ニューギニア近現代史

 世界で2番目に大きな島であるニューギニアに人が住み着いたのは5万年ほど前と考えられている。独自の国家のようなものは出来なかったが、島の西部は6世紀頃から現インドネシア地域の王朝と関わりを持っていたともされる。16〜17世紀になるとヨーロッパ人が訪れるが、彼らにとっては居住条件が悪く資源も特になさそうに見えたため、19世紀に入る頃になっても植民地化の努力といったことはなされなかった。南のオーストラリアでは18世紀の後半からイギリスによる本格的な植民が始まるがニューギニアは放置状態であり、1828年になってようやくオランダが西部の領有を宣言するが特に開発するでもないという有り様であった。在島の白人は島の各地で宣教師や商人や学者としてぽつりぽつりと活動している程度である。

 しばらく後に現れるのがドイツである。ドイツ勢力は1870年代からニューギニアに姿を現すようになるが、このことが近くのイギリス植民地オーストラリアの入植者たちを不安がらせた。イギリス政府はそのオーストラリアの防衛という観点から1884年現在のパプア・ニューギニアの首都ポートモレスビーにイギリス国旗を掲揚した。少し遅れてドイツもニューギニア北東部の領有を宣言する。英独とオランダの勢力圏の確定は翌85年になされた。もちろんこれは西欧諸国が勝手に決めたことであって現住民には与り知らぬことであるが、地図の上では島の西半分がオランダ領、東のうちの北半分がドイツ領、南半分がイギリス領となったことになる。このうち最も開発が遅れたのはオランダ領であり、逆に強力な支配がはかられたのがドイツ領だがドイツの活動については別稿に譲ることとする。

 イギリス支配地域は最初は「保護領」とされ、現地の最高責任者たる高等弁務官として赴任してきたピーター・スクラッチレイ卿は原住民に対し大した権限を持たなかった上に予算や人員が乏しいことに悩まされた。在留の白人が原住民に横暴を働くせいで戦闘が発生することもあり、スクラッチレイは赴任の翌年にはマラリアに罹って死亡した。彼は地図の上ではニューギニアの4分の1を管理していたが、実際に支配している地域はごく限られており、特に内陸部はまだまだ白人にとっては人跡未踏の秘境の地であった。

 88年、イギリス政府はニューギニア「保護領」を原住民に対して直接法律を行使出来る「直轄植民地」に組織替えした。初代総督はウィリアム・マッグレガである。その頃のドイツ支配地域ではかなり熱心な開発が行われて農園が経営された(うまくいかなかったが)がイギリス植民地ではもっぱら金の採掘に力が入れられた(大したものではなかったが)。採掘業者と原住民の紛争は頻繁に起こり、総督府はそれに介入することで支配圏を広めていった。総督は原住民を雇った警察を組織したが、役人・警官には残忍な者もおり1人で何十人も殺した警官かいたという。

 1901年、オーストラリアにてイギリス国王を元首に戴く自治領「オーストラリア連邦」が発足した。オーストラリアは防衛と交通の利便からイギリス領ニューギニアをオーストラリア領に移管してもらうことにした。こうして1906年に発足するのが「パプア準州」である。オーストラリアから移ってきた入植者が農園で椰子・ゴム・麻を栽培したがパプアだけの特産品のようなものはなかったため、1939年になっても白人人口は1500人かそこらにとどまった。鉱業もぱっとしない。

 1914年、第一次世界大戦が勃発したが、オーストラリア軍は速攻でドイツ支配地域を占領した。オーストラリアは占領地の原住民に対しドイツが課していた税金の最高率を賦課することとし、ドイツ人の農園主にはそのまま経営を続けさせた。その一方で、商売で入り込んでいた日本人は退去を要求されている。ドイツ農園はむしろオーストラリア軍の占領下において利益があがったが、20年代には接収のうえオーストラリアの退役軍人に売却とされてしまった。もちろんオーストラリア政府は現地を併合するつもりでいたが、大戦終結後の国際会議により旧ドイツ支配地域は「委任統治領」として国際連盟からオーストラリアに統治が委託されるという形式が決められた。毎年の統治報告書を提出する義務があるが、実質的には植民地と同じである。通常、元からのオーストラリア領を「パプア」、委任統治領を「ニューギニア」と呼んでいる(註1)。パプアの首都はポートモレスビーに、ニューギニアの首都は(ニューギニア本島ではなく)ニューブリテン島のラバウルに所在した。

註1 委任統治地域はニューギニア本島北東部だけでなくその東に散らばる旧ドイツ領の島々も含む。そのことでずっと後に揉めることになる。

 ニューギニアでは26年に有望な金鉱が発見されてゴールド・ラッシュが起こり、それまで白人が入ったことのない内陸の高地地帯へも探検隊が進入した。ニューギニアは海岸から少し進むと大密林、その奥は峻険な山岳地帯であることから白人を寄せ付けなかったのだが、金探しに突き動かされて内陸を探検し出した白人はそこにも原住民(ニューギニア高地人)が住んでいるのを「発見」して驚くことになる。(沿岸より内陸の高地の方が住みやすいそうです)

 金のおかげもあってパプアよりは富裕だったニューギニアには39年の時点で4500人ほどの白人が住んでいた。両者の総督府の歳入は3倍ほども違い、しかもニューギニア側はオーストラリア政府からの補助金なしでやっていた。貿易や海運に関してはニューギニアではW・R・カーペンター社が、パプアではバーンズ・フィリップ社がそれぞれ独占し、行政にも関与した。ニューギニアは良港に乏しく海陸の交通に不便なことから金探しのための空路が発達し飛行場や不時着場が40ほども造られ、内陸の高地人を発見した時の探検も飛行機によるものであった。金鉱はパプア側にもあり、その1つココダは内陸に位置するがニューギニア北岸のブナから細い街道が通され、さらに南岸のボートモレスビーとも陸路で連絡した。この「ココダ街道」では第二次世界大戦の際に凄惨な戦いが行われることになる。それはともかく、総じてパプアよりもニューギニアの方が原住民支配が過酷であり、形だけの契約で強制労働させられる原住民の賃金はパプアのそれの半分程度であった。それに反発し、宗教的な色彩の強いものではあるが白人の打倒を説く運動も発生した。

 委任統治領には要塞を置いてはならないとか原住民に警察的なもの以外の軍事訓練を施してはならないとかいう規定があり、オーストラリアは39年の第二次世界大戦勃発の時点でもそれを守っていた。日本と米英の対立が激化してくる41年になるとさすがに防備を固めるようになるが、実際に日本軍が攻めて来た42年1月になってもまだ大したものではなく、ニューブリテン島のラバウル(ニューギニア委任統治領の首都)にいた1400人の守備隊はろくな抵抗も出来ずに打ち負かされる有り様であった。

 パプアの首都ポートモレスビーも数千の兵員しかいなかったのだが、海路からここを攻略しようとした日本軍は「珊瑚海海戦」で食い止められた。そこでニューギニア北岸(全く貧弱な防御しかなかった)に上陸して南岸のポートモレスビーまで……上で触れたココダ街道を通って……徒歩で縦断しようとした日本軍部隊は、しかし食糧の補給がうまくいかないまま軍上層部の命令変更により途中(3000メートル級の山々の連なるオーエンスタンレー山脈を戦いつつ突破してポートモレスビーの街の灯が見える所まで進撃した)で引き返し、そのうちに増強されたオーストラリア軍の追撃と飢餓とで悲惨なことになるのであった。その辺の話は本稿では詳しくは書かないが……ニューギニアは全島で30万もの日本軍が投入されてその半分が死に、しかも戦死より餓死や病死の方が多かったという。そういう状況の日本軍の占領下に落ちていた原住民……最初は自分たちの先祖がやってきたと思って(そういう信仰があった)歓迎したりもした……の中には徴用されたり食糧を強奪されたりスパイ容疑で殺されたりした者もいた。その一方で日本の敗戦後もその勝利を信じて活動する集団も存在した。

 大戦終結後の46年、ニューギニア委任統治領は新たに成立した国際連合の「信託統治領」に組織替えされた。49年パプアとの統合が行われた。戦争中のパプア・ニューギニア人(原住民)には親日派がいた一方でもちろんオーストラリア軍に協力する者も大勢おり、最大時で5万5000人が雇用され(日本軍に雇用された人数は不明)そのうち2000人が死亡していた。大部分は案内役や後方勤務だが実戦部隊「太平洋諸島聯隊」に参加して活躍する者もいた。かような貢献に満足した戦後のオーストラリア政府はパプア・ニューギニアへの補助金を大幅に増額し、戦災の補償も行った。ただしパプア・ニューギニア人の方はいまいちそれを有効に使えなかった。大戦が終わった時のパプア・ニューギニア人の文盲率はまだ95パーセントもあったし、白人の商人や農園主が原住民が商売するようなことを嫌ったからである。

 それでも64年には初めての普通選挙が行われて議会が発足し、早期独立を主張するパング党のマイケル・ソマレの主導により73年自治政府を組織、75年には正式にオーストラリアから独立して「パプア・ニューギニア独立国」となった。

 しかしその際、北ソロモン州が「北ソロモン共和国」を宣言して分離独立しようとした。「北ソロモン州」はニューギニア本島の東に浮かぶソロモン諸島のブーゲンヴィル島を中心とする地域である。ソロモン諸島は20世紀に入る頃にイギリスとドイツによって分割され、ブーゲンヴィル島以北のみがドイツ領となっていた。第一次世界大戦でドイツが敗れるとブーゲンヴィル島やニューギニアの旧ドイツ領は全部一括してオーストラリアの委任・信託統治領とされた訳であるが、ブーゲンヴィル島より南のソロモン諸島については一次大戦前の区分のままイギリスの支配下に留まっていた。そして、北ソロモン州の住民にとっては地理的にも民族的にもパプア・ニューギニアよりイギリスの支配するソロモン諸島(78年に「ソロモン諸島」(註2)として独立)の方が近いのであった。

註2 「ソロモン諸島」という国名です。


 この時の分離独立騒ぎではパプア・ニューギニア側が北ソロモン州政府に大幅な自治権を認めるということで決着がついた。しかし実は北ソロモンのブーゲンヴィル島には銅や金の鉱山があり、特に銅が豊かで、それがやがてはパプア・ニューギニアの総輸出額の半分を占めるほどになる。しかしその儲けが地元にあまり還元されていないという不満が高まり、さらに鉱毒による公害が深刻化してきたことから88年には地元民と他地域出身者との戦闘が発生した。武装した地元民グループは「ブーゲンヴィル革命軍(BRA)」を名乗り、州政府知事までが参加してきたことから本格的な独立戦争へと発展、90年には「ブーゲンヴィル共和国」の成立が宣言された。BRAは旧イギリス領のソロモン諸島にも拠点を持っており、パプア・ニューギニア軍がそちらに越境したりもした。98年にとりあえずの停戦がなされるまでの間にブーゲンヴィル島民18万のうち1万が死んだともされている。

 さてニューギニアが19世紀に英独蘭によって分割されたことは本稿の最初の方で述べたことであるが、オランダ領となっていた地域はその後どうなったのであろうか。他と比べて開発が遅れ、地図上の白紙地域がかなり後まで残されていたこの地域はオランダ領東インド(いわゆる蘭印)の一部として扱われた訳であるが、第二次世界大戦後の49年に東インドが「インドネシア」として独立を達成した後も、この地域についてはオランダ領に留めて将来の住民の選択に任されることとなった。オランダとしてはインドネシアに譲るよりは、いっそ西部ニューギニア単体で独立させるか、その頃まだオーストラリア信託統治領だったパプア・ニューギニアと合併させた方がよいと考え、それはオーストラリア側も望むところであった。

 オランダは自国民の西部ニューギニアへの植民を促進し(失敗した)、教育・医療の整備に努力した。そういうこと(特に教育・医療)はインドネシアには出来ないだろう、と宣伝するためでもあった。しかしインドネシア側は西部ニューギニア獲得を目指し「西イリアン(註3)解放民族戦線」を組織してオランダに対抗した。その頃のインドネシア大統領スカルノは軍部との対立に悩まされていたため、「西イリアン解放」を声高に訴えることで軍の矛先をそちらに向けようとしたのである。また、西イリアン解放はインドネシア共産党の強く唱えるところでもあったから、そちらからの支持も見込まれた。スカルノは55年に「アジア・アフリカ会議」(註4)を主催したことにより味方に付けた国際世論を背景として60年にはオランダと断交した。こうなると、もともとインドネシアを植民地支配してきたオランダの不利は目に見えている。

註3 西部ニューギニアのインドネシア側呼称。

註4 アジア・アフリカの旧植民地諸国が欧米の旧宗主国抜きで開催した初の国際会議。反植民地主義や民族自決が唱えられた。しかし……。


 翌61年、オランダが現地を「西パプア」として独立させようとしたため翌年にはオランダ軍とインドネシア軍との戦闘が発生、後にインドネシア大統領となるスハルト少将の部隊が現地に投入された。その結果アメリカと国連の調停が行われ、63年にはインドネシア側が現地の行政権を確保した(註5)。国連との約束では来る69年に住民投票を行って正式の帰属を決定することになっていたが、インドネシアは65年に隣国マレーシアとの対立に絡んで国連を脱退し、69年8月にまともな住民投票を経ないままの西部ニューギニア領有を決定してしまった。しかしこれが現地民に全面的に歓迎された訳ではないことはその後の反インドネシア闘争を見れば明らかである。特に「自由パプア運動(OPM)」のゲリラ戦が盛んで、現在に至るまで何度も独立宣言が行われている(註6)。インドネシア軍によって50〜60万人が殺されたと言う説もある。言うまでもなく現地民は地理的・民族的にインドネシアの中心部から遠く離れており、その一方でここには豊富な天然ガス資源がある。つまりパプア・ニューギニアにおけるブーゲンヴィル島と同じ構図なのである。

註5 本多勝一の傑作ルポ『ニューギニア高地人』はその年12月から翌年3月にかけてインドネシア支配下の中央高地を取材したものである。

註6 本多の『ニューギニア高地人』の後書きには、旧日本軍関係者が事務局長をつとめる「日本パプア親善協会」という組織がゲリラへの資金援助を行っていたという話が載っている。


                              おわり

   参考文献

『東南アジア現代史1』 和田久徳他著 山川出版社世界現代史5 1977年
『ニューギニア高地人』 本多勝一著 朝日文庫 1981年
『オセアニア現代史』 北大路弘信・北大路百合子著 山川出版社世界現代史36 1982年
『パプア・ニューギニア独立前史』 J・グリフィン他著 沖田外喜治訳 未来社 1994年
『オセアニア史』 山本間鳥編 山川出版社新版世界各国史27 2000年
「ブーゲンビル共和国」http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/syometsu/bougain.html
「イリアンジャヤ」http://www.tcat.ne.jp/~eden/Hst/dic/irian_jaya.html
「『AWC通信』1999年1月号(第4号) 」http://www.asiavoice.net/awc/n199901.html


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