三十年戦争第三部 スウェーデン戦争

       本稿は「デンマーク戦争」の続編です。


   スウェーデン軍上陸   目次に戻る

 帝国内部がヴァレンシュタインと「復旧令」の問題でゴタゴタしている最中の1630年7月4日(もしくは6日)、スウェーデン国王グスタフ・アドルフが北ドイツのポンメルンに上陸した。兵力は歩兵92中隊に騎兵16中隊、あわせて1万3000人に大砲80門であった。スウェーデンはルター派のプロテスタント国であって、兵士たち(後述するがその多くは傭兵でなく徴兵)は聖書を携え1日に2度の祈祷集会を行った。ヴァレンシュタインと並び称される三十年戦争の英雄「北のライオン」の参入である。物語は第三期「スウェーデン戦争」へと突入する。

 グスタフ軍の基地にされたポンメルンの大公は嫌々ながらスウェーデンとの同盟を承諾した。とりあえず付近にいた皇帝軍の一隊がグスタフ軍に戦いを挑むが撃破され、腹いせにあちこちを略奪しつつ逃走した。ヘッセン・カッセル地方伯やマクデブルク市がスウェーデン王に加担する。グスタフ軍はさらにバルト海沿岸一帯のおさえにかかるが、期待していたドイツ・プロテスタント諸侯の大半はなかなか動こうとしない。概ね人々はグスタフ軍を軽視しており、南方にすすめば次第に融けてなくなる雪玉のようなものだと嘲った。しかし、そのグスタフ軍を迎え撃つべきティリー伯率いる皇帝軍主力(以下、ティリー軍と表記)は、食料の不足に苦しんでいた。ティリー軍はメックレンブルクやフリードラントの穀倉から補給を受ける手筈だったのだが、それらの地域は実はヴァレンシュタインの領地に含まれており、意地悪にもティリー軍への供給をストップしてしまったのである。その間にもグスタフ軍は性急な決戦を避けつつあちこちの都市を占領する。こちらも食料が乏しいため、占領地を拡大してそこからの収入を増やす必要があったのである。

 その前後の31年4月 中立を保っていたザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルグ(プロテスタント)は皇帝に対して「復旧令」の撤回を求めて拒否された。ザクセン選帝侯はプロテスタントでありながらこれまで決して皇帝に歯向かったりはしなかったのに、もはや限界である。彼は遂に皇帝に見切りをつけ、ハンス・ゲオルク・フォン・アルニムを隊長とする新規の傭兵軍団を整え出した。餓えるティリー軍からザクセンの傭兵軍に乗り換える者が続出した。皇帝は金がなくてティリー伯を助けてやれない。もちろんフランスもザクセンをそそのかす。

   マクデブルクの虐殺   目次に戻る

 脱走者が相次いでやせ細ったティリー軍は(その状態ではグスタフ軍と直接対決出来ないので)グスタフ軍と同盟しているマクデブルク市を攻略して物資を奪うことにした。包囲開始は31年春。グスタフはザクセン選帝侯やブランデンブルク選帝侯が明確に同盟してくれるまではマクデブルクを助ける(ティリー軍と決戦する)つもりはなかったが、批判が起こりそうになったので進撃を決意した。しかしグスタフ軍が到着する前の5月20日、マクデブルクは陥落し、ティリー軍による大虐殺に晒された。ティリー伯自身はあまりな暴虐は避けようとしたのだが荒れ狂う兵士を抑えることは出来なかった。3万の市民のうち2万5000人が殺されたといわれ、生かされた5000人(ほとんど女)のうち身代金を払えない者はそのまま輜重隊に組み込まれた。兵士の相手をしたり洗濯・修繕・縫物・料理をしたりするのである(註1)……。

註1 この時代の軍隊はこのような兵士の賄いをする輜重隊がいなければまともに行動できなかった。兵士は輜重隊にある酒保(軍隊内の売店)から食料をもらい、服を洗濯してもらい、治療を受けたのである。兵士が3000人いれば輜重隊は4000人にも達したという。

 ティリー軍の評判はがた落ちになった。マクデブルクを食いつぶしたティリー軍はヘッセン地方伯の領地に(軍税を巻き上げようと)向かったが、ヘッセンはすぐさまグスタフと同盟してその保護を求めた。6月22日にはブランデンブルク選帝侯がグスタフの脅迫に屈してその財産を完全に委ねるとの条約に調印したため、そちらに向かうことも出来なくなった。ティリー軍があちこち移動するその通り道でももちろん軍税の収奪が行なわれるが、それでも賄いきれない。8月末、ティリー軍は今度はザクセン選帝侯の領地に入って食料を確保しようとした。「戦利品」を見越して新規の傭兵をかき集める。9月11日、ザクセン・スウェーデン同盟が成立した。

   ブライテンフェルトの戦い   目次に戻る

 15日、ティリー軍はザクセンの中心都市ライプツィヒを占領した。18日、ライプツィヒ北方のブライテンフェルトにグスタフ軍が到着した。ティリー伯はここで籠城するつもりだったが副官パッペンハイム伯の部隊が勝手にグスタフ軍に立ち向かおうとしたためやむなくこれに従った。翌19日朝、ブライテンフェルトにて両軍が向かい合う。ティリー軍は歩兵2万に騎兵1万1000人の総勢3万1000人と大砲36門、本隊の両翼に騎兵を配している。グスタフ軍は歩兵2万8000に騎兵1万2000人の総勢4万人と大砲100門以上である。正確にはスウェーデン軍とザクセン軍の連合軍で、前者が右翼、後者が左翼である。「ブライテンフェルトの戦い」は早朝から開始された。最初の砲撃戦のあとティリー軍左翼騎兵隊が突進するがスウェーデン軍右翼騎兵隊と予備隊に挟まれて退却した。しかしティリー軍右翼の方はザクセン軍を圧倒する。ザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルグは馬を飛ばして15マイル後方まで逃走、部下たちも総崩れとなった。

 ティリー軍は勢いにのってスウェーデン軍をも叩こうとしたが猛烈な射撃に射すくめられて失敗する。グスタフはザクセン軍が崩れても臨機応変に陣形を動かして決して隙を見せなかった。夕刻、風向きがかわって土埃がティリー軍の兵士たちの顔に吹きつけた。グスタフはしばらく待機していた(休ませていた)予備騎兵1000人を使ってティリー軍の騎兵隊と歩兵隊を切り離し、先にティリー軍がザクセン軍から奪っていた大砲を奪回してこれを敵軍に向け撃ち込んだ。ティリー軍の兵士の多くはここで踏み止まって戦うよりも3日前に占領したライプツッヒに置いてきた戦利品の方が気になりだし、我先に退却を開始した。スウェーデン軍がこれを追撃してさらに叩いたためティリー軍の損害は戦死者だけで7000人にも達した。スウェーデン軍の死傷者は1500、ザクセン軍の死傷者は3000であった。ティリー伯本人も首と胸と右手を負傷していた。ティリー軍からは脱走兵が相次ぎ、翌朝にはライプツッヒも放棄せざるを得なくなった。

 グスタフ軍の勝因については色々と言われている。それまでの軍隊の陣形は……「ブライテンフェルトの戦い」でティリー軍が使ったのかどうかわからないのだが……槍兵と銃兵の密集陣「テルシオ」が基本であった。テルシオは基本的に横100列縦12〜15列の槍兵をさらに銃兵で囲んだ陣形で、防御には優れているが鈍重であった。スウェーデン軍の歩兵隊の陣形は、槍兵は縦横6列、銃兵は3列横隊という軽快な機動力重視のタイプであり、味方ザクセン軍が崩れても迅速に対処出来たのはこれのおかげであったという。スウェーデン軍の銃は他国のものより軽くて素早く装填出来る新型のものであったというが実際どの程度普及していたかはよくわからない。テルシオだと銃兵の比率は2割程度であとは槍兵なのだがスウェーデン軍の銃兵は6〜7割に達していたという。この時代の銃は装填に時間がかかる上に銃剣がついておらず格闘戦に弱いので槍兵を多くするのが普通だったのだが、グスタフは思い切って銃兵の火力に重点を置いて槍兵はその援護に必要な程度にとどめておいたのだという。

 騎兵は……当時のヨーロッパの騎兵の標準は、重い胴鎧を身に付けた胸甲騎兵とそれを援護する火縄銃騎兵の2種であった。スウェーデンは寒冷地で馬の体格が低く胸甲騎兵に向かなかったことから軽装騎兵を採用した。戦術的にはティリー軍の騎兵隊は敵軍に接近してピストルを撃つと一旦引き返して弾を込めまた敵に近付いて射撃する「カラコール戦術」を用いたが、スウェーデン騎兵は3列横隊の第1・第2列がピストルで敵軍に一撃したあと全部隊で抜刀突撃する戦術であった。ただこれは迫力はあるのだが敵の胸甲騎兵とまともにぶつかって勝利するのは難しいので。「ブライテンフェルトの戦い」ではグスタフは部下の騎兵たちに対し敵の胸ではなく馬を狙うよう命じていた。スウェーデン軍には先の「デンマーク戦争」に敗れたクリスティアン4世に解雇された者を雇った火縄銃騎兵やドイツで雇用した胸甲騎兵もいたのだが、前者はともかく後者はわずか10個中隊であった。しかし「ブライテンフェルトの戦い」に勝利したグスタフ・アドルフの元にはドイツ中から傭兵たちが売り込みに現れ、彼等を雇ったスウェーデン軍はかなりの数の胸甲騎兵・火縄銃騎兵を揃えるようになる。まあもっとも、ブライテンフェルトで全体的に貧弱な甲冑しか身に付けていないスウェーデンが勝利したのはすなわち火力によるものであることは明かであったので、グスタフ軍も皇帝軍も重くて高価な騎兵の鎧を軽量化するようになっていく。

 スウェーデン軍の騎兵はほとんど志願兵であったが歩兵は徴兵であり(註1)、これは同時期の他国には見られない大きな特色であった。スウェーデンにおける徴兵制は16世紀半ばまで遡るが整備したのはグスタフの代になってからで、15歳以上の男子を集会所に並ばせて10人のうち1人を徴兵し出身地の聯隊にて訓練を施すという仕組みであった。もちろん人口の少ないスウェーデンが大規模な徴兵軍を維持するのは難しい(徴兵反対の暴動が頻発した)ので傭兵の雇用も並行して行なっていた訳ではあるが。ただ、一般的な傾向を言えば金にしか興味がなく出身地もバラバラな傭兵よりは郷土ごとに編成される徴兵の方が忠誠心にまさっている。

註1 歩兵より騎兵の方が給料がよくて死傷率が低かったため、どうせ徴兵されるならと騎兵に志願する若者が多かった。

   レッヒ河畔の戦い   目次に戻る

 話を戻して……大勝したスウェーデン軍にはこのままウィーンを突くべしとの意見も吐かれたが、グスタフはここは慎重に足場を固めることにした。ザクセン軍にボヘミア方面を攻略させ、本隊はマインツに入って冬越えの陣を張る。同盟を申し出てきたドイツのプロテスタント諸侯の軍も要所要所に配置して、その兵力は十数万にも達する。32年春にはティリー軍が逆襲に出てきたが難なく撃退し、さらに追撃をかけて4月レッヒ河畔にて補足した。

 グスタフ軍とティリー軍はレッヒ川を挟んで対峙した。グスタフ軍は自軍側の岸が敵側の岸より高いことに目を付けて100門の大砲を撃ちまくり(高所から撃った方が射程が長くなる)、その援護と煙幕に守られつつ300人のフィンランド人部隊(註1)がレッヒ川に舟橋を架けるという強行渡河作戦に出た。グスタフによる砲兵の効果的運用の好例として知られている(註2)。この「レッヒ河畔の戦い」にてティリー伯は散弾に当たって重傷を負い、配下の部隊も退却した。ティリー伯はしばらく後に死亡した。皇帝陣営の最大の危機である。皇帝の親戚のスペインはオランダとの戦い(註3)に忙殺され、皇帝を支援することは出来なかった。皇帝の頼みは隠遁中のヴァレンシュタインのみ。

註1 当時のフィンランドはスウェーデン領だった。

註2 兵士3人で運搬出来る軽量な大砲を使用していた。

註3 何度も何度も書くが21年からずっと交戦中。

   ヴァレンシュタイン復活   目次に戻る

 ヴァレンシュタインは復職に同意した。皇帝からの要請を何度も断った後のことであり、復帰に際してどのような条件を示していたかは正確には不明だが、軍の全権・和平交渉権・条約締結権、さらに選帝侯位のどれかひとつ、といった破格の要求だったといわれている。ともあれその兵力は4万、まずはボヘミアに迫っていたザクセン軍を買収して退去させることに成功した。ザクセン選帝侯は、グスタフの勢力があまりに強大化するのを恐れるようになっていた……もちろんまだ正面切って歯向かうようなことはせず、もうしばらくグスタフに従い続けるが。ヴァレンシュタイン軍はバイエルン大公の軍勢をあわせた上で5月にはニュルンベルクにてグスタフ軍と対峙した。以後数ヶ月睨み合いが続くがヴァレンシュタイン軍は軽騎兵を放ってグスタフ軍の補給路を寸断した。そのため食料不足に追い込まれたグスタフ軍は9月3〜4日に決戦を挑もうとするが自然の地形をうまく利用した敵陣に撃退され、同月18日には撤収した。ヴァレンシュタイン軍は何故か本気で追撃しなかった。それはそれとして、「ブライテンフェルトの戦い」以降急速に膨れ上がったグスタフ軍のうち本国から連れてきた部隊は1割程度になっており、ドイツで新たに雇用した傭兵の質の悪さがグスタフを(そして何よりグスタフ軍の占領下にある人々を)苦しめていた。軍資金や兵糧を「軍税」等で調達するシステムについてもヴァレンシュタイン考案のものには及ばない。

 この後ヴァレンシュタインは軍を左右両軍にわけてザクセンの攻略に取りかかった。ヴァレンシュタイン自ら率いる右軍は10月ライプツッヒを占領しドレスデンに向かったが、グスタフ軍とザクセン軍に挟まれる形になったために急きょ針路を転じて左軍と合流した。しかしここでオランダ軍がケルンを攻撃したとの知らせを受けたため、やむなくまた軍を分かち、パッペンハイム伯に騎兵8個聯隊・歩兵6個聯隊を与えてケルンの救援に向かわせた。と、そのすぐ後にグスタフ軍接近との報が飛び込んできた。しかも東方からザクセン軍も迫ってくる。ヴァレンシュタインは慌ててパッペンハイム軍に帰還を命じる急使を飛ばし、一軍を割いてザクセン軍を防がせる。ヴァレンシュタイン軍本隊とグスタフ軍はリュッツェン付近にて相対した。

   リュッツェンの戦い   目次に戻る

 ヴァレンシュタイン軍の布陣は以下の通り。中央に歩兵4個聯隊を菱型に配置、その両翼に騎兵を配置。これらの前面(最前線)に塹壕を掘って銃兵を配しその少し後ろに大砲7門を配置。さらに右翼騎兵の背後の「風車の高地」にも軽砲15門と歩兵1個聯隊を配置した。戦闘部隊の合間合間に人夫や従軍商人を並べて実際以上の大軍と見せかける偽装をした。ヴァレンシュタイン本人は右翼騎兵隊に位置する。その兵力は歩兵1万2000に騎兵8000、大砲30門である。

 グスタフ軍は中央にプラー将軍の率いる歩兵隊、右翼にグスタフ自ら率いるスウェーデン騎兵、左翼にワイマール侯ベルンハルト率いるドイツ・プロテスタントの騎兵隊。それらの後方にヘンデルリン率いる予備隊である。兵力は歩兵1万9000に騎兵6500、大砲60門である。数はグスタフ軍が優勢だが、ヴァレンシュタインのもとには別働隊のパッペンハイム軍が駆け付けつつあった。
 「リュッツェンの戦い」は1632年11月16日のことである。砲撃は午前8時頃から濃霧の中で始まったが歩兵・騎兵が動きだして本格的な戦闘開始となったのは霧の晴れてきた午前10時頃であった。序盤はグスタフ軍が優勢、中央軍が突出してヴァレンシュタイン軍最前線の塹壕から撃ちまくられるマスケット銃に損害を強いられつつもこれを突破、その先にいた大砲7門を奪い、ヴァレンシュタイン軍中央の4個聯隊のうち3個を撃破した。しかしヴァレンシュタイン自身が騎兵3個聯隊とともに駆け付けるとこのグスタフ軍も後退を強いられ、捕獲した大砲を遺棄して塹壕の後ろまで引き下がった。ヴァレンシュタイン右翼「風車の高地」の砲兵隊もグスタフ軍左翼に打撃を与えていた。

 グスタフ直率の右翼騎兵隊は優勢に戦いを進めていたが、中央隊の苦戦を受け、右翼騎兵をホルン将軍に任せて自身は予備の歩兵1個聯隊ととも支援にかけつけようとする。しかしその聯隊は移動に手間どり、グスタフは少数の騎兵しか連れていない状態で、ヴァレンシュタイン軍の猛攻に晒されている中央隊の第一線に飛び出してしまった。混戦の中でグスタフは左腕を負傷し、味方が後方に連れ出そうとしたが、後退中に(グスタフは)さらに背中に一撃されて落馬した。瀕死のグスタフは馬に引き摺りまわされたあと敵軽騎兵に頭を撃たれてようやく死亡した。享年38歳。死体は大混戦の中で見えなくなった。しかし部下の将兵は総大将の死にかえって奮い立った。副将ベルンハルトの指揮下にまず左翼騎兵隊が「風車の高地」の砲兵陣を占領し、中央隊も再び塹壕を越えてさっきの7門の大砲をまた奪取、右翼騎兵もヴァレンシュタイン軍左翼を壊滅させた。

 危機的状況に陥るヴァレンシュタイン軍のもとに、別働隊のパッペンハイム軍がようやく駆け付けてきた。その兵力は騎兵8個聯隊、さらに後ろに歩兵6個聯隊が進軍中である。これでヴァレンシュタイン軍はグスタフ軍を押し戻すことに成功したが、グスタフ軍もそう簡単に崩れはしない。スウェーデン黄色聯隊は文字どおり全滅するまで踏み止まり、青色聯隊は7回に渡る敵の騎兵突撃を全て撃退した。踏み込みすぎたパッペンハイム伯は胸に2発の銃弾を受け、敵将グスタフは既に戦死したとの報を聞いて笑みを浮かべつつ死亡した。グスタフ軍は総大将の死に奮い立ったがパッペンハイム軍はそうはならずにたちまち崩れ出し、グスタフ軍が全線に渡って攻勢に出た。戦闘は夜の訪れとともに自然休戦となり、翌日にはヴァレンシュタイン軍の方が退却した。どちらの勝利かといえばグスタフ軍の勝利だが、総大将を失った彼らはヴァレンシュタイン軍を追撃しようとはしなかった。「リュッツェンの戦い」における戦死者は両軍あわせて約9000であったという。スウェーデン兵たちは国王の死体を探してまわったが、やっと見つけられたそれは馬蹄と兵士に踏み付けられて悲惨な有り様となっていた。

   ヴァレンシュタイン暗殺   目次に戻る

 「リュッツェンの戦い」の後、スウェーデン国王にはわずか6歳の王女クリスティナがたった。その宰相ウクセンシェルナはドイツのプロテスタント諸侯を集めた「ハイルブロン連盟」を結成して国王戦死という難局を乗り切ろうとした。フランスは軍資金を餌にしてこの連盟への影響力を確保した。その一方でザクセン選帝侯は自分がドイツ・プロテスタントの中心となり外国勢力を閉め出したいと考えていた(彼は以前にもヴァレンシュタインの買収に応じた前科がある)ため、ヴァレンシュタインに単独講和を持ちかけた。

 話が前後するがヴァレンシュタイン軍はボヘミアにて32年から翌年にかけての冬を越した。33年10月には「シュタイナウの戦い」でザクセン・スウェーデン軍を破った。しかしヴァレンシュタインがこのとき捕虜にしたスウェーデン軍の司令官ホルン伯を「このような無能な司令官なら敵軍を率いさせていた方が有益である」として釈放したことが皇帝の疑念を招いてしまった。皇帝とその周囲はあまりに強大なヴァレンシュタインの権勢を削ぐことを望むようになり、「デンマーク戦争」の時に一度失職したことを思い出すまでもなくヴァレンシュタインの立場は非常に難しいものと言えた。しかし……ヴァレンシュタインは「リュッツェンの戦い」にて有能な部下パッペンハイム伯を失い、グスタフ軍に勝てなかった責任を他の部下に押し付けて何人かを処刑した。しかも彼はリュッツェン戦の前後から病気に苦しむようになっていた。皇帝(とその周囲)にあまり信用されていないということは本人もわかっていたが、肉体的にも精神的にも衰えの目立ってきた彼は宮廷政治で自分の立場を強化するのではなく、ザクセン選帝侯から持ちかけられている講和に乗って反皇帝の謀反を起こそうなどと考え出した(註1)。フランスからもしきりに誘惑の手が伸びてくる。ヴァレンシュタインが皇帝から離反するならボヘミア王になれるよう工作するとかである。……実際のところ、この頃のヴァレンシュタインが何を考えていたかはよくわからないのだが……病み衰えた彼の頭は部下の助言より占星術の方を重視する。33年11月、スウェーデン軍がバイエルンに侵入したが、皇帝からこれへの対処を命じられたヴァレンシュタインはしかし一歩も動こうとしなかった。

註1 極秘にスウェーデンとも接触している。この頃のヴァレンシュタインの心情がどのようなものであったかについては、ドイツ史の中でも最大級の興味が持たれるテーマで、色々な人が色々なことを言っている。

 ところで28年から継続してスペインの財政を苦しめていた「マントヴァ継承戦争」は既に31年をもって終了しており、この頃にはスペインにもかなりな勢いが戻ってきていた(しつこく繰り返すが対オランダ戦はずっと継続中である)。33年5月、スペインは皇帝に対して援助を申し出、北イタリアにおいて新しい軍勢の編成を開始した。これがドイツに投入されれば皇帝はヴァレンシュタインの力に過大に頼る必要がなくなる。

 34年1月12日、ヴァレンシュタインはピルゼンの司令部に配下の指揮官(ヴァレンシュタインを司令官とする「皇帝軍の」指揮官)たちを集め、「皇帝ではなく自分に対して」忠誠を誓うよう要求した。指揮官たちはとりあえずは誓約書に署名した。しかしヴァレンシュタインが慎重に今後の方針を練っている間にずるずると時間が過ぎて行き、さすがについていけなくなった配下の指揮官の多くが逃走する。皇帝は同月24日にヴァレンシュタインを解任し、さらに逮捕もしくは殺害を命じた。2月20日、ヴァレンシュタインは再び配下の指揮官を集めたが、彼等の反応は、皇帝に対して何もしないならばヴァレンシュタイン配下に留まるというものであった。この頃のヴァレンシュタインの傭兵隊は主に皇帝領(ハプスブルク家領)からの軍税によって養われており、傭兵たちはヴァレンシュタインに傭われているのか皇帝に傭われているのかと問われれば、後者を選んでしまうのであった。ヴァレンシュタイン創設による軍税制度はこうして皇帝に乗っ取られ、やがては戦争のたびごとに臨時雇用する傭兵軍を平時でも維持しておく「常備軍」へと改変するための恒久的租税へとかわっていくのである。ともあれ絶望したヴァレンシュタインはわずかの軍勢と持てるだけの財宝をもって逃走した。そして2月24日夜、皇帝の派遣した暗殺団によって、いともあっさりと暗殺されてしまうのである。

   ネルトリンゲンの戦い   目次に戻る

 皇帝は新しい司令官として息子のフェルディナント(父と同名)を任命した。彼は飾りなので実際の指揮はガラス伯がとる。再編された皇帝軍には北イタリアで編成されたスペイン軍という強い味方がいる(合流するのはもう少し先)。スウェーデンとドイツ・プロテスタント陣営(ハイルプロン連盟)は7月、軍をわけてバイエルンとボヘミアを攻撃したが、皇帝軍に手薄な地域をつかれたため撤収した。皇帝軍は敵方のネルトリンゲン市を包囲し、9月2日にはスペイン軍と合流した。

 同月6日、スウェーデンとハイルプロン連盟軍2万5000人がネルトリンゲンを救うべく皇帝・スペイン軍3万3000人に戦いを挑んだ。スウェーデン側は数的に劣勢な上に指揮官の対立が対立しており、その司令官ホルン将軍は慎重に動くつもりであったのに血気にはやる部下を押さえきれず決戦を挑むことにしたのである。この「ネルトリンゲンの戦い」は皇帝軍が陣取る丘の奪い合いであった。序盤はスウェーデン軍の優勢、歩兵隊が前進して猛烈な射撃に晒されつつも丘を占領した。この丘を守っていたのはドイツ人の部隊であって過去の経験からスウェーデン軍を恐れていたのである。しかしスウェーデン軍も複数の部隊が一度に突入したことからかなりの混乱が発生し、さらにそこで皇帝軍が遺棄していった火薬樽が大爆発を起こした。これを見た皇帝軍がすぐさま後備のスペイン軍を投入して丘を奪回する。スウェーデン軍が何度も反撃に出るが、よく訓練されたスペイン軍は堅く守って微動だにしなかった。結局スウェーデン軍は退却、そのまま総崩れとなった。スウェーデン軍の戦死者は1万7000と報告され、司令官ホルン将軍を含む4000人が捕虜となってしまった。

   プラハの平和   目次に戻る

 「ネルトリンゲンの戦い」の後、スウェーデンとハイルプロン連盟は極度の不振に陥った。中・南部ドイツの主要都市は次々と皇帝軍の手に落ち、ザクセン選帝侯は改めて皇帝との単独講和を探りはじめた。長いこと戦時だったスウェーデン本国は既に絞り尽くしてこれ以上の戦費を調達出来なくなっていた。翌35年2月、ザクセンは皇帝と休戦し、5月には「プラハ条約」で和睦した。皇帝は29年に発布した「復旧令(帝国内のプロテスタントを圧迫する法)」を取り下げてザクセンに対する妥協とした。皇帝本人は(せっかくネルトリンゲンでプロテスタントに大勝した後でもあるので)渋ったのだが、結局は息子で皇帝軍総司令官のフェルディナントの言に従ったのである。プロテスタント諸侯は1627年段階での所領を保証されるものとする。このプラハ条約は他の帝国諸侯にも署名が求められた。この条約ではザクセン選帝侯は「皇帝配下の同盟者」と定義され、独自の同盟権を剥奪されることになっていた。これを他の諸侯に及ぼすことで皇帝の権勢は一挙に拡大するはずであった。

 これまでずっと皇帝の同盟者であり続けたバイエルン大公(敗死したティリー伯の本来の主君)は署名を渋った。彼はドイツ・カトリック諸侯の盟主であったのだが、同盟権を剥奪されるとなると、自分の率いてきた旧教連盟(ボヘミア・ファルツ戦争以来ティリー伯の指揮下で長いこと皇帝陣営の主力であった)も解散しなければならないということになる(つまり、政治力が低下する)。皇帝はバイエルン大公の選帝侯位を改めて確認するとともに自分の娘を40も歳の違う大公に嫁がせ、大公の弟にヒルデスハイム司教領を与えるという妥協を行って条約への署名を決断させた。結果、バイエルン大公は旧教連盟を解散した。

 これをみたブランデンブルク選帝侯(それまではスウェーデンと同盟)も「プラハ条約」に署名し、これまでスウェーデンの下でハイルブロン連盟を結んでいた中小のプロテスタント諸侯も続々とこれに署名した。1618年のボヘミア反乱以来ながきに渡って続いた戦乱は、この「プラハの平和」によって終了する目処がついた訳である。皇帝にあくまで敵対するのは、スウェーデンを除けば、ヘッセン・カッセル地方伯とブラウンシュヴァイク・ルーネブルク侯、それに「ボヘミア・ファルツ戦争」の時に領地と選帝侯位を失って流浪中のファルツ伯(註1)だけとなった。(あと、オランダがスペインと戦いつづけているが)

註1 ボヘミア・ファルツ戦争を戦ったフリードリヒ5世は既に亡くなり、その息子フリードリヒが父の権利を主張していた。

   フランスの参陣   目次に戻る

 このまま皇帝が勝利して一番困るのは、フランスである。これまでフランスは自分は手を下さずスウェーデンに財政援助だけする「隠れた戦争」をしていたのだが、スウェーデンがここまで落ち目になった以上は「露わな戦争」に踏み切らざるをえない。また逆に言えば、ドイツ方面に領土を拡大する絶好の機会でもある。フランスが特に警戒していたのは皇帝よりもスペインの方であった。スペインは北イタリアと南ネーデルランドを支配してフランスを三方から脅かしており、ドイツの戦場でもスペイン軍が活躍している……。北イタリアと南ネーデルランドを結ぶ補給路「スペイン街道」にくさびを打たねばならない。フランスは35年2月にまずオランダと同盟を結び、ついで4月30日にスウェーデンとの新たな条約「コンピエーニュ条約」に署名した。両国は単独講和はしないものとする。そして5月21日、フランスはとりあえずスペインに対して宣戦を布告した(皇帝への宣戦は38年だが実際にはそれ以前から交戦)。三十年戦争の第四期「フランス・スウェーデン戦争」の始まりである。

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