ド・ゴール伝 第5部その1

                  

   核武装   (目次に戻る)

 植民地はほぼすべて失われた。しかしド・ゴールにとって、植民地の喪失は「偉大な大国」フランスの終焉を意味するものでは決してなかった。大国フランスの威信の源は広大な海外植民地から、もっと他の所へと移りつつあった。

 ド・ゴールがその演説においてフランス独自の核武装を宣言したのは1958年11月のことである。しかしド・ゴールは既に45年の臨時政府の段階で「原子力委員会(CEA)」を創設し、「原子力エネルギーを科学・産業・国防上のあらゆる分野で利用するための開発」にGOサインをくだしていた。もちろんフランスとて原子力に無関心ではなく、大戦勃発直後にノルウェーから重水を、ベルギーからウラニウム酸化物を輸入して原子力エネルギーの開発を始め、ヴィシー時代には多くのフランス人物理学者がイギリスに亡命してそちらの原爆計画に関わっていた。大戦後故国に戻った彼等物理学者の話を聞いたド・ゴールがただちに核開発の再開に乗り出したという訳なのだが……第四共和政の時代、ジョリオ・キュリー博士を中心とする良心的な物理学者が「原子力を軍事に利用すべきではない」とする提言を行ったために追放され、核開発に大幅な遅延が生ずるというひと幕があり、その後は軍部を中心とする核開発が続けられていた。

 そしてド・ゴールの復帰。「フランスの国防はフランスのものであるべきである。当然の帰結として、独自の立場で行動し得る戦力、すなわち、抑止力(後述する)、その基盤となる核戦力を持たなければならない」「核装備のための費用は国民所得の百分の1、軍事費の4分の1を超えないのみならず、軍要員を半分にし、兵役期間を半分にすることも可能である」。アメリカはフランスによる全く独自の核武装に反対し、59年9月にはフランスの原子力開発に協力してきた企業の契約を破棄した。

 そしてフランスが初の核実験を行ったのは1960年2月13日、サハラ砂漠のレガヌ実験場における「快挙」であり、フランスは米ソ英につぐ世界4番目の核保有国となったのである。(註1)

 註1 水爆は66年7月、原子力潜水艦は71年に配備。ムルロワ環礁はこの頃からフランスの核実験の基地となっている。66年9月にタヒチを訪れたド・ゴールは現地の抗議運動を無視した。

 この年12月に成立した「第一次軍装備計画法」によって、主要核運搬手段たるミラージュ4型戦略爆撃機1個聯隊の就役、地対地中距離ミサイルの生産等が目指された。「1914年の場合のように、重砲を欠いた幾百万の軍隊ではなく、また1940年の場合のように、飛行機や戦車のない軍隊ではなくなる」。強力な核戦力の整備は、フランス国土への侵略による利得よりも核報復戦力による損失と打撃の方がはるかに大きいという損得計算を相手にさせる「抑止力」の充実を目的としているが、その抑止力は(ソ連等の)仮想敵国を想定することなく、あらゆる方向からの侵略の可能性に対処する、すなわち「全方位抑止(防衛)戦略」として現在に至るフランスの公式戦略(67年にド・ゴールが採用)となっている。核時代の現在、米ソにとって全面戦争は自殺行為であり、アメリカはその死活的な利害を脅かされない限り、ヨーロッパにかんしてソ連と裏取引きする可能性が大である(嬉野ド・ゴール伝)。アメリカによる西欧防衛はアテにならない。つまり「軍事同盟は時代おくれになった。一国はいかなる外国をも完全には信頼出来ない」「核兵器を持たない国は持つ国の意のままになるほかない」「フランスの水爆保有は、侵略の脅威に対抗する唯一の道であり、またそれがフランスの独立を保証するものである」という訳である。

 もちろん核兵器の数量は米ソには遠く及ばないが、「量の大小に絶対価値はない。個人にしろ国民しろ一度しか死にはしないし、自ら核抑止力を持ち侵略者に致命傷を与える決意があれば相身互いである」。

 ただ、かような軍隊の核武装と現代化は、総兵力を120万から50万に削減したことから生じた軍部の不満を宥めるためのものという側面もあった(嬉野ド・ゴール伝)。また、ド・ゴール個人はその回顧録において、大戦中に日本の広島・長崎に原爆が投下されたことに触れ、「恐るべき兵器の出現が私の魂を奥底まで動顛させた、おそらく人類を破滅させることを人間に可能とするだろう手段の出現を見せられて私自身も絶望感にとらわれた」と述べている。

   

   NATO離脱   (目次に戻る)

 

 話をぐっと戻す。フランス第四共和政は、その強い反共姿勢(もしくは援助ほしさ)から米国のリーダーシップを強く支持し、1949年のNATO(北大西洋条約機構)(註1)結成に参加していた。しかし、フランス国内に外国の指揮する司令部や外国軍の基地(アメリカ軍約5万)が置かれることは、自尊心の強いフランスの国民感情を刺激することとなった(渡邊フランス現代史)。

 註1 言うまでもなくソ連に対抗する集団防衛体制である。

 特にド・ゴールはNATOの重要課題が米英2国のみで決定されていることに強い不満を抱いていた。58年7月に勃発した中東危機に際し、アメリカはレバノンに、イギリスはヨルダンへとそれぞれ派兵したが、これはフランスに何の相談もなく行われ、しかもこの時レバノン政府の要請で派遣されたフランス巡洋艦「ド・グラース」は現地のアメリカ当局に「フランス人はここではいらない」と告げられただけであった。

 その年9月、ド・ゴールがNATO改革案を持ち出した。「アメリカがNATOでカバーされていない地域で独自の行動をとることは世界の平和を危うくしかねない」「NATOはもはやフランスの国防上の問題に答えられない」「真の集団防衛機構なら、守るべき地域を限定せずに全世界に拡大すべきであり、またフランスの責任と安全が全世界に及ぶ(そうなのか?)以上、フランス政府はNATOの政治的戦略的決定に参加すべきである」。この提案は米英によって無視された。

 59年3月、ド・ゴールはNATOの指揮権からのフランス地中海艦隊の撤収を宣言、63年には英仏海峡と大西洋でも同様の措置をとるに至った。65年4月の演説でド・ゴールは「フランスの国防や経済が、アメリカの兵器・経済・政策に依存する大西洋同盟に吸収されることを拒否する。独自の核戦力を維持することは金のかかることではない。NATOはフランス(の役割)を終局的に補助的なものに止めるものであり、真にフランスを防衛するものではない」と表明した。さらに翌年3月、ド・ゴールは「フランス領内に駐留する同盟国(アメリカ)の軍隊・基地その他に対し、フランスの主権回復のため一方的措置をとる(つまり、外国の軍隊に出ていってもらう)」との発表を行い、事実上NATOの軍事機構からの脱退を果たした(註2)のである。

 註2 NATOの司令部は最初パリにあったが、フランスが脱退したためベルギーのブリュッセルに移転した。

 とはいえフランスはその後もNATOを政治同盟として位置づけ、NATOの北大西洋理事会・政治委員会・経済委員会・防空警戒管制システム等に参加しており、西ドイツにも独自の協定によって2個師団を駐留させている。フランスにとってNATO脱退は「(フランスは)西側同盟に忠実な一同盟国ではあるが、共同行動をとるか否かは自ら決定する」「いわば外交上の自由を、たとえ相対的ではあっても、常に維持しておきたいということなのである(渡邊フランス現代史)」また、NATO離脱は全てのフランス国民や軍幹部に支持されていた訳ではなく、「同盟国への裏切り」と考える人もかなりいたらしい(フランス解放戦争史)。

     

   プティ・クラマール事件   (目次に戻る)

 極右組織「OAS」のテロはその後も続いていた。1962年8月22日、閣議を終えたド・ゴールは専用車DS19シトロエンに、夫人イヴォンヌ、娘婿ボワシュー大佐とともに乗り込み、護衛の車1台と単車2台を連れてビラクーブレ空港に向かおうとした。予めド・ゴール暗殺計画を整えていたOAS狙撃団が一斉に動き、パリ郊外のプティ・クラマール十字路に近いリベラシオン通りにバンで乗り付けた。

 彼等の指揮官セヴァスティアン・チリー中佐はプロの軍人らしく、射撃の角度・走行する車の速度と距離・車の走行を阻止するための弾薬の強度等を正確に計算していた。ド・ゴールの専用車が待ち伏せ場所の200ヤード手前に迫ったところで射撃を開始、なるべくたくさんの銃弾を喰らわせて、パンクして停車したところに駆け寄って止めを指す。まちがいなくド・ゴールの専用車を狙撃するため、待ち伏せ場所の100ヤード手前のバス停に指揮官チリー中佐が陣取って、専用車が近付いたところで合図の新聞紙を打ち振る、という周到な計画であった。午後8時5分に配置についた狙撃団はド・ゴールを待ちかねていた。

 ところが、彼等はひとつだけ重大なミスをおかしていた。彼等は当日の黄昏れが8時35分であることまで確認し、実際にド・ゴールの専用車が現われたのが8時18分であったことから、まさに完璧な成行きだったのだが……彼等が参考にしたカレンダーは前年のものであり、この年この日の黄昏れは8時10分だったのである。

 計画どおり100ヤード離れたバス停にいたチリー中佐は薄闇に目を凝らしつつ、時速70マイルで飛んでくるド・ゴールの専用車を確認、合図の新聞紙を打ち振ったが、それが狙撃団にはよく見えなかった。混乱する狙撃団が専用車に気付いた時には、すでに車はバス停を通過して待ち伏せ場所のすぐ近くにまで迫っていた。

 それでも射撃を開始した狙撃団は専用車に12発の弾丸を喰らわせた。外人部隊のA級狙撃手まで含む射撃のプロが放った銃弾は専用車のタイヤをふたつもパンクさせたものの、運転手フランシス・マルーの神技的なハンドルさばきでそのまま突っ切られた。助手席に坐っていたボワシュー大佐は「伏せて!」と叫び、夫人は夫の膝に顔を埋めたが、ド・ゴール本人は隠れもせずに振り返って、「またか」「なぜ反撃せんのだ」と呟いていたという。

 この事件以降、OASは目に見えて落ち目になった。63年2月25日、西ドイツに亡命していたOAS作戦主任アルグー大佐がフランス警察に逮捕され(註1)、これまでスポンサーをつとめていた企業家たちも寄付を渋るようになった。たびかさなる失敗にうちのめされたOASは、最後の切り札として、OASと何の関係もなく、フランス官憲にも顔を知られていない外国人の職業的暗殺者を50万ドルという大金で雇ってド・ゴール暗殺を請け負わせることになる……というのは小説『ジャッカルの日』ですね(笑)。面白いので是非読んでください。ちなみに著者のフレデリック・フォーサイスはプティ・クラマール事件の時、ロイター通信の特派員としてパリにいたそうです。

 註1 西ドイツ領土へのフランス官憲の侵犯という点で戦後の独仏関係における最悪の事件とされている。

 63年4月、OAS指導者ジョルジュ・ビドーがブラジルに亡命し、組織も解体した。しかし、68年には……後で述べるが……ある事情によってOASへの恩赦が行われ、外国に亡命していた幹部たちも母国に戻ってきた。大佐たちは宗教に専念したりレストランで成功したりと様々だが、上述のアルグー大佐は何故か筆相学者として有名になった。「将軍たち」もみな釈放され、各々回顧録の執筆に専念した。ラガイヤールやジョルジュ・ビドーも平凡な生活に戻ったが、引き続き地下に潜って銀行強盗等に手を染める者もいた。元アルジェリア総督スーステルは恩赦を拒否〜「悪いことはしていないのだから許してもらういわれもない」という理由で〜独自の裁判で勝訴、その後短期間ながらリヨン選出の代議士となった。

   

   ド・ゴール外交・経済   (目次に戻る)

 「フランスは毅然としていなければならない。貴婦人は、言い寄られることはあっても言い寄ったりしない」。ド・ゴールの外交政策の基本は、(体制は西側だが)東西いずれの陣営にも属さずフランス独自の「自立」と「栄光」を求める点に集約されている。ド・ゴールは反アメリカの姿勢から64年には中華人民共和国(アメリカと敵対)を承認し、同年にはソ連と通商条約を締結した。さらに66年9月にカンボジアを訪問したド・ゴールはアメリカの東南アジア政策(ヴェトナム戦争)を厳しく糾弾したりもした。この内、中華人民共和国を承認したことは、東アジアへの影響力拡大を目指すと共に、ソ連と対立する中国(註1)と結ぶことによってソ連の西欧政策を緩和し、その上でソ連とも協調するという思惑があったようである(嬉野ド・ゴール伝)。

 註1 1956年以降、路線の違いからソ連と中国の対立が激化していた。詳しく書きたいのだがそれはまた今度。

 また、ド・ゴールは東側諸国との関係を緊密化する一方で、途上国への経済援助も熱心に行った。「ドイツ(ナチス)とアメリカ(ヴェトナム戦争)が人種差別主義だとすれば、ド・ゴールのフランスはそうではない(ド・ゴール伝)」「我々はこれらの国を援助しており、その結果彼等はフランスを好いている(前掲書)」との建て前のもとに、アフリカや南米の諸国がアメリカに対して自立化傾向を強めるだろうとの戦略的期待(渡邊フランス現代史)があったのである。

 さらにド・ゴールは67年に訪問したカナダのケベック州にて当地の独立運動(註2)に共感を示し、「自由ケベック万歳 ! 」を叫んでカナダ政府の不興をかったり、親アメリカに傾くイスラエルに反発して(イスラエルへの)武器輸出を禁止したりした。かような反アメリカ外交は当然アメリカを刺激して、ホワイトハウスでは「ド・ゴールはソ連のスパイである」という噂まで流れた程であった。もちろん、大戦中の共産党との争いやRPF時代を思い出すまでもなく、ド・ゴール個人としては骨の随まで反共産主義であり、62年のキューバ危機(註3)に際しては最も早くアメリカ支持を表明しているが、フランスの国際的地位を高めるという大目的のためには東側への大胆な妥協も辞さないというその姿勢は「本質的に18世紀的(ヨーロッパ現代史)」であった。

 註2 ケベックはフランス系住民が多数を占め、独立運動が根強い。

 註3 ソ連がアメリカに隣接するキューバ国内にミサイル基地を建設しようとした事件。米ソ関係が一触即発まで悪化したが、ソ連の方が妥協してことをおさめた。西洋史研究会発行『古今西彩?21』の「キューバ革命」を参照のこと。

 その一方では西ドイツとの友好を促進した。58年9月、ド・ゴールはフランスを訪れた西ドイツ首相アデナウアーと会談し、「独仏両国の協力が始まった」との宣言を発した。普仏戦争、第一次・第二次大戦の宿敵であった両国の歴史的な和解であり、63年の独仏協力条約につながった。

 大統領としてのド・ゴールの経済政策については(筆者が疎いので)簡単に列記するにとどめる。ド・ゴールが政権に就いた1958年とは、前年調印されたEECを設立する条約が発効した年であった。ド・ゴールはナショナリズムの意識が強く、フランス国家のためのEECという発想が強かった(フランス史3)ため、国家主権を犠牲にするようなEEC統合にはあくまで反対した。ド・ゴールは、経済的に強力になったフランスがイタリアや西ドイツを誘い、米ソの2大経済圏に対抗する(河野フランス現代史)という考えを持ち、特に63年と67年に、アメリカの強大な支持を受けるイギリスがEEC加盟を申請した際にこれを拒否したのはその現われといえる。「アメリカはEECが経済的に無視出来ない脅威にまで発展することを抑えるために、イギリスを加盟させることによって内部からEECを改変する意図を持っている、とド・ゴールがみた(EC経済をみる眼)」のであった(註4)

 註4 もっともこれは、ド・ゴールの誇大な被害妄想に近いものだったらしい。ド・ゴール退陣後の大統領ポンピドゥーはイギリスのEC加盟をあっさり認めている。

 ド・ゴールは大統領就任直後に「新経済政策」を発表し、これによってエネルギー資源の開発・産業設備の近代化・公共投資の増額・EEC諸国との協調(統合ではなく)等が目指された。ここでは昔のように植民地から富を収奪するのではなく、他のヨーロッパ諸国との共同市場の開設による自由交換によって生産・生活を向上させるという方針がとられるようになった(河野フランス現代史)。フランを安定させ、巧みにインフレを克服し、増税(企業・高額所得者・アルコール・タバコ等)と歳出削減(公務員給与・軍人恩給・補助金等)によって予算均衡を達成、フランス経済は急速に成長した。これは、植民地を放棄したことにより、それを維持するための財政的その他様々な負担がなくなったことにも起因する(現代フランス政治史)。

 もっとも、経済成長の恩恵をこうむったのは主に管理職層であり、一般の労働者との経済格差はかなりのものになってきたのだが……。しかも、ド・ゴールの様々な改革への反発は思いのほか強かった。個別の政策については不支持率が支持率を上回ることが何度もあり、ド・ゴールに対する支持は、具体的な政策よりも、彼に去られた後の混乱を恐れるあまりの消極的なものであるとの側面が強かったのである(嬉野ド・ゴール伝)。

 その一方で、科学技術の振興にも力がいれられた。コンコルドやTGVの開発がはじまったのもド・ゴール時代であり、58〜67年の科学研究費は年率15%というハイスピードで拡大した。人工衛星を打ち上げたのが65年、世界初の海洋エネルギー利用発電所であるランス潮汐発電所が完成したのが67年であった(註5)

 註5 フランスは海洋開発の先進国である。深海潜水艇を多数所有し、海洋温度差発電も実用化している。ドイツ軍占領下においても民間でアクアラングを開発したことが有名。

   

   ド・ゴールの人物   (目次に戻る)

 ド・ゴールの政策についてこれだけクドクド述べている以上、彼の人物についてもいくらかページを割く必要があるだろう。

 著作『剣の刃』に述べたとおり、ド・ゴールは民衆に媚びることを決してせず、かつ危険をものともしない威厳を極めて重視した。近眼にもかかわらず国民の前では決して眼鏡をかけず、度重なるOASのテロに際しても過剰な警備を嫌って担当者を困らせた。大戦中の准将という位をそのまま保持し、「将軍」と呼ばれることを喜んだ。テレビには滅多に出なかったが、ここ一番という時のテレビ演説の効果をよく理解しており、国立劇場の演出家に振り付けを指導させ、鏡の前で何度もリハーサルした。

 公人としてのド・ゴールは極めて傲岸不遜であったが、家庭人としては良き夫であり良き父であった。ド・ゴールが菓子製造業者の娘イヴォンヌ・ヴァンドルーと結婚したのは31歳の時、一男二女をもうけた。上からエリザベス、フィリップ、アンヌと名付けられたが、フィリップとはペタン元帥にもらった名前である。次女のアンヌは精神に障害があり、21歳で亡くなったが、ド・ゴールは彼女を笑わせることの出来る唯一の人物であった。48歳の時にパリから240kmの所にあるコロン・ベ・レ・ドゥ・セグリーズ村のボアスリー荘を買い取り、晩年までここを生活のベースとしていた。1日の生活は規則正しく、質素で清潔、儀礼的なパーティーには滅多に出席せず、趣味といえば読書と庭いじり程度であった。

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