モロッコの歴史 前編その4

   アラウィー朝の開幕   目次に戻る

 さて、マンスールの死後に群雄割拠の乱世となったモロッコにおいて、次第に頭角を現してきたのが「アラウィー家」である。実はこの家こそが現在に続くモロッコ王家である。アラウィー家もサード朝と同じくシャリーフ(予言者ムハンマドの末裔)を自称する一族で、伝説によれば13世紀頃にアラビア半島からモロッコに移り住んできたという。サード朝末期の混乱に乗じてサハラ交易路を掌握することで勢力を拡大、1640年頃には族長ムーラーイ・ムハンマドが「スルタン」を名乗った。ただしその時点ではサード朝のスルタンがまだ生き残っていたし、各地の群雄も強力であり、1650年代にはアルジェリア方面に進もうとしてオスマン帝国に阻まれたりした。

 ムーラーイ・ムハンマドの次のスルタンとなったムーラーイ・ラシードは1670年にはほぼモロッコ全土を制圧した(サード朝は59年に断絶)が、その後も地方部族や同胞団の抵抗が断続的に継続した。ラシードの弟で72年にスルタンとなったムーラーイ・イスマーイール……その後55年もの長きに渡ってモロッコに君臨する……は「神が私に王国を授けた以上、何人もこれをとりあげることは出来ない」と語って鎮圧に奔走した。彼が最も信頼した戦力は「ブハーリー」と呼ばれる親衛隊で、これは黒人奴隷(註1)に軍事訓練を施したものであり、その数は15万にも達した。黒人奴隷はまだ幼いうちに購入(註2)され、10歳からまず猛獣の取り扱いを教えられ、15歳頃から乗馬・水泳の訓練、18歳になると軍に登録された(ただしスルタンの身辺警護をつとめる部隊は12〜15歳の少年からなっていた)。現在のモロッコ王家も近衛兵に黒人を用いているそうだ。

註1 イスマーイールの母も黒人奴隷の出身。

註2 買ってくることもあれば、サハラ以南に遠征隊を送って拉致してくることもあった。アラウィー朝が目をつけていたのはセネガル河の流域で、そのあたりに住む黒人部族はまだ強力な国家を建設していなかったため、アラウィー軍はやりたい放題であった。ちなみにセネガル河口にはフランスが小さな植民地を建設して奴隷貿易を行っていたが、その「商品」をアラウィー軍が強奪することもあった。

   サレの海賊その2   目次に戻る

 サード朝の項で触れたサレの海賊集団は、アラウィー朝においても国家の黙認下で猛威をふるっていた。海賊は「ジーベック」という三角帆のついた高速小型船を好んで用い、偽の旗を掲げてキリスト教徒の船に接近、ふいに海賊旗(三日月刀を振るう腕の絵が描いてある)にかけ替えて獲物に襲いかかり、反撃する時間も与えない間に圧倒するという手順を踏むことが多かった。

 海賊の捕虜となった人たちは、サレの港につくとまず足枷をつけられて罵声を浴びながら町を行進させられ、奴隷収容所の地下牢にぶちこまれる。地下牢の天井には鉄格子のはまった穴があいており、これが通気口と明かり取りを兼ねているのだが、雨が降ったら滝のように水が流れ込んでくるし、普段でも床に地下水や下水が滲み出していて不潔きわまりない。

 しばらく経つと外に出され、奴隷市場へと連れて行かれる。市場でチェックされるのはまず歯並び。これが良ければ「健康状態が良い」と見なされて高値がついた。それから身分の高低。身分の高い者は家族から身代金がとれるから、やはり高値がつく。老人や病人は安値で買いたたかれ、死ぬまで働かされた(註3)。このような奴隷市場はオスマン帝国領のアルジェやトリポリにもあった(それらの港湾にも強力な海賊集団が居着いていた)のだが、サレに関してはムーラーイ・イスマーイールの代になって廃止された。捕虜をスルタンだけで独り占めするためである。

註3 体格のいい者は地下牢から出す前の数日間に栄養をとらせて太らせた。その方が高値がつくからである。


 キリスト教諸国はアラウィー朝に海賊の取り締まりを懇願したが、アラウィー側は応じるそぶりだけして何もしなかった。捕虜をスルタンの奴隷にして王宮の建設現場で使っていた(常時2万5000人を使役)のだから当然である。イスマーイールはフランスのルイ14世が築いていた「ヴェルサイユ宮殿」を凌駕する王宮の建設を夢見(註4)、自ら鞭を奮って奴隷労働者を監督した。アラウィー朝の首都はフェズ・メクネス・ラバト・マラケシュの4つに置かれていたが、イスマーイールの土木事業はもっぱらメクネスで行われた。(メクネスの宮殿はイスマーイールの死後の1755年に発生した大地震によって甚大な被害を受け、現在では廃墟化している)

註4 イスマーイールとルイ14世は同時代人であり、それぞれの王朝の最盛期を築いている。


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 奴隷たちは王宮の建設現場で1日15時間前後働かされた。せっかく造った城壁をイスマーイールの命令で粉々に破壊し、そのうえで全く同じ物を造り直すような無意味な苦役を強いられることもあった。支給される食事は1日あたり黒パン400グラムと油30グラムだけ、たまに腐りかけの肉が手に入った。労働意欲をあげるためのブランデーが支給されることもあった。責め折檻は日常的なもので、逆さ吊りにして足の裏を40〜50回叩くのが一般的であった。キリスト教諸国から拉致されてくる人たちは当然キリスト教徒であるから、これを無理矢理イスラム教に改宗させるための拷問がよく行われた。キリスト教を守っている限り母国に助け出してもらえる(身代金を払ってもらえる)可能性があるのだが、改宗したらもう終わりである。

 しかも、改宗したとしても身分は奴隷のままであった。もちろん待遇はいくらか良くなり、努力と才覚次第で出世の機会もあったが、行動の自由は原則として皆無である。改宗者の一部は軍隊に入れられ、戦場で最も危険な任務を割り当てられた。彼らはブハーリーと並ぶアラウィー朝の主要な軍事力であった。

 それから、改宗するとその証として割礼を受けさせられ、女奴隷を妻としてあてがわれた。その「女奴隷」というのは、海賊に捕えられてきたヨーロッパ人もいれば、サハラの南から買われてきた黒人女性もいた。イスマーイールは色々な人種の奴隷を交配させて、どんな色の子供が生まれるかに強い興味を示した。もちろんイスマーイールのハーレムに入れられる女奴隷もいた。イスマーイールは生涯に少なくとも1200人の子供をつくったという(註5)

註5 イスマーイールは美女美少女がよりどりみどりだった訳だが、どういう訳か第1夫人のララ・ジダナはちっとも美しくなく、それでいながら何故か旦那に熱愛されていた。彼女は実は魔女だったという噂である。


 1661年にポルトガル領のタンジールがイギリス領に移管されたことは既に述べた通りだが、イギリスはここを拠点にしてサレの海賊を叩こうと考え、イスマーイールの方はタンジールのイギリス人を捕虜にして身代金を巻き上げたいと思っていた。ところが当時のイギリスの軍事力はまだそれほど強力なものではなかったし、しかしタンジールの城塞はなかなかに堅固でアラウィー軍の手に余るものであったため、しばらくはにらみ合いが続くことになった。

 1677〜81年、アラウィー軍とタンジールのイギリス軍は小競り合いを繰り返し、イギリス兵数十人が捕虜として連れ去られた。82年には両国間に話し合いが持たれたが決裂となったため、イギリスは巨額の維持費を食いつぶしていたタンジールを放棄した。

 アラウィー軍はスペイン領のセウタに対しても攻撃を繰り返したが、これがまた堅固な城塞に守られていたためことごとく失敗した。ただ、前にも触れたが当時のモロッコにはセウタ以外にも小さなスペイン領がいくつか点在しており、アラウィー軍はそのうちのマモーラの城塞を1681年に、次いでララシュの城塞を88年に占領した。ララシュで捕虜になったスペイン人は1734名いたが、建設現場に放り込まれて5ヶ月後には500名が死に、700名が改宗したという。

 イスマーイールは大変な暴君であり、何か気に入らないことがあるとすぐに周囲の人間(自分の息子を含む)を殺したが、キリスト教国(スペイン)に対する勝利をあげたことによって臣民の尊敬を勝ち取っていた。大勢の(しかもあらゆる国籍の)キリスト教徒を奴隷として使い、フランス国王ルイ14世に「イスラム教徒になり、予言者ムハンマドを信仰すれば、貴公も救われる……、だがこの勧めを辞退すれば、重大な罪を犯すことになる」という手紙を送ったりしたことがますます臣民を喜ばせた。

   アラウィー朝の弱体化   目次に戻る

 1700年、スペイン王家(ハプスブルク家)が断絶し、親戚にあたるフランス国王ルイ14世の孫フィリップがスペイン王位を継承することとなった。フランスが強大化しすぎるのを危惧したイギリスはオランダやオーストリアを誘ってフランスに宣戦、「スペイン継承戦争」が勃発する。この戦争の詳しい話は省略するが、1713年に成立した講和「ユトレヒト条約」により、イギリスはフィリップによるスペイン王位継承を認めるかわりにスペインの植民地における奴隷貿易に参画する権利を獲得し、さらにイベリア半島南端のジブラルタルを領有した。これでイギリスは巨万の富を得ることになったし、大西洋と地中海の連結点に位置する海上交通の要ジブラルタルの安全を守るために、モロッコ(ジブラルタルの対岸)の動向に以前にもまして強い関心を示すようになる。

 1727年、イスマーイールが亡くなった。後継者を巡る内紛が発生し、強大になりすぎたブハーリーがスルタン位を左右したりした。この混乱は57年に即位するシディ・ムハンマドによって収拾されるが、彼は、ブハーリーのような軍隊の力や海賊のもたらす奴隷労働力によって王朝の権力をかためるというこれまでのアラウィー朝の基本方針を改め、外国との平和的な貿易を促進する(そしてそこに関税をかける)ことによって国家財政を強化するという路線変更を断行した。彼は即位早々にサレの海賊集団を禁圧して公海の安全を確保、そのうえでまずデンマークと通商協定を結んだのを皮切りに、他のキリスト教諸国とも次々と協定を結んでいった。1776年にイギリスからの独立を宣言した「アメリカ合衆国」を世界で初めて正式承認したのは実はアラウィー朝であったという。ブハーリーは解体となった(19世紀後半に小規模な形で復活)。

 ところがしかし、スルタンの政府が軍事に重きを置かなくなったのを待ちかねたように地方部族が勝手に動き出し、18世紀の末頃には租税も収めない部族が増えてきた。アラウィー朝の中央政府から地方へと徴税のために派遣される役人は「カイド」と呼ばれ、裁判権や警察権まで付与されて場合によっては規定額の4倍もの徴税を行って私腹を肥やしていたため、地方部族が反抗的になるのも無理からぬ話であった。

 ただ、そんなアラウィー朝でも軍事的勝利がなかった訳では決してなく、ポルトガルの勢力をモロッコから完全に追い払うことに成功している。この時代のポルトガルはカサブランカとマザガンを領有していたが、まず1755年に発生した大地震でカサブランカが壊滅、そこに住んでいたポルトガル人は復興を諦めて撤収した。マザガンはポルトガルが1506年から30年以上の歳月をかけて建設した堅固な城塞と2600名の守備隊に守られていたが、アラウィー軍は1769年にこれを包囲、開城に追い込んだ。ポルトガルはマザガンの居留民をブラジルに移し、そちらに新マザガンを建設させた。

 1792年に即位したムーラーイ・スレイマーンは、19世紀を迎えるや数十年ぶりに(小規模ではあるが)海賊活動を再開した。しかし、サレの海賊船が長いこと港に繋がれて老廃していたのに対し、キリスト教諸国の海軍力は昔よりはるかに強化されていた。1816年、かつてのサレと同じような強大な海賊の巣窟となっていたオスマン帝国領のアルジェ港がイギリス・オランダ連合艦隊の総攻撃を受けて壊滅、これにびびったスレイマーンは海賊行為をやめざるをえなくなった。17世紀の初頭から200年に渡って地中海から北大西洋を暴れ回ったモロッコの海賊はここに終焉したのである。

 ……さて、前にも書いたがアラウィー朝は現在に続くモロッコ王室であり、本稿ももう19世紀に入ったことであるからして、後編ではこの国を「アラウィー朝」ではなく単に「モロッコ」と表記することにする。

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