マキン奇襲

 ギルバート諸島は太平洋の真ん中、赤道の南北にまたがる大小16の環礁からなる島群である。「環礁」とは円形や三角形の巨大な珊瑚礁の辺の部分がとぎれとぎれに陸地になっていてその内側は海という島嶼であり、ギルバート諸島の代表的な環礁には約3500の人口を持つタラワ環礁、約1800の人口を持つマキン環礁が存在する。どの島も標高1メートル前後で山は皆無、椰子が密生している。ギルバート諸島は近在のエリス諸島・フェニックス諸島・オーシャン島・クリスマス島・ワシントン島・ファニング島とともに1892年からイギリスの支配を受けるようになり、1915年からは「ギルバート・エリス王領植民地」と呼称されていた。産品はマキンのコプラ、オーシャンの燐などがある。植民地の首府は最初はオーシャンにあったがその後タラワに移転し、マキンに対しては1年に1〜2回だけ白人の役人がやってくる以外は島民(原住民)の自治にまかされていた。
 
 ギルバート諸島の北西のマーシャル諸島は1886年にドイツが領有を宣言したが、これは1914年の「第一次世界大戦」勃発に際して日本軍に占領され、大戦の終結後は国際連盟の委託によって日本が統治するという「委任統治領」となった。それからギルバート諸島の東に位置するハウランド島は1935年からアメリカ領となり、その時点から海軍の飛行場が建設された。

 太平洋戦争開戦間近となった1941年の9月頃、日本海軍は開戦後の作戦としてアメリカ軍によるハウランド飛行場の利用を阻止することを考え、さらに11月頃にはマーシャル防衛の必要からギルバートの占領を構想するようになった。これが本決まりになったのが11月21日、というから開戦の半月すこし前である。ハウランドは偵察と攻撃にとどめるが、ギルバートについてはマキンとタラワを占領、飛行艇基地を設置するとの計画であった。

 マキン・タラワに差し向けられる兵力は、志摩清秀少将の率いる敷設艦「沖島」「天洋丸」・駆逐艦「夕凪」「朝凪」、小型艦艇5隻の計9隻(「天洋丸」と小型艦艇5隻は商船や漁船を改造したもの)からなり、上陸用の兵員はマーシャル諸島のヤルート環礁の警備を担当する第51警備隊から派出の92名と「沖島」「夕凪」「朝凪」の乗組員から派出する陸戦隊(註1)157名の計249名、それと現地を占領後に飛行艇基地を設置するための設営隊がいた。ハウランド島(とその近くのベーカー島)については志摩少将指揮の部隊とは別に潜水艦「呂63」「呂64」「呂68」が偵察・砲撃を行い、飛行艇24機でこれを支援する。敵情判断ではハウランドに少数の航空兵力、マキンとタラワには兵員はいないが機銃等の武器があると考えられた。

註1 ここでいう「陸戦隊」とは艦艇の乗組員が臨時に武装して陸上戦闘を行う組織である。海軍所属の専門的陸戦部隊である「特別陸戦隊」という組織も存在する(本稿には登場しない)。第51警備隊のような「警備隊」は主に海軍基地の警備を担当する、特別陸戦隊を小ぶりにしたような組織。以上はすべて海軍の兵力であり、陸軍はギルバートの攻略に兵力を出していない。


 開戦前日の1941年12月7日午後3時、まず小型艦艇4隻がヤルート環礁を出撃、残りの艦艇も翌8日、開戦を確認した上で出撃した。ヤルートからマキンまで片道460キロである。9日午後、マキン攻略の「1番隊」とタラワ攻略の「2番隊」に分離した。そして10日午前1時30分、マキン沖に到着した1番隊から「沖島」陸戦隊と第51警備隊派出の兵員をあわせた「聯合陸戦隊第1部隊」178名が上陸作戦を開始、全く戦闘のないまま午前5時15分には環礁の中心地ブタリタリ島を占領した。続いて設営隊が上陸して同日昼頃には飛行艇基地(係留ブイだけ)を設置完了、環礁の他の島も深夜までには占領した。白人の役人・兵士を計7名捕虜とした。島にいた外国商社員(華僑系・オーストラリア系・日本系の駐在員がいた)や教会の白人シスター(4人いた)は開戦前に引き揚げていた。

 タラワに対しては10日午前0時に聯合陸戦隊第2部隊が上陸開始、やはり戦闘のないまま昼頃には制圧となった。マキンには占領の翌11日には早くも飛行艇3機が到着、ここを基地として付近海域の哨戒を開始することになった。志摩少将はさらにノヌチ島・ペル島を占領してギルバート諸島全域を制圧するつもりであったが、これについては上からの命令で中止となった。マキン・タラワの占領と同時期に行われていたウェーク島の攻略が失敗したため、そちらの支援に向かわねばならなくなったのである。

 ハウランド島に対しては、まず8日にマーシャル諸島のメジュロ基地から飛行艇15機が飛び立って爆撃に向かったが、悪天候のため引き返した。しかし9日に飛行艇15機で行った爆撃は成功、250キロ爆弾12発・60キロ爆弾120発をバラまいた。続いて11日午前2〜3時に潜水艦「呂64」がハウランドに、同日午前3時45分〜4時15分に「呂68」がベーカー島に対し砲撃を行った。「呂64」はハウランド砲撃を終えた後にさらにベーカー砲撃を行っている。12日には「呂63」がハウランド砲撃を行う予定であったが、島の施設の大半が破壊されていることを確認したため中止となった。以後のハウランドについては他の潜水艦が監視にあたることとなった。

 マキンについては第51警備隊派出の92名が守備任務を担当することとなり(後に減員される)、タラワについては守備隊は置かず放置となった。仮にも最前線の基地なのにとんでもなく手薄と言う他ないが、当時の日本軍は各地で勝ちまくっていたからアメリカ軍の反攻は当分先のことと思われたし、仮に来襲してきてもマキンの飛行艇で早期にそれを察知すれば、マーシャル諸島やその西のカロリン諸島に展開する味方艦隊・航空隊を投入して撃退可能と考えられていたのである。

 時が流れて2月1日、マーシャル方面でのゲリラ的な活動に出たアメリカ空母「ヨークタウン」から飛び立った急降下爆撃機9機がマキンに来襲、飛行艇2機を破壊した。しかしその後は平穏無事な日々が続く。マキンの飛行艇は常駐ではなくなり、後方の基地から時々数機が進出してきて東〜南方の偵察を行う程度のことしかしなくなった。4月10日には第51警備隊が「第62警備隊」に改編された。

 7月、米軍の潜水艦・飛行機の行動、及び通信が活発化してきた。24日にはマキン上空に敵大型機3機が飛来し、緊張が高まった。そこで警戒を厳重にしていた最中の8月7日、アメリカ軍1個師団がマキンの遥か南西に位置するガダルカナル島に上陸して来た。しかしその師団を護衛してきた米豪混成の巡洋艦部隊は翌8日に起こった「第1次ソロモン海戦」で日本艦隊に大敗し、ギルバート方面では特に目立った敵の動きも起こらなくなったため、特にマキンの守りを強化するような措置はとられなかった。当時のマキンの守備兵力は金光久三郎兵曹長の率いる「第62警備隊マキン派遣隊」の2個小隊64名と飛行艇基地要員3名、気象観測員4名に通訳2名の計73名、それから民間の商社員2名であった。

 8月16日、7月下旬からマキンに敷かれていた厳重警戒態勢が解除となった。ほっとした金光守備隊はガダルカナル方面での友軍の戦果(おそらく第1次ソロモン海戦のこと)を祝う宴を催し、島民(原住民)にも椰子酒を許して(註2)盛り上がった。ガダルカナル方面ではまだ戦いが続いていた(というより、まだ戦いが始まったばかり)が、日本側の公式発表では(実際以上の)大戦果をあげたことになっていたし、去る6月の「ミッドウェー海戦」で空母4隻を失うという大敗を喫したことも、一般の日本国民や兵士には知らされていなかった。そして17日早朝、守備隊本部に敵軍上陸の報告が入った。知らせたのは前夜の宴会で泥酔していたという兵員ではなく民間の南洋興発貿易会社(南貿)マキン支店長とその部下で、彼らも寝ていたところを使用人の島民(一説に島民の警官)に叩き起こされたのだという。

註2 島民の飲酒は日本軍が来る前から禁止されていた。


 視点をアメリカ側に切り替え、時間を10日ほど遡る。……マキンの守備が手薄極まりないことは、アメリカ海軍の太平洋艦隊司令長官ニミッツ大将も気付いていた。ニミッツはガダルカナル方面での作戦から日本軍の目を逸らすのと情報の収集のためにマキンへの奇襲上陸作戦を思い立ち、この任務を海兵隊のエバンズ・F・カールソン中佐に託すことにした。彼……数年前に日中戦争を観戦して毛沢東のゲリラ戦術を学んだことがある……の率いる第2襲撃大隊222名(一説に211名)は大型潜水艦「ノーチラス」「アルゴノート」に分乗して8月8日ハワイ真珠湾を出撃した。潜水艦まで含めての総指揮官はジョン・M・ハインズ海軍中佐である。

 ハワイからマキンまで8日の行程である。定員の倍の人数を詰め込まれた潜水艦の内部は熱気と悪臭とで耐え難いものがあった。海兵たちは仮設の三段ベッドに押し込まれて身動きもままならず、各艦に2つしかないトイレの前には1日中行列が出来ていたという。16日早朝にマキン沖に到着した潜水艦はその日1日を偵察に費やし、同日深夜から上陸準備に取りかかった。浮上した艦の甲板に整列したカールソン中佐以下の海兵たちは窮屈な生活から解放されてほっとした。ここから19隻のゴムボートに乗り移り、2隊に分かれてマキン環礁の中心地ブタリタリ島に上陸することになっていたのだが、何らかの不都合で「ノーチラス」組の一部を「アルゴノート」組のボートに移乗させねばならなくなり、さらに波の音が大きくて命令が徹底出来なくなった(ようにカールソン中佐には感じられた)ことから上陸ポイントを1ヶ所だけに変更した。しかしボートのうち1隻にはこの指示は聞こえなかった。

 ボートへの移乗は午前1時21分(註3)には終了した。波が高い上に暗礁に触れてエンジンを壊すボートが出たりとかなりの難儀ではあったが1時間弱で全ボートが島への上陸に成功する。19隻中15隻は目標地点に、3隻はそこからやや離れた地点に、前述の命令が届かなかった1隻のみが2キロほど離れた地点に辿り着いていた。日本軍には全く気付かれなかった。しかしカールソン中佐は慎重に低声かつ最小限の号令で指示を発しようとしたために部隊の掌握に時間がかかり、そのうちに島民に察知された上に誤射までやってしまった(日本側の南貿社員が聞いている)。カールソン中佐は奇襲を諦め、ただちに1個中隊(A中隊)を前進させて島の政庁を占領させた。そこには日本軍はいなかった。島民の反応は、日本軍に事態を通報する者がいた一方で、海兵隊に協力する者もいた。

註3 本稿はすべて日本時間で統一した。現地時間はプラス3時間となる。


 日本軍は政庁よりずっと西にいた。金光守備隊長は午前3時頃に「総員起し」を発し、その15分後には島外への第一報「敵「マキン」上陸ノ報ヲ受ク○三一五」を打電した。部下の兵員たちは自動車、自転車、駆け足で現場に急行する。午前3時30分頃から戦闘開始、既に夜は明けている。海兵隊は総勢2個中隊のうちとりあえずA中隊のみを日本軍との戦闘に投入しB中隊は予備として待機させていたのに対し、金光守備隊長は手持ちの全力(2個小隊)を第一線に投入してこれを迎え撃った。日本軍の武器は各自の小銃以外には重機関銃1挺と軽機関銃2挺、さらに火炎放射機を持っていた。カールソン中佐は上陸後に島民から聞いた情報で日本軍の戦力を過大に見積もっており(いま対戦している日本軍の後方に予備隊がいると判断。しかし実際にはそちらには通信員と経理担当ぐらいしか残っていなかった)、潜水艦と無線で連絡をとって、艦に備え付けの15センチ砲を撃ってもらったという。米軍資料(註4)によればこれで附近にいた日本側の小型艦船2隻を撃沈したというのだが、日本側の記録によれば当日のマキンには味方の船はいなかったし砲声も聞かれなかったという。日本兵は椰子の木によじ登って海兵を狙撃し、これについては相当の効果をあげたというが、火炎放射機は射手が敵軍に近寄ろうとしたところを射殺されたため役に立たなかった。狙撃に悩まされたカールソン中佐は予備隊のB中隊を繰り出した。

註4 本稿でいう「米軍資料」とはサミュエル・モリソン著『太平洋戦争アメリカ海軍作戦史』と、谷浦英男著『タラワ、マキンの戦い 海軍陸戦隊ギルバート戦記』の引用する他の資料である。


 さて、海兵隊のうち1隻だけ離れた地点に上陸したボートの乗員たち(オスカー・F・ピアトロス中尉の率いる12名)は本隊に合流すべく道を急いでいたが、うまい具合に日本軍の背後に出ることが出来、たまたま弾薬の運搬を行っていた日本側のサイドカー(一説にトラック)を仕留めることに成功した。彼らはさらに日本軍の右翼後方に攻撃をかけたため、金光守備隊長は午前5時30分「包囲サル」を打電し、機密書類の焼却にかかった。

 マーシャル諸島やカロリン諸島(戦前からの日本統治地域)の日本軍はマキンに敵上陸の報告を受けて驚愕した。まずマキンに最も近いヤルート環礁イミエジ基地の水上機2機が独断で出撃、これは午前8時頃にマキン上空に到達し、偵察と敵(のいそうなポイント)への銃撃を行った。しかし2機とも燃料が尽きた(イミエジからマキンまで燃料ギリギリだった)ため着水、うち1機は海兵隊の銃撃を浴びて炎上してした(と、米軍資料にはあるが、日本側の記録では搭乗員が脱出の際に焼却処分にしたとある)。もう1機は敵の射程外に着水したため無事であり、続いて飛来した味方飛行艇から燃料をもらって帰投した。金光守備隊長の方は午前9時5分には覚悟を決めて「全員従容トシテ戦死ス」と打電し、そのまま連絡を断ってしまった。部下を率いて白兵突撃を敢行し壮烈な戦死を遂げたのだという。しかしここで全員が死んだ訳ではなく、2個小隊のうち1個は突撃命令が届かないまま戦闘を続けており、それとは別に島民の助けで逃れた負傷兵4名と航空基地員3名、経理2名に南貿社員2名の計11名のグループが島の北西端の密林に隠れて生き延び、またそれとは別に戦闘に参加していなかった通信員3名と気象観測員4名、伝令2名の計9名のグループが環礁の別の島に逃げた。
 
 午前9時30分、新手の日本機25機が飛来した。そのうち4機は戦闘機、21機は陸上攻撃機(爆撃も雷撃も出来る7人乗りの大型機)でしかも魚雷装備(対艦攻撃に最も有効と考えられていた)という大掛かりな編隊である。海兵隊はハワイから潜水艦2隻だけでやってきたのだが、金光守備隊長は消息を断つ前に敵軍は「駆逐艦二隻」で上陸してきたと打電しており、先に飛来していた飛行艇も潜水艦を駆逐艦と見間違えて報告していた上に、近くに空母がいる可能性も考えられた。しかし結局マキン付近で見つけたのは潜水艦だけで、地上の様子もよくわからなかった。適当に威嚇射撃をしただけで帰投となる。

 午後にはさらに戦闘機9機と陸攻2機(今度は爆弾を積んでいた)が飛来したが何も見つけられず、適当に銃弾と爆弾をばらまいて帰投した。海兵隊が上陸に使ったゴムボートは巧みに隠されていた。米軍資料ではこの日の午後のうちに日本飛行艇2機が飛来・着水して援軍の兵士35名を上陸させたが、海兵隊の銃撃で1機が炎上した、とある。しかし日本側の記録ではその飛行艇をマキンに送ったのは3日も後のことで、もちろん炎上などしていない。それはともかく海兵隊は日本軍の生き残りの狙撃に悩まされ続けたために一旦後方に退き、日本兵が追撃してくればこれを迎え撃つという作戦に切り替えた。米軍資料によればこの手に引っかかった日本軍は、追撃しようと動き出したところで味方機の爆撃を喰らってしまったという。それが事実か否かはともかく、日本軍は先に説明した2グループ20名とあと3名を除き全滅してしまったのであった(一説に生存者は27名ともいう)。

 なお、日本軍の背後に出ていたピアトロス隊は密林に視界を遮られていたことから日本軍が壊滅した後もそのことに気付かずに射撃を続け、そのせいで本隊との同士討ちを演じてしまった。本隊のカールソン中佐の方は前述したように日本軍の戦力を過大に見積もっており、やはり日本軍が壊滅したことに気付かないまま味方撃ちを続ける有り様となった。ピアトロス隊は12名のうち5名が戦死という大損害を出した。

 戦闘は午後の中頃に終了した。この時点でも海兵隊は日本軍が壊滅したことに気付いておらず(まだ大勢いると思っていた)、ピアトロス隊が後退したので本隊も撃ち方をやめた、もしくは両隊とも弾を使い切ったということであったようである。そして、そのままそそくさと撤収の準備にとりかかった。これは後知恵だが、日本軍は「全員従容トシテ戦死ス」などと死に急いだりせず、島の各地に散らばってのゲリラ戦でもやれば生き延びられた、ということになるであろう。

 海兵隊は午後4時には17隻のボートに乗り込み、沖で待つ潜水艦へと出発した。しかし大半のボートはエンジンが壊れており、しかたなく人力で漕いでいくと波が高くて転覆するボートが続出した。なんとか潜水艦に辿り着いたのは7隻100名弱だけで、カールソン中佐を含む残りは海岸に押し流されてしまった。潜水艦からは「収容するまではこの地にとどまる」という発光信号が送られてきた。

 翌朝、カールソン中佐はまずジェイムズ・ルーズベルト少佐に4隻のボートを与えて先発させ、自身はやや遅れて残りのボートで漕ぎ出した。ルーズベルト……当時の大統領の長男……の隊は潜水艦に行き着いて収容されたが、カールソン直率の隊は突如飛来した日本機(水上機2機)の銃撃を受けたため、また海岸へと引き返した。潜水艦は爆撃を避けるために潜航してしまった。ピアトロス隊の方は前日のうちにボートで潜水艦に戻っている。

 カールソン中佐とその部下60名は武器を海没させた(と米軍資料にはあるが、日本側の調査によれば弾を使い切ったので銃は捨てたということらしい)上に潜水艦に見捨てられたと思って途方にくれ、島民を通じて日本軍に投降状を差し出すことにした。「マキン島日本軍指揮官 殿 拝啓 小官は、現在マキン島にいるアメリカ軍の一員であります。われわれは、甚大な損害を被りましたのでこれ以上の流血と爆撃を終わらせたいと望むものであります。われわれは、戦争法規の条項によって降伏し俘虜として待遇されることを願います。さらに、戦死者の埋葬、負傷者の手当も許していただきたい。この島には米兵約六○名が置き去りにされており、われわれは、総員降伏のことに衆議一決しました。よって、小官は、この上の流血と爆撃を阻止するために至急引見されることを願望しております」。鉛筆手書きの英文、「カールソン中佐」ではなく「ラルフ・H・コイト大尉」という偽名を使っていた。そして、これを島民に託した後になってやっと、島の日本軍はとっくに壊滅していた、ということに気付いたのであった。

 日没後、それまで隠れていた潜水艦が浮上、海兵隊は今度こそ収容されてハワイへと帰っていった。問題の投降状は島民の手から隠れていた南貿社員に渡され、戦後になって米軍に押収された。米軍資料によれば海兵隊は撤収する前に(日本軍が壊滅したことに気付いたので安心して)丸1日島内を調べてまわり、日本兵83名の遺体を確認(守備隊全員でもそんなにいなかった筈だが。また、それとは別に負傷兵3名がいたがすぐ死んだ、とある)、重要書類を押収、武器や装備を破壊したということになっている。海兵たちは日本兵の死体から男根と睾丸を切り取って口に押し込み、そのような蛮行の様子を写真に撮ったという(註5)

註5 谷浦英男著『タラワ、マキンの戦い 海軍陸戦隊ギルバート戦記』122の引用するジョセフ・D・ハリントン著『ヤンキー・サムライ』による。谷浦氏(マキン戦の当時は海軍大尉)は22日に援軍を率いてマキンに到着するが、下腹部を露出したまま仰向けに倒れた死体が十数体あるのを見て理解に苦しんだ、とある(熱帯なので完全に腐爛して大量の蛆が湧いており、睾丸云々はその時点では気付かなかった)。


 それと、海兵のうち9名が潜水艦に乗り損い、島に置き去りになっている。これはこの日の朝に潜水艦からカールソン隊に連絡を取りにいった5名と、それとは別に何らかの理由でカールソン隊から離れていた4名である。米軍資料によるとその連絡員5名は志願してボートに乗り組んだのだが、海岸を目指して進んでいるところを日本機に襲われて海に飛び込み、なんとか海岸に泳ぎ着いたもののそのまま取残された(カールソン隊と連絡することすら出来なかったらしい)のだという。今回の作戦における海兵隊の損害は、彼ら「行方不明者」と戦死者をあわせて30名であった(一説に31名もしくは37名という)。

 この日の午前、日本側の水上機が島の北西にいる生き残りの守備隊員との接触に成功した(手旗信号で連絡をとった)。しかしその報告が届く前に別の部隊の陸攻7機が飛来、島の北部を爆撃してしまった。これまでにも何度か繰り返された盲爆により、島民に相当数の被害が出た。

 翌20日の午後、日本側の飛行艇2機がマキンに着水、増援の第1陣として35名を上陸させ、島に生き残っていた兵員のうち9名を収容して帰投した。翌21日の午前には海路で1個中隊が到着、22日までにさらに1個中隊が来援した。ただちに残敵の掃討と戦死者の収容にとりかかる。金光守備隊長以下の戦死体は着剣しており、急造の敵陣地にあとわずかのところで打ち倒されていた。守備隊の本部は通信機が壊されていた(守備隊の通信員が逃げる時に壊したと証言)以外は特に荒らされおらず、対空兵器(対空機銃や高射砲があった)もそのまま残っていた。米軍資料にある日本軍の武器を破壊云々には誇張が入っているようである。

 置いてけぼりになっていた9名の海兵は捕虜となった。日本軍の尋問によると、そのうちの連絡員5名は「志願」ではなく「命令」で潜水艦を出発し、ボートで島に行き着いたものの、潜水艦が日本機の爆撃で沈められたように見えたのでやむなく投降を決めたのだという(註6)。さきほどの投降状について、米軍資料では、この捕虜のうちの1人が持っていたらしいとしつつも、「戦争中に日本で刊行されたある通俗の戦史では、ある海兵大尉が『約60名』の人員よりなる彼の部隊の降伏を申し出た署名のある書面の複製を掲載している」と、日本側の偽造かもしれないとでもいいたげな記述をしている。ちなみにマキンに増援にやってきてその投降状を入手した谷浦大尉によると(註7)、投降状は戦後米軍が押収する時に「ラルフ・H・コイト大尉」という署名だけ消してしまったという。日本側の公的な記録である『戦史叢書』にはその投降状が署名入りのまま掲載されているが、これは米軍に押収される前に写真撮影したものであるらしい。

註6 日本軍の水上機に手を振って投降の意志を示した。ただし9名のうち4名は投降を潔しとせず、とりあえず他の島に逃れようとしたが、船(島にあったヨットを盗んだ)が座礁した上に日本兵に発見されたため投降したのだという。

註7 「日本側の偽造かもしれないとでもいいたげな記述」というのは谷浦氏の本の受け売りです。

 今回のアメリカ軍の戦術について、日本海軍においても以前から潜水艦を用いた奇襲揚陸を研究していたのに、敵に先にやられてしまったことは遺憾であるとの感想が抱かれた。そして、日本軍は今回の教訓に基づいてギルバート諸島の防備の大幅な強化を思い立ち、開戦直後に占領したあと放置していたタラワ環礁の再占領をはじめとする諸島各地の制圧、守備隊の進駐を行った。翌年になってアメリカ海兵隊が再びこれらの島々への攻撃を行った時には、マキン奇襲とは比較にならない猛烈な抵抗を受けることとなるのであった。その意味で、海兵隊サイドにおいてはマキン奇襲作戦は失敗だった(日本軍に教訓を与えてしまった)とする論評も存在する。

 最後に、マキンで捕虜となった海兵9名のその後の運命についてである。彼らはマーシャル諸島のクェゼリン環礁へと移送され、そこで処刑となった。戦後の戦犯を裁く法廷で責任を問われたマーシャル群島根拠地隊司令官の阿部孝壮中将は絞首刑、捕虜処刑を執行したクェゼリン警備隊司令小原義雄大佐は懲役10年となった。

                                         おわり



   参考文献

『太平洋戦争アメリカ海軍作戦史4』 サミュエル・モリソン著 中野五郎訳 改造社 1951年
『戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦1』 防衛庁防衛研修所戦史室 朝雲新聞社 1970年
『戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦2』 防衛庁防衛研修所戦史室 朝雲新聞社 1973年
『タラワ、マキンの戦い 海軍陸戦隊ギルバート戦記』 谷浦英男著 草思社 2000年

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