パラグアイ戦争

 南米のパラグアイは1811年にスペインから独立した国である。建国後30年ほどは総統フランシア博士のもとで自給自足経済の鎖国を行っていたが、彼の死後の44年に権力を握ったアントニオ・ロペス大統領は他国に門戸を開いて外国の技術者を招聘、鉄道や電信・製鉄所・印刷所の設置、それから奴隷制の廃止や義務教育の制定といった近代化に努力した。51年には国境問題・河川交通問題から南の隣国アルゼンチンと険悪になったがブラジル・ウルグアイと組んでこれを乗り切った。

 しかしその次は北の隣国ブラジルと険悪になる。パラグアイは内陸国だがそのど真ん中を流れるパラグアイ河がブラジル領のマット・グロッソから大西洋に出るための重要河川とされており、領土問題も存在した。パラグアイ大統領アントニオ・ロペスはなんとか外交努力でブラジルの圧力を回避し続けたが、62年に亡くなる彼の跡を継いで大統領に就任した息子のソラノ・ロペスは父の遺言「剣によらずペンで解決せよ」を守らなかった。ソラノ・ロペスはフランスに外交官として滞在した時にそちらの皇帝ナポレオン3世とその軍隊に心酔しきってしまい、大統領就任後は自国の軍隊を増強して当時の南米では最大という2万8000の常備軍を建設した。

 63年、ウルグアイにて与党ブランコ党と野党コロラド党と内戦が勃発した。ベナンシオ・フローレスの率いるコロラド党にはブラジル・アルゼンチンが支援についた(この時点では軍隊は出していないが)ため、ブランコ党のアタナシオ・アギレはパラグアイに援助を求めることにした。64年10月、ブラジルは軍隊をウルグアイ領内に進入させた。ブランコ党を助けることに決めたパラグアイのソラノ・ロペス大統領はブラジルに抗議して拒否されるや国交断絶を宣言した。ここに始まるのが「パラグアイ戦争」である。ソラノ・ロペスはこの戦争を通じての南米国際社会における発言権の拡大と、ブラジル・アルゼンチンの触手がウルグアイの次に自国に向いてくるのを回避することを狙っていたとされている。彼の父はそれを外交で回避せよと言っていたのだが……。

 戦闘は12月、パラグアイ軍の先制で始まった。まずはブラジル領のマット・グロッソを攻撃、以前からの両国間の係争地域を2週間で占領、大量の武器弾薬を捕獲した。その頃ブラジル軍の主力はウルグアイ領内におり、マット・グロッソ方面は全く手薄だったのである。翌年パラグアイ軍は今度はウルグアイ領に進軍しようとしたがそちらとは直接国境を接していないため、アルゼンチン領を通る必要が出てきた。実は当時のアルゼンチンは国内の統一があまり保たれておらず、実力者の1人ウルキサがアルゼンチン中央政府に反乱を起こしてパラグアイ軍を助けるという約束をした。

 しかしウルキサは動かなかった。さらに2月20日、パラグアイが助けようとしていたウルグアイのブランコ党がコロラド党に降伏してしまった。3月18日、引くに引けなくなったパラグアイ政府はアルゼンチンに対し宣戦布告、パラグアイ河・パラナ河に沿って進撃して4月12日には国境近くのコリエンテス市を占領、さらに別の部隊が諸国の国境が入り組んだ地域で優勢に戦いを進め5月5日にはブラジル領のウルグアヤーナ市を占領した。しかしその4日前、ウルグアイのコロラド党フローレス政府がブラジル・アルゼンチンとの間に対パラグアイ3国同盟を結成し、3国はパラグアイのソラノ・ロペス政権を打倒するまで戦争をやめない……等を取り決めた。こうして3対1となった戦局はパラグアイにとって絶望的な方向へと傾いた。パラグアイ軍は6月11日のリアチュエロの戦い、8月17日のヤタイの戦いで敗北した。先にウルグアヤーナ市を占領していた部隊6200人はブラジル軍2万に包囲されて降伏した。これはパラグアイ軍最良の部隊であったのだが。

 この戦争では河川での海戦(?)が行われた。パラグアイは内陸国だが河川艦隊を持っていたのである。パラナ河のリアチュエロにてパラグアイ艦隊8隻とブラジル艦隊9隻が衝突、パラグアイ側が相手の艦艇に接舷攻撃をかけて拿捕しようとしたが舷側の高さが違ったりして失敗、その後の砲戦で敗退した。

 3国連合軍は主にアルゼンチン領からパラナ河・パラグアイ河に沿うルートでパラグアイ領に侵攻することにした。この頃のこの地域は鉄道が大して普及しておらず、軍需物資は河川に船を通して運ぶのが一番効率的だったからである。そのままパラグアイ河を進んでいけばパラグアイ首都アスンシオンに行き着くが、そこまでにはツユティ、クルパイティ、ウマイタといった拠点が連なっている。

 66年5月、パラグアイ河とパラナ河の合流点に近いツユティで激戦が行われ、5時間で1万人が戦死するという死闘の末にパラグアイ軍が敗北した。しかし9月22日のクルパイティの戦いはパラグアイ軍が勝ち、その北西に位置するウマイタの要塞に至っては2年間に渡って連合軍の攻撃を退け続ける。9月2日にはブラジル艦「リオデジャネイロ」を機雷で撃沈した。

 パラグアイは3国との10倍以上の人口差を補うために少年兵や老人兵を動員し、婦女子も後方要員としてこれを助けたが、さすがに全国民がソラノ・ロペス政権を支持していた訳ではなく、クーデターをたくらむ不穏分子としてソラノ・ロペスの実弟2人・義弟2人を含む数百人が処刑されている。そんな状態でも戦争を継続出来たのは、アルゼンチン側でこの66年末になってやっと反乱が起こり(長くは続かなかったが)、ブラジル側では補給路が長過ぎたり国土が広大で兵士の動員が難しかったりして、それほどの大軍が投入出来なかったからでもある。しかし、人口の少ないパラグアイ側が損失の補填困難なのに対し、3国連合軍は時間さえかければいくらでも補充が可能であった。

 68年2月、粘り続けるウマイタ要塞の目の前(パラグアイ河)を突破したブラジル艦隊がパラグアイ首都アスンシオンを砲撃した。3月、ウマイタ要塞のパラグアイ軍守備隊の主力は後方に撤収した。要塞死守を命じられて残留した3000人は7月まで粘った上で撤収した。8月のアコスタ・ニューの戦いでは3500のバラグアイ軍が連合軍2万を迎え撃ったが、前者の大半は9〜15歳の少年兵であったという。首都アスンシオンは翌69年1月には陥落、その少し前に首都近くで行われたロマス・バレンティナスの戦いではパラグアイ軍8000、連合軍4000の死者が出た。ソラノ・ロペスはその後も1年以上も戦い続けたが、70年3月1日に最後の部下400人を率いて北東部山岳地帯のセロ・コラにいたところをブラジル軍に包囲されて戦死した。

 5年つづいたこの戦争の結果、パラグアイは国土の4分の1をブラジル・アルゼンチンに取り上げられ(賠償金については不明)、人口はなんと戦前の52万から半分以下の21万に落としてしまった(81万から19万に落ちたという資料もある)。特に成人男子はその死亡率8割とも9割ともいわれている。戦後のパラグアイ政府は公有地を財政再建のために売りに出したがそれは主にアルゼンチン人に買われてしまい、自給自足的だった経済も一次産品を輸出して工業製品を買う形態へと変質した。パラグアイがこの痛手から回復するのは約50年の歳月を必要とした。

                                  おわり


   参考文献

『ラテンアメリカ現代史2』 中川文雄他著 山川出版社世界現代史34 1985年
『ラテン・アメリカと海』 前田正裕著 近代文藝社 1995年
『ラテン・アメリカ史2』 増田義郎編 山川出版社新版世界各国史26 2000年
「ロペツ戦争」http://ww1.m78.com/topix-2/lopez.html

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