イタリアのアフリカ侵略 第1部

   エリトリア領有   目次に戻る 

 イタリアの東アフリカへの進出は1870年、民間の船会社ルバッティノが現エリトリアのアッサブ港を原住民から買い取ったことにより始まった。この70年という年はエジプトで「スエズ運河」が開通した翌年であり、ルバッティノはスエズ運河から紅海を経てインド洋に出る際に通過するエリトリア地域に通商拠点を持つことで利益をあげようと考えたのである。イタリア政府は82年この地をルバッティノから買い上げてイタリア初の海外植民地「エリトリア植民地(正式な命名は90年)」とし、85年にはその北のマッサワ港を占領した。マッサワ占領は直接的にはその年に起こったイタリア居留民殺害事件に対処する動きであるが、背後には複雑な国際情勢が存在した。マッサワはそれまでエジプト(註1)の支配下に置かれていたが、去る81年にこれも当時エシプト領だったスーダンにて大規模な反乱「マフディーの乱」が発生し、さらに82年にエジプト本国がイギリス軍によって占領されるという混乱が続いており、イタリアによるエリトリア植民地化はそこに便乗して進められることとなったのである。

註1 エジプトは本来オスマン・トルコ帝国の領域であったがその頃には半独立してオスマン本国と戦争するほどになっていた。しかし近代化を急ぎ過ぎたために破産状態となり……。


 エジプト本国はフランスにも狙われていたことから、その頃は英仏の対立が激化していた。イギリスは本当はスエズ運河〜紅海ルートの出口にあたるエリトリア地域の領有をも欲していたが、ここはイタリアに譲ることで味方を増やすことにした。フランスはまたモロッコの支配権を狙っていてそちらでスペインと対立しており、またドイツも70〜71年の「普仏戦争」以来フランスとの睨み合いを続けていた。そしてイタリアは北アフリカではチュニジアを狙っていたがそちらは81年にフランス軍が占領、83年に保護国としてしまったため、仏伊関係もまた相当に悪化していた。イタリアが反フランスという観点から英西独との友好関係を築くのは当然の成り行きである。87年5月に英伊協定、同年6月には伊西独さらにオーストリアの4国協定が成立した。特に英伊の友好関係はドイツ帝国宰相ビスマルクのお膳立てであり、イタリアはこのドイツとさらにオーストリアとの「三国同盟」を82年に結んでいた(註2)。イタリアは多くの盟友を得たのに気を良くし、エリトリア以外にも植民地をひろげようとした。イタリアは既に87年1月にはエリトリアの南のエチオピアへの侵入を開始していた。

註2 普仏戦争以後のドイツ外交の基本はフランスの孤立化にあった。要するにドイツ友好国を出来るだけ増やしてフランスを仲間はずれにすることである。まず、ドイツ(プロイセン)とオーストリアは1866年に戦争して前者が勝利したがその時ビスマルクは非常に寛大な態度をとってその後の独墺の友好関係の礎を築き、79年には独墺同盟を成立させた。ビスマルクはこの同盟にイタリアも引き込もうとしたが、イタリアはオーストリアと領土問題(植民地ではなく本国の国境地帯)で対立していた。しかしイタリアはチュニジアに関してフランスに遅れをとったため、フランスとの対抗上やむなくオーストリアと同盟を結ぶことにしたのであった。フランスは植民地を巡ってイギリス・スペインと対立していたのだから、ビスマルクのフランス孤立化政策は非常にうまくいっていたことになる。


   エチオピアの沿革   
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 伝説によればエチオピアの歴史は紀元前10世紀の「シバの女王の国」に遡る。確実な記録では紀元1世紀頃に「アクスム王国」が成立して北のエジプトや遠くインドとの交易を行ったことが知られている。その後キリスト教を受け入れたこの国はしかし6世紀頃には衰えだし、11世紀にはイスラム教徒の王国……現在のエチオピア国民の宗教はキリスト・イスラム半々……が成立、12世紀にはまたキリスト教の「ザグエ朝」が成立した。13世紀には別のキリスト教王国「ソロモン朝」が立ってイスラム教徒と争い、18世紀後半頃からは各地に「諸公侯」が分立して「ネグサ・ネグスト(王たちの中の王)」すなわち皇帝の位を争奪する大規模な戦乱が繰り広げられた。

 1854年、紀元前のシバの女王の血を引くと称するカッサ・ハイルなる人物が群雄レースの中で頭角を現し、エチオピア・キリスト教会の大主教から皇帝たることの認知を受けた。カッサは反対する豪族を叩いて翌55年には正式に「皇帝テオドロス2世」を名乗った。しかし彼は68年イギリスとの紛争を起こし「マグダラの戦い」に敗れて自殺した。しかしこの時点ではイギリスはエチオピア植民地化のようなことは危険と金がかかりすぎるとしてそれ以上の深入りはしなかった。

 その後のエチオピアはまた戦国時代に戻ってしまったが、72年にはティグレの豪族ラス・カッサが勝ち進んで「皇帝ヨハネス4世」を呼称した。彼は先の「マグダラの戦い」の時にイギリス軍に協力し、そのことで800挺の小銃を手に入れていた。

   ウッチャリ条約   
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 そしてそこにイタリアが現れるのである。イタリアは1887年1月、エリトリア駐留軍の一部をエチオピア方面に侵入させてヨハネス軍との戦闘を引き起こした。ただしその「ドガリの戦い」はイタリア軍の惨敗で参加した将兵540人のうち450人が殺されたのだが(ヨハネスの戦力は2万であった。あまりにも一方的だったためイタリア側は「ドガリの虐殺」と呼んだ)。同年6月にイタリア首相となったクリスピはその報復のためにエリトリア駐留軍を2万に増強したがヨハネス側も10万の大軍を揃えて対抗の姿勢を見せたことから全面戦争には至らなかった。

 89年、エチオピア皇帝ヨハネス4世が死に、後継を巡ってヨハネスの子マンガッシャと地方豪族メネリクとの内乱が勃発した。イタリアはメネリクに加担して近代兵器を供与しこれを勝利に導いた。かくして皇帝となったメネリク(メネリク2世と号す)は世話になったイタリアとの友好条約「ウッチャリ条約」を結んだが、この条文は現地語版とイタリア語版で記述が異なっており、イタリアは後者の条文を根拠としてエチオピアの保護国化を主張しようとした。それが最初から全くの詐欺だったのか単なる誤訳だったかはともかく、とにかくメネリク皇帝は抗議することにした。イタリアはその一方で92年ザンジバルのスルタン(註3)からソマリア南部を獲得した。イタリア本国ではこのころ社会主義者の勢いが増しており、首相クリスピは積極的な対外政策を訴えることでこれを乗り切ろうとしていた。ウッチャリ条約の解釈に関する交渉は暗礁に乗り上げた。

註3 現在のタンザニアのザンジバル島を拠点とし、現タンザニア・ケニア・ソマリアの沿岸地帯を支配していた国。詳しくは当サイト内の「アフリカの諸都市」「ドイツの植民地」を参照のこと。

   第一次イタリア・エチオピア戦争   目次に戻る 

 94年、イタリアはウッチャリ条約のイタリア側解釈を認めさせるためにエチオピアのティグレ地方に軍隊を進め、メネリク皇帝に最後通牒を送付した。実のところメネリクは皇帝としてはあまり人気が無く地方の豪族たちに反抗されていたのだが、このイタリアの横暴にはエチオピア全土が結束した。さらにメネリク皇帝はフランスに領内の鉄道敷設の権利を与えることでその援助を引き出した。フランスとしても、イタリアがこのままエチオピアを保護国にしたりするのは大問題であった。上の方に書いたが仏伊関係は北アフリカのチュニジアを巡って以前から対立しており、90年頃にはさらに関税に関する問題が持ち上がってフランス艦隊が地中海に集結してイタリアに対し示威行動を行うような事態に立ち至っていた。そしてその頃、イタリアが直接関与しない所でも国際情勢に変化が生じつつあった。90年にドイツ帝国宰相ビスマルクが失脚するとその影響でドイツとロシアの関係が疎遠になっていき(註4)、94年1月にはそのロシアとフランスとの同盟が成立した。そしてロシアはイタリアに圧迫されているエチオピアへの支援を行った。その頃のロシアはアジア方面でイギリスと対立しており、エチオピアに足がかりを築く……イギリスとそのアジアの植民地を結ぶ最短ルートはスエズ運河だがエチオピアはその近くに位置する……ことでイギリスを牽制し得ると考えたのである。フランスはそれについて(同盟国のやることであるし)特に邪魔だてはしなかった。そして、イタリアはイギリスと仲が良かった筈なのだが、イギリス御大はイタリアがあまり調子にのって植民地を拡大するのは困ると思うようになっていた。

註4 ビスマルクはもちろんロシアとも友好関係を築いていたが、1877年に起こったロシアとオスマン帝国の戦争「露土戦争」の後始末をビスマルクが買って出た「ベルリン会議」でロシアに損をさせてしまい、ここでまず両国関係が冷却化した。それでもビスマルクの在職中はその尽力によって一定の友好は保っていたのだが、ロシアの方はバルカン半島の覇権を巡ってオーストリア(ドイツの同盟国の1つ)との対立を深めており、ビスマルクが失脚した後に親政を始めたドイツ皇帝ウィルヘルム2世は思い切ってロシアを切り捨てる(国交断絶とかではないが)形でオーストリアとの関係の方を強化することにした。そのロシアにフランスが手を伸ばしてくる。

 95年、メネリク皇帝はウッチャリ条約の破棄を宣言し、ここに「第一次イタリア・エチオピア戦争」が勃発した。まずはイタリア軍の優勢で、エリトリア総督バラチェリ将軍の率いる軍団がエチオピアの古都アクスムを占領した。しかしそのうちに雨期に入ったためバラチェリは少数の守備隊を残して一旦イタリア本国に帰り、凱旋将軍として大歓迎を受けた。雨期開けの9月、本国から戻ってきたバラチェリ将軍は2万5000の軍勢を整えてエチオピア領内奥深くに侵入した。しかしエリトリアの根拠地から200マイルほど進んでふと気付けばろくな地図もなく道路も見当たらず水も乏しくで迂闊に動けなくなってしまう。苛ついたイタリア本国政府はバラチェリを罷免しようとしたが、その話を聞いたバラチェリは慌てて実績を示そうと(たまたまその時メネリク皇帝が病気になったという情報が流れていた)アドワのエチオピア軍に夜襲をかけることにした。イタリア軍は4隊にわかれ、とりあえず予備隊以外の3隊1万7000人(そのうちエリトリア人の植民地兵が6500人)がアドワに攻めかかろうとする。

   アドワの戦い   
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 が、エチオピア軍は既に十分の戦備を整えていた。フランス・ロシアから輸入した新式のライフル銃を持つ兵士だけで10万という大軍団である。この「アドワの戦い」においてイタリア軍は死傷者6000に捕虜5000という惨敗を喫して敗走した。これは西欧の列強がアフリカにおいて喫した最大の敗北とされているが、エチオピア軍も死傷者1万3000を出したというから相当の激戦であった。衝撃を受けたイタリア本国(敵の捕虜になったイタリア兵は陰茎を切断されたという)では内閣が交替し、新政府はエチオピアに賠償金を払って一旦退くことにした。

 ただし、エチオピア側もエリトリアとソマリア南部についてはイタリア植民地として承認した。ちなみにソマリア北部は去る87年にイギリスによって「イギリス領ソマリランド」として植民地化されていた。エチオピアの南の現ケニア地域も既にイギリス植民地である。イギリスはさらに99年には現スーダンの植民地化を行った。エチオピアの北東の現ジブチ共和国地域はフランスによる植民地化が進められていた。エチオピアは周囲を全部列強の植民地に囲まれてしまったことになる。

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