コンゴ自由国

 本稿の舞台となるコンゴ、1971年から97年までの一時期に「ザイール」と呼ばれていたこの地域にヨーロッパの勢力が進出したのは15世紀のことである。最初にやってきたのはポルトガル人で、以後数百年に渡って主に奴隷貿易を行った。しかし彼等ヨーロッパ人の進出は沿岸部に交易拠点を築く程度に限定され、内陸部に入り込んでそこの住民を支配したりする近代的な意味での植民地の建設はかなり後まで実現しなかった。これはコンゴに限らずアフリカ全体について言えることである。未知の風土病の猖獗するこの「暗黒大陸」の中で、ヨーロッパの支配が強く及ぶのは1870年頃になってもまだ地中海沿岸と南アフリカだけ(註1)、あとの「黒色アフリカ」は交易拠点に毛の生えた程度のものがぽつぽつ点在といった程度(その中で最も大きいのはフランス領セネガルだが、まだまだ小さい)にとどまっていた。もちろん世界の他の地方、例えばインドや東南アジアはその頃にはヨーロッパによる本格的な植民地化が進んでいたのだが、気候風土が特別に厳しく様子もよくわからない黒色アフリカは放置状態となっていたのである(註2)。ただしかなり変則的な意味ではあるが黒色アフリカでも「植民」が全く行われなかった訳ではなく、19世紀に入る頃から欧米で巻き起こってきた奴隷制廃止運動の一環として、まず1787年にイギリスの解放奴隷の帰還先としてシエラ・レオネが、1822年にはアメリカ合衆国の解放奴隷の帰還先としてリベリアが、さらに49年にはフランスによってリーブルヴィルが建設されている。リベリアは47年に「リベリア共和国」としてアメリカから独立(註3)、リーブルヴィルは現在の「ガボン共和国」の首都となっている。

註1 地中海沿岸部については当サイト内の「アルジェリア征服」を、南アフリカについては「ローデシア」を参照のこと。

註2 そんなところを苦労して植民地化しなくても、現地の黒人王国から奴隷を買って他所の植民地に売れば十分に儲かるのであった。

註3 リベリアについての詳しい話は当サイト内の「リベリアの歴史」を参照のこと。


 その一方で19世紀には学術的な興味による黒色アフリカの探検が行われた。探検家にしてキリスト教の宣教師でもあったリヴィングストンが東アフリカの奥地で行方不明になり、探検家兼新聞記者のスタンレーによって救出されたのは有名な話である(註4)。その時のスタンレーは『ニューヨーク・ヘラルド』紙の特派員という身分であったが、その後ベルギー国王に雇われることになる。ここでちょっと時間を遡る。

註4 この話については当サイト内の「オマーン・ザンジバルの歴史」を参照のこと。


 ベルギー国王レオポルド2世は若い頃から地理学に興味を示し、世界中をまわるうちにいつしか海外植民地の獲得に熱意を示すようになっていた(註5)。フランスやドイツといった強国に周囲をかこまれた小国ベルギーが躍進するには海外に出るしか無く、従姉妹のヴィクトリアが国王をつとめるイギリスは本国はさして大きくないのにインド等に広大な植民地を有するが故に大国たりえるのだろう、と。また、隣国のオランダは東南アジアに大きな植民地を持っている(現在のインドネシア)が、ベルギーというのは1830年にそのオランダから独立した国であり、その時に植民地を分けて貰えなかった埋め合わせをしたいとも思われた(ただ、後で書くがベルギーは決して貧乏国ではない)。

註5 彼の父親のレオポルド1世も同じことを考えたが、妄想だけに終わった。


 そしてレオポルドが世界中の様々な地域の植民地化を検討した末に目を付けたのがコンゴ河の流域である(註6)。1876年、イギリスの探検家キャメロンがヨーロッパ人として初めてアフリカ大陸をインド洋から大西洋へと横断し、コンゴ河の流域に金銀銅が眠っていると報告した。彼の母国のイギリス政府はこの話をあまり信用せず、それよりも去る67年に南アフリカで見つかったダイヤモンド鉱山の経営に力を入れていたのだが、レオポルドは自分からキャメロンに会いに行って詳しい話を聞き出し、コンゴの植民地化を決意したのであった。しかしベルギーの議会や世論はこの話をあくまでレオポルド個人の営利事業と見なした上に、黒色アフリカに植民地をもつことの費用とリスクを考えて協力的でなく、国王とはいっても立憲君主にすぎないレオポルド(註7)の野望は頓挫したかにみえた。

註6 なんと日本の植民地化も考えていた。

註7 ベルギーは1831年に「国民の名において」自由主義・民主主義を眼目とする憲法を制定していた。これはその当時のヨーロッパ諸国の模範とされたほどの出来で、議会の優越を定めた三権分立に基づく責任内閣制を採用し、国王は憲法で定められた権力のみを大臣の補佐を受けて行使することが出来た。


 76年9月、レオポルドはアフリカの未開地域を文明に対して開くための研究や医療設備を整えたいと諸外国に訴えかけ、「アフリカ国際協会」を創設した。賛同人は各国を代表する地理学者・探検家・官僚・慈善家たちである。そのスローガンは(当時の感覚では)立派だったので好評をはくし、協会の第1回目の会合はベルギー王室の宮殿で非常に豪勢にとり行われた。レオポルドはさらに、コンゴ河流域を開発するために必要な資金の調達を行う「コンゴ上流域調査委員会」を組織し、その名誉委員長に就任した。「委員会」というが実際にはこれは会社組織で、株主は各国の民間銀行や投資家であった。つまり、ベルギー議会や国民がコンゴ植民地化に熱意を示さない(註8)ので、国王が個人的に会社をつくって実行しようというのである。

註8 ベルギーは石炭を産出する上にヨーロッパでも最高水準の収益率を誇る農業地帯に恵まれ、植民地の獲得などしなくても十分に金持ち国であった。


 しかし、アフリカ国際協会の仕事はなかなか進展しなかった。具体的に誰がどうやってアフリカを文明化するのかという巨大な問題が存在したからである。前述のキャメロンは実はコンゴ河流域の南端を通っただけであった(だから彼の報告はイギリス政府に信用されなかった)から、他に人材を探す必要があった。とはいっても、モタモタしている時間は無駄にはならなかった。協会の賛同人たちは別に自分から積極的にこの事業に参画しようとは思っていなかったので、協会は次第にレオポルド1人で仕切るものになっていったのである。そして、頃合いを見計らったかのようにスタンレーが登場する。

 スタンレーは前述のリヴィングストン救出の後、キャメロンより1年ほど遅れてコンゴ河を探検し、77年夏には詳しい情報を持って帰ってきた。彼はイギリスのウェールズ地方に生まれて17歳の時にアメリカに帰化した人物だが、自分が探検したコンゴ河流域を是非イギリスに植民地化してほしいと考えた。しかしイギリス政府はキャメロンの時と同じように南アフリカの方を重視してスタンレーの話に乗ってこなかった。スタンレーが貧困階級の出身で、しかもアメリカに帰化していたことがイギリスの支配階級のお気に召さなかったともいわれている。失意のスタンレーはレオポルドに雇ってもらうことにした。

 そして79年1月、レオポルドとの5年契約を結んだスタンレーはコンゴへと向かうべく海路出立した。実は彼はその時点ではレオポルドの意図を完全には知らされていなかった。彼はコンゴに向かう途中でストラウク大佐というレオポルドの忠臣と会見し、以下の計画を説明された。コンゴ河流域の黒人部族をまとめて連邦を結成し、レオポルドをその統治者として推戴せよというのである。スタンレーはこのようなレオポルドの行為が未開野蛮な黒人たちに文明の光をもたらすと信じてこれに全面的に協力することにした。

 しかし、同年8月からコンゴでの仕事を開始したスタンレーは苦心惨憺した。単なる探検ではなく植民地の建設なので大人数の部下を動かして拠点を築き密林や沼地に道路を通し谷に橋を架け、後にコンゴの首都となるレオポルドヴィル(現在のキンシャサ市)の原型を建設したのが81年の末、アフリカに来てから2年以上もかかってしまっていた。病気と事故が多くの隊員の命を奪い、給与や待遇の問題で始終ゴタゴタした上に、ベルギー本国にいるレオポルドが煩く口出してくるのにうんざりである(註9)

註9 スタンレーは性格的に、何から何まで自分で仕切らねば気の済まない性分であった。


 レオポルドの方は、「コンゴ上流域調査委員会」の株主の1人がたまたま破産した際にその持ち株を買い取り、他の出資者には将来の利潤を言い聞かせた上で委員会を解散した。つまり、これまで集めた資金をレオポルド1人で操作しやすいようにした(委員会が存在する限り他の株主の意向を聞かねばならない)のである。それから、以前に鳴り物入りで設立した「アフリカ国際協会」は各国の名士が賛同人として名を連ねていて大変評判が良かったのだが、この頃には完全に有名無実化してしまっていた。レオポルドは新たに、学術的・博愛的観点からコンゴ地域を開発すると称する「コンゴ国際協会」を樹立した。これは実際には単なる営利団体でレオポルドが筆頭株主である。

 そして現場責任者のスタンレーはコンゴの黒人たちを「コンゴ国際協会の統治下」に置いていった。例えば毎月一定量の布と引き換えに基地建設用の土地と「統治権」を譲渡させ、開発を約束するとかである。相手がそのことの意味を理解していたか否かは問うまでもない。「アフリカ国際協会(立派な理念を持ち各国の名士が賛同人として名を連ねている)」と「コンゴ国際協会(レオポルド個人によるコンゴ植民地化の道具)」の区別は曖昧で、他人からみればどっちがどっちなのか分からなかったため、レオポルドの野心はうまくカムフラージュされた格好となった。

 だが、コンゴは15世紀以来の奴隷貿易の伝統からしてポルトガルの勢力圏に入ると考えられていた。そのポルトガルはこの時代でもコンゴ河の河口近くに交易拠点を有していたが主要産業(?)たる奴隷貿易は19世紀に入ってから(欧米で盛んになってきた奴隷制廃止運動に対応して)縮小・廃止されていき、まるで利益をあげられないでいたのだが、スタンレーの活動を見ているうちに急にこの地域が宝の山のように思えてきた。レオポルドとポルトガル政府の対立が巻き起こった。

 それからこの頃のコンゴは、実はフランスにも狙われていた。フランスの政府はいまいち乗り気ではなかったのだがローマ生まれの名門貴族(ローマ皇帝の末裔を名乗る)でフランスに帰化したド・ブラザ伯爵が海軍大臣をかき口説いて探検隊を組織(伯爵は海軍士官だった)、スタンレーと同じ頃にコンゴにやってきていたのである。しかしフランス政府はいくらド・ブラザにうるさく言われてもなかなかコンゴを植民地化する気になれず、ド・ブラザの探検隊は王様がスポンサーについているスタンレー隊と比べれば小規模なものであったので、あまり大掛かりなことはせず、コンゴ河北岸のムベという村の首長と(本国政府の意思と関係なしに)フランスの「保護」を認めさせる条約を結ぶと、これを本国政府に批准させるために留守番の黒人兵士を3人だけ残して大急ぎで帰国した。いま現在のアフリカには「コンゴ共和国」と「コンゴ民主共和国」という2つのコンゴがあるが、前者がこのド・ブラザ伯爵の始めた植民地を起源とし、後者がレオポルド2世の「コンゴ国際協会」から色々あって出来た国なのである。ド・ブラザが条約を結んだムベ村とは現在のコンゴ共和国の首都「ブラザヴィル」に他ならない。ところでド・ブラザは帰る途中でスタンレー隊に行き会い、物資を分けてもらっている。その話を聞いたレオポルドは、スタンレーは何故ド・ブラザがムベ村に残した留守番3人を攻撃して殺さなかったのかと激怒したが、後の祭りであった。

 フランス本国政府はコンゴなどという未開地よりもエジプトを欲しがり、そちらの支配権を巡ってイギリスと激しく争っていた。この頃の国際政治の基軸の一つはこの仏と英の対立である。イギリスはド・ブラザのコンゴ探検に驚き、黒色アフリカにてフランスに遅れをとったことを今更ながらに悔しがったが、そこでフランスに対する防壁として使えそうに思えたのが先に述べたポルトガルである。イギリスはコンゴに関するポルトガルの権利を保障してやるという形でコンゴのフランス勢力を閉め出そうとした(註10)。で、レオポルドは、最初はコンゴの一角をド・ブラザ隊にとられたことを怒っていたが、すぐに考え直して、むしろそれを承認してやることでフランスを味方につける(でもってポルトガルに対抗する)ことにした。レオポルドはポルトガル人がその昔いかに悪辣な奴隷商人であったかを声を大にして宣伝し、自分のコンゴ国際協会は「政府(ベルギー政府)の関係しない、私的資金による博愛組織」であり、その統治下に入った黒人たちに様々な知識を提供することが目的であると強弁した。このプロパガンダに完全に騙されたのがアメリカ合衆国である。本稿の最初の方で述べたがアメリカは去る1847年に自国の解放奴隷の帰還先として西アフリカに「リベリア共和国」を建国してこれを後援していたことから、それとの「類似性」を語るレオポルドの構想にすっかり同調してしまったのである(註11)

註10 そうやってポルトガルに恩を売った上で、当時財政破綻寸前だったポルトガル政府が借款を頼んでくればその担保としてコンゴのポルトガル利権を取り上げるつもりでいた(http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/africa/kab.html)。さすがにそれは実現しなかったが。

註11 ところでそのリベリアは実際にはアメリカから「帰還」した解放奴隷が、現地の黒人を差別的に支配する国であった。これからレオポルドが建設する「コンゴ自由国」でも残忍極まりない暴政が行われたのだから、今から考えればひどい偽善である。それと、スタンレーがアメリカ国籍であることがレオポルドの対アメリカ宣伝に巧みに利用された。


 それからドイツである。ドイツ帝国宰相ビスマルクはレオポルドに少し遅れてアフリカにおける植民地の建設を考え始めて(註12)おり、そのための根回しとしてコンゴについてはフランスの動きを認めるという形で恩を売ろうと考えていた(註13)。レオポルドもそういう根回しをするためにビスマルクと会見し、コンゴ国際協会の統治地域はドイツを含む諸外国に貿易上の利便を提供する準備があると説明した。同じことをイギリスの財界にも約束する。ただ、ビスマルクはさすがに慧眼でレオポルドの本性を見抜き、陰で「詐欺師」とか呼ばわっていた(『闇の奥』の奥)。しかしドイツとしては「コンゴについてはフランスの動きを認める」とはいってもそれが拡大しすぎては面白くないため、そこにレオポルドという一見善良な弱小勢力を噛ませることにしたのであった。

註12 ドイツの植民地政策については当サイト内の「ドイツの植民地」を参照のこと。

註13 フランスがコンゴに植民地を建設するのを認めてやるから、ドイツがそれ以外の地域に植民地をつくっても文句を言わないでくださいね、ということ。それから、イギリスがコンゴのポルトガル利権に関して腹黒いことを考えていたのは既に註で述べた通りだが、イギリスはその陰謀に関してドイツにも飴を与えるという根回し(ポルトガル利権を英独で分割するという密約とひきかえにイギリスの植民地政策をドイツに認めさせる)をやっていた(http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/africa/kab.html)。


 その間もコンゴの現地ではスタンレーが仕事を続けていた。部下との折り合いが悪く健康を崩したりしたため一時は辞めようとしたがレオポルドに引き留められた彼は、コンゴ河口から奥地の「スタンリー瀑布」まで道路を通し、アフリカに来てから5年かけて40の基地を設定、コンゴ各地の黒人首長たちと約450の保護条約を結んで、これらの地域をコンゴ国際協会の統治下に置くことに成功した。その一方フランスのド・ブラザ伯爵(レオポルドから引き抜きの話が来たが断った)は本国の政治家たちを口説いて回って先のムベ村に関する条約を批准させ、82年末には再びコンゴにやってきて植民地の拡大に奔走した。ド・ブラザはフランスに対し熱烈な愛国心を抱いており、文明国フランスがアフリカを支配することは原住民にとって益のあることだと堅く信じていた。彼の部下のアルベール・ドリジイはさらに奥地に入り込んで現在の中央アフリカ共和国地域の植民地化に着手する。84年4月には現ナミビア地域にてドイツがこの国初の海外植民地を開設し、さらに同年7月にはコンゴの北のカメルーンの領有を宣言した。アフリカにおける植民地の獲得競争がいよいよその幕を開けようとしており、それに関する各国の利害の調整が望まれた。とりあえずコンゴに関するレオポルドとポルトガルの対立を何とかしなければならない。

 かくして1884年11月、ビスマルクの主催による「ベルリン会議」が開催されるに至った。その結果、コンゴはレオポルドとフランス・ポルトガルによって分割されることが決定(註14)し、レオポルドのコンゴ国際協会の統治する地域は「自由貿易地域」という扱いを受けることとなった。これは領域内においては関税を設定しないという制度であり、先にビスマルクやイギリス財界に約束していた「貿易上の利便」というのがつまりこれのことであった。そして85年8月1日、「コンゴ国際協会」が廃されて本格的な行政機構「コンゴ独立国」の設立が宣言され、ベルギー国王レオポルド2世がその元首を兼ねることとなった。

註14 現在のコンゴ民主共和国の南西にアンゴラという国があるが、これがベルリン会議の結果ポルトガル領として認められた地域である(1976年に独立)


 この国をイギリス人は「コンゴ自由国」と呼んだ。自由貿易の国だからである。そしてその実態はレオポルド個人が自由に出来る私有財産であった。その辺の言葉のギャップが面白いからか日本語の歴史書ではイギリスと同じく「自由国」という表記が一般的であり、本稿もその慣例に従って自由国と表記する。「コンゴに対する余の権利は、何人ともわかちあえない。それは余自身の努力と出費の成果なのである。王は建国者である。この国の組織者であり、所有者であり、絶対主権者である」。もっともレオポルド自身は死ぬまで一度もコンゴに行かなかったが。ともあれ、それまであまり黒色アフリカに興味を示さなかったヨーロッパ諸国はレオポルドのコンゴ領有を直接の契機として大挙アフリカへと押し寄せることになる。それまで「暗黒大陸」と呼ばれ恐れられていた黒色アフリカの風土病はこの頃の医学の進歩によってさしたる脅威ではなくなっていた。現地の黒人たちは白人に巧みに欺かれてその「保護」下に落ち、自分たちが奴隷的な立場に落ちていることに気付いて反抗を企てた時には加速度的に進歩するヨーロッパの近代兵器によって残酷に掃討されてしまうのである。

 コンゴ自由国の政府はベルギー本国のブリュッセルにおかれ、コンゴには総督が派遣された。その統治は利益最優先であった。レオポルドは「玉座にのったビジネスマン」と呼ばれる程に商才があった。建国早々の85年には自由国内の「無主地」を自由国政府の所有地(自由国国有地)とする宣言がなされた。そうやって収奪した土地には現地の黒人という持ち主がいたのだが、自由国政府は「土地所有権」という概念を持たない彼等につけこんだのである。先のベルリン会議で約束された自由貿易は自由国支配地域の半分かそれ以下の「自由貿易区」にのみ適用され、しかもその地域で営業する各国企業の株の半分はレオポルドが所有出来るようになっていた。残りの地域(つまり自由国国有地)では全く他国に遠慮なしである。自由国官吏の第一の任務は行政でも司法でもなく経済的利益を上げることであり、その給料は低額の年俸と各自の受け持ち地区から上がる利益に基づく歩合からなっていた(官吏の食料も現地調達)。

 しかし、建国当初の数年間はなかなか利益があがらなかった。いまいち儲けになる産品がなかった上に経費がかさんだからである。レオポルドは「借金が焦げ付いたので救済してくれ」とベルギー政府(自由国に出資していた)に申し立てる程に困った状況となった。もっともそれは資金をせしめるための狂言だったようだが(『闇の奥』の奥)。ところが1887年にイギリスで自転車用のゴムタイヤが発明され、これがガソリン自動車(85年から市場に出回りだしていた)の車輪にも採用されたことから自由国の景気は急激に上向いた。何故ならコンゴには天然のゴムの木が大量に繁茂しており、その需要が爆発的に高まったからである。レオポルドはゴムを自由国の所有物とし、黒人による採集を義務付けた。

 1890年頃から外国人の宣教師や良心的ベルギー人によってゴム採集の実態が明かにされてきた。最初に声をあげたのはG・W・ウィリアムズというアメリカ人宣教師であった。彼はレオポルドの対外宣伝「私がやっていることは哀れな黒人に対するキリスト教徒としての義務(未開人に文明の光を与えること)を果たしているだけであり、私が費やしたすべての金にただの1フランの返済も期待しない」を信じてコンゴを来訪、聞いて極楽見て地獄な実態を目にしてしまったのである。具体的には……、

 自由国は、ゴム採集を強要するために黒人たちから女子供を人質にとり、仕事を効率よく進めるための鞭打ちで相手を死に至らしめたり、ノルマに達することの出来ない村の人々に懲罰を加えたりしていた。その「懲罰」で最も一般的なのは右手を切断することだった。しかも、収奪の対象となるのはゴムだけではなかった。戸数100戸のとある村では1ヶ月間に、ゴム60キロに加えて羊もしくは豚5頭または鶏50羽、メイズまたはピーナツ15キロ、マニオク125荷、甘藷15キロを供出し、さらに全住民が4日に1日は公的な労務に駆り出されていたという話がある(アフリカ現代史3)。あまりの暴政に耐えきれずに部族ごと自由国から逃げ出す例もあった。このような話を初めて公にしたG・W・ウィリアムズはレオポルドの組織的な反撃に曝され、91年には病死してしまった。ベルギー国民の大方はレオポルドのことを「アフリカに文明の光明をもたらす仁慈の国王」と信じ込んでいた(『闇の奥』の奥)。そんなこんなで自由国のゴム生産量は20世紀初頭には世界総生産の10パーセントにも達することになる。

 レオポルドはさらに93年、自由貿易区を削って「王室領」を設置した。これはベルギー本国の5倍の広さを持ち、自由国国有地の収入が自由国国庫に入っていたのに対しこちらからあがる収入は完全にレオポルド個人のものとなった。彼はヨーロッパ各地の保養地に豪邸を建て、愛人と遊び回ったという。王室領は後に倍の広さに拡大される。それに、自由貿易区の方も輸出ばかりで他国からの輸入はほとんどしていなかった。レオポルドは「土民保護委員会」なる博愛組織をつくって黒人に文明の恩恵を与えていると宣伝していたが、輸入をしていないということは文明の利器たるヨーロッパの工業製品はコンゴの黒人には与えられなかったということであり、別の視点から言えば他国に約束していた自由貿易もまともにやっていなかったということである。

 現地民の反抗をおさえるために編成された自由国の「公安軍」は白人の士官・下士官が未開部族から集めた黒人の兵士を指揮するという組織であり、兵士たちは余所の部族の反抗者を弾圧するのに恐るべき残忍さを発揮した。公安軍の任務にはゴム採集の強制執行も含まれており、隊員の給料も利益に基づく歩合性であったから、しまいには任務を果たしている証拠として、ゴム採集のノルマに達しない村の人々への懲罰として切り落とした手の数によってボーナスの額が決定されるようになり、村人の方はそれを逃れるために他人を大量殺人して手を集めてくるようなことになった。「手はそれ自体で価値を帯び、一種の通貨になった(ピーター・フォーバス著『コンゴ河』)」。公安軍が集めた手は自由国官吏に見せるまで腐らないよう煙でいぶして薫製にされた。後に手切断の話を聞かれたレオポルドは、「手に癌を患って、そのため簡単な外科手術として手を切り落とさなければならなかった」と、ちょっと考えられないような下手な言い訳をしたという(『闇の奥』の奥)。

 ただ、公安軍の白人士官は黒人兵士をあまり信用しておらず、反乱や汚職を強く警戒した。特に問題となったのは銃弾の着服であった。というのは、一般の黒人が武器を欲しがっていたため、兵士が横流ししてしまうことがあったのである。そこで白人側は、消費された弾が間違いなく任務(反抗的な黒人の射殺)の遂行に用いられた証拠として、射殺された反抗者の手を持ち帰ることを義務づけた。撃った弾と同じ数の手を回収せよというのである。すると兵士たちは銃を使わずに人を殺して弾数を誤摩化した(『闇の奥』の奥)。そうやって着服した銃弾を用いたのかどうなのか、1895年には公安軍のルルアブルク駐屯部隊が反乱を起こして6ヶ月に渡ってカサイ州を制圧している。

 それから……時間的に前後するが……80年代の後半頃には、象牙と奴隷を求めてインド洋方面から入り込んでくるアラブ人との激しい戦いが行われた。本稿の上の方で、コンゴ地域における奴隷貿易は19世紀に入る頃から縮小されていた、と書いたが、それは大西洋沿岸地域の話であって、インド洋方面ではむしろ盛んになっていた。その方面には古くからアラブ人が住み着いていたのだが、19世紀には(アラビア半島の)オマーンからやってきた人々がザンジバル島を拠点としてこれまでにない活発な活動を行い、ザンジバルにある丁字のプランテーションで働く奴隷を大量に必要としていた(註15)。コンゴの黒人人口は自由国の暴虐だけでなくアラブ人の奴隷狩りによってもかなりの打撃を受けたとされている。アラブ人の中でも特に有力だったのはティッポ・ディブという人物の勢力で、自由国内部に独自の交易網を築き上げて自由国の利害と衝突した。レオポルドは最初はこれに妥協しようとしたがやがて決裂し、戦いの末に装備に勝る公安軍が勝利した。しかし公安軍だけでなくティブ軍の方もその兵力は黒人主体であり、どちらも戦闘で捕らえた敵軍兵士を生きたままなるべく苦痛を与えながら料理して喰ったとかいう話が伝えられている。公安軍の白人指揮官にも人肉食が病み付きになった者がいる、とも。ちなみにレオポルドは外国に対しては、コンゴ公安軍はアラブの非道な奴隷商人と戦っているのだと宣伝した。それは確かに嘘ではないのだが。。。

註15 この辺の詳しい話については当サイト内の「オマーン・ザンジバルの歴史」を参照のこと。ザンジバルにおける奴隷貿易は1873年には(イギリスの圧力によって)禁止されるが、奴隷狩りはその後も続いた。


 ともあれコンゴ自由国では20年間に500〜800万人の死亡者を出したといわれている。1960年にベルギーから完全独立した時の人口が1400万人であったことを考えればこれは(事実だとすると)実に恐るべき数字といえる。アフリカの植民地の中で最も大量の死者が出たのはこのコンゴ自由国である。レオポルドはコンゴの実態が外国の新聞に書き立てられないようこれを買収するための秘密組織をつくり、外国人のコンゴでの行動をなるべく制限し、自由国官吏の人選にも意を用いた。

 レオポルドの野心は領土拡張にも向かっていた。自由国の南のカタンガ地方は豊かな鉱物資源で知られ、レオポルドとイギリス南アフリカ会社のどちらが支配下におさめるかの競争となっていた(註16)。1891年、レオポルドに派遣された遠征隊がカタンガに勢力をはるバ・イエケ族の王ムシリ(親英派)を射殺し、その後継者ムカンダと保護条約を結ぶことに成功した。こうして無理矢理自由国に編入されたカタンガ地方(註17)は、1960年に独立を達成した後のコンゴからも分離を叫んで独自の行動をとることになる。

註16 イギリスの動きについては当サイト内の「ローデシア」を参照のこと。

註17 現在のアフリカの地図を見ると、コンゴ民主共和国の領土の南端がザンビア共和国の北部に食い込んでいる。これは19世紀のベルギーとイギリスによる植民地の争奪の結果なのである。


 レオポルドは自由国の東のナイル河方面にも勢力を拡大したいと目論み、そちらにもカタンガ領有と同時期に遠征隊を送ったのだが、現地に根を張るイスラム教徒との戦いが長期間続いた上にその戦乱で土地が荒廃したためやがて撤収した。このような軍事行動はむろん莫大な予算を蕩尽し、それを埋め合わせるための収奪がますます熱心に行われた。90年代には8年の歳月をかけて全長350キロの「下コンゴ鉄道」が建設されたが、これが大変な難工事で最初の2年間で9キロしか進捗せず、その間に2メートルにつき1人の死者を出したという(http://www.inosin.com/page009.html)。

 このような暴虐は現地の黒人たちだけでなく、他の西欧諸国の憤激まで買ってしまった。特に大きく動いたのがイギリスである。まずE・D・モレルという記者が、自由国が輸入している文明の利器が武器弾薬に限られていることに気付いて調査に乗り出し、レオポルドを糾弾する『赤いゴム』『レオポルド王の統治』を執筆した。作家のジョセフ・コンラッドやコナン・ドイルといった人々がこれに続く。ドイル(シャーロック・ホームズの作者)は著書『コンゴの犯罪』でレオポルドの行動を「世界史でこれまでに犯された最大の犯罪」と呼び、コンラッドが1902年に執筆した小説『闇の奥』は単にコンゴの実情を詳しく描写しただけでなく文学的にも傑作であるとされている。

 さらに、コンゴに関する自由貿易の約束がまともに守られていないことを知って腹を立てた財界の運動を受けたイギリス下院も動き出し、1903年にはコンゴ自由国の非人道的統治と自由貿易無視を非難する決議を行った。さらにイギリス政府が外交官ロジャー・D・ケイスメントにコンゴ視察を命じた。ケイスメントは、ある村が公安軍の懲罰襲撃を受けた時に12歳の少年が恐怖のあまり死んだふりをしたまま(意識を保ったまま)手を切断されるのに耐えたとかいう恐るべき話を報告した。彼の報告書はイギリス外相の前文を添えて各国政府に送付され、コンゴ自由国の暴虐は国際問題へと発展した。アメリカでもコンゴに宣教師を送っていたキリスト教団体がアメリカ政府に働きかけることで自由国の黒人を救おうとし、作家マーク・トゥエイン(トム・ソーヤーの冒険の作者)が自由国の現状を風刺した『レオポルド王の独白』を執筆して世論を沸騰させた。自分たちの与り知らぬところで国家の名に泥を塗られたベルギーの一般国民も怒り出し(註18)、これを受けたベルギー議会が設置した調査委員会までもが手を切り落とすとか女子供を人質にとるとかの話は事実であると確認した。(註19)

註18 ベルギーの一般世論は当初、「イギリスは難癖をつけてコンゴを横取りしようとしているのではないのか?」という解釈が主流であった。しかしイギリスの少なくとも公式な主張はそれほど露骨なものではなかったし、そのうちにベルギー国民の間でもコンゴ自由国の恐るべき実態が理解されてきたのである。

註19 フランス領コンゴでも似たような暴政が行われ、90〜150万人が死んだという内部告発が1905年に行われている(西欧の眼に映ったアフリカ)。ただ、現在のコンゴ共和国の総人口は400万人弱しかいない(1975年には135万しかいなかった)のであるから、その「90〜150万人」というのは大幅な誇張が入っているのか、近隣のフランス植民地であるガボンや中央アフリカまで含んだ数字なのだろう。


 ただ……、モレル・コンラッド・ドイル・ケイスメントという4人のイギリス人の行動は、レオポルドのコンゴ経営を糺弾することによって母国イギリスの植民地政策を正当化したいという意図があったという見方もある。特にドイルはイギリスによる露骨な帝国主義的侵略戦争であったボーア戦争(註20)については熱烈に支持し、軍医として戦場に出向いている(註21)し、コンラッドも第一次世界大戦の際にイギリス軍に協力する文章を書いている。しかしケイスメントは実は純粋のイギリス人ではなく当時イギリス(イングランド)の抑圧的支配を受けていたアイルランドの出身だった(ドイルもアイルランド系だが)ため、「コンゴの森の孤独の中で私はレオポルド2世を見いだしたが、また、のっぴきならぬアイルランド人としての私自身をも見いだした」と語ってその後はアイルランド独立運動に取り組むことになる。彼は第一次世界大戦の際にドイツ(イギリスの敵国)と協力することでイギリスに戦いを挑もうとしたが逮捕され、死刑に処せられた。その時ドイルはケイスメントの反英行動に反感を抱きつつも弁護のために700ポンドを提供したが、コンラッドはケイスメントについて「あったのは虚栄心だけ」とコメントした。モレルはケイスメント処刑の少し前に第一次世界大戦反対運動に携わっていた関係で逮捕され、ケイスメントが処刑されたのと同じ刑務所で半年間服役した。彼は大戦後(註22)は労働党から国会議員に選出され、24年に亡くなった。(この辺の詳しい話は(藤永茂著『「闇の奥」の奥』を参照のこと)

註20 現在の南アフリカ共和国の北部にあったボーア人(オランダ系移民)の国「トランスヴァール自由国」「オレンジ自由国」をイギリス軍が侵略した戦争。南アフリカの南端部はもともとオランダの植民地であったのが19世紀初頭にイギリス領に移管され、そこに住んでいたボーア人は北方へと移動して改めて自分の国(トランスヴァールとオレンジ)を建設した。ところが19世紀の後半になってトランスヴァールで金が、オレンジでダイヤモンドが発見されたため、イギリスの侵略を受けたのである。

註21 ちなみにアメリカのマーク・トゥエインはボーア戦争に際してイギリスを非難し、同時期にアメリカが行っていたフィリピン侵略も糺弾している。

註22 モレルは第一次世界大戦について、ヨーロッパ白人(レオポルドに限らず)がアフリカに対して行った罪業に対する恐るべき天罰であると考えた。彼はコンゴ問題に取り組んでいた時はイギリスの植民地政策については何も言わなかったのだが、考えを変えたのである。

 
 ……話を戻して……様々な方面からの批判にさらされたレオポルドはやむなく若干の改革に乗り出し、ついで1908年には国王個人の支配によるコンゴ自由国を廃止、ベルギー政府の支配による植民地とした。ただし、ベルギー国民は一致してこの措置に賛同した訳ではなく、コンゴを「国際信託統治地」にしてはどうかとの意見も出されてかなりゴタゴタした。しかし、現地を独立させようという発想は存在しなかった。ともあれレオポルドは1909年に亡くなったが、彼の置き土産コンゴの総面積はベルギー本国の77倍であった。



          「ベルギー領コンゴ」に続く。                                  

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