イタリア戦争


 かつてのイタリアには統一がなく、中小の国家が乱立していた。ある程度の勢力を持つのは北からミラノ・ヴェネツィア・フィレンツェ・ローマ教皇領(註1)・ナポリの5国であるが、15世紀中頃まではこれらの諸国は時には争いつつも概ね共存しており、各々に文化を磨き「ルネサンス」の華を咲かせていた。

 註1 ローマ教皇は一応は西欧における精神面での指導者であるが、この頃にはイタリア中部の領主として著しく俗化していた。

 1489年、北イタリアのミラノ公国にて内紛が発生し、92年にはその一方がナポリとフィレンツェの、もう片方のロドヴィコ派がフランスの支援を要請した。95年、フランス王シャルル8世が5万の軍勢(註2)を率いイタリアを目指して出陣、途中のリヨンで軍資金の不足により数ヶ月も滞留しつつもこの年9月にはアルプスを越えてイタリアへと侵入した。ナポリやフィレンツェは(フランス軍が数ヶ月かけて進撃してきているのに)何の抗戦準備もしておらず、まずフィレンツェがあっさりと領内にフランス軍を受け入れ(註3)、翌95年1月にはナポリ軍が敗北した。フランス軍によるナポリ侵入は、ここを基地としてオスマン・トルコ帝国(註4)に対する十字軍を行うためであると説明された。2月にナポリ市に入ったフランス軍は市民の歓迎をよそにナポリの領地を処分したりした。当然ナポリの人々はフランス軍を恨み、これを察知したミラノのロドヴィコ(フランスのイタリア侵入を要請した張本人)がイタリア諸国や神聖ローマ皇帝(註5)マクシミリアン1世(ハプスブルク家)、さらにスペインのフェルナンド王(註6)等を誘って反フランスに転向した。

 註2 この時代の軍隊は常備軍ではなく戦争のたびごとに臨時に雇用する傭兵を主力としていた。

 註3 フィレンツェではメディチ家の支配が続いていたが、フランス軍の侵入に勢いづいた反対派が説教僧サヴォナローラを指導者とする共和政府を樹立する。サヴォナローラは教会の俗化を批判して教皇と対立するが、フランス軍がイタリアから撤収する(後述)と勢いを失い、反対派に弾劾されて98年に処刑される。

 註4 現在のトルコ共和国西部から起こり、バルカン半島一帯を征服してヨーロッパ諸国を脅かしていたイスラムの強国。

 註5 19世紀のはじめまで、ドイツとその周辺は「神聖ローマ帝国」という国が支配していた。しかしこの国は帝国内の有力諸侯の独立性が強くて皇帝も選挙によって選ばれており、その皇帝も諸侯の中の第一人者にすぎない存在であった。15世紀中期以降は皇帝に選出されるのはほぼハプスブルク家のみとなっていたが、その「皇帝」の支配が直接及ぶのはハプスブルクの家領(現在のオーストリアその他)に限定されていた。本稿で単に「皇帝」と表記する場合はそれは神聖ローマ皇帝のことである。

 註6 フェルナンドは正確には「アラゴン王」。彼は隣国のカスティリア女王イザベルと結婚していて1479年に両国を合同した「スペイン王国」を建国するが、この2人は「スペイン王」とは呼ばれず引き続き「アラゴン王」「カスティリア女王」、2人あわせて「カトリック両王」と呼ばれていた。彼等の死んだ後の王から「スペイン王」と呼ばれることになる。

 いきなり孤立してしまったフランス軍は、兵の過半数をナポリに残した上で国王シャルルと9000の兵でもって大急ぎでイタリア半島を北上、7月の「フォルノーボの戦い」で反仏連合軍を破って本国へと帰還した。「フォルノーボの戦い」では反仏連合軍はフランス軍の4倍以上の大軍を揃えていたが寄り合い所帯で統制が甘く、フランス軍の中央突破の前に3000人もの損害を出してしまったのであった(フランス側の死者は90人)。ただしナポリに残してきた兵力はコルドバ将軍の率いるスペイン軍によって97年の2月末までに片づけられたのだが……。ここでひとつ余談、当時のナポリではアメリカから伝わった「梅毒」が流行しており、ナポリから本国に帰還したフランス兵を経由して全ヨーロッパに広がったという有名な話がある。

 98年、シャルル8世が事故で亡くなり、従弟のルイ12世が即位した。ルイもまたイタリア遠征を志し、翌99年には3万の軍勢を率いてミラノに侵入する。この頃のミラノ公であるスフォルツァ家は4代前にヴィスコンティ家を追放して成り上がった家であったが、ルイは祖母がヴィスコンティ家の出身だったことからミラノ公位を主張したのである。時のミラノ公ロドヴィコが抵抗するが1500年4月の「ノヴァラの戦い」はフランス軍の勝利に終わり(註7)、フランス軍はさらに南下してナポリを攻略しようとする。ルイは慎重な根回しを行っており、先のミラノ攻略に際してはローマ教皇やヴェネツッア共和国と同盟(註8)、今度のナポリ攻略についてはスペインとでナポリ領を分割するとの密約「グラナダ条約」を交わしていた。皇帝マクシミリアン1世はミラノのロドヴィコの親戚であることからフランスの動きに不満だったが、これだけ多くの国を相手にするには力不足であり金策もうまくいかず、結局何も出来なかった。1501年、ナポリは陸からフランス軍、海からスペイン軍に攻めたてられて降伏した。

 註7 実はフランス軍もミラノ軍も主力はスイス人の傭兵であった。この戦いでは同士討ちを嫌ったスイス傭兵が談合(?)し、ミラノ側の傭兵が寝返ってしまったのである。ところでスイスはもともとハプスブルク家の支配を受けていたが13世紀末に「スイス誓約同盟」を結成して独立、槍兵隊をもってハプスブルクの討伐軍を撃退して勇名を轟かせたが、基本的に貧しい土地柄であることから傭兵が主なる産業となってしまっていた。

 註8 時のローマ教皇アレクサンドル6世の私生児チェーザレ・ボルジアをフランスの力でヴァレンティアノ公に叙しナヴァル王妹と結婚させた。その後チェーザレは教皇軍の総指揮官として中部イタリアに勢力を拡大するが、1503年に父であるアレクサンドル6世が亡くなると権勢を失い、やがて亡命したナヴァルで亡くなった。

 ところが仏西両国はナポリ領の分割をめぐって仲間割れを起こした。まず数的に優勢なフランス軍がバルレッタ城にスペイン軍を攻めるがなかなか落とせず、そのうちにコルドバ将軍の率いる新手のスペイン軍が到着して戦局が逆転した。皇帝がスペインの味方につく(註9)。スペインは皇帝に財政援助をし、皇帝はスペイン軍に大砲と傭兵を送って支援した。1503年5月にはナポリ領はほぼスペインの占領下に落ち、その年末に新たに投入されてきたフランス軍も「ガリリアノ河畔の戦い」に敗れてスペインの勝利が確定した。ルイ12世は姪をスペイン王家に輿入れさせナポリをその持参金扱いにして譲渡するという体裁だけを何とか繕ったのであった。こうして以後200年に渡る南イタリアにおけるスペインの優位が確立するが、そこまでは本稿の述べるところではない。しかし、フランスとスペインの抗争はこの後も北イタリアを主な舞台として断続的に延々と続くことになる。

 註9 皇帝の息子フィリップとスペインの王女ファナが結婚していた。その間に出来たカルロスが1516年にスペイン王となるがこれはもう少し先の話。

 1508年、ローマ教皇とヴェネツィア共和国が戦争になった。皇帝とスペイン・フランスが教皇に加担し、特にフランス軍が活躍してヴェネツィア軍を破ったが、皇帝の軍勢はヴェネツィア側の拠点パドヴァを落とすことが出来ず、結局は講和の締結となった。この戦争で活躍した(ヴェネツィア周辺を占領した)フランスの勢力があまりに拡大することを教皇が恐れたからでもある。そんな訳で11年、ローマ教皇はフランス軍をイタリアから追い出そうと皇帝・スペイン・イギリス・スイスその他を糾合した「神聖同盟」を結成した。フランス軍は序盤は優勢であったが次第に劣勢に追い込まれ、イギリス軍が北フランスに上陸したりスイス軍(註10)がブルゴーニュ(フランス東部)に侵入したりしたこともあり、14年にはイタリアから撤収した。13年6月6日の「ノヴァラの戦い」でスイス軍に敗れたことが決定打であった。

 註10  この頃スイスの人々は傭兵とし他国に使われるのではなく独自の政治勢力として北イタリアへの進出をはかりたいと考え、ミラノを属国扱いしていた。スイスはドイツとイタリアを結ぶ交易路の真ん中という要地に位置し(特にサン・ゴタール峠は重要で、一番最初にハプスブルク家から独立した「スイス誓約同盟」の3州はここからあがる利益を守るために独立したと考えられている)、アルプスを縦断する交易路の南の出口に位置するミラノを欲しがったのは自然の成り行きであった。

 15年、フランスに新たにフランソワ1世が即位した。フランソワは即位早々に3万の軍勢でもって北イタリアに遠征してスイス軍を撃破、ミラノに入城した。今回の遠征では、通行不可能と思われたラルシュ峠からアルプスを越えてイタリアに侵入したことが勝利につながった。(註11)

 註11 これ以降、スイス国家が他国に攻め込むようなことは絶えてなくなった。スイスの中立主義はここから始まったとされている。ただ商売としてフランス等の諸国に傭兵を貸し出すのみとなるのである。

 この時はローマでは教皇が替わって政策が転換し(てフランスの動きを黙視し)、スペインでもちょうど若い新王が即位した前後で、とりあえず政治をあずかった摂政はフランスに対して特に対抗しなかったのだが、19年に20歳となったスペイン国王カルロス1世がさらに神聖ローマ皇帝に選出される(註12)(皇帝としてはカール5世と号する)と風向きがかわってくる。彼はスペイン王・神聖ローマ皇帝以外にブルゴーニュ公国の主まで兼ねていたが、その中心であるブルゴーニュ公領は1477年からフランスに奪われたままとなっており(註13)、力さえあれば何としてでもフランスを叩きたいと考えていた(註14)。ちょうどこの頃のドイツ(註15)ではルターが ローマ教皇(カトリック教会)の権威を否定する「宗教改革」を進めていたのだが(註16)、新皇帝はルターを「ウォルムス勅令」にて法律の保護の外に置くことで教皇の歓心を買い、その上でミラノのフランス軍を攻撃した。さらにイギリスも皇帝に加担する。なお、いわゆる「イタリア戦争」とはこの時から44年まで繰り返される皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)とフランス王フランソワ1世との戦争のことであるが、広い意味ではそれ以前のシャルル8世・ルイ12世が起こした戦争もこれに含むこともある。

 註12 マクシミリアン1世はこの年1月に死去した。新しく皇帝となったカルロス(皇帝としてはカール5世と号する)は、前に少し述べたがマクシミリアン1世の孫であった。この時の皇帝選挙にはフランソワ1世も出馬していたが、用意した費用がカルロス側が金2トン分、フランソワ側が金1.5トン分で前者の勝利となったのである。ちなみに……何度も繰り返してしまうがもう少し詳しく書く……カルロスは前皇帝マクシミリアンの一人息子フィリップとスペイン王女の間の子供ではあるが、彼はそもそもスペイン王になる可能性すらまずないと考えられていた。しかしスペイン側の王族が次々と亡くなったことからほとんど消去法でスペイン王となり、さらに皇帝に選出されたのである。(姓は父方の「ハプスブルク」を受け継いでいる)

 註13 ブルゴーニュ公国はもともとフランス王の分家。現在のフランス東部に位置した。形式的にはフランス王の家臣であったが独自に勢力を拡大して現在のドイツ・フランス国境にまたがる地域からネーデルランド(現在のオランダ・ベルギー)まで支配した。しかし1477年に当主シャルル突進公がロートリンゲン公との戦いで戦死したことからブルゴーニュ公領(初代の公がフランス王から貰った領地)とその周辺をフランス王に没収されたのである。残りの領地(ネーデルランド等)は亡きシャルル突進公の娘と結婚した皇帝マクシミリアン1世(結婚した時点ではまだ皇帝ではなかったが)が獲得していた。それをマクシミリアンの孫カルロス(カール)が相続したのである。もともとそれほど強大だった訳でもないハプスブルク家の領地はマクシミリアンとカルロス(カール)の2代で一挙に拡大したことになる。

 註14 それから、いちおう北・中部イタリアも形式的には神聖ローマ帝国に含まれている。「皇帝」としてはここをフランスの勝手にさせる訳にはいかないのである。

 註15 神聖ローマ帝国の主要な一部。皇帝の実権が直接及ぶのはハプスブルク家の家領のみであるが、「皇帝」としては帝国議会を開催したりと色々な責任(野心も)がある。

 註16 皇帝は宗教に関しては原則としてカトリック擁護でありつつも、ある程度はルター派に理解を示し、帝国内の宗教問題をなんとか調停しようとしたのだが……実際の対応はその時の政局による。一方の教皇も、政治的利害から皇帝と敵対することもままある(後述)。

 フランス軍が反撃に出るが22年4月の「ラ・ピコッカの戦い」や24年4月の「セジア河畔の戦い」に敗北、25年には戦局の一挙挽回をはかる国王フランソワ自らがミラノを経てパヴィアを包囲するが、2月25日の「パヴィアの戦い」にて皇帝側の援軍の前に大敗を喫してフランソワ自身も捕虜となってしまった。気負い立つフランソワがいきなり敵軍(註17)に突撃をかけたためにそれまで優勢だった砲撃戦が(同士討ちを避けるために)中断されたのが敗因だった。そのころ一般的だった槍兵の方陣よりも銃兵の方が使えることが明かになった戦いとしても知られている。フランス軍の戦死者は6〜8000、フランソワはスペインに連れていかれた。翌26年1月に結ばれた「マドリード条約」によりフランスはまたしてもイタリアから撤収させられ、ブルゴーニュ公領を割譲すると約束した。

 註17 フランス軍の主力はスイス傭兵だったが皇帝軍の主力は南ドイツの傭兵「ランツクネヒト」であった。当時の南ドイツ農村では農地が相続のたびごとに細分されたことから仕事のない次男三男があぶれており、その多くが傭兵となったのである。

 ところが釈放されて本国に帰ったフランソワはマドリード条約の履行を拒否した。今回の戦争で皇帝に味方したのに何も得られなかったイギリスに、皇帝の必要以上の強大化を恐れる教皇や北イタリアの諸国がフランスの側に乗り換えた。これを「コニャック同盟」と呼ぶ。くっついたり離れたり本当に節操のない話である。ちょうどこの頃オスマン・トルコ帝国が神聖ローマ帝国の東南部を窺っており、皇帝の足下のドイツでは宗教改革の問題もある。危機的状況に陥った皇帝はドイツのプロテスタントに大幅な妥協を行って彼等を味方につけ、その上で突如大軍を発して今回の反皇帝同盟の中核と思われたローマを占領した(27年5月)。この時の皇帝軍の主力はプロテスタントの傭兵であったことから、カトリックの総本山における彼等の暴虐はまことに目に余るものであった(皇帝が金欠で傭兵の給料が滞っていたため略奪で賄ったという事情もある)。(註18)

 註18 それまでのローマは「ルネサンス」の一つの中心地であった。今回の惨事はイタリア・ルネサンスの終焉を象徴する事件とされている。

 その時なにもしなかったフランスは28年からようやくイタリアに遠征し、ミラノを落としナポリを包囲したが同盟国ジェノヴァの裏切りによって退却を余儀なくされ、29年8月に皇帝と「カンブレー条約」を結んでまたまたイタリアから撤収した。この年にはオスマン帝国の大軍が神聖ローマ帝国領に侵入しウィーン(註19)を包囲したが、皇帝はこれも何とか乗り切った。この年の去る1月には教皇も皇帝と和解しており、ここで一旦は皇帝がイタリアの覇者となったのである。しかしフランソワはまだ諦めない。

 註19 ハプスブルク家領オーストリアの中心地。

 35年、ミラノ公が跡継ぎを残さないまま亡くなった。これに目を付けたフランソワが先の「カンブレー条約」を破棄しミラノ方面に侵入する。しかし戦闘は今回も皇帝側の優勢、フランス領内まで攻め込んでマルセイユを包囲した。フランスはオスマン帝国と結んで皇帝の背後を突かせたが、さすがにそれ(カトリック君主同士の戦争にイスラムを介入させる)はまずいと考えた教皇パウロ4世の調停により10年間の休戦条約(ニース条約)が結ばれた。

 42年、皇帝は地中海におけるオスマン海軍の拠点アルジェリアへの遠征を企てたが暴風雨のために失敗した。先の「ニース条約」の定める10年の休戦期間はまだ終わっていないにも関わらず、これを好機と見たフランソワがまたオスマン帝国と結んで皇帝に宣戦する。しかしイスラム教徒との同盟に憤ったイギリス等が皇帝に加担したために戦局はフランスの不利となった。フランソワ1世は44年の「クレピー条約」により皇帝に対しイタリアへの野心を放棄すると約束し、46年の「アルトワ条約」でイギリスと和睦した後47年に亡くなった。とは言っても跡を継いだアンリ2世は引き続き皇帝との戦いを繰り広げ、52年にはドイツのプロテスタント諸侯を後押しする形でドイツに進出、反撃に出てきた皇帝軍も撃退した。しかしイタリア方面では不振であり、59年の「カトー・カンブレジ条約」によってほぼイタリアから追い出されたのであった。(註20)

 註20 ところで皇帝カール5世は1556年、息子のフィリップ(フェリペ)にスペイン・ネーデルランド・ナポリ等を、弟のフェルディナントに皇帝の位とオーストリア等を譲って退位した。これにてハプスブルク家はスペイン系とオーストリア系に別れることになる。前者こそがスペインの全盛期を築く「スペイン王フェリペ2世」その人である。

 フランスではその3年後にカトリックとプロテスタントの内乱「ユグノー戦争」が勃発し、イタリアどころではなくなった。長い戦乱の舞台となったイタリアは……それ以前はルネサンスの中心地として栄えていたのだが……外国の軍勢に踏み荒らされて経済的にも政治的にも活力を失い、長い沈滞期に入っていくこととなるのである。

                                 

おわり   

   

   参考文献

『世界戦争史』 伊藤政之助著 1939年(1985年原書房復刻版)

「国際政治の展開」 成瀬治著 『岩波講座世界歴史14』 岩波書店 1969年

『中欧史(新版)』 今来陸郎編 山川出版社世界各国史7 1971年

『イタリア史』 森田鉄郎編 山川出版社世界各国史15 1976年

『ハプスブルク家』 江村洋著 講談社現代新書 1990年

『フランス史2』 柴田三千雄他編 山川出版社世界歴史大系 1992年

『ハプスブルク家かく戦えり一ヨーロッパ軍事史の一断面一』 久保田正志著 錦正社 2001年

『傭兵の二千年史』 菊池良生著 講談社現代新書 2002年

                                    

その他   

   

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