アイスランドとグリーンランドの歴史 第4部

   魚の海に浮かぶ島   目次に戻る

 本稿の最初の方で書いたとおり、アイスランドは暖流であるメキシコ湾流の影響で意外と温暖である。特に島の南の水域は暖流が強くて66種類もの魚類が繁殖しており、ニシン、ヒラメ、そしてタラが豊富に生息している。特にタラは1962年の記録によれば世界総産額の半分以上がこの水域で捕獲されていたという。このことから「魚の海に浮かぶ島」と呼ばれるアイスランドの主産業は長らく水産業および水産加工業であった。

 しかしデンマーク領時代の1882年に8ヶ国が調印した「北海漁業警察規制」や1901年にイギリス・デンマーク間に結ばれた「ロンドン協定」はアイスランド人にとっては冷たいもので、漁業専管水域は低潮線から3海里しかみとめられず、その範囲にすらイギリス漁船が入り込んできて漁場を荒らす(密漁する)有様であった。

 その後の第一次世界大戦の時にはイギリスの漁船団は軍に徴発されたのでアイスランド近海に平和が戻った(何という逆説!)が、大戦が終わってしばらくするとまた大量の漁船が押し寄せてきた。アイスランド側は「沿岸警備隊」を組織して密漁船を拿捕してまわり、イギリス漁船の側は無線機を駆使した暗号通信「グランドマザー・メッセージ」を用いて警備隊に対抗した。「お婆ちゃん元気」は危険なし、「お婆ちゃんまだ元気」は要注意、そして「お婆ちゃん加減悪し」が警備隊出動の意である。

 第二次世界大戦が始まるとまたイギリス漁船の姿が消えた。イギリス政府は戦時の食糧難をしのぐために国民にタラの肝油を配給し、それを賄ったアイスランドの経済は大いに潤った。そして1944年にアイスランド完全独立が果たされた時、たまたまニシンの魚群がアイスランド水域にやってきたことから、「漁業立国」というアイスランド国家の基本路線が強く認識された。大戦終結後はまたまた各国の漁船がアイスランド水域に押し寄せ、水産資源を枯渇させかねない情勢となった。各国漁船の主力は「トロール船」であった。「トロール」というのはだいぶん前にもちらりと説明したが、長さ約25メートルの三角形の袋状の底引き網で、これを曵いて航行することで大量の魚を捕獲することが出来るのである。(トロール漁法は軍隊の掃海作業に似ているため、戦時には多数のトロール船が海軍に徴用されて仮設の掃海艇として活躍することになったのであった)

   第1次タラ戦争   目次に戻る

 その頃(45年)、アメリカが自国周辺の海洋油田を押さえる目的で「トルーマン宣言」を発布した。大陸棚(陸地の周縁に分布する極めて緩傾斜の海底)の資源は沿岸国が管理出来るというものである。それまで、大陸棚はどこの国のものでもなかった。アイスランド政府は50年4月、それまで海岸線(正確には低潮線)から3海里に限られていた漁業専管水域を4海里に拡大すると宣言したが、そんな程度では手緩すぎると思い直し、58年をもって12海里の漁業専管水域を設定すると言い出した。その内部では外国漁船は操業してはいかんのである。

 イギリス政府が断固たる抗議声明を送りつけてきた。「通常の領海外水域において、漁業に関して排他的管轄権を行使することは、海洋法にもとる不当行為であり、断じて認め難い」。これに対抗してソ連と東ドイツがアイスランドにエールを送った。イギリス政府はトロール船団に海軍艦艇5隻の護衛をつけて送り出し、アイスランド側の警備艇6隻と睨み合った。これが「第1次タラ戦争」である。むろん本物の戦争ではない(註1)ので宣戦布告のようなことはなされず、死人も出なかったが、イギリス側は狭い水域にトロール船団を密集させてその周囲に護衛の艦艇を配備するという方策をとったため、魚が殆どとれなくなってしまった(漁の効率を考えるなら船団は分散して操業した方がいい)。

註1 「タラ戦争」とはイギリスのマスコミによる命名。


 そんな訳で、61年2月にはイギリス側が折れる(12海里の漁業専管水域を認める)という形でとりあえず決着がついた。また紛争が発生した場合には国際司法裁判所に付託するという取り決めがなされ、イギリスとしてはそれで今後のアイスランドの要求拡大を封じたつもりであった。アイスランド側の野党であった共産党と進歩党はその辺のイギリスの考えを見透し、国際司法裁判所云々の取り決めを撤回せよ(将来にもっと遠慮なく漁業水域を拡大出来るようにしておくべし)と叫んだが、これはアルシングによって否決された。

   第2次タラ戦争   目次に戻る

 それから10年を経た1971年、アルシング選挙で社会民主党・進歩党・共産党からなる連立政権が成立した。閣僚7名のうち4名が共産党員もしくはその支持者という左翼政権である。そしてこの政権が、漁業専管水域を50海里まで拡大すると声明した。何故「50海里」なのかというと、それがアイスランドを囲む大陸棚の外縁だからである。「地形図によれば、大陸棚は確かに国家のプラットフォームであり、国家自身の一部であるとみなさなければならないことは明白である」。イギリスは問題の水域で操業する自国(イギリス)漁船の漁獲高を制限するという妥協案を提示したがアイスランド側は聞く耳を持たない。そこでイギリスが西ドイツと語らって国際司法裁判所に提訴すると、アイスランド側は「これは自国の大陸棚における行為であって国際問題ではない」と応えた。そもそも61年の取り決めはイギリス海軍の「脅迫」によってなされたものであり、しかもこの問題はアイスランド国民の死活的利益に関するものである以上、いかなる外部の団体、他の国家、国際組織にも管轄権を付与しない、のである。ともあれこうして始まるのが「第2次タラ戦争」である。

 イギリス・西ドイツは構わずトロール船団を出して操業させたが、今回は軍艦の護衛をつけなかった。前回の戦いで出した艦艇がかえって操業の邪魔になってしまったことや、「アイスランド政府(左翼政権)を刺激しすぎてソ連に接近されたりしたら困る」というアメリカの意向が働いていたとされている。そのあたりのイギリス政府の難しい立場を見透かしたのかアイスランド政府の態度は極めて強硬で、沿岸警備艇を出して徹底的な妨害作戦を繰り広げた。秘密兵器「トロール・ワイアー・カッター」でトロール網を切断するのである。これで1年間のうちにイギリス船69隻と西ドイツ船15隻が網(ひとつ5000ドル)を失った。イギリス側がタグボート4隻を出してアイスランド沿岸警備艇に体当たりを敢行すると、アイスランド側は威嚇射撃で実弾を発射する。トロール船団の船長グループは海軍が助けに来てくれないことには操業は出来ないと言い出した。

 イギリス政府はやむなく軍艦7隻を出動させた。西ドイツは後方支援を担当する。しかし、71年の総輸出高の83パーセントが水産品もしくは水産加工品だったという、漁業に文字通りの意味で国家の命運を賭けているアイスランド政府はイギリスとの国交断絶やNOTO脱退まで示唆する構えを見せた。前にも説明したがアイスランドという国はアメリカとソ連の中間点に位置する戦略上の要衝であるため、「NATO脱退」というのは大きな切り札であった。また、単なる演習だったのか政治的デモンストレーションだったのかは不明だが30隻ものフリゲート艦や潜水艦からなるソ連艦隊がアイスランドに接近してきたという情報がイギリス政府を困惑させた。(ちなみにこの当時のアイスランドの沿岸警備隊は警備艇6隻と偵察機1機からなっており、武装といえば警備艇に1門づつ積んである大砲だけであった)

 73年5月26日、アイスランド沿岸30海里のところで操業していたイギリス籍トロール船「エバトン」がアイスランド警備艇「イジール」の停船命令を受けた。しかし「エバトン」は命令に従わず逃走しようとしたため、「イジール」はまず空砲で威嚇、それでも無視されたため47ミリ砲弾6発を発射してうち4発を命中させた。ただしその砲弾は爆薬を抜いてあったし、近くにいたイギリス側の護衛艦や仲間のトロール船が救援に駆けつけたため「エバトン」はどうにか沈没を免れ、奇跡的に死傷者も出なかった。イギリスの大衆紙はこの事件について「公海での海賊行為」とか「北極洋の戦い」とか書き立ててアイスランドを激しく非難し、これがイギリス政府を余計に困らせた。実は「エバトン」は右派系の新聞記者を便乗させており、計画的に(アイスランド側を挑発するように)行動していたという説がある(註2)

註2 『英国・アイスランド漁業紛争』121頁


 この事態に危機感を抱いたNATOが調停に乗り出した。交渉が続く最中の8月29日にはイギリス船と衝突事故を起こしたアイスランド警備艇の乗組員1名が死亡(感電死)、この事件のせいでますます強硬になったアイスランド政府は10月3日までにイギリス艦とタグボートが50海里水域から撤収しなければ国交を断絶すると息巻いた。しかしこの危機は期限ギリギリの10月2日にはNATOのルンス事務総長の調停によって回避された。アイスランドのヨハネソン首相は国交断絶をとりあえず先送りにしてロンドンに交渉に出向き、イギリス側は艦艇とタグボートを50海里水域から撤収させた。

 そして11月8日、有効期間を2年間に限定した暫定的なアイスランド・イギリス協定が成立した。イギリス側の漁船は今後も50海里水域の一部でのみ操業を許可される(年間漁獲量は13万トンまで)というものである。なおこの年、イギリスは欧州自由貿易連合(EFTA)を脱退して欧州共同体(EC)に加盟している(註3)が、これはEFTAの諸国がタラ戦争に関してイギリスに非協力的だったからであるとも言われている。

註3 少し詳しく説明すると、ECというのは1958年にフランス・西ドイツ・イタリア・オランダ・ベルギー・ルクセンブルクの6ヶ国が発足させた欧州経済共同体(EEC)から発展したものであるが、イギリスは当初はこれに参加せず、オーストリア・スウェーデン・スイス・デンマーク・ノルウェー・ポルトガルとともにEFTAを結成してECと張り合っていたのだが……。


   第3次タラ戦争   目次に戻る

 その頃の国際社会では、50海里どころか200海里もの漁業専管水域を求める国が現れてきていた、1973年に開催された国連海底平和利用会議では南アメリカ・アフリカ・アジアを中心とする34ヶ国が200海里構想を訴え、アイスランドもこれに同調した。これはもう世界の趨勢となりつつあった。

 74年に入るとアイスランド水域に棲息する大型のタラが急減してきた。以前は18歳以上のタラも珍しくなかったのに、12歳以上は稀という事態に立ち至ったのである。また、73年に勃発した「第4次中東戦争」で石油の供給が滞ったことによる世界的なインフレでアイスランド経済も極度に悪化しており、インフレ率50パーセント、貿易赤字1億5000万ドルにも達していた。かような事態を重く見たアイスランド政府は先の協定の期限が切れる75年の10月15日、「資源保護」を名目に漁業専管水域を200海里に拡大すると声明した。そして例によってイギリスと西ドイツが反発し、ここに「第3次タラ戦争」が勃発する。「われわれはどんなことをしてもわが国の漁業水域を守るつもりだ。戦争を予告するつもりはないが、何が起きるかは将来にならないとわかるまい」。

 今回はイギリスは早期に軍艦を送ってきたが、西ドイツは「アイスランド水域における年間漁獲量を6万トン以下に制限する」という妥協を結んで早々に戦線から離れた。「6万トン」のうちタラは5000トン以下で、そのかわりメバルの割当量を増やすという形の手打ちであった。西ドイツ政府はイギリスに対してもメバルで満足してはどうかと助言し、さらにECが「イギリスの近海ではタラの近縁のブルー・ホワイティングがたくさん棲息しているではないか」という指摘を行ったが、イギリス人はタラにこだわった。『フィナンシャル・タイムズ』紙などは「イギリスがホワイティングになじむなら、そもそもタラ戦争が無用のこととなろう」と述べ、メバルなどには見向きもしなかった。

 12月11日、イギリスのタグボート「スターアクエリアス」「ロイドマン」がアイスランド警備艇「トール」に体当たりを仕掛け、「トール」の側は47ミリ砲を発射して相手に命中させるという事件が起こった。アイスランド政府は76年1月13日、「イギリス艦がアイスランド水域外に引き揚げないかぎり14日なしい15日に国交を断絶する」と息巻き、今回もNATO脱退を示唆した。ここ数年のヨーロッパはギリシアやポルトガルで政変が起こった影響で揺れに揺れており、さらにアイスランドにまで揉め事を起こされてはかなわないNATOが調停に乗り出した。これを受けたアイスランド政府は期限ぎりぎりの15日午後になって対英断交を取りやめ、あくまで話し合いで決着をつけるという路線に変更しようとした、のだが、その路線はアルシングの承認を得られなかったため、24日までにイギリス艦が退去しなければ断交するという最後通告を発した。結局イギリスはアイスランド側がイギリス漁船の操業を妨害しないならばという条件付きで軍艦を引き揚げた。

 24〜27日、ロンドンで首脳会談が開催された。アイスランド側は自国水域におけるイギリス漁船の年間漁獲量を4万トン以下に抑制せよと主張し、イギリス側は8万トンは欲しいと訴えた。漁業は当時のイギリス政府(ウィルソン労働党政権)の支持基盤であったため、大量の失業者を生むであろうアイスランド案は到底受け入れられなかった。その一方で、この交渉の最中にもイギリス漁船がアイスランド水域で操業を続けていたことがアイスランド側を苛つかせた。

 2月5日、イギリス艦2隻が再びアイスランド水域に侵入した。その少し前にアイスランド側の沿岸警備艇がイギリス漁船の網を切断してしまったことに対する報復であった。そして同月18日、イギリス艦「ローストフト」とアイスランド警備艇「トール」が衝突事故を起こし、これで弾みがついたアイスランド政府は翌19日の閣議において遂に対イギリス国交断絶を決定した。以降の両国の話し合いはノルウェーとフランスの仲介によって行われることになった。NATO加盟国同士が断交してしまったのはこれが初めてである。その一方で同月、ECが「ヨーロッパ200海里水域」を設定してイギリスの梯子を外してしまい、アメリカ議会も同種の法案を可決した。

 アイスランド水域ではその後も衝突事故が続発し、5月12日にはアイスランド警備艇「イジール」がイギリス漁船「プライメラ」目掛けて砲弾3発を発射した。情勢は極めて緊迫し、イギリス海軍の1万トン級ミサイル巡洋艦に出動待機の命令が出たという噂まで流れた、のだが、両国ともにあんまりやりすぎるよりも適当なところで手打ちにした方が無難であるという世論が広まってきた。そうなると立場的に不利なのはイギリス側である。国際世論の趨勢は既に完全に200海里に傾いていたし、イギリスに対して「NATOを分裂させている」という非難もあがっていた。イギリス国内でも財界が政府に対し「タラの消費を他に向ける努力をしなかった」「北海(イギリス近海)の漁業を開発する努力をしなかった」といった批判を展開した。

 そして同年6月1日、ノルウェーのオスロで行われた会議の席でイギリスが折れるという形で話がつき、翌2日をもって両国の国交が回復した。イギリス政府は200海里水域内で自国漁船を最大24隻、年間漁獲量5万トン以下だけ操業させてもらうという条件でアイスランドの主張を了承したのである。しかも、「最大24隻」の漁船で見込める漁獲量は実際にはせいぜい3万トンと考えられた。文句なしにアイスランドの圧勝であった。イギリスのトロール船連盟は「連盟所属のトロール船110隻のうち60隻が無用の長物となり、直接漁に携わっている漁民1500名と関連業種の労働者7500名が失業する」という予測を出し、政府に対し3000万ポンドの補償を要求した。イギリスはこの前後にフランスとの中間線を巡って争われた「英仏海峡大陸棚事件」にも敗れ、82年の「フォークランド戦争」に勝利するまでの間すっかり自信を喪失した。

   その後のアイスランド   目次に戻る

 その後のアイスランド政府は資源確保のために自国漁民による漁獲量をも制限する政策を打ち出した。まずトロール網の目を大きくする法律を制定するが、漁民側は船の数を増やしてこれに対抗、そこで船団規模と操業日数を制限すると漁民側は漁具の性能を向上させるといういたちごっこが続いたが、やがて漁民の抵抗もおさまっていった。

 ……ともあれアイスランドという国は「漁業立国」と呼ばれる程に漁業に重きを置いてきたのだが、近年のアイスランド政府は「金融立国」を掲げて海外から資金を集め、国内銀行の総資産が国内総生産の10倍にも達した。一時は国際競争力が世界4位、ヨーロッパで1位を称される程の繁栄を謳歌した(従来の主力産業であった漁業の国内総生産に占める割合は2006年には6%まで低下した)が、2008年の国際金融危機の直撃を受けて深刻な経済危機に陥った。

 軍事では冷戦終結後しばらく経った2006年3月、「地球規模の戦力再編成の一環」としてアイスランド駐留アメリカ軍の撤退が決定し、その時点で約1200名いた将兵とF15戦闘機4機は同年9月までに数次に分けて段階的にアイスランドを去った。ソ連の脅威がなくなったため、アイスランドに兵力を貼付けておく理由もなくなったのである。これでアイスランドは完全に軍隊を持たない国になってしまった訳だが、実はアイスランド政府はこの状況を喜んでいる訳ではなくむしろアメリカ軍を引き止めようとした(駐留経費の全額負担まで申し出た)。アメリカ軍のヘリコプターに救難の仕事をしてもらっていたからである。

 そもそもアイスランドは実のところ全くの非武装という訳では決してなく、まずタラ戦争の時に大砲をぶっばなした沿岸警備隊がいるし、アメリカ軍に出て行かれた後は警察や沿岸警備隊を包含した防衛機関の設立も検討されている。外務省管轄の「アイスランド危機対応部隊」という海外派遣用の平和維持部隊も存在し、これはノルウェー陸軍で軍事訓練を受けた約80名の人員からなっていて、PKO等の任務でコソボやアフガニスタンといった紛争地域に派遣されたことがある(負傷者も出した)。

                 
                                       おわり

第3部へ戻る

参考文献へ進む

戻る