アルジェリア征服

 アルジェリアは13世紀以降、その西部は「ザイヤーン朝」、東部は「ハフス朝」というイスラムの王朝によって統治されていた。しかし両王朝は16世紀に入る頃には著しく弱体化して地方都市や部族が半独立するに至り、特に海港都市では「バルバリア海賊」と呼ばれる集団が地中海に乗り出して暴れ回るようになった。彼らの跳梁に手を焼いたスペインが海軍を繰り出してくると海賊側はオスマン・トルコ帝国(註1)に支援を要請、1530年までかかってスペイン軍を追い散らすことに成功するといった具合である。そして、バルバリア海賊の頭目でアルジェ市に本拠を構えていたハイル・アッディーンが1533年にオスマン帝国首都イスタンブールに赴いて恭順を誓い、ここにオスマン帝国の属領「アルジェ州」が成立した。オスマン帝国は50年にはザイヤーン朝を、74年にはハフス朝をそれぞれ滅ぼしている。

註1 13世紀の末頃に現在のトルコ共和国西部に建国された国。バルカン半島全域からシリア、エジプトにまで支配する大国であった。


 アルジェ州はオスマン本国の任命するパシャ(総督)によって統治され、その下で海賊たち(ライースと呼ばれる)や本国からやってきた軍人集団(イェニチェリと呼ばれる)が軍事を担当するという機構を形成した。海賊活動で莫大な利益を得たライースはイェニチェリと結託してやがてはオスマン本国から半独立するようになり、1671年からは自前の君主を選出するようになった。この君主を「デイ」と呼ぶ。1710年以降はデイはオスマン本国からパシャの位を貰うという形式をとるようになる(つまりデイは形式的にはあくまでオスマン帝国の臣下であるという手続きを踏むということ)が、実質的には独立国になってしまった訳である。

 デイ職は世襲ではないので、実権はライースとイェニチェリの有力者に握られていた。ライースはキリスト教徒からイスラムに改宗した者が多く(捕虜としてつれてこられた者(註2)もいれば自分の意志で来た者もいる)、イェニチェリの人員は常に(アルジェ州が半独立国となって以降も)オスマン本国から補充されていたため、アルジェ州のもとからの住人にとってはどちらも余所者であった。その「もとからの住民」とは「ベルベル人」と「アラブ人」の2派からなり、ベルベル人は紀元前からの住民、アラブ人は7世紀の後半以降にイスラム教と一緒に東方からやってきた人々である。本稿の冒頭に登場したザイヤーン朝とハフス朝はどちらもベルベル人の王朝だが、現在(21世紀)のアルジェリアの人口統計ではアラブが8割、ベルベルが2割となっている。イェニチェリがアラブ人やベルベル人の女性を娶ることがあっても、その子供は普通はイェニチェリの仲間には入れてもらえなかった。

註2 この「捕虜」とは、ライースによる海賊活動で捕らえられてきた人々のこと。ライースは彼らを人質にとって身代金をせしめたり、奴隷商人に売ったりして大儲けしたが、捕虜の中には海賊の仲間になってしまう者もいたのである。


 余所者は他にもいた。まず、スペインによるレコンキスタ(註3)でイベリア半島から追放されたイスラム教徒の子孫や、個々の事情でヨーロッパから流れて来てキリスト教からイスラムに改宗した人々がいる。彼らは「モール人」と呼ばれ、主に都市部で商工業を営んでいた。さらに、紀元前6世紀の昔から住み着いているというユダヤ人(ずっと後になってから余所から流れて来た者も多い)も、数は少ないが強力な財力を誇っていた。基本的に、彼ら余所者たちは海賊の仕事……付近を航行する船舶を略奪したり通行税を取り立てたりする……やそこから派生する商工業に夢中になっていて、地味に農業や牧畜を営むアラブ・ベルベル人と交わることはなかった。アラブ・ベルベルは多くの部族にわかれて生活しており、デイの政府は部族間の抗争や宗教を利用することでこれを支配、人頭税を課すという程度のことしかしなかった。アルジェ州の総人口のうち、9割以上はアラブ・ベルベル人が占めていたのだが……。

註3 イベリア半島は8世紀の初頭にその大半をイスラム教徒によって征服されたが、やがてキリスト教徒が反撃を開始し、1492年までかかってイスラム勢力を追い払った。この戦いを「レコンキスタ」と呼ぶ。「スペイン」はこの戦いの最中にキリスト教の諸国が統合されて出来上がった国である。


 時代が進んで18世紀の後半になると、地中海の北側のキリスト教諸国の海軍力が強化されてきたため、海賊稼業の収入が低下した。その埋め合わせとしてアラブ人・ベルベル人に重税を課すと、当然のように反乱頻発である。その中核となったのはスーフィー教団(イスラムにおいて神秘主義的な教義を奉じる集団)であった。デイの政府は1800年から30年までかけてこれを鎮圧してまわったが、そのせいですっかり疲弊してしまった。その間の1816年には海賊活動に腹を立てるイギリス・オランダの連合艦隊によって海軍を壊滅させられた。

 1827年、デイとフランスの駐アルジェ領事が貿易問題について会談した。これは30年近く前にアルジェ州からフランスに輸出された小麦の代金支払い(何か相当に複雑な債務問題に発展していたらしい)についての話し合いであったのだが、この席で暴言を吐いた駐アルジェ領事をデイが扇で打つという「扇の一打事件」が発生した。フランス政府は国交断絶を宣言してアルジェ市を海上封鎖、デイ側はフランス資本の銀行を破壊した。封鎖は3年に渡って続き、そして1830年6月14日、ブールモン将軍に率いられたフランス軍3万7000人がアルジェ市から25キロ離れたシディ・フルージュに上陸した。

 当時のフランスは「七月革命」の直前である。王権神授説(註4)の信奉者である国王シャルル10世と首相ポリニャックが言論・出版の自由の制限といった強圧的な政治を行って民衆の総反発を受け、同年3月に行われた総選挙は極端な制限選挙(註5)かつ政府による干渉が行われたにもかかわらず政府与党143議席・反政府派274議席という結果に終わっていた。シャルル10世が人気を取り戻す一番手っ取り早い手段は、外征である。そして狙われたのがつまりアルジェ州であり、ここは前々から(フランスの)マルセイユ商人が進出したがっていた獲物なのであった。

註4 国王の権力は神から授けられたものであって絶対不可侵、何者の反抗も許さないという思想。

註5 当時のフランスは二院制の議会を持っていたが、上院議員は国王による任命制、下院議員はたったの9万人しかいない有権者(大地主)によって選出されていた。


 ともあれフランス軍は反撃に出て来たデイの軍勢を撃破、上陸10日目にはアルジェ市を守る要塞「皇帝の砦」を占領した。デイの軍勢は大急ぎで集めた兵員を合わせても3万しかおらず、都市部のモール人やユダヤ人は商業上の理由からフランス軍を歓迎、農村部のアラブ人・ベルベル人はデイの政権がどうなろうが知ったことではなかった。7月5日、デイはアルジェ市を明け渡して降参した。しかしこの時点のフランス政府はアルジェ州を恒久的に支配する気はなかった。そもそもがシャルル10世の人気取りのための遠征であり、デイを倒した後はアラブ人かモール人による新政権をたてるという考えでいた。

 デイが降伏したすぐ後、フランス本国にて「七月革命」が開始され、その結果シャルル10世とその政府が倒れて新たにルイ・フィリップ(註6)が即位した。ルイ・フィリップとその政府はアルジェ州をどうすればいいのか考えがまとまらず、現地は無政府状態となってしまった。アラブ・ベルベル人は部族間の抗争を始め、さらに隣国モロッコがこの機に乗じて領地を広げようとした。デイの軍勢も(デイ自身は降伏したのに)地方で自立していた。フランス軍は最初は沿岸の都市部だけを占領していたが、やがて内陸にまで進出するようになり、そうするとそれまで外国軍の侵略に無関心だったアラブ・ベルベル人が反抗を開始するようになる。

註6 シャルル10世の親戚だが、自由主義者として知られていた。


 32年になるとアラブ系の有力者でスーフィー教団ともつながりを持つアブディル・カーディルという人物が非イスラム教徒(つまりフランス軍)に対するジハード(聖戦)を宣言した。彼はシャリーフ(イスラムの開祖ムハンマドの子孫)を名乗っていた。しかし彼はフランス軍だけではなく旧デイ軍とも敵対しており、34年2月にはとりあえずフランス軍と和睦し、(フランスから)武器を貰った上で旧デイ軍を「マハーラズの戦い」において撃破した。旧デイ軍の中核であったイェニチェリはオスマン本国に逃げ帰るか送還されるかした。16世紀以来のアルジェ州の「余所者の支配」はここに終了したのである。ちなみにオスマン本国はこの少し前にエジプトとの戦争に敗れてアルジェ州どころではなくなっていた(註7)

註7 オスマン本国とエジプトとの戦争については当サイト内の「ムハンマド・アリ」を参照のこと。


 しかし、アルジェ州から旧デイ勢力が消えたところで、フランス軍が居座り続けているのだから喜ぶのはまだ早い。アブディル・カーディル軍が旧デイ軍を破った「マハーラズの戦い」の10日後の7月22日、フランス本国政府はようやくアルジェ州の併合を決定して「北アフリカ仏領総督府」を設置、ここに「フランス領アルジェリア」が誕生した。しかしその領域をどこまで広げるのかは当事者にも簡単には決めかねる状態であった。アブディル・カーディルは翌35年にフランスと決裂、6月28日の「ラ・マクタの戦い」でトレゼル将軍の率いるフランス軍を破っている。

 ただ、アラブ・ベルベル人の全部がアブディル・カーディルの元に結束した訳では全くなく、別個にフランス軍と戦う集団もいれば、フランスに忠誠を誓う部族も存在した。前者の代表格はハーッジュ・アフマドという人物で、フランス軍の侵略が始まる前からコンスタンティーヌ地方に根を張っていた。その一方でフランス政府は沿岸部だけを直接支配下において内陸部は親仏派の部族長に支配させるという構想をたてた。フランス側には七月革命で打倒したシャルル10世の置き土産であるアルジェリアが余計な予算を食い潰していることに腹を立てている者もおり、37年にはアブディル・カーディルとフランスとの休戦「タフナ協定」が成立した。

 しかしハーッジュ・アフマドの方はフランス軍からの交渉を受け入れずに戦闘を続行した。この戦いはフランス軍の方が優勢で、しかもアフマドはアブディル・カーディルとも敵対していた(アブディル・カーディルは先の「タフナ協定」においてはフランス軍と和睦しただけなので、別にアフマドと戦争したって構わないのである)ことから奥地のオーレス山中へと追い込まれてしまった(その後もフランス軍に対する抵抗を継続)。アフマドの拠点であったコンスタンティーヌを占領したフランス軍はその地の恒久的支配を決意し、いづれはアブディル・カーディルとも再戦しなければならないと考えるようになった。フランス軍の支配地域には本国の商売人が殺到して来て土地の買い占めを行い、「ヨーロッパの乞食収容所」として入植希望の貧乏人を受け入れていた。移民の数はたちまち万単位にまで膨れ上がり、最終的には100万人に達するのである。

 アブディル・カーディテルはタフナ協定によってアルジェ州の3分の2の支配を認められており、軍制や税制を改革して1万の常備軍を組織した。ただ、彼はムハンマドの子孫を名乗っている上にスーフィー教団の身内であったことからその統治は神権政治の形態をとっており、それに不満を感じた配下の部族長たちが相次いで離反した。アブディル・カーディルはこれらを叩いてまわり、時には虐殺や徹底的な破壊を行った。それから、アブディル・カーディルはそもそも32年にフランス軍へのジハード(聖戦)を宣言することで大勢の支持者を集めた人物なので、そのジハードの約束をいつまでも実現しない訳にはいかなかった。

 そして39年8月、アブディル・カーディルはジハードの再開を決意した。同年10月、フランス軍の方が先に動き出した。アブディル・カーディル軍は以後数ヶ月に渡りゲリラ戦を展開してフランス軍を悩ませた。そのころ首相が変わったフランス本国政府はアルジェリアの沿岸部だけを直接支配するという方針を捨て、アルジェ総督としてビュジョー将軍を送り込んだ。ビュジョーはもともとアルジェリアのことを「金のかかるお荷物」と考えており、それどころか37年の「タフナ協定」の際のフランス側の責任者であったのだが、もはや考えを変えてアルジェリアの「完全征服」を目指すと宣言した。ちなみに、かの「フランス外人部隊」はアルジェリアでの戦いの最中に創設された組織である。この戦争におけるフランス兵は補給と医療体制が粗雑だったことから死亡率が高く、その一方でフランス本国ではそのころ不良外人が多くて困っていたことからこの2つの問題を一挙に解決する手段として外人部隊の登場と相成った訳である。

 ビュジョーは10万以上の大軍団を任され、アブディル・カーディル軍を戦闘で叩くよりもその支配地域を略奪・破壊してまわる「焦土作戦」を展開した。この効果は絶大で、補給が続かなくなったアブディル・カーディルは隣国のモロッコに逃走した。モロッコ政府はアブディル・カーディルに同情的で、しかもイギリスと仲が良かったことからフランス軍としては(越境して)手出しをすることは出来なくなった。つまりアブディル・カーディル軍は、モロッコ領内を「聖域」としてのフランスへの抵抗を継続することが可能となった訳である。

 44年、フランス軍は弱腰だと判断したモロッコ軍がアルジェリアへと越境した。フランスは話し合いで決着を付けようとしたがモロッコは受け入れず、怒ったフランス軍は海陸からモロッコ軍に反撃、徹底的に勝利した。イギリスはそのころ外相が変わっていて、モロッコを助けなかった。(この頃のモロッコについては別稿を参照のこと)

 アルジェリアでは翌45年、新たにブー・マアザという人物がフランス軍との戦いを開始した。フランス軍の弾圧は残忍なもので、洞窟に籠った800人もの人々を窒息させるようなことをやった。フランス軍に味方する部族が少なからずいたことも見逃せない。フランス軍は敵対した部族の土地を接収し、それをヨーロッパからの移民に無償で払い下げて植民集落をつくらせた。この45年だけで4万6000人の移民が到来した。ブー・マアザは2年間粘った末にフランス軍に投降した。

 そしてアブディル・カーディル軍は、「スィーディー・ブラヒムの戦い」でフランス軍を破る等の健闘を続けたがやがて力尽き、またモロッコを頼ろうとした。しかしモロッコは先にフランス軍に敗れた際に「今後はアブディル・カーディルを助けない」という約束を飲まされており、亡命を認めなかった。進退窮まったアブディル・カーディルは47年12月23日をもってフランス軍に降伏した。かつて彼のライバルだったハーッジュ・アフマドも翌48年にはフランス軍の軍門にくだった。カビール山岳では彼らとは別派の抵抗運動が続き、他の地方でも単発的な蜂起が起こったが、それらも1857年までに順次鎮圧された。最後の蜂起が起こったのは1871年のことである。それ以降のアルジェリアの歴史については別稿をお読みいただくとして、現在の「アルジェリア民主人民共和国」の国旗は対仏抵抗運動の英雄アブディル・カーディルの旗印をモチーフにしたものであるとされている。

                                  
                                      おわり

   参考文献

『アフリカ現代史5』 宮治一雄著 山川出版社世界現代史17 1978年
『フランス植民地帝国の歴史』 グザヴィエ・ヤコノ著 平野千果子訳 白水社文庫クセジュ 1998年
『アルジェリア近現代史』 シャルル・ロベール・アージュロン著 私市正年・中島節子訳 白水社文庫クセジュ 2002年
『西アジア史1』 佐藤次高編 山川出版社新版世界各国史8 2002年

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