コンゴ動乱

 本稿の舞台となるコンゴ、1971年から97年までの一時期にザイールと呼ばれていたこの地域に西欧の勢力が進出したのは19世紀の後半、1878年のことであった。この頃のアフリカはまだその総面積の10%程度がヨーロッパ諸国の支配のもとに置かれていたにすぎないが、隣国オランダの進んだ植民地政策に刺激されたベルギーの国王レオポルド2世が「コンゴ国際協会」を創設し、高名な探検家スタンレーをコンゴへと派遣したのである。

 スタンレーはコンゴ川河口から「スタンレー瀑布」までの地点に道路を建設し、40の拠点を設定、コンゴ各地の首長達と約400の保護条約を結んで、これらの地域を巧みにコンゴ国際協会の支配下に置くことに成功した。だが、コンゴはベルギーだけでなくポルトガルにも狙われており、ベルギーにはフランスが、ポルトガルにはイギリスがそれぞれ味方したため、この頃いよいよ激しくなってきたアフリカ植民地化競争における西欧諸国の利害調整とあいまっての「ベルリン会議」が開催されるに至った。

 ベルリン会議において、コンゴ盆地は自由貿易地域とされつつもレオポルド2世の「コンゴ国際協会」による統治が認められ、85年には「コンゴ自由国」の設立が宣言されて、ベルギー国王レオポルド2世がその元首を兼ねることとなった。コンゴはベルギー国家の植民地ではなく、レオポルド2世の「私有財産」であった。

 コンゴ自由国の統治は苛烈を極めた。1885年には国内の「無主地」を自由国政府の所有地とする宣言がなされたが、実はそうやって収奪された土地には現地のアフリカ人という持ち主がいて、自由国政府は「土地所有権」という概念を持たない彼等につけこんだのである。無主地から採取される果実・象牙・ゴムは政府の所有物とされ、特にゴムはアフリカ人による採取が義務付けられて、ノルマに達しなかった者は容赦なく手を切り落とされた。

 レオポルド2世の野心は経済的なものにとどまらなかった。コンゴの南のカタンガ地方(現在のシャバ州)は豊かな鉱物資源で知られ、レオポルドとイギリス南アフリカ会社のどちらが支配下におさめるかの競争となっていた。1891年、レオポルドに派遣されたベルギーの遠征隊がカタンガに勢力をはるバ・イエケ族の王ムシリ(親英派)を射殺し、その後継者ムカンダと保護条約を結ぶことに成功した。こうして無理矢理コンゴに編入されたカタンガ地方は、1960年に独立を達成するコンゴ共和国からも分離を叫んで独自の行動をとることになる。このカタンガこそが本稿の主要な舞台である。

 レオポルドの暴虐は現地のアフリカ人だけでなく、他の西欧諸国の憤激まで買ってしまっていた。1903年、イギリス下院がコンゴ自由国政府の暴虐を非難する決議を行ない、各国の公的・民間の調査機関がコンゴの実情解明に乗り出した。やむなくレオポルドは若干の改革に乗り出し、ついで1908年には国王の支配によるコンゴ自由国を廃止して、ベルギー政府の支配による植民地としたのであった。

   

   コンゴ独立

 かくして正式に発足した「ベルギー領コンゴ」は植民地憲法を制定し、アフリカ人による商業活動の自由を認める等の改革を進めたが、じきに始まった「第一次世界大戦」の序盤でベルギー本国がドイツ軍の占領下に置かれたため、改革も遅々として進まなくなった。

 だが、改革の遅れを戦争に帰するのは、半分以上単なる言い訳であったろう。1914年8月、コンゴのベルギー植民地軍は隣接するドイツ領ルアンダ・ウルンジ(現在のルワンダとブルンジ)から攻め込んできたドイツ軍を撃退し、16年4月には逆に攻勢に出てルアンダ・ウルンジ全土を占領してしまった。ベルギーのコンゴ統治は揺るがず、二次大戦で再び本国がドイツ軍に占領された時にもコンゴ植民地はドイツ・イタリアへの抗戦を続け、イギリス軍によるイタリア領東アフリカ(エチオピア)への攻撃にその兵力を提供したりした。

 第二次世界大戦の前後、アフリカ人の間にもようやく民族主義の波が沸き上ってきた。当初のそれは宗教的な色彩を強く持つものであったが、大戦終結後に急速に膨張した都市部に居住するアフリカ人達は、次第に政治意識に目覚め、数々の政治組織を組織するに至ってきた。ベルギーは57年に主要都市における民主的選挙を導入してアフリカ人の独立運動をかわそうとしたが、時代の流れはベルギー政府の理解を越えて進んでいた。

 1958年、コンゴに隣接するフランスの諸植民地が続々と独立を達成した。それらの諸国は外交や軍事に関してはまだ完全な主権を有していた訳ではなかったが、それでも、特にフランス領コンゴの独立はベルギー領コンゴの独立運動を刺激するのに充分以上であった。

 ところが、コンゴはもともと各地に散在する部族ごとの独立性が強く、諸部族が連合してベルギーに対抗することが出来なかった。当時のコンゴには、次に述べる3つの有力な独立運動が存在していた。

 まず「アバコ党」ジョセフ・カサブブによって創設されたこの党はバ・コンゴ族を中心とし、コンゴ全土ではなくバ・コンゴ族の居住する地域のみの独立を指向していた。

 次に「コナカ党」指導者はバ・ルンダ族のモイゼ・チョンベ、バ・イエケ族のゴデフロア・ムノンゴその他、コンゴ南部のカタンガ州諸部族の連合体であり、カタンガ州単独の独立とまではいかないまでも、来たるべき独立コンゴの国家体制は、中央集権ではなく地方分権の連邦制が望ましいと口では唱えていたが、実際にコンゴが独立した後はカタンガ単独独立へと突っ走ることになる。

 最後に「MNC(コンゴ国民運動)」指導者はパトリス・ルムンバ、アルバート・カロンジ等がいた。若く教育のある彼等は、部族・地方といったレヴェルを超越し、コンゴ全土の中央集権的政権の設立を訴えていた。

 そして1959年1月4日、コンゴの首都レオポルドヴィルにて、植民地政府がアバコ党大会の開催を禁止したことから大規模な暴動が発生し、事態の深刻さを悟ったベルギーも遂にコンゴ独立を承認する動きへと踏み出した。ベルギー本国の労働組合や左翼政党はコンゴ独立を支持し、ベルギー憲法の「軍隊を植民地に投入する場合には、志願者に限る」という条文を楯にとって、ベルギー軍の兵士達にコンゴ派兵に参加しないよう協力を呼びかけた。

 こうなってはしかたがない。ベルギー政府はとりあえずコンゴの独立派諸派を集める「円卓会議」の開催を宣言した。ベルギーは、コンゴの独立派3派の意見がそれぞれ食い違っていることをよく知っており、そこに付け込む隙があると考えていたのだが、60年1月24日に始まった円卓会議では、なんと3派結束してのコンゴ全土の完全独立を求めてきた。ベルギー側の思惑は完全に見破られていた。本国の軍隊も動かせず、国連に調停してもらうのはプライドが許さず、ベルギーはやむなく独立派の要求を全て飲み、半年後のコンゴ独立を承認した。

   

   コンゴ動乱の勃発

 1960年6月30日、コンゴは正式に独立した。しかし問題は山積みであった。アバコ党・コナカ党は地方分権の連邦制を主張し、MNCは中央集権を唱えていた。一応国政選挙ではMNCが勝利したが、単独で政権を持てる程ではなかったことからアバコ党・コナカ党を含む連立政権の組閣を余儀なくされた。大統領はアバコ党のカサブブ、首相はMNCのルムンバがそれぞれ選ばれた。問題の国家体制も、大枠では中央集権制であるが、各州が独自の州政府と州議会を持つ、という甚だ曖昧なもので、特に強硬な地方分権論者(どころではない)コナカ党首兼カタンガ州首相チョンベに至っては、この時点ですでに地元カタンガ州の分離・独立を狙って動き回っていた。

 軍隊も問題であった。独立前に駐留していたベルギーの植民地軍は、白人の士官がアフリカ人の下士官・兵を指揮するという形をとっていたが、独立後の新生コンゴ軍は、この植民地軍をそのまま引き継ぎ、士官もそのまま白人ばかりであった。(コンゴの独立派は独立戦争で独立を勝ち取った訳ではなく、したがって独自の兵力も持たない彼等の軍事力は旧植民地軍以外になく、アフリカ人の士官を養成する時間もなかった)

 独立1週間後の7月6日、アフリカ人兵士の不満が爆発し、白人士官・ヨーロッパ系住民(約10万いた)への略奪・暴行が首都レオポルドヴィルからコンゴ全土へと広がった。

 すぐにベルギーが動いた。ベルギーはヨーロッパ系住民の保護を理由として7月10日には数百人の部隊をコンゴへと投入し、いくつかの軍事拠点と空港を占領した。ベルギーの一方的措置にコンゴ首相ルムンバ(MNC)は激怒したが、実はベルギー軍の行動はカタンガ州首相兼コナカ党首チョンベの要請によるものであったとの説もある。

 そのチョンベは7月11日、突如カタンガ州の分離独立を宣言した。かねてからカタンガ独立を策謀していたチョンベにとって、今回の軍の暴動は願ってもない好機である。「現在のコンゴ首相ルムンバは実は共産主義者であって(嘘)、現在の軍の暴動はコンゴからヨーロッパ勢力を追い出すための彼の陰謀(これも嘘)である。カタンガ州はかような中央政府による強権に対抗するのだ」。鉱物資源の豊かなカタンガ州はコンゴから分離しても充分自活出来る。とりあえずは暴動の責任をルムンバのコンゴ政府に押し付け、カタンガ在住のヨーロッパ系住民を暴動から守ることによってベルギー・欧米諸国を味方につけることだ。カタンガ州でも軍の暴動がおこっていたが、チョンベは自分に好意的なカタンガ諸部族から兵士を募るとともに白人士官を味方につけ、早急に(カタンガ州内の)暴動を鎮圧することに成功した。カタンガ在住のヨーロッパ系住民(約3万5000人)はルムンバのコンゴ政府よりも、チョンベのカタンガ政府の方が頼りになると考えだし、ベルギーの右翼勢力もカタンガ独立支持へと傾いた。欧米諸国はカタンガの独立を認めることを躊躇ったが、影でこっそり支援する国もあったといい、ベルギーもまた、カタンガの独立を承認することはしないが、出来る限りの援助を与えると言って寄越した。

   

   国連の介入

 コンゴ政府のルムンバ首相は両面の敵を抱えていた。1つは軍の暴動からヨーロッパ系住民を守ると称して介入してくるベルギー軍、もう1つは独立を宣言したカタンガのチョンベ政府である。ルムンバはこの2つの敵が背後で繋がっていると判断し(それは正しかった)、ベルギーとの外交関係を断絶すると共に、国連への支援要請を行なうことにした。

 7月13日、国連安全保障理事会にて激論が行なわれ、翌14日にはコンゴの「法と秩序」の回復のための国連軍の派遣を決定した。以降25日までに、エチオピア・ガーナ・ギニア・モロッコ・チュニジア・スウェーデン・アイルランド等による8400人の国連軍が現地に到着、カタンガを除くコンゴ全土に展開した。ベルギー軍はやむなく撤退したが、その一部はカタンガに残留し、チョンベ政府に協力する形となった。チョンベの兵力「カタンガ憲兵隊」の指揮官はそのベルギー軍の士官であった。国連の次の問題はそのカタンガをどうするかである。

 国連事務総長ダグ・ハマーショルドはこのまま国連軍をカタンガへと進駐させるべきと考えていたが、当のカタンガはすでにチョンベ政府によって「法と秩序」が回復されており、これ以上の行動は国連軍の当初の任務を越えるとの意見が(カタンガ独立に好意的な)各方面から提出された。なによりカタンガは来るべき国連軍の進駐に対し徹底抗戦の構えをとっており、ハマーショルドも結局はカタンガ介入を諦めざるを得なくなった。

 8月4日、カタンガ州では新たに自前の「カタンガ憲法」が制定され、7日にはチョンベが正式に大統領に就任した。8月12日、国連事務総長ハマーショルドがカタンガを訪れ、カタンガに残留するベルギー軍を国連軍(スウェーデン軍)と交代させるかわりに、国連としてはカタンガ問題に一切関知しないと約束した。ベルギー軍は9月1日には完全撤退を完了したが、チョンベの「カタンガ憲兵隊」に指揮官として加わったベルギー軍人600人はそのままカタンガに残ってしまった。(国連軍はこの後もしばらく駐留を続ける)

   

   ルムンバとカサブブ、モブツ

 だが、コンゴ政府首相ルムンバはあくまでカタンガ独立を認めなかった。ルムンバは今度はソ連に援助を求めると共に、コンゴ国軍単独によるカタンガ攻略の準備を開始した。ソ連を引き込むことにはコンゴ政府内でも抵抗が大きく、ルムンバ個人の独裁的傾向への反発もあいまって、8月6日には、ルムンバの片腕だったアルバート・カロンジが地元のカサイ州南部にて「南カサイ鉱山国」なる新国家の分離・独立を宣言してしまった。

 8月25日、ついにルムンバがコンゴ国軍を動かした、ソ連にもらったイリューシン輸送機とトラックに分乗したコンゴ国軍はまず弱い方の「南カサイ鉱山国」を攻めてこれをさんざんに撃ち破った。前述の通りコンゴ国軍はソ連の援助を受けていたが、さらにこの時の戦闘で非戦闘員の虐殺がおこったため、コンゴ政府と西側諸国の関係が急速に悪化してしまい、コンゴ政府内部の反ルムンバ派もさらに勢いづいてしまった。

 9月5日、これまで影の薄かったコンゴ大統領カサブブ(アバコ党)がルムンバを首相の地位から解任すると発表した。カサブブからみても、ルムンバのやり方は強引すぎた。大統領が首相を解任するのだからこれは別にクーデターではなく、ルムンバを逮捕するということもなかったが、ルムンバはすぐに反撃し、ラジオを通じて「私は議会の信任を得ているのだから大統領には私を解任する権利はない。そんな非合法な権利を主張するなら、むしろ私の方が大統領を解任する」との声明を行なった。大統領と首相との間の内乱が噂された。

 事態は二転三転する。9月14日、コンゴ陸軍参謀長ジョセフ・モブツ大佐が「現在の難局から国家を救済するため、12月31日まで一種の軍政を布き、議会を停止する」との宣言を行ない、今度は正真正銘のクーデターを断行した。(コンゴ国軍の士官はこの頃にはすべてアフリカ人にかわっていた)モブツは首相ルムンバと大統領カサブブの双方から協力を要請され、苦慮したあげくの決断であった(と本人は言っている)。モブツはまずソ連大使館を閉鎖してそちらとの関係を断ち切った。しかし、まだ弱体な軍の力では独裁的権力の掌握が出来なかったため、若手の知識人を集めた「委員会内閣(カレッジ)」を組織してそちらに実際の政治を(暫定的に)委ねることにした。以降のモブツは軍の強化に力を入れ、4年後に再びクーデターをおこしてその時に独裁権を握ることになるが、それは後の話として……カサブブ大統領は委員会内閣に合流した(そのまま大統領に留任)が、ルムンバはあくまで妥協を嫌って逃走、その後逮捕・投獄された。

 たが、ルムンバには強力な支持者層が存在した。東部州のスタンレーヴィルにはルムンバ派の勢力が続々と結集し、12月12日にはルムンバ政府の副首相であったアントワーヌ・ギゼンガが新政府の樹立を宣言した。この政府はコンゴの中央政府を名乗り、東部州に隣接するキブ州を攻略、これを占領した。モブツ派「委員会内閣」とルムンバ派「ギゼンガ政府」コンゴに2つの中央政府が並び立った。(国連軍も引き続き駐留しているが、内部対立で積極的な行動がとれないでいる)

   

   白人傭兵の登場

 その間、カタンガのチョンベ政府はコンゴ国軍の侵攻に備えるための足固めを急いでいた。しかし、実はカタンガの諸部族は全部結束してチョンベ政権を支持していた訳ではなかった。北部カタンガではバ・ルバ族の一部が「北部カタンガ共和国」を名乗ってチョンベ政府に対する反乱を起こしていた。バ・ルバ族はなかなかに強く、ゲリラ戦を展開して「カタンガ憲兵隊」を何度も破ったため、チョンベ政府の方でもゲリラ戦の技術を持つ白人傭兵の雇用に動き出した。

 カタンガの味方は欧米諸国の右翼勢力である。カタンガ憲兵隊の指揮官は当初ほとんどベルギー人であったのが、61年4月以降にはフランス人が大量に雪崩れ込んできた。この頃フランスの植民地アルジェリアでは独立戦争が激化しており、植民地の独立を容認するド・ゴール大統領とアルジェリア在住フランス人(コロン)の対立が鮮明化、コロンに味方したせいでド・ゴールに解隊されたフランス軍第1外人落下傘聯隊その他の指揮官の一部が、再就職を求めてカタンガ憲兵隊に加わった(士官としてアフリカ人兵士を指揮する)のである。フランス軍の指揮官としてインドシナ戦争やアルジェリア独立戦争を戦った彼等の流入は、カタンガにとって実に励みになった。同じ頃には南アフリカでも傭兵の募集が進み、イギリス人等、英語を話す白人のみで編成された傭兵部隊「インターナショナル・カンパニー」が結成された。さらには、やはり白人傭兵をパイロットに雇ったカタンガ空軍も整備されるに至った(飛行機は練習機に機銃やミサイルを積み込んだ程度のものだが)。白人傭兵は結構な給料をもらい、「自分達は共産主義(ルムンバ派や国連のことを勝手にそう決めつけていた)の魔の手からアフリカの白人を護るための十字軍である」というカタンガ政府の宣伝を素直に信じた熱血漢から、単に人殺しが好きな奴、フランスでド・ゴール大統領に刃向かったせいで軍をクビになった奴(クビになった後もド・ゴールに刃向かい続けた連中が「OAS」、傭兵業に乗り換えた連中はもうド・ゴールに喧嘩を売ろうとはしなかった)、等々様々なタイプの男達を擁していたが、とにかく彼等は間違いなく戦争のプロであった。

   

   ルムンバ暗殺

 1961年1月、スタンレーヴィルのルムンバ派政権(ギゼンガ首班)が北部カタンガに兵力を投入、反チョンベ派のバ・ルバ族「北部カタンガ共和国」を吸収した。かくしてコンゴには、カタンガ州の「チョンベ政府」、レオポルドヴィルのモブツ派「委員会内閣」、スタンレーヴィルのルムンバ派「ギゼンガ政府」、さらに「南カサイ銅山国」の4派(と国連軍)が並び立つ情勢となった。

 この頃、モブツ派「委員会内閣」は自分達が逮捕したルムンバの処遇に困るようになっていた。もし死刑にすればかえってルムンバ派を勢いづかせるだろうし、万が一スタンレーヴィルのルムンバ派ギゼンガ政府に奪回されれば、もっと厄介なことになる。そこで委員会内閣は、ルムンバの身柄をカタンガのチョンベ政府に引き取らせるという奇策を思い付いた。委員会内閣とチョンベ政権は、ルムンバ派に敵対するという点で共通しており、ここにいかなる意志が働いたのか不明であるが……飛行機でカタンガの首都エリザベートヴィルに到着したルムンバは、何者かの手によって暗殺されてしまった。

 ルムンバ暗殺の影響は大きかった。国際世論の同情はルムンバ派ギゼンガ政府へと集まり、ギゼンガ政府を正式に承認する国もあらわれた。2月21日には国連安保理も「コンゴ問題にかんする決議S4741号」を採択し、ルムンバの死を悼むと共に、内戦終結のために武力行使を含むあらゆる手段をとること、国連軍以外のあらゆる外国軍隊・傭兵をコンゴから即時撤退させること、等の方針を打ち出した。

 この少し前、レオポルドヴィルのモブツ派「委員会内閣」に政変がおこり、委員会内閣が解散してジョセフ・レイオを首班とする新内閣が発足した。(これはあくまで委員会内閣内部の話。政治の一線から退いて軍の強化にあたっていたモブツはその後も引き続き勢力を持ち続ける。大統領カサブブも引き続き留任)この「レイオ政府」は問題の国連決議を「内政干渉」であるとの声明を発し、カタンガのチョンベ政府はさらに強硬に「決議はコンゴ全体に対する国連の宣戦布告である」と言い放った。

 しかし、これらの動きの水面下では国連の力によらないコンゴの自力による事態収拾への動きが進んでいた。7月16日、大統領カサブブの努力が実り、カタンガのチョンベ政府を除く諸派が結集する特別国会が開催され、ここでようやカタンガ以外の勢力による挙国一致内閣「アドウラ政府」が成立した。国連はアドウラ政府の成立を素直によろこんだが、カタンガのみは半端な妥協を拒否して徹底抗戦の構えを見せた。

   

   カタンガ対国連

 この頃、カタンガ州内には約5000人の国連軍が駐留していた。現地の国連代表コナー・オブライアンは極力カタンガへの白人傭兵の流入を阻止し、チョンベ政府をアドウラ政府に合流させるべく努力を続けていた。

 しかし、チョンベはオブライアンの忠告に耳をかさず、カタンガの各地では白人傭兵・カタンガ憲兵隊と国連軍との小競り合いが頻発していた。

 8月28日、遂に国連軍が2月の決議に基づく「外国人傭兵の逮捕・追放」を実行に移すべく「ランパンチ」作戦を発動した。不意をつかれた傭兵達はその多くが国連軍の縄にかかった。戦闘はなかった。国連軍の狙いは白人傭兵の逮捕のみにあり、カタンガ大統領チョンベもやむなくこの措置に同意、ベルギー領事もカタンガ憲兵隊のベルギー人士官を本国に送還すると約束した。

 だが、ベルギー領事はベルギー人以外の白人士官には責任を負いかねると述べ、他の国籍の傭兵達は平服に着替えて逃げ散ってしまった。逮捕をのがれた白人傭兵は全部で104人と考えられた。国連軍とカタンガ憲兵隊のにらみ合いが継続した。カタンガ州内部で国連に協力していると噂されたカサイ・バルバ族があちこちで虐殺された。

 9月13日、国連軍はチョンベ政府の閣僚を逮捕する「モンソール」作戦を発動した。しかしカタンガ側は先の「ランパンチ」作戦以降慎重に防備を固めていた。チョンベは上手く逃げ去り、その前後にはカタンガ憲兵隊の包囲を受けた国連軍アイルランド部隊が降伏してしまった。カタンガ側は国連軍の持たない飛行機(フランス製ジェット練習機フーガ・マジステールを武装したもの)でアイルランド部隊を圧倒したのだった。

 この事態に驚いた国連事務総長ハマーショルドはカタンガ側との停戦を協議すべく、チョンベとの会談が予定されていた北ローデシア(現在のザンビア)のヌドラを目指して9月17日にコンゴの首都レオポルドヴィルを飛び立った。ところが、ハマーショルドの乗るDC一6Bは謎の墜落事故を遂げ、ハマーショルド本人もそのまま帰らぬ人となってしまった。後任の事務総長にはウ・タントが選出された。11月には傭兵の追放を最優先に考えるとの国連安保理決議が採択された。カタンガ空軍のフーガ・マジステールに対抗すべく、スウェーデンからサーブJ29B戦闘機5機が導入されて国連軍の強化にあてられた。

 12月、カタンガの首都エリザベートヴィルにて国連軍とカタンガ憲兵隊との小競り合いがおこった。まず3日に市内各地に駐留する国連軍を分断するバリケードをめぐっての流血沙汰があり、5日には国連軍インド部隊が突撃してバリケードを破壊した。6日にはサーブ戦闘機が飛行場への奇襲攻撃を行なってカタンガ軍とっておきのフーガ・マジステールその他5機を(地上で)破壊した。市街戦が始まった。一般市民はカタンガ憲兵隊の味方であり、国連軍の動きを電話で憲兵隊司令部に通報、憲兵隊指揮官ロジェ・フォルケ大佐(フランス人)はそこからさらに無線で各部隊に支持を出した。とはいえエリザベートヴィルに展開するカタンガ側の兵力はカタンガ憲兵隊のアフリカ人兵士約3000人に白人傭兵200人程度、国連軍の兵力はその倍であり、制空権を確保した国連軍が戦いの主導権を握った。

 カタンガ大統領チョンベはやむなくアメリカに調停を求めた。これを受けたアメリカのケネディ大統領は直ちに動きだし、21日には「キトナ協定」を取り持つことに成功した。これによってカタンガはコンゴからの独立を放棄し、エリザベートヴィルの市街戦はとりあえず終結した。12月の一連の戦闘における国連軍の死者は25人、カタンガ憲兵隊の死者は80人に達していたが、白人傭兵は6人の死者と数人の逮捕者を残したのみで残りは逃走してしまった。

   

   国連軍の攻勢

 だが、チョンベはまだまだ諦めていなかった。以後1年間、チョンベは国連・アドウラ政府との虚々実々の駆け引きを展開し、「キトナ協定」の定めた「カタンガ独立の放棄」を事実上骨抜きにすることに成功した。白人傭兵も何人か「解雇」されたが、その大半は依然としてチョンベに匿われ、それどころか新規の募集や飛行機の買い入れもこっそりと継続されていた。ただ、国連の査察をかわすために憲兵隊の指揮官ロジェ・フォルケ大佐を解雇したのは全くの失敗だった。

 1962年7月11日、カタンガの各地で「カタンガ独立2周年」の記念式典が開催された。これは明らかに国連・アドウラ政府への挑発であった。11月には国連による厳重な警告がなされた。

 12月4日、アドウラ政府が停戦協定を破棄し、コンゴ国軍が北部カタンガへと進駐した。月末には再び国連軍とカタンガ憲兵隊との戦闘が始まるが、先にロジェ・フォルケ大佐が抜けた後の憲兵隊は有能な指揮官を欠くようになっており、あっさりと首都エリザベートヴィルから退却した。こうなると金にしか興味のない白人傭兵の志気も著しく低下する。

 翌63年1月14日、国内の重要拠点のほとんどを国連軍に占領されたカタンガ政府はやむなくカタンガ分離・独立の終了を宣言した。チョンベはスペインに亡命、最後に残った憲兵隊4000と白人傭兵50人は隣国アンゴラへと逃走した。当時ポルトガルの植民地だったアンゴラでは独立戦争が続いており、憲兵隊はポルトガル政府軍に雇われて独立派ゲリラの鎮圧にあたることとなった。とりあえずこれで「第一次コンゴ動乱」は(実にあっけなく)終結した。

   

   シンバの反乱

 一連の混乱でコンゴの国土と経済は疲弊しきっていた。混乱もおさまらなかった。64年、旧ルムンバ派の一部が共産主義に感化され、中国の支援を受けてのゲリラ戦(第二次コンゴ動乱)を開始した。「新しい愛国主義と社会主義」を目指す彼等は特に若者の支持を集め、カタンガ戦争の終結で国連軍の引き揚げたその間隙を狙って勢力を拡大した。「シンバ」と呼ばれるゲリラは、実はルムンバは生きていると信じており、入隊に際して「ルムンバの水」と称する聖水で洗礼を受けた自分達は戦闘に際しても不死身であると信じていた。(シンバには、一時期キューバのゲリラ指導者チェ・ゲバラが参加していた)

 国連軍の引き揚げた後、コンゴ国軍はアメリカ・イスラエルの軍事顧問の手で訓練を続けていたが、まだまだ未熟な彼等は勇敢なシンバの前に手も足もでず、各地の都市を占領して勢いに乗るシンバは9月には「人民革命政府」の樹立を宣言するに至った。国土の3分の2をシンバに奪われて窮地に立ったコンゴ中央政府(アドウラ政府)は、ここでとんでもないことを考えた。現在スペインに亡命中のチョンベを呼び戻し、彼と彼のカタンガ憲兵隊(今アンゴラにいる)の力によってシンバを鎮圧しようというのだ。

 そうして帰国したチョンベは「コンゴ民主共和国」の首相におさまってしまい、アンゴラにいた憲兵隊も白人傭兵も戻ってきた。チョンベ政府はどう考えも不自然であり、大した支持を得た訳でもなかったが、それでもやはりチョンベは軍事に関しては有能であり、共産主義勢力の伸長を恐れるアメリカもベルギーもチョンベ政府に味方した。

 11月、シンバの押さえるスタンレーヴィルへの総攻撃が始まった。現地ではヨーロッパ系住民多数が人質にとられていたが、アメリカ空軍機に運ばれたベルギー落下傘部隊が降下して人質を救出、ひきつづきコンゴ国軍にカタンガ憲兵隊、白人傭兵が市内に突入してシンバを圧倒した。マイク・ホアー大佐の第5コマンド「ワイルド・ギース」、プロテン少佐(後にディナールと交代)の第6コマンド、ジャン・シュラムの第10コマンド「新レオパルド大隊」の3つの部隊に再編された白人傭兵は国内各地のシンバを片端から撃破していった。(第5コマンドは完全に白人傭兵のみの部隊で、我々がイメージする「傭兵部隊」の典型例。第6・第10コマンドは白人傭兵の士官がアフリカ人の兵士を指揮する部隊)

 だが、シンバの勢力が弱まると同時に、シンバを鎮圧するために呼び戻されたチョンベの存在意義も薄れてきた。政府内部の抗争が激化し、11月には、これまで勢力をたくわえていたコンゴ国軍のモブツが再びクーデターを断行(前回のクーデターの時には大佐だったが、この時には中将になっていた)、チョンベはまたしてもスペインに亡命した。とはいえこの時点ではまだシンバの勢力が残っていたので、白人傭兵とカタンガ憲兵隊は引き続きコンゴに残留することになった。

 1966年、モブツ新大統領は議会の立法権を奪って独裁的権力を掌握し、反対派を次々と粛清していった。さらに4月に「人民革命運動」なる政党を組織して自分への大衆的支持基盤を確立したモブツの次の狙いは大企業の国有化であった。危機を感じた大企業「ユニオン・ミニエール」社はモブツへの反乱を白人傭兵とカタンガ憲兵隊へと持ちかけた。しかし、7月23日に白人傭兵とカタンガ憲兵隊の一部がおこした反乱は、他の傭兵の支持が得られないまま失敗した。

 67年、シンバを完全に鎮圧したモブツは、用済みになった白人傭兵とカタンガ憲兵隊の武装解除にとりかかった。まず白人傭兵第5コマンドが解体された。

     

   傭兵反乱

 4月、第6コマンドのもとに、第10コマンドを武装解除せよとの命令がくだった。第10コマンド隊長シュラムはもともとベルギー人の大地主であって影でベルギー政府の後援を受けており、フランス人を主体とする第6コマンドの背後にはフランス政府がいたとされている(モブツは親アメリカであり、そのアメリカと対立するフランスが傭兵を助けた)。両部隊は相談の上、現在スペインに亡命中のチョンベを担いでの反乱を計画した。

 しかしそのチョンベは反乱を嗅ぎ付けたアメリカ(親モブツ)のCIAによって誘拐された(2年後獄死)。モブツ政府は実力行使による(白人傭兵とカタンガ憲兵隊の)武装解除の準備を整えており、第6・第10コマンドは担ぐおみこしを持たないままの反乱を強いられるハメとなった。

 7月5日、傭兵の反乱が始まった。第10コマンドはキサンガニとブカブを速攻で占領した。ところが、何故か憲兵隊のカタンガ人の多くは尻込みしてしまい、第6コマンドも、これも何故か動きが遅れたあげくに隊長のディナールが流れ弾にあたって負傷してしまった。もたついてる間にコンゴ国軍が進撃、反乱軍(白人傭兵150人、カタンガ憲兵隊約1000人)をキサンガニにて包囲した。

 13日、反乱軍は包囲を突破してルアンダ国境へと逃走した。戦局は一旦小康状態に入った。10月、負傷から回復した第6コマンド隊長ディナールは、チョンベの片腕で現在刑務所に服役中のゴデフロア・ムノンゴを救出する作戦をたてた。チョンベにかわる錦の御旗にするつもりだったのだが……コンゴ河口に浮かぶボウラ・ベラ島刑務所への揚陸作戦は失敗に終った。ディナールは100人余りの傭兵と50人のカタンガ憲兵隊を連れてアンゴラに逃走、同じ頃にはコンゴ国軍の総攻撃を受けた第10コマンドもルアンダに逃げ込んでそちらで武装解除を受けた。こうしてモブツの独裁体制は完全に確立し、その後1997年まで、まったく揺るぎのないものとなったのである。(71年、国名を「ザイール共和国」に変更。しかし97年のクーデターでモブツ政権が倒れ、「コンゴ」の国名が復活した)

 こうして、独立以来のコンゴの混乱は終息し、チョンベに雇われた白人傭兵もその姿を消した。だが、白人傭兵そのものが消滅した訳では全然なかった。パスポートに「アフリカへの立ち入り禁止」のスタンプを押されてヨーロッパに送還された白人傭兵達は、しかしまた懲りずにアフリカに舞い戻ってくる。第6コマンドの隊長だったボブ・ディナールはガボンのオマール・ボンゴ大統領の軍事顧問となり、カタンガ憲兵隊の指揮官ロジェ・フォルケ大佐は1967年にはじまったナイジェリアの内戦に参加した。だが、この時のフォルケ大佐の傭兵部隊は情けないくらい何の活躍も出来なかった。敵となったナイジェリア正規軍の実力を、コンゴのシンバと同レヴェルと見誤ったからである。ちなみにその時のフォルケ大佐の雇い主「ビアフラ共和国(ナイジェリアからの分離・独立を唱える)」の指導者チュクエメカ・オジュクはコンゴの国連軍に参加したことがある。また、コンゴの傭兵反乱の失敗後アンゴラに逃れたカタンガ憲兵隊もまたそちらの独立戦争にかかわって、アンゴラ独立後は共産主義を奉ずるMPLA(アンゴラ解放人民戦線)に協力し(カタンガは反共産主義だったのだが)、同じくMPLAを支援するソ連やキューバの軍事顧問と肩を並べて、敵対するFNLA(アンゴラ民族解放戦線)と戦うことになる。そのFNLAはザイール(旧コンゴ)のモブツ大統領の支援を受けており、イギリス人を主体とする白人傭兵の姿も見うけられた。最後に、第5コマンド「ワイルド・ギース」を率いたマイク・ホアーはナイジェリアにもアンゴラにも姿を見せなかった(彼を雇うという話はあったが、金銭的な折り合いがつかなかったのだという)が、1981年にセイシェル共和国でのクーデターをはかり、あっさり失敗してしまったのであった。

                        

おわり

   

   参考文献

『コンゴ独立史』 キャサリン・ホスキンズ著 土屋哲訳 みすず書房 1966年

『アフリカ現代史3』 小田英郎著 山川出版社 1986年

『アフリカ傭兵作戦』 片山正人著 朝日ソノラマ 1991年

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