ハプスブルク家とスイス盟約者団 中編その2

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 ところで、スイスでは15世紀の末頃から人口が増加(それ以前はペストが流行していたため人口減少期であった)しだし、食い扶持を養いきれなくなってきた(註1)。もともとスイスという土地は山がちで可耕地が少なかったし、農業よりも牧畜業(利用する土地面積とくらべると労働人口が少なくてすむ)が主流であった(牧畜がもたらす食肉やチーズは穀物よりも銭になる)ため、食い物(穀物)が足りない(豊作の年でも需要を満たせなかった)のに男手(アルプスの山岳地帯で生活しているので足腰が強い)が余ってしまったのである。

註1 増えたといっても、当時の総人口は80万くらいであった。現在のスイス連邦の総人口は739万人である。


 という訳でスイスの男たちは周辺諸国へと出稼ぎにいくのだが、これが具体的には………ブルゴーニュ戦争の時にも出てきたが……傭兵であった。スイス人の強さは既に全ヨーロッパに知れ渡っているので派遣先にはことかかない。ただ、一般的なイメージでは傭兵というのは民間人がやる事業なのだが、スイスにおいては国家(各邦の政府)がこれを管理・運営した。各邦の政府がおのおの諸外国の政府と協定を結んで傭兵の募集と派遣を許可し、その見返りとして年金と穀物を得たのである(註2)

註2 スイスは塩も地下資源もなく、それらも外国から買わねばならなかった。


 傭兵業は「血の輸出」と呼ばれ、たちまちスイス最大の産業となった。全ヨーロッパに展開する傭兵ネットワークのもたらす人脈・情報網と金はその後のスイスの金融や商工業の発展を促すことになる(註3)。いわゆる「スイス銀行」(註4)の中には、傭兵の給料の管理運用から業務を発展させたものがかなりあるという。

註3 ただ、その過程で、伝統的に商業・金融に携わっていたユダヤ人を追放している。

註4 「スイス銀行」という単一の銀行がある訳ではなく、スイスに本店を持つ銀行を一括してそう呼んでいる。より正確にいえば、「スイスにおいてスイス連邦銀行業および貯蓄銀行法に基づき設立された銀行」のこと。


 ただ……、各邦の政府は傭兵たちが仕事を終えて故郷に帰ってくるのを歓迎しなかった。返り血まみれの荒くれどもが故郷の治安を乱すようなことがあったら困るからである……。それに、各邦の政府だけでなく、個々のスイス人が私的に外国政府と契約を結ぶことも多々あったし、各邦の政府がそれぞれ違う国と契約することもあったため、外国の戦場でスイス人同士が戦うような事態も発生した。各邦の政府は私的な傭兵契約を厳罰をもって禁止したが、儲けが大きいだけに撲滅することは出来なかった。

   シュヴァーベン戦争とグラウビュンデン自由国   目次に戻る

 86年、皇帝フリードリヒ3世の息子マクシミリアンがローマ王に選出され、父帝を補佐することとなった。凡庸であったが故に皇帝にしてもらえたフリードリヒ3世と違って精力旺盛勇猛果敢な人物であったマクシミリアンがローマ王になれたのは、その頃ハンガリーの軍勢が帝国の東辺を荒らしてまわっていたため、この脅威に対する断固たる反撃が出来る人物として白羽の矢をたてられたからである。そしてマクシミリアンはこの期待に応えてハンガリー軍を叩きつつ(ハンガリー国王が急死したことに助けられた)、90年にはたまたま借金に苦しんでいた分家のジークムントの負債を肩代わりしてやるのと引き換えにその所領を取得した。これで、1365年以来100年以上に渡って分裂していたハプスブルク家はひとつにまとまった。

 93年、フリードリヒ3世が亡くなり、マクシミリアンがその跡を継いで新皇帝となった。本来ならローマ王が皇帝として即位するためにはローマに行って教皇に冠を貰わねばならないのだが、マクシミリアンはこの規則を破って勝手に皇帝になってしまったのである。これ以降、ローマ王に選ばれた者はみんなローマにいかないまま皇帝になるという慣例が成立することになる。しかもマクシミリアンは既に説明したように婚姻を通じてブルゴーニュ公国の北半(ネーデルランド)を支配地に組み込んでいたため、かなり強大な力を蓄えるに至っていた。(正確にはマクシミリアンが皇帝を名乗ったのは1508年のことで、それ以前は「ドイツ王」を称していたが、それでも実質的には皇帝であった)

 その一方で1489年、北イタリアのミラノ公国で内紛が発生、その一方に援助を求められたフランス国王シャルル8世が自ら5万の軍勢を率いてイタリアへと遠征した。フランス軍のうち7〜8000はスイス傭兵であった。フランス軍はなかなかに強く、ナポリのみならずイタリア中部のフィレンツェや南部のナポリに至る広大な地域を席巻した(註5)が、その勢いを見ていて不安になった周辺諸国は反フランスの「神聖同盟」を結成した。皇帝マクシミリアンもその一員である。

註5 当時のイタリアは「ミラノ公国」「ヴェネツィア共和国」「フィレンツェ共和国」「ナポリ王国」といった中小の諸国が乱立していた。神聖ローマ帝国に属していた国もあれば、完全に独立していた国もある。また、ローマ教皇もイタリア中部に巨大な領地を持っていた。


 そんな訳で国際的に孤立したフランス軍は、いったんイタリア侵略を諦めて本国へと撤収するのだが……、この時マクシミリアンは、皇帝の立場を利用して帝国諸侯から対フランス政策用の軍資金をとりたてようとした。しかし帝国諸侯は、当時の帝国内に山積していた諸問題を片付けたうえでないと皇帝には協力出来ないと言い出した。当時の帝国では各地の領主が相争い、夜盗や追剥ぎが跋扈していたのである。という訳で1495年の3〜8月にヴォルムスにおいて「帝国議会」が招集され、フェーデ(私闘)の禁止、紛争回避のための「帝国最高法院」の設置、その運営維持のための「一般帝国税」の徴収が決議された。そして、その決定にはスイスも従わねばならなかった。スイス盟約者団は法的にはあくまで帝国の内部において皇帝から自治を認めてもらっている立場にすぎないからである。

 むろんスイスはこの決定に従うことを拒否した。帝国最高法院とやらがハプスブルク家によるスイス侵略の道具にされるに決まっているからである。しかも、スイスは経済的に競合していた南ドイツの諸侯にも嫌われていた。南ドイツ諸侯は「シュヴァーベン同盟」を結成し、スイスを圧迫した。

 と、そんな事情を背景として1499年2月に起こるのが「シュヴァーベン戦争」であるが、最初の戦闘は現在のスイス連邦の東端に位置する「グラウビュンデン」で発生した。この地域はもともと複数の諸侯の支配下に置かれていたが、14世紀後半以降は各地に散在する小領主や都市や農民が「裁判区」と呼ばれる共同体を52個も形成(その多くは外界から遮断された渓谷の共同体だった)、それらが3つの同盟を組織して諸侯から独立するようになり、15世紀の末からは3同盟の連合体「グラウビュンデン自由国」を結成して自治を行っていた。ところがこの国はやがてハプスブルク家に圧迫されるようになり、ついに武力衝突に至ったのであった。グラウビュンデンはスイスに救援を要請し、ハプスブルク家はシュヴァーベン同盟と連合した。

 スイス軍はまずボーデン湖畔にてシュヴァーベン同盟軍を撃破、続いて4月にボーデン湖畔に来着したハプスブルク軍が3隊に分かれて進んでくると、そのうち1隊を撃破、残りの隊にも撤収を余儀なくさせた。ハプスブルク軍はその後も戦闘の継続を望んだが、シュヴァーベン同盟軍は早々にやる気をなくし、7月に起こった戦闘でまたしてもスイス軍が勝利した。シュヴァーベン同盟軍の首脳陣はともかく一般の兵士たちは、むしろスイスを理想郷とみなして好感を抱いていた(従って同盟の首脳陣としてはスイスを潰しておきたかった訳なのだが……)。続いて8月にはフランス軍がまたしてもイタリアへと遠征したことからそちらへの対処を迫られたマクシミリアンはスイスに譲歩することで戦争を終結せざるを得なくなった。スイスはこの年の3月に10年期限でフランスと傭兵契約を結んでいた。

 そして同年9月に成立した「バーゼルの和約」により、スイスは一般帝国税の支払いを免除され、さらに帝国最高法院の規則から自由であることが認められた。イタリアのフランス軍は翌年4月の「第1次ノヴァラの戦い」でミラノ公国軍と対戦したが、どっちの軍勢もスイス傭兵を主力としており、同士討ちを嫌ったミラノ側のスイス傭兵隊が寝返りをうつという事件が発生した。このいわゆる「ノヴァラの裏切り」事件はスイス史上における最大級の汚点とされている。

   13邦時代   目次に戻る

 それはともかくとして……、1501年6月、エルザス4都市のひとつ「バーゼル」が盟約者団への加盟を希望し、正式メンバーとして受け入れられた。バーセルはエルザス地方の政治・経済の中心地であり、さらに1459年に開設された「バーゼル大学」を擁していた。スイスが大学を持ったのは実はこの時が最初である。バーゼル大学は風刺文学『阿呆船』の著者セバスティアン・ブラントや神学者フルドリッヒ・ツヴィングリを輩出し、大学に関連する印刷業で栄えたバーゼルの町では木版画のアルブレヒト・デューラーや肖像画のハンス・ホルバイン、そして人文主義(註6)の王者と呼ばれるデジデリウス・エラスムスといった高名な文化人が活躍した。エラスムスはこの町で『校訂新約聖書』を出版し、これが後の宗教改革における強力な武器となった。

註6 ギリシア・ローマの古典文学を研究する学問。


 バーゼル加盟と同じ年の8月にはシュヴァーベン戦争で手柄を立てていた従属邦「シャフハウゼン」が正式メンバーに昇格した。ただ、シャフハウゼンもバーゼルと同じく都市邦であったことから盟約者団内部の都市邦と農村邦のバランスが崩れてしまい、これを調整するために農村従属邦のうち「アペンツェル」が1513年をもって正式メンバーに昇格させられた。ただやはり、これらの3邦も先輩の邦と比べると格下という扱いであったが……。ともあれかくして盟約者団の正式メンバーは13邦となり、このメンツが1798年に至るまでスイスを支配することとなる。

 さらに……時間的に前後して申し訳ないが……バーゼルとシャフハウゼンが加盟したのと同じ年には前述のグラビュンデン自由国も加盟してきた。これは「ヴァリス共和国」と同じく、盟約者団と対等の同盟を結ぶ独立国という扱いであった。名作『アルプスの少女ハイジ』の舞台はこのグラウビュンデンである(註7)

註7 ハイジの祖父は若いころ傭兵だったという設定である。


 盟約者団の正式メンバー13邦は全て共和政治を行っていたが、従属邦のうち「ヌシャテル伯領」「ザンクト・ガレン修道院」「バーセル司教領(正式メンバーのバーゼルとは別のもの)」には君主(伯・修道院長・司教)がいた。これらはそれぞれ好機を逃さず盟約者団と同盟を結んでいたため、君主邦として存続することが出来たのである。それから、正式メンバー13邦は「共和政治を行っていた」とはいっても現在の民主政治と比べると平等の精神が徹底しているとは到底いえないものであった。農村邦では「ランズゲマインデ」と呼ばれる直接民主制が行われており(註8)、これは具体的には全有権者が一堂に会して挙手で案件を採決するというものであるが、この方式は近代的な無記名秘密投票と比べると正確な民意を反映しにくいし、「貴族」「自由民」「非自由民」といった身分が存在し(註9)、身分によっては参政権に格差があった。対して都市邦では、都市当局がその周辺の農村部に「郡代官」を派遣して支配していた。農村部はその土地の慣習法を認められ、地域によっては広汎な自治権を有していたが、重要問題に関して都市当局に意見を聴かれることはあってもその意見が都市当局を拘束することはなかった(影響力がなかった訳ではない)。また、都市当局の内部においても、当然ながら収入や教育水準の高い人々が重要な地位を占めていた。チューリヒのようなツンフトが政権を握っている都市邦(バーゼルやシャフハウゼン)もあれば、ベルンのようにツンフト自体が存在しない都市邦(ルツェルンやゾーロトゥルン)もあり、その形態は一様ではなかった。

註8 現在のスイス連邦でも一部地域に存続している。

註9 ただし貴族の所有地は早い時期に各農村の共同体に買収もしくは没収されている。


   ミラノ戦争   目次に戻る

 イタリアでは相変わらずフランス軍が侵略戦争を続けていたが、スイス傭兵にきちんと給料を払わなかったことから彼らの間に不満が高まった。スイスの原初3邦はこれを利用してイタリア北端の「ベリンツォーナ」を占領、その支配権を1503年の「アローナ条約」でフランス国王ルイ12世に認めさせた(原初3邦による共同支配地とした)。フランスとスイスの傭兵契約は1509年をもって満期終了となり、フランス側の金払いが悪かったせいで更新はされなかった。そのかわりに、ここしばらくのフランスのイタリア政策に恐怖を抱いていたローマ教皇ユリウス2世がスイスとの傭兵契約を締結した。教皇側でこの交渉に尽力したのはマテーウス・シーナーというスイス(ヴァリス共和国)出身の枢機卿であった。

 1511年、ローマ教皇はスイス、イギリス、スペイン等と同盟してフランスに宣戦した。スイス軍はそれまでフランス軍が支配していた北イタリアのミラノ公国を制圧して傀儡政権をこしらえ、ミラノ領のうちスイスと隣接する地域を奪って共同支配地にした。フランスは13年にミラノ奪回の軍を起こしたが、スイス軍は「第2次ノヴァラの戦い」でこれを撃退した。この頃はスイス軍が最も精強だった時代であり、イタリアの政治思想家ニッコロ・マキャヴェッリに「近代戦術の熟達の師」と讃えられた。

 ところが15年、フランスにて新たにフランソワ1世が即位し、彼自ら3万の軍勢を率いて、通行不可能といわれていたラルシュ峠からアルプス山脈を突破してミラノへと進撃してきた。しかも、ローマ教皇はフランスよりもスイス傭兵に対する給料の支払いが悪かったため、スイスでは「やはりフランスと契約し直した方がよいのでは?」という派が台頭して紛糾した。スイスには中央政府がないので、いったん揉めるとそれを鎮めるのが難儀なのである。無論これにはフランスからの工作も作用しており、ミラノに駐留するスイス兵の中にはフランスの工作員に金を掴まされて帰国してしまう者が続出した。そして同年9月、スイス軍はミラノ南東15キロの地点で発生した「マリニャーノの戦い」でフランス軍に大敗した。スイス軍はパイク密集方陣の威力を過信しすぎ、フランス軍の優勢な砲兵の前に惨敗を喫したのである。

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