ロシア革命 第1部その1

 ロシアの20世紀は戦争の足音と共に始まった。

 帝政ロシアでは前世紀の末頃から急速な工業化がなされていた。鉄道の敷設、金属工業、燃料鉱業、19世紀の最後の10年間、年あたりの平均成長率は8%に達し、これは同時期の西欧の諸国のそれをはるかに凌ぐものであった。とはいえこれらは戦争の準備に必要な、一般民衆の生活向上とは無関係な重工業に限られた世界の話であった。19世紀の末、ドイツに対抗するフランスはロシアへの接近をはかり、1891年の「露仏同盟」以降、ロシアには膨大なフランス資本が流入するに至っていた。この動きがロシア側の富国強兵策と合致して、かつてない工業化をもたらしていた訳ではあるが、かような新しい工業は外国資本の導入以外にも、政府による製品の高価格買い上げ・補助金の給付といった保護政策によって支えられており、そのための財政支出を負担するのは、重工業の恩恵を直接被ることのない一般民衆、特にその大多数を占める農民であった。

 かくして20世紀の初頭、農村では一揆が頻発していたが、農民出身の工場労働者もまた貧窮していた。苦しい生活を強いられる農村(註1)から都市に流入した労働者は工場においても劣悪な条件下で1日12〜16時間の労働を強いられており、1900〜03年の恐慌とあいまって、ストライキをおこしては皇帝の警察・軍との衝突をおこすに至っていた。学生・知識人もまた盛んに動いた。後述するエス・エル(社会革命党)が結成されたのが1901年の末、1898年に創設された直後に弾圧にあって活動を休止していたロシア社会民主労働党が、事実上の創立大会である第2回党大会を開いたのが1903年であった。

 註1 19世紀中期までのロシアの農村では、農民が地主貴族の領地に縛り付けられる「農奴制」が健在であった(農奴は売買されたり地主の意向で流刑にされたりもする)。1861年の「農奴解放令」によって農奴は人格的には解放された(売買されたりはしない、ということ)が、貴族にも広大な土地が残され(農民はそこで低賃金で働くか高額の地代を払って借りるかする)、狭い土地を手に入れた農民はその代価を年賦で払わなければ(極めて高く、農民を借金まみれにした)ならなかった。また、税負担も厳しいものであった。つまり、農奴制は形を変えて存続していた訳であり、本当の解放、つまり地主貴族の土地の無償解放は十月革命の後となる。また、農民は農村共同体(ミール)に所属し(農奴解放で有償解放された土地はまずミールに渡され、そこから各農民に割り当てられる)その承認なしには村から出ることも土地を家族で分割することも出来なかった。それが解体されるのはスターリン時代のことである。

 かような革命的気運の盛り上がりの中、帝政ロシアは対外戦争によって国民の不満をそらそうと考えた。帝政の治安責任者としてストライキ等の弾圧にあたってきた内相プレーベの有名な台詞「国内の革命的な状況を阻止するには、ちょっとした対外的勝利が必要なのだ」。様々な理由から、当時の帝政ロシアは日本との対立を激化させていた。

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 だが、大方の予測に反し、「日露戦争」の戦局はロシアにとって思わしいものではなかった。国内の意志も結束を欠いていた。開戦の8ヵ月後、前述の台詞を吐いた内相プレーベがエス・エル党員の凶刃に倒れた。旅順要塞が日本軍に落されて2週間の後、首都ペテルブルクのプチロフ工場にて大規模なストが勃発した。

 1905年1月9日の日曜日、数万の労働者とその家族が行列を組んで市の中央にある冬宮へと歩き出した。彼等は「父なるツァーリ(皇帝)」を素朴に信じ、様々な悪政は皇帝の周囲の悪い貴族たちによってなされていると考えていた。「陛下、私たちペテルブルグ市の労働者は、正義と保護を求めて陛下のみもとに参りました」。不公平な税制の改革・戦争の中止・労働者保護立法を求めるこの完全に平和的なデモは、しかし集結した軍隊の一斉射撃によって残酷に鎮圧された。首都労働者の皇帝への信望は失われた。

 1905年の「第一革命」はこの「血の日曜日事件」によってひきおこされた。国内各地にストが波及した。5月15日、イヴァノヴォ・ヴォズネセンスク市にて最初の「ソヴィエト(評議会)」が結成された。ソヴィエトとは、工場を基礎として一定の割合で選挙された全市の労働者代表の会議(500人の労働者につき1人の代表を選出)で、地区の労働者の闘争を指導する機関であった。労働者や農民だけでなく、ブルジョア(註1)や地主、貴族といった富裕な階級の中の進歩的な人々までが革命に味方した。彼等は帝政の君主独裁政治に対抗しうる、憲法や議会の制定をこの機に実現しようとはかったのである。

 註1 詳しくは後述するが、鉄鉱石や工場といった「生産手段」の所有者のことである。彼等に雇傭されるのが「プロレタリアート」である。

 6月14日、エイゼンシュテインの映画で有名な「戦艦ポチョムキンの反乱」がおこった(註2)。この反乱の直接の原因は映画に描かれている通り、水兵の食事があまりにも粗末であったことに起因するが、他の艦でも「ポチョムキン」の反乱に同調する空気が強く、燃料の尽きた「ポチョムキン」がルーマニアの港で投降するまで、帝政の側は何の手出しも出来なかった。

 註2 セルゲイ・エイゼンシュテイン監督のソヴィエト映画『戦艦ポチョムキン』は1925年に第一革命20周年を記念して公開された。監督はこの時27歳、モスクワ参謀本部アカデミー東洋部で日本の言語・文化を学んだこともある。

 10月、モスクワとペテルブルグで大規模なゼネストがおこり、そちらでもソヴィエトが結成された。100万の労働者がストに入る(註3)という空前の騒擾の中で、帝政は日本との講和交渉をまとめて帰ってきたウィッテ伯を中心として、ようやく事態の収拾に乗り出した。

 註3 例えばモスクワの印刷工は、句読点の植字にも普通の文字と同額の手間賃が払われるべきことを要求した。

 10月17日、「十月宣言」が発布され、信教・思想・言論・集会・結社の自由が認められ、立法権を持つ国会(ドゥーマ)の創設が宣言された。革命への大きな譲歩であったが、これは同時に革命勢力の分断策でもあった。進歩的なブルジョアや貴族は「十月宣言」で充分満足し、革命の隊列から離れてしまったのである(註4)

 註4 当初、ブルジョアジーと労働者の利害は一致しており、ストに参加する労働者に対して、革命に協力的なブルジョアから通常の半額〜全額の給料が支給されていた。しかし11月に入り、労働者が8時間労働を主張(ブルジョアジーの利害を損なう)するに至ると、その様なサービスは停止されてしまった。

 しかし労働者や農民は戦い続けた。10月中にはクロンシュタット軍港で水兵の反乱がおこり、11月中旬にはセヴァストーポリでさらに大規模な反乱が勃発した。とはいえ12月におこったモスクワの武装蜂起は完全な失敗に終った。やはりブルジョアの戦線離脱は致命的だった。そもそも、経済的に後進国であったロシアのブルジョアは、帝政からの補助金や発注によって育成されており、後述するレーニンやトロツキーにいわせれば、彼等(ブルジョア)は自分たちの産みの親であり保護者である帝政よりも、革命的な労働者がどさくさまぎれに「社会主義(後述する)」実現を唱えて工場や商店を占拠することの方を極度に恐れたのであった。

 いずれにせよ「第一革命」は、本当の「革命」にはならなかった。海軍はかなりの程度革命に与したが、陸軍部隊の大半は革命を鎮圧する側にまわってしまった。革命の指導者たちは、革命的な労働者出身の水兵が多い海軍とくらべて、陸軍兵士の供給源である農民たちが革命を理解出来なかった(実際にはかなり大規模な一揆がおこっている)のだ(註5)と考えた。曰く農民は本質的に保守的・反動的で革命の主体にはなりえない、曰く「血の日曜日事件」で眼の醒めた労働者と違って、無知な農民は皇帝への信望を捨てきれなかったのだ。……かような考えが正当かどうかは別として……今回の第一革命では、軍隊の大部分は革命の側には与しなかった。後におこる「二月革命」「十月革命」では、この農民と、「制服を着た農民」である陸軍兵士の革命的役割をどう考えるかが大きな問題となってくるのである。(註6)

 註5 陸軍よりも海軍の方が高度の技能を要求するため、教育程度が高いのである。

 註6 19世紀後半以降の革命においては、軍隊の動向は決定的に重要なものである。強力な火砲を持つ1個師団の正規軍は、貧弱な武器しか用意しえない労働者の革命軍100万人を圧倒しうるのである。

 すぐに反動が始まった。革命の鎮圧によって自信をつけた帝政は、「十月宣言」すらも必要以上の譲歩であったと考え出し、「宣言」の発布に努力したウィッテ伯は罷免、「宣言」に基づいて招集された国会は極端な制限選挙(註7)によるものになってしまった。

 註7 女性・軍人・小企業の労働者・一部の少数民族は選挙権を持たず、地主の1票はブルジョアジー3票、農民15票、労働者45票に相当する。

 とはいえ、第一革命後のロシアでは、1890年代に引き続き工業の発展が見られ、1912年頃には、それによってさらに増加した工場労働者が再び待遇改善等を求める大規模な闘争を開始するに至っていた。「国内の革命的な状況を阻止するには、ちょっとした対外的勝利が必要なのだ」。10年前のプレーベの言葉が甦った。今度の敵はドイツであった。

   

   第一次世界大戦の勃発   目次に戻る

 1914年7月に始まった第一次世界大戦は、当初いずれの国においても愛国的熱狂をもって迎えられた。イギリスでは軍への志願者があまりにも多いため、銃のかわりに雨傘やほうきをもって教練をしなければならず、ロシアでも昨日までの革命的機運は跡形もなく消え去った。戦争熱にうかれたデモ隊がドイツ人の経営する商店やドイツ大使館を襲撃し、サンクト・ペテルブルグという首都の名称がドイツ的であるとして、ロシア的な「ペトログラード」に改称されてしまった。国会でもほとんどの政党が戦争支持で結束した。世界の主要な国々は、連合国(フランス・ロシア・イギリス等)と同盟国(ドイツ・オーストリア・オスマン帝国等)の2陣営に分れての以後4年に渡る激戦へと突き進んでいった。

 戦争の序盤、ロシア軍はかなりの戦果をあげた。ロシア軍の動員スピードはドイツ側の予測を越えており、一旦はドイツ本国の東プロイセンにまで攻め込んだ。これはロシアの同盟国フランスの要請によるもので、この頃ドイツ軍の攻撃を受けていたフランスが、ドイツの東部国境に展開するロシア軍を動かすことによって、ドイツ軍の主力を東へと振り向けさせようと考えたのだった。

 フランス軍の作戦は大当たりした。ドイツ軍が西部戦線(ドイツから見て対フランス戦線)から東部戦線(対ロシア戦線)へと2個軍団半の大軍を移したことにより、危機的状況に陥っていたフランス軍にゆとりが出来たのである。しかしその分、全速力で東部戦線に駆けつけてきたドイツ軍の反撃により、ロシア軍は世界戦史に稀に見る大敗北(タンネンベルクの戦い)を喫してしまったのであった。

 かように、いってみればロシア軍が棄て駒になってくれたおかげで、フランス軍はドイツ軍の対フランス攻勢を食い止めることに成功した。とはいえフランス軍にもドイツ軍を徹底的に粉砕するだけの力がなく、以後の西部戦線は長い長い膠着状態に入ることになった。

 ロシア軍は弱かった。ロシア軍は「タンネンベルクの戦い」の後も、ドイツの同盟国オーストリア(ロシアよりもっと弱い)の北東部ガリツィア地方を占領していたが、15年4月にはドイツ軍の援助を受けたオーストリア軍の反撃が始まり、ろくな抵抗も出来ないままに「大退却」を余儀なくされた。ここ数十年工業化に励んできたとはいえ、ロシアの工業力はドイツのそれには遠く及ばず、弾薬も服も靴もそれを運ぶ鉄道も全然足りなかった。ロシア軍の兵士たちは石を投げてドイツ軍と戦うことすらあったという。

   

   革命機運の醸成   目次に戻る

 1916年の末、開戦から2年経過したロシア軍の召集兵は1500万近くに達し、そのうちの3分の1近くが失われていた。このような大規模な動員(註1)は農村における深刻な労働力不足をもたらし、16年の作付け面積は戦前の約8割、収穫量は4分の3にまで低下していた。工業では、労働者の4分の3が軍需関係の工場で働き、それによる機械・化学工業等の増産と反比例して、繊維・食品等の生活関連工業は減産される一方であった。帝政はこの年、従来兵役を免除されていた中央アジア諸民族を後方勤務に動員すると発表したが、中央アジアの住民はこれに抵抗して反乱をおこした。この反乱は2000人余りの死者を出した末に鎮圧されたが、かなりの数の反徒が中国領に逃げ去った。開戦当初の熱狂はもはや存在しなかった。

 註1 男だけでなく耕作馬も軍馬として徴用される。

 すでに15年の秋以降、各地にストライキが頻発していたが、16年10月には首都ペトログラードにて物価上昇に反対する労働者6万人によるストがおこり、工場街の兵営にいる兵士がストを鎮圧しようとする警察と衝突するという事件までおこった。「制服を着た農民」である兵士も、長引く戦争に疑問を抱き始めていた。戦争の規模も損害も、それによって増幅される労働者や兵士の革命的機運も、日露戦争の時とは比較にならないものになっていた。「二月革命」が近付きつつあった。

 一方ブルジョアたちは、戦争に勝つためには自分たちの代表による責任内閣制を持たなくてはならないと考えた。「強力にして、毅然たる、活動的な権力のみが祖国を勝利に導きうるし、そのような権力となりうるのは、ただ国民の信任に依拠し、全市民の積極的協力を組織しうる権力のみだ」。ブルジョアが政治を動かす西欧の諸国と違い、ロシアでは皇帝とその側近のみが政治を動かす君主独裁制が健在であり、国会も形式だけのものだった。かような体制に反発するブルジョア(しかし、彼等にどの程度まで徹底的に反発する力と意志があるかは、後で大問題となる)は次第に国会内に勢力をのばし、後の「二月革命」において中心的な役割を果たすことになる。ただし、ここで確認しておかなければならないのは、ロシアのブルジョアは戦争の遂行に熱心であったということである。これはまず、伝統的なロシアの南下政策(ブルジョアの利益に直結する)の最終目標であるトルコのダーダネルス海峡(地中海の東北の入口)を、連合国が戦後のロシアの取分として約束してくれていたこと、ロシアのブルジョアが、経済的・思想的にフランス(連合国の主要な一員)の強い影響下にあったこと等が考えられる(猪木ロシア革命史)。

 ブルジョアや進歩派貴族の一部は、国民に人気のない皇帝ニコライ2世を退位させ、人気の高い皇弟ミハイル大公を摂政にすえるという「宮廷革命」を考えていた。しかしかような動きは、あくまで「戦争に勝つ」ためのものであり、戦争に疲れきった兵士や労働者の意志を汲む動きでは決してなかった。いや、そもそもブルジョアジーは……後で詳しく説明するが……その労働者の方を恐れていた。「宮廷革命」は、労働者たちが自分自身の革命をおこす前にブルジョア・進歩派貴族が権力を握るための「予防手段」となるハズであった。それに何も帝政そのものを廃止するといっている訳ではないのだ。しかし、ブルジョアジーは結局「宮廷革命」を実現しなかった。それどころか「宮廷革命は(労働者主体の)革命を予防する手段となるかわりに、雪崩をおこす最後の衝撃となり、そこから薬は病そのものより破滅的なものになるのではないのか?(ロシア革命史)」

 彼等ブルジョアは何故かように労働者を恐れるのか? 少し時間的に話が前後するが、ここでその辺りを詳しく説明してみよう。

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