ド・ゴール伝 第2部その3

   

   北西アフリカ   (目次に戻る)

 ダルラン海軍大将は40年の「メル・エル・ケビル事件」以来熱心な対独協力者であり、ヴィシー政府の副首相までつとめた男であった。 チャーチルは「トーチ」作戦に際して彼の重要性をよく認識し、「憎らしい奴だが、もし私が四つん這いになって1マイル進むと、彼がその艦隊を連合国側に味方させる(註1)というのであれば、私は喜んでそうするだろう」と語っていたが、ダルラン本人は曾祖父がトラファルガー(註2)でイギリス艦隊と戦ったことをよく話し、自他ともに認めるイギリス嫌いであった。そんな彼が停戦の際にイギリスのことをどう思っていたかは定かでないが、これまでずっとヴィシーをもり立ててきた彼が12月7日に米英軍の同意を得て「北アフリカにおけるフランス国家元首兼陸海空軍部隊総司令官」たることを示す政令を発したことは、これまでドイツ・ヴィシー軍と戦ってきた自由フランスや国内レジスタンスにとって我慢ならないものがあった(註3)

 註1 その艦隊の大半は撃沈されるか自沈してしまったが。

 註2 1805年にイギリスとフランス・スペイン連合艦隊との間に戦われた海戦。ネルソン提督率いるイギリス艦隊が大勝した。

 註3 現実に激しい抗議があり、自由フランスに同情的なアメリカの世論も硬化した。

 ところが、アメリカやイギリスが、「ダルランと結んだのは一時的便法だ」とかなんとか苦しい言い訳をしている最中の12月24日、問題のダルラン提督が暗殺されてしまった。犯人の青年フェルナン・シャペルはすぐ逮捕・死刑にされた。彼はこのドサクサに大昔のフランス王家の子孫パリ伯を担ぎ出そうとする一団(註4)に属していたといわれるが、ジロー主宰の軍法会議が彼の背後関係を尋問することもなく速攻で死刑にしたこと等、色々と複雑な思惑が絡んでいたようである。

 註4 ようするに「王党派」である。フランスの王党派は現在でも存在する。

 という訳で1人残ったジローはアメリカの全面的なバックアップを受け、さらに現地北西アフリカのフランス系植民者からも「非軍事及び軍の総司令官」なる称号を贈られた。

 さて、ド・ゴールはどうしていたか? ド・ゴールは今回の「トーチ」作戦について、何の相談も受けていなかった。北西アフリカのヴィシー軍を説得するためにアメリカが白羽の矢を立てたジロー将軍もダルラン提督も大将だったがド・ゴールは准将にすぎず、それどころか彼はルーズベルト米大統領に嫌われていた。完全に蚊帳の外に置かれたド・ゴールは猛然とアメリカに抗議したがこれも無視された。しかし……

      

 フランス本国においてドイツ軍と戦うレジスタンスや、外国で活動中のフランス人の中にも、「フランスは私である」などとうそぶくド・ゴールに反感を抱く者は少なくなかった。その点ジローは、とにかくドイツに勝つためには「ド・ゴール派もそれ以外も、すべての人々が協力すべきであり、フランス本国の解放以前にフランス政府を樹立するのは誤りである」と唱えていた。それはアメリカの考えでもあった。つまり、今現在ド・ゴールが英米を向こうに回して自由フランスを主権国家たらしめんと努力し、(選挙で選ばれた訳でもないのに)その代表として振る舞っているのに対し、「主権国家フランス」の政府やその首班はあくまでフランス解放後の「自由な選挙」によって選ぶべきとの考え(村松ド・ゴール伝)なのである(註5)。アメリカン・デモクラシーの旗手たるルーズベルトに言わせれば……ド・ゴールを正式の選挙によることなく「主権国家フランス」の首班と認めてしまうことは、やはり民主主義の観点からいって問題である……と。

 註5 後に大統領となるフランソワ・ミッテランもジローを支持していた。

 この点でド・ゴールの立場は非常に不利であった。ロンドンには自由フランス以外にも祖国を占領された諸国の亡命政府が存在していたが、その多くはドイツ軍侵入前に「国民に選挙によって選ばれた」正統政府の首相や大統領がそのまま亡命してきたものであった。対してド・ゴールは本来(レイノー内閣の)国防次官でしかなく、しかも(もう死に体だが)本国のヴィシー政府は40年にドイツ軍との休戦を飲んだとはいえ、その前に前政府の政権を正式に引き継いだものであり、ヴィシーこそがフランスの正統政府であると認める国もまだ多数存在していたのである。

 そして何度も言うようだがド・ゴールは頑固かつ傲慢なことから特にルーズベルトに嫌われており(註6)、米英の間では、このままフランスが解放されて自由フランスがパリへと帰還した場合、ド・ゴール個人による独裁政権が誕生するのではないかという憶測すら流れていた(将軍たちの戦い)。実際には自由フランスは政治的には一枚岩ではなく(右派が目立ってはいたが)、右左の政治的対立を表に出さないためには組織内においてド・ゴール個人が卓越した統率力を示す必要があった(自由フランスの歴史)のだが、そのあたりがルーズベルトから見ると独裁的にうつってしまったようである。(註7)

 註6 ルーズベルトは個人的にはペタン元帥を強く尊敬していた。

 註7 ただ、自由フランスはアメリカにとって同盟勢力の1つには違いないので、武器援助といったことは行っている。

 ここでド・ゴールが北西アフリカを手に入れたら一大事である。フランスの植民地の中で北西アフリカの占める重要性は半端でなく、海外に移住したフランス系移民150万のうち実に100万以上がこの地に居住し、旧式装備とはいえ数十万の植民地軍を有しているのである。その点ジローは政治的野心に乏しく(註8)、アメリカの機嫌を損なう心配はないであろう。

 註8 「トーチ」作戦の時に揉めたのは、軍人として最高司令官の地位が欲しかったからである

 もちろんド・ゴールの側にも言い分はある。アメリカやジローは「フランス解放後に自由な選挙を行う」というが、それまでの間フランス(とその海外植民地)の主権を管理するのはアメリカその他の連合国なのである(註9)。ド・ゴールに言わせれば、フランスの主権を管理するのはフランス以外にありえず、それを「アメリカが管理する」など、これはフランスを「敗戦国」として扱っているのと同じである。フランス(自由フランス)とて連合国の一員であり、米英と対等の「戦勝国」になる権利があるのである。「ルーズベルトの心づもりでは、アメリカが戦争を行うからには平和はアメリカの平和でなければならず、平和の組織を指図するのは彼の仕事でなくてはならず、試練によって一掃された諸国家は彼の判断に服従せねばならず、とくにフランスは彼を救い主とも調停者とも仰がねばならなかったのである(ド・ゴール大戦回顧録)」。この流れの上に立つジロー大将の担ぎ出し工作は、戦後のフランスをアメリカの覇権の下に置く布石に他ならない。アメリカの本当の狙いは「真のフランス政府を組織することではないであろう(前掲書)」

 註9 そういう動きはこの後何度も出てくる。

   

   カサブランカ会議   (目次に戻る)

 とにかく交渉すべきである。ド・ゴールはジローに「アルジェかチャドでお目にかかりたい」との電報を打ったが適当にあしらわれ、今度はロンドンで記者会見を開いて世論の支持を訴え、さらにソ連に支持を求めた。世論はド・ゴールに同情的であった。特に一般のアメリカ国民はド・ゴール支持に大きく傾いていた(ド・ゴール大戦回顧録)。

 かくして1943年1月、米英首脳はド・ゴールとジロー双方(註1)をカサブランカに呼びつけ、何とか両者の妥協を導きだそうとした(註2)。ジローは以下のように述べた。ジローが主席、ド・ゴールが次席となってフランス軍を統率し、その総司令官(ジロー)はただアイゼンハワー将軍(米の将軍)にのみ従属し、そして政治活動は一切行わない。「それはつまるところルーズベルト、チャーチル両氏の計画であった(ド・ゴール大戦回顧録)」

 註1 ところでジローはド・ゴールの上官だったことがある。1939年に行われた演習の際、配下のド・ゴールが戦車聯隊を動かすのを見学したジローは「きみ、ゴール坊や。駄目だね。私が軍を指揮している間は……」と、公衆の面前で嘲ったという(村松ド・ゴール伝)。

 註2  ルーズベルトは、「花婿」ジローと「花嫁」ド・ゴールの「強制結婚」というけったいな表現を用いた。

 ド・ゴールの「あなたは英米側の権力に対して従属的な立場におかれていますが、このような立場にありながら、どうしてフランスの主権を守っていくことがお出来になるでしょうか」との問いかけに、「それは政治だ。自分はそれに係わりたくない。自分にとって問題なのはフランス軍を再建することだけだ。自分は同盟国たるアメリカに十全の信頼を寄せている」とのジローの答え。この会見で得られたものは、「ルーズベルトとチャーチルが背後で微笑しながらうなずいている中で、ド・ゴールがジローと握手しているバカげた写真一枚だけ(ド・ゴール伝)」であった(註3)

 註3 この時アメリカの諜報機関は、ド・ゴールがルーズベルトに肉体的な危害を加えるのではないかと疑っており、武器を持った憲兵数名がカーテンの後ろに隠れていたという。(ド・ゴール伝)

 この頃のルーズベルトはチャーチル宛の書簡にてド・ゴールを責任ある政治家とは思えないほど口をきわめて罵っている。「ド・ゴールは誠実な男かもしれないが救世主意識に凝り固まっている」「ジローを仏陸海軍の総司令官にすべきだ。ド・ゴールはどうしようもない。マダガスカル総督にでもしてはどうか」「もはやド・ゴールと一緒に仕事をすることは不可能だ」「彼は戦争継続よりも政治的陰謀に熱中し、我々の軍事的利害に背いている」等々。チャーチルはさすがにルーズベルトよりは慎重で、(多少は飾っているのだろうが)回顧録に「確かに彼(ド・ゴール)とは、よく衝突し、多くの鋭い対立もあった。私は、彼が英国の友人でないことを知っている。しかし彼は『フランス』という言葉が歴史の上に持つ精神を代表している。ここに彼は(ヴィシーから)死刑の判決を受けた亡命者として、英政府の、そして米政府の好意に頼っている。母国はドイツに征服されて、どこにも身を置くところはなかった。ネヴァー・マインド、彼はすべてに挑戦した。もっともきまりの悪いようなおりにも、彼は、大国民、その権威と野心を持つフランスを代表するかにふるまった。彼はジャンヌ・ダルクの生まれ代わりであると自らを考えているのだともいわれた。それは冗談であるが、私にはこの表現がそれほど不条理だとは思えなかった」と記している。(註4)

 註4 カサブランカでルーズベルトとチャーチルがド・ゴールを以下のように論評したという。ルーズベルト「彼はジャンヌ・ダルクを自任しているというが、本当だろうか」。チャーチル「本当だが、困ったことに坊さんがいっこう彼を火刑にしそうもない」。ちなみにチャーチルの夫人はド・ゴールを尊敬しており、ド・ゴールの夫人とも懇意にしていた。ただ、チャーチルもド・ゴールもこの時点では全世界にもっている旧来の植民地を(全部は無理にしても)大戦終結後も支配し続けていく意向であったのに対し、ルーズベルトはかような「植民地主義」に批判的であった。その意味で、チャーチルからみるとド・ゴールは有力な「戦友」であったといえる。山上正太郎著『第二次世界大戦』より。

 ルーズベルトはド・ゴールを嫌い抜いていたが、基本的に、フランス本国のレジスタンスはド・ゴールの味方であった。

 42年11月のドイツ軍による自由地区占領後、ドイツによるヴィシーへの要求はますます厳しくなり、強制労働徴用といった過酷な政策に黙って従うだけのヴィシー政府は急速に人々の信望を失っていった。ところがジローは……軍事面では「作戦の神様」と言われていたが……そういった政治情勢にはまるで無頓着であった。彼は北西アフリカにおいてこれまでヴィシーに協力してきた連中(以降「旧ヴィシー派」と記す)をそのまま重用し、執務室に最初から架かっていたペタンの肖像画を外そうともしなかった。これはあまりに無神経であり、アメリカから指導が入るほどであった。フランス本国のレジスタンスの世論は、やはり最初からヴィシーを「侵略者の手先」と呼んでいたド・ゴールの方に大きく傾いた。「いまや大衆の間には、ヴィシーが敗れたのだからド・ゴールが勝ったのだ、との基本的な感情が優勢を占めていた(ド・ゴール大戦回顧録)」ちょうどこの頃本国で結成されたレジスタンス統合組織「全国抵抗評議会」も、「フランス国民は、ド・ゴール将軍がジロー将軍に従属することを決して認めず、ド・ゴール将軍を議長に仰ぐ臨時政府がすみやかに設置されるよう要求する」との声明を発していた(註5)。北西アフリカに派遣された自由フランス代表カトルー将軍が巧妙な工作を行い、ジロー派の要人たちをド・ゴール支持へとひきつけた。カトルーは元インドシナ総督だけあって政治感覚にすぐれており、逆にジローはヴィシーが設けていたユダヤ人差別法の撤廃を躊躇うという馬鹿なことをした。ジロー派の「北アフリカフランス軍」からド・ゴールの自由フランス軍に寝返る者が続出した。

 註5 フランス共産党は反発したが、大部分はこの声明に賛同した。ちなみに共産党の親玉であるソ連は1942年5月の時点でフランス国内のレジスタンスはド・ゴールの指揮下にあるという判断をくだしていた。これは、暗黙のうちにフランス共産党に対するド・ゴールの優位を認めたということである(自由フランスの歴史)。ド・ゴールの方からソ連(ドイツに攻めたてられて辛い時期のソ連)にエールを送っていたのだから当然と言えば当然。

 1943年5月30日、ド・ゴールがジローの本拠地アルジェ(フランス領アルジェリアの首都)を訪れた。もはやド・ゴールの勝利は確定である。ここでド・ゴールとジロー双方を主席として創設された「国民解放委員会」は自らが「フランスの中央政府である」ことを確認した。ド・ゴールの意志が押し通された訳である。もちろんこれはアメリカの意志に反するものであり、諸国の承認を得るのはもう少しの時間を必要とした。ただしド・ゴールも妥協した。北西アフリカの旧ヴィシー派に対する深い追求をしなかった(それに対する国内レジスタンスの反応はよく分からない)のである。現地の旧ヴィシー派は戦後に至るまで勢力を保ち続けることになる。一方軍事面ではド・ゴールの「自由フランス軍」とジロー手持ちの兵力「北アフリカフランス軍」が統一され、新たに「フランス軍第1歩兵師団」及び「第2機甲師団」が編成された(註6)

 註6 その後逐次拡大するが、この時ジローの兵力をあわせて再編された軍隊を本稿では単に「フランス軍」と表記する。ド・ゴールの「自由フランス軍」としての募兵は43年7月をもって終了し、以後フランス軍に参加した人は「自由フランス加盟者」とは認められていない。

   

   植民地の解放   (目次に戻る)

 ところで、ジロー将軍は旧ヴィシー派を重要した男ではあったが、親ドイツでは決してなかった。彼は「国民解放委員会」設立前の43年2月から開始されていた米英軍によるチュニス攻略に配下の軍隊を参加させており、さらに9月にはフランス国内のレジスタンスと共同してコルシカ島を解放した。が、この時は共産党系のレジスタンスと共闘したことで従来ジローを支持してきた保守的な層(例えば北西アフリカの旧ヴィシー派といったところ)の反発を買ってしまう。ド・ゴールは政治的にはソ連と仲良くしたがっていたが個人的には断固たる反共産主義であり、フランスの保守層が支持を与えるには都合のよい存在にみえた。

 話が前後するが、自由フランスがインド洋の島々に駆逐艦を送って若干の戦闘の後にこれを掌握したのが42年11月28日、同じ頃にはすでにイギリス軍に降伏していたマダガスカル(註1)を自派の勢力下に置くことにも成功した。後者はつまり、「トーチ」作戦に参加出来なかったド・ゴールを宥めるために米英が用意した「小さな飴」なのであった(ド・ゴール大戦回顧録)(註2)。それまで日和っていた東アフリカのソマリランドも自由フランスに服属した。43年3月には南米ギアナがヴィシー政府から離脱して自由フランスへの参加を表明し、7月には西インド諸島の島々もこれに続いた。ダカールも、連合軍が北西アフリカに上陸した42年11月の時点でヴィシーから離れており(註3)、日本軍が押えているインドシナ(註4)を除けば、フランスの海外植民地はその全てがドイツとの戦いに参加するに至ったのである。

 註1 42年5月に島の北端にイギリス軍3万が上陸。日本軍の特殊潜航艇の攻撃で巡洋艦1隻とタンカー1隻が撃沈されている。ヴィシー軍もかなり抵抗したが9月には新手のイギリス軍が島の東岸と西岸に上陸し、11月5日にはヴィシー軍降伏という形により決着がついた。

 註2 このことはチャーチルの方も著作で認めている。

 註3 これはダルラン提督の説得によったのである。

 註4 インドシナでは日本軍はヴィシーの政庁を通じての間接支配を行っていた。現地のヴィシーは独自の兵力まで有していたが、戦局が悪化してきた日本軍はこれが連合軍に呼応することを恐れ、45年3月9日をもって実力でヴィシー軍を武装解除した。これを「仏印処理」と呼ぶ。

 こうしてド・ゴールの勢力は着々と強化され、43年8月にはイギリス・アメリカ・ソ連の3大国が、それまで認めていなかった「国民解放委員会」の承認に踏み切った。委員会ではジローがあっさり解任されてド・ゴール1人による指導体制が確立され、大戦前の議員経験者や国内レジスタンスの代表者が(委員会に)迎え入れられた。彼等がさらに進んで「共和国臨時政府」(ド・ゴール首班)(註5)を名乗るのは1944年6月3日、名高いノルマンディー上陸作戦の3日前のことである。

 

 註5 臨時政府は例によって米英の承認を得られなかった。また、国民解放委員会が北西アフリカの旧ヴィシー派その他の政党の参加を得たため、その内実は最早純粋な自由フランス〜それは「ド・ゴール派」と言い換えてもよい〜とは言えなくなった。

   

   ノルマンディー上陸作戦   (目次に戻る)

 1943年5月13日、北アフリカのドイツ・イタリア軍が降伏した。ドイツ勢力はアフリカから完全に追い払われ、戦局は確実に連合国の優勢へと傾きつつあった。続いてイタリア本土に連合軍が上陸したのは9月3日、植民地にいたフランス軍4個師団がイタリアの戦場に到着したのは11月であった。この戦いの詳しい解説は端折るが、翌年7月22日に他の戦線に転出されるまでの間に払われたフランス軍の戦死者は約1万人を数え、これは同じ期間のアメリカ軍の戦死者1万8000、イギリス軍の戦死者1万4000に次ぐものであった。

 そして1944年6月6日、ついに連合軍によるノルマンディ上陸作戦が決行された。その時イギリスにいたド・ゴールは14日の最後の上陸部隊と共に故国の土を踏み、住民の大歓迎を受けた。40年6月17日のフランス脱出以来、4年の歳月をかけて成し遂げた快挙であった。

 ところが……2年前の「トーチ」作戦の時と同じく、ド・ゴールは今回のノルマンディー上陸「オーヴァーロード」作戦に関しても、直前まで連絡を受けていなかった(註1)。作戦に参加したフランス軍部隊はキーフェ中佐率いる256人の落下傘部隊のみであった(註2)。このことはド・ゴールを著しく傷つけ、戦後の64年に開かれたノルマンディー上陸20周年記念式典にも、当時大統領になっていたド・ゴールは参加を拒否してしまうのであった。

 註1 ルーズベルトは完全に無視するつもりだったが、チャーチルの説得で直前に知らせることにしたのだという。

 註2 映画『史上最大の作戦』にもちゃんと登場するが……。

 連合軍最高司令官アイゼンハワー将軍(註3)はフランスを占領地区連合国軍政府のもとに置くことを求めたが、ド・ゴールは「自分こそフランスの代表であり、連合軍とフランス民衆及び政府の協力条件を決定するのは、国の最高権力者としての自分である」と言い張った。ラジオ放送では、ノルウェー国王、オランダ女王、ルクセンブルク大公、ベルギー首相の次にド・ゴールが解放のメッセージを送る予定だったが、これも「自分は、屈従したヨーロッパに上陸する米英軍を望む国家元首・政府首脳等と同類ではない」と、ずいぶん失礼なことを言って拒絶した。他にも上陸直後、アメリカ軍が発行した「特別フランス通貨」を偽造紙幣であると罵ったり、自らの活動は連合国の指揮下に入らないと宣言したりした(註4)

 註3 戦後大統領となる。実はド・ゴールと同い年。彼は今回の上陸作戦にド・ゴールとフランス軍を入れるべきことを進言していた。OSS(アメリカ戦略局。現在のCIAの前身)も、フランスのレジスタンスの協力を求めるべきこと、そのレジスタンスはド・ゴールを支持していることを報告していたが、ルーズベルトはこれらを無視した。

 註4 アメリカ兵がフランス人に乱暴を働くことも多く、これについてはドイツ兵の方がマシだった、ともいわれた。しかもアメリカ軍の将軍たちは、不祥事を働く兵士が有色人種であることを確認したがっていた。(将軍たちの戦い)

 一方、ペタンは「我々の苦境につけこみ、フランスを破滅に導こうとする輩のいうことに耳を傾けてはならない」との声明を発していた。彼はこの期に及んでもドイツと連合国の戦争にかんしてフランスを中立の立場におこうとし、「フランスが戦争をしているわけではない」と言い張っていた。しかしド・ゴールは、今回の「オーヴァーロード」作戦が米英を中心に行われたことを無視し、フランスはフランス人によって解放されるということを強調した。「これはフランスの戦争である。何よりもこれはフランスの戦争なのである」。「オーヴァーロード」作戦発動の際、植民地やイタリア戦線にいたフランス軍は歩兵5個師団と機甲3個師団の編成を終了していた。

   

   フランス共産党   (目次に戻る)

 ド・ゴールの敵は実に多い。実際に銃火を交えるドイツ・ヴィシー軍は当然として、背後にはフランスの力を削ごうとたくらむアメリカの影がある。先のジロー将軍の担ぎ出し工作に失敗したにもかかわらず、アメリカはこの期に及んでもまだド・ゴールの権威を退けようと考えていた。ド・ゴールは7月15日にルーズベルト米大統領と会見したが、そこで聞かされた戦後の世界構想には、フランスの役割は入っていなかった。

 そして今現在、フランスには米英その他の大軍団が展開し、急激にドイツ軍を追い払いつつあるのだが、ここでド・ゴールの頭に拡がり出したもうひとつの敵の影がある。すなわちフランス共産党である。

 国内レジスタンス運動で最も活発な役割(大戦初期の態度はマズかったが)を演じていた(新版フランス史)この党の勢力は侮り難いものがあり、フランス解放後の総選挙において第1党に踊り出すことになる。(註1)何度か書いているがド・ゴールは米英への対抗上ソ連と結びつつも個人的には反共産主義であり、フランス国内において共産主義者が台頭してくるのを黙ってみているつもりはなかった。

 註1 フランス共産党はアメリカにも警戒されていた。ルーズベルト米大統領は共産主義者に対抗する必要性からド・ゴールに対する態度を軟化させることになる。

 「政権を奪取しようと狙っている企画」とド・ゴール大戦回顧録に評された共産党は、ドイツ軍占領下のパリにて蜂起の準備をすすめていた。もちろんここでいう「蜂起」とはパリからドイツ軍を追い払うためのそれであり、別に即時の「共産主義革命」を目指していた訳ではなかった(ナチ占領下のフランス)が、パリのレジスタンスは共産党を中心とする蜂起派とド・ゴールの意を受けた慎重派とが対立しており、8月19日に始まった蜂起は一旦はドイツ軍との休戦協定によって停止されていた。8月20日、ド・ゴールは連合軍最高司令官アイゼンハワーと会見し、連合軍によるパリ一番乗りの栄誉をフランス第2機甲師団に与えてくれるよう要請した。パリを解放するのは共産党を中心とする国内レジスタンス派ではなく、ド・ゴールなのだということを内外に誇示する必要があったからである(渡邊フランス現代史)。「その人たち(共産党)は、戦闘のために首都に生じる歓喜を、またおそらくは無政府状態を利用して、私(ド・ゴール)が支配権を握らぬうちに彼等のほうがその成果を掴みたいと思っていたのである。いうまでもないが、これが共産主義者の意図であった。もし彼等が、自ら蜂起の指導者となりすまし、そしてパリにおいて武力を自由に用いることに成功するならば、彼等は自分たちが優位を占めうるような事実上の政府をパリに樹立するのに有利なカードを手のうちにおさめることとなろう(ド・ゴール大戦回顧録)」

 アイゼンハワーはド・ゴールの要請を容れた。(少なくとも表面的には)ド・ゴールが数十万のレジスタンスと緊密な連携をとっており、その発言には無視出来ないものがあったからだという(嬉野ド・ゴール伝)。(註2)22日、パリで市街戦が再開された。

 註2 当初アイゼンハワーはパリ解放をもっと先に延ばすつもりでいた。数百万のパリ市民の食糧を用意するのが大変だからである。

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