ビアフラ戦争

 現在のナイジェリア地域では15世紀中頃からヨーロッパ人が到来して奴隷貿易を行っていた。ヨーロッパ人は最初は現地の王国から奴隷を買い取るという形をとっていたが、19世紀中頃になると現地王国を仲介させずに直接内陸部に入ろうとの意思が高まってきた。そしてイギリスは1860年ラゴスに最初の植民地を開設、フランスやドイツと競争しつつ1914年には現在のナイジェリア領土に相当する地域をイギリス植民地として確定させた。

 ナイジェリアは南北で全く異なる社会である。「ハウサ族」を主要部族とする北部乾燥地帯はイスラム教優勢で綿花や落花生を産出していたのに対し、「ヨルバ族」「イボ族」を主要部族としてゴムやパームを産出する南部熱帯雨林地帯はヨーロッパ人が布教したキリスト教が優勢であった。そして南部も西と東でかなり異なる。西部に住むヨルバ族は古くからかなり集権的な国家を形作っていたのに対し、東部のイボ族はヨルバと比較すれば分権的・民主的な世界に住んでいた。

 以上あげた3大部族のうち教育に熱心なのが東部のイボ族で、北部や西部に下級官吏や商人として大勢が入り込んでいた。イギリスは宗教の違いや経済格差のあるこれらの地域を行政的な利便からひとつの植民地として支配していたが、これが大きな禍根を残すことになる。ちなみにイギリス人は3大部族のうち、気候風土が比較的すごしやすく、イスラム的な優雅さを持ち性質も従順な北部のハウサ族がお気に入りであった。ただ、ハウサ族はイスラムの伝統から近代化を嫌ったために経済的に立ち遅れ、そこに入り込んできたイボ族に対する不満を強く抱くようになるのだが。(3大部族以外にもたくさんの中小部族がいます)

 第二次世界大戦の前後からこの地域にも独立運動が盛んになってくる。主に次の3つの党が誕生した。北部(ハウサ族)の「北部人民会議(NPC)」と西部(ヨルバ族)の「行動党(AG)」はそれぞれの地域の利害を強く代表し、東部(イボ族)の「ナイジェリア市民全国評議会(NCNC)」は全国的な組織を指向した。イボ族は前述のとおり教育や経済に優れた才能を示したことから「黒いユダヤ人」との異名を持ち(註1)、北部や西部を圧倒出来る自信があった。であるから、他の2党はイボ族にあまり入ってこられないよう地域主義を唱える(その場合、イボ族は北部や西部に行っても2流市民の扱いになる)ことになる。が、NPCもAGも単独で独立しようとはしなかった。特にNPCはその地盤の北部が単独独立した場合、海への出口が無くなってしまうことを恐れたからである。イギリスも、他国との境界線が変わるのを嫌って、独立するなら地域別ではなくナイジェリア全域一括してが望ましいと考えていた(註2)

註1 ヨーロッパのマスコミはユダヤ人に対する差別を配慮して「黒い日本人」と呼んでいたという。

註2 あまりばらばらになると他国に利権をとられやすいと思ったのか。ハウサ族は不満があると「(ナイジェリア植民地から)分離する」と口にしたため、イギリスはそれを宥めるために現地議会(46年開設)の配分を北部に有利にした。もちろんそれは東部・西部には不満である。


 そして1960年10月1日、ナイジェリアは独立を達成した。アフリカ最大の人口を持つ大国の誕生である。主要産業は農業だがこの頃から石油や錫の産出が増大していた。ただし油田はイボ族の住む東部に集中している。この時点ではアフリカで最も安定した国と宣伝されていた。

 事前の選挙では主要3党いづれも過半数に達しなかったため政権は第1党のNPCと第2党のNCNCの連立である。州ごとに首相を持つ連邦制で、国家元首はイギリス国王を戴き(註3)、その名代たる「総督」にNCNCのアジキエ、連邦首相にNPCのバレワである。連邦はとりあえず3州からなり、言うまでもなく北部州首相はNPCから、東部州首相はNCNCから、西部州首相はAGから選出された。しかし全然違う風土を持つ3州をひとつの国として運営していけるような卓越したリーダーは出現せず、公職には独立前から酷い汚職がつきものであった。もちろん汚職といっても単なる腐敗ではなく、政治家が自分の部族内の縁者を養うのに必要という意味もあったのだが、そのためには何としてでも選挙に勝つ必要があるので投票の際には暴力やごまかしが日常茶飯事となってしまう。

註3 これは、現在のカナダやオーストラリアもそのような形式をとっている。


 63年9月には西部州のうち非ヨルバ族地域が新しく「中西部州」を組織し、その首相にNCNCのオサデベイを選出した。そのころヨルバ族主体のAGが内紛で弱体化したため、非ヨルバ系のエド族やイジョ族といった中小部族が勢いづいたのである。同年10月ナイジェリア連邦は大統領制を導入し、それまで総督だったアジキエがそのまま大統領職に就任した。同年11月の人口調査では北部州3000万弱、東部州1240万、西部州1000万、中西部州250万という結果が出た。この数字に基づいて連邦議会の議席数を決めると北部のNPCの単独過半数もありえ、さらに北部の数字に水増し疑惑があったため、NPC・NCNCの連立政府にも亀裂が生じてきた。

 64年、独立後最初の連邦選挙が行われることになった。少し前にAGから「ナイジェリア国民民主党(NNDP)」という組織が離脱していたが、NPCはそのNNDPと組んで新党「ナイジェリア国民同盟(NNA)」を、NCNCはAGと組んで新党「統一進歩大同盟(UPGA)」をそれぞれ結成して選挙に望んだ。選挙運動では部族間の偏見まるだしの政治宣伝が行われ、殺人を含む乱闘騒ぎが頻発して軍隊までが投入された。投票が翌年までずれこんだ上でNNAが勝利、旧NPCのバレワが連邦首相に就任した。つまり北部ハウサ族を中心とする勢力の勝利である。UPGA、つまり東部イボ族を中心とする勢力はもちろん強い不満を示した。

 66年1月15日、軍部の中堅将校グループによるクーデターが発生し、連邦首相とさらに北部州と西部州の首相が殺害された。殺された3人の首相はみなNNA幹部である。ということはもちろん、クーデターの首謀者の多くはイボ族であった。彼等は汚職塗れの政治家たちの綱紀粛正も求めていた。しかし軍最高司令官のイロンシ少将が素早く反撃して19日には叛徒を制圧した。が、実は、イロンシ少将もまたイボ族出身であった。15日のクーデターでは北部・西部出身の軍高官が多数殺害されていたのだが、イロンシはその後任にイボ族出身者をあてた。このことで特に北部の不満が高まった。イロンシはさらに、15日の惨劇を逃れていた閣僚を脅して自分を首相とする臨時政府を組織した。彼もまた政界の腐敗を粛清するとのスローガンを掲げたため、15日のクーデターの首謀者たちは大人しく投降してきた。

 5月24日、イロンシは連邦制の廃止を宣言した。つまりイボ族優遇人事で動揺している北部の締め付けを狙った(註4)のだが、結果は完全に逆効果であった(註5)。北部州で大規模な反対デモが発生し、そちらに居住していたイボ族数千人が殺されるという事態に発展した。それに政治腐敗の追放というのも現実を見ない綺麗ごとで、実際にそれをやられると縁故で職を得ている大勢の民衆が失業するのである。そして7月28日にはイロンシが西部州を訪れたのを好機としてそちらに駐留していた北部出身の下士官グループが新たなクーデター「アラバ計画」を決行し、イロンシを誘拐・殺害したのであった。

註4 政治腐敗の温床のひとつである地域主義の打破という意味もあった。それに連邦制廃止で諸部族がどの州でも自由に行動出来るようになれば「黒いユダヤ人」イボ族が最も有利。

註5 連邦制廃止はイロンシ本人はあまり望んでおらず周囲に突き上げられただけともいう。


 かくして8月1日、北部出身の陸軍参謀長ゴウオン中佐が新しい軍事政権の国家元首・軍最高司令官に就任した。彼自身はイロンシ殺害に関与した訳ではないが、その時の騒ぎでイボ族の軍幹部が多数殺害された(東部出身者300人が殺害・行方不明)ために軍における北部出身者の比重が高くなり、クーデターに直接参加した人々やその他の北部有力者の推挙によって擁立が決まったのである。とりあえず政体を連邦制に戻す。北部州だけで連邦から離脱すべきとの意見も吐かれたが、ゴウオンは北部州は内陸に位置するので連邦離脱の場合は海に出にくくなる等の理由(イギリスにそう言われた)でこれをおさえた(註6)。というより、こののまま「北部の支配するナイジェリア連邦」で行くべきである。

註6 ちなみに西部州のヨルバ族は伝統的に軍人志望者が少なく、北部人主体の軍事政権に反発するほどの理由がなかった。

 しかしその北部州……本稿の上の方で少し述べたが、イボ族が北部に130万人も入り込んで活躍していた……では、ハウサ族等によるイボ族の虐殺がまた、今度はさらに大規模に発生した。余所者のイボ族はハウサ族よりも経済的に優位に立ち、独自の政治団体を組織したりして物議を醸していた。それに対する不満が爆発したのである。このとき殺されたイボ族の数は最少に見積もるものでも2000人、多い資料では3万5000人といい、100万人からが難民化して東部州に避難した。そのうち5万人が負傷していたという。東部州の人々は、もはやナイジェリアという国の中で北部と共存していくのは不可能だと考えるようになった。

 東部州の最高責任者はイロンシによって「軍政知事」に任命されていたオジュク中佐であった。オジュクはまだ33歳の若さだが、ナイジェリア連邦側の国家元首ゴウオンも実は32歳にすぎない。67年1月、両者はガーナ共和国のアブリで会談をもった。ここで難民の救済といった協定が結ばれたが、国にもどったゴウオンは約束を履行しなかった。ゴウオン本人はそれほど強硬な性質ではなかったのだが周囲のハウサ族閣僚に頭が上がらない立場だったとも言われている(ゴウオンは北部の出だが弱小部族出身)。ともあれ東部州と連邦の対立が急激に加速する。

 難民流入で財政危機に陥ったオジュク側は3月、東部州内の税収はすべて州で管理するとした。州内の連邦政府系企業を接収し、独自の最高裁判所も設置した。対して連邦側は東部州への交通・通信を遮断した。外国からの武器の買い入れも強化する。もう戦争一歩手前だが、その場合には東部州はフランスの支援を期待出来た。州内に石油資源があったからである。東部州はナイジェリアにおいて人口比率は22パーセントであるが税収の35パーセントを負担する豊かな州であった。

 5月5日、民間有識者からなる「ナイジェリア調停委員会」が連邦・東部州双方とも強硬措置を撤回すべきとの提言を行った。ゴウオンは20日これを受け入れるとしたが口だけに終わり、東部州議会は26日オジュクに対し連邦からの独立の提議した。翌日ゴウオンは戒厳令を発し、それまで4州からなっていたナイジェリア連邦を12州に分割すると声明した。もちろん東部州から油田をもぎ取るためである。そして5月30日、オジュク中佐は「ビアフラ共和国」の分離独立を宣言した。ビアフラとはイボの言葉で「ギニア湾から登る太陽」の意である。その人口は約1400万人、これはアフリカ4位の多さであり、人口密度では1位である。石油・天然ガス・石炭・錫等々の地下資源や各種の商品作物、さらに製鉄や自動車等の製造業を持つ。住民はイボ族だけでなく多くの中小部族を抱えるがその権利は対等である。そして「ビアフラ軍」の戦力は約9000人、ゴウオンのナイジェリア連邦軍は1万2000人であった。数と装備に勝る連邦軍に対し、ビアフラ軍は志願者は多いのだがもたせる武器が乏しいという欠陥があった。

 独立宣言から1ヶ月あまり経った7月6日、ナイジェリア連邦軍2個大隊がビアフラ北東部のオゴジャを攻撃した。「ビアフラ戦争」の勃発である。オゴジャにて戦闘が続く同月8日、別の連邦軍6個大隊がビアフラ北東部のさらに重要な拠点であるヌスカに攻め込んだ。オゴジャもヌスカも一週間足らずで陥落した。

 同月25日。連邦軍は今度は海からビアフラ南部の石油パイプラインの終着点ボニー港を攻撃した。現地のビアフラ空軍の迎撃によって連邦軍の艦艇4隻が撃沈されたが、翌日には連邦軍3個大隊の上陸が成功した。もっともそこから先は湿地帯で進まなかったが。

 連邦軍は序盤の勝利を飾りはしたものの、ゴウオン政権は実のところ全連邦の支持を集めていた訳ではなく、西部州と中西部州(註7)は成り行きを見守っていた。ゴウオンの戦略の主眼がこの頃は経済封鎖にあったこともあり、戦線は膠着した。連邦軍はビアフラの北部と南部に主力軍を投入したため、西部(連邦から見たら東部)の方がすっかり手薄になってしまった。(以降、ビアフラ側の視点で北部戦線とか西部戦線とか書く。南部は海、東部はカメルーン連邦共和国と接している)

註7 先の「12州に分割」で分割されたのは北部州と東部州だけで、西部と中西部は変化無し。

 8月9日、ようやくビアフラ軍が本格的な反抗を開始した。その兵力はバンジョ准将率いる機械化された3個大隊3000人である。単なる防御ではなく、思いきって連邦内部の、防備の手薄な中西部州へと侵攻したのである。しかもこの州の軍幹部の多くはイボ族の親戚の部族であって事実上の中立という立場をとり、首都ベニンを含む中西部州全域は抵抗なくビアフラ軍の支配下に落ちた。中西部州にも油田があり、ビアフラ軍はナイジェリアの油田を全部手中にしたことになる。この少し前に中東でアラブ諸国とイスラエルが戦争(第3次中東戦争)して石油価格が上がっていた。

 しかしその奥の西部州の立場は曖昧だったため、ビアフラ軍は同月16日に西部州に侵入し、26日には連邦首都ラゴスから220キロのオレに到達した。ゴウオンの出身部族から集められた連邦近衛隊その他が反撃してきたが打ち破った。ゴウオンはビアフラに対する「全面戦争」を布告しつつ、亡命の準備をする(専用機のエンジンを暖めた)までに浮き足立ったものの、既にナイジェリアに莫大な投資をしている旧宗主国のイギリスとアメリカ、それからソ連が援助してくれると聞いて踏みとどまった(註8)。ソ連はこの機会にアフリカの一角に地歩を築きたいと考え、連邦側にミグ戦闘機やイリューシン爆撃機を送り届けてきた。それからゴウオンは西部州の有力者に政府内のポストを与えて懐柔し、西部州の側もビアフラ軍の侵入を脅威とみてゴウオン支持を明確にした。それにあわせるように、ビアフラ軍の動きが緩慢になってきた。オジュクは前線から兵員・物資の不足を訴えられてやきもきした。

註8 ただ、イギリスの投資は連邦支配地域とビアフラ支配地域の双方に及んでおり、イギリスとしてはとにかく勝ち馬にのれるならばどちらを支持しても構わないという立場であった。何故ゴウオンを選んだのか、はっきりした理由は不明。


 9月12日、西部戦線のビアフラ軍指揮官バンジョ准将が勝手に戦線から撤収した。バンジョは報告の名目でオジュクのもとに出頭しこれを殺害しようとしたが、それを察したオジュクにより逆に逮捕・処刑された。バンジョはイボ族ではなく西部州のヨルバ族の出身であった(ビアフラ軍唯一のヨルバ族高級指揮官)のに、オジュクが何故そんな人物に西部戦線を任せていたかは謎である。バンジョはオジュクを謀殺した後ヨルバ族を糾合してゴウオンを倒し自分が連邦大統領になるつもりでいたという。

 その騒ぎの合間に連邦軍は大幅な徴兵とイギリスやソ連の武器援助によって兵力の増強を進めていた。刑務所の囚人まで徴兵し、たった1週間の即席訓練で部隊に放り込んだという。開戦時に1万2000だった兵員数はあっという間に4万に増え、ビアフラ攻略用に第1〜第3の歩兵師団が編成された。まずムハンマド中佐指揮の第2歩兵師団が西部戦線にて攻勢に出て9月20日には中西部州の首都ベニンを占領し、10月1〜3日に州境(註9)ナイジャー河ちかくのアサバで行われた戦闘に勝利してビアフラ軍を対岸に追い払った。ビアフラ軍が退却した後の中西部州ではイボ族住民が多数虐殺された。連邦軍の指揮官が10歳以上のイボ族男性を皆殺しにせよとの命令を下したという話もある(註10)。連邦軍は12日ナイジャー河を渡ってビアフラ領に侵入した。そこから進む連邦軍は西アフリカ有数の市場を持つ重要拠点オニチャを占領したがビアフラ軍の反撃にあってナイジャー河まで押し戻された。河と言えば連邦軍の主力であるハウサ族は乾燥帯の部族であって泳ぎが出来ず多数がナイジャー河で溺死した。

註9 中西部州と東部州(ビアフラ)の境。

註10 組織的な虐殺は後々まで広範囲に渡って行われた。例えば68年に取材に訪れたイギリス記者フレデリック・フォーサイスも虐殺の後の死体の山を何度も目撃している。


 同じ頃には北部戦線でもシュワ大佐指揮の連邦軍第1歩兵師団が進撃しており、10月4日にはビアフラ共和国首都のエヌグを占領した。ビアフラ側はその南方のウムアヒアに首都を移転した。南部戦線においてもビアフラ南東部のカラバール港にアデクンレ大佐指揮の連邦軍第3歩兵師団(海兵隊)が上陸した。

 ところでこの頃ビアフラ軍は白人傭兵の雇用に乗り出していた。数年前のコンゴの内戦(註11)で白人傭兵が活躍していたからである。まず、その「コンゴ動乱」で最も活躍して「マッド・マイク」とか「伝説の傭兵」とか呼ばれたマイク・ホアー大佐がビアフラにやってきたのだがこれは金銭的に話がつかなかった。彼はその後で連邦側にも売り込みをしている(この時も話がまとまらず)。それからこれもやはりコンゴで活躍したロジェ・フォルケ大佐がビアフラを訪れた。彼はフランスのド・ゴール大統領の補佐官の紹介を受けていた。フランスはビアフラに好意を示し、傭兵の斡旋だけでなく兵器の供給も行った(註12)。という訳でフォルケ大佐についてはビアフラ軍による雇用が成立し、とりあえず53人の白人傭兵がやってきた。しかし彼等はカラバール港に上陸してきた連邦軍第3歩兵師団に戦いを挑んで(なめてかかったため)敗退し、契約を途中で打ち切って帰国してしまった。傭兵のうちビアフラに残留したのは4人だけだが、彼等はその1人ロルフ・シュタイナーを中心として後でかなり活躍することになるのだが……とりあえず連邦軍第3歩兵師団は海軍とともにビアフラ沿岸部を制圧し、さらにビアフラとカメルーンの国境地帯を北上して北部戦線の味方と手をつないだ。つまりビアフラを完全に包囲したのである。ビアフラはフランスから送られる武器弾薬を空路で細々と持ち込むしかなくなった(ビアフラには工業があるのである程度の武器は自作可能だが)。

註11 これについては当サイト内の「コンゴ動乱」を参照のこと。

註12 フランスはこの機会に市場を拡大しようとした(オジュクは油田開発の権益をフランスに約束していた。フランスはオジュクが飽きれるほど貪欲だったという)のであるが、ド・ゴール大統領の思想としてアフリカの政治的安定のためには巨大な連邦より小国家によるゆるやかな共同体の方が望ましいとかんがえていたとの理由もある。全体的な傾向として、イギリスは自分の植民地をナイジェリアのような大きな単位で独立させるのを好んだのに対し、フランスは細かく区切って独立させていた。そうやって意図的に小国にした方が独立後もフランス依存になりやすいと考えたからと思われる。


 ゴウオンは年末までの勝利を確信したが、ビアフラ軍はその後も頑強に抵抗した。翌68年、西部戦線にて連邦軍第2歩兵師団がロコジャから再びナイジャー河を渡河、激戦の末にまたオニチャを占領した。しかし勝利したとはいえ後続隊が待ち伏せを受けたりして連邦軍の損害は大きく、師団長ムハンマド大佐がその責任を問われて解任される有り様である。南部戦線ではビアフラ領内の石油関連施設が密集し穀倉地帯でもあるポート・ハーコートを巡る激戦が展開された。装甲車を押し立てた連邦軍第3歩兵師団は5月末にポート・ハーコートを占領した。ビアフラ兵の一部は旧式のラッパ銃(註13)や斧で戦い、靴がなくて裸足で走り回っていたという。連邦軍はガラス片をばらまくだけで大きな戦果をあげた。連邦軍にはイギリス人の顧問がついており作戦や機械整備の技術が急激に向上した。実はこのころ連邦とビアフラとの講和交渉が行われていたのだが、ポート・ハーコート占領で勢いに乗った連邦側が過大な条件を突きつけたため破談になった。連邦空軍の爆撃機は意識的に民間施設を狙うようになった。

註13 19世紀前半頃に使われていた散弾銃の先祖。

 この頃、ビアフラに留まっていた白人傭兵ロルフ・シュタイナーが新たに募集した白人傭兵とビアフラ軍兵士3000人からなる第4奇襲旅団を編成した。通称「シュタイナー軍団」である。シュタイナーはドイツ出身の元フランス外人部隊軍曹でインドシナ戦争やアルジェリア戦争に従軍し、有能な軍人なら誰でも欲しいビアフラ軍から大佐の位を貰っていた。彼は大戦中にヒトラー・ユーゲント(註14)にいたことから「ナチスの亡霊」の異名を持つ。白人傭兵の給料は月1000ドルほど、ナイジェリアの一般的労働者の数十倍の報酬である。ビアフラ軍には傭兵のようなプロの軍人だけでなく民衆を正規軍とは別に組織した市民軍というものもあった。(連邦軍にも白人傭兵はいました。特にパイロット)

註14 ナチス党の青少年組織。


 その間、ビアフラ軍の支配地域では深刻な飢餓が広まっていた。それまであまり世界に注目されていなかったこの戦争も、この年4月頃から入り始めた外国記者団によって本格的に報道されるようになり、6月にはイギリス紙『サン』の連載記事「ビアフラ飢餓」によってその飢餓の様相が知れ渡った。ビアフラ地域の食糧事情はもともと、特に蛋白質については北部州の肉や外国産の干し魚に頼っていたが、戦争でどちらのルートも封鎖された上に連邦軍の攻勢で領内の穀倉地帯を失いそこから難民が大量流入し(註15)で破滅的な情況を呈していたのである。食糧が全くない訳ではないのだが、蛋白質の極端な不足による「クワシオルコル症」が多くの、特に子供に発症して死に至らしめた。国際赤十字等が支援を申し出た。むろんオジュクは受けたが連邦政府は支援物資の通過を妨げる態度をとった。

註15 ビアフラ領内の非イボ系部族の中にはむしろ連邦軍を好意的に受け入れる者もいたのだが、連邦軍の態度があまりにも横暴で難民化することが多かったという。

 ビアフラ軍はヨーロッパで買い付けた武器や物資を国際武器商人ウォートンの経営する「ビアフラ航空」で運び込んでいた。ウォートンはビアフラ側の苦境につけこんで1回の飛行に2万ドルもの報酬を貰い、相応の危険をおかして夜間の輸送飛行を続けるかわりに空輸仕事の1社独占をオジュクに認めさせていた。具体的には敵味方の識別コードを余所に漏らさないとかである。ビアフラ航空は赤十字その他の救援物資の輸送も独占的に請け負った。もちろん1社だけで間に合う訳が無いし赤十字等も独自に輸送機をチャーター出来たのだが、ウォートン個人の儲けを優先したのである。

 8月、オジュクはビアフラ航空の独占を解除し、救援組織が独自にチャーターした輸送機を受け入れることにしたが、連邦空軍の攻撃を避けて夜間に運び込まれる物資は必要とされる量の3分の1にも達しなかった。この夏、1日あたりの餓死者は1万人にも達した。ビアフラは連邦軍に首都を奪われたりしているので緻密な行政機構を保つことが出来ずに食糧配給を整備するのもままならず、輸送手段も破壊されてしまっていた。汚職官吏が懐にいれてしまうこともある。しかもイボ族の性質として同族なら扶助するが非イボ族の難民(連邦軍に占領されたのは非イボ地域が多かった)にまでは手を回せない、という問題があった。

 連邦軍第3歩兵師団はポート・ハーコートから3路にわかれてオウェリとアバ、それからビアフラ共和国臨時首都ウムアヒアの一挙攻略「OAU」作戦に取りかかった。オウェリ方面ではシュタイナー軍団の仕掛けた障害物に阻まれ、さらに奇襲を受けて物資を奪われたが、アバは9月4日には占領した。アバ方面の戦闘では特に敵味方の兵器の優劣が際立っていた。ここでもシュタイナー軍団が猛烈に反撃してきたが、その主要兵器は手製の爆弾で、銃弾は1丁あたり3発しかなかったという。連邦軍は16日にはオウェリも占領する。ビアフラ側の支配地域は10月には開戦時の4分の1にまで押し込められ、そこには連邦軍の攻撃から逃れた難民が200万以上も流れ込んできていた。

 ただ、その頃になるとアメリカとカナダがビアフラ救援組織に大型輸送機を提供してくれたため、食糧事情に関しては好転してきた。この頃のビアフラ側の飛行場はウリ空港とあと1つしかなかったが、連邦軍はここを破壊することが出来なかった。爆撃しようと思えば出来るのだが、ジャングルの中の細長い滑走路なので空からの視認がしにくく(輸送機は夜間に極短時間の照明で誘導される)、それに、連邦空軍のパイロットの主力の外人傭兵たちが、ここを潰してビアフラの息の根を止めるよりも、適当に放置して戦争を長引かせた方が儲けが多いと考えたと言われている。傭兵と言えばシュタイナー大佐はもともとビアフラ軍幹部と仲が悪かったのだが、激戦に精神を病んで11月にはビアフラから引きあげてしまった。正確には国外追放で、オジュクの前で酔って暴れたのだという。

 オジュクは他のアフリカ諸国の支援を望んでいたが、アフリカ諸国の大半は、このような分離独立騒ぎが他国の介入を呼び寄せるとして連邦側の支持にまわってしまった(註16)。それは確かにその通りで、何度も書いているように連邦にはイギリス・ソ連が、ビアフラにはフランスがついている。フランスは(連邦支持国の方が多いので)外交的に孤立するのを恐れて結局最後までビアフラ共和国を正式承認しなかったが、旧フランス植民地の諸国に対して承認するよう圧力をかけていた。しかしそれに応じたのはガボンとコート・ジヴォアールだけ、あとタンザニアとザンビアとハイチの計5ヶ国がビアフラを承認した全国家となった。それからイスラエル・中国・ガーナ・ポルトガル・南アフリカ・ローデシア(現ジンバブエ)が承認はしないが援助をした。後ろの3国の支援はかえってアフリカ諸国におけるビアフラの評判を悪くした。ポルトガルはこの頃でもまだアフリカに広大な植民地を有しており(註17)、南アフリカとローデシアは少数の白人が大多数の黒人を差別的に支配する国だったからである。

註16 ところでゴウオンはこの戦争は国内問題であるとして国連を介入させなかった。ビアフラ側は国連に期待していたが、加盟国の大半の支持が得られなかったためか、けっきょく国連は動かなかった。

註17 イギリスやフランスは1960年前後にアフリカの植民地を独立させたが、ポルトガルは時勢に逆らって現モザンビークやアンゴラ地域を75年まで支配していた。

 ビアフラ軍の傭兵には単なる戦争屋だけでなく、全くの義侠心で駆けつけてきた者もいた。スウェーデン人のローゼン伯爵がそれである。ローゼン伯爵は5機のスウェーデン製練習機MFI9Bをまずタンザニア(ビアフラ友好国)政府に買わせてガボン(これもビアフラ友好国)に運び、そこで武装を施してビアフラの戦地へと送り届けた。ローゼン伯爵自身もパイロットをつとめる「ミニコン隊」である(註18)

註18 ローゼン伯爵はこのとき59歳であった。1935年にイタリアがエチオピアを侵略した(当サイト内の「イタリアのエチオピア侵略」を参照のこと)時にエチオピアを支援したとの前歴を持つ。


 さて前線では年が明けて69年1月、ビアフラ軍が南部戦線にて反撃に出た。目標は昨年奪われたオウェリで、1個師団と2個旅団の兵力でもって2月中旬には連邦軍の守るオウェリを包囲した。先にビアフラ共和国を承認してくれたガボン共和国領を経由してのフランスからの大量の武器空輸が行われたからである。

 連邦軍はポート・ハーコートから新手を北上させてオウェリの救援としたが途中で阻止された。しかしその間に北部戦線から連邦軍第1歩兵師団が攻勢に出てビアフラ北部の拠点を次々に占領、4月22日にビアフラ臨時首都ウムアヒアを占領した。連邦軍の方にはソ連製の武器が大量に支給されていた。

 ビアフラ軍は南部戦線ではその翌日にオウェリを占領出来たため、そちらに首都を移転した。ビアフラ軍は南部戦線では引き続き優勢で、油田地帯の多くを奪回した。この時期は雨期なのだが例年にないほどの降雨があったため連邦軍の動きが鈍っており、ローゼン伯爵のミニコン隊が連邦軍支配下の石油施設や飛行場を爆撃した。特に飛行場攻撃では地上に並んでいた連邦空軍機のほとんどを破壊してしまった。苛ついたビアフラ軍は「戦争において、餓えは合法的な武器である」としてそれまで見逃していた救援組織の輸送機への攻撃を開始した。そして6月2日、輸送機が連邦空軍の新鋭ミグ19戦闘機によって攻撃された。前述のミニコン隊の飛行場攻撃で自国製の戦闘機や爆撃機を壊されて怒ったソ連が新鋭機と東ドイツ空軍のパイロットを送り込んできたのである。6月5日には遂に赤十字国際委員会の救援物資10トンを積んだDC6輸送機が撃墜された(これを落としたパイロットはドイツ人ではなかったが)。連邦空軍のこの行動に対する外国の反応は鈍かった。ビアフラ軍が石油施設を攻撃したのと関係があると思われる。

 赤十字国際委員会はやむなくビアフラでの活動を中止した(註19)。そのため1日1000人もの餓死者が出てしまったが、キリスト教系の「合同教会救援団」とフランス赤十字社、それとアイルランドのカトリック系の支援組織「アフリカ商会」が空輸を継続した。そのうちにフランス海軍の空母が(近くの国の親善に行った帰りと称して)ビアフラ近海に現れたことから連邦空軍の輸送機襲撃も少なくなり、食糧事情もいくらかは好転した。

註19 アメリカの圧力を受けたという。アメリカは以前に救援活動用の大型輸送機を提供しているが、その時はジョンソン民主党政権(の末期)、この時はニクソン共和党政権であった。ただしジョンソン時代から全体としては連邦側を支援している。


 10月、雨期が明け、連邦軍の攻勢が再開した。第1歩兵師団の進撃はミニコン隊の反撃と味方機の誤爆によって撃退されたが、南部戦線の第3歩兵師団が苦戦しつつも前進、12月25日に北部戦線の第1歩兵師団との連携に成功、ビアフラを東西に2分した。末期のビアフラでは犬猫鼠もその辺に生えている熱帯性の果実も食いつくし、市街地に集まっていた難民の多くは密林の奥に食糧になるものを探しにいってそのまま消息を絶ったという。政府・軍の高官や外人記者の泊まるホテルは食事時になると餓民の群に取り囲まれ、記者はみんな神経を痛めて帰国したといわれている。

 翌70年1月9日、もはや戦意を喪失した兵士たちが次々と離脱するビアフラ首都オウェリに連邦軍が到達した。観念したオジュク……本稿に登場した時は中佐だったがこの時は大将になっていた……はこのままビアフラ共和国の最期を見届けたいと語ったが、戦闘を早く終結させるためにも立ち去るべきとの閣僚や軍幹部の説得により、ウリ空港から数少ない友好国コート・ジヴォアールへと亡命した。12日、軍参謀長エフィオング少将が降伏を宣言した。31ヶ月に渡った「ビアフラ戦争」の人的被害は、ビアフラ側の発表によれば戦死者は20万人、民間人で戦闘に巻き込まれての死者は2万人、それとは別に餓死者150万人という。もちろん正確な数字は不明である。

                             おわり     



   参考文献

『ビアフラ物語 飢えと血と死の淵から』 フレデリック・フォーサイス著 篠原慎訳 角川選書 1981年
『ビアフラ 飢餓で滅んだ国』 伊藤正孝著 講談社文庫 1984年
『アフリカ現代史4 西アフリカ』 中村弘光著 山川出版社世界現代史16 1982年
『アフリカ傭兵作戦』 片山正人著 朝日ソノラマ 1991年
『新書アフリカ史』 宮本正興・松田素二編 講談社現代新書 1997年
『現代アフリカの悲劇 ケニア・マウマウ団からザイール崩壊まで』 片山正人著 叢文社 2000年
『ビアフラ戦争 叢林に消えた共和国』 室井義雄著 山川出版社 2003年

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