ネルソン提督伝 第2部 地中海

   フランス大革命   目次に戻る

 1789年7月14日、フランスにて大革命が勃発した。議会政治の伝統を持つイギリスは当初は革命フランスの誕生を好意をもって眺めており、92年のはじめ頃にはフランス情勢もかなり落ち着いてきたように思われた。ピット首相は議会で「現下のヨーロッパ情勢はかつてなく平穏で、今後16年間は平和が続くと思われる」と演説し、陸海軍予算を大幅に削減した。フランスでは91年に憲法が制定されたが、これはかなり保守的なもので、立憲君主制や財産資格に基づく制限選挙といったこと(イギリスに近い政体)が定められていた。

 ネルソンの方は郷里で父のエドマンドや妻のファニー等と共に畑仕事や鳥打ちウサギ狩りや読書に興じつつも、以前カリブ海でネルソンに煮え湯を飲まされたアメリカ商人に告訴されかけたり、海軍本部に数度に渡って復職願いを出したりしていた。しかし、ウィリアム・ヘンリ王子の口添えにもかかわらずネルソンの願いは無視され続けた。フッド提督に助力を頼んでも厳しい答えしか帰ってこず、一時は退役(軍隊を完全に辞める)も考える程となった。これはネルソンがウィリアム・ヘンリ王子の件で海軍本部の不興を買っていたのに加えて、この時期のイギリス海軍ではネルソンよりもたくさん手柄を立てていた艦長たちの少なからぬ部分も予備役にまわされていたという事情もあった。実はネルソンはこの時点では陸地に対する艦砲射撃や商船拿捕、陸戦といったことは経験していたが、海戦は(やりたいやりたいと思いつつも)やったことがなかったため、こういう時期に冷や飯を喰わされてしまうのは無理からぬ話であった。(ウィリアム・ヘンリ王子は90年に少将に昇進し、その後は海上で勤務することはなくなったが、ネルソンとは定期的に手紙のやりとりを続けた。ネルソンが亡くなった時には「気の毒なネルソンに対して、わたしの感じた、そして今も感じている気持ちは、もっとも親しい肉親が亡くなったときだけに感じることができるものだ」と語った)

 妻のファニーはカリブの温暖な気候に馴染んでいたのでノーフォーク州の寒い冬はなかなか大変で、おまけにネルソンの子供を産むことが出来なかった。ネルソンは子供好きだった……そもそもファニーと交際するようになったのは彼女の連れ子のジョサイアと仲良くなったからでもある……ので、これは実にショックだったようである。

   革命戦争の勃発   目次に戻る

 楽観的なイギリス政府とは違って、フランス国王のルイ16世は革命の行く末に強い不安を抱いていた。彼は91年6月に王妃マリー・アントワネットの実家のオーストリアに亡命をはかって途中で捕まるという「ヴァレンヌ事件」を起こし、そのせいで、それまでかなり素朴に国王を信頼していたフランス世論を一挙に反国王へと押しやった。この情勢をみたオーストリアは同年9月、プロイセンと共に「ピルニッツ宣言」を発し、ルイ16世を守るためにフランスに対する武力制裁をちらつかせた。そして92年4月20日、フランスの方からオーストリアへと宣戦を布告した。「フランス革命戦争」の勃発である。少し遅れてプロイセンがフランスへと宣戦した。オーストリアもプロイセンも絶対王政であったから、革命の火の粉が飛び散ってくるような事態は絶対に阻止せねばならなかった。

 フランス軍は当初は苦戦の連続であったが9月には劇的に優勢に転じた。これに興奮したフランスの国内世論はどんどん過激化していき、93年1月にはルイ16世をギロチンで処刑してしまった。イギリスのピット首相はこのニュースを聞いてもさして動揺しなかったといわれているが、民間では既に90年頃から反フランスの世論が醸成されつつあった。当時のイギリスでは産業革命の進行によって商工業者や中産階級が勃興しており、彼らはヨーロッパの秩序を破壊する革命騒ぎを激しく嫌悪していた。

 勢いに乗るフランス軍はオランダへと攻めかかろうとした。オランダはイギリスの至近の対岸であり、ここがフランスのような大国に併呑されるような事態はイギリスの安全保障にとって致命的である。ピット首相もここにきて平和政策を放棄し、フランスとの戦いを決意した。

   「アガメムノン」   目次に戻る

 1793年2月1日、英仏両国は戦争状態に突入した。イギリスは同月13日にオーストリア、プロイセン、オランダ、それからスペイン、サルディニアと同盟した。「第1回対仏大同盟」の結成である。

 戦争の序盤は、まずフランス側の私掠船が暴れ回り、イギリスの商船を片端から拿捕した。イギリス海軍はここ数年のピットの平和政策のせいで縮小しすぎていたことから初動が遅れたが、同年8月にはスペイン艦隊と協力して南フランスのツーロン港(地中海に面する南フランスの要港)を制圧した。正確に言えば、当時のフランスはその全国民が革命の旗のもとに結束していた訳ではなく、南フランスの各地では反革命を掲げる反乱が複数発生していたのだが、そのうちのツーロンの反乱軍がイギリス艦隊を迎え入れたのであった。このような情況のため、フランス海軍はこの後しばくのあいだ地中海ではほとんど活動出来なくなった。

 英仏開戦の2日前、ネルソンのもとに海軍本部からの以下の通達が到着した。……64門搭載の戦列艦「アガメムノン」に着任せよ……。ネルソンが戦列艦を任されるのは今回が最初である。実はネルソンが期待したのは新型の74門艦であって、64門しかない「アガメムノン」には少々がっかりしたが、やがてこの通称「Eggs and Bacon」を気に入った。「アガメムノン」は大砲が少ない分だけ軽くてスピードが出たのである。ネルソンは後に乗艦変更の申し出があった時にもあっさり断ったという。「アガメムノン」には妻の連れ子ジョサイアも士官候補生として乗り組むことになり、「地中海艦隊司令長官」に就任したフッド提督の指揮下に入ってツーロンへと派遣されることになった。ネルソンが今回「アガメムノン」を任されたのもフッドの骨折りであった。

 「アガメムノン」の乗組員には強制徴募兵もいたが、大半はノーフォーク州の同郷の男たちにネルソン自ら声をかけて集めたという。ネルソンはこの頃のイギリス海軍の中でも日々の訓練に特に厳しい艦長であったが、部下たちが期待に応えてくれた時には賞賛の言葉を惜しまなかった。責任は自分がかぶり、手柄は皆で分け合うという方針である。ネルソンという人物は何か手柄を立てるとそのことでやたらと得意げになってしまう(場合によっては同僚の気分を害することもあった)性格ではあったが、それが部下たちの働きによって支えられているということをしっかりと理解していた。水兵たちの衣食住に出来るだけ気を配り、自分が牧師の息子として生まれたせいか、どんな無学文盲な兵にも聖書を持たせた。実家で燻っている間に下層の人々と深く交わり、彼らの生活や考え方を知ったのが役立ったともいわれている。

 また、この時に「アガメムノン」に乗組んだ人員の中には、後にネルソンが乗艦を変えてからもずっとネルソンに付き従って艦から艦を渡り歩くことになる人々もいた(当時の艦長は艦を変える際にお気に入りの人員を連れて行くことが出来た)。たとえば、長年に渡ってネルソン付きの召使いをつとめることになるトム・アレンという人物が知られている。彼は無学文盲であったが全く物怖じしない性格で、自分が正しいと思えば相手がネルソンであっても厳しく叱りつけたりした。たとえば、ある日の夕食の際に飲み過ぎたネルソンに向かって「それ以上ワインを飲んだら病気になりますよ」と忠告したが、ネルソンは大人しく「まったく君のいうとおりだな、トム。言ってくれてありがとう」と応えて寝床についたという(トムは1802年に海軍を引退するが、その前後にネルソンと仲違いしたらしい)。ちなみに「アガメムノン」はネルソンが死んだ後の1809年に南米のラプラタ河口で難破してしまうのだが、最近になってその残骸が発見されている。

   エマとの出会い   目次に戻る

 話を戻して……、ツーロンの反革命軍がイギリス艦隊を迎え入れた際、イギリス側では陸兵が不足していたため、ネルソンが使者となって南イタリアのナポリ王国に援軍を頼みに行くことになった。ナポリの国王フェルディナント4世は故ルイ16世の遠い親戚(分家の分家)であり、王妃マリア・カロリーナはルイ16世の妃の妹であった。ネルソンの仕事は駐ナポリ英国大使ウィリアム・ハミルトンの尽力のおかげもあって成功し、ナポリ国王は6000名の援軍派遣を約束してくれたが、それよりもネルソンのその後の人生にとって大きい意味を持ったのは、大使の妻のエミリイ・ハミルトンと知り合ったことである。

 エミリイ……通称エマ……は最下層階級の生まれでウィリアムより30歳以上も若く、本来はウィリアムの甥に囲われていたが、その甥の借金と引き換えにウィリアムに譲られたという美貌の女性であった。ネルソンは本国の妻への私信にエマのことを書き添え、「かわいい物腰の若い婦人で、もとは卑賤の身ながら、現在の高い地位にふさわしくふるまっている」と褒め讃えた。しかし、フランスのフリゲート艦がイタリア近海に現れたと聞いたネルソンはナポリ滞在を4日で切り上げて出帆したため、この時点ではエマとの親交を深める余裕はなかった。それよりこの時は、エマよりもその旦那のウィリアムの方がネルソンに注目し、「この男(ネルソン)はいつの日かきっと、世界をあっと言わせるようになるだろう」と論評したといわれている。

 問題のフランス艦は中立国の水域に隠れてしまったため、ネルソンはそれを放置して10月5日にツーロンに戻ってきた。その時には既にナポリ軍が(ツーロンに)到着していたのだが、そのツーロンはフランス軍の大規模な包囲攻撃を受けつつあった。もちろんツーロン港には強力なイギリス艦隊が居座っているので海まで含めて完全に包囲されてしまうことはないのだが、12月頃のツーロンにいたイギリス、スペイン、ナポリその他の諸国軍1万2000名(とイギリス・スペイン艦隊)に対し、その周囲に展開するフランス軍の戦力は4万5000名にも達していた。イギリスその他軍は寄り合い所帯で統制が甘く、それでいながらイギリス本国のピット首相は対仏大同盟の力を過大に、革命フランスの力を過小に見積もっていた。

 戦争が始まった時点ではフランスの総戦力は27万、対仏大同盟のそれは35万であったのだが、フランス政府は同年2月24日に「30万人動員令」を、8月には「国家総動員法」を制定し、この年の間に100万もの大兵力を揃えるに至っていた。まぁしかし、動員のために無理をやりすぎたせいでツーロン等で反乱が起こってしまったという訳なのだが、それにしてもこれは史上空前の規模であり、フランス軍は数の力にものを言わせて各地で大攻勢に出ることになる。(94年初頭頃の対仏同盟軍の兵力は43万)

   サルディニア沖の海戦   目次に戻る

 ネルソンは今度はリンジー戦隊司令官の指揮下に入り、北アフリカのチュニジアに隠れているフランス艦船を叩きに行けという命令を受けた。当時のチュニジアは「フサイン朝」というイスラム王朝によって支配されており、英仏の戦争に対しては中立ということになっていた。

 ネルソンの「アガメムノン」はとりあえずその時サルディニア島にいたリンジー戦隊に合流すべく出立したが、その途中の10月22日、フランスのフリゲート艦4隻と遭遇し、そのうち最後尾にいた「メルポメーヌ」へと襲いかかった。しかし「アガメムノン」は戦列艦としては快速であったがフリゲート艦には及ばない。「メルポメーヌ」は高速で逃げつつも間隔をおいて艦首を振り、「アガメムノン」に舷側を見せてそこから片舷斉射を加えてきた。当時の軍艦の大砲はその大半が左右の舷側から海に向かって突き出しており、どちらかの舷側の大砲を全て敵に向けて一斉に射撃することを「片舷斉射」と呼ぶのだが、「アガメムノン」がそれをやろうとしても、艦首を振れば速度が落ちて「メルポメーヌ」に遠くに逃げられ、「メルポメーヌ」はある程度の距離を稼いだとみるやまた艦首を振って片舷斉射を加えてくる。そのうちに他の敵艦が反転して「メルポメーヌ」を助けにきたため、索具をズタズタにされた「アガメムノン」は攻撃を諦めざるを得なくなった。まぁそれでも「アガメムノン」は艦首部の砲を用いて「メルポメーヌ」にかなりの被害を与えてはいたし、他のフランス艦も積極的に攻撃を仕掛けてこようとはしなかった。ともあれこの時の戦いはネルソンが海軍に入って以来初めて経験した海戦であった。

 「アガメムノン」は本来の任務に戻り、サルディニア島のカリアリでリンジー戦隊と合流してチュニジアへと向かった。チュニジア首都チュニスの港内にはフランスの戦列艦1隻と商船が停泊しており(先刻のフリゲート艦もここから出てきたものだった)、リンジーはチュニジア政府に対して港内に対する攻撃の許可を求めたが、拒絶されて手の打ちようがなくなった。イギリス側の責任者がリンジーでなくネルソンだったなら強引に港内に突っ込み、フランス商船の積荷の一部をチュニジア政府にくれてやるという形で問題を解決したであろうといわれているが、リンジーはそこまで思い切った行動は出来なかった。チュニジア政府は、フランスでは国王が処刑されたのだ(そんな過激な国の艦船を匿うのはやめた方がいい)とか聞かされても「おぞましきことここに極まれりですな。とはいえ、歴史家の言うことが嘘でなければ、イギリスでも昔おなじことがあったようですね」と返答した。これはつまり清教徒革命のことである。

 その後、ネルソンはリンジーの指揮下から外され、フランス領コルシカ島の封鎖に参加せよとの命令を受け取ったのだが、そのうちにフランス軍がツーロンを攻め落としたというニュースが飛び込んできた。その時の戦いでフランス軍の砲兵隊長として目覚ましい活躍を示したのが後の皇帝ナポレオン・ボナパルトである。彼の噂を聞いたネルソンは、「いまにフランスを背負って立ち、イギリスの手強い敵となるであろう。おれもイギリスを防衛するために、この男と戦う日が必ず来るであろう」と語ったというが、どうにも嘘くさい。

 それはともかく、ツーロンから追い払われたイギリス地中海艦隊はコルシカ島に新しい拠点を設定することにした。コルシカは1769年に北イタリアのジェノヴァ共和国からフランスに売却されたという島で、島民のかなりの部分はフランスの支配を嫌っており、イギリス軍が来てくれるなら歓迎するという意向を示していた。(ナポレオンもコルシカ出身であり、無名時代には反フランス的であったが、やがて考えを変え、フランス共和国の軍人として生きる決意を固めるようになっていた)

   バスティア攻略   目次に戻る   

 そんな訳で94年2月、地中海艦隊はまずコルシカ島北部のサンフィレンツィオ湾に戦列艦3隻とフリゲート艦2隻を派遣、その援護のもとに陸軍部隊を上陸させ、湾の占領に成功した。湾内にいたフランスのフリゲート艦2隻を拿捕という戦果があがった。フッド提督とネルソンはこの勢いに乗って速やかに島の北東部のバスティア要塞を攻略しようと考えたが、陸軍部隊の指揮官ダンダス将軍は増援を呼んでから攻撃するのが望ましいと主張した。彼の手持ちの兵力は1400名しかいなかったのに、バスティアには堅固な城塞に加えてフランス兵が3000名もいたからである。そこで海軍側は各艦から兵員を出し合い、これにツーロン撤収の時に(ダンダス将軍の部隊とは別に)便乗させていた陸軍兵士(名簿の上では各艦の海兵隊員ということになっていた)を加えて自前のバスティア攻略軍を編成、ナポリから資材を借りて攻略にとりかかった。総勢1433名、指揮官はネルソンである。実のところバスティアのフランス守備隊は反フランス的な地元民の冷たい目にさらされていたうえに、ここ何ヶ月も本国との連絡が途絶していて志気が落ちており、それほど手強い敵ではなかった。

 ネルソンはバスティア要塞の周囲の丘陵に大砲……「アガメムノン」から取り外した大砲とナポリに借りた大砲それぞれ8門……を並べて撃ちまくり、海上からは艦隊が絶え間なく艦砲射撃を行った。フランス側の反撃もそれなりのものであったらしく、ネルソンも4月12日頃に背中を負傷している。これが今のところ記録で確認出来るネルソンの最初の負傷だったようである。

 しかし海陸からの砲撃は約1ヶ月に渡って続き、守備隊の志気はますます低下した。その間にサンフィレンツィオ湾に留まっていた(イギリスの)陸軍部隊の指揮官がダンダス将軍からドーバント将軍に変わり、後者がバスティアへと部隊を進めてくると、もはや進退窮まったと判断した守備隊は降伏を申し出た。ただ、ネルソンは今回のバスティア占領は自分の功績だと思ったのだが、少し後にフッド提督が書いた「バスティア占領公式報告書」にはネルソンの名前はそれほど大きくは載っていなかった。これは、少し前に艦を失ったハントという艦長(バスティア攻略にも参加していた)に手柄を分け与えてやるための配慮であり、ネルソンも事前に了解していたのだが、それにしても自分の名前が小さすぎると思ったネルソンは妻に宛てた私信に「それ(バスティア攻略作戦)を動かしたのはわたしだ。成功した原因はわたしにある」とか書き立てた。ネルソンはかなり虚栄心の強い性格であって常に栄光と名誉を追い求め、それが得られないとなるやすぐに機嫌を損ねた。まぁしかし、ネルソンはもともとフッド提督のことを「間違いなくわたしの見た最高の海軍軍人」と讃えていたし、個人的にも恩義があったので、2人の関係にヒビが入るようなことにはならなかったが。ともあれバスティアの占領により、コルシカにおけるフランス軍の拠点は北西部の港町カルヴィーの要塞だけとなった。

   カルヴィー攻略   目次に戻る

 カルヴィー攻略は即座に決定され、今度は陸軍も最初から全面的に協力してくれることになった。今回も海軍側の現場指揮はネルソンがとり、まずカルヴィー要塞から3マイル半離れた入り江に大砲26門と物資を揚陸、それを要塞の近くまで人力で運んで砲台をしつらえた。だが、そこから先がなかなか進展しない。カルヴィー要塞はバスティアより堅固で、港はイギリス艦隊によって封鎖されていたが、たまにフランスの小型艦が封鎖を破って要塞に物資を届けにきた。しかも季節は夏真っ盛りであった。コルシカの炎天……地元の言葉で表現すれば「獅子太陽」……はイギリス兵の健康を損ない、熱射病やマラリア、赤痢が流行した。

 7月12日、フランス軍の放った砲弾がネルソンのいた砲台の欄干に命中し、飛び散った破片や砂礫が彼の顔や胸へと降りそそいだ。ネルソンは妻への手紙に「男前が損なわれるほどの疵じゃない」と記したが、実はかなりの重傷で頬と額が傷だらけになり、特に右目の視力がほとんど失われてしまった。しかし完全に失明した訳ではなく、なんとか明暗の区別はついたとか、物の遠近はわかったとか諸説ある。直接の原因は網膜剥離もしくは内出血であったと考えられている。眉毛の一部が無くなった以外には傷痕は残らず完治し、失明しているというのも外見からは分からなかった。ネルソンを描いた肖像画や漫画の類には眼帯をつけているものがあるが、それはフィクションであり、実際には本人はそのようなものは使わなかった。

 話を戻して、イギリス軍は7月19日にはカルヴィー要塞の外郭陣地を占領した。要塞のフランス軍は25日間の休戦を申し出、その間に救援部隊が到着しなければ必ず降伏すると約束した。そして結局救援は到着せず、カルヴィー要塞は8月10日をもって降伏した。こうしてコルシカ全島はイギリスの手に落ちた。イギリス本国政府はギルバート・エリオットをコルシカ総督に任命した。エリオットは以前(フランス軍に奪回される前に)ツーロンの行政長官だったことがある。

 その一方でその頃、ツーロンのフランス軍がかなり大規模な艦隊を編成しつつあった。というのは……、昨年8月にイギリスその他軍がツーロン港を制圧した時、そこにはフランス海軍の総戦力の半分に相当する戦列艦31隻、フリゲート艦25隻等が繋留されていた。12月になってイギリスその他艦隊が撤収する時、それらがフランス軍の手に戻らないように破壊していこうとしたのだが、時間がなくて半分ぐらいを放置せざるを得なくなってしまった。そして、ツーロンに入ってきたフランス軍はそれらの艦艇を再艤装し、新規の艦隊に仕立て上げたのである。といっても、イギリス艦隊はツーロンから撤収した後も監視は怠らなかったし、詳しくは後で述べるが英仏両国の艦隊には練度に違いがありすぎたため、ツーロンの新生フランス艦隊はコルシカを助けたいと思っても助けられなかったのである。(6月に1度出撃したが、イギリス艦隊に察知されたと知って引き返した。イギリス艦隊はこれを追撃しようとしたが、風向きの関係で出来なかった)

 それはともかく、ネルソンと「アガメムノン」はカルヴィー占領後に1ヶ月の休養を与えられ、乗組員の健康回復につとめた。同年11月にはネルソンの上官であり庇護者でもあるフッド提督……既に70歳を過ぎていた……も、休養のために一時本国に帰国した。これは本当に一時的な帰国のつもりで、地中海艦隊の指揮は副司令長官のウィリアム・ホザム提督に任せていったのだが、フッドは本国で海軍本部委員会第1委員のジョージ・スペンサーと艦艇の分配を巡って衝突、地中海艦隊司令長官の任を解かれて閑職に飛ばされてしまった。後任の司令長官職にはホザム提督が昇格・就任した。ちなみにスペンサーは名門貴族の出身で政界から海軍本部に入り、最初は海のことを全く知らなかったが、後にはネルソンの強力な庇護者となる。フッドの方はグリニッジ廃兵院の院長となり、後にネルソンが死んだ時には葬儀委員長(ピーター・パーカー提督)の補佐という役目を果たすことになる。

   ジェノヴァ湾の海戦   目次に戻る

 その頃のフランス政府は、南フランス各地の反革命軍をほぼ鎮圧することに成功し、次いでコルシカ島を奪還せんとの作戦をたてていた。まず大西洋沿岸のブレスト港にいた艦隊に地中海回航を命じたが、この艦隊はツーロンに行く途中で荒天に妨げられて大損害を出し、やむなくブレストに引き返した。続いて1795年3月、ツーロンから22隻の艦隊が出撃した。その内訳は戦列艦17隻と小型艦5隻、司令長官はピエール・マルタン提督である。その時イタリアのリヴォルノ湾にいたイギリス地中海艦隊も戦列艦13隻(とナポリ派出の戦列艦1隻)を揃えて出撃し、3月13日にはジェノヴァ湾にてフランス艦隊と遭遇した。イギリス艦隊の先頭に立つのは脚の速い「アガメムノン」である。

 しかし、このフランス艦隊は政府に命令されて仕方なく出撃したのであって、現場の軍人たちはイギリス艦隊とまともにやり合うつもりは全くもっていなかった。フランス革命は陸海軍における貴族出身士官の大量亡命というマズい結果をもたらしており、特に専門技術を要求される海軍においてはこの損失は致命的なものといえた。たとえばブレスト艦隊は26名の艦長のうち革命前からの艦長はたったの1人で他は海尉以下からの大抜擢もしくは商船からの引き抜きであったし、下級の水兵たちも革命の混乱のせいで規律を乱していた。さらに、フランス政府が正規の海軍よりも私掠船を重視していたことも海軍の人材不足に拍車をかけた。(ただしフランス海軍は造船技術に関してはイギリスよりも優れていた)

 という訳で、フランス艦隊はイギリス艦隊の姿を認めると、1日だけ示威行動を繰り返し、あとはさっさと(全速力で)ツーロンに帰ろうとした。ところが、フランス艦隊の後ろから3番目にいた戦列艦「サイラ」が僚艦の「ヴィクトワール」と衝突し、マスト2本をなくして脱落し始めた。そこにまずイギリス艦隊のフリゲート艦「インコンスタント」が襲いかかるがこれは撃退され、続いてネルソンの「アガメムノン」が攻めかかった、のだが、快速の「アガメムノン」が飛ばしまくったせいで、イギリス艦隊の他の艦ははるか後方に置いてけぼりをくってしまった。(「インコンスタン」が短時間にせよ「サイラ」を足止めしてくれたおかげで「アガメムノン」も敵に追いつけた訳であり、「インコンスタン」艦長のトマス・フリーマントルはネルソンの生涯の親友の1人となった)

 64門搭載の「アガメムノン」に対して「サイラ」は84門搭載であり、大砲の口径も後者の方が大きく、総合的な火力は倍ほども違っていた。まともに撃ち合ったら勝てないと考えたネルソンは相手艦の舷側の砲列に身をさらすのを避け、巧みな操艦で「サイラ」の艦尾にまわりこんでは片舷斉射を繰り返した。当時の軍艦は艦尾(と艦首)には大砲をほとんど積んでおらず、両舷側の大砲もそちら側には狙いをつけられないのである。「サイラ」は先刻の衝突事故でマストを失っていたとはいっても味方のフリゲート艦に曳航されていたので機動力がなかった訳ではない(かなりの高速を出していたらしい)のだが、軽快な「アガメムノン」の機動戦術相手に太刀打ち出来なくなった。

 「アガメムノン」の一方的な攻撃は2時間に渡って続き、「サイラ」は110名もの死傷者を出した。対する「アガメムノン」は……敵艦の艦尾砲による反撃でかなりの命中弾を喰らったが……7名が負傷しただけである。そのうちにフランス側の戦列艦2隻が「サイラ」を助けようと反転してきたが、イギリス艦隊の他の艦は相変わらず後方に置いてけぼりになっていた。この情況を憂慮したイギリス艦隊司令長官のホザム提督は「撤収セヨ」の信号旗を掲げた。

 翌日朝、両艦隊はごく近くにおり、その中間にボロボロの「サイラ」がいた。「サイラ」は今朝は戦列艦「サンスール」に曳航されていた。この日の戦いでは、まず、イギリス艦隊から戦列艦2隻が投入されて「サイラ」「サンスール」と激しく撃ち合い、4隻とも大損害を出した。両艦隊の他の艦も次第に接近し、そのまま大海戦に突入かと思われたが、すんでのところでフランス側の意志が挫け、「サイラ」と「サンスール」を見捨てて逃走にかかった。イギリス艦隊のホザム提督は「サイラ」と「サンスール」を拿捕しただけで満足してしまい、他のフランス艦を追撃しようとはしなかった。

 ホザムの弱腰に怒ったネルソンは艦隊旗艦に乗り込み、直ちに追撃しましょうと直談判したが、ホザムの返事は「コルシカを守り、敵艦を2隻捕獲した。それでもうじゅうぶんではないか」「満足しなきゃ。我々はとてもよくやったのだよ」というものであった。ネルソンは次に副司令長官のグッドオール提督の艦に行って追撃を主張し、こちらでは同意を得たが、それでもホザムは翻意せず、結局フランス艦隊を取り逃がしてしまった。ネルソンは妻への私信の中で「たとえ10隻の艦を捕獲したとしても、捕獲可能な11隻目を逃したとしたら、わたしだったらよくやったなどと言わない」「提督になって、英国艦隊を指揮したいものだ。そうなったらすぐにでも大戦功をたてるか、大敗北を喫するかのいずれかだ。私の性格からいって、ぐずぐずと生ぬるいやり方はがまんならない」と書き散らした。ホザムはもともと司令長官の器ではなかったのに、前任者(フッド提督)の突然の更迭で急に昇進してしまったのであり、これは実に不味い人事であったといえる。

 その後、フランス側のツーロン艦隊にもイギリス側の地中海艦隊にも増援がやってきたが、それ以外には(地中海では)特に進展はなかった。しかし……、地中海にはイギリス艦隊の大型艦が入れるドックや補修資材を蓄えた港湾が存在しなかったため、艦艇の痛みが激しくなってきたのが(イギリス艦隊にとっての)悩みの種であった。大西洋ではアメリカから大量の穀物を輸入してきたフランス商船130隻とその護衛艦隊の戦列艦26隻がハウ提督率いるイギリス艦隊の戦列艦26隻と衝突するという「栄光の6月1日海戦」が発生、後者は前者の艦隊に大打撃を与えたが、商船団には無傷でフランス本国の港に逃げ込まれてしまった。

 ただ、「栄光の6月1日海戦」の論功行賞で多数の昇進があり、その関係でたまたま「海兵隊大佐」のポストがいくつか空いたため、ネルソンがそのひとつを貰うことになった。海兵隊の大佐というのは単なる名誉職であって実務はないのだが、給料がたくさん貰えるため、これ以降のネルソンは経済的にグンと楽になった。

   イエール群島の海戦   目次に戻る

 7月、またしてもツーロンのフランス艦隊がコルシカを奪回すべく出撃した。今度の戦力は戦列艦17隻である。イギリス側でこの動きを最初に探知したのはそのときフリゲート艦3隻をつれて南フランスの沿岸部を偵察していたネルソンの「アガメムノン」である。ネルソンは味方艦隊の主力が停泊しているコルシカのサンフィレンツィオ湾へとフランス艦隊をおびき寄せた。フランス側ではイギリス艦隊は別の海域にでばっていてコルシカは手薄だという報告を受けていたのだが、これが間違いだったことに気付くや今回も大海戦を避けて反転、ツーロンに帰ろうとした。ホザム提督の方は今度は追撃を命じ、大慌てでサンフィレンツィオ湾から出撃したが、なかなか追いつけない。

 何日か追跡を続けた末の7月13日、南フランスの陸地がみえるところ(イエール群島付近)まで来てようやくフランス艦隊の後尾を射程内に捉えた。風向きはイギリス側に有利であった、のだが、ホザム提督はもたもたと4時間もかけて艦隊の列を整えさせ、時間を浪費したと気付くや「全艦各自追撃」の信号を発した。そんな訳でイギリス艦隊のうちまず脚の速い艦が飛び出していき、とりあえずフランス艦隊の最後尾にいた戦列艦「アリシド」に命中弾を浴びせてこれを撃沈した。ところがその頃になると風向きがあやしくなり、8マイルほど後方にいたせいで情況がよくわからなかったホザム提督はここでまた覇気のなさを発揮、撤収せよとの信号を発した。フランス艦隊は陸地の味方砲台の射程内へと逃げ込んでしまった。陸地の砲台と軍艦が撃ち合った場合、原則として前者の方が強いのである。(陸地の砲台は砲弾を炉で熱した「赤熱弾」を発射することが出来るが、軍艦は……当時の船はみんな木造なので……自分が火事になる可能性があるためそのようなことは出来ない。従って、軍艦同士が撃ち合う場合は火事になりにくく、どんなに大量の命中弾を喰らっても……木造だから浮力に優れているので……滅多に沈没しなかった。上記の「アリシド」は例外である)

 ともあれ、今回のこの「イエール群島の海戦」は前回のジェノヴァ湾の海戦に引続き実に中途半端に終わってしまった訳で、ネルソンは例によって妻宛の私信の中で「もしもフッド提督がここにおられたら、我々に戦闘中止を命じなどしなかったはずだが、ホザムときたら、運にかけるということをしないのだから」と論評した。

   国際情勢の変化   目次に戻る

 その後、ネルソンはホザムにフランス〜イタリア沿岸部の偵察任務を命じられた。その頃のフランスはイタリア北西部の中立国であるジェノヴァ共和国を経由するルートでイタリア中部のトスカナ大公国と貿易していた。トスカナ大公国はもともと中立であったが去る93年10月にイギリスと同盟(フッド提督時代のイギリス地中海艦隊に脅迫されて同盟させられた)、フランスと敵対関係になったが、やがてフランス軍が盛り返した(南フランスの反革命軍を片付けた)とみるやこれと和睦し、また中立に戻ってしまっていた。ホザム提督としてはジェノヴァとの関係をこじらせるのを恐れて問題の貿易ルートに手をつけられないでいたのだが、ネルソンは遠慮会釈なくジェノヴァ沿岸で行動するフランス船舶を拿捕してまわった。実はジェノヴァは完全な中立ではなく、領内にフランス軍を駐留させていた(させられていた)ため、ネルソンの侵犯行為に文句が言える立場ではなかった(言える力もなかった)。

 ところが、これとほとんど同時期にスペインが対仏大同盟から脱落してフランスと和議を結んでしまい、フランスはトスカナ大公国のかわりにスペインと交易出来るようになった。時間を遡って事情を説明すると、フランス軍はこの年の前半にスペイン北部のバスク地方やカタルーニャ地方へと攻め込んでおり、これを支えきれなくなったスペイン政府は7月22日の「バーゼル条約」でフランスに膝を屈してしまったのである。しかも、対仏大同盟から抜けたのはスペインが最初ではなく、既に4月5日にプロイセンが、5月16日にオランダが脱落していた。プロイセンは去る93年にロシアと共同で隣国ポーランドの領土を奪っていたのだが、このことに対するポーランド人の反抗が激しく、さらにロシアとオーストリアがプロイセンを除外してポーランドの残りの領土を分割してしまうのではないかという危惧があったため、あまりフランスに構っていられなくなったのである。

 オランダに至っては完全にフランス軍に占領されてしまっていた。そんな訳で、ふと気づけば対仏大同盟に残った国でフランスと正面きって戦える力があるのはイギリスとオーストリアだけとなっていたのである。当時のオーストリアは北イタリアのミラノを支配しており、そこを拠点にして南フランスに展開するフランス軍と対峙していた。そちらのフランス軍はトスカナ大公国とごく小型の船舶を用いた交易を継続しており、そのルートは重くて大きな軍艦ではなかなか入り込めない浅い水域を利用していて、しかもフランス軍が設置した沿岸砲台によって守られていた。ネルソンはオーストリア陸軍に兵力を出してもらってゲリラ的な上陸作戦を敢行し陸地のフランス軍を背後から叩くという作戦を立てたが、オーストリア側はそれは危険すぎると言ってとりあわなかった。この件に関してはオーストリア側の主張が妥当であったといわれているが、ここしばらく思うような活躍が出来ないでいたネルソンは不満たらたらになり、退役を考えるまでになってしまった。

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