ローデシア 第4部

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 1964年10月に独立を達成したザンビア共和国はローデシアのZAPUゲリラを助け、そのことでスミス政権に国境を封鎖されたりして経済的な打撃を被ったことは既に述べた通りである。苦境に立ったザンビア政府は69年8月に基幹産業である銅鉱業の国有化を行い、さらに中国に借款を供与してもらった。大統領ケネス・カウンダは「部族主義を克服する」と称して70年2月に野党「アフリカ人民族会議」を、72年に同じく「連合進歩党」を相次いで非合法化し、73年には自分の与党「統一民族独立党(UNIP)」による一党独裁体制を完成した。こんなことをやりつつも、70年代のはじめまでは銅価格が高値で安定していたおかげでまずまずの経済状況を維持出来た。ザンビアは現在でも輸出額の6割を銅に頼っており、日本で使っている10円玉にもザンビア産の銅が使われているそうだ。ザンビアはアフリカ諸国の中では都市(鉱山町)人口が多く、それを食わせるために銅の儲けを使ってトウモロコシを安価で供給した。

 内陸国ザンビアが銅を輸出するためには他国の領内を通る鉄道を使わなければならない。ローデシア白人政府にそちらの鉄道利用を止められたザンビアは西の隣国アンゴラを通るルートで代用していたのだが、75年8月にはアンゴラ側の内戦で使用不能となってしまった。さらにこの年には(鉄道に関しては10月に東の隣国タンザニアを通る路線が開通したのだが)銅価格が暴落したため、ザンビア経済は大打撃を受けた。これに伴い都市部の食糧供給が滞り、さらに官吏の間に汚職が蔓延ったことからカウンダ大統領の信用が低下した。80年と81年には反カウンダのクーデター計画が摘発され、カウンダはこれらについて南アフリカの関与を指摘した。カウンダは南アフリカに対してアパルトヘイト廃絶を強く訴えており、85年6月には南アフリカ空軍機が「ザンビアがANC(南アフリカの黒人解放組織)を匿っている」としてザンビア首都ルサカを爆撃する事件が発生した。

 88年、カウンダの大統領職は6期目に入った。この年またクーデター計画が摘発され、90年にもクーデター未遂・食糧暴動が発生した。手詰まりとなったカウンダは複数政党制への移行を決意した。そして翌91年10月の大統領選挙では「複数政党制民主運動(MMD)」という分かりやすい名称の党を率いるフレデリック・チルバが得票率76パーセントという大勝をおさめ、続く総選挙でもMMDが勝利した。カウンダは大人しく引き下がり、その潔い態度は国際世論の称賛を受けた。

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 という訳で新大統領に就任したチルバはまず、カウンダ政権によって国有化されていた産業を民間に解放した。すると当然のように南アフリカをはじめとする外国資本が殺到して企業を乗っ取り(現在のザンビアの貿易相手国は南アフリカがダントツの1番である)、折から中東で起こった湾岸戦争の影響で石油価格が高騰したこともあって貧富の差が拡大した。92年5月には銅山で1万人規模のストが発生した。93年3月、カウンダ派UNIPによるクーデター計画が摘発され、カウンダの息子3人が逮捕されるという事件が起こった。さらにチルバの与党MMDが腐敗に絡んで分裂するという騒ぎが起こる。このような情勢の中でカウンダが次の大統領選挙に向けて動き出し、それをチルバが強引に妨げようとした。そのためだけに憲法に「カウンダ条項」と呼ばれる修正をねじ込んだのである。チルバの強引な手法は内外の批判を呼び、外国からの援助が停止された。

 96年の大統領選挙・総選挙ではチルバ・MMDが大勝した。とはいっても、これはカウンダ派UNIPがボイコットしたことや、他の新しい党の組織が出遅れた結果であり、不正の可能性も取沙汰された。翌97年にまたクーデターが発生し、「国家救出評議会」なる組織が国営テレビ・ラジオ局を占拠したが、すぐに鎮圧された。カウンダはこれとの関係を否定したものの逮捕・自宅軟禁となった。

 2001年の大統領選挙ではチルバは先に自分が決めた「カウンダ条項」にある「3選禁止」に従って出馬せず、彼の後継者のムワナワサが立候補、当選した。この選挙は11人が立候補し、1位のムワナワサと2位の候補の得票率が2パーセントしか違わないという激戦であった。この時も不正疑惑が取沙汰され、最高裁に対し選挙結果の無効請求がなされたが、審議の末に却下となった。ムワナワサ大統領は汚職の追放を最大目標とし、何と自分を後継指名してくれたチルバを逮捕した。実はムワナワサの背後にはカウンダ派UNIPがいるとも噂されている。

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