大陸横断郵便社



 1848年、アメリカ合衆国領となった直後のカリフォルニアにて砂金が発見され、空前の「ゴールド・ラッシュ」が始まった。全米から金目当ての男たちが殺到し、東部の熟練工の給料が1日1ドルだった時代に、10歳の子供が2日で2500ドルとか、2人チームが1週間で1万7000ドルとかいう莫大な利益を掘り出した。しかし、金採掘で後世に名を成した者は1人もいない。本当に儲かったのは金採掘人を相手に商売した男たちである。

 有名どころでは、ドイツ商人ハインリッヒ・シュリーマンがブームの最盛期に採掘人相手の銀行を開いてボロ儲けし、後にその利益を全部注ぎ込んでトロイの遺跡を発掘したことが知られている。ここで、配達・運送業で名を成したのがアレグザンダー・トッドである。

 当時のサンフランシスコの郵便局には採掘人宛ての手紙が山を成しており、どこで鍋をゆすっているかも分からない男たちに届ける術もなかったが、トッドは馬を飛ばして採掘者2000人の名簿と現在地記録を作成し、手紙1通16ドルで配達する新商売をあみ出したのである。1通16ドルとは現在の感覚でも暴利がすぎるが、その利益は1日1000ドルに達したという。

 トッドは4年間儲けるだけ儲けた後にその権利を売却するが、これを買ったのが「ウエルス・ファーゴ社」なる東部の大資本である。ウエルス・ファーゴ社は今も健在の「アメリカン・エクスプレス社」の系列だが、当時の「エクスプレス業」とは、西部の未開地にて旅客・貨物運輸、貴金属販売、銀行、証券を一手に引き受ける商売で、(ウエルス・ファーゴは)運送に用いる駅馬車に銃で武装した護衛をつけるという新方式で出荷者の信頼を確保した。

 最初のエクスプレスはカリフォルニア州の中だけでやっていたのを、さらに西部と東部をつなぐ大陸横断駅馬車便に拡大したのがジョン・バタフィールドである。当時の西部は鉄道どころか道路もロクになく、東部からサンフランシスコへの一番の近道は中米のパナマ地峡(運河はまだない)を経由する海上ルートであったのを、駅馬車を用いて陸路を直線距離で駆け抜けようとの発想である。アメリカン・エクスプレス、ウエルス・ファーゴその他のエクスプレス社から重役を迎えて創設された「大陸横断郵便社」は、それまで何もなかった西部の原野・砂漠・山岳地帯に200以上の宿駅を建設し、セントルイス〜サンフランシスコ間を24日間で横断した。だがその乗り心地たるや最悪で、東西の終点近くの区間をのぞけば座席はガラガラ(屋根や馭者台に限界まで詰め込んで21人だったいとう)、全区間を完走したのは年間300人程度だったという。この路線が開通したのは1858年だが、この頃はまだ先住民(いわゆるインディアン)や駅馬車強盗の襲撃を受けることも多く、61年に始まった南北戦争では路線がズタズタに分断されてしまった。

 手紙の束を携えた騎馬が宿駅をリレーして大陸を横断する「騎乗速達便(ポニー・エクスプレス)」がやはりセントルイス〜サンフランシスコ間を11日間で横断したのが60年6月、大陸横断電信が開通するのが61年10月、そして「大陸横断鉄道」が完成するのが69年のことである。東部で最初の鉄道が開通したのは1830年だが、日本のように人口密集地に鉄道を誘致するのではなく、何もない所に鉄道を敷くことによって人を集めようというのがいかにもアメリカ的である。大陸鉄道建設の最前線は1日2〜8?の早さで東西から突き進み、労働者(多くは中国人)相手の酒場や売春宿からなる即席の町が工事現場と一緒に移動していった。鉄道や電信の進出によって「ポニー・エクスブレス」はたちまち消え去るが、鉄道駅を起点として辺境の町や村をつなぐ駅馬車はその後も長く活躍を続けていた。ウエルス・ファーゴ社は1880年には西部全域の573の市町村に支社・代理店・代理業者を構えてエクスプレス業を独占的に取り扱い、現在もカリフォルニアでの銀行業を主な業務として存続しているのである。

おわり

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