ドイツの植民地 第3部 オセアニア

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 太平洋に散らばる無数の島々は、ミクロネシア、メラネシア、ポリネシアの3つに区分される。ハワイとニュージーランドを結ぶ線の東がポリネシア、西の赤道以北がミクロネシア、赤道以南がメラネシアである。本稿ではまずミクロネシアについて解説する。

 ミクロネシアの島々は1686年にスペインによって領有が宣言されたが、実際に開発されたのはメキシコとフィリピン(どちらもスペイン植民地)の中継地となったマリアナ諸島のグアム島だけで、それ以外の島々は(その時点では)特に資源も見当たらなかったことから「忘れられた島世界」と呼ばれて放置状態となった。しかし時代が進んで1830年代になると各国の捕鯨船が、50年代になるとキリスト教の宣教師が入り込んでくる。ヨーロッパ人たちは病気(性病)やアルコールを持ち込み、これによって島々の風紀は著しく紊乱した。また、ミクロネシアの原住民たちは各地に小さな王国を築いていたが、それらがヨーロッパ人から買った鉄砲を使って相争ったために人口が激減した。たとえばカロリン諸島のポーンペイ島では50年代に人口が半減したという。

 捕鯨業は60年代になると衰退するが、鯨油の代替としてミクロネシアの「コプラ油」が注目され、各国の商社が進出してきた。ドイツの商社は平坦な島の多いマーシャル諸島に目をつけてココヤシ(これの乾燥果肉がコプラ油)農園を経営し、さらにカロリン諸島にも進出した。ヤップ島(カロリン諸島)ではドイツ商社ゴッドフロイがイギリス系商社オキーフェとの商戦を繰り広げたが、やがてはカロリン諸島の交易はドイツのシェアが8割を占めるに至る。カロリン諸島の名目上の領有国であるスペインは外国船舶に関税をかけようとしたが、ドイツ政府に脅されて撤回した。ドイツはさらにマーシャル諸島の原住民の首長と交渉して最恵国待遇と海軍基地建設の許可を得た。

 84年、さすがに我慢出来なくなったスペイン政府がカロリン諸島に軍艦と海兵隊を派遣したが、ドイツはそれより早くカロリン諸島の主な島々に砲艦「イルティス」を派遣して国旗を掲げていた。85年、ローマ教皇レオ13世の調停によってミクロネシアの島々のうちとりあえずカロリン諸島に関するスペインの領有権が保障され、ドイツは自由な経済活動(交易・漁業・入植)と航海を行えるものとされた。その一方でイギリスもミクロネシアに拠点を持ちたがっていたため、86年には独英協定が結ばれ、マーシャル諸島とナウル島をドイツが、ギルバート諸島をイギリスが領有することとなった。これでミクロネシアにおけるスペイン領はカロリン諸島と、あとマリアナ諸島だけとなった。スペインは残り少なくなった植民地の統治を強化し、それに対して不満を募らせた原住民が反乱を起こしたりした。その一方でこの地域にはアメリカ人も進出し、主にキリスト教の布教に力をいれた。アメリカはプロテスタント、スペインはカトリックであったため、両者間に紛争が起こった。

 98年、スペインとアメリカが戦争になった。この「米西戦争」に敗退したスペインはグアム島(とフィリピン)をアメリカに割譲する羽目となった。スペインは敗戦後の財政難をしのぐため、マリアナ諸島とカロリン諸島をドイツに450万ドルで売却した。ちなみにドイツは米西戦争に際してはスペインにエールを送っており、参戦こそしなかったものの艦隊を動かしてアメリカ軍の行動を邪魔したりしていたが、それは要するに戦後にスペインから何らかの報酬を巻き上げようとの下心あってのことであった。

 ……と、このような経過をたどってドイツの植民地となったカロリン、マーシャル、マリアナの3つの諸島とナウル島は「島嶼領土」と総称され、その中心地は東カロリン諸島のポーンペイ島と中央カロリン諸島のヤップ島に置かれることになった。上の方でも述べたが島々では原住民が自分の王国をつくっており、ドイツの統治はそれらを通して間接的に行われた。秩序維持のために原住民による鉄砲の所有や飲酒を禁止し、民間の商社がもしそれらを販売したら(ドイツ商社であっても)処罰された。王国間の戦争も禁止である。文化面ではキリスト教(プロテスタント)の布教やドイツ語の教育が行われ、ドイツ人行政官の援助でドイツ本国に留学した原住民もいた。マリアナ諸島の北部は人口が少なかったため、グアム島(アメリカ領)の住民を誘致したが、その際の旅費はドイツが持ち、入植用の土地も無償で提供した。

 島嶼領土の産品は主にコプラ油、それから燐鉱石、真珠、亀甲であった。この地域には1890年頃から日本商社が入り込んでおり、この地と日本との貿易額はやがては全貿易額の8割にも達してしまう。第一次世界大戦が始まった時にはドイツ人よりも日本人居留民の方が多かったのだから、どっちの植民地なのかわからない話である。

 ドイツはコプラ油搬出用の道路の建設を各島の王を通じて有償で原住民に行わせたが、経費がかかりすぎたため、一部地域を除いて作業が進まなかった。そこでドイツは王の特権を廃止(註1)して、そのかわり平民に対し王への年間15日の勤労奉仕を義務づけ、その労働力を無償でドイツのための道路工事に使わせるという改革案を発表した。大半の王は渋々ながらもこの改革の受け入れを表明したが、ソーケス王国(ポーンペイ島の北部にあった国)のソウマタウ王のみは強硬に反発、1910年に反乱を起こして総督を含むドイツ人数人を殺害した。しかしやがて反乱軍はドイツ本国から投入されてきた1000人規模の軍隊によって鎮圧され、ソウマタウ王以下13名が死刑、400名が遠方の島に追放となった。その後のドイツ政庁はポーンペイ島の海岸から40メートル幅の土地を区画して原住民の成人男性に割り当て、それより内陸の土地を政庁の所有地とする土地改革を実施した。この土地制度は今でもポーンペイに根付いている。他の島でも同種の改革が計画されたが、第一次世界大戦の勃発によってお流れとなった。

註1 島の土地は王の所有物ということになっていたのだが、これを分割して平民の私有地にする。


   サモア   
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 次は赤道以南の島々である。こちらではまずイギリスが18世紀の後半からオーストラリアの開拓を押し進め、続いて1840年にはニュージーランドを領有、47年にはフィジー諸島を押さえていた。それからフランスが1847年にタヒチを、53年にニューカレドニアを領有している。しかしそれ以外の島々の大半には欧米諸国の政治支配は及んでおらず、宣教師や商人が個々に活動するにとどまっていた。

 1857年、ドイツ商社ゴッドフロイがポリネシアのサモア諸島に進出、ココヤシや綿花の農園を建設した。同地にはイギリスやアメリカの商社も相次いで進出し、特にアメリカは69年に開通したアメリカ大陸横断鉄道と70年に就航したサンフランシスコ〜ニュージーランド航路を繋ぐ中継点をサモアに設定したがっていた。その頃のサモアの原住民たちは王位をめぐる戦争を繰り広げており、近代兵器を買うために欧米の商社に広大な土地を売却した。その取り引きでヨーロッパ人が原住民を騙す事件があとを絶たなかったが、その逆のケースも多かった。

 73年7月、ヨーロッパ人に利用されているのを悟ったサモア原住民は戦争を終結し、アメリカ国務省特別代理人のシュタインバーガーの助力によって王国憲法や2院制の議会を創設した。この王国憲法というのは日本の大日本帝国憲法よりも先に出来たものである。シュタインバーガーは王国の首相兼最高裁長官に就任したが、サモア原住民の権利を擁護しようとしたことから各国商社に嫌われ、やがて彼らの画策によって本国に送還されてしまった。その後のサモア原住民はタマセセ、ラウベベ、マタアファの3陣営に分かれて相争い、それに乗じた各国が利権を確保していった。

 87年、ドイツが動き、ラウペペを追放した上でタマセセを国王とする傀儡政権を樹立した。この動きは米英を慌てさせ、3国がそれぞれ軍艦を派遣して事態の収拾をはかるという事態に発展、情勢は極めて緊迫した。ところがその時たまたま猛烈な暴風雨がサモアを襲い、ドイツ艦3隻とアメリカ艦4隻が沈没するという惨事が発生した。そして89年にドイツ本国の首都ベルリンで行われた独米英の話し合いの結果、ラウペペをサモア全体の国王とした上で独米英3国共同の保護下に置くということで一応の決着が付けられた。その後、この取り決めをよしとしないマタアファや、タマセセの息子が挙兵したが独英艦隊によって鎮圧された。反徒は家を焼かれ、罰金を課せられた。それから、土地の不正売買を審査する土地問題委員会が組織され、サモアの土地の8パーセントがヨーロッパ人の所有地として正式に認められた。委員会に寄せられた土地権承認の要望書を全部あわせるとサモア全土の2倍の面積になったというから無茶苦茶な話である。92年には天然痘が流行し、サモアは人口の4分の1を失った。

 99年、ラウペペが死に、後継者をめぐる内紛が発生した。独米英はこの機会にサモアの共同保護をやめ、ドイツはサモア西部を、アメリカは東部をそれぞれ単独で保護領化、イギリスはサモアから手を引くかわりにソロモン諸島の大半の領有を独米に認めさせる(後述)という取り決めを行った。ドイツはサモアでの農園経営に意欲的だったし、アメリカはサモア東部の天然の良港パゴパゴを軍港として押さえておきたかったのである。サモア東部は現在(21世紀)もアメリカ領に留まっており、自治領(准州)という扱いを受けている。

 サモア保護領化と並行して、太平洋の島々は80年代の半ば頃から、小島や無人島までもが事細かに欧米列強によって分割・植民地化されていった。例えばイギリスは1884年にニューギニア南東部を、92年にエリス諸島を、1900年にトンガを領有、フランスはトゥブアイ島・リマトゥラ島といった島々を植民地化した。イギリス政府はもともとはオーストラリア・ニュージーランドという2大植民地及びフィジー諸島(オーストラリアとアメリカ大陸を結ぶ航路の中継地)以外の島については「経費がかさむ」という理由で植民地化を見送っていたのだが、ドイツやアメリカの進出に警戒を強め、あんまり役に立ちそうにない島でもどんどん領有することにしたのである。フランスも、以前からの自国の植民地であるタヒチやニューカレドニアの近くにドイツが入り込んでくるのは嫌であったし、70〜71年の「普仏戦争」でドイツ(当時はプロイセン)に負けた屈辱をここで晴らしたいとも考えていた。

 ドイツ保護領西サモアでは、以前にシュタインバーガーがつくっていた憲法や議会が存続していたが、実際には初代総督ゾルフ博士が独裁的な行政を行った。不満を抱いた原住民は自分たちで会社を組織し、サモアの主産品であるコプラ油をドイツ商社よりも高値で購入した。総督はこの会社を解散させ、幹部たちを投獄したが、集団脱獄されてしまったため、議会にことの責任を押し付けてこれを廃止した。怒った原住民はラウアキ・マモエという予言者に率いられて「マウ(異議申し立て)」を行い、総督側から一時的な譲歩を引き出したものの、結局は弾圧されてラウアキ・マモエ他数人が遠方の島(ミクロネシアのサイパン島)に流刑となった。その後の総督は原住民多数を行政職に採用することで彼らの不満を抑えた。経済面では農園や道路の開発が促進され、その労働力として中国人労働者が導入された。コプラ油の生産量は1900年には6000トンだったのが13年には1万トンまで増加した。

 サモアの西方のソロモン諸島は、その北半分を1884年にドイツが、南半分を93年にイギリスが領有していたのだが、1900年には前述のサモア分割に絡んでドイツ支配地域の半分がイギリスに売却された。ソロモン諸島の残りの部分(ブーゲンヴィル島以北)と西サモア、それから……これについては
別稿で解説するが……ソロモンの西に位置するビスマルク諸島とアドミラルティ諸島、そしてニューギニア北東部をあわせた地域は「旧保護領」と呼ばれ、ミクロネシアのマーシャル諸島、カロリン諸島、マリアナ諸島、ナウル島からなる「島嶼領土」とあわせて「ドイツ領オセアニア」と総称された。これらの全体の首府はビスマルク諸島ニューブリテン島北東端のラバウルに建設された。ラバウルは太平洋戦争の初期に日本軍が占領してこの方面における一大拠点とする町であり、ソロモン諸島では太平洋戦争の死命を決する激戦が行われることになる。

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