ド・ゴール伝 第4部その2

   

   勇者の平和   (目次に戻る)

 

 10月23日、ド・ゴールは記者会見を開き、FLNに対し改めて和平(「勇者の平和」と称された)を訴えた。しかし「人が銃火を沈黙させることを欲する場合に遠い昔から用いられてきた戦士の手続きは、白い休戦の旗を打ち振ることであった。私はそれに答えよう。その場合には、戦士は受け容れられ、名誉でもって遇せられるであろう」とのド・ゴールの発言、特にその「白旗」というところがFLNを怒らせてしまった。これは「無条件降伏」という意味ではないのか? その一方でド・ゴールは、去る10月3日にFLNに対する融和策を発表したことからアルジェの公安委員会(5月の反乱の中枢)の機嫌を損ね、特に「7人組」のラガイヤールを激怒させていた。6月の熱狂は冷めつつあった。そして現在の公安委員会の意志はただひとつ、FLNの殲滅あるのみである(ド・ゴール伝)。

 その一方で、5月の「反乱軍」の解体という厄介な問題が存在した。ド・ゴールは10月9日に公安委員会から軍人を辞任させ、アルジェリア派遣軍総司令官サラン将軍をパリの軍司令官へと「栄転」させた。ド・ゴールはFLNに対して和平をすすめる一方で軍事作戦をも活発に展開し、後任のアルジェリア派遣軍総司令官シャール将軍もFLNへの激しい攻勢を行っていた。7月22日からカビリーの山岳地帯で展開された「双眼鏡」作戦もそれなりの成果をおさめつつあった。この頃のド・ゴールのアルジェリア政策には明確な首尾一貫性がみられなかった。

 12月21日、ド・ゴールは出来たばかりの第五共和政憲法に基づき、正式に共和国大統領に選出された(それまでは首相)。「アルジェリアはフランスと密接な連携をとりながら、それ自身の個性を発展させるだろう」。この、「フランスのアルジェリア」を否定しかねない発言に加え、特赦によるアルジェリア人死刑囚181人の減刑、アルジェリア人拘留者7000人の釈放を発表したことは、この頃コロンや派遣軍の間に徐々に広まりだしてきたド・ゴールへの不信をさらに高めることになった。ド・ゴールは去る10月3日にはアルジェリア人の政治的権利の拡大や経済・教育格差の是正を目指す「コンスタンチーヌ・プラン」を打ち出していた。

 それでもこの時点では、いや、かなり後の段階になってもド・ゴールをかたく信じ、小説『ジャッカルの日』に登場するマルク・ロダン中佐(自由フランス軍兵士からの叩き上げ)のように、「せいてはいけない、あのおやじ(ド・ゴール)に時間をかしてやろう」「反乱する原地人(FLN)を一気に屈服させるためにはまだ機が熟していない、ド・ゴールはそのために戦略的に譲歩策を採っているのだ」「おやじは何もかも承知のうえで動いているのだ」と(自分たちに都合のいいように)考える者もたくさんいた。「だっておやじは、『フランスのアルジェリア万歳 ! 』と、誇らしげに叫んだではないか」。

   

   民族自決   (目次に戻る)

 1959年9月16日午前8時、ド・ゴールがテレビ・ラジオを通じて重大発表を行った。まずFLNに対して停戦を訴え、そして、停戦が実現しだい「アルジェリア人がその将来に対しそうしたいと望むところを、アルジェリア人自身に自由に選ばせるのだ」「私は、民族自決にまかすことを、ここで、今、宣言することが必要と考える」。

 民族自決 !  アルジェリア人に独立を認めてもよいというのである。さらに続けて、今後のアルジェリアの具体的な進路にかんし3つの選択肢をあげる。1つめ「フランス抜きで、アルジェリア人の欲する政府を組織する」。つまり完全独立。この場合は「その出発時において、最も忌むべき貧困、恐るべき政治的混乱、広範な殺戮をもたらし、やがて共産主義者による戦時のような独裁を招くであろう」。2つめ「フランスとの完全な一体化」。3つめ「経済・教育・防衛・対外関係にかんしてはフランスの援助に支えられ、フランスと密接な関係を保つ。この場合、アルジェリアの国内体制は連邦形式をとり、この国に共存する様々な人種がそれぞれの生活様式で生活し、協力するための枠組みが保証される」。

 フランス本国の反応は極めて好意的であった。以上の案は圧倒的多数をもって議会を通過した。アルジェリアにどの程度の自決権を許すかについては様々な意見があったのであろうが、とにかく本国の国民の多くが既に戦争に飽きていることはこれではっきりした。それに、アルジェリアでの戦いをいつまでも続けるフランスに対する国際世論も悪化する一方であった。いや、実のところ長引く戦争を終わらせるためにはアルジェリア人にある程度の民族自決権を認める以外の選択肢がないというのは大抵の人は分かっていたはずなのだが、100万のコロンと派遣軍の幹部たちがこれにどう反応するかを考えると、恐ろしくて口に出すことが出来なかったのである(註1)。それを、他ならぬ、コロンや派遣軍に担がれる形で政権を握ったド・ゴールが、言ってしまった。

 註1 FLNとの和平は何度も検討されていたが、民族自決(つまり独立)を口にすることはできなかった。それ以前のフランス政府は、アルジェリアはあくまでフランスの一部であるという前提を堅持した上でFLNと交渉しようとしていたのである。

 反対者は……、極右の絶対反対は当然として、共産党は最初は「ペテン」といっていたのが、ソ連の意向を受けて賛成にまわってきた(ド・ゴール伝)。しかし肝心のFLNは「民族自決」は受け入れるが、停戦は出来ないと表明した。「民族自決の原則が承認された今、全FLNがなさねばならぬことは、容赦なく戦って、彼等(FLN)、他の何者でもなく彼等が、ド・ゴールが民族自決の交渉を行わざるを得ない有効な話し相手になることを、確証することであった(アルジェリア独立革命史)」FLNはすでに「アルジェリア共和国臨時政府」を組織していた。

   

   FNFとラガイヤール   (目次に戻る)

 「裏切りの臭いがする」。コロンの過激派が色めきたっていた。この時点でのド・ゴールの発言をみる限りでは、来るべき独立アルジェリアは経済や外交・防衛に関してフランスと緊密な関係を有するのが望ましいと考えていた(このような構想を「フランスと連携したアルジェリア人のアルジェリア」と呼ぶ)ことは明かだが(註1)、コロン過激派としてはいかなる妥協も許すことは出来なかった。5月の反乱の直接のきっかけをつくった「7人組」のラガイヤールは国会議員に選出されてこの時パリにいたが、カフェ店主ジョー・オルティス、極右学生ジャン・ジャック・スシニ等によって「フランス国民戦線(以降FNFと記す)」なる組織が結成され、数千人の重武装した義勇隊を整えた。本国の軍隊にもド・ゴールに反発する者が現われたが、やはり軍隊内で最も強硬にド・ゴールに反発したのはアルジェリア派遣軍の大佐たち、中でもアルジェ市の警備をあずかるマシュー将軍の幕僚たちであった。そのひとりジャン・ギャルド大佐は前述のFNFと密接な連絡をとっていた。派遣軍の指揮官たちは、しばらく前にド・ゴールがFLN容疑者に対する拷問を禁止したことに不満を募らせていた。拷問はテロリスト集団を断固として鎮圧するための不可欠の手段なのだが。

 註1 ただ、ド・ゴールは「緊密な関係」とかいう抽象的な言葉を使うのみで、それが単なる協力関係なのか従属関係なのか明確にしていない。『アルジェリア革命』より。

 1960年1月18日、西ドイツの新聞『ジュードドイッチェ・ツァイトゥング』にマシュー将軍のインタビューが掲載された。「栄光の落下傘部隊」の司令官マシューは、自身もドイツ落下傘部隊の出身で大戦中のクレタ島攻略にも参加したというドイツ記者ハンス・ケンプスキとすっかり意気投合し(註2)、うっかり「我々はド・ゴール大統領の政策を理解出来ない」「私自身も、指揮権を持つ将校の大多数も、国家元首の命令を無条件で実行することはないであろう」との本音を漏してしまった。ド・ゴールは激怒し、マシューは本国に召還のうえ閑職に飛ばされた。

 註2 1941年5月20日、連合軍が駐留するクレタ島にドイツ軍の落下傘部隊が降下、空軍の援護のもとに現地の占領に成功した。とはいえこの作戦に参加したドイツ落下傘兵1万3000のうち実に4500人が戦死もしくは行方不明となったことからドイツ軍は二度と大規模な空挺作戦をやらなくなったが、激戦を生き残ったドイツ落下傘兵はこの作戦に参加したことを最高の誇りとするようになった。

 「アルジェの戦い」以来コロンのヒーローだったマシューの追放はFNFを激昂させた。1月24日、FNFは1500人の義勇隊を動員した。同じ日、アルジェに戻ってきたラガイヤールもまた数百人の同調者とともにアルジェ大学の講堂を占拠した(両者は無連絡だったらしい)。「民族自決は犯罪である。反乱だけが成功の道である」。

 午後、アルジェ市街は反ド・ゴールのデモで埋め尽くされた。これはFNFによって計画されたものだった。FNFの本陣には落下傘部隊士官の姿もあった。ド・ゴールに忠実な派遣軍総司令官シャール将軍はデモの解散を命じるべく配下の部隊を集結させた。午後6時、武装した憲兵隊がFNFの本部に向かおうとした。武器を使わずにデモを一掃せよとの命令を受けていたのたが……、FNFの反応は警告なしの一斉射撃という激烈なものだった(そのきっかけはよく分からない)。憲兵14人が死亡し、123人が負傷した。2度目のアルジェ反乱「バリケードの1週間」が始まった。58年5月13日の反乱ではひとりの死者も出なかったのに、今回は初っ端からの武力衝突である。

   

   バリケードの1週間   (目次に戻る)

 総司令官シャールは非常事態を宣言した。しかし麾下の落下傘部隊は反乱軍と交歓する有様だった。本国で開かれた閣議でも反乱軍に同調する者が現れた。首相ドブレがアルジェに飛んで事態の収拾にあたろうとしたが、現地に着いた彼は派遣軍のアルグー大佐に「ド・ゴールが自決権承認を取り消さぬ限り、事態は絶対に解決しない」と断言されただけであった。

 が、そこまでだった。58年5月の時のような、派遣軍全体が反乱に加担するきっかけ、決定的な一打がないまま時間だけがズルズルと過ぎていった。特に元自由フランスの軍人連中の多くはド・ゴールに弓をひくのを躊躇っていた。バリケードの内側に籠る反乱軍の志気が低下しだした。

 29日、雨が降ってきた。反乱軍の志気がますます低下した。偶然か否か、絶妙のタイミングでド・ゴールのテレビ演説が始まった。軍服を着用したド・ゴールは「民族自決の提案を取り消すつもりはない」。反乱軍はフランス兵に発砲した「背信者」で「陰謀家」である。しかしアルジェリア問題にかんしては「最もフランス的な解決をはかる」。そして最後に「私はフランスに呼びかける。おお、わが愛する国よ。古い国よ。今我々は再び厳しい試練に直面している。国民から私に与えられた委任により、また私が過去20年に渡って体現してきた正当性の名において、私は全てのフランス人の男女に、どんなことが起ろうとも、私を支持するよう求める」。これは、ド・ゴールの演説の中でも、最も見事なもののひとつだった(アルジェリア独立革命史)。

 フランス本国では今回のアルジェ反乱は、ド・ゴールを支持する大衆運動をひき起こしていた。2月1日には社会・共産その他の系列の労組が反徒に抗議する1時間ストを行い、1200万の労働者がこれに参加した。逡巡していた派遣軍幹部も軍規を取り戻した。何と言っても今回は、ド・ゴールが軍服姿で力強く断言したことが大きく響いていた。これまで反乱軍と交歓していた落下傘部隊の士官たちも大人しく引き上げていった。FNFの指導者オルティスは誰に知られることなく逃走し、ラガイヤールは「悲しむことはない。すべてを勝ち取ることは出来ない。だが、胸のうち深く戦う意志を持ち続けるかぎり、人間は征服されることはないのだ」と語りつつ堂々と降伏した。政府内で反徒に同情の意を示していた(元アルジェリア総督の)スーステル閣僚総務は解任された。反乱軍に露骨に好意を示していた派遣軍の大佐数人が本国に異動となった。「バリケードの1週間」はあっけなく終結したのである。

   

   フランス共同体   (目次に戻る)

 FLNとの戦闘はまだ続いていた。3月、ド・ゴールはアルジェリア派遣軍の各部隊を視察する「食堂の巡回」を行い、「平和になる前には軍事的勝利がなければならない」と語って軍を激励し、その上で「フランスと連携したアルジェリア人のアルジェリア(種々の制度・政策においてフランスと密接に連携する独立アルジェリア)」を目指すと言明した。すでに「フランスのアルジェリア」という言葉は使わなくなっていた。さらにその一方で6月にはド・ゴールはFLNの代表団をパリに呼び出した。この和平交渉は物別れに終ってしまったが……。軍・FLNに対するド・ゴールの言葉には実際の行動と矛盾するところがあった。

 この頃、フランスの他の海外植民地は続々と独立を達成していた。実は大戦中の1944年2月、「プラザヴィル会議」を主宰したド・ゴールは、植民地の原住民を自由フランスにつなぎとめるための様々な改革を約束していた。これはほとんど中身のないものであったが、それでも植民地の独立への大きな励みになっていた。戦後、フランス第四共和政は植民地を「フランス連合」に再編し、各植民地に対し本国議会に代表を送る権利を与え、予算面での自由も保障した。

 そしてド・ゴールは58年8月に黒色アフリカを訪れ、固有の自治権を持つが、外交・防衛・通貨・経済財政政策・教育・司法をフランス本国と共用する「フランス共同体」に参加する(註1)か、かようなフランスの「保護」から完全に離れ、全ての政策や制度を独自のものとするが、それ以外のフランスとのあらゆる協力関係をも断絶する「完全独立」かのどちらかを選ぶ(各植民地ごとの)投票を呼びかけた。どの植民地でも独立運動が本格化しており、「まだ手遅れになっていないものを救うためには、大胆な行動(妥協)をとる必要があった(フランス植民地帝国の歴史)」のである(註2)

 註1 「フランス共同体」に参加する領土は「自治共和国」と規定され、その元首はフランス大統領の兼任となる。共同体の国々の首脳による「行政委員会」が存在するが実質的な権限は有さない。

 註2 59年、それまで植民地行政官や調査官を養成していた「国立海外フランス学校」が閉校となった。

 ここで完全独立を選んだのはギニアのみ、「隷属下の豊かさよりも、自由の下での貧困を選びます」であったが、60年6月にフランスとの協力関係を断絶しないままの完全独立が可能となった(註3)ため、全ての黒色アフリカ諸国とマダガスカルが独立(註4)してその大半がフランスとの協力協定を調印するに至った。ことここまできて、アルジェリアだけ独立を認めないというのは不合理な話であった。

 註3 59年、仏領スーダンとセネガルが「マリ連邦」を結成し、フランス共同体にとどまったままの独立を要求してきたからである。その間、60年1月にカメルーンが、4月にトーゴが独立したが、共同体については言及しなかった。「マリ連邦」は独立2ヵ月後に「マリ共和国」と「セネガル」に分離した。カメルーンは61年に英領カメルーンの南部をあわせて「カメルーン連邦共和国」を組織した。

 註4 8月だけでダホメ(ベナン)、ニジェール、オート=ヴォルタ、コート=ジヴォアール、チャド、中央アフリカ、仏領コンゴ、ガボンが、11月にはモーリタニアが独立した。この1960年はいわゆる「アフリカの年」である。

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