三十年戦争第一部 ボヘミア・ファルツ戦争

   神聖ローマ帝国   目次に戻る

 19世紀のはじめまで、現在のドイツ・オーストリア・オランダ・ベルギー・チェコ・北イタリアといった地域は「神聖ローマ帝国」という国家に含まれていた。しかしこの国の内部は数百の小国家と都市とが分立し、皇帝は帝国内の特に有力な7人の諸侯「選帝侯」の選挙によって選ばれていた。具体的にはケルン・トリエル・マインツの大司教、ボヘミア王・ザクセン公・ブランデンブルク辺境伯・ファルツ伯である。15世紀中期以降は皇帝に選出されるのはほぼハプスブルク家のみとなっていたが、ハプスブルク家も他の諸侯も帝国全体のことはあまり考えず自家の利害を第一とし、そのため諸侯はほとんど独立国の王のような状態となっていた。帝国の外にある国の国王が帝国内の諸侯を兼ねることもあれば(註1)、その逆のこともあった(註2)のである。

註1 例えばデンマーク王は帝国内のホルシュタイン公を兼ねていた。

註2 少し後の話(1618年)だがブランデンブルク選帝侯が帝国外のプロイセン公を兼ねることになる。

 もともとスイス北部のあたりの領主だったハプスブルク家は13世紀頃に東方のオーストリアに拡大して南ドイツで最大の諸侯となり、数々の婚姻によってブルゴーニュ・ボヘミア・ハンガリー、さらにはスペインを支配するに至っていた(註3)。ハプスブルク家は1556年にはオーストリア系とスペイン系に分家し、スペイン系はネーデルランド(現在のオランダ・ベルギー)・イタリア各地の領地(ナポリ・ミラノ等)・南アメリカ等の海外植民地、オーストリア系はボヘミアやハンガリーを相続することとなった。

註3 スイスは13世紀にはハプスブルク家の支配から独立したが。

 その頃激化していたのが「宗教改革」である。ドイツ(註4)では1547年にカトリックとプロテスタントの「シュマルカルデン戦争」が起こり、1555年の「アウグスブルクの和議」によって諸侯はカトリック・プロテスタントどちらを信奉してもよいこと、領民は領主の信仰に従うことが決定された。ドイツ諸侯はその後もプロテスタントとカトリックの2陣営に別れて睨み合いを続けることになる。プロテスタントの集団「新教同盟」を率いるのがファルツ選帝侯フリードリヒ5世、ただし彼はカルヴァン派なのでルター派にはいまいち支持されていない。カトリックの集団「旧教連盟」を率いるのがバイエルン大公マクシミリアン1世である。そしてハプスブルク家は(個人差はあるが)スペイン系もオーストリア系もカトリックである(註5)。スペイン領ネーデルランドではプロテスタントの多い北ネーデルランドが反乱を起こし、長い戦いの末に1609年にスペインと休戦条約を結んで事実上の独立を達成した。これがオランダの始まりである。ただしスペインとの休戦条約は12年の期限付きで、1621年には戦争が再開されることになっていた(註6)

註4 ドイツは神聖ローマ帝国の主たる領域であり、帝国は「ドイツ帝国」とも呼ばれる。

註5 皇帝には、カトリックの守護という役割がある。

註6 スペインが正式にオランダの独立を承認するのは1648年である。

 1617年、皇帝マティアスは子供がおらず、しかも老齢であった。次の皇帝の候補には、まず第一にマティアスと同じオーストリア・ハプスブルク家の人間が考えられる。マティアスの従兄弟にあたるシュタイヤーマルク大公フェルディナントである。フェルディナントは幼少期にイエズス会(註7)によって厳格なカトリック教育を授けられ、自分の領地のプロテスタントを弾圧していた。フェルディナントの親戚たちは、彼があまりに熱心なカトリックであることから、もし皇帝になればプロテスタントと無用の摩擦を起こすのではないかと心配していたが、他の一族は年寄りか、スペイン在住でドイツに縁がなさ過ぎるかのどちらかであった。スペインのハプスブルク家は最初から自分の家族を皇帝に擁立する気がなく、フェルディナントを立てるかわりにいくらか領地を譲らせるだけで満足した。

註7 1534年イグナティウス・ロヨラによって結成されたカトリック修道会。プロテスタントに対抗して軍隊的な組織を有している。

   プラハ城窓投下事件   目次に戻る

 オーストリア・ハプスブルク家の当主はボヘミア(註1)の王でもあった。ボヘミア王は皇帝を選出する「選帝侯」のひとつであり、その王位は選挙によって選ばれていた(実質的にはハプスブルク家の世襲)。厄介なことにこの地域はプロテスタントが優勢であった。17年6月17日、ボヘミアは国王マティアスに寿命が迫っていることから新国王の選挙を行い、唯1人候補にあげられたフェルディナントが選出された(皇帝はこの後もしばらくはマティアスのままである)。現地のプロテスタントは、この時点では(いくらか悩みつつも)特に行動には出なかった。先々代のボヘミア王はボヘミアのプロテスタントを認める勅許状を発しており、新国王フェルディナントもまたこれを承認した。しかし続いてフェルディナントはプラハの出版物を国王の検閲下におくとの勅令を発し、何人かの反抗的なプロテスタントを逮捕した。さらにプロテスタントの教会が破壊されり閉鎖されたりする。先の勅許状はプロテスタント貴族の権利については明確に認めていた(その臣民は領主の宗教に従う)が、教会領(註2)の住民の宗教的帰属ついては曖昧であった(註3)。今回破壊されたりしたプロテスタント教会はその、教会領に建てられていたものだったのである。

註1 現在のチェコの一部。首都はプラハ。

註2 この教会領とはカトリック教会領のことである。

註3 カトリック教会の保護者は皇帝である。先代の皇帝ルドルフ2世(先々代のボヘミア王)はプロテスタントに寛容でありボヘミアのプロテスタントも認めていたので、その皇帝の保護下にあるカトリック教会領の住民もプロテスタントを信じてもいいではないか、ということになるが、曖昧であった。

 ボヘミアのプロテスタント代表であるトゥルン伯が逮捕者の釈放をフェルディナントに訴えた。もちろん返書は「否」である。トゥルン伯は大変な激情家であり優れた煽動家であった。彼は反乱を決意しボヘミア人たちにフェルディナントへの憎悪を煽りたてた。翌18年5月21日、トゥルン伯は貴族・豪農・市民からなる大集会を開いて逮捕者の釈放を訴えた。翌日夜、大勢の民衆を従えたプロテスタント代表団がプラハ(ボヘミアの首都)城を訪れた。ここで彼等はフェルディナントの顧問官2人……彼等2人は特にプロテスタントに対して強圧的な態度をとっていた……を窓から放り出してしまった。そこはかなり高い階だったのだが、1人は3m程度下の張り出し部分に落ち、もう1人は25mほど落下したものの糞便の堆積した壕の中に落ちて、2人とも奇跡的に命をとりとめた(註4)。これが「プラハ城窓投下事件」である。ともあれ、こうしてボヘミアのプロテスタントはハプスブルク家に対する反乱に立ち上がったのである。

註4 助かったのは事実だが、肥溜のおかげで助かったというのは伝説であるともされる。


   ボヘミア・ファルツ戦争の開始   目次に戻る

 ボヘミアは13人の執政からなる暫定政府を樹立し、トゥルン伯を司令官とする軍隊を整えた。6月9日にはカトリックとの衝突が始まった。皇帝マティアスが恩赦と話し合いを持ちかけたがボヘミア側はこれを拒絶した。マティアスはそれでも妥協の道を探ったが、「自分の王国(ボヘミア)」で反乱を起こされたフェルディナントは断固たる処置を主張し、やむなくマティアスは全てをフェルディナントに委ねることにした。熱心なカトリックであるフェルディナントとしては、ここでプロテスタントを一掃するよい機会である。また、実はこの頃のボヘミアは帝国内で最も富裕な地域であり、ということはオーストリア・ハプスブルク家の領地(註1)の中で最も重要ということである。もうひとつ、帝国の7選帝侯のうちファルツ・ザクセン・ブランデンブルクの当主が既にプロテスタントなのに、ここでボヘミアまでがプロテスタント一色に染まるのは非常に困る。今の皇帝マティアスの寿命が迫っているのに、これではフェルディナントは次の皇帝の選挙に勝てないことになる。かくしてブコイ伯とダンピェール伯の2将が率いる皇帝軍(ハプスブルク軍)がボヘミアに侵入する。これが「三十年戦争」の始まりである。正確に言えばこの年から30年間延々と単一の戦争が続く訳ではなく複数の戦争が連動していくのであり、ボヘミア反乱を契機として起こった第一期の戦争を「ボヘミア・ファルツ戦争」と呼んでいる。

註1 ボヘミア以外にオーストリアやハンガリーを支配。

   マンスフェルト登場   目次に戻る

 トゥルン伯はハプスブルク家と伝統的に対立するフランス(註1)に援助を求めたが、フランス政府はボヘミアの反乱をそう大規模なものとは考えず、自国内の宗教問題に忙しいこともあって、これを拒絶した(註2)。が、それとは別のところから援軍が登場する。長らくハプスブルク家と対立している北イタリアのサヴォワ大公シャルル・エマヌエルと、ドイツのプロテスタント代表であるファルツ選帝侯フリードリヒ5世である。このフリードリヒが今後の政局に大きな影響を及ぼすこととなる。とりあえずサヴォワとファルツは共同で大傭兵部隊を雇いいれ、マンスフェルトなる人物をその司令官としてボヘミア方面へと急派した。この頃ボヘミアへの侵入をはかった皇帝軍はボヘミア軍に前進を阻まれて退却し、マンスフェルトの傭兵軍は皇帝方の拠点ピルゼンを占領した。マンスフェルトは戦術面の才能はいまひとつであったが傭兵の徴募と編成には卓越したものをもっており、その軍団は高度な訓練を施されていた。それと、マンスフェルト本人は実はカトリックであったのだが、貴族の庶子として産まれた彼は傭兵隊長として自分を売り込み成り上がることだけを考えていた。(ところでこの時代は一部地域を除いて整備された徴兵システムというものが存在しないため、皇帝を含む諸侯の軍事力はどこでも基本的に臨時雇用の傭兵隊に依存している。本稿で「ザクセン軍」とか「バイエルン軍」とか書いている集団もそうである。マンスフェルトや後で登場するヴァレンシュタインのような、戦局全体を左右する特別な大活躍をする万単位の大傭兵軍団についてのみ「○○軍」の○○の部分に隊長の名前を入れて表記する)

註1 ハプスブルク家とフランスの宿命の対立については当サイト内の「イタリア戦争」を参照のこと。

註2 フランスにはユグノーと呼ばれるカルヴァン派のプロテスタントがおり、カトリックを奉じるフランス王に対して反抗的であった。しかしフランス王は伝統的にハプスブルク家と対立していることから、「敵の敵は味方」でドイツのプロテスタントと同盟する余地があるのである(この時は相手にしなかったが)。

 ファルツ選帝侯フリードリヒはドイツのプロテスタント諸侯に結集を呼びかけたがその反応は冷たいものだった。まずフリードリヒはカルヴァン派なのでルター派諸侯の共感を得るのが難しい(註3)。マンスフェルトの傭兵軍団の費用を負担させられたら困るという理由もある。それから実はフリードリヒにはフェルディナントにかわってボヘミア王になりたいという考えがあり、他のプロテスタント諸侯がフリードリヒとの「同盟」を断ったのは、そういう政治の手駒にされたくないという思いも作用していたのである。まぁ正確に言えばフリードリヒは単なる善人で、官房長アンハルトに操られていたのだが。それから、フリードリヒはイギリス王ジェイムズ1世の娘婿であったのだが、ジェイムズはスペインと仲良くしたがっており、皇帝(スペイン王の親戚)と事を構えるのを嫌ってフリードリヒの支援要請を断った。だがしかし、戦闘の方はマンスフェルト軍の活躍のおかげで優勢である。そのうちに皇帝方の陣営にも動揺が現れてきた。

註3 カルヴァン派は自分たちの宗教的理想のためには既存の社会秩序と武力闘争を行うことも辞さないという思想を持つが、ルター派はそのようなことは「神(の定めた秩序)への反逆」という発想である。従って、後者が皇帝に反旗を翻すのはなかなか難しい。前者はイギリスではピューリタン、フランスではユグノーと呼ばれるが、どちらも国王に対して反乱を起こしている。

 19年3月20日、皇帝マティアスが亡くなった。ボヘミアのプロテスタント勢が勢いづき、トゥルン伯の指揮下にウィーン(註4)目指しての進撃を開始した。モラヴィアのプロテスタントも反乱に加わり、オーストリアでも不穏の動きが見られるようになった。ハプスブルク家のボヘミア以外の領地の中にもプロテスタントは多数おり、フェルディナントはそちらの反抗に手を焼いた。6月にはトゥルン伯の率いるボヘミア軍がウィーンを包囲した。ウィーン城内は結束を欠き、身分制議会がフェルディナントにプロテスタント教会の建設許可とボヘミアとの戦争停止を要求した。フェルディナントがそれを拒絶したことからウィーン市内は暴動の一歩手前まで緊迫したが、その時偶然にも地方のフェルディナント派が寄越した援軍が到着し、戦局が一挙に逆転した。マンスフェルト軍はボヘミア軍と合流出来ないまま皇帝軍とサブラートに戦って敗れた。

註4 オーストリア・ハプスブルク家の主要な領地のひとつオーストリアの中心地。

   フェルディナントとフリードリヒ   目次に戻る

 ボヘミア軍はウィーンの包囲を解いて退却したが、8月には今度はトランシルヴァニア公ベートレン・ガボルがハンガリーのプロテスタントとともにボヘミアの側に参陣した。そのボヘミアは8月26日、自前のボヘミア王としてファルツ選帝侯フリードリヒを選出した。ファルツ選帝侯は有力なプロテスタントであり既にボヘミアを援護するためにマンスフェルト傭兵軍団を組織していたことから、ボヘミアの国王として担ぎ出すには理想的な人物である、と思われたのである。もちろんフリードリヒ側からの工作があったことは言うまでもない。

 その2日後、フェルディナントが新皇帝に選出された。「フェルディナント2世」と号する。反対しようとしたのはファルツ選帝侯の代理人だけであった。3人いるカトリックの選帝侯は当然フェルディナントに入れたし、ブランデンブルク選帝侯ヨハン・ジギスムントはプロテスタントではあったがプロイセンを入手した直後(註1)でそちらの経営に忙しく、フェルディナントを敵に回すようなことはしなかった。ザクセン選帝侯(彼もプロテスタント)も、反対はしなかった(後述する)。フェルディナントはボヘミア王(選帝侯)として自分に入れた。その直後、ボヘミア人たちが勝手にファルツ選帝侯フリードリヒをボヘミア王に選出したとの先ほどの情報が飛び込んできた。

註1 この前年に帝国の外にあるプロイセン公国の支配権を獲得したのである。

 ファルツ選帝侯フリードリヒはボヘミア王位を受け、プラハ(ボヘミアの首都)へと出立した。そちらでフェルディナントと戦うための軍勢を編成する。

 ここで新顔が登場する。それまで中立だったバイエルン大公マクシミリアンである。彼はフリードリヒの行動に怒り、新皇帝フェルディナントの方に協力を申し出たのである。マクシミリアンはドイツにおけるカトリック諸侯の集団「旧教連盟」の盟主であり、名将ティリー伯を指揮官とする2万5000の旧教連盟軍を組織して皇帝側の強力な戦力となる。対してプロテスタント諸侯は相変わらずフリードリヒに冷淡である。特に有力なプロテスタントであるザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルグはルター派として、カルヴァン派のフリードリヒの勢力があまりに強大になることを警戒した。さらに皇帝がスペインの支援を求めていた(後述)ことから、ザクセン選帝侯としては外国(スペイン)の介入が大きくなる前にさっさと皇帝に加担することで帝国の内紛にけりを付けようと考えた。フリードリヒの舅であるイギリス王は先にも述べたがスペイン王(フェルディナントの一族)との同盟を望んでおり、他国のプロテスタント王も……この時のデンマークはハンブルクとの、スウェーデンはポーランドとの争いに忙しくてフリードリヒを支援する余裕を持っていなかった。オランダは南ネーデルランド(スペイン領)(註2)に対抗する必要(註3)からファルツ選帝侯と結んでいた(註4)のだが、フリードリヒが本国を離れて遠いボヘミアへと移ってしまった(それだけ本国の軍備が手薄になった)ため、そのまま味方の少ないフリードリヒとの同盟を続けて彼の本国の防衛までまかされるようなことは避けようとした(註5)。以前フリードリヒと共同でマンスフェルト傭兵軍団を雇用したサヴォワ大公は、実は自分がボヘミア王になりたがっていたのにフリードリヒが王冠をとってしまったことに怒っていた。フランス王はカトリックではあるが伝統的にハプスブルグ家と対立していたことからフリードリヒに期待されていたが、国王ルイ13世はこの時は自分の信仰に忠実であった。そもそもこの時のフランス王は国内のプロテスタントと対立していたことから、そのプロテスタントのフリードリヒを助ける訳にはいかなかった。

註2 もう一度解説すると、ネーデルランド(オランダ・ベルギー)はもともとスペイン領だったのが1568年に独立戦争を開始した。このうちカトリック優勢の南ネーデルランド(現在のベルギー)はスペイン領に留まり、プロテスタント優勢の北ネーデルランド(オランダ)のみが独立したのである。

註3 前にも書いたがスペインからのオランダの独立戦争は1609年の休戦条約によって停止されていたが、21年には休戦期間が切れることになっていた。

註4 スペイン・ハプスブルク家の領地で南ネーデルランドから最も近いのは北イタリアのミラノであり、この両者はだいたい現在のドイツ・フランス国境に沿う陸路「スペイン街道」で連絡している。また、スペインの財政は実は北イタリアの海港都市ジェノヴァ(ミラノの近く)の金融財閥に依存しており、南ネーデルランドのスペイン軍は主に「スペイン街道」による補給で財政を賄っていた。ファルツ選帝侯の領地はこれを牽制出来る位置に存在するのである。詳しくいえば、ファルツ選帝侯の領地はライン河沿いの「ラインファルツ」とバイエルンの北に隣接する「上ファルツ」に2分されている。

註5 昨年国内で政変が起こり、まだ政権が固まっていなかった。この段階で戦争に巻き込まれるのは危険。

   ヴァイサーベルクの戦い   目次に戻る

 かようにフリードリヒは期待していた国々の多くに見捨てられていった。彼は他国の支援をあてにして自分やボヘミアの財力だけでは養いきれない大軍団を編成していたのだが、支援がない(しかも彼と一緒にマンスフェルト軍を雇っていたサヴォワ大公は怒りのあまりその契約を切ってしまった)以上は兵士の給料も滞るしかなく、兵士たちは農村を略奪して糊口をしのぐ。フリードリヒの最も有力な傭兵隊長であるマンスフェルトがフリードリヒを訪れて給料支払いを要求するが、そのマンスフェルトもまた部下たちに給料を払うよう要求されていたのである。対して皇帝の側にはスペインがついた。皇帝はスペインにラインファルツ(註1)を占領してくれればその一部を割譲するとの約束をかわしたのである。スペインは皇帝の頼れる親戚であり、ドイツの西に位置する南ネーデルランドと南に位置する北イタリアのミラノの支配者として、この後ひんぱんにドイツの情勢に介入してくることになる。この年(19年)末にはボヘミア軍はトランシルヴァニア公ベートレン・ガボルの軍勢と共に再びウィーンを目指したが、ボヘミア軍は背後で皇帝方の傭兵隊長ヴァレンシュタイン(彼については後述)が動いたことが気になって撤収、単独でウィーンを目指そうとしたベートレン・ガボル軍は冬の寒気のために思うような攻撃がかけられず、戦果をあげられないまま退却を余儀なくされた。

註1 繰り返しになるがファルツ選帝侯の領地はライン河沿いの「ラインファルツ」とバイエルンに隣接する「上ファルツ」の2つに分かれている。

 1620年9月26日、バイエルン大公マクシミリアンを総司令官としティリー伯を軍事指揮官とする旧教連盟軍とブコア伯率いる皇帝軍あわせて5万がボヘミアに侵入した。さらに南ネーデルランドのスペイン軍もラインファルツに侵入する。ボヘミアで無為に過ごしていたフリードリヒは今さらながらにラインファルツの運命を心配したが手の打ちようがない。ザクセン選帝侯の軍勢も北からボヘミアに侵入する。傭兵隊長マンスフェルトは主人を見捨て、契約の満了を通告した。トランシルヴァニア公ベートレン・ガボルはフリードリヒとの同盟を守ったがその主力はハンガリー方面で皇帝側ブコイ軍に牽制され、ボヘミアへの援軍として送られた部隊は兵糧をボヘミアの村々からの略奪で賄ったために何の力にもならなかった。実はボヘミアに侵入した皇帝・旧教連盟軍の方も食料がなくて困っていたのだが、とにかくプラハを占領しさえすれば反乱は終息するとして行軍を急いだ。

 ボヘミア軍は首都防衛のためプラハ西方のヴァイサーベルク(ビーラー・ホラ)に野営した。皇帝・旧教連盟軍では速攻論と慎重論とが対立していたが前者が通って速やかな決戦の開始となった。1620年11月8日の「ヴァイサーベルクの戦い」である。戦闘の序盤はボヘミア軍右翼が優勢に駒をすすめたが決定的な勝利を得ることは出来ず、そのうちに皇帝軍の猛烈な突撃にあって中央が突破され、左翼のハンガリー騎兵(トランシルヴァニア公ベートレン・ガボルが寄越した部隊)も潰走した。戦闘はわずか1時間で終結、4000人の死者を出したボヘミア軍の敗北となった。皇帝・旧教連盟軍の死者は数百人であった。ボヘミア王フリードリヒは逃走した。抵抗を諦めたプラハ市民がフリードリヒを皇帝・旧教連盟軍に突き出して寛恕を請おうとしていたからである。フリードリヒは「ひと冬のボヘミア王」と呼ばれている。トランシルヴァニア公ベートレン・ガボルは遠い本国に引き蘢ってしまった。彼はドイツとオスマン帝国の障壁(註2)であったためあまり厳重に懲罰したりすることは出来なかったが、プラハ市に対しては皇帝軍による情容赦ない略奪が行なわれた。選挙王制は廃止されてハプスブルグ家による世襲王制となり、27人のプロテスタント貴族が死刑、他の者も重い罰金を課せられた。以後、ボヘミアはカトリック優勢となる。658家の貴族と50の都市の領地が没収され売りに出された(ボヘミア全土の4分の3で土地所有者がかわったという)が、このとき特にたくさんの領地を買い集めて大領主に成長するのが後にカトリック側の傭兵隊長として大活躍することになるアルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタインである。

註2 イスラムの国であるオスマン帝国はバルカン半島全域を支配し、たびたびハプスブルク家の領域を侵していた。

   新たな局面   目次に戻る

 今回の戦争における第一の功績はボヘミア討伐に際して総司令官をつとめたバイエルン大公マクシミリアンにある。皇帝フェルディナントはマクシミリアンを味方につけた際に「フリードリヒの選帝侯の位を剥奪しマクシミリアンに与える」と約束していた。翌21年1月、皇帝は逃走中のフリードリヒに「帝国追放令」を下し、しかる後に侯位を剥奪しようとした。だがこれには帝国内の諸侯がカトリック・プロテスタントを問わず一斉に色めき立った。諸侯の皇帝に対する自治権「ドイツの自由」を脅かす動きだからである。フェルディナントがボヘミア王として自分の国(ボヘミア)の貴族の領地を没収したりするのは自由だが、皇帝が帝国諸侯の位を剥奪したりするのは違法ではないのか。帝国においては皇帝は「王たちの中の1人の王」にすぎず、諸侯は実質的に独立しているはずである。フェルディナントは皇帝独裁がやりたいのではないのか……。かような声はとりあえずはスペイン(皇帝の親戚)の脅迫によって引っ込められたが、こういう動きはこのあと何度も出てくることになる。

 それからスペイン軍は昨年来フリードリヒの領地ラインファルツを占領したままであった(註1)。何度か書いたがこの年スペインとオランダの休戦条約の期限が切れることになっており、これも既述ずみだがラインファルツは地理的に北イタリア(スペイン・ハプスブルク家の主要な領地ミラノがある)と南ネーデルランドの連絡路を固める位置にあった。オランダはスペインに対し平和条約締結を打診したが断られた。このままではスペインはオランダを圧倒してしまうだろう。しかも皇帝はスペインを味方につけるために帝国内のアルザスとブライスガウを与えてしまっていた。オランダはやはりハプスブルク家の必要以上の強大化を恐れるデンマークと手を結び(デンマークはほとんど力にならなかったが)、それまでデンマークに亡命していたフリードリヒに援助を与えて旧領を奪回させることにした。

註1 正確に言えばスペイン軍が占領したのはラインファルツのうちのライン河西岸のみで、東岸と、上ファルツについては、ヴァイサーベルクの戦いの後、ティリー伯率いる旧教連盟軍が占領すべく行動中であった。

 さらに、以前フリードリヒの傭兵隊長だったマンスフェルトも戻ってきた。スペインの進出を恐れるドイツのバーデン・ドゥルラッハ辺境伯、フリードリヒの妻エリザベートに憧れるブラウンシュヴァイク公子クリスティアンもこれに加担する。オランダやデンマークはフリードリヒに対しては資金や外交面での援助だけなので、直接軍勢を動かすのはマンスフェルトにバーデン辺境伯、それからクリスティアンの3人、総兵力は約4万である。これと直接対決するのは皇帝との約束に基づきファルツ選帝侯の位を奪おうとしているバイエルン大公の軍勢(正確には旧教連盟軍。指揮官はティリー伯)と、現在ラインファルツ西部を占領しているスペイン軍である。

 フリードリヒ側の3勢力は本拠地がバラバラなので早急な合流をはかろうとする。このうちマンスフェルト軍は隊長の「甲冑をまとった乞食」のあだ名が示す通り行く先々の町や村を略奪し疫病を振りまきながら進撃、22年4月には「ヴェスロツクの戦い」にてティリー伯の率いる旧教連盟軍に勝利した。しかし旧教連盟軍は致命的な打撃を受けた訳ではなくすぐに戦力の挽回をはかり、5月初めにはスペイン軍と合流した。この旧教連盟・スペイン軍は5月6日の「ヴィンペンの戦い」にてクリスティアン軍との合流をはかっていたバーデン辺境伯軍を打ち破り、続く「ヘッヒストの戦い」にてマンスフェルト軍との合流をはかっていたクリスティアン軍に勝利した。ただバーデン辺境伯軍は辺境伯自身があまりの大敗に戦意を失ってその軍勢も崩壊したのに対し、クリスティアン軍の方はどうにかマンスフェルト軍と合流することに成功した。

 クリスティアンとマンスフェルトの仲は悪かった。しかも彼等の軍勢はあまりに酷い略奪を働いたことから雇い主のフリードリヒまで怒らせてしまった(旧教連盟・スペイン軍も似た様なものだったが)。7月13日、フリードリヒとマンスフェルト・クリスティアンは決別した。前者はオランダに亡命して皇帝との和睦を探り、後者もまた別の思惑でオランダに向かうことにした。少し前にオランダ・スペインの休戦が終了してオランダは南ネーデルランドからスペイン軍に攻め立てられており、配下の軍勢を売り込めると考えたのである。

 自信をつけた皇帝フェルディナントは今度こそ正式にフリードリヒの選帝侯位を剥奪してバイエルン大公に与え、旧教連盟軍とスペイン軍がそれぞれ占領したファルツ選帝侯領(註2)の今後の支配も認めることにした。ただドイツ諸侯の反対を無理に押し切ることも出来ないので、フリードリヒから剥奪してバイエルン大公に与える選帝侯位は一代限りのものとし、バイエルン大公が死んだ後フリードリヒの息子たちに位を返すかどうかはその時に考えるとの妥協を強いられた。亡命先のフリードリヒはこれを承諾せず、再び諸外国やドイツのプロテスタント諸侯に援助を求めたが、オランダは南ネーデルランドのスペイン軍との戦いに忙殺されフランスは国内問題を抱えている、といった具合で、何とか動いてくれたのは再び手を組んだクリスティアンと、トランシルヴァニア公ベートレン・ガボルぐらいであった。マンスフェルトにも協力要請がなされたが彼は動かず、フリードリヒ側の軍勢は23年8月6日の「シュタットローンの戦い」にてティリー伯率いる旧教連盟軍に惨敗した。ベートレン・ガボル軍は10月には皇帝側のヴァレンシュタイン軍(後述)によって撃退された。三十年戦争の第一期「ボヘミア・ファルツ戦争」はここに終結したのである。

註2 旧教連盟軍はラインファルツ東部と上ファルツを占領。スペイン軍はラインファルツ西部を占領。


第2部 「デンマーク戦争」に続く