スペインのブルボン王家はフランス王家の親戚であり、その王族・貴族・聖職者たちは、フランス革命によるルイ16世の処刑を快く思っていなかった。革命フランスは教会(カトリック)に対しても厳しい態度をとっており、敬虔なキリスト教徒が大半を占めるスペインが早い段階からイギリス等と同盟して革命フランスに宣戦していたのは当然の成り行きであった。
しかし、1795年に北部カタルーニャ、バスク地方にフランス軍の侵入を受けたスペインは、同年7月のバーゼル条約によって膝を屈し、その翌年にはフランスの強要でイギリスに宣戦を布告せざるをえない状況にまで追い込まれてしまった。
97年2月、スペイン艦隊はサン・ヴィセンテ岬沖の海戦でイギリス艦隊に敗れ、さらに1805年10月のトラファルガーの海戦で壊滅的な打撃を被った。スペイン政府はフランスからの離脱をはかったが、しばらく後にフランス陸軍がドイツ方面で連勝したことから考え直し、またその同盟国の座に留まることにした。スペインに昔日(大航海時代)の面影はなく、同盟国フランスにいいように利用され、王室は2派にわかれて争っていた。1804年にフランスの帝位につき、その後3年間にオーストリア・プロイセン・ロシアを連破したナポレオン・ボナパルトにとって、英仏両大国の間をフラフラし、内紛ばかりのスペインをさらに締め上げることは、何の苦労も造作も無いことのように思われたのだった。
1807年、ナポレオンは全ヨーロッパ市場からイギリス商品を追放して経済的に締め上げようとする、「大陸封鎖」の完成を急いでいた。スペインは同盟国だから問題ないが、その西隣のポルトガルは、イギリスの支援を頼みとして、フランスの大陸封鎖に従わないでいた。
11月、ジュノー将軍率いるフランス・スペイン連合軍5万5000人が国境を越え、同月30日には首都リスボンを占領した。フランス兵のうち9割がたが脱落する急速行軍であったのだが、ポルトガル王室はフランス軍到着のわずか2日前にイギリス艦隊に守られつつ脱出していた。ナポレオンはポルトガルの艦隊を接収したがっていたので立腹したが仕方なし。ポルトガル亡命政府は植民地ブラジルのリオデジャネイロを新しい首都とした。ポルトガル全土はフランスとスペインとで分割するとの約束であった。
スペイン国王カルロス4世は、フランスの太陽王ルイ14世の曾孫にあたる人物であり、狩猟と闘牛と時計の修理を愛する、親戚のルイ16世と同じく個人的には人畜無害な男である。王妃マリア・ルイザは優雅で情熱的ではあるが、近衛軍の美少年あがりのマヌエル・ゴドイを寵愛し、国王夫妻の末の息子は実はゴドイの胤であるとの噂であった。国王は王妃の浮気に全く気付きもせず、ゴドイを親任してなんと宰相にまで取り立てていた。スペインの民衆はこの3人を「雄山羊と淫売婦とヒモ」と呼んで馬鹿にした。この3人組に対抗するのが王太子フェルナンドであり、こちらの方は臣民から大きな信頼を寄せられていた。
1807年10月、フェルナンドはフランス皇帝ナポレオンに支持を訴え、その一族の娘を妃に欲しいとの書状をしたためた。ところがこの話はすぐに宰相ゴドイのスパイに察知され、王太子は「国王に無断で他国と交渉した」との罪状で逮捕、さらに父親の前で謝罪させられた。
家族の結束を何よりも大切にするコルシカ島に生まれたナポレオンは、このスペイン王家の乱脈ぶりに対し、心からの軽蔑以外の、どんな感情も持ち合わせてはいなかった。ここで、自分の一族の誰かを新しいスペイン王として送り込んでも、大した抵抗はあるまい(ナポレオンの家族も人の家のことは言えないのだが、それは置いておこう)。
1808年2月、モンセイ元帥・デュポン将軍の率いるフランス軍4万がスペインに入り、次いでナポレオンの義弟(妹婿)ミュラ元帥がスペイン方面軍最高司令官として着任した。もっとも彼等はこれから何をやるかは全くわかっておらず、全てはナポレオンからの指示待ちという状態であった。一方のスペイン王家は最初はこの動きを見て、以前約束していたポルトガル分割に関係するものかと思っていたが、そのうちに恐くなってきて、国王・王妃と宰相ゴドイの3人組で、南アメリカの植民地に逃げる算段をし始めた。
ところが、これを知った首都マドリードの市民が激怒した。国王は俺たちを捨てて逃げるのか? カルロス4世はあわてて南米渡航を取り消したが、王太子フェルナンドにそそのかされた群衆が宰相ゴドイの屋敷を襲い、ゴドイを半殺しにしてしまった。自分たちの人気のなさを思い知った国王と王妃は退位を宣言し、かわって王太子フェルナンドが新国王フェルナンド7世として即位した。3月22日、フランス軍がマドリードに入城した。市民はゴドイとその一派の追放をフランス軍に期待し、この侵略軍を歓迎した。フランス軍のマドリード進駐はナポレオンの指示ではなくスペイン方面軍最高司令官ミュラ元帥の独断であったが、これは実はスペイン王位を狙っていたミュラがフェルナンドの即位を牽制しようとしたとの説と、単にマドリードの治安を気遣ったため、との2つの説がある。
そのミュラは、新国王フェルナンドに対して表敬訪問もしなかった。ミュラは前国王と新国王のどちらを支持しているのかはっきりせず、スペイン人たちは次第にフランス軍を疑いの目で見るようになった。スペインに駐留するフランス軍はどんどん増強され、約10万人にも達していた。
4月、新国王フェルナンド7世がフランスのバイヨンヌに呼びつけられた。続いて前国王カルロスとその妃も現れ、ナポレオンの前で醜い親子喧嘩をしはじめた。「フェルナンド、お前なんか私の息子じゃない! ギロチンで処刑されればいい」「処刑だと! 浮気ばかりして国を無茶苦茶にした母親がよくも」「親不孝者!」
親孝行なナポレオンは、実の親子が罵りあうりを信じがたい思いでながめていたが、ここは冷静な調停者として前国王カルロスの肩を持つ。しかしカルロスは「国王なんか御免です。馬鹿息子への反抗熱を煽り立てた国で何が出来る、莫大な金でももらい、どこかの館でのんびりと暮らしたほうがマシだ!」つまり彼は、自分のスペイン王国への権利を放棄した。しかしナポレオンは、あくまでフェルナンドの王位継承に反対し、ここにスペイン王家(ブルボン家)はスペイン王国に関する一切の権利を失った。彼等はフランス国内の領地と莫大な年金を与えられ、後任のスペイン王位にはナポレオンの兄ジョセフ・ボナパルトが就任することとなった。これが「バイヨンヌの奸計」である。
その少し前、マドリードの市民が怒り狂っていた。外国人嫌いで有名なスペイン人の群衆が、カルロスの末の王子がフランス行きの馬車にのせられるのを見て憤激したのである。この「末の王子」は王妃とゴドイの私生児と噂され罵られていたのだが、そんなことは皆忘れていた(一説に何者かの陰謀という)。後に画家のゴヤが「5月2日」「5月3日」で描いたスペイン戦争の勃発。「武器をとれ、王子が誘拐されるぞ!」あちこちで駐留軍のフランス兵が襲われ、6時間後にフランス軍の騎兵隊が反徒を鎮圧した時には、市民の側で500人、フランス軍も150人の死者を出していた。このニュースを聞いたナポレオンは、「どんな国民でも、征服されれば反乱を起こすさ。マドリードの警鐘くらいはなんでもない。バルセロナが反乱を起こさなかったのは残念だったな。そうなれば、バルセロナでも不届者を一掃出来たのに」とうそぶいた。とんでもない思い上がりであった。
反乱の火の手はスペイン全土に広がった。セビリア、バレンシア、カタルーニャ、各地に反乱評議会が設立され、それぞれにフランスに宣戦布告してフランス軍に戦いを挑んで来た。農民を主体とする「ゲリラ」の発生である。彼等農民たち自身は、よそ者フランス軍が乗り込んでくることへの防衛反応として蜂起した形ではあったが、その背後には、フランス軍の持ち込む(フランス革命以来の)進歩的思想に反発する保守的貴族・聖職者・地主が、フランス軍を「キリストの敵、無神論者」と呼んで、信心深い農民たちの憎悪を煽るという構図があった。6月4日にはナポレオンの兄ジョセフが正式にスペイン国王に就任し、従来のカトリックを国教として認めるとともに、司法の独立、拷問の禁止、異端審問所・封建的諸税の縮小、修道院の削減等の進歩的諸政策を施行したが、これらはスペインで伝統的な勢力を持つ地主や聖職者の反発を喰らうという結果を招くだけであった。
「お前の敵は誰だ?」「ナポレオン」「そいつはどこから生まれたのか?」「罪から生まれた」「フランス人とは何者か?」「前はキリスト教徒だったが、今は異端になった連中だ」「フランスに奉仕するスペイン人は何に値するか?」「裏切り者の刻印と死だ」「フランス人を殺すのは罪か?」「いや、天国にいける」。こんな問答が聖職者によって民衆に教え込まれた。スペイン人にとって、フランス軍との戦いは、神の意をていする「聖戦」であった。
アストーリアスの臨時蜂起政府がイギリスに援助を求めた。イギリスはスペイン・ポルトガル(亡命政府)と三国同盟を結成した。スペインにはゲリラ以外にも、本来のスペイン正規軍約10万が各地に展開しており、それぞれフランス軍に抵抗しようとした。以前の仏西の同盟関係からフランス軍に供出させられてドイツ方面に送られていたスペイン軍1万5000が、イギリス艦隊に救出されて故国に帰還してきた。とはいえ基本的にはスペイン正規軍はフランス軍にはかなわない。7月14日にはリオセッコの戦いにてベシエール元帥率いるフランス軍がスペイン軍を破り、これに約2万の損害を与えた。しかし、フランス軍の優勢もここまでである。
これより少し前の6月7日、デュポン将軍率いるフランス軍2万がスペイン南部のコルドヴァを占領した。フランス兵は略奪に奔走した。ここまで進撃するのに、道々ゲリラの襲撃を受けて散々な目にあってきたのだ。フランス軍の方針は、占領した市当局から賦課金を徴収して自軍の補給にあてる、というものであり、略奪は原則として禁止であったのだが、今回のスペイン戦争は、これまでの戦いとは様相を異にしていた。
その2週間後、コルドヴァのフランス軍はスペイン軍2万8000の包囲下に落ちた。真夏の炎天下、フランス軍の脱出行が始まった。周囲にはゲリラが闘牛用の槍を研ぎつつ身を潜めており、落伍すれば八つ裂きの死がまっている。略奪品をつんだ数百台の荷車と負傷者が邪魔になる。頼みとする別働隊は他のスペイン軍に阻まれて身動きがとれない。7月17日、バイレーンで戦闘。敵は8万のゲリラと正規軍。「万策尽きた」。フランス軍の司令官デュポンは降伏を決意した。無敵フランス大陸軍最初の敗北である。この報を受けたナポレオンは激怒し、その衝撃は各地に大きな波紋を投げかけた。当時スペイン東北部のザラゴザ市はルフェーブル元帥指揮下のフランス軍が包囲中であったが、デュポン軍の敗北を聞いたルフェーブルは戦意を喪失し、攻略を断念して退却した。マドリードの治安悪化に怯えたスペイン王ジョセフは、首都から北のヴィトリアに逃げ出した。イギリスの工作員が暗躍し、大量の武器や軍資金をばらまいた。ただし、それらの物資は「やったのではない。貸し付けたのである」「そうしてまずスペイン海軍と商船を静かに接収し、ついで各港の倉庫をカラにし、それでも足りない分は、中南米(のスペイン植民地)からの送り荷を英国経由とさせ、かつ中南米からのスペインへの送金をロンドンの英国銀行経由にするという操作をして短期間に完全に回収した」とは堀田善衛の名著『ゴヤ』の一節であるが、同書にもあるとおり、スペイン人は借金のかたに食料をとられたことから飢えに苦しむことになる。
8月7日、アーサー・ウェルズリー将軍率いるイギリス軍1万8000がポルトガルのモンデコ河口に上陸した。(ナポレオン戦争に際して)本格的な規模を備えるイギリス陸軍が大陸に上陸し、フランス軍に戦闘を挑むのは今回が初めてである。
8月17日、ロリカで英仏軍最初の戦闘、イギリス軍の勝利。続く20日のヴィメロンの戦いでもイギリス軍が勝つ。ウェルズリー将軍、すなわち後のウェリントン公爵の必勝パターン、敵から見えない尾根のこちら側に予備隊を伏せるという戦法が威力を発揮した。しかし、ウェルズリー将軍の上司として着任したバラード将軍は慎重すぎる男であってフランス軍追撃を許さず、やる気をなくしたウェルズリーはイギリス本国に帰ってしまった。とはいえポルトガル駐留のフランス軍は休戦交渉に応じ、8月30日をもって(フランス軍は)海路本国へと退去した。ただ、フランス軍に帰国を許してやったのはあまりに寛大にすぎた、ということでイギリス軍のバラード将軍は軍法会議にかけられてしまうのだが……。
相次ぐ敗報を受けたナポレオンはついにイベリア半島への親征を決意した。11月、総勢24万のフランス軍が改めてスペインに侵入する。対するスペイン側の正規軍・ゲリラは約12万、及びイギリス・ポルトガル軍3万である。前回負かされたフランス軍は実は新兵もしくは従属国からの供出軍が大半を占めていたのだが、今回投入するのは、オーストリアやプロイセンを相手に連戦連勝してきた古参兵を主力とする大軍団である。スペイン軍が平地でまともに戦って勝てる相手ではない。エスピノザで(フランス軍の)ヴィクトル元帥が、ブルゴスでスルト元帥が大勝をはくした。
11月30日、フランス軍主力がマドリード前面のソモシエラ峠に到達した。マドリードは既にスペイン軍に奪回されており(ナポレオンの兄であるスペイン王ジョセフが首都から逃げ出したのは前述の通り)、天然の要害であるソモシエラ峠にはサン・ジュアン将軍率いる1万2000の兵と大砲16門が布陣していた。ここは峠道が1本あるだけで、その両側は切り立っている。スペイン軍は峠の上から大砲を撃ちまくり、突入しようとしたフランス軍の歩兵隊に打撃を与えるが、ここでナポレオンは麾下の近衛騎兵中隊に突撃命令をくだす。フランスの従属国ワルシャワ大公国の槍騎兵からなる中隊は指揮官ド・モンブラン大佐の号令のもとソモシエラの峠道を突進し、わずか7分でスペイン軍の抵抗を粉砕、砲兵陣を踏みつぶした。スペイン兵は四散し、フランス軍の先遣隊は12月2日にはマドリード北西の高地に到達した。
12月4日、ナポレオンがマドリードに入城し、その兄ジョセフもスペインの玉座に戻って来た。市民は当初徹底抗戦の構えであったが次々と撃ち込まれる砲弾に恐れをなし、最も強硬な将軍カステラスもやむなく大砲をひいて市外に退去した。フランス軍に残った仕事は各地のゲリラの掃討、イギリス軍の撃破である、と、口で言うのは簡単だが、各地で蹴散らされたスペイン正規軍の兵士はそのままゲリラになり、引き続きフランス軍を苦しめることになった。「スペインの雀蜂の群れ」ゲリラには軍紀も何もなく、隊列から落伍するフランス兵を捕らえてはなぶり殺しにし、これを見たフランス軍が数倍の仕返しをする。報復が報復を呼び、辟易する消耗戦が果てしなく続く。こんなことは、これまでどの戦線でも経験しなかったのに。
当時イベリア半島のイギリス軍を率いていたのはジョン・ムーア将軍である。当然彼等は味方スペイン軍を支援すべく移動していたが、さらに本国からバード軍1万3000の増援を受け、このままカリオン付近に展開するフランス側スルト軍を撃破せんとの作戦をたてた。
この計画はすぐにナポレオンに察知された。12月20日、ナポレオン自ら5万の兵を率いてマドリードを出陣する。ムーア軍はせいぜい3万、冬の積雪と強風の中での退却が始まる。フランス軍主力とまみえる前に退くだけでも兵士の志気を挫くのに、道は泥濘、山は禿げ山ばかりで薪も食料もない。精鋭を誇るイギリス軍の規律も地に落ち、地元民の家に押し入って酒食を漁る有り様であった。
翌1809年元旦、イギリス軍を追撃していたナポレオン皇帝が突然フランス本国に帰ってしまった。オーストリアがフランスの隙を伺っており、フランス本国でも反ナポレオン的な政治家たちの陰謀の噂が飛び交っていた。昨年7月のデュポン軍の降伏がいまだに響いていた。ナポレオンがスペインにいたのは2ヶ月程度、その後2度と戻ってこなかった。「スペインは高くつく。しかし私に何ももたらしてくれない」。
さて、イギリス軍はスペイン西北端のラ・コルニァ港まで退却した。イギリス軍はほとんど軍隊の態をなしていなかったが、海と港を見て一気に元気を取り戻した。1月16日、フランス軍が追い付き、港内の船団に乗り込み中のイギリス軍を攻撃しだした。しかしイギリス軍はフランス側歩兵隊の攻撃を巧みにかわし、それどころか反撃に出てフランス軍の砲兵陣にまで突入した。この戦いでムーア将軍は戦死したが、イギリス軍3万のうち2万4000が脱出に成功した。何故フランス軍はイギリス軍を取り逃がしたのか? 追撃の道中、フランス軍があてにしていた町や村の食物は、全部イギリス軍が持ち去っており、フランス軍まで飢えに苦しむことになったからである。
2月18日、それまで52日間もフランス軍の包囲に耐えていたサラゴザ市が陥落した。フランス軍の死者6000、スペイン側の死者は5万4000、そのうち3万が非戦闘員といわれている。市街地の隅々に兵士・市民の死体が転がり、包囲側の指揮官ランヌ元帥ですら、「ひどい戦争だわい! 勝利も辛いものだ」と呻くほどであった。
ナポレオンは去ったが、ウェルズリーは戻って来た。4月22日、ウェルズリー将軍率いるイギリス軍2万がポルトガルのリスボンに上陸したのである。ナポレオンはオーストリア方面に赴いており、ポルトガル方面にいるフランス軍は、オポルトのスルト軍2万、メデリンのヴィクトル軍2万5000、シウダード・ロドリゴのラピス軍6000である。このうちスルト元帥が途方も無い馬鹿をやらかした。
彼はポルトガルに進撃してから、30人のフランス兵が殺された報復として1万の民衆を虐殺し、各地で略奪を働いていたが、さらに(何を血迷ったのか)「ポルトガル王ニコラス1世」を勝手に名乗り、ポルトガル人や部下や同僚の大顰蹙を買ってしまった。
5月12日、無警戒のスルト軍がイギリス軍の攻撃を受けて大敗、続く7月28日のタラヴェラ・デ・ラ・レイナの戦いでもイギリス軍が勝利した。この戦いでは、イギリス軍は味方スペイン軍の充分な支援を受けられないでいたが、フランス軍の方も、各軍団を率いる元帥たちの不仲が激しく、最後まで何もしないでただ待機している部隊がいくつもあった。戦場まで出御していたスペイン王ジョセフは軍事に関しては全くの素人であり、これまた無能な補佐役ジュールダン元帥の献言により、他の元帥の主張する総攻撃のチャンスを自ら放棄する有り様であった。フランス大陸軍はナポレオンあってこその常勝軍であり、皇帝がいなければ協力も何も出来ないのだ。イギリス軍の指揮官ウェルズリー将軍はこの時の功績で「ウェリントン子爵(後に公爵)」の爵位を授けられた。これから彼のことを「ウェリントン将軍」と記すことにする。とはいえその後の戦局はウェリントンにとって思わしくなく(とにかくフランス軍の方が数が多い)、いったんはスペイン領に攻め込みながらもポルトガルへの退却を余儀なくされた。
ポルトガルに後退したウェリントンはリスボンの北に堅固な要塞線を築き、フランス軍の方はスペインの各地でゲリラの掃討に明け暮れる日々が続いていく。
1809年10月、ナポレオン自ら率いるフランス軍主力がオーストリアを屈服させ、楽になった分スペイン方面への援軍投入が可能となった。フランス側スルト軍はアンダルシア地方の制圧にかかり、スーシェ軍はアラゴン地方を攻略する。しかし各軍団はゲリラの跳梁をなかなか抑えることが出来ないまま実質的に各地に孤立し、相互の連絡をとるためには、数百人の護衛をつけた伝令を飛ばす必要があった。
この年11月、スルト軍がオカーニャの戦いにてスペイン軍を撃破した。それ以降スペイン正規軍は大規模な軍事行動が不可能な状態に追い込まれたが、その分だけゲリラの蠢動が激しくなった。スペイン王ジョセフは国王としてはかなり真面目な人物であり、様々な改革を行ってそれなりの支持を得ていた(スペイン人でも開明派はジョセフを支持していたが、それはほんの一部)が、軍隊の方はジョセフとナポレオンという二重の命令系統を受けて混乱しており、各軍団の司令官たちは、それぞれの占領地の領主のように振る舞っていた。
1810年7月、10万のフランス軍がポルトガルの占領を狙って動き出す。フランス軍はこの月のうちにシウダード・ロドリゴを占領し、9月27日にはブサコにてウェリントン率いるイギリス・ポルトガル軍と対峙した。ウェリントンは可能な限りフランス軍の侵入を遅らせ、その間に小麦の刈り入れをすませていた。
この時代のイギリスを代表する名将は次の2人、海のネルソン提督と陸のウェリントン将軍である。ネルソン(既に故人)は攻撃型、ウェリントンは防御型とタイプを異にするが、この「ブサコの戦い」でもウェリントンはじっと守って相手のミスを待つ作戦に出た。数に勝るフランス軍はろくな敵情偵察もせず、細長い尾根の上に布陣するイギリス・ポルトガル軍めがけて突進しては撃退された。しかし、最終的にはウェリントン軍の方が退却する。彼はよけいな損耗を避け、兵力の温存をはかったのである。イギリス軍は後方のトーレスベドラスの要塞に籠り、堅く守って出てこなくなった。フランス軍の周囲にはポルトガルのゲリラが出没し、小麦は既にイギリス軍が刈り取ってしまっている。飢えとゲリラの襲撃で消耗を続けるフランス軍はそれでも半年間粘ったが、翌1811年3月にはポルトガルからの撤収を決意した。最初10万いた軍勢は半分に減っていた。これはイギリス軍による一種の焦土作戦の勝利である。イギリス軍はスペイン・ポルトガル兵を「半島人」と呼んで軽蔑し、その行状の悪さは場合によってはフランス軍をすら上回ることがあったという。
話を戻す。ポルトガルから退却するフランス軍を送り狼となったイギリス軍が追撃する。イギリス軍がロドリゴ城のフランス軍を包囲。これを聞いたフランス側マッセナ元帥が手勢を率いて駆け付ける。5月3日、フェンテス・デ・オニョーロの戦い。イギリス軍の方が相手より先に戦場予定地についていた。フランス軍司令官マッセナ元帥は配下のジュノー将軍に突撃を命じ、以後3日間に5回の総攻撃が行われるも、例によって防御に徹するウェリントンが全く隙を見せず、ついにはフランス軍を後退に追い込んだ。ナポレオンはマッセナを更迭し、かわってマルモン元帥をポルトガル方面軍司令官とした。これより少し前、スペインのアンダルシア地方に展開していたフランス側スルト軍は、マッセナ軍を支援せよとの皇帝の命令を受けていたのだが、沿岸地方にイギリス軍が上陸したことから兵力の分散を強いられ、結局味方の苦境を救うことが出来なかった。
そして、運命の1812年が訪れた。ナポレオンがロシア遠征作戦を計画し、スペイン戦線から多くの精鋭を引き抜いたのである。
ウェリントンが攻勢に出る。1月ロドリゴを、3月バダジョスを、6月サマランカを占領。さらに迎撃に出て来たフランス側マルモン軍を大破した。ナポレオン軍主力がロシアの奥地へ奥地へと進撃を続けていた8月12日、ついにイギリス軍がスペインの首都マドリードに入城、市民の熱狂的歓迎を受けた。スペイン王ジョセフは逃走し、各地のフランス軍は分断されて、イギリス・スペイン・ポルトガル軍の各個撃破を待つのみとなった。
と、思っていたら、意外にもフランス本国から援軍が到着した。フランス軍15万に対してウェリントン指揮下の軍勢は6万程度にすぎず、秋にはフランス軍がマドリードを奪回してジョセフが再び返り咲き、イギリス軍はポルトガルへとひきあげた。ウェリントンはインド植民地の戦闘で名をあげた人物だ。彼は現地人の軍隊、ここではスペインのゲリラを軽蔑しきっていたが、これを極力うまく利用して自分の軍勢の消耗を避け、問題が起こればさっさと根拠地(ポルトガル)にひきあげて、状況が好転すればまた戻ってくるという作戦を繰り返していた。
1813年、フランス軍主力がロシアで崩壊し、その穴を埋めるため、スペイン方面軍の軍勢が大量に転出された。一方のウェリントン軍はイギリス軍5万、ポルトガル軍3万、スペイン正規軍2万、ゲリラ5万という大軍を揃え、しかもその主力はポルトガルで充分な補給を受けていた。形勢不利とみたスペイン王ジョセフはマドリードを放棄し、北のバリャドリーに退いた。ジョセフが首都から逃げ出すのは今回で三度目であり、その後二度と戻らなかった。
イギリス軍の進撃が続く。ドイツ方面では態勢を立て直したナポレオン軍がロシア・プロイセン軍に連勝し、対仏同盟諸国の団結が揺らいでいた。ここで、スペインで決定的な勝利が必要だ。
6月21日、ヴィトリアの戦い。イギリス・スペイン・ポルトガル連合軍9万対フランス軍6万。連合軍の大勝利。それまで様子を見ていたオーストリアがイギリス側に立ってフランスに宣戦した。フランスはこれまで6年もの長きに渡ってスペインでの戦いを強いられ、スペイン軍・ゲリラの健闘はフランスと戦う諸国に大きな勇気を与えた。スペインに釘付けにされた精鋭は他の戦線にまわすことも出来ず、まわせばまわしたでスペイン方面の戦況を悪化させるという効果をうんだ。軍事大国フランスの補給と財政は、戦争でうち負かした敵国の賠償金でまかなうというのが基本方針であったが、スペインはいつまでも屈服せず、この方面の戦費は1年につき7000万フランにも達した。1805年のアウステルリッツの戦いでオーストリアを破ったナポレオンが手にした賠償金が5000万フランであったことを考えれば、その莫大な消耗のほどがわかるであろう。
1813年10月6日、イギリス軍がついにピレネー山脈を越えてフランス本土に侵入し、翌年3月にはスペインの正統国王フェルナンド7世が祖国に帰還した。この男はフランスの贅沢責めですっかり腑抜けになり、イギリス政府からの脱出のすすめも断って、そのことをフランス警察に通報したりしていた。彼がスペインに戻って何をしたか、それは本稿の述べるところではない。いずれにせよ、スペインの戦いは終わったのである。フランスで「スペイン戦争」、スペインで「独立戦争」、イギリスで「半島戦争」と呼ばれるこの戦争で、一番得をしたのはどの国か? 戦争のあいだ中南米のスペイン植民地はフランスの指図に従わず、その頃フランスの経済封鎖を受けて逼塞していたイギリスの経済は、南米市場という新たな顧客を得て息を吹き返した。スペインから逃げ出したジョセフ王はそれまでため込んでいた莫大な財宝を放り出していったが、そのかなりの部分はいまでもイギリスの美術館に飾られているのである。
おわり
『世界戦争史7』 伊東政之助著 原書房
『ナポレオン』 長塚隆二著 文藝春秋
『ゴヤ』 堀田善衛著 朝日新聞社
『ナポレオンの戦場』 柘植久慶著 集英社
『ナポレオン』 アンリ・カルヴェ著 井上幸治訳 白水社文庫クセジュ
『スペイン・ポルトガル史』 立石博高編 山川出版社新版世界の歴史16
『NAPOLEON』http://kodaman-empire.kir.jp/Napoleon/nh.html
その他