ローデシア 第1部

   セシル・ローズとイギリス南アフリカ会社   目次に戻る

 アフリカ大陸の南端部分は17世紀の中頃からオランダによる支配が行われていた。この地は「ケープ植民地」と呼称され、本国から入植した人々の多くは農民であったことから「ボーア(オランダの古語で農民の意)人」と呼ばれるようになる。その頃は世界の海を制覇していたオランダは、しかしやがて落ち目になり、ケープ植民地も1806年にイギリス艦隊によって占領されてしまった。これはナポレオン戦争の混乱に乗じたものであった(註1)が、1814年には正式にイギリスによるケープ植民地の領有が決定する。ボーア人たちはイギリスの支配を嫌って北方の内陸部に移動し、「トランスヴァール共和国」「オレンジ自由国」という自前の国を組織した。

註1 オランダ本国はフランス軍によって占領され、ナポレオンの弟ルイを国王として押し付けられた。


 1867年、オレンジ自由国領の西グリカランド地方にてダイアモンドの鉱脈が発見された。イギリスはオレンジ自由国に9万ポンドを支払ってこの地を購入、ケーブ植民地に編入した、現地には採掘業者が殺到したが、その中で特に有名になったのがセシル・ローズという人物である。ローズは17歳の時に病気の療養でこの地(兄が住んでいた)に来たまま住み着いてしまい、やがてダイアモンドの鉱山で働くようになった。彼は採掘業ではうまくいかなかったのだが、同業者に排水ポンプを貸す商売(坑内に湧き出す地下水が採掘人の悩みの種であった)があたって巨額の財産を築き、鉱区を買い漁って世界有数の大金持ちに出世したのであった。

 1881年に植民地議会(ケーブ植民地は72年に自治を認められていた)の議員に当選して政界に進出したローズは北方へと野心の眼を向けた。まずオレンジ自由国・トランスヴァール共和国を潰したいところだが、これは後回しにしてさらに北の地域に注目する。そこには現在「ジンバブエ共和国」という国が所在するが、「ジンバブエ」という地名は当時はまだ存在せず(ただし本稿では便宜上「ジンバブエ」という語を使うことがあります)、この時点ではまだどこの植民地にもなっていなかった。

 ジンバブエは北部のマショナランド、南部のマタベレランド、東部のマニカランドの3地域からなっている。ローズは1888年、まずマタベレランドに勢力を持つンデベレ族の王ローベングラと「ラッド協定」を結んで鉱山採掘権を入手した。その代償はライフル銃1000挺と弾薬10万発、さらに毎月100ポンドの支払いである。この地域にはトランスヴァール共和国も野心を持っていたのだが、ローズは大金をバラまくことでその動きを封じてしまった。

 ローズはさらにジンバブエ全土の開発・統治に関する特許状の下付をイギリス本国に申請した。本国政府の植民相チェンバレンは「成金」ローズをあまり好ましく思っておらず、現地のンデベレ族がどう思っているかもよく分からないことからこの申請をなかなか認可しなかったが、ローズは各方面に運動してヴィクトリア女王の同意を貰うことに成功、89年10月には望み通りの特許状を与えられて「イギリス南アフリカ会社」を設立した。この会社を通じてジンバブエ全土を植民地化してもよいということである。会社の運営する植民地というのは奇異な印象を受けるが、実はそれほど珍しい形態という訳でもない。

   ローデシアの建設   目次に戻る

 翌90年3月、ローズは「パイオニア・コラム」と呼ばれる遠征隊を組織し、ジンバブエ北部のマショナランドへと差し向けた。これは様々な職業の、主に30歳以下の若者200人からなっており、護衛として400人の騎兵隊が随伴していた。彼らの通行路となったマタベレランドのンデベレ族はこの話を聞いて疑念を抱いたが、とくに邪魔立てはしなかった。パイオニア・コラムは9月までかかってマショナランドに到達、「ソールズベリ砦」という要塞と町を建設した。これこそが現在のジンバブエ共和国の首都ハラレ市の起源である。

 この動きとは別に、ローズの腹心の部下ジェームソンがマショナランドの東のマニカランドへと急いでいた。マニカランドはポルトガルの植民地モザンビークに隣接する地方である。

 ……ここで時代を遡って解説する。ポルトガルのモザンビークへの進出は16世紀のいわゆる「大航海時代」の頃に始まっている。彼らはインド洋沿岸地方に拠点を築き、貿易や金の採掘、農園の経営を行いつつも、それから数百年間は沿岸部にとどまるのみで、内陸へはあまり入ろうとしなかった。しかし19世紀の末頃になるとポルトガルは内陸奥深くのマニカランドやマショナランドに興味を示し、さらに現在のマラウイ共和国地域の領有を目指すようになる。ポルトガルは大西洋沿岸のアンゴラをやはり大航海時代の頃から領有しており、これとモザンビークを連結する「赤色地図」なる構想を思い描いた。

 ローズはもちろんマニカランドを押さえるつもりでいた。しかしイギリス本国政府はパイオニア・コラムがまだマショナランドを目指して行軍していた最中の90年8月にポルトガルと協定を結び、マニカランドに関してポルトガルに有利な線引きをしてしまった。ところがポルトガルの議会は何故かこの協定を批准しなかったため、ローズは急いでジェームソンをマニカランドに差し向けたという訳である(イギリス本国政府はそれについて特に反対しなかった)。
 
 かくして9月14日、ジェームソンはマニカランド最大の首長であるムタサと会見し、イギリスによる保護と年100ポンドの援助を代償として鉱山利権と居住権を獲得する協定を締結した。仕事を終えたジェームソンが帰っていくと、モザンビークのポルトガル植民地軍がムタサを攻撃、イギリスとの協定を撤回させた。すると当然ローズが反撃、新手の遠征隊を派遣してポルトガルの勢力を追い出した。この年にケープ植民地の首相に就任したローズは、イギリス南アフリカ会社の管轄区域を「ローデシア」と命名した。意味はもちらん「ローズの国」である。

 話が前後するがこの年(90年)の3月、ローズは現在のザンビア共和国西部のバロツェランド地方に部下ロシュナーを派遣し、現地に勢力を持つロヅィ族の王レワニカとの協定を結んでいた。その内容はローズのイギリス南アフリカ会社によるロヅィ族の保護と地下資源の採掘権料の支払い(それとは別に年間2000ポンド)を代償として鉱山利権を認めさせるというものである。レワニカはその頃マタベレランドのンデベレ族と対立しており、その解決をイギリス人に求めたつもりでいたのだが、イギリス南アフリカ会社は91年までには現ザンビア共和国地域の大半へと勢力を拡大していった。ここは「北ローデシア」と呼称され、現ジンバブエ地域は南ローデシアと呼ばれるようになる。

   ニヤサランド領有   目次に戻る

 それから、ザンビアの東に位置する現マラウイ共和国地域である。ここは昔は「ニヤサランド」と呼ばれ、イギリスの交易業者「アフリカ湖沼会社」と宣教師が活動していたが、ローズにはあまり関心を持たれていなかった。それよりもここで活躍したのはインド洋方面から入り込んでいたアラブ人で、彼らはニヤサランド周辺の黒人をザンジバル(註2)経由で奴隷として売り飛ばす商売に精を出していた。奴隷商人の一団が村を襲って奴隷適齢期の男女を捕獲・連行し、それ以外は皆殺しにするという残虐ぷりであったという。また、黒人同士の部族抗争でも奴隷狩りが横行した。とはいっても……話が前後するが……奴隷狩りの全盛期は19世紀の前半頃のことであり、後半になるとイギリスがザンジバルに圧力をかけて奴隷貿易の禁止を強要するようになって、ニヤサランドの奴隷狩りも根絶こそされなかったものの縮小に追い込まれた。1861年にはイギリスの高名な探検家リヴィングストンがニヤサランド北部のコタコタを訪問し、現地を拠点とするアラブ系奴隷商人のジュンベという人物と会見して奴隷貿易を止めるよう説得したというエピソードがある。しかし1885年にドイツがザンジバル領の侵略を始めると(註3)、その混乱に乗じたニヤサランドのアラブ人たちが大規模な奴隷狩りを再開し、アフリカ湖沼会社とも対立するに至る。

註2 現在のソマリア・ケニア・タンザニアのインド洋沿岸部を支配していた国。詳しくは当サイト内の「アフリカの諸都市」を参照のこと。

註3 これについては当サイト内の「ドイツの植民地」を参照のこと。

 85年10月、アラブ系奴隷商人とアフリカ湖沼会社の間で小規模な戦争が勃発した。この時は勝敗が定まらずに休戦、88年4月に再戦された際には会社側がアラブ商人の村を攻撃しようとして失敗した。その頃になるとドイツの勢力が内陸まで入り込んできたし、ポルトガルもニヤサランドの南方へと触手を伸ばして来た。また、ローズもこの地域に興味を示すようになった。

 89年10月、駐モザンビークのイギリス領事という肩書きを持つハリー・ジョンストンという人物がアフリカ湖沼会社の砦があるカロンガにやって来た。彼はローズから貰った軍資金(と援軍)を携えており、以後6年間に渡って奴隷商人と戦いつつニヤサランド各地の黒人部族と協定を結んでいった。アラブ系奴隷商人の活動は95年にムロジという人物がイギリスの手で絞首刑にされたことによって終息したとされている(実際にはその後も奴隷貿易が根絶されるようなことはなかったようである……)。ただ、アラブ人は収奪するだけではなくイスラム教の布教も行っており、現在のマラウイ共和国の総人口のうち2割はイスラム教徒となっている。

 また、ポルトガルの進出も食い止めた。現在のアフリカの地図を見るとマラウイ共和国領の南部がモザンビーク共和国領の奥地に食い込んでいるが、これはこの時代のイギリスとポルトガルによる植民地の争奪の結果である。……実は、ポルトガル本国はこのころ破産状態となっており、そこにつけこむイギリスの経済侵略を受けていたことから、植民地の争奪戦においてそのイギリスを相手に強い意志を示すなど、到底無理な話であった。「赤色地図」など単なる夢想以外の何者でもない。90年代に入るとポルトガルはモザンビーク内陸部の統治を「モザンビーク会社」等の会社組織に委託するようになるが、これはイギリス資本の会社であった。イギリスはさらに悪どく、ドイツと密約を結んでポルトガルの海外植民地を分割することまで考えていた(さすがにこれは実現せず)。

 モザンビークの話はともかくとして……、ニヤサランドはローズのイギリス南アフリカ会社の支配下には入らず、イギリス本国政府が外交権や駐兵権を握った上で現地の部族が自治を行う「保護領」という形態をとることになった。ローズは現コンゴ民主共和国南部のカタンガ地方を狙っていたが、これについてはベルギーの勢力に先を越された(註4)。現在のコンゴ(旧ベルギー植民地)領の南端がザンビア(北ローデシア)領に食い込んでいるのはこのせいである。

註4 ベルギーの動きについては当サイト内の「コンゴ動乱」を参照のこと。


   開発と抵抗   目次に戻る

 次にローデシアの経済開発の話であるが、まずは金・銅・クロム・亜鉛・石炭などの地下資源の開発が始まった。特に注目されたのが銅である。その頃ヨーロッパで電気の利用が普及したことから銅の需要が増大しており、ローデシアの銅鉱山には鉄道が敷かれて大増産がはかられた。そしてその鉱山の労働者を養うための農業が盛んになる。その頃イギリス本国の農業は外国産の穀物との競争に負けて貧窮しており、「広大な微笑む土地は待っている。鋤で耕して開発してくれる人々の来るのを」という宣伝文句に惹かれて大勢の移民がやってきた。ローデシアは温暖で農業に適し、食糧としてはトウモロコシが、商品作物としては煙草が栽培された。

 ただ、以上は主に南ローデシアの話であって北の開発は遅れていたし、開発が進むということは黒人との対立が避けられなくなるということでもあった。まず94年、ンデベレ族がローベングラ王の指導のもと、白人移民との衝突を避けて北に逃れようとしたが、その途中でローベングラが病死した。逃走を諦めたンデベレ族は96年に対イギリス武力闘争を起こし、同時にショナ族も立ち上がったことから広範囲に渡る戦闘へと発展した。これに対しローズはまずンデベレ族を懐柔して標的をショナ族に絞り込み、翌97年にはほぼ鎮圧することに成功した。白人側の死者450名、黒人側の死者8000名であった。また、南ローデシアとポルトガル植民地(モザンビーク)の境界付近にはポルトガルの支配から逃げて来た黒人たちの共同体が存在し、イギリスとポルトガルの双方を敵にまわしてのゲリラ戦を行っていた。ショナ族の一部にはこの共同体と共闘することでイギリスとの戦いを継続する者もおり、その1人マポンデラは1903年までイギリス・ポルトガル両勢力と戦い続けた(最終的には南ローデシア当局に投降、獄死)。こうした征服事業のおかげで白人移民は格安値で土地を取得することが可能となり、平均的な農場の面積は3000エーカーにも達した。

 その一方でローズは1895年、ボーア人(オランダ移民の子孫)の国であるトランスヴァール共和国への侵略を開始したがこれは失敗、そのやり方が強引すぎたことも相俟ってケープ植民地首相兼イギリス南アフリカ会社重役の座からの引退を余儀なくされた(1902年に死去)。しかし彼の後継者たちは性懲りもなくトランスヴァール共和国・オレンジ自由国への侵略を継続し、1902年にはどちらもイギリス植民地に組み込むことに成功した。その過程で起こったのが「ボーア戦争」である。

 その後、イギリスはボーア人を懐柔するために補助金を出し、彼らによる黒人への抑圧的支配権を認めてやった(註5)。ケープ植民地と旧トランスヴァール及びオレンジは1910年に「南アフリカ連邦」を組織してイギリスから独立する(註6)に至るが、この国で参政権を持つのは白人(イギリス系移民とボーア人)だけで、彼らが黒人大衆を差別的に支配する「人種隔離政策(アパルトヘイト)」は1990年代まで維持されることになる(註7)

註5 これまでボーア人がイギリスの支配を嫌って自前の国を運営していた理由は色々とあるのだが、その1つに、イギリスが割と早い段階に奴隷制度を廃止していたのに対し、ボーア人は黒人の奴隷労働に依存していたから、というのがあげられる。

註6 ただし、国家元首はイギリス国王であった。これは現在のカナダやオーストラリアもそうで、イギリス国王の名代である「総督」が首相の解任や議会の解散を行うことも出来る(現在では総督の仕事は儀礼のみで、政治に口出しすることは滅多にないらしいが)。南アフリカ連邦は1961年にこの制度から離脱し、独自の国家元首(大統領)を持つ「南アフリカ共和国」となった。

註7 「アパルトヘイト」という言葉が登場したのは1913年、法制化されたのは48年である。


 しかしローデシアは南アフリカ連邦に入らず、その後もイギリス南アフリカ会社による支配が継続された(ニヤサランドもイギリス保護領のまま)。

 1914年、第一次世界大戦が勃発し、ニヤサランドの北部にドイツ植民地軍が攻め込んできた。この時の戦いではドイツ人兵士だけで19名が戦死し、彼らやイギリス人兵士の墓は戦場となったカロンガに今でも残っているが、ドイツ・イギリス軍の主力だった黒人兵士の犠牲者についてはよくわからない。そしてこのニヤサランド……少数しかいない白人に農地の3分の1を支配されていた……では翌年1月23日、ジョン・チレンブエという黒人が小規模な反乱を起こして白人3人を殺害した。彼は白人と白人の戦争に黒人が駆り出されているのに心を痛めていた。チレンブエはアメリカで学んだこともあるキリスト教の宣教師で、ニヤサランド独立運動の先駆者として現在マラウイ(ニヤサランドが1964年に独立して出来た国)の発行する全ての紙幣にその肖像が印刷されているのだそうだ。もっとも、彼の率いる反乱は数日後には鎮圧されたのだが……。

 南ローデシアでは1912年にワンキー炭坑で黒人労働者によるストライキが行われた。この炭坑はローデシア各地の鉱山をつなぐ鉄道(もちろん蒸気機関車)に石炭を供給する役割を持っており、黒人労働者が低賃金で1日十数時間働かされて1906〜08年の間に4000人が死亡するという生き地獄を呈していた。炭坑で働く1000人の黒人のうち160人が参加したストは南アフリカから呼ばれた警察によって鎮圧され、1ヶ月間の給料停止という罰がくだされた。

   南ローデシア自治政府   目次に戻る

 1915年、イギリス南アフリカ会社の特許状の期限が満了した。これはとりあえず更新されたが、現地の白人入植者たちは、会社があまり自分たちの福利をはかってくれないことに不満を抱き、会社の方では多額の行政費用が鉱山や農業の収益を食い潰してしまうのに困るようになっていた。そんな訳で、まず南ローデシアを南アフリカ連邦に統合してはどうかとの話が持ち上がり、これを会社上層部と連邦サイドが支持した。しかし入植者たちが「庇護されて飽食するより、ぼろをまとっても自由を」と唱えて自治を主張したため、23年10月をもって「南ローデシア自治政府」が組織された。イギリス南アフリカ会社は行政権を放棄して今後は商行為のみに勤しむこととなった。

 ただし、南ローデシア自治政府は完全な独立国ではなく、外交権はイギリス本国政府が握るというものであった(南アフリカ連邦は外交権を持ち、国際連盟にも加盟していた)。初代首相はチャールズ・コクランという弁護士である。北ローデシアは移民が少なかったことからイギリス本国政府の支配による「直轄植民地」とされ、ニヤサランドは保護領のままでいくこととなった。

 しかし、南ローデシアの未来はいまいち拓けていなかった。まず農業が天災で打撃を受けた上に、29年に始まる「世界恐慌」に苦しめられたのである。33年に政権を握ったハギンスは新規の移民を誘致して第二次産業を盛んにし、黒人を徹底的に押さえつける政策を推進した。南ローデシアには自治政府発足の時点で3000万エーカーの面積を持つ白人所有地と2500万エーカーの面積を持つ「原住民指定地」とが並立していたが、後者は当然のように立地も地味も悪く、調査も遅れていた。白人所有地に白人到来前から住んでいた黒人たちは「不法占拠者」という扱いを受け、金を払って土地を借りるか白人の農場で働くかしかなくなった。また、ある程度の資本を持つ黒人は原住民指定地の外に「原住民購入地」を持つことが可能であったが、これも白人と競争関係になるのを防ぐ為に地理的に隔離されていた。

 これに対して、北ローデシアの方はもともと黒人の人口が少なく、白人の入植も遅れていた。ところが25年に大規模かつ高品位の銅鉱脈が発見されたことからこの地域にも開発の波が押し寄せる。当時は欧米諸国で自動車産業が躍進しつつあったことから銅の売り込み先には事欠かず、銅鉱山の労働者は黒人だけで27年に8000人、30年には2万3000人に膨張した。彼らの賃金が安いおかげで銅の価格も安く出来て言うことなしである。31年には世界恐慌の影響で銅価格が暴落、銅鉱山の黒人労働者が4分の1、白人労働者が3分の1に激減するという大打撃を被るが、それから何年か過ぎてヨーロッパに第二次世界大戦の足音が迫ってくると各国は北ローデシアの高品位かつ安価の銅を戦略物資として買い漁るようになった。

 という具合に急速に恐慌の痛手から立ち直った北ローデシアを眺めていた南ローデシアの白人たちは、その儲けに与ろうと南北ローデシアの統合を望むようになる。しかしイギリス本国政府は南ローデシアの白人だけでそんな広大な地域を支配するのは困難(註8)としてこれに反対し、実現に至らなかった。そのかわり、イギリス政府は南ローデシア(の白人)を宥めるため、彼らの押し進める非人道的な黒人隔離政策を容認する態度をとった。それからニヤサランドは、少数の白人の経営する茶の農園があった以外には南北ローデシアに黒人労働者を(出稼ぎとして)提供する程度の価値しかなく、世界恐慌からなかなか立ち直ることが出来なかった。

註8 北ローデシアの白人は数が少ない上に鉱山の仕事で一時的に滞在しているだけの人が多かった。対して南ローデシアの白人は農場主が多く、完全に土着化している。(南にも鉱業はあるが北ほど盛んではない。こちらの一番の産業は農業である)


 黒人たちは、昔と比べると医療体制が整ってきたことから人口が増大したものの、昔ながらの自給自足的な農業では……肥沃な土地は白人にとられていることもあって……食い扶持を養うのが困難になってきた。白人の経営する農園や鉱山に出稼ぎに行けば足下をみられて低賃金しか貰えず、しかしそれでも例えばニヤサランドから出稼ぎに出た者の4分の1は故郷に戻らなかったというから田舎の貧しさは想像に余りある。とはいっても出稼ぎ先の乏しい給料では田舎への送金もままならず、そのせいで(白人の農園ではなく黒人の村の)農業技術はろくに進歩しなかった。

 南ローデシアではかつてのンデベレ王ローベングラの息子ニャマンダの組織した「マタベレ祖国運動」がロンドンに黒人待遇の改善を求める陳情団を派遣したが何の結果も得られず、他にも「ローデシア原住民教会」等の組織が活動したが、白人側は聞く耳をもたなかった。都市部で働く黒人の労働組合も誕生したのだが、弾圧で幹部が逮捕されたうえに、農村との共闘を考えなかったことからやがて解体した(都市部の黒人労働者は基本的に農村からの出稼ぎなのに、それを考慮しなかったのである)。白人側の労働運動(鉄道労働者を主体とし、恐慌期に勢力を拡大した)も、自分たちだけの利益を守ることを優先し、黒人労働者とは結ばなかった。

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