ネルソン提督伝 第1部 若き日々

   生い立ち   目次に戻る

 ホレイショ・ネルソンは1758年9月29日、イングランドはノーフォーク州バーナム・ソープ村の牧師館に誕生した。父エドマンドはこの地域の教区牧師(イギリス国教会)をつとめ、母キャサリンは18世紀の前半に20年以上に渡って首相職をつとめたロバート・ウォルポールの一族であった。ホレイショはこの夫婦の第6子であったが、成長した子供の中では4番目で、さらに3人の弟妹がいた。少年時代の体格は小柄で痩せており、頑丈とは言い難かったが、ある時に他所の家の庭から梨の実を盗んできて、「僕が梨をとってきたのは、他の連中が皆ビビっていたからだよ。ただそれだけのことさ」とうそぶく怖いもの知らずであった。その一方で、牧師の子供として生まれた環境ゆえか生涯に渡って篤い信仰心をもっていた。

 やがてネルソンは家を離れ、まず7歳の時にノリッジの王立文法学校に、次いで11歳の時にノースウォルシャムの「パストン校」という学校にそれぞれ寄宿生として入学した。後者は当時としてはかなり自由なカリキュラムをもっており、ネルソンは大人になってから手紙等で(パストン校で習ったとおぼしき)『ヘンリ5世』や『ジュリアス・シーザー』といったシェークスピア劇の台詞を引用することが出来た。家庭では9歳の時に母キャサリンが亡くなった。母親似だったといわれるネルソンにとっては彼女の死は実にショックであったという。

   海軍入り   目次に戻る

 1770年の末、クリスマス休暇で帰省した12歳のネルソンは、母方の伯父で海軍士官のモーリス・サクリングが戦列艦「リーゾナヴル」の艦長に任命されたことを知り、伯父と父に頼んで海軍に志願させてもらうことにした。12歳とは現在の感覚ではずいぶん幼いが、当時の海軍士官の第一歩としては標準的な年齢であった。実のところ、ネルソンはそれほど強烈に海の男に憧れていた訳ではなく、たまたまそのころ父が病気に罹って一家の財政が逼迫していたため、なんとか自活したいという考えあってのことであった。

 伯父はあまり歓迎しなかったが、3年前に妹(ネルソンの母)が亡くなった時に将来ネルソン家の男子の1人の面倒を見てやると約束していたため、けっきょく受け入れることにした。父エドマンドは特に反対せず、息子を伯父の艦の碇泊するケント州チャタム(テムズ河口の南岸)まで駅馬車で連れて行ってくれた。艦に乗り組んだ初日は誰にも相手にされず放ったらかしで、2日目からようやく訓練を始めることが出来たという。

 その頃のイギリスは南米のフォークランド諸島の領有権を巡ってスペインと戦争寸前の状態にあり、海軍に動員がかけられていたおかげでネルソンも艦に乗り込ませてもらえた訳だが、フォークランド問題はやがてスペインが折れたことによって決着、仕事のなくなった「リーゾナヴル」は港に繋がれ、伯父のサクリングは別の戦列艦「トライアムフ」に転属となった。ネルソンは一時的に海軍から離れ、カリブ海行きの商船……その船長はサクリングの部下だったことがある……に乗り組んで船乗りとしての経験を積み、そのうえで改めて伯父の艦の士官候補生となった。ただ、ネルソンは商船乗組員の待遇に満足してしまって海軍の厳しい規律や不味い食事を嫌うようになっており、海軍に戻る時にはかなり伯父の手を煩わせたという。

 話がそれるが、「戦列艦」というのは現在の戦艦に相当する軍艦である。当時のイギリス海軍ではこの艦種には3つの等級があって、大砲を64〜112門搭載しており、最も標準的な艦で74門搭載であった。50門搭載の戦列艦というのもあった(本稿にも登場する)が、打撃力も速度もイマイチであまり使えなかったようである。フランスやスペインの海軍には120門以上の大砲を搭載する特大の戦列艦も存在した。海戦を行うに際しては、複数の戦列艦で単縦陣の戦列縦隊、つまり一列縦隊を組んで少しでもたくさんの大砲を敵艦隊に向けられるようにするのが基本戦術であった。戦列縦隊を構成する艦のことを「戦列艦」と呼ぶ訳である。

 戦列艦に次ぐ大きさを持つのが「フリゲート艦」で、大砲は20〜44門しか搭載しないが、そのかわり脚が速く、索敵や至急便、通商破壊等を担当した。ネルソンはフリゲート艦のことを「艦隊の眼」と呼んでいる。戦列艦もフリゲート艦も3本マストで、それらより小型の艦としては2本マストの横帆式帆船である「ブリッグ」や、2本マストの縦帆式帆船である「スクーナー」があった。100門搭載の戦列艦の建造費は現在の日本円に換算すれば約200億円、フリゲート艦で20億円ぐらいであった。

   海軍の生活と階級   目次に戻る

 ネルソンは伯父の艦で大型ボートの操縦を任され、その経験のおかげで岩礁や砂州の間を航行する自信をつけた。これはネルソンの海軍嫌いを治すためにサクリングが施してくれた最高の治療であった。また話がそれるがここで当時のイギリス海軍の出世コースについて説明しておくと、士官を志す若者はまず最初は「志願兵」もしくは「見習い」としてどこかの軍艦に乗り組み、2年間の勤務を経て「士官候補生」となるというものであった。ここでいう「志願兵」というのは単なる志願兵ではなくて明確に士官を目指す人員であって国家から新任状を授与されており、「見習い」というのは各艦の艦長の徒弟ともいうべき存在であった。ネルソンは後者の身分で海軍に入った訳である。

 士官候補生になると、その後さらに数年間の勤務を経たうえで昇任試験を受験し、それに合格すれば「海尉」に任命された。志願兵も見習いも士官候補生も基本的に軍艦で(現場で)勤務して経験を積むのが当時のやり方で、近代的な「海軍兵学校」という陸上の士官養成機関もあるにはあったが、そちらは定員がごく少数であったうえに、学校より現場で経験を積んだ方がものになるというのが当時の一般的な思考であった。

 ともあれ、海尉まで進めば一人前の海軍士官である。艦の大きさによって1名〜6名ぐらいの海尉が乗組んでおり、その中の最先任(一番ベテラン)が「副長」ということになる。海尉の上は「海尉艦長」、その上は「勅任艦長」、その上は「提督」である。現在の海軍の階級にあてはめれば海尉艦長は中佐、勅任艦長は大佐であり、「艦長」とはいっても指揮する艦を持っているとは限らない。提督には「少将」「中将」「大将」「元帥」の4ランクがあり、彼らが艦隊や鎮守府(港湾の守備隊)を指揮するが、勅任艦長の身分のままで小規模な艦隊(戦隊)を指揮することもある。その場合、その勅任艦長は「戦隊司令官」と呼ばれる。……しかし、これらはあくまで「出世コース」の話であって、このコースに乗れるのはネルソンのようなある程度以上の社会的地位や縁故を持つ中産階級出身者や地主、貴族のみであり、一般庶民はヒラの水兵か下士官、准士官どまりであった訳だが。

 士官候補生の仕事は海尉の補助で、さらに航海術や数学を勉強し、正午には艦長と一緒に天測で艦の位置を測定、戦闘時には各自数門づつ大砲を指揮した。彼らの居住区は艦の最下甲板で、換気が悪く悪臭と湿気に塗れた空間にベッドを与えられていた。食事は下っ端の水兵と同じもので、水っぽいオートミール、蛆虫もしくはゾウ虫の湧いたビスケット、彫刻が彫れるほどカチカチになった塩漬けビーフもしくはボーク、豆粉プディング(砕いたエンドウ豆でつくった粥)、悪臭のするバターとチーズ、等々と酒類が出た。肉類は赤身よりも脂肪や軟骨の方が多く、水兵に「ジャンク」と呼ばれた。ジャンクというのは現在では「屑」のことだが、本来は使用不能となった古ロープや錨索を指す海事用語であった。

 酒類には壊血病予防のレモンジュースを加えたりした。特によく飲まれた酒はラムを4倍の水で割ってレモンジュースと赤砂糖を加えた「グロッグ」で、他にもビールやワインが支給されることがあった。酒類の支給は乗組員の志気の保持と、水(上陸する時に川で汲んできて艦内の樽に長期間保存するので悪臭を放っている)を生で飲むのは危険なので酒を加えることで消毒するという意味もあった。酒ではなく紅茶やコーヒーを飲む者もいたがそれは少数派で、乗組員の間で金の貸し借りがあった場合、銭のかわりに酒で返済することがよくあったという。嗜好品としては煙草が(茎がついたままの乾燥した葉っぱの状態で)支給され、もっぱら噛み煙草として消費された(当時の軍艦はみな木造なので火の使用が制限されている)。士官候補生のような良家のぼんぼんはともかく、下層階級出身の水兵からみればこんな酒食でも豪華であったという。

 海尉ともなると自費で食材を持ち込むことが出来たが、それは具体的には新鮮な肉や卵を供給するための生きた家畜で、艦内の各所で山羊、鶏、鵞鳥、さらには豚や牛までが飼われていた。ヒラの水兵たちは小腹を満たすため、艦内に大量に棲息している鼠を捕って食べる(塩胡椒して焼く)ことが多かったが、鼠というのは体内でアスコルビン酸(ビタミンC)を合成する能力があるため、それをしょっちょう喰っていた水兵は壊血病に罹りにくいという思わぬ効能があった。

 まぁもっとも、鼠の毛皮から蚤や虱をうつされることは日常茶飯事で、下手をするとそれらの寄生虫を媒介とする伝染病が艦内に蔓延することもあった訳だか。ちなみに艦内での医療は原則として無料で受診することが出来、その点は下っ端の水兵には有り難い話であった。「原則として無料」というのは、性病のような自ら招いた病気に関しては治療費を払う必要があったからである。水兵の給料は民間の一般的な労働者と比べても悪いものではなかったし、(補給が滞っていない限りにおいて)食事どころか酒や煙草まで支給して貰えるというのは彼ら的には嬉しい話であった。給与に関しては商船乗組員の方が良かったが、海軍では敵国の船舶を拿捕した時に乗組員全員に「拿捕賞金」が配分されるというのが大きな魅力であった。

 とはいっても、いちいち言うまでもないことだが水兵と海尉以上では(食事以外にも)待遇に極端な開きがあり、規律違反をおかした場合には厳しい罰則が課せられたし、(水兵は)一度軍艦に乗組んだら戦争が終わるまで任務以外では陸地にあがることが出来なかった。最も一般的な罰則は鞭打ちで、「九尾の猫」と呼ばれる強力な鞭で背中を12回打つのが標準であったが、艦長の裁量によってその何倍もの回数を課すことも可能であった。艦内での規律をどの程度厳しくするかは艦長や海尉たちの性格によったため、極端に横暴な艦長や海尉の下に乗り合わせてしまった水兵たちは場合によっては反乱を起こすこともあった。

 次に水兵や下士官の階級についてざっと説明しておく。まず水兵は、位の低い順で、火薬運びの少年(最年少で6歳ぐらい)、士官の召使いの少年(8〜9歳ぐらい)、その上に「三等水兵」「二等水兵」「一等水兵」というランクがあり、各艦の副長がランク分けを決めることになっていた。下士官は艦長が任命し、操舵を担当する「操舵兵曹」、帆を担当する「掌帆兵曹」、砲を担当する「掌砲兵曹」等々がいた。掌帆兵曹は鞭打ち等の刑罰も担当した。准士官はロンドンの海軍本部が任命し、艦の航海・操舵に責任を持つ「航海長」とその部下の「航海士」、「軍医」「牧師」「主計長」「掌砲長」「掌帆長」等がいた。主計長や牧師は戦闘時には軍医の手伝いをした。「海軍本部」というのはイギリス海軍の中枢で、人事のみならず各方面の艦隊の配備や展開を取り決め、最高責任者である「海軍本部委員会第1委員」は内閣にも席を持っていた。

 水兵は原則として志願制で、艦ごとに募集することになっており、港町に勧誘のポスターを貼ったり説得してまわったりしていたが、どうしても人が集まらない場合には力づくで商船や漁船の乗組員を拉致し、場合によってはその辺の乞食まで引っぱってきた(これは治安維持活動の一種と認識されていた)。まぁしかしこの「強制徴募」というのはこの時代のイギリス海軍を扱った小説の類ではおなじみのイベントとなってはいるのだが、実際にはそうやって連れてこられた連中は(当然ながら)志願兵と比べて志気や能力が低いため、艦の側としてもなるべくやりたくない最終手段であり、強制徴兵の割合は多い時でも全体の3分の1程度であったという。しかし5割ぐらいという資料もあり、実際には強制徴募で連れてこられた人が少しでも待遇を良くしてもらうために名簿に「志願」と記載することが多かった(艦の側でもそうするのが望ましいと考えていた)ようである。また、犯罪をおかした懲役囚が「海軍に志願すれば減刑する」という甘言につられて入隊することもあり、そういう連中は一般の志願兵に笑い者にされたり虐待されたりした。しかし一般の志願兵にしたところで、最初は愛国心に燃えていたとしても実際に海軍の勤務を経験してみるとたちまち幻滅・後悔してしまうことが多かったという。また、志願の動機としては「海外の珍しい土地に行ってみたい」というのも多かったが、海軍での実際の仕事は敵国の特定の港湾の沖に(同じ海域に)何ヶ月も何年も張り付いてひたすら見張っているだけということが多かった。

 と、そんな具合に、水兵を集めるのは一苦労であったが、士官候補生になりたいという若者はいくらでもいた。特にこの道に進みたがっていたのは親の財産を相続する見込みの薄い貴族の次男や三男で、中産階級の子弟でも、より高い身分に出世する機会を海軍に求めることが多かった。強制徴募で連れてこられた下っ端の水兵でも長期間の勤務をこなせば海尉以上に出世することも不可能ではなかった。

 海戦の際には基本的に大砲で撃ち合う訳だが、この時代の大砲は射程距離が短く威力も弱いため、相手艦に接舷して斬り込み、拿捕という形をとることが多かった。そのような近接戦闘を担当する部門として「海兵隊」がいる。これはつまり海軍所属の歩兵隊で、ある程度以上の大型艦に乗り込み、海戦時の銃撃戦や斬り込みのみならず小規模な上陸作戦、艦内の治安維持といったことを担当した。銃撃に使う小銃は陸軍で使われていた「ブラウンベス」と呼ばれる銃を短くしたもので、艦内での取り回しはよかったが、短いぶんだけ命中精度が犠牲になっていた(銃身が長い方がよくあたる)。小銃以外の武器としては拳銃と、原始的な手榴弾があった。隊員の階級は概ね陸軍のものと同じで「大佐」とか「中尉」とか「伍長」とかいう。それから斬り込みの際には海兵だけでなく一般の水兵も参加する訳だが、彼らは武器としては拳銃や短剣、斧、短めの槍を使用した。

 それから、戦時には艦と乗組員は1隻1名でも多い方がいいに決まってるが、平時にはあまり大勢に無駄飯を喰わしておく訳にはいかないため、少なからぬ艦は「解役」となって港に繋がれ、その乗組員は除隊となる。下っ端の水兵は普段の生活に戻るだけだし、戦列艦「リーゾナヴル」が港に繋がれた後のネルソンのように一時的に商船に転職する例もあったが、士官はまたいつかやってくるであろう有事に備え、半額給の「予備役」となって自宅等で待機することになっていた。まぁ平時であっても全ての艦が港に繋がれる訳では決してないので、運と能力があれば(もしくは海軍の上層部にコネがあれば)仕事をあてがって貰うチャンスはあり、その点でネルソンは(まだ士官になっていないが)恵まれていた。それと、解役中の艦であってもその艦の保守を担当する准士官は居残り続ける必要があるため、彼等の妻子を艦に住まわせることもあった。彼女らは艦が就役してもそのまま艦内に留まり続け、普段は洗濯等の雑務、戦闘中は火薬の運搬や軍医の助手をつとめた。本当は航行中の軍艦に女性を乗せるのは禁止であったのだが、大抵の艦長は見て見ぬ振りをした。艦長になって以降のネルソンもその点は甘かったようである。

   北極探検   目次に戻る

 1773年、2隻の小型艦を用いた北極探検が企図された。この話を聞いたネルソンは参加を懇願し、副指揮官スケフィントン・ラトウィッジ艦長の艇長(艦長用ボートの指揮官)という資格でこの航海に参加した。これは北極周りで大西洋から太平洋に抜けるルートを探索するというもので、探検隊の2隻の艦「レイスホース」と「カーカス」は北緯80度13分の地点で氷に阻まれて引き返さざるをえなくなったが、この時のセイウチや熊との戦いはその後も長く語り継がれることになった。特に有名なのは白熊との戦いである。ネルソンはとある晩に「父親のために白熊の毛皮を手に入れる」と決意して仲間1人とともに艦から氷原に降り立ち、獲物を見つけたはよいが銃が不発でしとめることが出来なかった。そこでネルソンは仲間がとめるのも聞かずに銃の台尻で熊を殴り倒そうとした、が、その瞬間にネルソンの無謀に気付いた母艦が空砲を撃ったために熊は逃げ出したという。

   インドへの航海   目次に戻る

 探検隊の帰国後、ネルソンはフリゲート艦「シーホース」に乗り組み、今度はインドへの航海に参加した。その頃インドの南部では「マイソール王国」がイギリスに歯向かっており、ネルソンも75年9月19日にマイソール軍との戦闘に参加、これが生まれて初めて経験した実戦となった。ところが同年12月にはネルソンは風土病(マラリア)におかされてしまい、本国への送還が決まった時には衰弱しきって腕もあがらない程となった。しかし彼は帰国途中の艦上で輝く球体の幻覚を見て、以下のような回心を体験した(本人談)。「とつぜん、国を愛する気持ちがわたしの中で輝く炎となって燃え上がった。そして、国王陛下が、国が、わたしの庇護者なのだと教えてくれた。“それなら”とわたしは叫んだ。“ぼくは英雄になるんだ、神のみはからいを信じて、どんな危険にも立ち向かうのだ”と」。

 その後、戦列艦「ウスター」での勤務を経て1777年4月9日には昇任試験を受験・合格、晴れて海尉となった。この時の試験委員会を統括していたのは伯父のサクリング……当時彼は海軍検査官という海軍の技術・財政の全ての局面に責任を持つ重職についていた……であったが、彼は甥の合格が決まるまで自分が身内であることを伏せていた。「この子(ネルソン)をひいきしてもらいたくなかったものでね。むずかしい試験でも通るだろうという確信があったのです。で、皆さん、その通りだったでしょう」。サクリングはネルソンが海軍入りを言い出した時には「よりによってあの弱虫が荒海の生活に」とか「自活のためだって? 初陣のときに砲弾で頭がふっとびでもしたら、問題はただちに解決といったところだね」とか言っていたのだが、やがて甥の実力を見抜き、北極探検やインドからの帰国後の勤務艦について色々と手を打ってくれていた。そんな訳で、ネルソンは今度はフリゲート艦「ローストフト」への乗り組みを命じられた。(イギリス海軍の規定では昇任試験は20歳以上でないと受験出来なかったが、ネルソンは18歳で受験している。こういう年齢詐称はごくありきたりであった)

   アメリカ独立戦争   目次に戻る

 ネルソンが海尉となった1777年といえば、北米のイギリス植民地で「アメリカ独立戦争」が始まった翌々年である。「ローストフト」はカリブ海に派遣されてこの地のイギリスの通商路を荒らすアメリカの私掠船(政府から免許状を貰って破壊活動を行う民間の武装船)取り締まりに従事し、ネルソンは「ローストフト」の補助艦のスクーナーを任されたりした。この「ローストフト」での勤務中に伯父のサクリングが亡くなったが、かわりに「ローストフト」艦長のウィリアム・ロッカーがネルソンのことを気に入ってその後ろ盾となり、そのロッカーが病気の治療で本国に帰る時には彼の推薦でジャマイカ鎮守府司令長官ピーター・パーカー提督の旗艦「ブリストル」へと転属させてもらった。ネルソンはパーカーにも(その夫人のマーガレットにも)気に入られ、「ブリストル」で半年勤めただけで(上官の昇進や死が重なったこともあって)同艦の副長に任命された。ついでながらネルソンが抜けた後の「ローストフト」に入ったのはクスバート・コリングウッド海尉という人物で、彼は本稿のクライマックスとなる「トラファルガーの海戦」においてイギリス艦隊の副司令長官をつとめることになる。また、パーカー提督は同海戦でネルソンが戦死した後、84歳という高齢にもかかわらず葬儀委員長をつとめることになった。

 そして1778年12月8日、ネルソンは待望の艦長(海尉艦長)昇任を果たしてブリッグ艦「バジャー」の指揮権を与えられ、翌年6月には勅任艦長に昇進して28門搭載のフリゲート艦「ヒンチンブルック」に転属となった。この時ネルソンは20歳と9ヶ月である。この出世の早さ(勅任艦長は現在の階級では大佐に相当)は現在の感覚では異常に感じられるが当時(18世紀後半)としてはそれほど異例という訳でもなく、サクリングやパーカーといった有力者に将来を見込まれていたことも昇進に寄与したと考えられている。ちなみに、ネルソンが昇進して離れた後の「バジャー」にはコリングウッドが海尉艦長として乗り込んだ。

 ちょうどその頃はフランスとスペインがアメリカ側に立って参戦したばかりだったため、ネルソンは「ヒッチンブルック」を駆っての巡航任務で何隻かのスペイン船舶を拿捕することに成功した。敵国の船舶を拿捕すると賞金が貰えるのでうまくすればそれだけで巨万の富を築けたが、ネルソンはそういう商船相手の通商破壊のような実入りはいいが地味な仕事よりも正面切っての大海戦に参加することを強く望んだという。(拿捕した船舶とその積荷は海軍法廷を通じて売りに出され、その代金が賞金として支払われる。利益の取り分は、艦長が8分の3、士官が8分の2、士官候補生と准士官が8分の1、他の乗組員が8分の2である。艦長の取り分のうち8分の1はその艦の所属する艦隊もしくは母港の司令官に納められた)

   ニカラグア攻略   目次に戻る

 1780年はじめ、中米のスペイン植民地ニカラグアの攻略が計画され、ネルソンも指揮艦「ヒンチンブルック」と陸軍500名を率いてニカラグアのグラシアスアディオス岬へと遠征した。この岬で別の方面からやってくる陸軍部隊と合流し、周辺のインディオたちの協力を募ったうえでサンホアン川を遡って内陸のスペイン要塞を占領する計画である。しかし、この時のイギリス軍の敵は、スペイン軍よりも熱帯の風土病であった。イギリス軍は現地の地理については詳しく調べていたが、風土については研究が不足しており、しかも準備に手間取ったせいで、ネルソンがグラシアスアディオス岬に到着した時は季節的に極めて厳しい時期になっていた。とりあえずキャンプを張った場所は不健康極まりなく、やがて到着してきた陸軍部隊は既に病人だらけになっていた。近在のインディオ部族を贈り物で懐柔出来たのが不幸中の幸いであった。

 そして3月末、ネルソンたちはインディオの道案内に従ってサンホアン川の遡行に着手した。当初の計画では海軍側の任務は陸軍をグラシアスアディオス岬からサンホアン河口に運ぶことだけであったのだが、その陸軍部隊には川を遡るボートを操作出来る者がいなかったため、ネルソン自ら50名の水兵を率いて陸軍と行動を共にすることにしたのである。ネルソンはこういう時に引き下がれるような男ではなかった。サンホアン川は浅瀬になったかと思うと急流になり、その両側は密林で空気が澱んでいて、空からは灼熱の太陽が照りつけていた。

 苦難の遡行の末の4月9日、イギリス軍はサンバルトロメオという中洲に築かれたスペイン軍の前進基地に到達、これを攻撃した。ボートから浜に飛び降りたネルソンは泥濘に足を取られて靴を両方ともなくすという難儀ぶりであったが、そのまま裸足で遮二無二突進し、その日のうちに基地を占領した。2日後、イギリス軍はさらに16マイル内陸のサンホアン要塞に到着、包囲した。その時までは乾季だったため川が浅瀬だらけで遡行に難儀したが、目的地についたら雨期に変わって何もかもずぶ濡れである。

 サンホアン要塞は4月24日には白旗を掲げた。イギリス軍は各種の物資を補充(強奪)出来ると思ったが、要塞の中にはろくなものがなかった。砲を担当していたネルソンは包囲戦の最中に重病になり、ちょうどそこに「別のフリゲート艦(44門の大型艦)に転属せよ」という命令が届いたことから部隊を残して一足先に帰ることにした。彼はそれ以前からマラリアと壊血病に罹って体力が落ちており、さらに熱帯性スプルー(腸吸収不全症)をこじらせてしまったという。そんな訳で、転属命令を伝えにきた味方艦に便乗してイギリス領ジャマイカ島に帰着した時には足腰も立たなくなっており、転属命令も取り消しとなった。ネルソンがそれまで乗っていた「ヒンチンブルック」にはコリングウッドが着任した。この頃のコリングウッドの経歴はネルソンの跡を追っているかのようであった。(コリングウッドの方が8つ歳上であったが、出世は遅れていた)

 サンホアン要塞に残った友軍も、5ヶ月後には風土病に耐えられなくなって撤収した。総勢1800名のうち1400名以上が未帰還となった。それでも陸軍部隊の指揮官ポルソン大佐はネルソンの協力に深く感謝し、「かの軍人にどれだけ恩をこうむっているか、言葉には言い表せない。夜でも昼でも、任務につくのは彼が一番だった」とロンドンに報告している。

   ケベック   目次に戻る

 ニカラグアの任務で「完全に骸骨のように痩せこけた」ネルソンはイギリス本国に帰国させられたが、それでも病状はなかなか回復しなかった。ベッドに横になるのにも起きるのにも介助を必要とし、しかもその度に「死ぬほどの苦痛(本人談)」を味わったという。

 本国に戻って7ヶ月後、どうやら働けるようになったネルソンは28門搭載のフリゲート艦「アルベマール」の艦長に任命されたが、これはフランスから拿捕した商船を改造しただけというシロモノであった。それでもネルソン……まだ身体が本調子ではなかったが……は素直に喜び、北海の警備に従事してひと冬を過ごした。その頃イギリスはアメリカ独立軍に少しでも打撃を与えるため、アメリカと貿易している船舶は中立国のものであっても手入れするという方針でいたが、これに怒ったロシア、デンマーク、スウェーデン、プロイセン等の中立諸国は「武装中立同盟」を結成、これらとイギリスの間に位置する北海はかなりの緊張状態となっていた。そんな訳でこの頃のネルソンに与えられた任務にはデンマーク付近での行動も含まれており、そこで得た(デンマーク周辺海域に関する)知見が後々で役に立つことになる。しかし、「ひどくぐらぐらで」「いまのマストのままだと、海上にゆくのがとても危険な状態」であったフリゲート艦「アルベマール」は味方の輸送船に接触されて3ヶ月間のドック入りを余儀なくされたりした。その後の82年4月、今度はカナダ(イギリス植民地)のケベック行きを命ぜられる。

 ネルソンのかかりつけの医者はケベックなんかに行ったらまた健康が悪化しますよと忠告したが、実際に現地に行ってみれば案外に気候が良く、ネルソンの体調はすっかり回復した。これからしばらくの間は北米沖で船団の護送や通商破壊といった地味な任務につくことになる。退屈といえば退屈だが、この海域には敵国の船舶が多数行き来していたため、拿捕賞金をゲットする機会が多かった。

 7月14日、ボストン湾を哨戒していた「アルベマール」は敵性漁船「ハーモニー」を拿捕した。「アルベマール」にはその時たまたまボストン湾の地形(岩礁が多い)に詳しい乗組員がいなかったため、ネルソンは「ハーモニー」船長のナサニエル・カーヴァーに対し自分のために水先案内人として働くべきことを命令した。その1ヶ月後、ボストン湾の沖を航行していた「アルベマール」は敵の戦列艦4隻とフリゲート艦1隻に遭遇、追撃されるもカーヴァーの助言で湾口沿いの浅瀬に逃げ込んでうまく振り切った。ネルソンはカーヴァーの働きに感謝し、「ハーモニー」と一緒に釈放してやった。

 この前後、ネルソンはケベックの町でメアリ・シンプソンという娘に夢中になった。10月にニューヨーク行きの輸送船団の護衛を命じられたネルソンは、その任務を後回しにしてメアリと結婚しようとしたが、友人に反対されて諦めるという事件を起こした。その友人アレグザンダー・デイヴィソンはケベックの市会議員でそこそこ富裕な商人でもあり、後にネルソンの経済面での助言者となった。メアリの方はネルソンほどには熱をあげておらず、単なるお遊びだったようである。

   タークス島攻略   目次に戻る

 そんな訳で任務に戻り、予定通りニューヨークに行ったネルソンは、そこでたまたまカリブ海に向かおうとしていたサミュエル・フッド提督の艦隊に行き会い、これに同行させてもらうことにした。その頃のカリブ海には強力なフランス艦隊がいたことから大規模な海戦が発生する可能性が高く、ケベックでの仕事よりも魅力的に思えたからである。地味だが実入りのいい任務よりも決戦を望んだネルソンの態度はフッド提督……ネルソンの伯父の故モーリス・サクリングの知り合いだった……の興味をひきつけ、彼の紹介でイギリス国王ジョージ3世の三男ウィリアム・ヘンリ王子の知遇を得ることが出来た。王子は去る79年から海軍に勤務しており、ずっと後に「ウィリアム4世」として即位することになる。王子のネルソンに対する第一印象はさほど良いものではなかったが、すぐに打ち解けて親友となった。「この人物(ネルソン)の物腰、話しぶりは人の気をそらさぬ、実に愉快なものだった。とくに話が海軍や船のことに及ぶと、熱をこめて話すこと話すこと、並の人間でないことはすぐに分かった」。それにフッド提督も、ネルソンの強力な庇護者となった。

 しかし、カリブ海では肝心のフランス艦隊はフッド艦隊との決戦を避けて巧妙に逃げ回り、ネルソンが望んだような大海戦は生起しなかった。とはいってもフランス艦隊も何もしなかった訳ではなく、83年2月にはハバマ諸島南端のイギリス植民地タークス島を小部隊で攻撃、占領した。このニュースを聞いたネルソンは同僚のフリゲート艦「レジスタンス」と小型艦2隻を連れてタークス島奪回に向かうことにした。ネルソンはこの小部隊の中で最先任(最古参の士官)だったため、これが海軍入り以来初めて独自に指揮をとる作戦となった。ネルソンの小部隊は3月8日にタークス島の沖に到着、信号旗で降伏勧告を送って拒絶されるや160名の兵員に上陸を命じ、小型艦に援護射撃を行わせた。しかし敵は充分の防備を整えており、盛んに大砲を撃って反撃してきた。ネルソンは事前に相手の戦力を確かめておくという当たり前のことをしていなかった。そんな訳で、思いのほかに激しい反撃に驚いたネルソンはしばしの戦闘の末に撤収命令を出さざるを得なくなり、それでこの作戦は終了となった。この作戦に参加したジェイムズ・トレヴェナン海尉曰く「まったくばかげた遠征だった。若造が自分の名が新聞にのるのを見たいばかりに行ったもので、最初から何をどうするのかあやふやで、後になっても作戦もなしにだらだらと続けられた……」。

 そして、同年9月の「パリ条約」締結(アメリカ独立戦争の終結)に伴って「アルベマール」は解役となり、ネルソン自身も予備役にまわされることとなった。ポンコツの「アルベマール」から離れたことについて、ネルソンは「厄介払い」とコメントしているが、乗組員一同はネルソンによく懐いており、ネルソンは彼らが相応の報酬を手にすることが出来るよう骨を折ってやった。それから、ネルソンはこの年の7月にフッド提督の導きでイギリス国王ジョージ3世に拝謁することが出来た。

 その点についてはよかったとしても、予備役の給料は現役の半額にすぎない。ネルソンはしばらくの間は生活費の安いフランスで過ごすことにした(フランス語を身につけたいとも思った)が、そこで出会ったイギリス人の牧師の娘エリザベス・アンドルーズに恋をしてしまい、真剣に結婚を考えた。しかし、エリザベスが結構金持ちで年間1000ポンドもの収入があったのに対してネルソンの年収は130ポンドしかなく、これでは辛すぎるので母方の叔父ウィリアム・サクリングに年100ポンドの援助を頼むことにした。

 それにしても、ネルソンという人物はこれ以降も何度もロマンスに出会っているため、彼に対する後世の評価には「女性に対して情熱的」というのがあるのだが、実際には彼は海軍の男だけの世界にいる時が精神的に最も安定していたという。同輩にも上官にも後輩にも「ネルソンのためなら」と思わせるところがあり、一説には同性愛の素質があったとすらいわれている。

 まぁそれはともかくとして、ウィリアム叔父さんは甥の結婚のために一肌脱いでやるつもりになったのだが、結局この話はうまく行かなかった。どうやら彼女に断られてしまったようである。ただし彼女の弟がその後ネルソンの下で候補生・海尉として働いたりしているため、特に関係がこじれることはなかったようであるが……、でネルソンは、最初はフランスで最低でも半年は暮らすつもりでいたのだが、実際には2ヶ月いただけでイギリスに舞い戻った。(彼女にふられたのに加えて)フランス人の流儀も習慣も物の考え方も好きになれなかったからである。ネルソンはもとからフランス人に好感を持っておらず………というより憎悪に近い感情を抱いていたらしい……本人にいわせればそれは母親譲りであったという。

   密貿易闘争   目次に戻る

 84年3月、ネルソンは海軍本部に願い出て現役に復帰し、28門搭載のフリゲート艦「ボーリアス」の艦長に任命された。前年の末に成立したピット内閣が平時にもかかわらず海軍の定員を引き上げるという英断を行ったことに助けられたのである。当時のイギリス財政はアメリカ独立戦争の敗北によって破綻しかけていたが、ピットは「私とて、現下の国家財政を憂うるにおいて人後に落ちぬつもりだ。だからこそ海軍を増強するのである。国家の安全保障が担保されなければ、経済政策を推進すべき平和を持続できないからだ」と唱えた。ネルソンはこのような政界の動きに加え、フッド提督の縁故を利用して「ボーリアス」を手に入れたのではないかとも考えられている。フッドはこの少し前に国会議員に選出されて政界に入っており、その際の選挙戦をネルソンが手伝っていたからである(フッドはその後政界と海軍を掛け持ちした)。

 ネルソンはインド赴任を希望したが、カリブ海のリーワード諸島方面艦隊司令長官リチャード・ヒューズ提督の下につけとの指示が来た。

 ネルソンは任地に赴くに際して「ボーリアス」にヒューズの夫人(と子供たち)を便乗させたが、彼女にいたく気に入られたという。それと、ネルソンの長兄のウィリアムが艦付き牧師として乗組んできたのだが、荒くれ水兵相手の仕事がきつかったのか弟の部下という立場が楽しくなかったのか、彼が軍艦に乗ったのはこれ1回きりとなった。ちなみにウィリアムはケンブリッジ大学の出身で父の仕事(牧師)を受け継ぎ、大した才能はなかったようだが後に大出世する弟の七光り(?)でカンタベリー主教座聖堂名誉参事会員職やオクスフォード大学の名誉博士号を手に入れることになる。

 話を戻して……、カリブ海でのネルソンは、任務に真面目すぎた。カリブ海のイギリス領の島々はアメリカ合衆国との密貿易を行っており、そのことは(イギリス領の島々の)総督たちにも黙認されていたのだが、ネルソンはコリングウッド……この時はフリゲート艦「ミーディエイター」を指揮していた……等と共にアメリカ商船の拿捕に乗り出し、そのあまりに融通の効かないやり方のせいでアメリカ商人のみならずイギリス側の総督や有力者たちをも怒らせてしまったのである。ネルソンの上官のヒューズ提督は基本的に温情な性格だったので密貿易を見逃す方針でいたが、かといってそれは法的に問題だというネルソンの主張ももっともなため、板挟みになったあげくに傍観を決め込むことにした。しかしネルソンはこの件に関しては提督の命令に従うことを拒否するとか言い立てたため、ヒューズは内心では相当に激怒した。

 この闘争の前後、ネルソンはまたロマンスに邂逅した。まず84年、アンティグア島の弁務官の若妻メアリ・マウトレイに夢中になるが、相手に適当に距離を置かれたために親密にはなれなかった(ただし2人はその後も友情を保ち、死ぬまで文通を続けた)。ちなみにメアリの旦那のマウトレイ弁務官は海軍士官ではあったが予備役で、アンティグア島ではあくまで民間の弁務官として仕事をしていたのだが、ヒューズ提督はネルソンに対しマウトレイの指示に従えと命令した。ところが、ネルソンはヒューズにはそんな命令を出す権限はないとか言い出し、結局その論を押し通してしまった。にも関わらず、その後のネルソンはメアリのみならずマウトレイ弁務官とも仲良くなったというのだからけったいな話である。また、メアリに対してはコリングウッドも恋慕していたがこちらも適当にあしらわれ、ネルソンとコリングウッドは同じ落胆を経験した仲間としてますます親密になったという。

   結婚   目次に戻る

 その翌年、今度はネヴィス島でフランシス・ニズベットというそこそこ富裕な子連れの未亡人(といってもネルソンより若い)に出会った。ネルソンはたちまち彼女……通称ファニー……に夢中になり、以下に引用するようなラブレターを書いたりした。「あなたに手紙を書くのは、あなたから手紙をもらうことについで人生最大の喜びです。きっとあなたの胸の中の純なお気持ちだろうなと確信しながらお手紙を読むときにわたしが経験するものは、わたしのこの拙い筆では言い表すことができませんが、この種の気持ちを表現することのできる筆なり頭なりがほしいとは大して思いません。そんなことがまんがいち可能になったって大して意味がありません。わが胸はあなたを恋い焦がれ、あなたとともにあります。わたしの頭の中にはあなたしかいません。あなたから離れると、わたしには何の喜びもありません。最愛のファニー、あなたこそがわたしのすべてなのです。あなたがいないと、この世なんぞどうにでもなれです。それというのも、近頃は腹の立つことや厄介ごとしか起きないものですから」。「厄介ごと」というのはつまり密貿易闘争のことだが、ファニーの伯父のジョン・ハーバートはちょっとした資産家でネヴィス島の評議会の議長をつとめ、ネルソンの密貿易闘争に惜しみない賛辞を贈ってくれていた。そのせいかどうか、ネヴィス島のイギリス人女性の間ではネルソンという若い未婚の艦長についてかなり話題になっていたという。

 ここでファニーの経歴について簡単に触れておくと、彼女は1761年にネヴィス島の上級裁判官の娘として生まれて18歳の時にジョサイア・ニズベットという医師と結婚、本国に移り住み、やがて男児を出産した。その子には夫と同じ「ジョサイア」という名をつけた。ところが夫は81年に亡くなってしまったため、ファニーは子供を連れて故郷のネヴィス島に帰り、伯父のジョン・ハーバートの家に世話になっていた。

 そしてネルソンとファニーは2年間の交際を経た87年3月11日をもって結婚を果たした。式にはウィリアム・ヘンリ王子が立ち会ってくれた。仕事の方では、イギリス領の島を測量しようとしていたフランスのフリゲート艦を発見し、うまいこと邪魔をして追い払うという手柄を立てた。

 密貿易の件については、(ネルソンは)一時は商人たちに訴えられて逮捕されかけたが、本国政府と国王に送った陳情書が採用されることになり、闘争はネルソン側の勝利に終わった。ただ、その件に関して本国から贈られてきた感謝状がヒューズ宛になっていた(手柄を上司にとられた)のにはネルソンも気分を害さざるを得なかった。

   不遇時代   目次に戻る

 続いてネルソンは政府機関の御用商人たちが不正を働いているのに目を付け、これを正そうとした。しかし商人たちは巧みに言い逃れ、それどころかネルソンへの中傷をバラまいてその名誉を傷つけようとした。この手の厄介な話はまともな海軍士官なら適当に放置して近寄らないものなのだが、ネルソンは何でもかんでも後先構わず飛び込んでいっては足元を絡めとられるのであった。しかも、ネルソンは商人の不正に対しては厳しかったが、友人のウィリアム・ヘンリ王子……その頃カリブ海でフリゲート艦「ペガサス」の艦長をつとめていた……が問題行動を起こした時にはそれを黙認するというダブルスタンダードな態度をみせ、そのことで国王や海軍本部の不興を買ってしまった。(ネルソン的にはこの件は王子が一方的に中傷されただけだと思った。詳しい事情は筆者もよく知らない)

 87年6月、ネルソンは人事異動で「ボーリアス」ともどもイギリス本国に帰国となった。その頃フランスがオランダを狙っており、これを警戒したイギリスは有事に備えて93隻もの戦列艦を就役させていた。フランスはオランダ本国のみならずその植民地まで狙っており、これはイギリスの通商を脅かしかねない大問題であった。そんな中にあって「ボーリアス」は兵員の強制徴募を担当することとなった。ネルソンはこの仕事について特に嫌悪感のようなものは示さなかったらしい(少なくとも書簡類からはそういう感情は読み取れないという)が、商船や漁船から拉致されてきてそのまま「ボーリアス」の乗組員になった強制徴兵たちの間には反抗的な態度や脱走未遂が頻発した。この時期のネルソンは「ボーリアス」の乗組員の半数を鞭打ち刑に処しているが、彼が部下に対してここまで厳しかったのはこの時期だけである。

 そして同年11月、フランスとの緊張は外交努力によって緩和された。その結果「ボーリアス」は港に繋がれ、ネルソンはまたしても予備役編入となってしまった。その後、モロッコ沿岸に巣食う海賊を討伐するという計画が立ち上がり、ネルソンもこれに参加を希望したが、お流れになった。ネルソンはしばらくロンドンで過ごした後、ノーフォーク州の実家に帰ってそちらで現役復帰を待つことにした。予備役の半額給では経済的に苦しい(単に生活するだけならともかく、勅任艦長という社会的地位に相応しい暮らしを送るのが困難)からである。しかし、前回の予備役編入の時と同じように今回もフランスに行くつもりで、その前に挨拶のつもりで実家に行ったのが、父親に引き止められたのだという説もある。

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