第3部その3

   

   内戦   目次に戻る

 この年秋、エジプトのイギリス軍からギリシアの抵抗組織に緊急を要する要請がなされた。この頃北アフリカのリビアに展開していたドイツ軍の補給は主にギリシア経由でなされていたのだが、そのギリシアを貫く鉄道の橋を破壊することによってドイツ軍の補給路を寸断しようとの作戦である。

 かくして9月末、イギリス落下傘兵1個小隊がギリシアに降下して現地の抵抗勢力と連絡をとり、11月25〜6日にかけての夜にゴルゴポタモス鉄橋を破壊した。これにはギリシア人ゲリラ約150人も参加しており、大戦中のレジスタンス(抵抗)活動でも最大の偉業のひとつとされている。この大勝利に刺激され、EAM以外のレジスタンス組織も本格的な活動を始めたが、それらとEAMとの関係は甚だしく不良であった。まず41年秋の段階でアテネの旧政党関係者が結成した「民主ギリシア国民連合(EDES)」。この組織は既にゴルゴポタモス鉄橋爆破作戦にてEAMと協力していた。さらに社会民主主義を奉じて後に共産主義者に暗殺されるプサロス大佐の「国民社会解放同盟(EKKA)」等が存在していたが、ギリシア人大衆の支持は圧倒的にEAMに集まったため、EAMの軍事組織ELASが43年夏の段階で2万人を数えたのに対してEDESの兵力は約5000人、EKKAに至っては数百人程度であった(バルカン現代史)。ただし、前述したとおり、お互いに仲の悪いこれらの組織は国王に不信感を抱いているという点では一致していた。

 43年8月、EAM・EDES・EKKAの合同代表団がエジプトのカイロを極秘裡に訪問し、ギリシア亡命政府とイギリス当局に対し、自分たちの代表を亡命政府の閣僚として迎え入れてくれるよう要求した。答えは「否」、いや、検討すらしてもらえなかった。イギリスがもっとも苦しい戦いを強いられた41年1月の段階において、積極的な同盟国はギリシア一国のみであったことから、チャーチル英首相はその亡命政府のみを強く信頼していた(ギリシャ近現代史)。しかもチャーチルは、国王ゲオルギオス2世がギリシア人の強い忠誠を受けていると信じていた(近代ギリシァ史)のである。

 このチャーチルの考えは道義としては間違っていなかったが、しかし現実分析の上に成り立ったものではなかった。EAMの強硬派は、来るべきギリシア解放の暁にはイギリスは(ギリシア人が望んでもいない)国王政府を押し付けてくると判断し、ならば今のうちにギリシア国内の政治勢力をEAM一色に染める必要があると考えた(前掲書)。そのためにはEDESやEKKAが邪魔である。既にこの年4月、EDESの軍事組織の指揮官ゼルヴァス大佐が国王に対し好意的な電報を贈っていた。本来熱心な共和派であったゼルヴァスはこの頃には「共産主義より王制の方がより害が少ないのではないのか」と考えるに至っていた(註1)のである。

 註1 そう考えるに至った過程は資料がなかった。

 そして10月、EAMは「ドイツ軍に協力した」との容疑のもとに他のレジスタンス組織への武力攻撃を開始し、レジスタンス内部での内戦という異常事態(註2)をひき起こした。これに対しイギリスはEDES・EKKAに全面的に肩入れしたが、この直前にイタリアが降伏した(註3)ことからギリシア駐留イタリア軍の装備がEAMの手に渡ってしまい、その優勢は揺るぎないものとなった。一方のドイツ軍は「共産主義への恐怖」を煽って右翼的なギリシア人を傀儡組織「治安大隊」に組織しようとした。ドイツ軍はEAMとEDES双方に「敵はドイツ軍と通じている」との情報を流したが、これが嘘であるという保証はどこにもなかった(近代ギリシァ史)。 翌44年2月、困難な交渉の末に停戦が実現した(註4)

 註2 しかし、ギリシア独立戦争でも見られたとおり、かような事態の発生率はかなり高いものである。これはある程度仕方のない話ではあるが‥‥。

 註3 連合軍の南イタリア上陸を受け、ムッソリーニ政権が倒壊したのが7月25日、新政府が連合国との休戦協定を結んだのが9月3日である。しかしイタリア北部にはドイツ軍が迅速に展開してきてあいかわらず戦闘が継続された。ギリシアにはイタリア軍数十万が展開しており、その多くは昨日まで味方だったドイツ軍の攻撃を受けた。

 註4 これはアメリカ・イギリスの調停によるものである。両国の思惑は手許の資料にないが、軍事的に優勢なEAMが他を圧倒してしまう前に終わらせようとしたのであろう。

   

   レバノン協定   目次に戻る

 3月、EAMは支配下の山岳地帯にて「民族解放暫定委員会(PEEA)」を設立した。4月、エジプトにて亡命政府所属のギリシア人部隊の一部がPEEA承認を要求する反乱を起こした。亡命政府ではツデロス首相が辞職し、あの高名な政治家の息子であるソフォクリス・ヴェニゼロスが組閣しようとしたがこれも何も出来ず数日で辞任、次にゲオルギオス・パパンドレウーが就任し、イギリス軍に反乱軍を鎮圧する承認を与えた(すぐに鎮圧した)。さすがにこの事態には大衝撃を受けた亡命政府とイギリスはそれまでの政策の根本的見直しをはかり、EAM及びその他の抵抗勢力、そして亡命政府を統合する工作に乗り出すことにした。パパンドレウーは本来ヴェニゼロス派だが30年代から独自の党派を率い、メタクサス時代の国外退去を経てつい最近エジプトについたばかりであった。

 会議は中東のレバノンにて行われた。EAM代表団は自分たちこそが抵抗活動の主力をつとめてきたのだから「民族統一戦線内閣」の閣僚の半数はEAMが占めるべきと唱え、亡命政府とイギリスは閣僚メンバーは各勢力を代表するべきことを主張した。5月、EAM代表団が妥協し、閣僚ポスト15のうち5つのみで満足するとの「レバノン協定」を受け入れた。しかし本国のEAM本部はこの決定を却下した。

 ところが……8月、EAM指導部が豹変し、「レバノン協定」の受け入れを表明した。実はこの頃、イギリスとソ連によって東欧の勢力圏取り決めに関する極秘交渉が進められており、ギリシアはイギリスの勢力下に置くことが決定しつつあった。同じように共産党系対独抵抗組織と亡命政府が競り合っていたユーゴスラヴィアにおいては、イギリスは共産党を支持するという、ギリシアとはまるで逆の立場をとったのだが、それは実はギリシアに関するソ連の妥協を引き出すためのものであった(バルカン史)。チャーチル英首相にいわせれば「我々はギリシアにおける行動の自由を得るためにロシアに対して代償を支払った(ユーゴ共産党を認めてやった)のであるから、ギリシア王国政府(国王政府)を支持することに躊躇すべきではない」となるのである。

 東欧諸国において、ギリシアはイギリス90%、ルーマニアはソ連90%、ユーゴスラヴィアは5分5分の支配力を持つとの「パーセンテージ協定」が決められたのはこの年10月のことだが、今回のEAM(それを主導するギリシア共産党)の妥協がソ連の指導によるものであることは確実と見られており、これまで(39〜44年)のギリシア共産党の路線(他の組織への攻撃といったこと)がソ連の意向と無関係だったことも明らかになっている(ギリシアを知る事典)。また、イギリスはギリシアでの発言権をさらに拡大するため、アメリカの反対を押し切ってさらにブルガリアにおけるソ連の優先権を認めることまでした(バルカン史)。(パーセンテージ協定でもブルガリアにおけるソ連の発言権は75%)

 9月、ドイツ軍が戦線縮小のための撤収を始め、11月4日には島嶼部の一部を除く全ギリシアからドイツ兵の姿が消え去った。ギリシア解放はほぼ無血で実現した。イギリス軍が上陸したのが10月4日、パパンドレウー率いる亡命政府(「民族統一戦線内閣」はまだ出来ていない)がイギリス軍の小部隊に付き添われてアテネに帰還したのが18日である。この到着は最初の見積もりよりわざと24時間遅らせてのものだった。この前日の「火曜日」は1453年にビザンティン帝国の都コンスタンティノープルが陥落した、ギリシア人にとって縁起の悪い曜日だったのである。

   

   再び内戦   目次に戻る

 つかの間の解放の喜び。そして破綻がやってくる。民族統一戦線内閣には協定どおり5人のEAM代表が入閣したが、これは国内の政治情勢を反映するものでは全くなかった。EAMが都市部ではやや弱体ながらも地方で31.5州に広がる解放区を握っていたのに対し、それ以外、例えばEDESの支配地域はたったの1.5州にすぎなかった。12月1日、在ギリシア連合軍最高司令官スコビー中将がEAMとEDES双方に武装解除を命令した。EDESは受け入れたがEAMは拒絶し、自派の閣僚を辞職させた。3日、アテネにてEAM主導のデモが行われ、シンタグマ広場で警官隊との衝突が起こって15人が死亡した(註1)。イギリス首相チャーチルは実力行使を決意し、EAMとイギリス軍との大規模な市街戦が勃発した。まだヨーロッパの各地ではドイツ軍と連合国軍との激戦が続いているにもかかわらず、である。しかし何故かEAMはアテネ市外の有力部隊を戦闘に投入しようとはせず、これは彼等の目的が権力奪取よりも政権への圧力にあったためと考えられている(ギリシャ近現代史)。これも恐らくソ連の指導によるものであろう(註2)

 註1 どちらが仕掛けたのかは不明である。

 註2 この時の市街戦にソ連の意志が関係しなかったこともほぼ明らかである。(近代ギリシァ史)

 内戦たけなわで迎えたクリスマス、チャーチルとイーデン英外相がアテネに到着し、アテネ大主教ダマスキノスを議長とする全政党会議を主宰した。その結果、停戦には失敗したものの、今ロンドンにいる国王ゲオルギオス2世の帰国は国民投票を経た上で決定するとの決定がなされた。王党派のEDESはすでにEAM(反国王派)の攻撃の前に壊滅状態なのだからこれは大きな譲歩であった。その一方でイギリス軍はイタリア方面から2個師団を転用し、ドイツの傀儡軍だった治安大隊や右翼系ギリシア人を糾合した国家警備隊2万人を投入してようやく優位にたった。

 45年1月4日、EAMはアテネを放棄し、11日停戦を承諾した。2月12日に「ヴァルキザ協定」が結ばれ、EAMの武装解除とひきかえに内戦期間中の政治犯への大赦、さらに国民投票と立憲議会選挙も約束された。EAMの中核をなすギリシア共産党のシアントス書記は「イギリスがEAMと対立したことは不幸な誤解の結果であり、忘れ去られるべきである」と表明した。今回の内戦では1万1000の命が失われていた(バルカン、歴史と現在)。

 しかし、内戦が終わっても経済は壊滅状態であった。多くの町や村、鉄道・港湾が破壊され、頼みの商船隊はほぼ全滅、最大の輸出品だった煙草も一番の顧客がドイツだったとあってはどうしようもない。内戦中にイギリス軍の指導で編成された「国家警備隊」によるEAM構成員への報復が熾烈を極めて地方の刑務所は満員となり、それに力付けられて大戦中ドイツに協力していた有力者や右翼が勢いを取り戻した(バルカン現代史)。中央政府は全く無力であって、地方の行政・治安を把握することが出来ない(ギリシャ近現代史)という現実から目をそらす(バルカン現代史)ため、かつての「メガリ・イデア」風の対外政策を強調してブルガリアやアルバニアに領土の割譲を求めるという愚策に出る有り様であった。

 46年3月31日、実に10年ぶりの総選挙が行われた。共産党は「目下の混乱した状況下ではとても公正な選挙は出来ない」として棄権を呼びかけた。その結果投票率は60%程度(註3)であったが、王党派連合の得票率が55%と際どい数字だったことから、共産党首脳部は後に棄権を後悔する羽目になった(ギリシャ近現代史)。9月1日には国体を決定する国民投票が実施され、69%が国王ゲオルギオスの復帰を承認した。中道的な共和主義者が「共産主義体制より王制の方が害が小さい」と判断したためであった(ギリシャ近現代史)。総選挙の時より右傾化が進んだのは間違いなかった。一方の共産党はすでに2月に「新たな武装闘争を組織する」との決定をくだしており、3月頃から北部・中部の山岳地帯でゲリラ戦が頻発していた。これまでギリシアにおけるイギリスの優位を認めていたソ連の態度が強硬に転じたことも大きく作用した。「冷戦」はギリシアから、しかも流血を伴って始まったのである。

 註3 『近代ギリシァ史』によるが、『バルカン現代史』では49%。

 10月、共産党は「民主軍」の成立を宣言した。民主軍は約1万の兵力をもって巧みなゲリラ戦を行った。民主軍兵士の多くはマケドニア人(マケドニアにおいてこれまでギリシア語でない地元の言葉を用いていた人)であった(註4)。20世紀初頭のバルカン戦争でギリシアの支配下に組み込まれた彼等の多くは、やはり、「ギリシア国民」ではあっても「ギリシア人」にはなれなかったのである。

 

 註4 49年、人民軍一般戦闘員の4割がマケドニア人であった。(ギリシャ近現代史)

   

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 民主軍の兵力は47年3月に1万3000、秋には2万5000人に達した。民主軍は北方の共産主義3国(アルバニア・ユーゴスラヴィア・ブルガリア)の支援を受け、12月末にはアルバニア国境近くのコニツァにて「臨時人民政府」の成立を宣言するに至った。ギリシア政府では1月に成立したマキシモス政権にて、大戦中にEDESの軍事組織を指揮してEAMと対決したゼルヴァス将軍が公安相に就任し、民主軍に対し「テルミヌス」作戦なる掃蕩作戦を行った。しかしその苛烈な弾圧はかえって民主軍参加者を増大させる有り様となった。

 事態はもはやイギリスの手に負えるものではなくなった。かわりに去る3月、アメリカのトルーマン大統領が議会にて、内部崩壊に瀕している「自由な国」への支援プログラムの一部として、ギリシアに相当数の緊急支援を与えるとの声明を行った。これがいわゆる「トルーマン・ドクトリン」である。アメリカからの3億ドルの援助に励まされ、政府は5個師団もの大軍を民主軍掃蕩に投入した。対して民主軍は山岳地帯での奇襲作戦から正面きっての平地戦に戦術転換するという致命的なミスを犯した。さらに、特に制空権が政府側に握られたことにより、戦局は民主軍にとって不利に傾いていった。

 それでも、48年いっぱいはまだどちらが勝つかは不明瞭であった。民主軍は北部国境地帯のみならずペロポネソス半島の大部分まであわせ、10月には政府は全国に戒厳令を布くまでに追いつめられた。政府は外交面ではイタリアとの友好関係を修復し、1912年以来イタリアの占領下にあったドデカニサ諸島の譲渡を勝ち取るという成果をあげたが、内戦においては目立った成果をあげることは出来なかった。

 ここに大転換をもたらしたのは国際情勢の変化であった。48年、ユーゴスラヴィア共産党がソ連と決別、独自路線へと向い始めたが、民主軍の中心たるギリシア共産党はあくまでソ連に忠誠を誓い、そのため、ユーゴから民主軍への援助が停止されてしまったのである。ユーゴ問題についてはギリシア共産党内部でも意見が分裂し、さらに、ソ連がユーゴに打撃を与える目的で「(ユーゴから独立した)独立マケドニア国家」の樹立案を持ち出し、その中にギリシア領マケドニアまで含まれていたことが、多くの民主軍兵士の反発を買った。49年1月、40年のアルバニア戦線でギリシア軍を指揮したアレクサンドロス・パパゴス将軍が政府軍総司令官に就任した。アメリカ製の装備と訓練を受けて意気あがる政府軍はその後数週間でペロポネソス半島の民主軍を制圧した。10月、民主軍はアルバニア領から作戦の終了を宣言した。3年間におよんだ内戦は、政府軍の勝利というよりも、民主軍兵士の幻滅という形で終わりを告げたのである。

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