ドイツの植民地 第5部 その他の地域

   カメルーン   目次に戻る 

 19世紀の後半、アフリカ大陸中部の植民地化に着手したのはまずベルギー、フランス、そしてドイツであった。ベルギーは現在のコンゴ民主共和国、フランスはコンゴ共和国(民主共和国とは別の国)とガボンと中央アフリカとチャドを領有、ドイツはカメルーンを狙った。カメルーンの現地においては1860年代からドイツ系民間商社が活動していたが、内陸部の黒人王国に阻まれてはかばかしい成果があがらなかったため、1883年に至って商社からドイツ本国政府に対し現地の公式な植民地化が要請されたのである。

 そして84年7月14日、本国政府から派遣されてきた探検家兼地理学者グスタフ・ナハティガル博士によってカメルーンの保護領化が宣言された。同地はイギリスにも狙われており、そちらからは外交官エドワード・ヒューウェットが派遣されてきていたが、彼による領有宣言はほんの少し(1週間)の差で出遅れた。ただしその時点ではドイツの実効支配が及ぶのは大西洋沿岸の一部地域に限られており、カメルーン北部に居住するフラ人の諸国を制圧したのは1902年、内陸部まで固めるのは1911年までかかることになる。その11年にはフランスによるモロッコの支配権を認めるかわりにフランス領コンゴの一部を譲らせてカメルーンに編入するという出来事があった(詳しくは後述)。

 「ドイツ保護領カメルーン」の経済開発は「北西カメルーン会社」や「南カメルーン会社」等の企業に委ねられ、それらによって鉄道や道路の建設が推進された。産品はコーヒーや綿花やゴムといった商品作物で、それらを入植ドイツ人の経営する農園で黒人労働者に栽培させた。1913年におけるドイツ人の入植者は200人、その下で働く黒人は1万8000人を数え、労働力を調達する過程で暴動が起こったりした。植民地化の遅れた北部地方ではイスラム教徒の豪族を通じての間接統治が行われた。

   トーゴ   
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 カメルーン保護領の建設者ナハティガル博士は、カメルーン領有宣言の9日前の1884年7月5日に西アフリカにてトーゴの領有を宣言していた。ナハティガルはもともとは軍医の出身で、サハラ砂漠を探検して有名になった人物であるが、トーゴ・カメルーンでの仕事を終えたあと本国に帰る途中で客死している。時代を遡って解説すると、トーゴ地域は15世紀からポルトガル人の宣教師や商人が活動していたが、ポルトガル本国の衰退に伴ってイギリス・フランスの資本が進出、19世紀の中頃からドイツ人の宣教師が活動するようになり、1870年代には独英仏3国の商社が商戦を繰り広げていた。ドイツ本国政府はつまりこの戦いに勝つためにナハティガルに命じて現地の植民地化を断行したという訳である。

 90年にはカブレ人が、97年にはコンコンバ人がドイツに刃向かってきたが、ドイツはコトコリ人・チャコシ人と同盟してこれを鎮圧した。97年には東隣のフランス植民地ダホメー(現在のベニン)と、99年には西隣のイギリス植民地ゴールド・コースト(現在のガーナ)との境界が画定された。経済面では北部の住民(イスラム教徒が多い)を労働力に用いての南部(キリスト教徒が多い)の開発が推進された。ドイツはトーゴを「植民地のショーケース」と呼んで港湾都市や鉄道の建設、換金作物の栽培を行い、ここでの農業のやり方は東アフリカでの強制労働導入の際に参考にされることになった。

   膠州湾   
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 ドイツの中国への進出は1882年に山東省で行った資源調査に始まる。清(当時の中国の王朝)は1894〜95年の「日清戦争」で小国日本に敗れて以降は列強の草狩り場となり、ドイツは97年11月1日に山東省にて自国籍の宣教師2人が盗賊に殺害されたことを口実として同月14日に山東半島の南の付け根に近い膠州湾……中国沿岸で最も水深のある極めて良好な港湾だが開発はされていなかった……に面する青島を占領、翌年3月にはドイツ皇帝の弟ハインリヒ公の指揮する装甲巡洋艦「ドイッチュラント」「ゲーフィオン」の圧力のもとに清国と交渉して膠州湾を99年間租借することに成功した。「租借」とは他国の土地を借りることだが実質的には期限付き割譲である。租借地の周辺地域での鉄道建設や鉱山開発の権利も取得した。このやり方は他国にも真似されて、同年ロシアが旅順と大連を、イギリスが威海衛と九竜半島を、翌年にはフランスが広州湾を租借することになる。ちなみにドイツが膠州湾を狙ったのは高名な地理学者リヒトホーフェン(註1)に薦められたからでもある。

註1 中国や東南アジアを広く踏査した人物で、「シルクロード」の命名者として知られている。弟子に中央アジア探検のヘディンがいる。


 ただ……、少し時間を遡って説明すると、ドイツ政府は去る1890年にビスマルクが退陣して以降しばらくの間、植民地の拡大を控えるようになっていた(既に持っている植民地の維持を怠った訳ではないが)。一般世論の考えはそうではなかった(これについては
東アフリカの項で説明した)が、政府としては、植民地をやたらと拡大すると他国との摩擦が発生して通商を損ないかねないと考えたのである。

 「通商」というのは具体的には……これも東アフリカの項で説明したが……外国にドイツ製工業品を売り込むかわりに外国産の農作物を低関税で買うという政策である。しかしこれはドイツ国内の農業関係者の犠牲のうえに成り立つ政策であったため、彼らからの強い攻撃を受けたドイツ政府は90年代後半に入ると植民地政策を転換し、植民地の拡大による「世界帝国ドイツの建設」を声高に訴えることで国民を結束させるという古典的な手法を採用した。実のところ、それまでにドイツが獲得していた植民地の経営は赤字続きでちっとも儲かっていなかったのだが、それ故にこそ、もっと富裕な植民地が欲しいという声が高かったのである。

 膠州湾を占領・租借したのはつまりこの流れの上に立つ行動であるし、太平洋でスペインからマリアナ諸島とカロリン諸島を購入したり、サモア西部を保護領化したりしたのもこの頃のことである。96年には東アフリカでザンジバルのスルタンとイギリスの戦争が発生したが、ドイツは後者のバックについている(戦争そのものはイギリスが一瞬で勝利(註2))。ビスマルクの後任で植民地拡大に消極的だったカプリーヴィは94年に退陣しており(註3)、その次の帝国宰相となったホーエンローエは「ドイツが世界政策を遂行するのは決定済みだ」、外相のビューローは「我々は誰1人も陰におかれることを望まず、我々もまた陽のあたる場所を要求する」と声明した。

註2 詳しくは当サイト内の「オマーン・ザンジバルの歴史」を参照のこと。

註3 その原因は皇帝と労働問題で揉めたからである。皇帝ヴィルヘルム2世は即位当時は第1部で触れたように「親切さをもって労働運動を封殺する」つもりでおり、労働者を満足させるための立法を行ったのだが、しかしその後も議会において社会民主党(労働運動を率いる党)の勢力が拡大し続けたことに失望し、労働運動弾圧へと態度を変えた。しかし議会との関係悪化を憂慮したカプリーヴィは皇帝の路線変更に従わなかった(それプラス農業関係者から叩かれまくっていた)ため、宰相罷免となったのである。


 そんな訳でドイツは1900年に中国北部で発生した大乱「義和団の乱」にも鎮圧軍を派遣し、膠州湾租借地の中心地である青島を東洋艦隊の根拠地として要塞化した。それまで小さな漁村にすぎなかった青島はドイツ式の計画都市につくりかえられてその人口約6万に膨張し、貿易規模は中国で第6位にまで発展した。名物「青島ビール」もドイツが持ち込んだもので、このビールの名前の綴りは今でも中国語でなくドイツ語風のものを使っている。都市建設の際に青島のもとからの住民は強制的に土地を買い上げられて退去となったが、その後に青島の町に住み着いた人たちの大半は中国人で、ドイツ人は2000名弱であった。膠州湾租借地の年間経営費は他の植民地の総計よりも多かったという(http://www.lib.naruto-u.ac.jp/Tenzi200605/comment_tatuoka.html)。とはいっても、1914年の第一次世界大戦前夜の頃ですら、ドイツの植民地貿易の額はドイツの全貿易額のうちたったの0.1パーセントという微々たるものでしかなかった(ドイツ現代史)のだが……。


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