アイスランドとグリーンランドの歴史 第1部


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 その大部分を氷河と溶岩に覆われたアイスランドがヨーロッパ人に発見されたのは伝説によると紀元前325年の夏のことであったという。そのころ南フランスのマルセイユに住んでいたピュティアスというギリシア人の商人が海路ジブラルタルを越えて大西洋を北上、スコットランド(イギリスの北部)の北端から船で6日行程のところに大きな無人島を発見して「ウルティマ・トュレ(世界の最もはずれの土地)」と名付けたという。その島は南から北まで船で通り抜けるのに丸1日かかったが、その付近には夜というものがなく、夕方になって太陽が沈みかけたと思っても完全に没することなくまた昇ってきた(つまり白夜だった)という。ピュティアスはこの時の航海記録を著作にして世に出したが、その本は現在には伝わっておらず、地理学者ストラボン等の他人の著作に引用されているのみである。そしてその「ウルティマ・トュレ」こそがつまりアイスランドのことではないかと推定されているのだが、確定はしておらず、ノルウェーの一部もしくはシェットランド諸島あるいはオークニー諸島ではないかという説もあるし、ピュティアスの同時代人たちは単なる法螺話だと思って本気にしなかったという。

 どの説が正しいにせよ、ピュティアスはその無人島には定住せずに帰ってしまった。考古学の調査によってもその当時のアイスランドには人が住んでいた形跡はなく、それどころかピュティアスの時代から1000年以上ものあいだ無人島のままであったようである。いちおうローマ帝国時代のコインが発見されたことがあるにはあるが、それもたまたま島に漂着した難破船のものであったと推定されている。

 ずっと時代が進むと、紀元後8世紀頃にイギリス人ベダが書いた『英国史』にそれらしい島に関する記述がみられ、825年にアイルランド人デイクイルが著した『地球の尺度』にその島に住んだことがあるというアイルランド人キリスト教徒の話がのっている(白夜が報告されている)という。その頃のアイルランドのキリスト教徒というのは辺鄙な土地で隠遁生活を送ることを好んでいたし、そのころ頻繁にアイルランドを襲っていた「ヴァイキング」の猛威を避けるためにはるばるアイスランドまで疎開した人々がいたのではないかと推定する研究者もいる。しかしまぁ彼等がどういう素性の人々だったのかはともかくとして、(アイスランドに移り住んだ人というのは)大した数ではなかったことは間違いない。

 「ヴァイキング」についても簡単に説明しておくと、この語は古い時代には北欧の武装船団(海賊)を指していたのだが、現在ではスカンディナヴィア半島やデンマークに住んでいたゲルマン系の人々全体を指している。彼等は793年にイギリス北部東海岸のリンデスファーン修道院を襲撃したのを皮切りに西ヨーロッパの各地を攻撃し、やがては地中海やロシア方面まで進出して暴れ回ることになる。この時代の北欧では「ノルウェー」「デンマーク」「スウェーデン」といった統一国家は形成途上で、デンマークには比較的に強力な王朝が育ちつつあったが、ノルウェーにはたくさんの小国家が分立していた。

   ヴァイキングの到来   目次に戻る

 860年頃、問題の島にもヴァイキングが現れた。最初にやってきたのはスウェーデン出身のガルダルもしくはノルウェー出身のナドットという人物で、彼らはたまたま航海中に嵐で吹き流されてきただけであったが、故郷に帰ってからその島の存在を吹聴してまわった。先住のアイルランド人たちは古代の記録にある「ウルティマ・トュレ」のことを事前に知っていて(そこを目指して)アイスランドに渡ってきたらしいのだが。ヴァイキングたちはそんな知識は全くなく、単に偶然に行き着いてしまっただけであった。

 続いてノルウェー出身のフロキが家族と家畜を連れて島に現れ、そのまま定住しようとした。フロキはとあるフィヨルド(註1)に居を定めた。そこは海産物に満ちていた。しかし彼は漁に夢中になって乾草をつくるのを忘れている間に厳しい冬に襲われ、家畜の全部に死なれてしまった。フロキはやむなく定住を断念してノルウェーに帰り、島は人の住めない「イスランド(氷の島)」だったと語った。「アイスランド」という地名はここにはじまる。ちなみにこの島は北極圏に近くはあるがメキシコ湾流(暖流)の影響で普段は(冬でも)それほど寒くなく、フロキはかなり運悪く特別寒気の厳しい年に居合わせてしまったようである。ただ、アイスランドは本稿の冒頭で述べたようにその大半が氷河と火山・溶岩で覆われているため、人間の住める土地はごく限られている(註2)

註1 氷河の浸食によって出来た複雑な形状を持つ入り江。

註2 現在のアイスランド共和国の総人口は約30万人。そのうち9割以上が都市部に居住している。


   インゴルフの入植   目次に戻る

 続いて874年、ノルウェー出身のインゴルフとレイフという兄弟(註3)が部下や奴隷を連れて島を訪れた。インゴルフにはヘルガという美しい妹がおり、彼女を巡ってレイフと(ノルウェーの)有力豪族アトリ伯の息子とが争いになったため、はるばるアイスランドまで亡命(?)してきたのであった。兄弟は島に上陸すると二手に分かれてそれぞれに冬を越したが、レイフとその部下は春には奴隷たちの裏切りにあって殺された。伝説によれば、インゴルフはノルウェーを出発する時に神に犠牲を捧げていたが、レイフは自分の力に自信を持っていたのでそのようなことはしなかったという。レイフを殺した奴隷たちというのは、兄弟が以前アイルランドに遠征した時に捕えた人々であった。

註3 正確には従兄弟だが、義兄弟の契りを結んでいた。


 奴隷たちは近くの小島に隠れたが、事態を知ったインゴルフに探し出されて殺された。インゴルフはレイフの死を嘆きつつも、ノルウェーを出る時にきちんと犠牲を捧げなかったからこんなことになったのだと考えた。その後も島に住み続けたインゴルフの居住地「レイキャヴィク」は現在ではアイスランド共和国の首都となっている。彼が何故そこに居を定めたのかというと、アイスランドに上陸する直前にノルウェーから持ってきた飾り柱(北欧の豪族のシンボルで、北欧神話の神の姿が刻まれている)を海に投げ込んで、それが流れ着いたところに定住すると決めていたからである。「レイキャヴィク」とは「煙たなびく湾」という意味で、近くに湧いていた温泉の湯煙を炎の煙と間違えてそう命名したのだという。「最初のアイスランド人」と呼ばれるインゴルフの子孫は今でも何人か確認出来るという。

   植民事業の本格化   目次に戻る

 インゴルフに続き、主にノルウェー西部の人々が続々と島にやってきた。当時はノルウェーからアイスランドまで約1週間の船旅であった。11世紀にアリ・トルギルスソンという人物が書いた史書『植民の書』には初期の入植者400家族ほどの事細かな事績が記されているという。それまでのノルウェー地域は30ほどの小国が相争う群雄割拠の状態にあったのだが、860年頃からオスロ(現在のノルウェー王国の首都)地方の領主だったハラルドという人物が統一事業に乗り出し、彼との戦いに敗れた領主たちが海を渡ってアイスランドへと逃れてきたのであった。ただ、「領主たちが……」というのは『植民の書』に記された話であって、考古学的に確認出来る初期入植者の遺物は領主というより一般の農民のそれであるという。

 当時のノルウェーは人口が過剰となっていて、海外に出ることで食い扶持を養いたいという欲求が高まっており、最初はノルウェーに地理的に近いイギリスやアイルランドを狙っていたのだが、それらの地域では10世紀頃から現地民による抵抗が強くなってきた(註4)。そこで、遠く離れてはいるが先住民の存在しない(アイルランド人については後述)アイスランドまでやってきたという事情があったようである。ただ、(当時の感覚では)あまりにも大勢の人々が移民したせいでノルウェーはかえって過疎になりかねなくなったため、慌てたハラルドは出国を規制し、移民したいものには1人あたり銀4オンスの出国税を課すことにした。(ハラルドは後世「ノルウェー最初の統一王」と称されたが、彼が実際に支配下に置いたのはノルウェーの沿岸部だけで、彼の死後には一族や有力者の間で闘争が繰り返されることになる)

註4 ヴァイキングたちは8世紀の末以降毎年のようにイギリス・アイルランドを襲撃していたが、9世紀の中頃以降になると単に襲撃するだけでなく根拠地を設けて定住するようになった。その頃のイギリスには7つの王国が分立していたのだが、871年にウェセックスの国王として即位したアルフレッド大王がヴァイキングに対する本格的な反抗を開始し、9世紀の末頃にはデーンロー地方以外の地域からヴァイキングを追い払うことに成功した。(しかし11世紀に入るとまた大規模な侵攻が行われる)


 それから、以前からの住民であったアイルランド人たちとヴァイキングが接触したという記録もあり、アイルランド人たちはヴァイキングの野蛮な風習を嫌って出て行ったということになっているのだが、近年の考古学の成果はヴァイキング到来前には人間はいなかった(アイルランド人云々は創作だった)ことを示唆しているという説もある。

 ヴァイキングたちが土地を確保する手段としては、農業に適した無主地(誰も住んでいない土地)を自分の所有地である!と宣言するのが基本だが、先着の入植者の土地を許可を得て使用したり、何らかの手段で購入したりすることもあった。ごく初期の入植者はやたらと広い土地を占有したが、後からやってきた入植者との間に軋轢が生じたため、燈を手にして一家で1日に1周出来る範囲内しか占有してはならないという決まりが出来た。「燈を手にする」というのは、その土地を神聖化するという意味があった。

 ともあれ入植者たちは島の各地に小さなグループごとにバラバラに住み着いていくのだが、抵抗するような先住民がいないのだから複数のグループが団結する必要はなく、したがって全島を統一支配する国王のような存在は必要とされなかった。グループの長を「ゴジ」と呼び、その下に自由民や奴隷、奉公人といった身分が存在した。奴隷や奉公人の中にはインゴルフとレイフが連れていたようなアイルランド人の捕虜が相当数含まれており、主人のもとから何かの事情で追放もしくは逃亡した者たちだけで独自のコミュニティを建設した例もあるという。

 入植者の最大の敵はやはり厳しい自然で、島のあちこちにある火山が噴火して大惨事になることが度々あった。そんな環境においても彼等は牛・豚・羊・山羊・馬といった牧畜、葡萄や大麦の栽培、それからタラ漁を行って食い扶持を養った。ヴァイキングの間で尊ばれていた家畜は食用の豚、乳製品用の牛、輸送用の馬の3種であったが、そのうちの牛と豚(ノルウェーから連れてきた)はアイスランドの自然には適応出来ず、次第にその数を減らして行った。これらに対して羊と山羊は格下の家畜とされてはいたが乳製品と毛織物で利益を生んだ。

 しかし食糧は常に不足がちであり、飢饉の時には口減らしのために子供が捨てられ、老人や病弱者が崖から突き落とされることもあった。住居は流木と泥炭と粗石でつくった。何故そんな家に住むのかというと、アイスランドはもともと建築資材になるような森林が乏しかったからである。まぁヴァイキングが入植を開始した時点では島の4分の1が森林に覆われていたという説もあるのだが、どちらにしても牧畜地にするために切り払ってしまった(しかも無為に焼き払ったらしい)のであった。(現在のアイスランドの森林面積の国土に占める割合はたったの0.3パーセントにすぎない)

 葬祭は……、入植者たちの故郷のノルウェーでは火葬をやっていたのだが、アイスランドでは(燃やせる木が乏しいので)土葬が一般的であった。死者は盛装し、男は武器と、女は宝石と一緒に埋葬された。他の副葬品で多かったのは馬で、アイスランド産のポニーはなかなかよく繁殖していたことから死後の道連れとして好まれたようである。
 
   アルシングの開催と「自由国」   目次に戻る

 アイスランドの総面積のうち牧畜が可能なのは1パーセント程度しかないので、植民が始まってから60年ほどが過ぎた西暦930年頃には一通りの開拓が終了した。しかしその頃はグループ間の揉め事が発生しても、それを裁く全島共通の法律といったものが存在しなかった。そこで全島のゴジたちが一堂に会して開催したのが「アルシング(全島集会)」である。これは「ヨーロッパ最古の議会」とされている。

 アルシングは毎年6月下旬から2週間に渡って開催され、アイスランド各地に居住する総勢36人のゴジがそれぞれ自分の統率下にある自由民9人のうち1人をつれてレイキャヴィク東方のシングベリール(会議原)に集合、法の制定や裁判、外国との条約の作成を行うというものであった。ゴジと一緒に出席する自由民はそれぞれの自宅からシングベリールまで旅をするのに必要な馬と食糧を自弁する必要があったが、そのかわり引率のゴジから「出席手当て」を支給され、シングベリールでの宿泊施設もゴジに用意してもらっていた。第1回アルシングの開催に尽力したウルフリョットという人物は皆から多額の謝礼を申し出られたが、彼はその金をシングベリールに建設する神殿の費用にあてたという。

 ゴジがアルシングの期日に遅れたら罰金、3日以上遅れるとゴジ身分を剥奪されることもあった。そこで行う裁判は穏便にすむとは限らず、紛糾のあまり乱闘さわぎに至ったこともあったというが、同時に(1年に1回だけしかない全島あげての大きな行事なので)社交や娯楽の場でもあった。

 アルシングの議長役である「法の語り手」は任期3年、その役目は法を暗記・朗唱することであってアルシングの外では権力を持たない。アイスランドの法は長い間暗記のみによって伝えられており、成文化されたのは1118年のことであった。アルシングの下には東西南北の4つの「地区集会」があり、それらの下には3つか4つの「地域集会」が存在した。地域集会には3人のゴジが集まって訴訟ごとやその地域のみに通用する法律の制定を行い、そこで処理出来ない案件は地区集会で、そこでも処理出来ない場合はアルシングに持ち込むことになっていた。で、面白いことに、それらの各級機関の裁判で下される判決を執行する公的機関は存在しなかった。では誰が執行するのかというと、原告もしくは利害関係者が自分でやることになっていた。判決で決まる刑罰は罰金か追放で、追放は「軽」と「重」の2種があり、前者はアイスランド島外への3年間の追放、後者は島から出て行くために誰かに協力してもらうことすら許されず、殺されても文句は言えなかった。

 既に述べた通りアイスランドの人々は国王のような存在を必要とせず、執行機関がないということはつまり中央政府に相当するものも存在しなかった。基本的に、「ゴジ」の名を冠せられた数十人の豪族たちがアルシングを通じて利害を調整しながら島の治安を保っていたのである。後世の歴史家曰く「彼らは王をいだかず。ただ法のみを有す」。アイスランド史にいう「自由国」の時代である。

 ゴジ身分は固定しておらず、一般の自由民でも努力すればゴジになれたし、自分の所属するゴジを選ぶことも(1年に1回だけ)可能であった(逆に、ゴジの方で自分に所属する自由民を追放することも可)。アルシング体制下ではゴジの定員は決まっており(36〜48人)、ゴジ職の売買・贈与も可能、複数人で1つのゴジ職をつとめることも出来た。

 1人のゴジが統括するグループを「ゴゾルズ」と呼び、そこに属する自由民たちは自前の武器をもって自分で自分の身を守っていた。何か揉め事が起こった場合は裁判で相手の処分を決め、しかる後に自力でこれに制裁を加えたのである。もちろんその場合は自分の所属するゴジ等の私的な助力を得ることもあり、ゴジは自由民たちにそのような保護を与え得る実力を備えることによって「アルシング体制」の中で重きをなすことが出来たのであった。

 それから、誰かが損害を被った場合、被害者の血縁の者は加害者に対して復讐を行わなければならない(殺さなければならない)という社会的な義務が存在した。正確には「義務」というより、基本的に自分でやらなきゃ誰もやってくれない(一族血縁の利害を守れない)ということである。これは「血讐」と呼ばれ、場合によっては何十年もかけて果たすこともあった。

   グリーンランド植民   目次に戻る

 アイスランドの西290キロに位置する世界最大の島「グリーンランド」を発見した「赤毛のエイリークル」は、アイスランドで殺人の罪を犯し、アルシングから軽追放の宣告を受けた人物であった。彼はグンビョルンという男が以前たまたま暴風に吹き流されて漂着したという未知の岩礁の話を聞き、追放中はそこで暮らそうと981年にアイスランドを出帆、問題の岩礁は荒涼としていたことから上陸を断念したが、そのかわりに未知の島「グリーンランド」を発見したのである。実はエイリークルの父親も殺人に関係したためにノルウェーからアイスランドに逃れてきたという人物であったが、その時点(10世紀の中頃か?)では既にアイスランドの開拓はほぼ終了していたために大した土地が得られず、島外に新たな入植地を探したいと思っていたという事情もあったようである。

 ともあれグリーンランドにやってきたエイリークルはそれから3年に渡って島の各地を探検、追放の期限が終わってからアイスランドに戻って仲間を募り、25隻の船団を引き連れて改めて恒久植民事業に乗り出した。「グリーンランド」という地名は彼の命名によるもので、「緑の島」という魅力的な名前を付けておけば入植希望者がたくさん集まると考えたのだという。まぁ実際には島の大半は氷河と万年雪に覆われているのだが、南部のごく一部のフィヨルドの奥には確かに緑が広がっており、9〜13世紀頃の気候は現在よりもやや温暖であった。(それでもアイスランドよりは寒冷であった)

 アイスランドがもともと無人島だったのと異なり、グリーンランドには「ドーセット」と呼ばれる先住民がずっと昔から住んでいたことが考古学的に明らかになっているのだが、エイリークルは住居や小舟の残骸を見つけただけで人間には会わなかった。ドーセットは主にグリーランドの北部地域に住んでいたらしく、南部に住み着いたエイリークルとその仲間たちの子孫はそれから100年以上のあいだ(グリーンランド島内では)自分たち以外の人種に遭遇しなかった。

   中世グリーンランドの社会と経済   目次に戻る

 話をエイリークルの25隻の船団に戻す。この船団ではどの船も荷物を積みすぎていたことから脱落船が続出し、グリーンランド南端の居住可能地域「東部入植地」に辿り着いたのは14隻だけであった。しかしその後に新たに入植する者もおり、東部入植地とその480キロ北の「西部入植地」の人口は最終的には3000〜5000人ほどになった(註5)。エイリークルの住居(らしき遺跡)は後に発掘されており、他にもアイスランドのそれと同じ様式の屋敷の遺跡が330ほど確認されている。政治体制は、少数の豪族によるゆるやかな連合体で、その点はアイスランドと同じであったが、気候がアイスランドより厳しかった(一致協力しなければ生きて行けない)せいで締め付けの厳しい社会であったという。

註5 現在のグリーンランド全体の総人口は約5万6000人。


 産業は、麦の栽培と、羊・山羊・牛の飼育、狩猟、漁労であった。最初は豚も飼っていたが、気候風土に全く向いていなかったので諦めた。牛の飼育もなかなか困難であったが、ヴァイキングにとって「牛を飼う」というのはステータス・シンボルだったので無理して飼い続けた。考古学の調査で発掘された牛は肩の高さが1メートル強しかなく、これは世界で最も貧弱な部類であるという。グリーンランドはただでさえ(アイスランド以上に)植生が貧弱だったのに、その乏しい森林を切り払って牧草地にしてしまい、その牧草も一度家畜に喰われてしまうとなかなか再生しないため、島の環境にとっても家畜の健康にとっても牧畜というのはあまりよい生活スタイルではなかったようである。麦は、気候的に栽培条件ぎりぎりで、非常な贅沢品だったらしく、大半の住民は一生涯パンもビールも目にしなかったという。狩猟の対象となったのは、食用としてはシンリントナカイとアザラシ、それから野兎や海鳥であり、特に貧しい階層の人々はアザラシの肉に頼って生きていた。

 しかし、何故か魚類は殆ど食べなかったらしい。アイスランドではかなり食べていたのだが、別に魚類がいない訳では決してない(むしろ豊富な)グリーンランドでそれを食べた形跡が乏しい(ゴミ捨て場の遺跡からほとんど出土しない)のは大きな謎である。食用以外のための狩猟としては、セイウチや北極熊の牙や毛皮、シロハヤブサといった珍しい動物が狙われ、これらははるばるヨーロッパの市場へと輸出された。特に高値がついたのは一角クジラの牙で、ヨーロッパではこの品は「一角獣(註6)の角」と呼ばれて特別な解毒効果を持つと吹聴され、大きなものなら現在の価格で3〜10万ポンドほどの値がつけられて王侯たちの間で取引されたという。また、セイウチの牙は工芸品の材料として重宝された。もともとヨーロッパではアフリカ産の象牙が工芸品に使われていたのだが、8世紀以降にイスラム教徒がアフリカ大陸北岸から中東にかけての地域を制圧してしまったせいで象牙の供給が断たれてしまい、その代替品としてセイウチが求められたのであった。

註6 馬の胴体・鹿の頭・象の足・猪の尾を持つといわれる空想上の動物。


 貿易は、初期はグリーンランド住民が所有する船舶を用いて行うこともあったのだが、島の森林資源(船の建材)が乏しかったために自前の船(大西洋を渡れるような大型船)を維持出来なくなり、やがてノルウェーからやってくる船舶に頼るようになった。それもせいぜい1年に1隻か2隻(あるいはそれ以下)であったといい、そんなごくわずかの船便で木材、鉄、タール、絹、銀器、陶器、ステンドグラス、装身具等を輸入していた。鉄というのは……、グリーンランドにも鉄鉱資源(具体的には沼鉄鉱)があることはあったのだが、鉄鉱から鉄を抽出する際に必要な木炭が不足していたため、輸入に頼らざるを得なかったのである。(輸入品だけでは需要を満たせないため、木製の釘を作ったりした。アイスランド島民も自前の大型船を維持するのが困難だったのでノルウェーからの交易船に依存していたが、距離的にノルウェーに近いせいかグリーンランドほどには鉄不足にならなかった)

   北アメリカ到達   目次に戻る

 赤毛のエイリークルの息子「幸運なレイフ」は北アメリカ(という地名はまだないが)に到達したことで知られている。彼は父親とは別居してノルウェーに住んでいたのだが、そこから35名の仲間とともに船でグリーンランドに行こうとしたのが間違えてアメリカについてしまったのであった。彼等が最初に目にした土地は岩地しか見えない氷河の島だったので「ヘルランド(岩の島)」と名付けて通り過ぎ、その次に平らな森林地を見つけたので「マルクランド(森の地)」と命名、そこからさらに2日間南下したところで今度は緑の草が生い茂った土地に行き着いた。レイフたちはそこで越冬の準備をするが、やがて野生の麦や葡萄(のようなもの)を発見して大喜びした。彼等はそれを船に積み込んで翌日出帆、改めてグリーンランドに行ってその話を触れ回った。新発見の土地は「ヴィンランド(葡萄の国)」と呼ばれることになった。もっとも葡萄云々はキリスト教の聖書にあるエピソードに絡めた後世の創作であってヴィンランドとは「牧草地」や「草の茂った水辺の低湿地」を意味するともいう。また、一説によればヴィンランドを発見したのはレイフではなくビャルドニ・ヘルヨルフソンという人物で、彼はアイスランドからグリーンランドに行こうとしたところを風に吹き流されてヴィンランドに行き着いたのだという。その説によれば彼はヴィンランドには上陸せずに帰国し、その話を聞いたレイフが探検に乗り出したのだという。なんにせよ、ヴィンランドはグリーンランドとは比較にならない豊穣な土地であった。

 続いて1001年頃、レイフの兄のトルステンと父のエイリークルが20名からなる遠征隊を組織して改めてアメリカに向かったが、嵐や潮流に阻まれてうまく行かなかった。さらに続いてトルハルとトルフィンという2人の人物が140名の遠征隊を率いてアメリカに旅立った。遠征隊はアメリカに着いてしばらく経ってからトルハルとトルフィンの意見の食い違いで二手に別れ、トルハル隊は船に乗っていたところを風に吹き流されて大西洋の反対側のアイルランドに漂着、そこで殺された(らしい)。トルフィン隊は素晴らしい漁場に行き着いて定住を開始、さらに原住民(つまりインディアン)と接触、平和的な交易をすることが出来た。ところがそれから3週間の後、理由は不明だが原住民との戦闘が発生し、これには何とか勝利したものの次の攻撃を避けるために居住地を北に移すことにした。原住民との戦いで腹を負傷したトールヴァントという人物は「ここはわれらの見つけた豊かな地だ。わが腹には豊かな脂肪がついている。われらはすぐれた資源に満ちた土地を見つけた。だが、その多くを享受することはできそうにもない……」と語って息絶えたという。トルフィン隊はそれからひと冬を過ごすが次第に志気をなくし、グリーンランドやアイスランドから遠過ぎて援軍を呼ぶのも覚束ないために結局は撤収を決意した。ちなみに彼等は原住民のことを「スクレーリング」と呼んだが、これは「愚劣な民」という意味である。

 と、そんな訳でトルフィンの冒険は失敗に終わったが、アメリカに出向く者が完全に途絶えた訳ではなかった。1121年にグリーンランド在住のキリスト教の宣教師がアメリカを訪れたという記録があり、グリーンランドの住民が木材を調達するために入植していたという説もある。1960年代にカナダのニューファンドランド島でヴァイキングの遺跡らしきものが発掘され、そこの住民たちは現在のニューヨークのあたりにまで足を伸ばしていたのではないかとも考えられている。ニューファンドランド島の遺跡では80人を収容出来る建物が3棟、鍛冶場が1棟、大工の仕事場が1棟、船の修繕場が3棟、折れた鉄釘99本、まともな鉄釘1本、青銅の針1本、編み針1本、紡錘1本、砥石1個、ガラス玉1個が発見されている。

   キリスト教の伝来   目次に戻る

 ここで時間を遡り、話の舞台をアイスランドに戻す。10世紀の後半、「キリスト教」が伝来してきた。ヴァイキングの故郷である北欧の諸地域にキリスト教が伝わったのはかなり遅い時期で、たとえばノルウェー王がキリスト教徒になったのはやっと10世紀の中頃であった(註7)。それ以前はいわゆる北欧神話の世界(ここでは「異教」と表記する)に生きていたのである。アイスランドのゴジは各々に異教の神(オーディンやトール)をまつる神殿を営み、その宗教的権威を自由民を統率するためのひとつの道具としていたらしい。アイスランドに最初にキリスト教をもたらしたのはとあるゴジの息子であったトルワルドという人物で、イギリス方面に出向いた時に改宗し、聖職者をつれて帰ってきたのであった。彼の教えを受け入れたトルワルドという人物(同名の別人)がアイスランド初の教会を建設したのが984年頃である。トルワルドはアルシングに出席してその席でもキリスト教を布教しようとしたが、異教の徒に悪口を吐かれたためにこれを斬り殺すという騒ぎを起こし、裁判で追放を宣告されてしまった。

註7 この時代の「ノルウェー王」というのは実際にはノルウェー全土を支配していた訳ではなく名目的な存在であって、実際には諸地域が自立していた。11世紀の前半には隣国のデンマーク王クヌートが強大化し、彼1人でデンマークとノルウェー、さらにイギリスの国王を兼任する勢いを見せたが、この「北海帝国」は彼の死後あっさり瓦解、3国はまたバラバラになった。


 次に、ノルウェー王オーラブ・トリグヴェソンが宣教師を送り込んできた。最初に来島したステヴンという宣教師はしかしたちまち追放され、次に来島したタングブランドがようやく布教活動を軌道にのせた。タングブランドは以前、聖職者でありながら海賊活動に精を出したという罪でノルウェー王に処罰されかけたが、「自分に何か困難な仕事をあてがって欲しい。それを仕上げてお詫びしたい」と申し述べてアイスランド布教を命じられたのである。タングブランドは異教徒との小規模な衝突を繰り返しながら(常に勝ったという)も改宗者を増やし、ノルウェー王の方は自国の港に商売にやって来るアイスランド島民を抑留して無理矢理改宗させようとしたりした。

 ノルウェー側のこのような動きに対し、アイスランド側ではキリスト教を受け入れるか拒絶するかで議論が沸騰した。もはや大規模な戦争の一歩手前である。そして999年のアルシングにおいて、異教徒側から「法の語り手(議長)」に選ばれたトルゲイルという人物が熟慮の末、島の安定を守るために全島をあげてキリスト教に改宗するが、個人的にこっそり異教の神をまつるのは黙認する、という決定をくだした。トルゲイル曰く「勝手に振る舞うことをひたすら望む者たちに支配権を与える代わりに、誰もがこれらの問題で間尺に合った勝利を得られるような妥協を見い出し、そうしてあらゆる者に一つの法と一つの信仰とをもたせる。私はそれが政治だと考えている。このことは、われわれが法を犯し、平和をも乱した場合に真実だと分かるだろう」。アルシングに出席した人々はこの決定を受け入れ、それぞれの家に帰る前に洗礼を受けていった。ただ、この場で改宗した人もそれ以前から改宗していた人も、キリスト教の教義を聞いて納得したから洗礼を受けたという訳では別になく、トルゲイルが述べているような政治的配慮や、タングブランドのような聖職者の個人的な武勇に惚れ込んだり、キリスト教の儀式や法衣の美麗さに痺れたから、というのが改宗の主たる理由であったという。

 1056年には全島を宗教的に統括する「アイスランド司教」が誕生した。ただし1人の司教で島の全てを仕切るのは面倒だったため、1126年以降は2人の司教が置かれることになり、片方は南部のスカウルホルト、片方は北部のホーラルに所在することになった。その頃の島の人口は4〜5万と推定されている。ゴジがゴゾルズの自由民を統括する社会体制はキリスト教化の後も存続しており、それどころかそのゴジがキリスト教の教会を建てて(私有して)、さらに司祭をつとめたりしたため、キリスト教化はむしろゴジたちの権威を強化する方向へと働いたのであった。

   アイスランドの社会と文化   目次に戻る

 異教的な伝統はその後もなかなか消滅しなかった。たとえば学問の世界では普通はラテン語が使われるのだが、アイスランドにおいてはヴァイキングが使っていた言語も並行して用いられた。彼等の故郷のノルウェーの言語は時代とともに大きく変化していくのだが、祖先伝来の言語をそのまま使い続けたアイスランド島民は自分たちの言語を「アイスランド語」と呼んでノルウェーの言葉と区別するようになったという。(以後、アイスランド語を母語とする人のことを「アイスランド人」と表記する)

 そのアイスランド語で書かれた散文の物語文学が「サガ」である。アイスランド人のそもそもの故郷であるノルウェーの国王たちの事跡を描いた「王のサガ」、アイスランド植民以前の時代に活躍したとされる北欧の伝説の英雄たちを描いた「古代のサガ」、教会と聖職者の事績を描いた「司教のサガ」、そして一般の島民の伝記や彼等の起こした事件、家系や地域の年代記を描いた「アイスランド人のサガ」といった種類があり、約200編が現存していて、この時代の北欧文学の代表格とされている。特に注目すべきは「古代のサガ」で、ヨーロッパの他の地域ではキリスト教の浸透とともにそのような異教的な神話伝説は忘れられていったのに、アイスランドでは例外的にまとまった形で後世に伝えられたのであった。

 次に産業について述べると……、現在の我々のイメージでは「ヴァイキング」といえば「船乗り」だが、アイスランドの産業の基幹はあくまで牧畜中心の農業であって漁業は副業的なものであり、漁業のみで生計をたてることは歓迎されなかった(註8)。そもそもヴァイキングのアイデンティティの主たる拠り所(文化の根底)は実は「自分は農民である」という意識にあった(註9)し、上の方でも説明したようにアイスランドという島は森林資源が乏しいので、仮に漁業に励みたいと思ってもそんなにたくさんの船を建造することが出来なかったのである。

註8 現在のアイスランド共和国は水産及び水産加工業に依存する漁業立国である(他の産業としては地熱や火力を用いたアルミ精錬が盛ん)。

註9 自由民はイコール農民であった。この時代は農民階級と戦士階級が分離していなかったのである。


 ゴジの下に自由民・奉公人・奴隷という階層があったことも既に述べた通りだが、自由民には自分の農場を持つ「自営農」と、その農場に年契約で同居する「借地農」の2種がおり、どちらも武装・自衛していた。奉公人というのは年契約ではなく日雇いで働く人である。

 居住形態は、10〜30人の構成員を持つ農場が島の各地にてんでバラバラに散らばっているだけで、都市は存在しなかった。本稿の最初の方で述べた、現在のアイスランド共和国の首都の起源となったレイキャヴィクも別に町ではなかった。ここは18世紀に毛織物工場が設置されてから都市化したのである(詳しくは後述)。

   自由国の終焉   目次に戻る

 12世紀の後半、一部のゴジが有力化し、1人で複数のゴゾルズを掌握するようになってきた。もともとゴジ職は売り買い出来るものであったし、ゴゾルズを親から相続しても維持する意思や能力がない者もいた。やがてはアイスランドは5つの「氏族」に属する8人の「大ゴジ」によって支配されるようになる。大ゴジたちは闘争を繰り返したが、13世紀の前半、アイスランド西部に住むストゥルドルング氏族のスノッリという大ゴジが目立って強大となった。

 1218年にノルウェー王ホーコン4世の宮廷を訪問したスノッリは、その時たまたま(アイスランドの)他の大ゴジとノルウェー商人が揉めていたのを調停することになった。スノッリは帰国するにあたってホーコン4世に臣従の誓いをたて、ホーコン4世の最高顧問官に任命された。スノッリは詩の才能があり、その名声はノルウェーにも鳴り響いていた。ホーコン4世はスノッリを使ってアイスランド全島をノルウェーの支配下に置く考えでいた。ノルウェーではここ100年以上に渡って激しい戦乱が続いていたが、それを収拾したホーコン4世が国内の行政機構を整備しつつ海外へと躍進したがっていたのである。

 調停は成功した。優れた法律家でもあったスノッリは1222年にはアルシングの「法の語り手」に選出され、文筆においてはサガの最大長篇である『ヘイムスクリングラ』を著した。彼はさらに政略結婚を通じて勢力の拡大を押し進めていくが、自分の権勢のためには親族に対しても厳格に接したことから敵の数が増えていった。しかも彼は、ホーコン4世が期待していた(アイスランド全土をノルウェーの支配下に置く)ような働きはしなかった。苛ついたホーコン4世は、たまたまスノッリの次男ウレキャとその従兄弟のストゥルドラが喧嘩したのに目をつけ、後者を使嗾してスノッリに戦いを挑ませた。敗れたスノッリはホーコン4世の宮廷に出頭させられ、そのまま抑留された。

 ストゥルドラはホーコン4世の見込みどおり、他の大ゴジたちに戦争を仕掛けてノルウェーに臣従を誓わせようとした。しかし彼は38年の「オルリィフススタジルの戦い」に敗れて命を落としてしまう。ちなみにこの時ストゥルドラが率いた軍勢は数百〜1000人、相手の軍勢は1700人であったという。この話を聞いたスノッリはノルウェーを脱出してアイスランドに舞い戻り、以前の勢力をほぼ取り戻すことに成功した。怒ったホーコン4世はギゾールという大ゴジを使ってスノッリを捕えようとした。ギゾールはもともとスノッリの娘婿であったが、揉め事を起こして離別していた。そして41年9月、スノッリはギゾールの部下によって斬殺された。ホーコン4世はスノッリの文才を高く評価しており、このような結末に至ったことを深く悔やんだという。

 その後のギゾールはホーコン4世の命を受け、64年までかけて各地の大ゴジを個々に説得してホーコン4世に忠誠を誓わせる(貢納の義務を負わせる)ことに成功した。ノルウェーによるアイスランド領有を認める「古き協定」の成立である。これまでのように近隣の大ゴジ同士で競り合っている状態では揉め事の種が尽きない(そのことに大ゴジたちは疲れていた)が、遠いところにいる王様ならばアイスランド人に危害を加えることは少ない(それにアイスランド人にとってノルウェーは故郷であり文化的に近い)だろうという訳である。また、そもそもアイスランドはノルウェーとの交易なしでは経済的に成り立たなかったし、この動きにはキリスト教会の動向も絡んでいた。アイスランドの2人の司教はノルウェー西部のニダロス大司教の管轄にあり、そのパイプを通じてノルウェー王の意志が入りやすいようになっていた。アイスランドの側で自前の大司教を持つことも不可能ではなかったのだが、そうするとその大司教が強大な権力を持って大ゴジたちを抑圧するという可能性が考えられたため、そんなことになるぐらいなら遠い外国にいる大司教に従った方がいいと思えたのだという。

 と、このようにして「アイスランド自由国」はその歴史の幕を閉じた。ノルウェーからは「総督」が派遣され、その下に「法務官」「地域行政官」といった官職が新設された。ただし、総督以外の職はどれもアイスランド人が独占したし、アルシングも存続した。ノルウェー王の発する法律はアイスランドにおいては基本的にアルシングの承認なしには適用されないということになった。

   グリーンランド入植地の消滅   目次に戻る

 グリーンランドにおけるキリスト教の布教は、最初の入植者エイリークルの息子であり最初の北アメリカ上陸者である「幸運なレイフ」が始めたものである。実は彼はノルウェー王にグリーンランド宣教を命じられてそちらに向かおうとしたのに間違えて北アメリカに着いてしまったのだという。北アメリカからグリーンランドに渡ったレイフは、父の理解は得られなかったが母のテョーヒルを改宗させ、数年後には教会14と修道院をいくつか建設するに至った。1126年には「グリーンランド司教」が設置される。

 しかし、その頃のグリーンランドの気候はかなり温暖で(南部の一部地域では)青々とした牧草地が広がっていたのだが、13世紀に入る頃から徐々に寒冷化が進行し、牧畜や農耕が難しくなってきた。そして1261年、というからノルウェー王ホーコン4世がアイスランド領有を完成する直前、グリーンランドもまたホーコン4世による領有が宣言された。島の人々は年間2隻の船を送ってもらう(先にも述べたがそれまでの交易船はもっと少なかった)のと引き換えにこの宣言を受け入れたが、結果的に交易権を奪われることになった。

 同時期にはカナダ方面から「イヌイット(ドーセットとは別派と思われる黄色人種)」が流入してきた。これと接触した白人たちは、その狩猟技術の巧みさに刺激されたのか、それまであまり足を踏み入れなかったグリーンランド北部へと遠征した。白人たちの築いた北欧風の石塚や、彼らの文字(北欧から持ってきたルーン文字)を刻んだ石が北極圏の奥深くで発見されている(最北で北緯79度)。しかし北方への遠征はさしたる成果をもたらさなかったらしく、気候もますます厳しくなっていった。イヌイットの襲撃を受けたという記録もあり、もともと鉄の不足に悩んでいた(鉄製の武器がなかったらしい)白人たちは厳しい戦いを強いられたようである。それ以前に、イヌイットと白人とでは寒冷地で生活するためのスキルが段違いであったのだが、そういったイヌイットの技術を白人たちが導入したという形跡はない。両者の文化があまりに違いすぎたからともいうし、キリスト教徒である白人が「異教徒」イヌイットを根本的に見下していたからともいう。

 1350年頃に西部入植地を訪れたイバール・ボールソン(東部入植地在住の聖職者)は、そこに誰の姿も見いだすことが出来なかった。その理由について、当時ノルウェーを襲っていたペストが交易船で運ばれてきたという説や、北アメリカに引っ越したという説がなされている。考古学の調査によれば西部入植地の末期の遺跡には人骨はないが貴重品がたくさん残っており、つまり最後はかなり慌ただしく引っ越したか、もしくは全員そこで死んだ(その場合は後で東部入植地の人間が遺体を別の場所に埋葬したと思われる)かのどちらかで、少なくともきちんと準備した上で(貴重品をまとめて)引き払った訳ではなさそうである。末期の遺跡からは、白人なら普段は食べない小鳥や犬の骨も出土しており、よほど飢えていたと考えられる。

 東部入植地はその後も生き続けた。こちらは西部と比べて規模が大きく、自然環境もまだマシであったのだが、そのうちに海賊に襲われるようになってきた。ヴァイキングの子孫たちはもはやこの脅威に対抗するだけの力がなく、増える一方のイヌイットには猟場を浸食された。また、グリーンランドの主産品の1つであったセイウチの牙が売れなくなってきた。何故ならば、「十字軍」が中東へと遠征したことによってアフリカ産の象牙が再びヨーロッパに流入するようになり、セイウチ牙を市場から駆逐してしまったからである。

 14世紀の半ば、ノルウェー本国は「黒死病」の大流行に見舞われ、人口が半減した。そのせいかどうか、1378年頃に死んだグリーンランド司教の後任は(ここの歴代の司教は全員本国から派遣されていたにもかかわらず)いつまで経っても派遣されて来なかった。

 その頃の北欧ではデンマークが勢いを伸ばしつつあった。デンマークの王家は13世紀後半に王位継承問題で揉めたために深刻な財政難に陥り、領地のほとんどを借金の担保にいれてしまうという有り様であったが、1340年に即位したヴァルデマー4世が強力な税制改革と戦争・外交によって王家を立て直し、さらに折からの黒死病の流行で政敵の多くが倒れたおかげで勢力を伸長することに成功したのである。しかし当時のバルト海沿岸地方ではドイツ北部の都市の経済連合体「ハンザ同盟」が躍進していて北欧にも著しく進出しつつあり、その圧力(傭兵からなる強力な軍隊を有していた)の前にヴァルデマー4世も屈服を余儀なくされてしまう。そして彼は1375年に亡くなり、孫のオーロフ3世が即位する訳なのだが、そのオーロフの母親、つまりヴァルデマー4世の娘のマルグレーテというのがなかなかの女傑で、1397年には彼女の肝いりによってデンマーク・ノルウェー・スウェーデン3国の連合体「カルマル同盟」が結成されるに至る。3国のうちスウェーデンは16世紀前半には離脱するのだが、ノルウェーは(もともと3国の中で一番人口が少なかったのに加えて)黒死病の打撃が酷すぎたせいもあってすっかりデンマークに従属する立場になってしまった。カルマル同盟は弱体のノルウェーを軽んじ、儲けにならなくなってきたグリーンランドに交易船を送る気が薄れてしまった。

 文献記録に残っている中世グリーンランドの最後の出来事は1408年にバルスレー教会というところで行われた結婚式である。新郎はノルウェーからやってきた交易船の船長、新婦は地元の娘であった。その頃の気候は「小氷河期」と呼ばれる厳しい寒期に突入しており、1450〜1500年頃には流氷が増えたこともあってグリーンランドと他の地域の連絡は全く途絶してしまった。

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