三十年戦争第二部 デンマーク戦争

本稿は「ボヘミア・ファルツ戦争」の続編です。


   またしても戦火   目次に戻る

 1623年12月、それまでイギリスのジェイムズ1世がスペインとの間に進めていた縁談が破談した。そもそもイギリスはプロテスタント国であって国民の多くはドイツ・プロテスタントへの支援を訴え、親スペインのジェイムズ1世への不満をたぎらせていたのだが、スペインとの縁談にあたっていた王太子までがそちらに走ってしまったのである。翌年1月にはフランスにてリシュリュー枢機卿が宰相に就任した。リシュリューはハプスブルクとの対決を第一に置き、イギリスに同盟、デンマークに援助を申し出、それらに皇帝と対決させることにした。デンマーク王クリスティアン4世は北ドイツに野心を持っていた(註1)ことからフランスの援助を喜んで受け、北ドイツのプロテスタント諸侯もこれになびいた。これにスウェーデンも参加する。カトリック国であるフランス(既述だがこの時代はプロテスタントもたくさんいた)がプロテスタント諸国を支援することへの一般的フランス人への不満についてはローマ教皇と手を組むことによって緩和した。ローマ教皇はイタリア中部の領主でもあるのだが、イタリアの北部(ミラノ)と南部(ナポリ)をハプスブルク家に押さえられていたことからこれを憎んでいたのである。また、先年教皇に選出されたウルバヌス8世はフランス国王ルイ13世と個人的に親しい仲であった。ただ、いまあげた諸国のうち(大ボスの)フランスは賢明にもドイツへの直接介入(軍隊派遣)は避ける方針であり、スウェーデンはポーランドと争っている上にデンマークとはバルト海の覇権をめぐって日頃から仲が悪い……といった具合で、デンマークのみが突出して行動することになる。

註1 帝国内のブレーメンとフェールデンの司教領を欲しがっており、またバルト海の船舶通行税について皇帝と争っていた。

 24年10月、フランスの援助を受けたグラウビュンデンのプロテスタントが挙兵し(註2)、北イタリアのスペイン領(ナポリ)とドイツ・南ネーデルランドを結ぶ連絡路「スペイン街道」を遮断した。海路はオランダやイギリスが閉鎖する。何度も書いているが南ネーデルランドのスペイン軍は「スペイン街道」を通じて搬入される物資によって対オランダ戦(21年から継続中)の戦費を賄っており、皇帝もそちらからの援助によって「ボヘミア・ファルツ戦争」に勝利することが出来ていた。それが、遮断されたのである。戦火はまだ大したものではないが、皇帝は最も頼りになるスペインから離された状態で大量の敵に囲まれる状態となった。

註2 グラウビュンデンはスイスの1州。スイス本体は中立だったが、ここは後述する「スペイン街道」を扼する交通の要衝だったことからフランスに利用・煽動されたのである。

   デンマーク王の参陣   目次に戻る

 危地に立った皇帝をまず助けたのは、まずドイツ・カトリック諸侯の「旧教連盟」を率いるバイエルン大公であった。バイエルン大公は皇帝から選帝侯位を貰いつつも、内心では、皇帝の権勢があまりに拡大したり帝国内にスペインの勢力が高まったりするのを嫌がっていたのだが、今の状況でプロテスタントやフランスが皇帝を圧倒してしまったら折角の選帝位までなくしてしまうことになる。彼の支配下にある旧教連盟の軍勢は、ボヘミア・ファルツ戦争に引き続き、名将ティリー伯の指揮下にあって皇帝方の主要な一部となる。

 そして25年夏、国王クリスティアン4世自ら率いるデンマーク軍1万7000が北ドイツに上陸した。三十年戦争の第二期「デンマーク戦争」の本格的な発動である。「ボヘミア・ファルツ戦争」終結後も再起を窺っていたブラウンシュヴァイク公子クリスティアンと傭兵隊長マンスフェルトもイギリスの資金援助のもとに挙兵する。これらを迎え撃つティリー伯率いる旧教連盟軍は盟主のバイエルン大公に兵力のさらなる増強を要請し、バイエルン大公はそれを皇帝にまわすが、スペインからの援助を断たれた皇帝には戦費がない。ボヘミア・ファルツ戦争の時の戦費も借金として残っていたのである。

 ところがここに、自費と民間からの融資で皇帝のための大傭兵軍団を集めてみせるという人物があらわれた。彼こそがヴァレンシュタインその人である。

   ヴァレンシュタイン立つ   目次に戻る

 アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタインはボヘミアのプロテスタント貴族の出身であるが、青年時代にカトリックに改宗し、イタリアの大学に学んだり傭兵になったりしつつ、富裕な未亡人との結婚や金貸し業で財産を蓄えた。先のボヘミア反乱の際には反乱軍と戦いつつ皇帝に戦費を貸し、反乱が終わった後は没収されて売りに出されたプロテスタント貴族の領地を66も買い集めた。彼の領地はボヘミア全体の4分の1にも達し、さらに23年にはトランシルヴァニア公ベートレン・ガボルの侵入を撃退した功績等により皇帝からフリートラント侯の爵位をいただいた。その彼が、皇帝の懐を痛めることなく軍団を集めてさしあげようと申し出たのである。皇帝はこれを受けた。純粋に軍勢が必要なのと、バイエルン大公だけに借りを作りすぎるのはまずいとも考えられたからである。

 ヴァレンシュタインがその富裕な財力をもって編成する傭兵軍団の装備は、武器商人から買うのでなく、自分の領地の手工業で生産することとした。おかげで納期を気にすることもなく(註1)武装の統一も楽となった。さらに戦争を儲けの多いビジネスと見込んで投資してくれる商人もいた。プラハのユダヤ人代表トロイエンブルク等がそれである。ヴァレンシュタインはあっという間に2万の傭兵軍団を整えた。

註1  ボヘミア・ファルツ戦争の時のボヘミア王フリードリヒは中立都市ニュルンベルクの商人にマスケット銃数千挺を注文したが在庫不足で断られた。

 さて、戦場である。デンマーク軍・マンスフェルト軍・クリスティアン軍は仲が悪くて行動がバラバラである。ティリー伯率いる旧教連盟軍(以降ティリー軍と表記)とヴァレンシュタインの傭兵軍団がこれらを防ぐべく展開した(もっともこちらも干渉を避けるために常に別行動)。ブラウンシュヴァイク公子クリスティアンは一旦はヘッセン地方伯を味方につけたが地方伯はすぐに脱落し、(クリスティアンは)ティリー軍に敗れた上に病死した。マンスフェルト軍の方は「デッサウの戦い」にてヴァレンシュタイン軍に敗北する。それからイギリスが90隻の艦隊をもってスペインのカディス港を攻撃したが失敗した。有力なプロテスタント諸侯であるザクセン選帝侯とブランデンブルク選帝侯はデンマーク王には加担しなかった。デンマーク王がオスナーブリュック司教区とハルバーシュタット司教区の支配権を要求したため、以前からそれらを欲しがっていた2選帝侯を怒らせてしまったのである。

 そしてデンマーク軍は翌26年8月27日の「ルッターの戦い」にてティリー軍に大敗した。この戦いでは国王クリスティアン4世自ら3度も突撃したが効果なく、軍旗6旒と全ての大砲を奪われた。戦死者4000とも6000ともいう(註2)。マンスフェルト軍は隊長のマンスフェルトと副司令とが仲たがいしたために分解した。マンスフェルトはその後ハンガリーに入ってトランシルヴァニア公ベートレン・ガボルと結んで反撃に出ようとしたが、トランシルヴァニア公が考えを翻したためにこれと別れてしまい、その後どこでどうやって死んだかも定かでない。

註2 ただ、この時代の軍隊が出す死者で戦闘中に死んだ者はせいぜい3割前後であったと言われている。軍隊内の栄養・衛生状態が非常に悪く、病気で死ぬ者の方が多かったのである。

 彼等を支援すべきフランスは……この年(26年)国内のプロテスタントが反乱を起こし、ドイツへの介入どころではなくなっていた。フランスは1598年の「ナントの勅令」以来プロテスタント(フランスではユグノーと呼ばれた)の権利を認めていた(註3)のだが、ユグノーは海港ラ・ロシェルを中心として独立国家のような勢力を蓄えており、個人的な宗教の違いには寛大だが独自の政治勢力まで許すつもりのない宰相リシュリューの弾圧を招いていたのである。この反乱は非常に大規模なもので、それまでフランスと結んでいたイギリスが態度を翻してこの反乱軍を支援するまでになった。

註3 フランスでは1562年から36年間に渡ってカトリックとプロテスタント(ユグノー)の争いに王位継承問題が絡んだ内乱「ユグノー戦争」が行われた。最終的にユグノーの首領ブルボン家のアンリが国王となるが、彼は政治的見地からカトリックに改宗した上でユグノーにもカトリックとほぼ同等の権利を認める「ナントの勅令」を発布してとりあえず宗教的な内乱を終わらせたのである。しかし……。

   戦争が戦争を養う   目次に戻る

 ルッターでの敗戦後北ドイツに退却したデンマーク軍は各拠点に兵力を分散して守ろうとしたがそれらは一つ一つ粉砕され、27年末にはデンマーク本国にまで攻め込まれた。ヴァレンシュタインは皇帝に対し一文の金も要求することなく6年間は戦争を継続出来ると豪語した。戦地での略奪で稼ぐ(註1)のかというと、彼はそれを厳禁した。駐屯地の町や村単位に、そこの地方官庁を通じて「軍税」を課すのである。その「駐屯地」は敵の領地とは限らない。たとえ皇帝派諸侯のそれであっても武力で威嚇すれば文句は出ないし、軍税の規模が大きければ大きいほどおこぼれ目当ての連中が入隊し、軍団の規模はさらに強大なものとなる。「戦争が戦争を養う」とはこのことである。しかもその軍税は皇帝の金庫を経由するのでなく、直接ヴァレンシュタインの金庫に集めてそこから兵士たちに給料という形で配分した。軍税の法的根拠は皇帝から付与された徴税権にある。(皇帝自身は、もとの戦費がない=軍事力がない、ので、かような強引な徴税をやりたくても出来なかった。たとえハプスブルク家の領地の中であっても、その中で個々に領地を持つ貴族や都市に対してあまりに強圧的な態度をとることが難しかった……それをやろうとするとボヘミアみたいになる……のである。それを、ヴァレンシュタインが改めてしまった。後には皇帝がこの軍税システムを乗っ取って自身の強力な財源とし、それまで軍隊といえば臨時雇用の傭兵軍だったのを、常備軍……戦争がなくても手元に保持する兵力……へと進化させることになる)

註1 通常、傭兵隊は基本的に雇い主からの報酬と借金によって戦費を賄っていた。占領した敵地での略奪品で借金を返すのである。

 皇帝フェルディナントはヴァレンシュタインにメックレンブルク大公国を授けた。もとの大公はデンマークに加担したから領地没収という説明がなされたが、以前ファルツ選帝侯を廃位した時と同じく、この時も皇帝1人の考えでそんなことをする権限があるのかという批判の声が高まった。前の時は受け取るのがバイエルン大公マクシミリアンという高貴の人だと思えば納得出来ないでもなかったが、ヴァレンシュタインは一応は貴族とはいえそんな大した家柄ではない。バイエルン大公までもが声を荒げて反対した。ザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルグも同じ理由で反対、ブランデンブルク選帝侯ヨハン・ジギスムントも反対、特にブランデンブルクは領内をヴァレンシュタイン軍の基地にされその兵士たちによって酷く荒らされていた。ドイツは25年からずっと不作続きだった上に畑は戦闘によって踏み荒らされ、荒んだ兵士たちは面白半分に庶民を殺戮していた。選帝侯一同は皇帝に対しヴァレンシュタインの罷免を要求した。

   復旧令   目次に戻る

 戦場ではティリー軍が別方面にまわされ、ヴァレンシュタイン軍のみがデンマーク領の半島部分を席巻した。デンマーク軍は島嶼部に退却したため、海軍のないヴァレンシュタイン軍はいったん南に戻って28年2月から北ドイツの港町シュトラルズント(これまでの戦争に無関係だった)を攻撃した。ここからバルト海に乗り出そうとの戦略だったが、デンマークが海からシュトラルズントを支援し、日頃はデンマークと仲の悪いスウェーデンもさすがに危機を感じてこれに加担した。ヴァレンシュタインは自前の海軍を建造し、皇帝から「帝国艦隊の司令官及びバルト・大西洋の支配者」なる称号を貰ったが、半年かかっても占領出来ずに撤収した。

 これを見たデンマーク王クリスティアン4世が軍勢を率いて上陸してくるが、たちまち「ヴォルガストの戦い」にてヴァレンシュタイン軍に完敗した。この頃のヴァレンシュタイン軍の兵力は十数万にも達していた。その権勢たるや凄まじく、ティリー軍からそちらに乗り換える兵士も続出した。自信をつけた皇帝は29年3月「復旧令」を発布した。カトリック諸侯は領内のプロテスタントを追放してよい、プロテスタントの支配する教会領はカトリックに引き渡す……。これが後で大問題となる。6月、デンマーク王クリスティアン4世は「リューベック条約」に調印して皇帝と和睦した。デンマーク王は今後はドイツのことに関与しない……。(註1)

註1 デンマークに対する領土的な要求はなかった。あまりに厳しい要求をするとデンマーク王が(普段はバルト海の覇権をめぐって仲の悪い)スウェーデン王に泣きつく可能性があるからである。

 ……少し話を戻すが……2年前の27年末、北イタリアのマントヴァ公が亡くなり、その最も近い親類であるフランス(フランス王の家臣)のヌベール公が相続権を主張したことから、フランスとスペイン・ハプスブルク家(マントヴァの近くのミラノ大公国を支配)との関係が緊迫した。スペイン軍が28年4月からマントヴァに侵入するが、その少し後に国内のプロテスタント反乱をほぼ片付けたフランス(註2)がヌベール公を支援した。この「マントヴァ継承戦争」は31年まで続き、つまりスペインはオランダ(註3)とマントヴァの二面作戦を強いられるという非情な苦境に陥った。

註2 28年10月に国内プロテスタントの拠点ラ・ロシェル港を占領してほぼ抵抗を終わらせた。フランスのプロテスタントは翌29年の「アレスの王令」により信教の自由は認められたが独自の政治議会などは剥奪となった。

註3 スペインは海戦でオランダ軍に敗れ非常な苦戦に陥っていた。

 スペインよりはゆとりのあるフランスの宰相リシュリューが各国に対して外交攻勢を行い、それまで長いこと戦争していたスウェーデンとポーランド(註4)の休戦を実現させ、スウェーデン国王グスタフ・アドルフにドイツへの軍事介入を決断させた。フランスはスウェーデンに毎年100万ルーヴルを提供する。さらに、ヴァレンシュタイン軍の圧力に怯えるバルト海沿岸の諸都市(註5)もスウェーデンに期待した。中でもこれまでの戦争に無関係だったのにヴァレンシュタイン軍に攻撃されたシュトラールズント市が熱心にスウェーデンに加担すると申し出た。イタリア中部の領主であるローマ教皇は北イタリアのマントヴァにハプスブルクの軍勢が入ってきたことに怒り、先に皇帝フェルディナントの発した「復旧令」を認めないと言い出した。

註4 スウェーデンとポーランドは1617年から2回の休戦期間を挟んで戦争を続けていた。当時のポーランド国王ジギスムントがスウェーデンの王位を要求していたからである。(16世紀後半のスウェーデン国王ヨハン3世は息子のジギスムントを当時選挙王制だったポーランドの国王にすることに成功した。ヨハン3世の死後は両国はジギスムントを共通の国王とする同君連合となるが、ジギスムントは熱狂的なカトリックだったことからスウェーデン……3代前からプロテスタント国……の王位を逐われ、以降はポーランドからスウェーデン王位の奪回をはかっていた)

註5 この地域の諸都市は11世紀から「ハンザ同盟」という商業同盟を結成していた。

 そもそも、いや当然のことながら、「復旧令」は帝国諸侯の激烈な反対をまきおこしていた。まずプロテスタントが反発するのは当然の反応。もちろん今や十数万の大軍団を率いデンマーク王まで屈服させたヴァレンシュタインが怖いので明確に反対を表明したのはザクセン選帝侯(ルター派プロテスタント。今の戦争には中立)だけであったが、皇帝権力の必要以上の伸張を恐れてカトリック諸侯までもが教皇の支持のもとに皇帝への不満をたぎらせたのである。またさらに、マントヴァ継承戦争に苦戦するスペインがヴァレンシュタイン軍の一部をイタリア方面に送ってくれと皇帝に泣きついてきた。皇帝はこれを受けざるを得なくなった。

   ヴァレンシュタイン解任   目次に戻る

 ヴァレンシュタインの大軍団がいるからこそ、皇帝は「復旧令」のような無茶をすることが出来る。皇帝フェルディナント2世は自分の子供を次の皇帝にしたがっていたが、ザクセンをはじめとする選帝侯たちは(皇帝に選帝侯位を貰ったバイエルン大公まで含めて)30年7月からレーゲンスブルクにて開催された選帝侯会議にて、ヴァレンシュタインを解任しなければフェルディナントの子を次の皇帝に推挙することは出来ないと詰め寄った。

 そして実は、皇帝自身もヴァレンシュタインに対して複雑な思いを抱くようになっていた。この傭兵隊長の武力はあまりに巨大でしかも独自の徴税(軍税)機構まで持っている。これは皇帝の権威を脅かしかねないものである……。8月、ヴァレンシュタインは自ら辞職し、ボヘミアの領地に帰っていった。彼はしかし近いうちの復職を信じており(註1)、部下の多くに年金を支給して繋ぎとめることを忘れなかった。ヴァレンシュタインの軍団のうち隊長の辞職後も皇帝の傭兵として留まった者約4万人、及びその他の兵力(旧教連盟軍等)約4万をあわせた「皇帝軍」の司令官には旧教連盟軍の司令官としてこれまで多くの戦場で活躍してきたティリー伯があてられた。

註1 彼は占星術に凝るという一面があり、この時も必ず復職出来るという意味の占いが出ていた。天文学者のケプラー(天体の運行に関する法則で知られる。高校の理科で習ったでしょ?)を雇っていたこともある(当時は天文学と占星術が不可分だった)。

 帝国はデンマーク王が屈服してから後も丸1年間このような政治問題で混乱を続けていた。その間に、フランス等の援助を受けたスウェーデンの軍勢がドイツ遠征の準備を整えつつあった(註2)のである。

註2 例えばデンマーク王が使っていた傭兵の多くが雇い主の敗北により無職になっており、それらがスウェーデン軍に再雇用された。

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