ネルソン提督伝 第7部 追撃

   戦争再開   目次に戻る

 話を戻して……、「アミアンの和約」は、けっきょく長続きしなかった。これはあくまで態勢立て直しのための時間稼ぎにすぎなかったのである。ナポレオンはイギリスの通商活動を妨害しつつ海軍を大増強し、翌年4月にはマルタ島の管理問題を巡って英仏関係が極度に悪化した。マルタ島は既に述べたように1800年9月にイギリス軍が占領しており、「アミアンの和約」の規定によれば本来の持ち主である聖ヨハネ騎士団に返還することになっていたのだが、やがてマルタを手放すのが惜しくなったイギリス側が返還を遅らせてしまったのである。ロシア皇帝アレクサンドル1世が行った調停も失敗し、イギリス政府は1803年5月16日をもってフランスに対し宣戦を布告した。英仏間の平和はわずか1年で幕を閉じたのである。マートンで悠々自適していたネルソンは「地中海艦隊司令長官」に任命され、南フランスのツーロン港を封鎖すべしとの命令を受け取った。これはジャーヴィス提督のはからいであった。ジャーヴィス提督は個人的にネルソンと仲違いしはしたが、相手の能力を見極める目は曇っていなかった。

 ネルソンの方は、マートンでの生活に飽きていたのか、それともすぐに帰れるとでも思ったのか、今回の出陣命令を素直に喜んだ。エマはその頃ネルソンの新しい子供をみごもっていたのだが、ネルソンを引き止めようとしたり悲しいそぶりをしたりはしなかったという。

 ネルソンの今度の旗艦は104門搭載の戦列艦「ヴィクトリー」、艦長はトマス・ハーディである。ハーディは実はエマよりもファニーの肩を持ち、手紙をやりとりしたり直接会ったりしていた。しかしネルソンはハーディのことを強く信頼していた(友情を抱いていた)し、そうでありながらハーディがネルソンの単なる腰巾着になったりしない(あえてファニーと懇意にする)ことにむしろ敬意を感じていたという。

 ネルソンの新しい旗艦「ヴィクトリー」は、当時のイギリス海軍の戦列艦の中では老婆といっていい旧式艦であったが操艦性に優れており、これまでフッド提督やジャーヴィス提督といった高名な提督たちの旗艦をつとめてきた。この艦がネルソンの死後記念艦として保存され、21世紀の現在に至るまでポーツマス港に鎮座しているということをご存知の方は多いであろう。

 しかし、ネルソンが今回の任務を受けるに際して海軍本部から与えられた訓令には、ツーロンの封鎖以外にもイタリアやエジプト方面に対する警戒も含まれていた。その頃のイタリアの北半はフランスの支配下にあった(フランスの傀儡政権が複数樹立されていた)し、しかもその方面のフランス軍が再びエジプトをうかがう姿勢をみせていたのだから至極当然の指示なのだが、しかしそのことが後でネルソンの判断を狂わせることになる。

   イギリス本土上陸計画   目次に戻る

 ナポレオンは開戦後ただちに16万の大軍を英仏海峡沿いに展開し、7つの港からイギリスに向けて進発する態勢を整えた。用意した輸送船は1928隻に達し、ナポレオンはこれらの大兵力「イギリス遠征軍」を英仏海峡の向こうへと運ぶのに10時間で充分だと豪語した。2年前のようなハッタリではなく、本気である。イギリス遠征軍の兵力はやがて20万以上に膨れ上がった。

 これに対してイギリス海軍は多数の艦艇を配してフランス各地の港湾を封鎖、イギリス本土では陸軍を大増強するとともに旗旒信号や狼煙を用いた通信連絡網を整備して不慮の事態に備えた。英仏海峡沿いのフランス軍は輸送船以外には小型艦しか持っておらず(その付近には大型艦が停泊出来る港湾がなかった)、それが出撃してきたとしてもイギリス本土にいる艦艇で十分撃退可能と思われた。フランス海軍の大型艦は他の地域の港湾に分散配備されていたが、何度も説明したように海軍全体の人材が不足していたうえに、建造中もしくは修理中の艦が多く、しかもどの港もイギリス艦隊ががっちりと封鎖していた。これではフランス軍も身動き出来ない。ナポレオンは当初、悪天候でイギリス艦が動けない時に一挙に渡海すればいいではないかと思っていたのだが、その悪天候はフランス側にとっても脅威であることや、上陸に要する時間が10時間では絶対に足りないことを時間の経過とともに理解していった。英仏海峡を挟んでの睨み合いはずるずる何ヶ月も続いた。

 当時、フランス海軍の大型艦は大西洋沿岸のブレストとロシュフォール、さらに地中海沿岸のツーロンに分散配備されていた。ナポレオンは、まずブレストの艦隊に陸軍部隊2万を乗せてアイルランドに向かわせることでイギリス海軍の目をくらませ、その隙にツーロンの艦隊がジブラルタルを抜けてロシュフォールの艦隊と合流、英仏海峡に突入する(そしてイギリス遠征軍の上陸作戦を援護する)という作戦を立てた。ブレストの艦隊はあくまで陽動を担当して英仏海峡突入には参加せず、従って最も重要な役割を担うのはツーロンの艦隊ということになるため、その司令長官職には当時のフランス海軍で最も勇猛とされていたラトゥーシュ・トレヴィル提督が就任した。彼は1801年8月にネルソンが行ったブーローニュ攻撃を撃退したあの男である。作戦発動は1804年1月とされた。

 ところが、そのための準備がなかなか進捗せず、作戦発動を1月から8月に延期したところでさらにトレヴィル提督が病死するという事態に立ち至った。彼の後任としてピエール・シャルル・ヴィルヌーヴ提督がツーロンに着任した。彼はアブキール湾の海戦の時にろくすっぽ戦いもせずに戦場から離脱したあの男である。ナポレオンはこの人事を躊躇ったが、他に人材がいなかったため彼にやらせるしかなかったのであった。そのかわり作戦に修正を加え、ツーロンとロシュフォールの両艦隊は遥か遠いカリブ海に派遣してそちらで陽動させ、かわりにブレストの艦隊を英仏海峡に突入させることにした。ブレストの艦隊を指揮するのはオノーレ・ガントーム提督である。彼はアブキール湾の海戦で爆沈した戦列艦「オリアン」から奇跡的に生還したという人物で、ナポレオンに非常に気に入られていた。本稿では以降、ガントームの艦隊のことを「ガントーム艦隊」と表記する。

 1804年12月2日、ナポレオンはパリのノートルダム寺院で戴冠式を挙行し、「フランス皇帝ナポレオン1世」を名乗った。その10日後、スペインが再びフランス側に立ってイギリスに宣戦を布告した。スペインはこれ以前からフランスに対する献金を強要されていたのだが、イギリス海軍はスペインの海外植民地から本国へとやってくる財宝船がナポレオンの懐に入るのを阻止するためにその通行を妨げ、去る10月にはスペイン船1隻を撃沈したことによって英西関係が極度に悪化していた。

 その一方で、イギリスに味方しようという国はなかなか現れなかった。かつての「対仏大同盟」の諸国はどれも過去のフランスとの戦争で疲弊しており、また立ち上がるにしても、もう少しの時間を必要としていた。疲れているのはフランスも同じではあるが、むしろそれ故にこそ敵がイギリスしかいない今のうちに叩き潰しておくべきであるとナポレオンには思われた。

   フランス艦隊の第1回出撃   目次に戻る

 そして1805年1月11日の雪の日、まずロシュフォールのフランス艦隊が出撃した。その戦力は戦列艦5隻、指揮官はミシッシー提督である。本稿では以降、この艦隊を「ミシッシー艦隊」と表記する。イギリス側ではグレイヴィス提督の艦隊がロシュフォールの封鎖を担当していたが、同艦隊の主力はたまたま清水の補給のために当該海域を離れており、フリゲート艦1隻だけが監視を続けていた。そのフリゲート艦「ドリス」はフランス側の動きを艦隊主力に通報しに行こうとしたがその途中で座礁してしまい、結局ミシッシー艦隊を取り逃がしてしまった。

 続いて1月17日、今度はツーロンのフランス艦隊が出撃した。本稿では以降、この艦隊を「ヴィルヌーヴ艦隊」と表記する。ツーロン封鎖を担当するネルソンの地中海艦隊はこの時サルディニア島の沖合に停泊中であった。ネルソンは封鎖を意図的に薄くすることによってフランス艦隊を誘き出し、そこを全力で叩いて殲滅する、という作戦をたてており、ツーロン沖にはフリゲート艦を2隻だけ残してヴィルヌーヴ艦隊の動きを見張らせていた。(本稿では以降、ネルソンの地中海艦隊のことを単に「ネルソン艦隊」と表記する)

 ヴィルヌーヴ艦隊出撃を確認したフリゲート艦は速やかにネルソンに通報に及んだが、(そのフリゲート艦は)22日には悪天候のせいで敵艦隊を見失ってしまった。ネルソンはフリゲート艦に聞いたヴィルヌーヴ艦隊出港時の針路と風向き、風力からしてその目的地はイタリア方面もしくはエジプトであろうと判断した。特に考えられるのはエジプトである。もともとネルソンが海軍本部から与えられていた訓令にはイタリアやエジプト方面の警戒任務も含まれていたし、情報によれぱヴィルヌーヴ艦隊には6000〜7000名の陸軍部隊が乗船しているということであった(実際にはその半分だった)から、それらが再度のエジプト遠征を目論んでいるのではないかと推測するのも無理からぬ話であった。それに、ネルソンは積極果敢な性格であったので上述のような「誘き出し作戦」を考え、もう1年以上もフランス艦隊がのこのこ出港してくるのを(神経を張りつめて)待ち構えていたのに、さっぱり出てきてくれないので精神的に疲れきっていたところであった。

 そんな訳でネルソン艦隊はまるきり見当違いの方向へと追撃を開始し、アレクサンドリアやギリシアを無為に探索してまわった。しかし幸いなことにヴィルヌーヴ艦隊は大西洋に出る前に激しい嵐に阻まれ、やむなくツーロンに引き返していた。その頃の気象条件ではツーロンから大西洋に向かうのは著しく困難であったということはネルソンも知っており、だから彼はヴィルヌーヴ艦隊は東地中海に向かったのだと判断したのであって、その意味ではネルソンの誤判断にも弁明の余地はあったとされている。以下はヴィルヌーヴ提督がパリの海軍大臣に宛てた報告書の一節。「ツーロン港内では我が艦隊は万事順調でありましたが、いったん港を出て嵐に遭うと事態は一変してしまいました。嵐を恐れた水兵たちは、仕事を放棄して兵士(陸軍部隊)の群れの中にまぎれ込んでしまい、船酔いにかかった水兵たちは、甲板にごろごろと横になってしまいました。そのため操帆はできなくなり、帆桁は折れ、帆は吹き飛んでしまう始末でした」。ナポレオンはヴィルヌーヴのだらしない有り様に激怒したが、解任はしなかった。他に適任者がいなかったからと思われる。ヴィルヌーヴは貴族の出身で1778年に15歳でフランス海軍に入ってアメリカ独立戦争に従軍、フランス革命後の混乱期に同僚の貴族出身士官がどんどん退職、亡命していく中にあってもフランスに留まりつづけ、93年に艦長、97年に少将に昇進していた。人材不足のフランス海軍にあっては、革命前から士官だったというだけで貴重な存在であった。

 ミシッシー艦隊の方は2月20日にはカリブ海に到着した。この艦隊はとりあえずイギリス領のドミニカ島とセントルシア島を攻略せよと命じられていたが、そんなことを実施するだけの戦力は持ち合わせていなかった。そこで、その後6週間に渡ってゲリラ的な活動を続けた後、ヴィルヌーヴ艦隊がツーロンに戻ってしまったことを知らされ、さらに本国から帰国命令を受け取ったので母港のロシュフォールに帰ることにした。つまりナポレオンはイギリス本土上陸作戦を諦めてしまったのだが、やがて思い直してミシッシー艦隊に与えた帰国命令を取り消し、ヴィルヌーヴにも再度の出撃準備を命令した。

   ナポレオンの大戦略   目次に戻る

 ナポレオンが思い直した理由は、その頃スペイン海軍の戦備が整ってきていたため、それを使ってさらに大規模な作戦をやる気になったからである。ただし、当時のスペイン海軍の主力はスペイン南西部のカディス港と北西部のフェロール港に配備されていたのだが、どちらもイギリス艦隊によって封鎖されていた。(正確には、フェロールの艦隊はスペイン・フランス混成であった)

 で、ナポレオンの新作戦とは具体的には以下のようなものであった。……まずヴィルヌーヴ艦隊が改めてツーロンを出港してカディス港へと向かい、そこの封鎖艦隊を攻撃して港内のスペイン艦隊を救出、これと合流してカリブ海に向かう。ブレストのガントーム艦隊はフェロール港のスペイン艦隊と合流、その後やはりカリブ海へと向かい、マルティニック島(カリブ海のフランス植民地)にて4艦隊(ツーロン、カディス、ブレスト、フェロール)及びミシッシー艦隊の大同団結をはかる。そして、そのような動きによってイギリス艦隊を捜索に奔走せしめ、その隙に5艦隊の総力をあげて英仏海峡に突入、陸軍のイギリス本土上陸を援護する、という極めて大規模かつ複雑な戦略である。(この作戦ではカディスとフェロールのスペイン艦隊はどちらもフランス艦隊に救出してもらうことになっている。ナポレオンはスペイン海軍の戦闘力を低く見積もり、自力でイギリス艦隊の封鎖を破るのは無理と考えたようである)

 しかし、この作戦命令は何らかの不備のためミシッシー艦隊には届かず、同艦隊はナポレオンの大戦略を知らないまま大西洋を東へ東へと(母港ロシュフォールを目指して)航行し続けた。それに、当時の軍艦というのは……今さら言うまでもないことだが……みな帆船なので風向き風力その他の気象条件によって航行スケジュールが左右され、しかも無線もない(広大な洋上での連絡に手間がかかり、連絡相手を見つけられない可能性も高い)時代なので、海というものについてある程度の知識を持つ人間ならばかような複雑大作戦がうまくいく訳がないと思うのが普通だし、他ならぬネルソンも、ナポレオンがそんな複雑で無理のある作戦を考えているとは思いもよらなかった。しかしその意味では、海に関してはド素人であるナポレオン……彼は部下の意見を聞く習慣がなかった……が考えたこの作戦(陸戦ならばこの程度の作戦は複雑とはいえない)は海洋作戦のプロであるイギリス海軍の思考の盲点を突くものであると言えないことはなかったし、確かにある程度までは成功をおさめることになるのである。

 2月19日、東地中海をぐるっとまわってマルタ島まで引き返してきたネルソン艦隊は、そこでようやく「ヴィルヌーヴ艦隊はツーロンに戻った」との情報を入手した。その頃のネルソンがエマに宛てた私信に曰く「あなたのネルソンほど、哀れで不幸な目に遭っている人はいないでしょう」。とはいっても、ネルソン個人はともかくネルソン艦隊総体としては上々のコンディションを保っていた。マルタ島を出帆したネルソン艦隊はサルディニア島まで大変な悪天候に苦しみつつ航行するのだが、そんな時でも「私の艦隊はすばらしい健康状態を保ち続け、非常な悪天候にさらされたにもかかわらず、帆桁もマストも1本も失わず、帆1枚も裂けず、全く損傷を受けませんでした」とネルソンに言わしめる素晴らしい状態であった。さっきのヴィルヌーヴ艦隊とは大違いである。常に外海にいるネルソン艦隊の水兵と長い間港湾(ツーロン港)に閉じこもっていたヴィルヌーヴ艦隊の水兵とでは、船乗りとしての経験値に大きな差があったのであった。

   フランス艦隊の第2回出撃   目次に戻る

 3月30日、ヴィルヌーヴ艦隊が再びツーロンを出帆した。その戦力は戦列艦11隻、フリゲート艦6隻、ブリッグ艦2隻である。ツーロン沖ではネルソン艦隊のフリゲート艦2隻が監視任務にあたっており、うち1隻がそのままヴィルヌーヴ艦隊を追跡、もう1隻がネルソンのところに注進に駆けつけた。そのころ艦隊主力を率いてスペインのバルセロナ沖にいたネルソンは、ヴィルヌーヴ艦隊の行き先は今度こそエジプト方面に違いないと思い込み、敵が外海に出てきたところを叩くという従来の作戦構想に固執していた。エジプト方面に行くと思ったから(ヴィルヌーヴ艦隊が出港の準備をしているという情報は事前に入っていた)、ヴィルヌーヴ艦隊が出港を決意しやすいようにエジプトと反対方向のスペインに艦隊の主力を配していたのである。その頃のネルソンの健康状態は非常に悪く……海軍本部に長期休暇を申請していた……思考が硬直していたといわれている。

 ただ……、ネルソン艦隊の主力がツーロンから離れたところにいたのは、乗組員に景色の変化を味あわせることでその健康を維持してやりたいという配慮もあった。食糧や清水は手際良く補給していたし、訓練や任務の合間に娯楽イベントを開催して乗組員を和ませていたこともあって、艦隊にはほとんど病人がいなかった。イギリス海軍では水兵に支給すべしと正式に定められている野菜はエンドウ豆だけだったが、ネルソンはタマネギや柑橘類を調達してみんなを喜ばせた。ネルソン……自分が何度も傷病に苦しんだだけに健康管理に熱心だった……は戦闘だけでなくそういった雑務を滞りなくこなす事務処理能力においても卓越した手腕を持っていたのである。その一方でネルソンはナポリ王国政府から休養に来てはどうかとしきりに誘われたが、丁重に断った。以前ナポリに深入りしすぎたことを反省したからである。とはいってもそういう筋との付き合いを軽視した訳では決してなく、地中海沿岸諸国の政府(及びそこに駐在するイギリスの外交官)と滞りなく連絡をとり、そのために必要な膨大な書類仕事をこなした。これはイギリス本国の政治家たちの賞賛の的となった。

 また、ネルソンはこれまでに何度も重傷を負い大病も患ってきたが、少なくとも内臓については全くの健康体であったことが死後の検屍によって確認されている。本人曰く「このわたしは樫の木にかこまれた、1本の葦のようです。あらゆる流行り病がわたしに襲いかかりましたが、わたしは、病がしがみついていられるほど強くないのです。嵐がくれば、わたしはしなります。頑丈な樫は倒れます」。ちなみにネルソンの身長は167〜170センチでこれは当時の平均的な成人男子とそうかわらず、胸囲は96〜99センチ、胴回りは81〜84センチであったことが分かっている。世間一般ではネルソンといえば非常に小柄だというイメージが定着していたが、これは、英雄たる者は容姿も普通の人とは違う筈だという思い込みから出た誤解であったようである。(それプラス、かなり太っていたエマと並んで立つと小柄に見えたらしい)

 もうひとつ、この頃のネルソンは、以前と比べればエマのことについてあれこれ思い悩むことが少なくなってきていた。とはいっても愛情が薄れたという訳では決してなく、他の男と会ってるんじゃないかとかそういう雑念に煩わされることなく、エマのことを穏やかに思い描けるようになったということである。また、この頃のネルソンにとっては、「エマに会いたい」よりも「フランス艦隊を打ち負かしたい」という願望の方が強かった。

 話を戻して……、ネルソンは戦列艦数隻をバルセロナ沖に残して揺動作戦を行わせ、自身は艦隊主力を率いてサルディニア沖(エジプトを目指す筈のヴィルヌーヴ艦隊が通過するであろう海域)に急行した。しかしヴィルヌーヴ艦隊を追跡していたフリゲート艦はうまくまかれてしまい、サルディニア沖で決戦を待つネルソンは日に日に焦りを募らせていった。4月6日にマルタ総督のアレグザンダー・ボール(ネルソンのかつての部下)に宛てた手紙に曰く「私はもはや死んだも同然だ……私の心は不安にさいなまれて、もうこれ以上、何も書く気はしない」。

 ブレストのガントーム艦隊はどうしていたか。イギリス側のブレスト封鎖責任者であるコーンウォリス提督はネルソンと違ってただ単にブレストを封鎖することだけに集中していたため、ブレスト港内に閉じ込められているガントーム提督としては力づくで封鎖を突破する以外の方策は考えようもなかった。しかしナポレオンは各艦隊がカリブ海で集結するより前に海戦で消耗してしまうのを嫌って「戦闘を行わずに洋上に出よ」と命令した。そこでガントーム提督は3月27日の濃霧の朝にブレストを抜け出そうとしたが、その霧はたちまち晴れてしまい、その先にイギリス艦隊の勇姿が待ち構えていた。ガントームはひとしきり悩んだ末に外海に出るのを諦めてブレスト港の奥へと引き返した。彼の艦隊は結局最後までブレストを出ることが出来なかった。ガントーム艦隊が動けない以上は、彼等が来てくれるのを待っているフェロール港のスペイン艦隊も動けないということである。ちなみにブレスト封鎖艦隊のコーンウォリス提督はアメリカ独立戦争の時にネルソンと知り合い、ニカラグアでの作戦の際に重病に倒れたネルソンを本国まで(当時コーンウォリスが艦長をしていた戦列艦で)送ってやったという経歴の持ち主である。

   グラヴィナとオード   目次に戻る

 4月18日、ネルソンのもとにようやく「ヴィルヌーヴ艦隊は去る8日にジブラルタルを通過した」という中立国発の情報がもたらされた。ヴィルヌーヴ艦隊は予定通りまずカディスに向かい、8日の午後4時には早々と目的地に接近していた。カディスにはグラヴィナ提督の率いるスペイン艦隊が停泊しており、それをイギリス側のオード提督が率いる小艦隊が封鎖していた。ヴィルヌーヴ艦隊が戦列艦を11隻持っていたのに対してオード提督の戦列艦は4隻にすぎず、しかも輸送船から補給を受けている最中という最悪の状態であった。が、ヴィルヌーヴはこの絶対有利な状況を活かさずに(オード艦隊を叩かずに)さっさとカディスに入港してグラヴィナ艦隊と合流、現地に6時間とどまったのみで翌日未明にはまたさっさと外海へと繰り出していった。ただし、グラヴィナ艦隊の全部が出帆した訳ではなく、何隻かはそのまま港に留まり続けた。オード艦隊を足止めしておくためである。それと、グラヴィナ提督(大将)はヴィルヌーヴ提督(中将)よりも階級が上であったが、後者の背後にはナポレオンがいるので艦隊の総指揮はヴィルヌーヴの手に握られた。そんな訳なので、ヴィルヌーヴとグラヴィナの連合艦隊のことを本稿では「ヴィルヌーヴ艦隊」と表記する。

 ただ、グラヴィナ提督は戦列艦8隻を連れて出港しようとしたのだが、そのうち1隻はカディスから出る時に座礁するという失態をおかした。その一方でオード提督は、フランス側ミシッシー艦隊が外洋で活動している(この頃まだカリブからロシュフォールに帰る途中だった)ことや、ブレストのガントーム艦隊が封鎖を抜けようとしているという情報を総合し、フランス・スペインの各艦隊がどこかで集合して英仏海峡に突入するつもりではないのかという判断に立ち至った。まさしくナポレオンの戦略を見破った訳である。

 ネルソンの方はまだそこまで考えが及んでいなかったのだが、これについてはオードがネルソンよりも優れた戦略眼を持っていたというよりは、オードよりも本国から遠いところで活動していたネルソンに対してはミシッシー艦隊の動向とかに関する情報が届くのが遅かったため、オードとネルソンではあれこれ考えるための情報の量に差があったというのが正しいようである。

 ともあれオードは英仏海峡の守りを固めようと艦隊を率いて北上、ブレスト(英仏海峡の西の入り口に近い)を封鎖している味方(コーンウォリス提督の艦隊)に合流することにした。これはオーソドックスな選択ではあるのだが、そのせいでオード艦隊はヴィルヌーヴ艦隊の行方を完全に見失ってしまった。オードはヴィルヌーヴとグラヴィナの最終目的地については見抜くことが出来たが、彼等がわざわざカリブ海を経由するつもりでいるとは思わなかったし、ヴィルヌーヴ艦隊がカディスに一晩とどまったのみでさっさと出て行ってしまったのも予想のらち外であったようである。

 ちなみにオード提督はネルソンよりもやや先輩で、アブキール湾の海戦の時に先輩の自分を差し置いてネルソンが重要な任務を任されたことにひどく憤慨したという前歴の持ち主である。ただしその時のオードの怒りはネルソンよりもその当時の地中海艦隊司令長官であったジャーヴィス提督の方に向いており、ジャーヴィスに決闘を申し込むという騒ぎを起こしている(さすがに実現せず)。そんな訳なのでネルソンは当然ながらオードのことを快く思っておらず、今回のオードの不手際(ヴィルヌーヴ艦隊を見失ったこと)について後で厳しく批判することになる。また、実はカディスの封鎖は本来ネルソンの任務に含まれていたのに、そこに新設のオード艦隊が割り込んできたことにも不満を抱いていた(しかもオードの受け持ち海域はスペイン本国とその植民地をつなぐ航路が通っており、拿捕賞金をゲットするには最適であった)。しかしオードの方はとっくの昔に考えを改めてネルソンの才能に敬意を払うようになっており、後にネルソンが死んだ時の葬儀で棺側葬送者をつとめることになる。(本国の海軍本部もオードのネルソンに対する感情をよく知っていたから、ネルソンの権限を削ってオードに与えても問題あるまいと思ったらしいのだが、今回のオードの不手際については厳しく接し、彼を海上勤務から外してしまった)

   カリブ行き   目次に戻る

 話を戻して……、ネルソン艦隊は5月6日になってやっとジブラルタル港に到着した。ヴィルヌーヴ艦隊に遅れること約1ヶ月である。ヴィルヌーヴはツーロンからジブラルタルまで順風に恵まれていたが、ネルソンの方は逆風に苦しめられ通しであった。さらにジブラルタルでも逆風だったのでしばらく停泊することになり、艦隊の乗組員たちはこの機会に洗濯物を港に送ろうとしたが、その日の午後には順風に変わったので直ちに出港することになった。出帆命令を聞いた乗組員のある者は「ネルソン提督の馬鹿げたいたずらだ!」と憤慨(?)したというが、ネルソンとしてはヴィルヌーヴ艦隊を追撃するためには洗濯物どころではなかった。

 続いてネルソンのもとに、ヴィルヌーヴ艦隊はカリブ海に向かったというポルトガル海軍発の情報がもたらされた。同じ情報は本国の海軍本部も掴んでいた。カリブ海のイギリス植民地は主に砂糖を産出していて多額の利益を産んでおり、そこをヴィルヌーヴ艦隊に荒らされたりしたら非常に困ることになる。いちおうカリブ海にも相応の守備兵力を置いてはいるのだが、それだけでは不足だと思った海軍本部は新たにコリングウッド提督(ネルソンの旧友)に5隻の戦列艦を与えてカリブ海へと派遣することにした。海軍本部はその「5隻」を揃えるために港に繋いでいた予備役の艦を大急ぎで就役させ、乗組員は強制徴募でかき集めた。ネルソンの方は、たまたま本国からマルタ島に向かっていた輸送船団と行き会い、その護衛のために戦列艦1隻を分け与えてやったうえで5月11日に艦隊の針路をカリブ海へと定めた。

 ネルソンと別れてマルタに向かって行った輸送船団にはクレイグ将軍の率いるイギリス陸軍4000名が乗組んでいた。この部隊は数のうえでは大した兵力ではなかったが、練度においてはイギリス軍でも最強クラスであるという報告を受け取ったナポレオンは、クレイグ軍を派出した分だけ防備が手薄になったであろうイギリス本土に対する上陸作戦にますます強く期待するようになった。イギリスという国は伝統的に海軍国であって陸軍はそんなに多くなく、これまでヨーロッパの各地を転戦してきた熟練兵を多く含むフランス陸軍が上陸してしまえばこっちのものだと思えたのである。

 5月14日、ヴィルヌーヴ艦隊がカリブ海のマルティニック島ポートロイヤル港に到着した。付近のイギリス植民地を攻略しつつ他の艦隊の到着を待つ予定であったが、ミシッシー艦隊が連絡の不備で帰国してしまったこと、ブレストのガントーム艦隊がどうやっても封鎖を突破出来なかったことは既に述べた通りである。フランス本国のナポレオンはヴィルヌーヴの任務を変更し、いったんヨーロッパに戻ってまずフェロール港のスペイン艦隊(ガントーム艦隊が来てくれるのを待っていた)と合流、それからガントーム艦隊と合流せよとの命令を発した。ブレストもフェロールも内側から封鎖を破るのは困難だが、外海にいる艦隊(ヴィルヌーヴ艦隊)と港内にいる艦隊とで封鎖艦隊を挟み撃ちにすれば勝てる筈だと思った訳である。しかし、この時代(帆船時代)の海洋作戦で「挟み撃ち」というのは実は非常に困難である。仮に外海から攻める艦隊が順風に恵まれたとしても、その場合は港内から攻める艦隊は逆風になってしまって身動きしにくくなるからである。ナポレオンは何でも陸戦(風向きに影響されない)の基準で考える癖がついていたため、その程度のことにすら考えが及ばなかったようである。

 しかも、ナポレオンの新たな指令は何かの手違いのせいでヴィルヌーヴには届かなかった。ヴィルヌーヴ艦隊は6月2日にマルティニック島のすぐ南西にあるダイヤモンドロック(もともとフランス領だったが1年ほど前にイギリス軍が占領していた小島)を占領、同月8日には14隻もの砂糖輸送船を拿捕することに成功したが、その時に捕えた捕虜の口から、4日前(6月4日)にネルソン艦隊がカリブ海に到着したことを知らされた。ネルソン艦隊が大西洋横断に費やした日数はヴィルヌーヴ艦隊のそれより10日も短かった。

 しかしネルソン艦隊は、あまりにも大急ぎで大西洋を渡ってきたせいで1隻が落伍、さらに3隻が大掛かりな修理を必要とする状態となっていたうえに、ヴィルヌーヴ艦隊がカリブ海のどこにいるのかまでは掴めなかった。ヴィルヌーヴ艦隊の方はその頃物資の不足に悩むようになっており、乗組員の間に病死者が続出していたこともあって、6月10日をもってヨーロッパ帰還を決意、カリブ海をあとにした(カリブにいる間に味方の戦列艦2隻と合流した)。ネルソン艦隊の方は健康管理をしっかりしたおかげで病死者は出ていなかったが、誤報や偽情報にまどわされて見当違いの海域をうろうろしてしまう。その時ネルソンは誤報をもたらしたイギリス領セントルシア島の司令官ブレアートン将軍を(彼の言を全面的に信じてしまった自分の過ちは棚に上げて)激しく追求したりしている。

 そして6月13日、ネルソンはヴィルヌーヴ艦隊のカリブ海撤退を知り、こちらもヨーロッパへと反転した。この時のネルソンはまたしても「敵艦隊の真の目的地はエジプトである」とか考えているが、とりあえず快速のブリッグ艦「キュリエ」を先発させてヴィルヌーヴ艦隊のカリブ撤退を海軍本部に知らせることにした。しかしその海軍本部はその頃「ヴィルヌーヴ艦隊はカディスに到着した」という誤報に惑わされており、カリブ海に送るつもりで準備していたコリングウッド提督の戦列艦5隻を9隻に増やしてカディスへと急行させていた。

 フランス側では去る5月20日にミシッシー艦隊がロシュフォール港へと帰着していたが、イギリス側は速やかにこれを封鎖した。ナポレオンはミシッシー艦隊を今度はバルト海へと向かわせることでイギリス艦隊を混乱させようとしたが、無為に終わったカリブ行きで疲弊していたミシッシー提督は病気を理由に辞任し、アルマン提督が任務を引き継ぐことになった。

 その頃のヨーロッパの政治情勢は……、ナポレオンがイタリア諸国に対して大鉈を振るっていた。ナポレオンの2度に渡るイタリア遠征の結果イタリアの北部には「リグーリア共和国」や「チザルピーナ共和国」といったフランスの傀儡政権が複数成立していたが、この体制を改めることにしたナポレオンはリグーリアをフランス帝国の直轄領に編入し、チザルピーナは「イタリア王国」に改変して自分がその国王に就任した。後者の実際の統治はナポレオンの義理の息子(妻の連れ子)ウジェーヌ・ド・ボーアルネが「イタリア副王」として担当することになった。

 なんにしても、イタリアに対するフランスの支配が強化された訳であり、このようなフランスの強大化傾向に危機感を抱くようになったロシア皇帝アレクサンドル1世がイギリスに接近、「ペテルブルク協定」を結んで英露共同でフランスに対抗することにした。英露はさらにオーストリアを味方につけようとしたが、これまでに何度もナポレオンと戦っては敗れていたオーストリアはなかなか首を縦に振らなかった。

 7月8日、海軍本部にブリッグ艦「キュリエ」の至急便が到着した。イギリス本国においては少し前に起こった政権交替に絡んでジャーヴィス提督が海軍本部委員会第1委員の座を退き、かわってチャールズ・ミドルトン提督が職務を引き継いでいた。彼はこのとき既に80歳に近い老人で、提督とはいっても主にデスクワークを担当していて海上で勤務した経験の殆どない人物であったが、何者をも恐れぬずぶとい神経を持ち、卓越した事務処理能力を誇る働き者であった。「キュリエ」の至急便を受け取ったミドルトン提督……早朝に叩き起こされた……は、ヴィルヌーヴ艦隊の動向について以下のような分析を行った。

 「キュリエ」はカリブ海から本国に来る途中の6月19日にヴィルヌーヴ艦隊を目撃しており、その時の針路から推察するにその目的地はおそらくスペイン北部のフェロールであろう(それは正解だった)。フェロールにはグールドン提督の率いるスペイン・フランス混成艦隊が籠っており、それをイギリス側のコールダー提督が10隻の戦列艦を率いて封鎖していたが、コールダー艦隊だけでは足りないと判断したミドルトンはロシュフォールの封鎖艦隊もフェロールに向かわせることにした。

 これで封鎖解除となったロシュフォールにいたフランス側アルマン艦隊(旧ミシッシー艦隊)は速やかに出港、バルト海へと向かおうとしたが、ナポレオンがまた作戦を変更し、アルマン艦隊とヴィルヌーヴ艦隊を合流させることにした。

 その一方で7月19日にはネルソン艦隊がジブラルタルに到着した。それまでのネルソンの予測とは違ってヴィルヌーヴ艦隊がエジプト方面には行かなかったことが分かった。そこで大西洋を北に進むことにしたが、折からの逆風に妨げられてなかなか進めなくなる。

   7月22日の海戦   目次に戻る

 7月22日夕刻、スペインのフィネステレ岬の北西約120浬の地点でコールダー艦隊とヴィルヌーヴ艦隊が遭遇した。戦力は前者が戦列艦15隻とフリゲート艦2隻、後者が戦列艦20隻とフリゲート艦7隻で、後者の方が先に相手を視認した。両艦隊は濃霧のなか午後5時15分から午後9時まで4時間に渡って砲火をまじえたが、視界極めて悪く、全くの混戦となった。この日の両艦隊の損失は、コールダー艦隊が戦死者41名と負傷者158名で艦艇の喪失は無し、ヴィルヌーヴ艦隊は戦死者155名と負傷者341名で戦列艦2隻喪失である。「喪失」の内訳は、スペイン戦列艦「サン・ラファエル」と「フィルネ」がイギリス艦に拿捕されたというものであった。どちらかというとフランス艦よりもスペイン艦の方が勇猛に戦ったとされている。この海戦には何故か名称がついておらず、単に「7月22日の海戦」と表記されている。

 両艦隊はその後2日間に渡ってお互いの姿を視界に捉えていた。しかしコールダー提督はフェロール港のグールドン艦隊がいつ出撃してくるか気が気でなく、ヴィルヌーヴ艦隊との戦闘を再開することが出来なかった。ヴィルヌーヴ提督の方は(これまでネルソン艦隊に執拗に追いかけ回されたのに加えて)濃霧の中での戦闘で最善を尽くすことが出来なかったために自信を喪失しており、やがて両艦隊は離ればなれになっていった。

 その後、次第に天候が荒れ模様になってきた。ヴィルヌーヴ艦隊はフェロールに入港するつもりでいたのだが、コールダー艦隊との海戦で手痛い損傷を受けた艦が多く、このまま荒れ模様の中を進むのは危険と判断されたために手近のヴィゴ港に入港した。戦列艦のうち3隻は行動不能なほどに損傷しており、乗組員の健康状態は甚だ悪くて赤痢や壊血病が蔓延していた。

   ヴィルヌーヴの逡巡   目次に戻る

 ヴィゴ港には艦艇を修理するドックも補給施設もなかった。ヴィルヌーヴ提督の戦意はもはやガタガタである。ちなみにイギリス海軍では航海中に死んだ者は(よほど身分の高い者は別として)水葬されたが、フランス・スペイン海軍ではいったん艦内に安置して、陸地に着いた時に墓地に埋葬するのが一般的であった。後者の方が丁重ではあるが、衛生管理という点では大きな問題があった。

 しかしヴィルヌーヴ艦隊は8月1日、フェロールを封鎖していたコールダー艦隊が折からの強風を避けるために持ち場を離れた隙にフェロールに入港し、そこにいたグールドン艦隊と合流した。グールドン艦隊はスペイン籍の戦列艦9隻とフランス籍の戦列艦5隻を擁しており、これをあわせたヴィルヌーヴ艦隊の総戦力は戦列艦29隻を数えるに至った。ただその頃、アルマン艦隊がヴィルヌーヴ艦隊を探しまわっていたが、けっきょく接触出来なかった。

 ナポレオンはヴィルヌーヴに対し速やかに英仏海峡に向かい北上せよと命じた。しかしグールドン提督がたまたま重病に罹って死にかけていたこと、コールダー艦隊がどこにいるのか分からなかったこと、そして気象状況が悪かったこと等々により、ヴィルヌーヴ艦隊はなかなかフェロールを出港することが出来なかった。その頃英仏海峡沿いのブーローニュにいたナポレオンはヴィルヌーヴがぐずぐずしていると聞いて「何たる海軍! 何たる提督だ!」と激怒した。そんなことを言っているナポレオン自身がこれまでころころと作戦を変更し、しかも海上では実施困難な命令を押し付けていたことがヴィルヌーヴ提督の神経を痛めつけていたことがどうしても理解出来ないのである。

 ネルソン艦隊はどうしていたか。その頃のネルソンは、ヴィルヌーヴ艦隊がどこで何をやっているのか全く分からなくなっていた。とりあえずスペイン南部のカディス港に行ってみたが、無論そこにはヴィルヌーヴ艦隊はいない。そこで次はアイルランドに行ってみることにした。当時のアイルランドはイギリスの植民地であって抑圧的な支配を受けていたため、フランス軍が上陸してアイルランド人民に反イギリス蜂起をけしかけるというのは十分にありえる話であった。しかし無論これも勘違いであって、アイルランドに行く途中の8月12日にはその方面には敵影なしという情報が入ってきた。ネルソンはこうなってしまった以上は英仏海峡という最終防衛ラインの守りをかためるのが最も無難な選択肢であると判断、そちらへと舵をきった。同じ頃にはコールダー艦隊も英仏海峡を目指していた。(フランスがアイルランドを利用しようとしたことは過去にも何度かあり、実際に少数のフランス軍が上陸したこともあるが、うまくいかなかった)
 
 ヴィルヌーヴ艦隊は8月13日になってようやくフェロールを出港した。その知らせを聞いたナポレオンはブレストのガントーム提督に伝令を送り、ヴィルヌーヴ艦隊に呼応して封鎖を突破せよと命令した。しかしそのブレスト(英仏海峡の西の入り口)の沖には8月14日にイギリス側コールダー艦隊が到着、翌15日にはネルソン艦隊も到着してきた。これでは、仮にヴィルヌーヴ艦隊とガントーム艦隊が合流出来たとしても英仏海峡突入は困難である。ただしその頃の英仏海峡は凪が続いており、イギリス艦隊の艦艇は航行に難儀した。その様子を陸地から眺めていたフランス側イギリス遠征軍の将兵たちは、オールを使って漕ぎまくれば48時間で海峡を突破出来ると思った。

 フェロールを出港したヴィルヌーヴ艦隊には、コールダー艦隊が監視のために残しておいた戦列艦「ゴラゴン」とフリゲート艦数隻が食い付いていた。ヴィルヌーヴ提督はこれを「戦列艦8隻」と見間違え、もはや何をどうやっても敵の餌食になると考えた。とりあえずアルマン艦隊を探そうとフリゲート艦「ディドン」を派遣したが、これはイギリス側のフリゲート艦「フェニックス」に見つかり、4時間に渡る戦闘の末に拿捕された。そして8月15日、ヴィルヌーヴ提督は英仏海峡行きを断念、針路を反転してカディスに行くことにした。これを察知したイギリス側からは、コールダー提督が戦列艦18隻を率いてヴィルヌーヴ艦隊を追跡することになった。

   ネルソンの本国帰還   目次に戻る

 ネルソンは短期間の休暇を貰うことになり、8月18日に本国のプリマス港に上陸した。カリブ海からジブラルタルに戻った時に短時間上陸したのを除けば、実に2年3ヶ月ぶりに踏む陸の土であった。そんな訳で彼には休養をとる資格が充分にあったのである。

 その頃のイギリス世論は7月22日の海戦で大した戦果をあげられなかったコールダー提督を強く非難していた。ネルソンはコールダーに同情を示しつつ、東地中海からカリブ海まで駆け回って何の戦果もあげられなかった自分もまた糺弾されやしないかと気が気でなかった。しかし、世論は、コールダーに出来なかったフランス艦隊撃滅をネルソンならやってくれるに違いないと考え、英雄の帰還を大歓迎した。特にカリブ海関連の商人たちは、ネルソンがカリブからヴィルヌーヴ艦隊を追い払ってくれたおかげで大した損失が出なくてすんだと考え大喜びしていた。一般庶民も、自分の艦隊より大きな艦隊を追撃して西へ東へ走り回ったネルソンの行動力に感嘆した。ネルソンはかような世論に対しては冷静に、「いまはまるで手品師のように持ち上げられているが、わたしがそのような者などではないことに、みんなすぐに気づくだろう……一度でも誤った推測をすれば、呪文はこわれるだろう」と語った。

 ヴィルヌーヴ艦隊は20日にはカディス沖に到着した。その時のカディスはイギリス側コリングウッド艦隊によって監視されていたのだが、ヴィルヌーヴ艦隊の3分の1以下の戦力しか持っていなかったコリングウッドはジブラルタル方面へと退避した。おかげで悠々とカディスに入港したヴィルヌーヴ艦隊はそこにいた若干のスペイン艦をあわせ、全部で33隻の戦列艦を揃えるに至った。しかししばらくするとコールダー艦隊がカディス沖に到着、コリングウッド艦隊も戻ってきて監視を再開したため、ヴィルヌーヴ艦隊はカディス港内に完全に閉じ込められてしまった。その頃ブレストのガントーム艦隊がイギリス側の封鎖艦隊と小ぜり合いを起こしていたが、結局封鎖を破ることは出来なかった。

 8月25日、ナポレオンはイギリス本土侵攻作戦を完全に白紙撤回した。とはいっても、この時点では彼はヴィルヌーヴ艦隊が英仏海峡行きを断念してカディスに行ったことを知らなかった。しかしナポレオンはもはや自分の配下の海軍がわざと自分の作戦を妨害しているのではないかとすら思っていたし、少し前にオーストリアがイギリス・ロシアに加担する腹を決めたことによって「第3回対仏大同盟」が成立したため、そちらへの早急な対処が必要となっていたのである。オーストリア的にはナポレオンのイギリス本土侵攻作戦がもっと進行してからその背後を突くつもりだったのだが、ナポレオンはそれまで英仏海峡沿いに置いていた「イギリス遠征軍」を「大陸軍」に名称変更したうえで速やかにオーストリア方面へと差し向けることにした。このへんの切り替えの早さは流石である。

 ヴィルヌーヴ艦隊のカディス入港がナポレオンの耳に届いたのは9月に入ってからである。ナポレオンはイギリス上陸作戦を諦めた後も海軍に対しては「可能な機会をとらえて敵を叩け」という命令を出していたため、「これはまさしく反逆だ」「まったく話にならん。ヴィルヌーヴの野郎、いますぐクビだ。更迭だ。何もかも剥奪されて、命が残っていればありがたいと思え」と吠えたて怒り狂った。しかし何故か、すぐには解職命令を出さなかった。

   最後の休暇   目次に戻る

 ネルソンはマートンの自宅に帰って久々にエマに会い、他家に預けていたホレイシアも「養女」という扱いにして呼び寄せた。家には親族や友人たちがひっきりなしに訪問してきたし、ネルソン自身も(休暇中にも関わらず)海軍本部や政府に意見を求められること度々であったためにマートンとロンドンを何度も往復しなければならず、親子水入らずとはとてもいかなかったが、ホレイシアと公然と同居したのはこの時が最初(で最後)であった。

 エマはネルソンの留守中に女児を死産していたが、その後はロンドンの社交界で遊び回り、多額の借金をこしらえていた。ネルソンは別居中のファニーに多額の送金をする義務があったし、海軍中将という社会的地位に相応しい生活スタイルを維持するためにそれ相応の出費をしなければならないため、経済的にかなり困るようになってきた。

 そこでネルソンは政府に対し、エマがいかにイギリスのために貢献してきたかを訴え、彼女に年金を給付してくれるよう誓願した。「エマの貢献」というのは、1798年にナポレオンのエジプト遠征軍を追撃していたネルソン艦隊がナポリ領のシラクサ港に立ち寄った際にエマの口利きで必要な物資を補給出来たというあの話である。しかし政府側は「エマの貢献」なるものを認めようとはしなかった。そもそもエマは故ウィリアム・ハミルトンの遺産に加えてネルソンからも多額の金を貰っているため、普通に暮らしていれば政府にたかる必要はない筈であった。(ただしウィリアムの遺産は大した額ではなく、しかもその一部は親戚に騙しとられていた)

   ウェルズリーと邂逅   目次に戻る

 9月3日、ネルソンは改めて地中海艦隊司令長官に任命され、出陣の準備にとりかかった。海軍本部のミドルトン提督はネルソンが先にヴィルヌーヴ艦隊を捕捉出来なかったことで彼に良い印象を持っていなかったのだが、改めてネルソンと話をしてみて考えを変えた。ネルソンの方もミドルトン提督を信頼しており、ミドルトンから部下の人選に関して意見を聞かれた際に、「閣下、どうかあなた御自身でお選びください。我が海軍の士官たちはみんな同じ精神の持ち主ばかりです。閣下が間違った選択をされるはずもありませんし、またその余地もありません」と返答した。まぁこれは、ミドルトンの人選眼を評価しているというよりは、イギリス海軍の士官全体のレベルの高さを言っているのではあるが。

 その前後、所用のため植民省を訪れたネルソンは、そこの待合室で陸軍のアーサー・ウェルズリー少将とはち会わせた。ウェルズリーというのは後にスペイン方面での戦いで殊勲を立てて「ウェリントン子爵」の位を授けられ(後に公爵に昇格)、1815年の「ワーテルローの戦い」でナポレオンに最後のとどめをさす人物だが、この頃はまだまだ売り出し中であった。そんな訳でネルソンはウェルズリーのことを知らなかったが、ウェルズリーの方は高名なネルソンのことをよく知っていた。以下は30年ほど後のウェルズリーの回想。「ネルソンは私が誰だか知らなかったが、すぐに話しかけてきた。しかしそれは全く彼の一方的なおしゃべりで、しかも自分自身のことばかりであったから私はびっくりしたし、その馬鹿馬鹿しいほどの下らない内容には、いささかうんざりしてしまった。しかしやがて彼は席を外して部屋を出て行ってしまった。多分、おしゃべりの間に、私自身も自分が誰であるかをほのめかすようなことをいったらしく、そこで彼は私の名前を確かめに出て行ったのであろう。やがて彼は戻ってきたが、今までの山師風の態度はすっかり消えて、別人のように変わっていた。そして今度は、祖国の現状や大陸の情勢について思慮深く語り始めたが、彼の豊かな知識と深い洞察力には、あの奇妙な第一印象とともに、私はびっくりさせられてしまった。私も彼の意見に賛成したが、彼は政治家のように語り続けていた」「第一印象のままで彼と別れていたら、おそらく私はネルソン提督は軽率でくだらない人物としか思わなかったであろう。しかし幸運なことに、彼が真に優れた人物であることを知って、私は心から満足した。あの日の彼の豹変ぶりは、私が今までに見たことのないほど鮮やかで完璧なものであった」。

 9月10日、オーストリア軍がフランスの同盟国バイエルン(ドイツ南部にあった王国)へと侵入した。オーストリア軍としてはフランスの機先を制したつもりであったが、7個軍団に編成されたナポレオンの大陸軍は誰にも想像出来ない快速で英仏海峡からバイエルンまで歩きに歩き、バイエルンのウルムに布陣したオーストリア軍の背後へと回り込んでいった。以下はナポレオンから兵士たちに対して発された布告。「おまえたちの皇帝はおまえたちとともにある。おまえたちこそ偉大な国民の前衛にほかならない。必要とあれば、私の号令一下、全国民がイギリスの憎悪と金でつくられたこの新たな同盟(第3回対仏大同盟)をくじき崩壊させるために立ち上がるであろう。だが兵士たちよ、われわれは強行軍をつづけ、あらゆる種類の疲労と不自由に耐えなければならぬであろう。いかなる障害が立ちはだかろうとも、それを克復せよ。休息をとるのは、われらが鷲のしるし(ナポレオンのシンボル)を敵の領土にならべてからにしようではないか」。大陸軍の各隊は三列縦隊で昼も夜もぶっ通しで歩き続けた。休息は1時間ごとに5分だけ、昼は軍歌をうたい、夜は太鼓を乱打して睡魔を追い払った。とにかく急がなければ、その頃ドイツを目指して東方から進撃していたロシア軍がウルムのオーストリア軍に合流してしまう。しかも、ウルムを普通に正面から攻めたのでは、たとえフランス軍が勝ったとしてもオーストリア軍は背後(ロシア軍のいる方向)へと退却するだけであるため、大陸軍はウルムの北を大きく迂回してその背後に回り込まねばならんのである。

   最後の出陣   目次に戻る

 9月13日夜、一通りの準備を終えたネルソンはいよいよポーツマス港に停泊する旗艦「ヴィクトリー」に乗り込むべく、マートンの自宅を出立した。エマやホレイシアとはこれで今生の別れとなった。エマ曰く「私たちはあなたのご不在を嘆きもしましょう。悲しみもしましょう。でも、国のためにお出になってください。きっとみんなは大喜びし、そしてあなたの心も鎮まるでしょう。きっと輝かしい大勝利を収めることになりましょう。そうなればここにもどってきて、幸せに暮らせましょう」。ネルソンは目に涙を浮かべて以下のように答えた。「勇敢なるエマよ! 善良なるエマよ! この世にエマがもっと何人もいたなら、ネルソンももっとたくさん出てくるだろう!」。(このやり取りは正確にはこの日に行われたものではありませんが、話的に面白くなるのでこの場面に挿入しました)

 次に引用するのは翌日のネルソンの私的な日記。「金曜夜10時半、マートン出発。うしろ髪を引かれる思い。この世で私が大事だと思うすべてをマートンに残して、国王陛下と祖国のお役に立とうと出てきたのだ。愛する神様の嘉したもうところとなって、祖国の期待を果たすことができますよう! 神様の思し召しのよろしきを得て、無事帰還できましたら、憐れみ深き神様の玉座にわが感謝の祈りが絶えることは決してないでしょう。また、地上のわが生をお断ちになることが、全きご神慮のおはからいとなりましても、混じりけなき素直な心をもって従いましょう。あとに残して逝く私の大切な人々を、ご守護いただけるものと安心しております。神のみはからいの栄えんことを。アーメン! アーメン! アーメン!」。

 しかしネルソンの死後、エマを守護してくれる人は現れなかった。彼女はネルソン家の親族や友人たちの大半からあっさりと見捨てられたうえに深酒で身を持ち崩し、借金に苦しみつつ1814年に亡くなった。晩年はホレイシアとの関係も悪かったといわれている。ホレイシアはエマの死後はネルソンの妹の家に引き取られ、そちらで牧師と結婚して幸せな家庭を築き10人の子供を産んだ。亡くなったのは1881年、享年80歳であった。墓石には「中将ネルソン卿の養女」と刻まれたが、しばらくしてから「愛娘」と書き直された。ネルソンの正妻ファニーはネルソンの死後は国から多額の年金を支給され、1831年に70歳で亡くなった。連れ子のジョサイアは実業家として成功していたが、母親よりも1年早く亡くなった。

 話を戻して1805年9月14日の朝、ポーツマス港に到着したネルソンは見送りの群衆が祝福と万歳の声を浴びせる中を長官用ボートに乗り込み、旗艦「ヴィクトリー」へと進み出でていった。旗艦艦長は以前と同じくトマス・ハーディである。ネルソンは大歓声を張り上げ続ける岸壁の群衆を眺めつつ傍らのハーディに、「私は今までにも何度か彼等の歓呼の声に包まれたことがあるが、今や私は彼等の気持ちを完全に捉えている!」と語った。さらに、「ヴィクトリー」にはかつてアブキール湾の海戦の時に爆沈したフランス戦列艦「オリアン」のマストの残骸でこしらえた棺桶を運び込んだ。しかしまぁこれは、危険な任務につく軍人としての覚悟のほどを示すエピソードであって、別に死に場所を求めていたとかそういう訳ではないようである。

 同日、ナポレオンはオーストリアを牽制するため、イタリア方面においても攻勢に出ることにした。そして、カディスに籠っているヴィルヌーヴ提督に対し、直ちに地中海へと進出してイタリア方面での作戦を海から支援せよとの命令を送付した。「さらに予は、貴官がいかなる場所においても劣勢なる敵艦隊と遭遇した場合には、ちゅうちょ無く攻撃し、敵に決定的な打撃を与えることを希望する」「今回の作戦の正否が、貴官の率いる艦隊のカディス港からの1日も早い出港にかかっていることを、貴官は十分に認識されたい」。しかしナポレオンはこの命令を出した翌日(15日)になって、「きわめて無気力な」ヴィルヌーヴでは無理だと考え直して彼を解任し、フランソワ・ロシリー提督をその後任にあてることにした。ただ、出撃命令は27日にはヴィルヌーヴ提督のもとに届くのだが、解任命令の方はどういう訳かすぐには届かなかった。

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