ドイツの植民地 第1部 東アフリカ
   
   オマーンの盛衰   目次に戻る 

 現在のソマリア、ケニア、タンザニアのインド洋沿岸地方は17世紀以降アラビア半島東部のアラプ系イスラム海洋国家「オマーン」の支配下に置かれていた。オマーンは18世紀に入ると内紛のため一時的に衰えるが、1804年に即位したサイード大王の代に至ると再び東アフリカへの勢力拡張に力を注ぐこととなる。東アフリカのインド洋沿岸地域には古くからイスラム商人が入り込んで勢力を張っていたが、オマーンはその最後の決定版ともいえる存在となった(註1)

註1 オマーンに関する詳しい話は当サイト内の「オマーン・ザンジバルの歴史」を参照のこと。


 1821〜27年、オマーンの艦隊はモンバサのマズルイ家を攻撃して服属させ、さらに32年にはタンザニア沖のザンジバル島に王宮を建設、ソマリア、ケニア、タンザニアの沿岸部からアラビア半島東部、さらには(インド方面の)パキスタンの一部まで支配する一大海洋帝国に発展した。オマーンはその広大な領域の中で特に東アフリカの海港諸都市を重視してそこに税関を設定し、そこからあがる関税によって巨万の富を手に入れた。この頃はスエズ運河が存在しないため、例えばヨーロッパからインドに向かう貿易船は大西洋から喜望峰をまわって東アフリカのオマーン領の港を経由しつつ東を目指していたのである。

 オマーンは関税だけでなく特産品の輸出でも潤った。東アフリカの主産品は象牙、丁子、そして奴隷であった。イスラム法ではイスラム教徒を捕まえて奴隷にすることを禁じていたが、ということは非イスラム教徒なら問題ないので、奴隷商人たちは商品を求めてアフリカ大陸の内陸部へとどんどん進んでいった。奴隷は外国に売られるだけでなく、国内でも丁子の栽培のための労働力として用いられた。1850年のザンジバル島とペンバ島の人口30万のうち20万は奴隷だったといい、王宮の兵士として責任ある地位についていた奴隷もいたという(この地域の奴隷は同時期のアメリカ南部の奴隷よりは待遇がよかった)。

 1856年、オマーンの君主サイード大王が亡くなり、残された領土は2人の息子によってアラビア部分とアフリカ部分に分割された。この頃から世界貿易は蒸気船の時代へと突入し、オマーンの帆船艦隊は時代の趨勢から取り残されていく。さらに69年にはスエズ運河が開通して交易ルートが大幅に変更されることになる。次第に衰えていく王国のアフリカ領部分はやがてはドイツ、イギリス、イタリアによって分割されていくこととなるのである(サイード大王は「スルタン」と名乗っていた。これはアラビア語で「権力」「権威」を意味し、つまり国王もしくは皇帝のことである。本稿で述べる「ザンジバルのスルタン」とは、サイードからオマーンのアフリカ領部分を相続した息子の家系のことを指している。それから、彼の領国のことは「ザンジバル」と呼ぶ) 。

   エジプトの南下   目次に戻る 

 19世紀前半の東アフリカへのイスラム勢力の進出は海からのオマーンによるものだけでなく、内陸のナイル河に沿うルートからも行われていた。そちらの主役はエジプトである。エジプトは本来オスマン・トルコ帝国(註2)の属領であったがやがて半独立(ムハンマド・アリ家が支配)となり、オスマン本国と戦争するほどに力をつけていた(註3)。エジプト軍は1821年にはナイル河の上流のスーダンへと勢力を拡大し、さらに現在のウガンダ共和国の北辺にまで迫りつつあった。そして現在のスーダン南部からウガンダ北部にまたがる地域は69年以降はエジプトの「赤道州」とされ、その知事職は74年以降ゴードンというヨーロッパ人がつとめていた(註4)。ゴードンとは、中国の「太平天国の乱」の時に清国に雇わて傭兵隊「常勝軍」を率いたあのゴードンである。ゴードンはその後新たにエジプト政府から「スーダン総督」に任命され、赤道州の知事にはドイツ人エミン・パシャ(註5)が就任した。彼のことは憶えておいてください。

註2 中東から北アフリカ、バルカン半島にかけての地域を支配していたイスラムの強国。

註3 当時のエジプトに関する詳しい話は当サイト内の「ムハンマド・アリ」を参照のこと。

註4 お雇い外国人というのは同時期の日本にもいたのだが、エジプトでは知事クラスも任されていた。アメリカの南北戦争で敗れた南部の軍人たちも大勢エジプトで再就職している。

註5 ユダヤ人の血を引くドイツ人である。おそらく差別の問題から母国を飛び出し、オスマン帝国で医師として働き現地女性を妻にするが、何故かそれを放置して失踪、その後無一文でスーダンに現れゴードンの軍医となっていた。


 しかし肝心のエジプト本体は南下政策に費用をかけすぎたことや近代化を急ぎすぎたこと、単一の商品作物(綿花)に頼る経済だった(相場の変動に強く影響される(註6))ことからやがて破産状態となり、西欧列強の経済支配を受けるようになっていった(註7)。そして1881年、貧窮する農民や給料遅延に不満をたぎらせる下級兵士を背景としてオラービー・パシャという人物が革命を起こした(これを「オラービー革命」と呼ぶ)が翌年にはイギリス軍によって潰された。エジプトの君主ムハンマド・アリ家はそのまま存続した(その政府もあり、憲法や議会も設置された)が実質的にはイギリスの植民地という立場に落ちたのである。

註6 アメリカの南北戦争の影響でアメリカ綿の輸出が途絶した際に、そのかわりとしてエジプト綿が躍進した。が、南北戦争が終わった時点でこちらも終了。

註7 1869年にフランス資本の力とエジプト農民からの苛烈な収奪・労働によって「スエズ運河」が開通した。その建設にあたった国際スエズ運河会社の株40万のうち20万をフランスが、17万をエジプト政府が引き受けていた。フランスのライバルであるイギリスは近くに鉄道を敷くつもりでいたので1株もとらなかったが、インド(イギリスの最重要植民地)との連絡には運河の方が便利だと理解すると態度を変え、75年に経済危機に陥ったエジプトがスエズ運河会社株を売りに出すと速攻で(首相ディズレイリが議会の承認もなしにロスチャイルド銀行から借金した金で)買い取った。ところでスエズ運河開通がオマーンのアフリカ領部分の地位を低下させたことは既に説明した通りである。


   ドイツの進出   目次に戻る 

 ドイツ帝国宰相ビスマルクは当初海外植民地の獲得に全く興味を持っていなかった。1871年にドイツの統一がなされて(註8)一段落ついた時点では、価値のありそうな海外の土地は既に他国にとられており、これから無理して貧しい土地をとっても維持費がかかりすぎるであろうし他国との余計な摩擦のもとであろうと思われた。国防の観点からも、海外植民地に(現地の防衛のための)兵役適齢期の人員を大量移住させるのは問題があり、また、この頃のドイツの海軍力は貧弱すぎたため非常時に植民地を守れないと考えたのである。ところが、イギリスがエジプトのオラービー革命を鎮圧した1882年以降は考えが変わってきた。

註8 ドイツという地域はもともと中小の諸国が乱立していたが、1871年にプロイセン王国(その宰相はビスマルク)による統一が成し遂げられることによって新国家「ドイツ帝国」が成立したのである。


 イギリスのエジプト支配に対してはフランスが激しく反発していた(註9)のだが、ビスマルクはその件に関してイギリスに味方する(恩を売る)ことにした。一方のフランスは70〜71年の「普仏戦争」でビスマルクに敗れた(註10)ことでドイツを恨むとともに敗戦の屈辱を海外植民地の新規獲得という形で晴らそうとしていたのだが、エジプトでイギリスに遅れをとった(註11)ことでドイツよりもイギリスを嫌うようになっていた。そこでビスマルクはエジプト以外のことについてフランスの植民地政策を支持してやることでその機嫌をとった(註12)。このようにして英仏両国に恩を着せた上でドイツもいよいよ植民地獲得に乗り出すことになる。ビスマルク自身は儲けにならないと思っていたがドイツ国内の植民地獲得論者の勢力(82年に財界有志が「ドイツ植民協会」を設立)はかなりのものがあり、これに適当に妥協してやることでビスマルク個人の支持率もアップする、と、いったことを(ビスマルクは)期待したといわれている。しかし、実際には当時の植民地獲得論者の勢力は大したものではなかったともいわれており、ビスマルクの政策転換の真意は当時のドイツ国内に燻っていた内政上の問題から国民の目をそらすためであったとか、イギリスを牽制するためであったとか色々な説がある。

註9 スエズ運河がフランス資本で建設されたのを見れば分かるように、エジプトはもともとフランスの勢力が強かった。そこに割り込んできたイギリスとの仲が悪くなるのは当然である。

註10 フランスはドイツ人の多く住むアルザス州とロレーヌ州を支配していたが、1870年に両州の奪取を狙うプロイセン王国と戦って敗れた。勝者となったプロイセン国王ヴィルヘルム1世はパリのヴェルサイユ宮殿において初代ドイツ皇帝の戴冠式を挙行し、フランスからアルザス・ロレーヌのみならず巨額の賠償金をせしめたため、フランス人に酷く恨まれた。

註11 イギリスがオラービー革命を潰した時、フランスは東南アジアのインドシナの植民地化に忙しかった。

註12 この頃ベルギー国王レオポルド2世がコンゴを狙い、そこに古い関係を持つポルトガルと対立していた。イギリスがポルトガルの肩を持ったためフランスはベルギーを支持するといった具合になっていたのだが、ドイツはここでフランスを支持したのである。コンゴについては当サイト内の「コンゴ動乱」を参照のこと。


 そしてビスマルクは84年の4月24日、民間の貿易商ルーデリッツが南西アフリカ(現在のナミビア)の首長から購入していた土地を「帝国政府の保護の下にある」とイギリスに通告した(註13)。しかしビスマルクはそれまで植民地に全く興味がないと周囲に思い込ませていたうえに、その通告にある「保護」という言葉の意味もその時点でははっきり説明しなかった。彼がドイツ帝国議会において「保護イコール植民地」である旨を説明したのは、南西アフリカに対するドイツの主権をイギリスに認めてもらった翌日(6月22日)のことである。南西アフリカに続いて同年7月には西アフリカのトーゴと中部アフリカのカメルーン、10月にはオセアニアのニューギニア北東部、という具合に、世界のあちこちに次々とドイツ国旗が翻っていった。(南西アフリカ等については別稿で説明する)。

註13 イギリスはアフリカ大陸の南端部(現在の南アフリカ共和国)を19世紀初頭から植民地支配していた。従ってそこと隣接する地域(南西アフリカ)にドイツが進出するには、まずイギリスに話を通さなければならない。


   ベルリン会議と境界線協定   目次に戻る 

 その頃……さっき註で少し触れたが……ベルギー国王レオポルド2世がコンゴの領有を巡ってポルトガルと争っていた。ビスマルクは84年11月、コンゴ問題を調停するための「ベルリン会議」を主催した。参加国はイギリス、フランス、ドイツ、イタリア、アメリカ、ロシア、オランダ、オーストリア、スペイン、ポルトガル、スウェーデン、デンマーク、ベルギー、オスマン帝国の14ヶ国である。会議は翌85年の2月24日まで続き、その結果、まずコンゴの扱いと、その後の各国によるアフリカ植民地化に関する協定が結ばれた。各国はアフリカ沿岸部においては他国……むろん原住民の国のことではない……の権益のない地域を自由に併合してよい、権益が衝突しそうな場合は国際会議で調整する、併合したら責任をもって統治する、沿岸部を併合したらその後背地(内陸部)もその国のものとなる……といったことが定められたのである。

 その会議の最中の84年11月〜12月、タンザニアの内陸部で民間資本の「ドイツ植民会社」(84年3月設立。資本金17万6000マルク)のカール・ペータースなる人物が動き回っていた。彼……内陸部に入った時点では公的機関の援助は受けていなかった……は翌年にはサガラ族、エングル族、ジグア族、カミ族等々の12人の首長がサインした「ドイツの保護を認める」旨の条約文を持ってドイツ本国に帰り、それを受け取ったビスマルクはベルリン会議が終わった時点(会議参加者が帰った翌日)でこのことを公表、ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世の勅許を貰って、ペータースのドイツ植民会社に「ドイツ保護領東アフリカ」の統治を委託することを取り決めた。

 ここは本来はザンジバルの縄張りである(註14)。驚いたスルタンはイギリスに支援を要請したが、イギリスは逆にスルタンの権威を無視し、自分もドイツと同じように東アフリカに侵入することにした。ドイツ政府は軍艦を派遣してザンジバルを威圧した。10月、ドイツ、イギリス、そしてフランスによる「共同委員会」が設置され、まずザンジバルの勢力範囲を明確化する作業を開始した(それまでは特に決まった国境線といったものが存在しなかったのである。それから、この委員会にはザンジバルの代表は呼ばれなかった)。この間にも、ドイツ・イギリスは次々と探検隊を送って奥地の首長たちと条約を結んでいった。

註14 ザンジバルの領域はザンジバル島とペンバ島という2つの大島とその周辺の小島、及びアフリカ大陸のインド洋沿岸部(北はソマリア、南はタンザニア)だが、その沿岸部の奥地にドイツ人が踏み込んできたのである。


 86年秋、話し合いがまとまった。ザンジバルの勢力圏は海岸から10マイル奥地まで(と島嶼部)に限定し、ドイツ・イギリスの縄張りも定められた。フランスはインド洋のコモロ諸島の植民地化を英独に承認してもらうのとひきかえにこの「境界線協定」を承認した。この時に決まったイギリスの勢力圏が現在のケニアであり、「帝国イギリス東アフリカ会社(IBEA)」による統治がすすめられることとなった。 しかしながら「境界線協定」はさらに奥地のヴィクトリア湖以西については触れていなかった。ここでひとつ時間を遡って説明しておかねばならないことがある。

   エミン救出とブガンダ王国   
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 エジプトで「オラービー革命」が起こる少し前、その属領のスーダンにおいて、ムハンマド・アフマドなる人物がイスラムの救世主「マフディー」を名乗って反乱を起こしていた。その勢いは盛んで、スーダン総督のゴードンはこれとの戦いで死亡、赤道州知事のエミン・パシャはマフディー軍の勢力圏の南において孤立した(そのせいかエジプト本国でオラービー革命が起こった後もエミンの地位には変動がなかったようである)。エジプトは何年かけてもマフディー軍を鎮圧出来ず、エミンを見捨ててしまった。しかしエミンの故国のドイツからは救助隊が出ることになり、イギリス(オラービー革命頓挫後のエジプトの保護者)も、政府は関与しないとした(エジプトの財政立て直しを優先)が赤道州への事業拡大を目論む民間企業家が救助隊を編成することにした。ドイツ隊の隊長はドイツ保護領東アフリカの創始者ペータース、イギリス隊の隊長は高名な探検家スタンレーである。

 スタンレー隊は大西洋側からコンゴ河を遡って内陸部に入るルートを選び、コンゴ河口から苦心惨憺9ヶ月もかけて現在のコンゴ・ウガンダ国境のアルバート湖に到達、そこからさらに……スタンレーが病気になったりして……5ヶ月も経ってからようやくエミンに会うことが出来た。エミンの赤道州経営はなんとか継続されており、むしろ難行軍でボロボロになったスタンレー隊の方が物資をわけてもらう有り様であった。エミンはこのまま現地に留まるつもりであったが、何故かスタンレーは強硬に撤収すべきことを進言してエミンに無理矢理同意させた。これが89年4月である。スタンレー隊が「エミン救助」に出発したのが87年2月であったのだから大変な手間ひまをかけたものである。エミンの「撤収」により、彼がこれまで必死になって守ってきた赤道州は潰れてしまった。

 ところでドイツが派遣していたペータースのエミン救助隊の方は、出発がスタンレー隊よりずっと遅れてしまい、途中まで行ったところでスタンレーによる「エミン救出」の報を受けたため、かわりに近くの黒人国家「ブガンダ王国」と友好条約を結ぶことでとりあえず満足した。 ブガンダは地味が肥え象牙の集積地でもあり、しかもナイル河の水源近くに位置するため、ここを押さえればエジプトの農業(「エジプトはナイルの賜物」と紀元前から言われている)をも制することが出来る。ドイツはさらに、スタンレーに連れ戻されてきたエミンに改めて遠征隊を与えてブガンダに送り込むことでその周辺の諸部族にもドイツの権威を及ぼそうと考えた。エミンは若い頃に故郷ドイツを飛び出し無国籍な世界(?)に生きてきたがこの時はドイツのために働く気になり、90年4月にブガンダ方面に向け出発した。

   ヘリゴランド・ザンジバル協定   
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 ところがそこにイギリス首相ソールズベリが、ドイツがブガンダ王国との条約を破棄するならば(ヨーロッパの)北海の小島ヘリゴランド島(と、ドイツ領南西アフリカに隣接するイギリス領の一部)を譲ると言ってきた。それからザンジバル領のうち島嶼部を除く地域をドイツが購入出来るようバックアップしてやるとも。

 ドイツ政府は(エミンの愛国心も無視して)これを受けた。この話はイギリスに有利であったが、当時のドイツはイギリスに工業製品を売り込みたがっており、ここでちょっとぐらい妥協した方が得策と思ったのである。また、その頃のドイツは(本国の)北海とバルト海を繋ぐ運河を掘削していたため、ヘリゴランド島はその北海側の防衛拠点として不可欠の存在であった。

 かくして成立した「ヘリゴランド・ザンジバル協定」によってブガンダ王国とその周辺(現ウガンダ共和国地域)はイギリスの植民地となり、スーダンのマフディー軍は98年にはイギリス軍によって鎮圧された。ザンジバル領のうちの島嶼部とケニア沿岸部はイギリスが保護領化し、タンザニア沿岸部はドイツが400万マルクで購入、ソマリア沿岸部はイタリアが租借(期限付きで土地を借りること)した。エミンは改めてドイツの勢力圏内(イギリスとの協定で認められた範囲内)のキャラバン・ルートの整備といったことを命じられたが、それを無視して旧赤道州へと向かい、やがて現地民によって殺害された。

   英独同盟構想   
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 ただ、ドイツの一般世論は「ヘリゴランド・ザンジバル協定」で損をしたと感じており、むしろ以前よりも強硬に植民地の獲得を望むようになっていった。その一方でドイツ政府は外国に工業製品を売り込むかわりに外国産の農産物を低関税で買うという政策を採用したためにドイツ国内の農業関係者の不満が高まり、ドイツ政府としてはそれらを宥めるために苦慮することになる。その辺の内政の話はまた後で触れるとして……、実はドイツ政府には、ヘリゴランド・ザンジバル協定を足がかりにしてイギリスと同盟出来ないか、という目論見もあった。これにはロシアとの関係も絡んでいた。というのは……。

 ドイツ帝国宰相ビスマルクの外交施策の基本は、普仏戦争で叩き伏せたフランスがドイツに仕返してこないようドイツを中心とした同盟の網を張り巡らしてフランスを孤立させるというところにあり(ただし植民地問題においてフランスにも適当に恩を売っておくことも忘れなかった)、82年にオーストリア・イタリアと「三国同盟」、83年にルーマニアと同盟、87年にロシアと「独露再保障条約」、同年にスペインと協商、といった具合に網の目のような協力関係を巡らせていた。フランスが復讐に出てこられないよう包囲しつつヨーロッパ各国間の平和を維持することによってドイツが国力増進に集中出来るようにするということである。ヨーロッパの大国の中ではイギリスのみがドイツともフランスとも同盟(もしくは協商)を結んでいなかったが、イギリスとしてはビスマルクがヨーロッパの平和を維持してくれている以上は独仏どちらかに肩入れするまでもなかったし、そういう状況下で強力な海軍を持つ島国イギリスを脅かす国は存在しなかった(から、どことも同盟を結ぼうとはしなかったのであった)。また、イギリスの経済力はながらく他国のそれを引き離していたため、同盟なんか結ばなくても1国でやっていける自信があったのである。

 その一方で、ビスマルクが構築したドイツを中心とする同盟・協商網の内部には綻びが多く、例えばオーストリアとロシアは仲が悪かった。そして90年、新ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世(88年に即位)と不仲になったビスマルクが宰相職を引退するのだが、その後のドイツ政府は独露再保障条約がとりあえず期限切れになった際に思い切って更新手続きをしないことにした。この時、実はロシア側は更新を望んだのだが、ドイツ側はロシアと切るという形でオーストリアとの友好を深めるという道を選択したのである。これでロシアとの仲が冷えることになったとしても、その頃アジア方面の植民地獲得競争でロシアと激しく対立するようになっていたイギリスと同盟すればいいという見込みがあったが故の行動であった。

 それから、ビスマルク辞任の原因についても簡単に触れておくと……、89年に(ドイツ本国で)大規模な労働運動が発生したのに際し、ビスマルクが強硬な対処を主張したのに対して新皇帝が柔軟な態度を示したからである。ドイツにおいては70年代から「社会主義(註15)」の勢力が拡大、賃金アップや労働時間短縮といった労働者のための施策を声高に訴えており、これに対して経営者の味方であったビスマルクは社会保障を導入しつつも「社会主義者鎮圧法」を制定して社会主義者を弾圧していた。が、そういうやり方はあまり通用せず、社会主義者の党である「社会民主党」の勢いは年々増加する一方であった。新皇帝ヴィルヘルム2世は社会主義が嫌いではあったがビスマルクの厳しいやり方にも疑義を呈し、労働運動に対して寛容な態度を示すことによって一般の労働者に恩を売り、彼らの票が社会民主党に集まらないようにする(親切さをもって労働運動を封殺する)のが望ましいとしたのである。

註15 この理論については当サイト内の「ロシア革命第1部その2」を参照のこと。


   アブシリの反乱   目次に戻る 

 この間、ドイツ保護領東アフリカでは現地民の抵抗が頻発していた。早くも88年にはパンガニの首長アブシリが反乱をおこしてドイツ人居留民を殺害し、いくつかの町を包囲するという事件を起こしていた。東アフリカのインド洋沿岸部は古くからオマーン等からやってきたアラブ人が住み着いて商業を営んでいたがアブシリもその1人(彼はザンジバルのスルタンとは敵対していた)であって、彼等が伝統的に持っていたキャラバン通商のルートをドイツ人が奪ってしまい、さらに土地まで収奪の危機にさらされたことが今回の反乱の直接の原因であった。

 この事態に驚いたドイツ本国政府は軍人探検家ビスマンを送って反乱の鎮定につとめた。イギリスもポルトガル(ドイツ保護領東アフリカの南のモザンビークを古くから支配する)もドイツに協力し、最大時8000の軍勢を集めたアブシリ軍を簡単に撃破した。アブシリは内陸部に逃れてそちらの部族の協力を得、5〜6000の軍勢を再編したが、やはりドイツ軍にはかなわず、やがて味方の裏切りによって逮捕された(89年12月に絞首刑となる)。同時期にはジグア族も反乱を起こして敗退している。

   ヘヘ族の反乱   
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 ドイツの本国政府はかような情勢(反乱)をかんがみて、それまでドイツ植民地会社にまかせていた東アフリカの統治業務を帝国政府の管理下に移管し、植民会社の活動は通商のみに限定することを決定した。しかしドイツ領における現地民の抵抗はその後も続いた。特に強力だったのは南西部のヘヘ族で、ドイツ側のキャラバン交易ルートを遮断する勢いをみせた。

 91年6月、ドイツはヘヘ族の首都カレンガへと討伐軍を進発させた。ヘヘ族は使者を送ってドイツ軍と和睦しようとしたが、その使者はドイツ軍に近づこうとしたところを射殺された。怒ったヘヘ族はドイツ軍を待ち伏せし、これをほぼ壊滅させた。その後のヘヘ族は首都カレンガを12キロの防壁で囲んで徹底抗戦の意志を明らかにした。94年、ドイツは前回の2倍の兵力を持つ討伐軍を発し、10月30日にはカレンガを攻め落とした。ヘヘ族の首長ムクワワはその後4年間もゲリラ戦を続けたが、結局は追いつめられて自殺した。 ドイツ軍はヘヘ族に重い罰金を課し、ムクワワの頭蓋骨を戦利品として本国に持ち帰った(1955年に返還)。

   強制労働の導入   
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 ドイツの統治システムは、まず沿岸部では読み書きの出来るアラブ人(旧オマーンの支配階級)がいくつかの村を統治する「郡長」として任命された。これはオマーン・ザンジバル以来の統治機構を引き継いだもので、つまりドイツ→アラブ人の郡長→庶民という間接統治を行った訳である(註16)。内陸部では伝統的な(黒人の)部族長が徴税を担当した(徴税額の5パーセントを手数料として受け取ることが出来た)。税は初期は世帯ごとにかける「家屋税」、その後は16歳以上の成人男子全員に課税する「人頭税」へと移行していった。納税方法は原則として金納であったが、換金作物のない地域(現金収入のない地域)では銭のかわりに賦役(ただ働き)が要求された。郡長や部族長は徴税のみならず橋や道路の修繕、ドイツ官庁が運営するキャラバンへの荷役提供、ドイツ人の経営する農園への労働力提供といった仕事を担当した。

註16 地域によってはドイツ軍人もしくは行政官が駐在して直接統治を行った。


 オマーン・ザンジバル時代に北からやってきた人たちの子孫である郡長は庶民(黒人)とは人種が違うせいか残虐な態度をとることが多く、黒人たちにひどく怨まれた。また、この地域にはインド人も古くから入り込んでおり、彼らはヒンズー教徒であったことから金融(アラブ人はイスラム教徒であったため、教義的に利息を取る事が出来なかった)をはじめとする商業に活躍、それだけならともかくドイツの支配と結合していたことから黒人たちにいい印象を持たれていなかったようである。

 20世紀に入ると白人移民が増加し、彼らの経営する農園があちこちに建設された。作物はサイザル麻、コーヒー、ゴム等である。しかし労働力が常に不足していたことから総督ゲッツェンは現地民に強制労働を課すことを思い付き、1902年から、まずダルエスサラーム南部の村々にて年間28日の「共同作業」を開始した。労務者に与えられる報酬はごくわずかであり、28日という規定も無視されがちであった。

   マジマジの反乱   
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 そして1905年7月末、これまでで最大規模の反乱が勃発した。反乱軍の兵士たちは白人の力を弱めるという「魔法の水(マジ)」を飲んでいたことからこの反乱は「マジマジの反乱」と呼ばれている。彼らはまずドイツ人の経営する農園を攻撃し、ついでアラブ人やインド人を攻撃した。「マジ」とはこの地域で雨の担い手として広く信仰されていた蛇神コレロにまつわるもので、これを身体に塗っていれば弾丸に当たっても死なないというのである。マジを管理したのはホンゴ(神の使者)と呼ばれる人々で、20以上の部族を反ドイツに結束させた。

 反乱軍は8月15日にルクレディ渓谷の県庁を占領したが、同時期に行われたキロサの戦いには大敗した。反乱軍はさらに8月30日から3週間に渡ってマヘンゲ県庁を包囲したがけっきょく占領出来ず、そのうちに到着した新手のドイツ軍の機関銃によって蹴散らされた。しかもそのマヘンゲの戦いでは地元の首長があくまでドイツの支配を肯定して反乱には加わらなかった。10月20日にはソンゲア地方のンゴニ族がドイツ軍の前に敗退する。ンゴニ族の軍勢は総勢5000人のうち200人しか銃を持っていなかった。翌年6月には1万の軍勢を持つベナ族が壊滅させられた。

 ゲリラ戦は1907年まで続いた。ドイツ軍は抵抗する村の家や畑を焼き払い、そのためにおこった飢饉や徹底的な掃蕩作戦のために10万〜25万もの命が失われたという。現在のタンザニア連合共和国の南部には「セルー動物保護区」という区域があるのだが、そこに住んでいた人間はこの「マジマジの反乱」によって追い散らされ、かわりに野生動物たちがのんきに草を食んでいるという訳なのである。

 とはいえ、この事件を見たドイツ本国の方も植民地政策の見直しを真剣に討議し出した。国内世論において批判の声があがっていたし、同じ頃ベルギー国王レオポルド2世が経営していた「コンゴ自由国」での無茶苦茶な搾取が国際的な非難を浴びていたた(註17)め、ドイツ政府としても植民地の扱いをもっとマシなものにせざるを得なくなったのである。

註17 これについての詳しい話は当サイト内の「コンゴ動乱」を参照のこと。


 植民地行政はそれまで外務省植民局の管轄だったのだが、1907年に新たに「帝国植民省」が開設され、銀行家デルンブルクがその長官に就任した。1907年の時点で約500名いた東アフリカのドイツ人入植者(役人や軍人をいれれば約2700名)は植民地の(白人だけの)自治を要求していたが、「マジマジの反乱」の最中に東アフリカ総督に就任したレッヒェンベルクは白人の農園よりも原住民の農業を補助してそちらからの税収拡大を目指すという新政策を打ち出し、内陸部の黒人部族に商品作物を栽培させるための鉄道の建設を急ピッチで押し進めた。インド洋沿岸のダルエスサラームとドイツ領最奥地のタンガニーカ湖畔のキゴマを結ぶこの鉄道は1914年3月に完成し、インド人の商人が内陸部に入り込んで住民たちの間に商品作物の栽培法を広めていった。作物は主に綿花とコーヒーであるが、鉱山の開発や消費材の生産もかなりすすむことになる。

 ドイツが特に意を用いたのは最奥地(鉄道の終点近く)のルワンダ、ブルンジ、ブコバの3地区であった。これらは伝統的首長の力が強大でそれぞれ独自の王国を築いており、人口も多かった(アフリカ最高の人口密度)からである。ドイツは各王国の自治を認め(ただしドイツ駐在官の監視つき)、外国人の立ち入りにも制限を加えた。この3地域のうちのルワンダではずっと後の1994年に多数部族のフツ族が少数部族のツチ族を大虐殺するという事件が起こったが、その種がまかれたのは実はドイツ領時代である。もともとこの地域は遊牧民ツチが農耕民フツを緩やかに支配する社会体制が続いていたのだが、そこにやってきたドイツ人たちは外見が優れている(とドイツ人的には思えた)ツチを贔屓して間接統治の道具に仕立て、ツチとフツの間には昔から強固な上下関係があったという神話(つくり話)を教え込んだのであった。

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