スコットランド史略

前編その1

 かつて一面の氷河に覆われ、人の居住の不可能な極北の地であったスコットランドに最初の人類が現れたのは氷河の溶けだす紀元前の3500年頃、一番乗りを果たしたのはイベリア人とよばれる新石器時代人の一群であった。

 彼らはいつしか青銅器製造の技術をおぼえ、各地に環状列石や石室墳墓、さらには石で囲った半地下の住居等を築いたが、中でもシェトランド諸島サムバラに前2000年頃築かれたジァールズホフ居住地は、後述するピクト人の時代をへて9世紀にはノルウェーからやってきたヴァイキングの一団が住み着き、実に18世紀に至るまで住居として利用されたという歴史的集落である。

 次に登場するのはケルト人の一派とされるピクト人である。彼等は前700年頃スコットランドに上陸し、この地域に鉄器をもたらしたが、自分の体に色を塗り付ける習慣をもっており、後にこれを見たローマ人が「p i c t ( 色を付けた ) 人」とよんだことがその民族名となったという。

     

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 1世紀の末、ローマ帝国属州ブリタニア(現在のイングランド)の総督アグリコラ(高名な歴史家タキトゥスの岳父)は、当時カレドニアとよばれていたスコットランドの征服をくわだて、84年の夏にはモンズ・グロピアスの戦いにてガルカカス率いるピクト人の軍勢を大破し、さらに北上してカレドニア南部の完全制圧を目指そうとした。しかし彼は突然の召還命令をうけ、その遠征軍も南方への撤退を余儀なくされた。(以上はアグリコラの養子タキトゥスの著書「アグリコラの生涯」に記述された、スコットランドに関する最古の文献記録である。同書によるとアグリコラはモンズ・グロピアスの戦いの後さらにオークニー諸島への遠征を行い、アイルランドの攻略まで計画したという)

 この後しばらく、ローマ帝国はライン方面やダキア(現在のルーマニア)の制圧に忙しく、再びカレドニア地方の攻略に乗り出すのは、ローマ史上に名高き5賢帝の3人目、皇帝ハドリアヌスの治世となって以降である。

 117年、属州ブリタニアの北部、カレドニアとの国境地帯に駐留するローマ第9軍団が突如壊滅(原因は一切不明)し、その翌々年には皇帝ハドリアヌス本人がブリタニア北部の宣撫に訪れた。彼はとりあえずピクト人との争いを避け、122 ?6年にかけて「ハドリアヌスの長城」を築き、北方のピクト人に対する防御を固めることにした。

 114年、新皇帝アントニヌス・ピウス(5賢帝の4人目)は、カレドニア南部に大規模な攻勢をかけ、ハドリアヌスの長城のさらに北に「アントニヌスの長城」を建設した。

 116キロに及ぶハドリアヌスの長城がすべて石で建設され、その一部が20世紀の今日まで残っているのに対し、全長50キロのアントニヌスの長城はそのほとんどが土塁という手抜き工事であった。

 155年頃にはピクト人の軍勢がアントニヌスの長城を突破、以後数十年に渡ってピクト・ローマ両軍の戦いが続いた。この争いの最中(192年)ローマにおいて帝位をめぐる内乱が起こり、時のブリタニア総督アルビヌスも帝位を狙ってガリア(現在のフランス)に上陸するという大事件が勃発した。しかしアルビヌス率いるブリタニア軍団は新皇帝候補の本命セプティミウス・セウェルスのイリリウム軍団とリヨンに戦って敗れ、手薄になったブリタニアはピクト人等の攻撃で壊滅の危機に瀕した。

 193年、皇帝位を固めたセプティミウス・セウェルスはただちにブリタニアの回復に乗り出した。セウェルスに派遣されたローマ軍は各地で敵軍を破り、前年破壊されたハドリアヌスの長城を修復した。

 208年、皇帝セプティミウス・セウェルス本人の率いるローマ軍が海からカレドニアに遠征、しかし湿地帯とピクト人のゲリラ戦に悩まされ、3年後には占領地を捨ててハドリアヌスの長城までひきあげた。ピクト人はローマ軍を追撃せず、ローマ軍の方も長城の防備を固め、以前の様な積極的な攻撃策を放棄することにしたのであった。

     

   ローマ軍撤退   目次に戻る

 4世紀の中頃、それまでアイルランドに住んでいたスコット人がカレドニア西部に移住、これにブリタニアから北上してカレドニア南西部に住み着いたブリトン人が加わり、先住のピクト人と共にローマ領ブリタニアを激しく攻撃した。

 383年とその翌年のローマ軍による南部カレドニア遠征、396年の、最後のブリタニア総督スティリコの遠征もうまくいかず、その遠征自体も、カレドニア征服を目指す積極策というよりは、北方からの脅威を払うための防御策といったほうが相応しい消極的なものとなっていた。

 410年、相次ぐゲルマン諸民族の侵入に悩むローマ帝国は戦線の縮小をはかってブリタニアを放棄、300年に渡ったローマ帝国の対カレドニア政策は終わりを告げ、以後のカレドニアはピクト人・スコット人・ブリトン人、さらに今日のデンマークから北海を越えてやってきたゲルマン系アングル人の跳梁にまかされることになった。

   

   暗黒時代   目次に戻る

 ローマ軍撤退の後約200年、カレドニアは全く記録の残らない暗黒時代となる。どうにか事情の明らかになる7世紀、この地域は北西部のスコット人、北東部のピクト人、南西部のブリトン人、南東部のアングル人という4つの勢力が並び立っていた。

 この中で最も強力だったのはスコット人である。かつてアイルランド北部に居住していたスコット人はカレドニア移住の前からキリスト教を信仰しており、先住のピクト人に対するキリスト教布教を背景として、しだいにピクト人と融合していった。

 844年頃、スコット王ケネス・マカルピンはピクト人の国を併合して統一国家アルバンを建設した。この国は945年には南西部のブリトン人の国を滅ぼし、続いて南東部のアングル人の国をも勢力下において、ほぼカレドニア全域の統一に成功した。こうしてこの地域は11世紀の初め頃にはスコット人の国、すなわちスコットランドとよばれる様になった。(ピクト人の国を併合したケネス・マカルピンは、それまでのスコット人の首都であったオウバンから、ピクト人の宮廷があったスクーンに遷都した。846年、歴代のスコット王が戴冠の座として用いてきた「運命の石」が新首都スクーンに移され、以後の国王はこの「スクーンの石」の上で冠を受けることになった。しかしこの石は、1296年にスコットランドに遠征してきたイングランド王エドワード1世に持ち去られ、以後はイングランド王の戴冠の椅子にはめ込まれることになった。つまり、その椅子にて国王の冠を受けた者は、イングランドとスコットランド双方の王位を兼ねることになったのである)

   

   マクベス   目次に戻る

 1034年、代々スコットランドの王位を受け継いだきたケネス・マカルピンの男子直系が断絶し、その最後の王マルカム2世の長女ベソックと修道院長クリナンとの間に生まれたダンカン1世が跡を継ぐことになった。しかし彼は1039年にイングランド北部への遠征をはかって失敗し、翌年には従兄弟のマクベスに殺されてしまった。

 マクベスは前王マルカム2世の次女ドウナダとマリの領主フィンレックの子として1005年頃に生まれたとされているが、彼の妻もまたケネス・マカルピンの血を受け継ぐ者であり、マクベスにも充分にスコットランドの王位を主張する資格があったのである。

 シェークスピアの悲劇で知られ、そのイメージからあまり評判の良くないマクベスであるが、スコットランド王としての彼の統治はなかなか優れたものであり、45年には彼の王位に反対するクリナン(ダンカン1世の父)を敗死させ、50年にはローマへの巡礼を行って、畑に種を蒔く様に貧しい人々にお金をばらまいたという。

 力による王位の纂奪を行ったマクベスは、当然のことながら自分の王位を守るのに血眼になった。43年、これもやはりケネス・マカルピンの血を引くロッハバーの領主バンクォウを計略にかけて殺し、その長男フリーアンスをウェールズに逃亡させた。(ウェールズに逃れたフリーアンスはその後処刑されたが、その子ウォルターはマクベスを殺すことになるマルカム3世に仕え、ロード・ハイ・スチュアートという役職を授けられた。最後のスコットランド王家、スチュアート家の始祖である)

 1054年、マクベスに殺された前王ダンカン1世の子マルカム・カンモーは、伯父であるノーサンブリア伯シューアドの援助を受けて反マクベスの兵を挙げ、同年スクーンの戦いにてマクベス軍を破り、翌々年のランファランの戦いで遂に父の仇マクベスを討ち取ることに成功した。

 しかし、ここで新国王に選ばれたのはマルカム・カンモーではなくマクベスの義理の息子ルーラッハであった。 当然マルカム・カンモーはルーラッハの王位に不満である。1058年3年3月、ルーラッハはストラスボギーにて殺害され、かわってマルカム・カンモーが新国王マルカム3世として即位した。

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