要な改革」となったといい、土地の使用者の法的権利については以前よりも確固たるものとなった、というのは以前には入植者が所有していたのは土地の上の建物だけで土地自体は法的には政府からの賃貸に過ぎず、したがって政府側はその土地の賃貸を1年前の予告によって取り消すことが可能だったため、そこに不安のある入植者側は高額の出費を要する土地改良のような事業を敬遠しがちだったのだが、そこに「恒久的な免役地代保有権」を導入することで入植者のやる気を促進させようとしたということで、しかし今後は土地の賃貸料ではなく地租を払って貰うということで、それは特に貧困層には負担増となったこととて入植者の協力を得られず(彼らに新制度を強要するとまた厄介なことになるに決まってるので強制ではなく任意とされたため)なかなか普及しなかったという(註33)。もっといえばこれは「政府のあり方についての2つの観念」の衝突だったのであり、「1つは活動的かつ積極的な政府という観念であり、もう一方は散漫で野心を持たない政府という観念だった」「農民たちは、政府は彼らの生活になるべく干渉すべきでないと考えており、特に、農民が富を入手する方法や使い道に口を出すのは控えるべきだ、と考えていたからである」(註34)。念のために言っておくとここでいう「農民」とは白人入植者のこと、ついでに復習しておけば「ボーア」の日本語訳が「農民」である。ともあれ以上のこの土地関係の改革は本稿第三部で詳述する「グレート・トレック」の一因ともされているので読者の方々も記憶の隅にでも留めておいていただきたい。また土地といえば1819年の戦争以降、フィッシュ川とカイスカンマ川の間に中立地帯が設けられていたがこれはデ・キーウィトにいわせれば失敗で、「土地の空白は、土地に飢えている辺境住民にとってあまりにも強烈な誘惑であり、いかなる禁止命令をもってしても、中立地帯への侵犯を防ぐことはできなかった」こととて同地はやがて白人と黒人の双方が入り乱れる大混乱地帯と化していったという(註35)

 註33 吉田賢吉著『南阿聯邦史』99頁 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』144頁 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』42〜44頁 池谷和信著「南部アフリカ」川田順造編『新版世界各国史10 アフリカ史』345頁

 註34 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』43〜44頁

 註35 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』51頁

   1820年の移民  (目次に戻る)

 次に新たにヨーロッパからやってくる移民である。この時代でもイギリスからケープまで約2ヶ月、ケープからイギリスまでだと5〜6ヶ月かかったという(註36)。1817年頃に約300名のスコットランド人の入植がなされてこれはうまく行ったが他の移民はほぼ失敗しており、そんな中にあって時の総督ソンマーセットは東部辺境地のズウルフェルトを白人の土地として確保するための移民を本国政府に要請、1820年は本国議会がケープ移民助成金5万ポンドの支出を可決した(註37)。10名以上の団体を作り1名あたり1ポンドを保証金として政府に預け入れる者にはケープまでの船賃を支給し現地で土地を与えるというものである。ズウルフェルトというのはフィッシュ川の西岸で第四次・第五次カフィール戦争の戦場になった白人とコーサ人の係争の地である。コーサ人のフッシュ川以西からの一掃は先述のコリンズ大佐の計画にも述べられていたことで、大佐は更にそうやって確保した地域にヨーロッパからの新規の移民6000名を入植させることでトンプソンの引用に曰く「とてつもない障壁」とすることを企図していた。ナポレオン戦争後の不景気に苦しんでいた本国民が吉田賢吉氏によると9万名も応募してうち5000名が採用され、トンプソンによるならば応募者8万名のうち4000名が採用されて他に自費渡航の移民1000名ともども……南アフリカ史において「1820年の移民」と称せられるイングランド・スコットランド・ウェールズ・アイルランドの混成で階層的には中流下層の都市職人だった連中がその大半を占めた……がフィッシュ川以西の地に住み着いた。10年間租税免除の特典と1名につき100エーカーの土地を賦与するとの約束である。宮本正興氏によるとイギリス政府は彼らの入植によって東部辺境地でのオランダ系入植者たちのそれ以上の拡大を阻止しかつアフリカ人との衝突を避けようという思惑でいたのだという。しかしトンプソンによればイギリス政府から農民として身を立てるよう期待されていた彼ら(その殆どが農業の経験ゼロで住み着いたところがコーサ人との係争地だとも知らなかった)の半分以上は現地の土壌がいまいちだったため2〜3年で土地を放棄(吉田賢吉氏によると入植者たちは農業に不慣れだったのに加えて害虫や洪水に苦しみ3年半後には3分の1の人員も残っていなかったという)、イギリス軍の基地のあった内陸の町「グレアムズタウン(マカンダ)」やアルゴワ湾の港町「ボート・エリザベス」で商人や職人として暮らしていくこととなる。21世紀現在の東ケープ州の主要都市であるポート・エリザベスは1799年にイギリスの手になる最古の建造物フレデリック要塞が築かれて入植が始まった町、グレアムズタウンはズウルフェルトの中心地で、1819年の戦いではコーサ人にほぼ占領されたことがある。

 註36 浅田實著「ナポレオン戦争時代のケープ植民地世界」

 註37 以下この段落と次の段落とその次の段落は吉田賢吉著『南阿聯邦史』99〜100頁 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』123〜125頁 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』41〜42頁、宮本正興著「イギリス領ケープ植民地の誕生」宮本正興、松田素二編『新書アフリカ史』364頁 峯陽一著『南アフリカ 「虹の国」への歩み』82頁 ロバート・ロス著 石鎚優訳『南アフリカの歴史』42、45、57頁 ジャン・モリス著 椋田直子訳『ヘブンズ・コマンド 上巻 大英帝国の興隆』64〜69頁 大熊眞著『アフリカ分割史』137〜138頁 浅田實著「ナポレオン戦争時代のケープ植民地世界」 コトバンク「ポートエリザベス」「グレアムズタウン」による。

 もちろん中には当初の入植地に踏みとどまって成功する者もいた訳だが、いずれにせよ新着の入植者は先住の入植者を「ボーア」と呼んで自分たちとは区別しこれと同化することがなく、この地域の「イギリス化」を推し進めて先住の連中を怒らせることともなる。「ボーア」という呼称はそもそもはオランダ東インド会社領時代に会社の役員とそれ以外を区別するために用いられたものだというのは本稿第一部で既に述べたことであるが、やがては軽蔑的なニュアンスを込めて用いられることともなる。トンプソンはここから先の記述でオランダ系の人々を「アフリカーナー」と表記するとしているが、筆者としてはこれも既に述べたように特に何らかのこだわりを持つことなく「アフリカーナー」と「ボーア」を併記して行くつもりである。ただロス書の訳註によれば「ボーア」は英語風の呼称であってオランダ語・アフリカーンス語では「ブール」と発音し、アフリカーナー自身は「ボーア」と呼ばれることを極端に嫌うというが、本稿ではこれまた特に意味もなく「アフリカーナー」でなければ「ボーア」と表記することとする。話を戻してデ・キーウィトによれば今回の移民に続いてもっと大規模な移民が到来して「オランダ人の血統と言語」を「イギリス人種と英語」に完全吸収してしまうのではないかとの観測もあったのだが今回の入植の「相対的失敗」の後はイギリス本国からの移民の流れは南アフリカではなくオーストラリアやカナダに向かうようになった(ケープ植民地当局としては大規模移民に資金を提供し得る豊かさがなく、本国政府もそのような事業を渋るようになる)ため、南アフリカの内陸部を開発しその性格づけを行うのはオランダ人開拓者の責務となっていった、そして「南アフリカにおける重要な区分、つまりイギリス人は主として都市派、オランダ人は主として農村派という性格上の区別の基盤が形成された」のであったという。

 無論都市部に住むボーア人もいて、「ケープタウンはオランダ様式と英国ジョージ王朝様式が穏やかに混在する都市になっていった」「ケープタウンの英国風庭園が点在するなか、赤いタイルの床に南アフリカ産の樟材の家具を配した瀟洒な年代物の屋敷に、優雅に暮らして」いるボーア人がいたが、「もっともアフリカーナーらしいアフリカーナーは、北東にある乾いた高地」で「偏執病的といってもよいほど独立心が強く、孤立を望ん」で「政府になにも求めず、なんの見返りも提供」せず「厳格なキリスト教カルヴァン派の神を崇拝」して「神の選民中の選民を自任」し多数の家畜を飼い先住民を従えて気ままに暮らす連中であったというのがジャン・モリスの語るところである。これもジャン・モリスによるとケープはインド勤務のイギリス人が「インドの蒸し暑さとイングランドの霧を逃れる」ための格好の保養地にもなっていて彼ら一時滞在者はボーア人から「ヒンドゥー」と呼ばれ、またイギリス人はボーア人のことを「無知で、見苦しく、変人が多い」と見做し、ボーア人の方ではイギリス人のことを「頑固で、お高くとまり、干渉がましい」と思っていたという。

 ただここでひとつ気になるのはアフリカーナーの人口についてである。浅田實氏によるとケープ植民地の人口は1806年時点でコイコイ人や奴隷を含めて7万6843名だったのが1815年には8万5640名に増加、その内訳でコイコイ人は2000名ほど減り奴隷も若干減っているのに白人は2万6562名から3万7165名へと増えていたという(註38)。デ・キーウィトは「1820年に、ケープ植民地はイギリスの領土でありながら、殆どの住民はオランダ人だった」と言っている(註39)ので、彼らだけの「再生産」で10年かそこらの間にそんなに増えたということなのであろうか?

 註38 浅田實著「ナポレオン戦争時代のケープ植民地世界」

 註39 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』41頁

   経済と制度  (目次に戻る)

 次にケープ植民地全体の経済状況を概観してみよう。イギリス統治下のケープがかなりの好景気だったというのは既に述べたことだが、デ・キーウィトによれば最も潤っていたのはワイン農家であった、というのは植民地対象の特恵関税に助けられていたということで、その最盛期は1806〜1831年、18世紀には1トンも輸出出来ない年も珍しくなかったのに1817年には1621トンものワインが出荷されたというのだが、他の部門の商売はそうは上手くいかず、販売力が乏しい以上は購買力も乏しいのでイギリス側の輸入額の変動といった偶発時に左右されざるを得なかった上に、更に1821年に駐屯軍が4000名から2500名に削減されたことが手痛く響き、おまけにその前年に始まるヨーロッパの不況にまともにさらされることにもなったケープ経済は1831年にワイン特恵の大幅な削減で頼みのワインにも「真の崩壊が始まった」とする(註40)。ロスはこの時期の経済に関しては景気のいい話しか書いていなくて、農業部門では特恵関税によってイギリス本国を市場として確保したワインの生産が急成長したという上記の話、牧畜部門では第一次ケープ占領以前に移入されていたメリノ羊という品種がやはりイギリス本国の毛織物産業に対応して本格的に飼われるようになっていて、しかもこれはケープの気候に適していたこと、また沿岸部の海運業が整備されたこと、そして1820年の移民たちが経済発展を促進したといったことを述べている(註41)。トンプソンによるとケープ産のワインがイギリス市場で目立っていたのは1811〜1826年の間のことで、この時期の2名の総督が「すこぶる保守的なトーリー党員」で「オランダ人の前任者たちの場合とは違って」地元のワイン・穀物農と「アンデンティティーを一致させ」ていたといい、しかしそれもやがて本国側が特恵を縮小したことで衰退、羊毛に関しては1840年代までにケープの中部・東部の牧畜の主力商品となったが、総じて1860年代末に鉱物資源が見つかるまでの南アフリカは「イギリス経済にとって何ら重要なものは提供しなかった」のだそうである(註42)

 註40 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』38〜41頁

 註41 ロバート・ロス著 石鎚優訳『南アフリカの歴史』41〜42頁

 註42 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』121〜123頁

 特恵関税の縮小というのは、当時の産業革命の進展でどんどん増産されていたイギリス製工業製品を広く世界各国に売り込むためには各国製の産品を買ってやらねばならず、その各国産品と競合していたイギリス植民地産品をそれまで保護していた特恵関税を縮小する必要に迫られたということである(註43)。浅田實氏によると1815〜1821年の間のケープ産品の最重要市場はセントヘレナで、というのは元々イギリス東インド会社の東洋貿易の基地として1813年頃でも数千名が住んでいた同地はナポレオンの流刑地になったことで倍に増えた人口で賑わっていたからである(註44)。他にもオーストラリアの流刑地と交易してみようとしたが遠隔に過ぎたとか、インドにワインを売り込んでみたが樽が良くないので芳香が駄目だといわれたとか、中国から茶や織物の輸入がなされたがケープ側からはこれといった輸出品が見当たらなかったとかいうが、そういった海上貿易よりもケープ植民地内の北部・東部の内陸部の開発及びそれらの地域とケープタウンとの間の商業交流、更にはアフリカ人との交易がかなり盛んになされて行くことがゆくゆく植民地経済を大きく刺激することになったという(註45)。それと、アメリカ独立戦争からこちらのケープでは通貨が不安定でインフレが進んでおり、それが良い方向に転んだ結果としてケープタウンの公共施設や家屋の新調、新しい葡萄の木の植え付けといったこともなされたのだが、駐屯軍の支出膨張といった財政弱体化にも作用、そこで1825年に着手した通貨改革で多くの植民地住民に犠牲を強いつつもこれがデ・キーウィト曰く「不況期がもたらしたやっかいな債務を一掃し、ケープ植民地に健全な貨幣制度をもたらし、イギリス本国と同じ通貨価値をケープにもたらした。1825年の改革はケープを大英帝国の経済体制に同化させる重要な処置」となったのであったという(註46)

 註43 熊谷次郎著「自由貿易帝国主義とイギリス産業」秋田茂編著『パクス・ブリタニカとイギリス帝国』26〜28頁

 註44 浅田實著「ナポレオン戦争時代のケープ植民地世界」

 註45 浅田實著「ナポレオン戦争時代のケープ植民地世界」

 註46 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』39〜41頁

 またこの1825年にはそれまで専制的権力を握っていた総督(貴族階級の軍人がつとめていた)に制限が加えられ始めた年でもある(註47)。まず「1820年の移民」が「イギリスの制度」を要求し始めていたこの年の5月、サマセット総督が「顧問参議会」を新設して判事長・総務長官・財務長官・会計検査官等の6名の官僚を参議員とし重要政務を審議させるものとした(註48)。総督が同参議会の決議と異なる措置を行う場合には本国の植民相に対してその理由を説明する必要があるとされたが、しかし同参議会はあくまで諮問機関であって立法権は無し、確かに総督の専制を掣肘し得るものではあっても民意を反映するものでもない……参議員は総督の任命によったため、市民からすれば「代表権のない者に納税義務はない」とも言いたくなる……ということでその頃に市民の間で盛り上がってきた民権運動の中から「南アフリカ商業新報」の一派が翌1826年、「即時代議政府」を求める陳情書と1600名の署名を本国政府に送付した。対してサマセットの後任のバーク代理総督は「ケープには議会を構成するに足る有能なる人士は少数である(吉田書からの引用)」と述べつつ1828年、民間から2名を顧問参議会の参議員として登用した。その片方は総督べったり、片方は何かと楯突いてばかりで5年で辞職を強要され、しかし1834年に着任した自由主義者のダーバン総督が顧問参議会を廃して5名の官僚からなる「行政参議会」と、5名の官僚及びそれと同数ないしそれ以上の市民参議員からなる「立法参議会」を新設した。市民参議員は官選で総督が富裕商人や地主の中から指名し、イギリス国王の罷免によらない限りその職に留まること、そして総督の発する総督令は必ず立法参議会の同意を経るものとする。

 註47 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』122頁 ここで第一回目のケープ占領の時に設置された「6名の市民選出議員からなる市民上院」がどの程度の力を持っていたかが気になるのだが、やはり普通に考えて大したものではなかったのではないかと思われる。

 註48 以下この節は吉田賢吉著『南阿聯邦史』101〜104頁、C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』44〜48頁、林晃史著「南部アフリカ」 星昭、林晃史著『世界現代史13 アフリカ現代史1 総説・南アフリカ』61〜62頁 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』137〜138 144〜145頁 ロバート・ロス著 石鎚優訳『南アフリカの歴史』51〜54頁 岡倉登志著『ボーア戦争』15頁 佐藤千鶴子著「南アフリカにおけるムスリムの歴史的形成とアイデンティティ 西ケープ州ケープタウンを中心に」による。

 司法関係でも改革が進む。1812年に巡回裁判制度を導入、1827年の第一次司法条例と1834年の第二次司法条例とで従来の高等裁判所にかえて「最高法院」を設置、それまであった総督の判事任免権を廃して国王による任命としたことで「司法の独立」が成り、地方制度でもオランダ東インド会社以来のラントドロスト(地方行政長)やヘームラート(地方参議)が廃されて「知事」「県会」が地方行政や地方裁判事務を担当する。デ・キーウィトによるならばこれらの改革で「東インド会社の辺境地放任は過去のものとなった」とはいえケープ植民地自体がまだまだ貧し過ぎてそれ等に支払う十分な給料を提供出来ず、旧来のラントドロストやヘームラートと比べて「明らかに勝っていたとは言い難かった」というが、トンプソンは「しろうとくさい(ときには腐敗した)オランダ人官吏のかわりに、政府は裁判所判事にイギリス出身の資格のある法律家を任命し、イギリスの法的手続きを導入した」と述べ、ただオランダ東インド会社時代にはケープタウンとステレンボッシュ近隣以外では極度に弱かった支配権を徐々に強化していく過程で「イギリスの文化と諸制度」が「強化」されていくこととなり、そのペースは「1820年の移民」の要求で早まったとしている。法については林晃史氏は「刑法はイギリス刑法が導入されたが、民法はローマン・ダッチ法をそのまま残した」と述べていて、後者はつまりオランダ東インド会社時代のものが残ったということなのだが、吉田賢吉氏は「刑事事件に陪審制度が導入される等ローマン・ダッチ法と英法との総合が漸次行われるようになった」としている。

 1828年には英語が公用語となる。出版の自由は認められていて、双方の言葉による刊行物がなされたが、やはりこういったことはボーア人の自尊心を傷つけずにはおられなかったようであり、しかも1830年代までには政府官庁・裁判所・公立学校で英語だけが正式な使用を認められるようになってしまった。岡倉登志氏は「イギリスから派遣された行政官は、オランダ語の使用さえも禁止した」と述べているがこれは誤解を招く表現であろう。吉田賢吉氏によるならば教職にはイングランド人よりも親しみやすかったというスコットランド人が多数招聘されてこれが発音の上でも英語教育に好適だったという。教育といえば1829年には現在のケープタウン大学の前身たる「サウス・アフリカン・カレッジ」が創設されている。宗教面ではオランダ東インド会社領時代末期の1786年でも「オランダ改革派教会」の教会がケープタウン近郊にあるだけだったのが1810年以降はイギリス国教会の普及がはかられたことや経済発展の余慶でプロテスタントのみならずカトリックをも含む各派教会とその組織が拡充され、宣教師による学校の設立が進んでいった。もっともボーア人の大半はオランダ改革派教会のままだったが。有色人に対するキリスト教の布教に関しては後述するとして、以前からいたイスラム教徒のためのモスクも1804年にオープンしている。オランダ東インド会社領時代から増加傾向にあったイスラム教徒は1825年時点のケープタウンだけで3414名、1842年にはケープタウンの人口の3分の1強の6435名にも達することとなる。

   コイサン人と奴隷の解放  (目次に戻る)

 ところで先にも軽く触れておいたがイギリスは1807年に奴隷貿易を禁止している。「奴隷貿易」の禁止であって「奴隷制」の禁止ではないのだがケープの奴隷主たちは新規の奴隷供給を断たれることとなり、手元の奴隷やコイサン人の使用人を一段と厳しくこき使うことで当座(池谷和信氏によれば前述のようなワインや羊毛の需要増大に応じて労働力を欲していた時期だった)を凌ごうとした(註49)。この時期に奴隷叛乱が生じたことは既に触れたところである。本来はケープ植民地の奴隷は主にその東部で使役されていて西部には比較的に少なかったのがイギリス統治時代に入って以降は西部でも10年ごとに20%以上のペースで増加するようになったといい、奴隷でなく使用人であったとしても賃金はあまり払われず奴隷のような扱いだったという。しかしこの頃のイギリスでは植民地にも「法の支配」を導入すべきであるとか、不自由労働は不安定を生み「進歩」を妨げるとかいう考えが勢いを増してくる。ということでイギリス政府はコイサン人とその雇用主の関係も改善させようとしたが、ロスによれば現地の総督が1809年と1812年に制定した条例は失笑レベルに雇用主の肩だけを持つものでしかなかったといい、デ・キーウィトによれば1809年のそれは「有色民を法の支配下に置こうとする初めての真剣な取り組み」で労働契約や賃金支払いについて規定してはいたが、とりあえずは放浪生活を禁じるという形で全コイコイ人に就労を強要することに役立ってしまったという。トンプソンによれば1809年のそれは「ホッテントット」の地位を制度的に定義した最初の試みで、賃金支払いに関する不法行為から彼らを保護しつつ奴隷用の法的諸拘束をも彼らに適用してその移動を規制、1812年のそれでは白人に雇用されているコイコイ人の子供をも拘束するものであった。峯陽一氏によれば本国の意向は別としてケープ植民地当局のイギリス人行政官がアフリカーナーに配慮していたということで、しかしこれに反発する声も盛んに上がるようになってくる。

 註49 以下この節は吉田賢吉著『南阿聯邦史』104〜110頁 ロバート・ロス著 石鎚優訳『南アフリカの歴史』42〜44頁 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』126〜135、140〜141、143、145、172〜173、576頁の訳註9 峯陽一著『南アフリカ 「虹の国」への歩み』81〜82頁 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』45〜50頁 ジャン・モリス著 椋田直子訳『ヘブンズ・コマンド 上巻 大英帝国の興隆』65〜66、70〜71頁 池谷和信著「南部アフリカ」川田順造編『新版世界各国史10 アフリカ史』345頁 林晃史著「南部アフリカ」 星昭、林晃史著『世界現代史13 アフリカ現代史1 総説・南アフリカ』64頁 浅田實著「ナポレオン戦争時代のケープ植民地世界」 北川勝彦著『南部アフリカ社会経済史研究』166〜167頁による。この節での先住民の呼称が「コイコイ人」になったり「コイサン人」になったりしているのは参照した文献によって表記が異なるからで、各書の執筆者の方々はそれぞれ史料に基づく厳密な呼称をしているのだろうとは思うが本稿では例によってその辺を深く考えずに適当に書き進めておく。

 吉田賢吉氏によれば1812年に始まる巡回裁判でコイコイ人の訴えも受け付けたところ白人による虐待案件が盛んに訴えられ、宣教師たち(詳しくは後述)も博愛主義の立場からコイコイ人を弁護したことで「片手落ちな判決も少なくなかった」ため「農民達にとっては土人とは精々半人前の人間位にしか思えなかったのにそれが今や法廷で同じ法律の裁きを受けると云うことは自分達の面目をふみつけられたような気がした、それ故この巡回裁判を暗黒巡回裁判として極度に之を嫌悪した」とのことである。デ・キーウィトも同様のことを述べて「社会革命が始まったのだ」としている。あるボーア人などは虐待のかどで法廷に出頭を命じられて2年間もこれを無視した挙句に官憲に逮捕されそうになったところでこれに銃をぶっ放して抵抗、返り討ちで殺されたのだが、これに憤激したそのボーア人の親族や友人たちがイギリス支配への反感も手伝って叛乱を計画したところで計画露見、首謀者を逮捕されたのを奪回すべく蹶起するもスラハテルス・ネックでの戦闘で敗退するという大事件……後世「スラハテルス・ネックの反乱」と称される……にまで発展している(1815年)。叛乱軍の幹部5名が死刑、32名が国外追放に処せられた。その後のボーア人はイギリスによるボーア人圧迫を象徴する合言葉として「スラハテルス・ネック」を長く用いることとなったという。だが後述するように巡回裁判が不当に白人の肩を持つことも少なくなかったらしいのだが。

 続いて1823年、その頃の本国でいよいよ募ってきた人道主義の世論に押されたイギリス政府の命令を受けたサマセット総督は食事・衣類の最低基準と労働時間・罰則の上限を定めた奴隷法を制定、ただし現場の行政官(殆どが奴隷主)が形だけしか遵守しないとしても追及しようとはしなかったため、本国政府から繰り返し締め上げられた。それでも奴隷虐待がやむことはなかったが、奴隷の側も状況の改善に動くようになる。1825年にはガラントという奴隷が主人ウィレム・ファン・デル・メルウェの鞭打ちをやめさせてくれとラントドロスト(註50)に繰り返し陳情しても埒があかず、仲間の奴隷やコイコイ人使用人を糾合して農場を占拠し主人夫妻を殺すという事件が発生したのである。

 註50 この役職が廃止される前の逸話である。

 この蜂起は忽ちコマンドに鎮圧されたが、その頃には上で少し触れたように宣教師によるコイコイ擁護運動が盛り上がりつつあった。コイコイ人相手に最初に布教を行ったのはドイツ人のモラビア教徒の宣教師でオランダ東インド会社時代の1736(もしくは1737)~1743年にステレンボッシュの東方64キロほどのバビアーンス・クローフで活動、この時は植民地の有力者層と拗れて撤収を余儀なくされたが、1792年に同じ教派の宣教師が同地で布教再開、次いで1797年にロンドン伝道協会のJ・T・ファン・デル・ケンプが来訪してコイコイ女性と結婚し、1803年にポート・エリザベス付近に伝道基地を設けて同地で収奪されているコイコイ人たちを擁護している……トンプソンによれば彼が取り上げた罪状の多くは例の巡回裁判では立証出来なかった由である……。続いて1819年にやはりロンドン伝道協会からやってきたジョン・フィリップ(協会理事として現地での布教を監督)が当初は主にイギリス系入植者貧困層の支援に当たっていたのが1821年には巡回裁判所やラントドロストによってコイコイ人が無碍に扱われていることを察知、1826年に本国に戻って奴隷制度反対運動に対しコイコイ人問題も同様に扱うべきことを訴えかけた。デ・キーウィト曰く彼は「有色民の法的・社会的身分の抑圧や不正に対し、個々の法律による是正を求めるのではなく、包括的な身分の是正をはっきり要求しようと決意した」のである。

 おかげをもって1828年7月15日に本国下院にて「すべての南アフリカ原住民」に同地の白人と同じ自由と保護を与えるよう植民地政府に命じる動議が通過した。ただしケープの方でも既にこのことあるを予測していた総督がコイコイ擁護に意欲的なラントドロストのアンドリース・ストッケンストロムに相談の上で同年同月17日の「第50法令」にてコイコイ人、サン人とその他の奴隷でない有色人種に白人と同じ法的資格を付与、彼らを強制的に働かせることの禁止、彼らの土地の所有や貸借の自由化を定めた。放浪ももはや違法ではないし、雇用主を自分で選択することが可能となる。「奴隷でない有色人種」だから奴隷はまだ奴隷のままなのだが、とりあえず今回の法令発布に向けて尽力していたジョン・フィリップはロスによれば「コイサン人が自由に働くことを妨げている法律は、新時代の経済倫理に反しているのみならず、富を減らし貧困を拡大するという点で、きわめて反動的である」という功利的な理屈も持ち出していたそうだが、吉田賢吉氏によると今回の法令はやはり白人の威厳を傷つけるもので、「事実この法令の公布後土人は従来ほど従順ではなくなった」とか「公布の当時農民に與えた精神的実質的な打撃は大きく、土人労働に依存すること大であるボーアはケープ当局が所詮自分達の味方ではないと云う観念を抱くようになった」とかいい、また同氏に曰くケープ当局としても基本的には「土人を教化」してくれる宣教師を歓迎していたのに「土人行政問題に容喙」してくるようになったフィリップのような人間はやはり鬱陶しかったという。ところがデ・キーウィトによると「ケープ植民地で権限の拡大をはかっていた政府は、宣教師たちの影響力と威信を笠に来て」農民たちに重圧をかけるような改革を実施していたのだという。

 しかしまた吉田賢吉氏に曰くところによればフィリップたちが「土人偏愛の為欧人社会の実情を軽視したことが政府及び農民と激しい軋轢の原因となった」「或場合には捏造と誇張に満ちた現地報告を以て英本国の識者を動かしてケープ当局の政策を非難せしめたので益々政府及び農民の反感を高めた」のだそうである。政府当局者にも色々な考えの人がいたことは確かなのでデ・キーウィトも吉田氏も両方正しく、また「捏造と誇張」というのも、或いは多少はそんな部分もあったのかもしれない。ロスによればモラビア教会やロンドン伝道協会のみならず英独仏のプロテスタント諸教派から多数の宣教師が派遣されていた1830年代のケープでは「おそらく世界最強の布教活動が展開されていた」とのこと(第50法令は1828年のことだが筆者思うに大差なかろう)で、それはこの地の気候が宣教師の健康を害することがあまりなかったことや、先住民側の境遇に「新しい生き方と世界観」がマッチして見事な成果があがっていたのだという。その結果としてデ・キーウィトによるならばコイコイ人に課せられてきた各種の桎梏が解き放たれたのと一緒に「盗む、だます、不法侵入するといった彼らの不道徳な要素も、当然、解き放たれた。これら不道徳な連中の行状のために、ケープ植民地は直ちに非難ごうごうとなった」とのことで、トンプソンも「一時期、多くの者が地方をうろついて、泥棒生活を送ったこともあった」こともあってアフリカーナーもイギリス人も第50法令に非難轟々だったと述べ、そこでコイコイ人に「見苦しくない暮らし」を強制するという形で彼らを縛る「浮浪者条例」が起草されたがこれはフィリップの手回しで本国政府に却下されることとなった。とはいえコイサン人たちが法的権利を手に入れたところでそれを活かして何かしようにも経済的な元手がなければどうにもならない訳ではあるのだが。コイコイ人の一部はケープ連隊(コイコイ人からなる植民地軍部隊)に入隊したが労働力をとられるのを嫌がる白人農民の妨害にさらされ、また一部の者は伝道団体の布教基地に住み込んで技術訓練を受けたりしたが団体側の資金や収容能力に限度があったりで、結局のところ多くの者は白人の下で働き続ける以外の選択肢がなく、ただ前述のストッケンストロム(植民地東部の弁務官に昇進)がカト川上流地域にコイコイ人のために用意した肥沃な入植地があってこれはかなり順調に発展したが後述する第六次〜第八次のカフィール戦争に巻き込まれて大打撃を被ることとなる……。

 話を戻して1833年、遂に本国議会(その前年の「第一回選挙法改正」で中流階級に参政権を与え「腐敗選挙区」を整理したところだった)で奴隷廃止法が成立、ただしこれはアフリカよりもカリブ海の島嶼植民地における奴隷制度の惨さが問題視されたことによったのだが、ケープ植民地においても1834年12月1日をもって全ての奴隷が解放される運びとなった。その総数3万9201名、奴隷主には賠償金が払われ元奴隷は「社会に適応するための見習い期間」として4年間拘束されるという移行期間が定められた。ジャン・モリスによればボーア人はこれに仰天したといい、吉田賢吉氏によれば奴隷主たちの当初の反応は比較的冷静であったというが、後者の記述が正しいとしても「当初」の話である。というのも奴隷主のうちでも貧しい階層は奴隷のタダ働きに依存してしまっていたのと、賠償金の支払いが遅延した上に最初の約束の半分以下に減額されてしかも全額現金ではなく吉田氏がいうところでは「香ばしからぬ株券」を交えて払うとか、支払地はロンドンとされていてケープタウン在住者なら直ぐに銀行を通じて入手出来たが地方在住者はなかなかそうもいかずしかも支払い期間が決められていた(ので賠償金を貰う権利を安価で売り払う奴隷主もいた)とか、結局のことろ貰えた賠償金は奴隷の代価の5分の1に過ぎなかったとかいう。そして結局自由を手に入れた奴隷に出て行かれて一時的に深刻な人手不足に陥った農場というのも結構あった……「一時的に」というのはつまり大局的に見れば白人による黒人支配体制がここで根本的に揺らいでしまうことはなかったということなのだが、とにかく第三部で詳しく解説する「グレート・トレック」はまさしく奴隷解放直後の1835年から1840年にかけて発生する一大イベントなのである。

 ところで、吉田賢吉氏の引くホーフメイヤーによるとケープの白人入植者は「英人も蘭人も土人に対して異なった観念をもっていたわけではな」かったのに、「宣教師の殆どすべてが英人であり、農民の大部分が蘭人であったと云う偶然の事情」が「英蘭両民族相互間の反感を誘発する一因となった」という。デ・キーウィトは宣教師について「彼らは、福音書のために働く人々に特有の、執拗さと快活さを持っていた。目的達成にあまりにも熱心なため、時間をかければ入植者の精神的風土に作用する可能性のある、ゆっくりとした変化を待つことができず、彼らはケープ植民地内部で全く用意できていない変化を、外部から性急に押し付けることになった」「入植者たちの社会制度に異を唱える博愛主義者たちは、奴隷と有色人の奴隷的身分が、白人社会を高位に保つためにいかに重要な柱石であるかということを認識していなかった。ケープ植民地のように貧しい土地では、ケープ植民地よりもっと豊かで繁栄している土地よりも、経済的・社会的差別がいっそう重要であり、いっそう厳しく行われなければならないということを、彼らは理解していなかった」と論じている。

 林晃史氏によるとケープ植民地の宗教界ではアフリカ人と白人の同等を唱えるロンドン伝道協会等の宣教師たちと違って唯一例外的にボーア人の多数が奉じるオランダ改革派教会だけが「すべての人類を神に救われる者と救われざる者の2つに分ける運命予定説をとり、非白人は生まれつき白人の下僕となることが運命づけられていると信じ」ていたという。ジャン・モリスの解説するボーア人の心境では厳格なカルヴァン派の絶対神を崇拝していた彼らにとってその神こそが「ボーア人の農民ひとりひとりが独立した主人で、アフリカの自分の農場に対する権利と、自分の道義心が許す範囲でアフリカの黒人を利用する絶対的権利を有していると、たとえ暗黙のうちでしかなくても、定めてくれ」ていたのに「ノアの次男ハムが長男のセムと平等だというのなら、神の定めた秩序そのものが維持できないではないか」「反抗的な雇い人を鞭で打ってわからせることができないなら、自分の農場の秩序を保つことなどできないではないか」ということで、もはや自分(ボーア人)たちは「英国の新秩序を代表する信心家ぶった人たちから、劣者、半ヨーロッパ人、辺境の住民として扱われていると感じ」るようになってしまったという。トンプソンも奴隷解放及び第六次カフィール戦争(後述)によって打撃を受けたアフリカーナーの間で高まりゆく不満の背景として「福音伝道者は、アフリカーナーの苦境に理解を示すことなく、その根深い人種主義的な思い込みと実践に挑戦しようとしていた」ことをあげている。しかし宣教師はともかく入植者一般の感覚としてはイギリス系の白人も黒人を差別していたという上記ホーフメイヤーの指摘は重要である。トンプソンもまた曰くイギリス人とてアフリカーナーと同じように労働力が入り用であったし相次ぐカフィール戦争がまた彼らの人種主義を嵩じさせて行くのであって、要は「17、18世紀には、オランダ人の法的実践とりわけ奴隷制が、人種的秩序の発展をもたら」していたのが「イギリス人の支配のもとでは、人種的秩序は形式としての奴隷制から形式としての自由への移行に適応していた。次の世紀にも人種的秩序は生き残り、産業化と都市化の時代に適応することになる……これは、深く根をおろした社会構造の持続性を示す顕著な例である」ということなのである。

 またトンプソン書の訳註にて奴隷解放の背景について人道主義者たちの努力だけでなく「自由な労働市場を求める声」や「コイコイ人エリートを養成する必要」が白人社会の側にもあったことも指摘されている。しかしそれにしてもボーア人もイギリス人も似たり寄ったりだったと言いつつ両者が民族として混淆してしまうことはなかった……それどころか両者が別々の集団であり続けている原因の一つが今回の奴隷解放にあったとすら言い得るということである……一方で、解放後の奴隷とコイコイ人は急速に一体化していった。法的にも両者は同等となったのであり、官吏からは一括して「ケープ・カラード」と呼ばれることとなる。デ・キーウィトによればこの時点で既にとっくの昔に「コイコイ人(というのは邦訳による表記で原文では「ホッテントット」と書いてあるそうだ)」という言葉は「誤称」になっていたのだそうである。サン人はともかく「自立して牧畜を営む集団としてのコイコイ人」は21世紀現在のアフリカには全く存在しないことは本稿第一部の冒頭近くで述べた通り、19世紀前半のこの時点でも他の出自を持つグループとの混淆が進み過ぎてしまっていた、ということである。それでもトンプソンによればひと口に「カラード」といってもケープタウンのそれと辺境のそれとでは「生物学的、文化的な相違」も社会経済的な違いも大きかったそうであるが。ともあれロスによると解放後の奴隷たちは小作農や零細農になる者もいたが大半はやっぱり旧主の農場の労働者という地位に留まり、1841年には労働条件に関する「マスターズ・アンド・サーバンツ法」が雇用主側に極めて有利なように修正される。トンプソンによればジョン・フィリップも他の伝道者たちにしても、奴隷解放を実現した後の「そこから先のことは考えていなかった」、せいぜい「自由な市場が人道的な結果を生み出すことを期待していた」程度で、解放された人々が経済的社会的に白人と平等になれるとは思っておらず、ましてや国家が彼らの「内実のある平等」を実現するための積極的な支援を行うべきだという発想はなかったのだという。北川勝彦氏によると解放奴隷の多くが成り上がれなかったのは土地や資本、それから水源へのアクセスが故意に拒絶されることがあったからだといい、その一方で「奴隷社会には強い抵抗が見られ、解放された奴隷たちは自由、移動性、交渉力、家族生活、個人の尊厳を享受できた」と論じる研究もあるといい、また「最近の研究では、奴隷解放は突出した事件としては扱われなくなった。奴隷制はすでに衰退していたからだろう」ということである。

   第六次カフィール戦争  (目次に戻る)

 奴隷解放のなされた1834年には「第六次カフィール戦争」が勃発している(註51)。まず約1万のアフリカ人が白人入植民の機先を制してこれを急襲、牛11万1930頭に羊・山羊16万1930頭、馬5715頭、幌牛車60を奪い去り農家456戸を破壊し356戸を毀損するという大暴れである。白人側も死に物狂いで防戦、この年に着任したばかりのダーバン総督を筆頭に援軍も続々到着して現地の惨状を目の当たりに見るや敵軍を断固「膺懲(吉田書の表現)」すべしとカイ川の彼方に追いやった(前述のカト川上流地方のコイコイ人入植民も植民地側に立って勇戦)。カイ川というのは第五次カフィール戦争の時にコーサ人をその彼方へと追いやったカイスカンマ川から更に100キロほど彼方である。ここで宣教師たちが止めに入らなかったら更なる追撃を続行したかもしれないというが1835年9月に和睦成立、カイスカンマ川とカイ川の間の地域が「クイーンアデレイド」と命名されて新たな白人居住地となる。ただしダーバン総督としては非武装で白人に恭順するという条件で同地の一部にアフリカ人を住まわせても構わないと思っていたところに吉田賢吉氏曰く「予ねてよりジョン・フィリップ一派はカフィア戦争(カフィール戦争)の情勢を虚構と誇張を交えて本国に詳細報告していたのである。英本国では自由党が天下をとり植民地の奴隷解放に得意満面のときであったので下院はダーバン総督の措置を以て無辜の土人から土地を強奪して白人に与えんとするものであるとなしクイーンアデレイドの領有に反対を示」して来た。更にグレネルグ植民相からもダーバン総督に「クイーンアデレイドの地は直ちにカフィアに返還すること然る可し、尤も右は非公式報告に基くものなるが故にもし右報告にして真相に相違するに於いては至急実情回報ありたし(吉田書からの引用)」との訓電が発せられた。ついでに東部地方を管轄する「副総督」を派遣するとのことである。ダーバンは何故かこれに回報せず、副総督がそれについて何か訓令を携えて来ると思っていたようだが、やがて着任した副総督はそのようなものは持っておらず、同年10月をもってクイーンアデレイドの放棄を声明せざるを得なくなった。本国政府には植民地の拡大で経費が増大するのを厭う傾向も強かった。

 註51 以下この段落は吉田賢吉著『南阿聯邦史』112〜114頁と巻末の年表 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』135、154〜155頁 林晃史著「南部アフリカ」 星昭、林晃史著『世界現代史13 アフリカ現代史1 総説・南アフリカ』62頁 ロバート・ロス著 石鎚優訳『南アフリカの歴史』45〜46頁による。

 デ・キーウィトによると今回の戦争の背景として、これについても本稿第三部で詳しく述べるがコーサ人居住地帯の更に北東方のアフリカ人社会に起こっていた大騒乱「ムフェカネ」の影響がこの地域にまで及んで来て「不安を募らせ、些細なことで騒動を引き起こす不穏な空気を全体的に増大させ」ていたところで折りしも辺境地帯を襲った旱魃のせいでコーサ人と白人の双方が過激化したのだといい、そんな中で元々は博愛主義的な人だったのにその方向での施策を実行に移す前に勃発した今次カフィール戦争で入植者が被った大損害を目の当たりにしたダーバン総督がアフリカ人を指して「武力と処罰しかわからない野蛮人だ」と断定するに至ったとか、この戦争に関する公式報告書では軍人らしい勇敢な行動が語られているが実際にはアフリカ人の畜牛や食料が目的であって、19世紀を通じてカフィール戦争の大部分はロンドンのスミスフィールドにあった家畜市場での牛追いと大差なかったのであるとか述べ立てている(註52)。またロスによると中立の立場をとっていたヒンツァという首長が交渉による停戦を申し出てきたにもかかわらずイギリス軍に捕らえられ首を刎ねられたという(註53)。トンプソンはその頃までに酷く関係を拗らせていた白人とコーサ人の双方の間で牛泥棒が発生していたと述べつつ、植民地側の官吏・入植者・商人の方がより強圧的で優勢に立ってコーサ人を脅かしていたというような筆致で今回の戦争の背景を綴り、それからヒンツァ首長は騙されて捕えられ逃走を試みて銃殺されたと述べ、更に上記の「ムフェカネ」の影響でコーサ人に従属するようになっていた「ムフェング」という集団(これも詳しくは第三部で解説する)の多くが植民地側に靡く傾向を見せていたと記している(註54)

 註52 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』52〜53頁

 註53 ロバート・ロス著 石鎚優訳『南アフリカの歴史』45頁

 註54 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』154〜155頁

 それとクイーンアデレイドの併合と返還の経緯についての本稿の記述はとりあえず吉田書に拠っているが、デ・キーウィトによれば同地の併合はその頃「先行きが危ぶまれるほど不足していた農場をようやく確保」出来るという入植者たちの期待に答えるもので、ただしダーバン総督が「先住民を掃討することは不可能だと悟った」ためにその一部を新領土に受け入れて「新たに帝国臣民となった人々に対して法律、産業、文明を導入すると言明」したのに今回の戦争の原因と結果に関してジョン・フィリップが行った抗議がグレネルグ植民相を動かし返還指令と相なった、ところがそのジョン・フィリップは「土地の渇望と報復的強奪という過酷な体制を目にしたが、入植者が耐え忍んだ甚大な損害を見落とし」ていたのであるという(註55)。またこれもデ・キーウィトによれば結局のところクイーンアデレイド返還とは「諸部族をイギリス支配圏外の自主・独立社会として扱う振りをすること」に過ぎなかったのであってそれは「危険な虚構をはらみ、黒人と白人の境界線という欺瞞が、入植者と同様先住民に対しても、政府が直接責任を負っているという真実の前に崩れ去る、避けることのできない日の来ることを先延ばしした」と言わざるを得ない……、というのはグレネルグ植民相は要するに「辺境地の行政支出を避けようとした」のであって、1830年の歳入が1815年のそれと大差なかったというような「ケープほど貧しい植民地で十全な辺境態勢を構築するのに必要な費用と労力をかけることを回避した」という訳だったのだが、それにしてもこの頃の本国の大臣たちは「軍人よりも治安判事を用いる方が安上がりであり、劣等民族を支配するコツは、軍事教練や銃剣ではなく、役人を雇って監督させるというもっと平凡な方法であって、それも、彼らの周期的な怒りの爆発よりも、日常生活の活動を監督することだった」ということを理解していなかったのだという。現場のダーバン総督に関しては、吉田賢吉氏によれば植民地の機構改革のところでも触れたような自由主義者でイギリス人のみならずボーア人にも期待を寄せられていたのに、その面目を潰す形でクイーンアデレイド返還がなされたことがボーア人を甚だ失望させたというのだが、今次のカフィール戦争と並行して行われていた奴隷解放に総督としてどのように関与しそれについてボーア人からどう思われていたかについては筆者の調べた範囲では不明である(総督ではなく本国と総督の周辺の人間が悪いとでも思われていたのであろうか)。

 註55 以下この段落はC・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』53〜55頁、吉田賢吉著『南阿聯邦史』114頁による。

 ところで『山川新版世界各国史10 アフリカ史』の池谷和信氏の記述では第六次カフィール戦争について「1834年に、イギリス軍はズールーと戦い、敗退した。その結果、イギリス軍は、グレートフィッシュ以南には移住しないことを約束してズールーと妥協した」とある(註56)が、相手勢力も戦争の勝敗もその結果についても間違えている。カフィール戦争の相手はコーサ人であって「ズールー」というのはこの時点のイギリス領からはかなり離れたところで勢力を伸ばしていた集団であり、それについても第三部で詳しく述べるとして、池谷氏の記述はおそらく1941年刊行の鈴木正四氏著『セシル・ローヅと南アフリカ』の「ブーア人は東方に発展しようとしてヅールー族と衝突し、1779年以来5回の戦闘をくりかえしていた。1834年からその翌年にかけて、イギリス軍はヅールー族を攻撃して逆に大敗を被り、大魚河以上に移住しないことを約束してヅールー族と妥協した」(註57)という不正確な記述によってしまったのではないかと思われる。鈴木書は『山川新版世界各国史10 アフリカ史』の参考文献にも挙げられている(ただし1941年刊行のものではなく戦後に出た復刻版を挙げている。そちらについては筆者も現物を確認していてない)ので、ほぼ間違いないであろう。(ただし鈴木書によるとアフリカ人一般のことを「ヅールー」と呼ぶこともあった由である(註58)。それは実際に当時の南アフリカでそのような呼称が用いられていたのか鈴木氏の誤解によるものかは筆者には分からないが、何にしても山川新版世界各国史の記述が誤解を招くものであることは間違いない)

 註56 池谷和信著「南部アフリカ」川田順造編『新版世界各国史10 アフリカ史』345頁

 註57 鈴木正四著『セシル・ローヅと南アフリカ』13〜14頁

 註58 鈴木正四著『セシル・ローヅと南アフリカ』5頁

つづく   

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