イタリアのアフリカ侵略 第2部

   リビアの沿革   目次に戻る 

 現リビア地域には主にアラブ人が居住している。他にも「ベルベル人」という人々もおり、本稿ではこれらをあわせて「リビア人」と表記する。この人々は西のモロッコや東のエジプトのイスラム国家の狭間にあって、長いあいだ強固で独立した政治権力を持ち得ないでいた。16世紀に入る頃のこの地域は群小の国家が乱立し、いわゆる「バルバリア海賊」の天下となっていたが、彼等イスラム海賊の跳梁に手を焼いたスペインの海軍が1510年に現在のリビアの首都トリポリを占領した。しかし1551年、今度はオスマン・トルコ帝国の艦隊がトリポリを占領した。オスマン海軍は鉄砲や大砲の威力にものを言わせ、スペイン海軍だけでなく土着のリビア人諸部族をも圧倒しつつ現在のリビア・チュニジア・アルジェリア地域を征服していった。

 オスマン帝国の支配はパシャ(総督)を通して行われたが、本国から遠いこともあり、オスマン帝国からやってきた支配者集団は次第に土着・自立の傾向を強めていった。1711年、アフメド・カラマンリーという人物が、パシャがオスマン本国に出かけている隙を狙って権力を掌握、その上で本国に臣従を誓って自分をパシャに任命してもらうという出来事が起こった。カラマンリー家の政権は後のナポレオン戦争の時代、欧州各国がフランスとの戦争に忙殺されている合間の海賊稼業(近海を航行する船舶からの通行税の取り立て等)で繁栄した。ちなみに、1801〜05年にかけて地中海の自由航行権をめぐりアメリカ合衆国と戦争になり、アメリカ艦を拿捕して乗組員の身代金6万ドルを獲得する(そのかわり今後はアメリカ船の航行を妨害しないことを約束する)という戦果をあげている。(註1)

註1 ちなみにこのアメリカ・リビア戦争はアメリカ海兵隊が史上初めてアメリカ外で戦った戦争で、「アメリカ海兵隊讃歌」の歌詞にもうたわれている。


 ところが1830年、同じ様に自立していた隣国のアルジェリアがフランスによって征服されると、危機感を持ったオスマン帝国はリビアを再征服することによって地中海沿岸の防備を固めようとした。1835年5月、オスマン帝国政府はカラマンリー家を追放して新任のパシャによるリビア直接支配を固めたが、その権威が及ぶのは地中海沿岸の都市部に限られ、内陸部の諸部族には自治が認められることとなった。

 その一方でこの頃、キレナイカ(リビア東部)内陸部の遊牧民を中心として、「サヌーシー教団」なる宗教組織が力を蓄えつつあった。サヌーシー教団は創始時代のイスラム教の純粋性に回帰しようという運動で、やがてサハラの交易路を支配するようになり、オスマン帝国のパシャと結ぶことによってさらに勢力を拡大しようとした。またその一方で、ヨーロッパ諸国の中では地中海の対岸に位置するイタリアがリビア領有を狙っていた。イタリアは最初はチュニジア(註2)を狙っていたがそこは1883年フランスの保護国とされたため、かわりにリビアをとろうとしたのである。しかしリビアにはオスマン帝国の軍事力がいるのでそう簡単に征服とかは出来ず、とりあえずは経済進出だけにとどめて後は機を窺うことにした。

註2 ここもオスマン領だったが、19世紀にはやはり本国から半独立していた。オスマン帝国はここは再征服しなかった。チュニジア側でそれを防ぐための近代化に努力していたからである。しかしそのための増税によって疲弊した民衆が一揆を起こし、近代化に対する守旧派の反発も相まって1860年代には破産に追い込まれる

   イタリアの戦争準備   
目次に戻る 

 1908年にオスマン帝国で「青年トルコ党革命」が勃発する(註3)と、ヨーロッパ諸国は革命の混乱に乗じてその領土を奪おうとの策謀を始め、イタリアもリビア侵攻の用意を整えだした。イタリア国内の世論の大方も、イタリア南部の貧しい農民の移民先として、あるいはイスラム圏に対するカトリックの十字軍として、この侵略に大きな期待をかけた。イタリア社会党が反対するかと思われたが、首相ジョリッティは参政権を拡大するとの公約(註4)でこれを懐柔した。社会党の一般党員の中には反戦を唱える者がいなかった訳ではないが、それについては後述する。革命の熱で血気盛んになっていたオスマン側がリビアのイタリア資本を排斥しようとし、在留イタリア人を迫害したこともイタリア側の戦争熱を煽った。それからドイツがオスマン側のイタリア排斥を支援するという形でリビアに進出する動きを見せた(独伊両国はいちおう同盟国なのだが、利害調整がいまいちうまくいかなかった)ため(註5)、それに先んじる必要もあった。その一方でこの頃、モロッコの領有を巡ってドイツとフランスが争っており、世界の耳目がそちらに向いていたことからそのドサクサにイタリアが侵略戦争を始めるのはちょうどいい頃合いだと思われた(註6)

註3 これについては当サイト内の「エンヴェル・パシャとケマル・パシャ」を参照のこと。

註4 30歳以上もれなく、及び21〜29歳の一定額以上の納税者・兵役をつとめた者に選挙権を与える。この改正案が成立したのは翌年6月。

註5 オスマン帝国は昔は強国だったが18世紀頃には弱体化し、19世紀には相次ぐ敗戦で多くの領土を失っていた。そんな中でドイツはオスマン帝国に戦争をしかけたり領土を要求したりしなかった唯一の(ヨーロッパの)列強であった。もちろんドイツにも色々と下心があった筈である(現にリビア進出をうかがっている)が、青年トルコ党の指導者の1人イスマイル・エンヴェル(後に陸相)は熱心な親ドイツであった。

註6 モロッコ問題に関しては当サイト内の「モロッコの歴史」を参照のこと。

 それからフランスが、イタリアがフランスのモロッコ領有を認めてくれるならフランスとしてはイタリアのリビア支配を認めてやると言っていた。19世紀の末には仏伊両国はエチオピアを巡って激しく対立していたが、この頃には世界情勢の基軸は英仏対立(註7)から英仏と独の対立へとシフトしており、それにつられて仏伊関係も緩和に向かっていた。

註7 イタリア最初の植民地エリトリアはフランスと対立するイギリスが味方を増やすために「譲ってくれた」ものであったことを思い出してください。


 ちょっと話がズレるが……英仏間の対立は20世紀の最初の数年間に行われた話し合いで急激に調整がついてしまっていた(註8)。対してドイツでは1890年にビスマルクにかわって政治を執り始めた皇帝ウィルヘルム2世の(外交面での)失策が多くて次第に国際社会の中で味方を失いつつあった(註9)。話をモロッコに戻せばフランスがイギリスのエジプト支配を認めるかわりにイギリスはフランスのモロッコ支配を容認する、という具合だったのがドイツがモロッコを狙って強引に割り込んできた(ドイツは話し合いの席でモロッコは諦めるからフランス領コンゴを全部寄越せとか言った)のでそのやり方にイギリスまでもが激怒するという有り様である(戦争の一歩手前まで行った)。そして、イタリアは1882年以来ドイツと同盟関係にあったが、先に書いたようにリビアに関しては対立関係にあり、むしろフランスの方が話の分かる相手となっていたのである。この様な国際情勢は後の第一次世界大戦の際にイタリアがフランス・イギリス陣営に加担するひとつの伏線となる。

註8 イギリスはロシアとも対立していた。そこで1902年やはりロシアと対立する日本と同盟を結んだ(日英同盟)のだが、2年後にその日本が「日露戦争」を起こすとイギリスはロシアの同盟国フランスと戦争になる可能性が出てきた(もし日本とロシアの戦争に他の国が参戦してきたらイギリスは日本側に立って参戦すると約束していた)。英仏は長いこと植民地獲得競争のライバルであったが、ここで全面戦争を回避するために和解することにした(1904年に「英仏協商」成立)。

註9 前註で述べた日英同盟を結ぶ前のイギリスは実はドイツとの同盟を考えていた。しかしドイツはイギリスのためにロシアと戦争するような可能性を恐れて返事を渋り、かわって選ばれたのが日本だったのである。そしてイギリスは前註で述べた通り日露戦争に絡んでフランスと和解する。その頃になるとドイツは海軍を大増強し出すがそのことでイギリスを(同盟が結べなかった相手でもあるし)警戒させてしまう。またドイツはオスマン帝国に投資して当時オスマン領だったイラクのバグダッドからドイツ首都ベルリンまでつなぐ鉄道を敷こうとしたが、それはイギリス本国とその最重要植民地インドの連絡(スエズ運河ルート)に脅威を与えるものと(イギリスに)判断された。このようにして独英関係はどんどん悪化していったのである。その一方で日露戦争に敗れたロシアはイギリスにとってさしたる脅威ではなくなり、ロシアに借款を与えることでこれと和解(1907年に「英露協商」成立)した。フランスは前世紀からずっとドイツと仲が悪く、ロシアもビスマルク失脚後のドイツと疎遠になっていたから……。

   伊土戦争   目次に戻る 

 そして1911年9月28日、準備万端整ったイタリアがオスマン帝国政府に最後通牒を突き付けた。返答期限は24時間。翌29日には宣戦布告となった。こうして始まるのが「伊土戦争」である。まずイタリア海軍が第1・第2艦隊にわかれて前者がオスマン艦隊主力の撃破、後者がリビア沿岸の封鎖にあたった。オスマン艦隊主力は弱体のため本国に引き蘢り、イタリア第1艦隊はとりあえずアルバニア(当時はオスマン領)近くで捕捉した小艦隊に勝利したにとどまった。ともあれこれでオスマン本国からリビアへの大規模増援は不可能となった。イタリア第2艦隊は開戦の前日にはリビア近海に到着しており、10月2日からトリポリ市(現在のリビアの首都)砲撃を開始してオスマン側の砲台を破壊、5日には陸戦隊1200人を上陸させた。現地のオスマン軍1万6000は内陸に撤収した。12日、イタリア陸軍の第1陣1万7000がトリポリに上陸、海軍の陸戦隊と交替した。東のホムス港も若干の戦闘の末に占領した。

 さらにイタリア陸軍の第2陣4000人が艦隊の援護のもとに19日ベンガジ市近くに上陸、翌日には市に進撃してこれを占領した。23日、約1万と推定されるオスマン軍がトリポリ方面にて逆襲に出てきた。この時には現地のリビア人部族もオスマン軍に呼応して立ち上がった。トリポリのイタリア軍左翼にいた第11聯隊がオスマン軍とリビア人に挟まれて危機に陥ったものの、他の聯隊が駆けつけて持ち直した。オスマン軍は300ほどの死体を残して退却した。26日、再びオスマン軍がトリポリを攻撃してきた。オスマン軍はトリポリを包囲しようとしたがその兵力1万2000に対してイタリア側の兵力は本国から増援が届いて約2万に達していた。オスマン軍は勇猛ではあったがイタリア軍の数と火力がこれにまさった。またしても退却に追い込まれたオスマン側の死傷者は6000、イタリア側は2000であったという。

 ところでこの戦いでは発明されて10年も経たない「飛行機」が用いられた。飛行機は以前にもメキシコの内戦で使われたことがあるが、実戦における組織的な運用はこの伊土戦争が最初とされている。イタリアでは既に1909年にジュリオ・ドゥーエ将軍が飛行機の軍事利用を考えていた。伊土戦争にとりあえず投入されたのは9機で、ブレリオ11型という、去る1909年に史上初めて英仏海峡を横断したタイプも2機含んでいた。リビアの戦地では10月22日にテスト飛行、翌日に飛行隊の指揮官カルロ・ピアザ大尉による偵察飛行、11月1日にジュリア・ガボッティ中尉による4個の爆弾投下、翌年3月にはビアザ大尉による写真偵察が行われた。

 それはともかくとして、オスマン軍の志気が思いのほか高いのを知ったイタリア軍はその後しばらく動きをとめ、外交で決着をつけようとした。ところがこれはうまく行かなかった。現地のイタリア軍は優勢な兵力を持つにもかかわらずトリポリやベンガジに引き蘢ってしまい、オスマン軍が連日に渡って仕掛けてくる偵察攻撃に大して反撃しようとしなかったことから諸国の嘲笑を招いてしまったのである。やむなくイタリアはリビア遠征軍の兵力を8万に増強し、決戦でけりをつけることにした。

 12月4日、イタリア軍はトリポリ南方のアイン・ザラにいるオスマン軍に向け進撃を開始した。これに参加したイタリア軍は4万、迎撃するオスマン軍は1万5000であった。イタリア軍は進撃の途中で左右からオスマン軍の攻撃を受けて苦戦したが何故かオスマン側が退却してしまい、勢いを掴んだイタリア軍はそのままアイン・ザラを占領した。

 だがオスマン軍の死傷者はせいぜい2〜300程度と推定され、さらに内陸に退きつつもゲリラ戦を継続した。オスマン軍の中には、後の第一次世界大戦の時にオスマン帝国の陸軍大臣となるイスマイル・エンヴェルや、同じく大戦後にトルコ共和国初代大統領となって活躍するムスタファ・ケマルがいた。現地リビア人のサヌーシー教団もイタリア軍を苦しめる。年が開けて1912年となり、戦争が始まって半年が過ぎてもイタリア軍の占領地は5つの町のみにとどまっていた。

 イタリア兵の多くもやる気をなくしていた。そもそも熱しやすく冷めやすいラテン気質である上に、開戦時には理想郷と喧伝されたリビアは実は不毛の砂漠が大半をしめる地域でしかなく(註10)、莫大な戦費が財政を苦しめていた。それまで無名の社会党員だったムッソリーニという若者が伊土戦争反対を強く訴えて有名になったのはこの頃のことである。先に述べたとおりイタリア社会党は政府側に選挙法改正を餌に懐柔されてしまって(形だけの反戦ストはした)おり、それどころか党の一部はこの戦争による植民地獲得を通じて国家が発展すれば労働者の生活も向上するとすら考えていた。一般党員の多くは基本的に戦争反対でありつつもなかなか声をあげられないでいた時に、さっそうと登場したのがムッソリーニだったのである。12年7月にレッジョ・エミーリアにて開かれた党大会における彼(まだ20代)の演説は大衆を大いに魅了し、煽動政治家としての能力を開眼させたのであった。

註10 第二次世界大戦の後に石油が見つかったため、現在のリビアは金持ちである。

 話を戻して……陸戦でどん詰まりになったイタリアは艦隊を送ってオスマン本国の首都近くを攻撃した。すると戦火が広がるのを嫌う各国が調停に乗り出してきた。その一方で国際情勢がオスマン側の不利に傾いた。10月8日バルカン同盟(セルビア・モンテネグロ・ブルガリア・ギリシア)がオスマン帝国に宣戦を布告してきた(註11)のである。バルカン同盟軍の総戦力71万に対してその方面のオスマン軍は32万でしかない。こうなってはいかんともしがたい。オスマン帝国は12年10月18日をもってイタリアとの講和条約「ローザンヌ条約」に調印した。オスマン帝国はリビアを独立させるという形式でこの地をイタリアに譲ることを余儀なくされた。さらにエーゲ海のドデカネーゼ諸島もイタリアにとられている(ここは1946年にギリシアに譲って現在に至る)。

註11 バルカン同盟の諸国はこの頃オスマン領だったマケドニアやアルバニアを前々から欲しがっており、伊土戦争を好機として戦争を仕掛けてきたのである。これについては当サイト内の「ギリシア近現代史」を参照のこと、

   オマル・アル・ムフタールの戦い   目次に戻る 

 こうして、リビア駐留のオスマン軍は本国に引き揚げた。しかしむろんイタリア軍の方はそのままリビアに留まり、サヌーシー教団を中心とするリビア人抵抗勢力との戦闘はこの後も継続することとなった。 サヌーシー教団は一度はイタリア軍を破ったこともあるが、次第に奥地へと追いつめられていった。もちろんリビア人の中にもイタリアとの妥協を望む者が大勢いた。

 1914年夏、第一次世界大戦が始まった。その時イタリアはまだドイツとの同盟関係を続けていたがとりあえず中立を宣言した。しかしイギリス・フランス・ロシアその他の「連合国」とドイツ・オーストリア・オスマン帝国その他の「同盟国」のどちらにつくか(あるいは中立を守るか)をあれこれ考えたイタリアは、15年5月になって連合国の側に立っての参戦を行った(註12)。このため、ドイツ側はリビアの抵抗勢力に武器を送ってイタリアへの反乱を支援した。勢いを得たサヌーシー教団(これ以外の抵抗勢力もいたようです)はリビアのイタリア軍のみならず、エジプト(1882年以来イギリスの支配下)でイギリス軍と、スーダン(註13)でフランス軍とそれぞれ激しく戦った。サハラの交易路はサヌーシー教団にとっては庭のようなものだった。この大戦においてはドイツ・オスマン帝国の潜水艦部隊がイタリア・リビア間の連絡遮断をはかり、イタリア軍の主力はヨーロッパで主にオーストリア軍と対峙していたことからリビア戦線の方はどうしても手抜きになり、(イタリアは)サヌーシーに譲歩する様々な協定を提案せざるを得なかった。

註12 イタリアはオーストリアとの領土問題を抱えていた。連合国側はそこに目を付け、こちらについてくれるなら勝利の暁にはオーストリアに領土を割譲させると言ってきたのである。

註13 ここでいう「スーダン」とは現在のスーダンのことではなく、当時「フランス領スーダン」と呼ばれていた現マリ共和国のあたりのこと。

 大戦終結後の21年、新しい総督ボルピが着任し、グラツィアーニ将軍の大軍団とともにリビア人への大弾圧を再開した。しかし、その頃はイタリア本国の方が混乱状態に陥っていた。イタリアは第一次世界大戦の戦勝国であったにもかかわらず大した分け前にあずかれず、それどころか不景気に苦められた。20年頃には共産主義者や農民の動きが活発化し、労働者の工場占拠や小作人の農地占拠が頻発したが、そのことでかえって産業が大混乱し治安も悪化した。その一方ではイタリア社会党が第一次大戦からの復員者を戦犯呼ばわりした。この情況を打破すべく22年に政権の座についたのがムッソリーニである。彼は第一次世界大戦の最中に社会党から右翼に転向しており、自らの率いる「ファシスト党」による一党独裁政権の樹立へと邁進することになる。しかしそれは本稿で詳しく述べるべきところではないので、この辺でリビアの話に戻る。10年前には伊土戦争を「帝国主義的植民地戦争」と批判したムッソリーニはリビア人抵抗勢力への弾圧を情け容赦もなく引き継いだ。22年末、耐えきれなくなったサヌーシー教団の最高指導者エミール・イドリース・アル・サヌーシーがエジプトに亡命してしまった。

 しかしサヌーシーが残していったオマル・アル・ムフタールという人物は決して諦めることをせず、サハラ砂漠の遊牧民を主戦力としての粘り強い抗戦を継続した。そこでイタリア軍は24年6月にまずトリポリタニア(リビア西部)の全可耕地を占領し、その後毒ガスまで使って砂漠や山岳地帯の掃蕩を押し進め、30年始め頃にはほぼトリポリタニアの全域からリビア人の抵抗を排除した。

 しかし残るキレナイカ(リビア東部)では、ムフタール指揮下の抵抗戦士は山岳地帯での効果的なゲリラ戦術によってイタリア軍を翻弄し続けた。イタリア軍は直接的な軍事行動ではどうしてもムフタール軍を殲滅出来ないため、ムフタール軍の武器の仕入れ先であるエジプトとリビアの国境地帯(註14)を長さ300kmの鉄条網によって封鎖し、さらにキレナイカの農民8万人を強制収容所に移した。ムフタール軍は外部との接触を断たれ、地元住民の支援も完全に失った。ムフタールはその後も抵抗を続けたが31年9月についにイタリア軍の手に落ち、その月のうちに公開で絞首刑に処せられたのであった。(註15)

註14 先にも書いたがエジプトは1882年以来イギリスの支配下に置かれている。ムフタール軍がどういう形で武器を仕入れていたかは資料不足でよく分からなかった。

註15 ムフタールの戦いは『砂漠のライオン』というタイトルで映画化されている。よくレンタルでみかけるので是非どうぞ。

 その後、ムフタールの部下たちはユースフ・アブー・ラーヒルを指揮官に選んでさらに半年間抗戦した。しかしラーヒルはエジプト国境を越えようとしたところで戦死をとげ、イタリア総督は1932年をもって全リビアの征服と占領を宣言したのであった。イタリアはリビアに莫大な投資を行い、現地に入植したイタリア人の多くは、実は第二次世界大戦後にリビアが独立したずっと後、1970年まで地主として居座っていた(註16)

註16 その年、カダフィー大佐により土地を没収される。


第1部に戻る

第3部に進む