コルシカ島の歴史 後編

   パスカル・パオリ登場   目次に戻る

 コルシカ軍はその後もジェノヴァとの戦いを続けて内陸部の支配を維持した。と、そこにジャチェント・パオリの次男のパスカル・パオリがナポリから帰ってきた。パスカル・パオリは1725年の4月25日にコルシカ北東部の山中にあるモロサリアという地に生まれ、39年に父と一緒にナポリに亡命、そちらの士官学校に入学、それと並行してナポリ大学にも通った。その後はナポリ軍に勤務して主にシチリア島での盗賊討伐に従事したが昇進が遅く、その失望のあまり一時はフランス軍に鞍替えしようとすら考えた。軍務の傍らでモンテスキューを読み、プルタルコスやマキャヴェッリといった古典を研究した。そして1755年、30歳の時にコルシカに残っていた兄クレメンテからガフォリ暗殺の知らせが届き、島に帰ってくるよう頼まれたのである。以後、パスカル・バオリのことを単に「パオリ」と表記する。

 パオリの帰国はあくまで兄に個人的に頼まれただけのことであり、コルシカ軍全体からはあまり歓迎されなかった。その頃のコルシカ軍の内部ではガフォリの義兄エマニュエル・マトラが将軍位の継承を狙っており、パオリの兄はそういう状況下においてパオリ家の勢力が弱まる可能性を嫌って弟(ナポリで高等教育を受けているので頼りになる)を呼び戻したのだという。有力な家門が派閥をこしらえて抗争するのはコルシカにはよくある話であった。山がちな地形に村落が点在しているから余計そうなるのである。

 そういう訳なので、コルシカ軍はマトラ派とパオリ派の2派に分かれての内戦状態となり、それぞれが独自に将軍を名乗るという有り様となった。

 56年3月、マトラ派はボツィウ村の修道院で集会を開いていたパオリを襲撃した。この時マトラはなんとジェノヴァ軍の助けを借りていたのだが、近くにいたパオリ派の部隊が駆けつけてきたために戦闘はマトラ派の敗退という結果に終わり、マトラ本人も退却中に戦死してしまった。当初コルシカの66の郡のうち16にしか支持されていなかったパオリはこれで一気に勢いづき、やがてコルシカ全軍を指導する立場となった。
 
 以降のパオリはまず経済面の整備を急いだ。島の西岸にリーズラロッサという新しい港町を建設して外国との貿易を振興し、イタリアのリヴォルノ市に勢力を持つユダヤ商人たちにコルシカ近海の漁業権を与えたりする。さらに2個聯隊の陸軍と海軍を編成してジェノヴァ軍に対抗しつつ、これが史上初めてとされる「主権在民」の憲法を公布、独自の国旗・国歌の制定、年1回の選挙によって選ばれる議会の開設、貨幣の発行、さらには総合大学まで設立した。「ヴェンデッタ」はパオリが能率的な裁判を導入したおかげで急激に減少していった。道路の建設、沼沢地の干拓、農業や鉱業の振興にも力を入れる。これらの話を聞いたフランスの啓蒙思想家ジャン・ジャック・ルソーが著書『社会契約論』において以下のように記したのは有名な話である。「ヨーロッパには、立法可能な国がまだ1つある。それは、コルシカの島である。この人民が彼等の自由を取りもどし守りえた、勇敢不屈さは、賢者が彼等にこの自由をながく維持する道を示すに値するであろう。わたしは何となく、いつかこの島がヨーロッパを驚かすであろうという予感がする」。

 ジェノヴァはまたフランス軍に出動してもらったが、そのフランスは56年にプロイセンと戦争(七年戦争)になったためにまたコルシカからの撤収を余儀なくされた。ただパオリの方も、進歩的な政策を導入しているように見えてはいたが、実のところ主な役職は昔ながらの有力者に握られていた。また、彼の政府が実際に統治していたのは主に内陸部だけで、沿岸部の大半はジェノヴァに忠誠を誓っていた。沿岸部の住民はジェノヴァとの交易に依存していたからである(そもそもジェノヴァ人の入植者が多かった)。

   ヴェルサイユ条約   目次に戻る

 64年、七年戦争を終わらせたフランスが(ジェノヴァの要請で)コルシカに4年という期限付きで派兵した。その兵力は歩兵6個大隊からなり、とりあえずはコルシカ軍とジェノヴァのどちらにも与せずに両者を仲裁すると称して中立を宣言した。

 しかし、4年の駐留期間が切れる68年の5月13日、ジェノヴァ政府はフランスと「ヴェルサイユ条約」を結び、コルシカ島をフランスへと売却してしまった。厳密にいえばこれは「売却」ではなく、フランスからジェノヴァに200万フランを10年分割で払うからその間フランスがコルシカ全島を統治するという契約で、10年経ってからその200万フラン及びフランス軍がコルシカ統治のために費やした軍費が返済されれば島の統治権をジェノヴァに返すということになっていた。しかしその「軍費」は相当の……衰退著しいジェノヴァにはまず払えないような……額になるであろうことが予測されたため、コルシカはここにおいて実質的にフランス王国の領土に編入されてしまったという訳である。

 ジェノヴァとフランスの取引を聞いたパオリは5月22日にコルチで開催された「国民議会」において以下のように演説した。「かつてこれ以上の屈辱を受けた国民はいない。われわれを売ったり、買ったりする政府以上に憎悪すべきものがいったいあるだろうか。われわれをこのように侮るのであれば、われわれも憎しみをもって対処しよう」。議場に集まっていた代表たちの大半は席から立ち上がって「戦争だ、戦争だ」と叫んだ。ジェノヴァはともかくフランス軍と戦うのは無謀ではないかと冷静に説く者もいないではなかったが、けっきょく同日中に対フランス宣戦布告が断行されるに至った。

   ポンテノヴォの戦い   目次に戻る

 その時点で島に駐留していたフランス軍は15個大隊を数えており、とりあえずはコルシカ側の熱が冷めるまで様子を見るという態度をとっていたが、8月になってもパオリたちの態度が変わらないとみるや鎮圧行動を開始した。パオリの方はフランスと戦うために16歳から60歳までの男子を総動員して1万2000の軍勢を組織した。しかしその全部がコルシカ人だった訳ではなく、なんとジェノヴァ人やフランス人の傭兵を含んでいたという。傭兵は金次第で誰にでも味方するからである。それにコルシカ人の兵士であっても正規の訓練を受けていた訳ではなかったし、何度か触れているがコルシカは山がちな地形に村落が点在していることから村々の自立性が強く、コルシカ軍の内部でもパオリ支持が固まっている訳ではなかった。当時のコルシカの総人口は11万1000人であったから、本当に「16歳から60歳までの男子を総動員」すれば単純計算で3万ぐらいは集められた筈なのだが……。

 それでも最初はコルシカ軍が優勢であった。内陸部のボルゴまで進撃してきたフランス軍1個聯隊はそこでコルシカ軍の包囲下に落ち、後方から援軍を呼んだがそれもコルシカ軍に打ち破られた。ボルゴのフランス軍は最終的に戦死者600名、負傷者1000名を出して降伏した(捕虜になった者600名)。この事態に驚いたフランス国王ルイ15世はコルシカ派遣軍の司令官をジョヴラン侯爵からドゥ・ヴォー伯爵に交替して新手の軍勢を投入した。フランス軍は総勢5万にも達し、しかも「グリヴォーヴァル砲」という新型の大砲まで持ち込んでいた。もうどうあがいても勝ち目がないと判断してコルシカ軍からフランス軍に寝返る者が続出した(註16)。フランス軍による残虐行為もあったという。

註16 その一方でフランス軍を脱走してコルシカ軍に入った者もいた。軍律の厳しさ故であったという。


 69年5月8日、コルシカ軍がポンテノヴォにてフランス軍に決戦を挑んだ。「ポンテノヴォの戦い」である。この時コルシカ軍(1万)はゴロ川の右岸に布陣し、左岸へと進んできたフランス軍(2万2000)と川を挟んで対峙する恰好になっていたのだが、フランス軍の一隊がコルシカ軍のうち2000名を左岸に誘き出すことに成功した。そしてその2000名はグリヴォーヴァル砲の猛烈な砲撃と歩兵の突撃を受けて600名が戦死、250名がゴロ川で溺死した。さらにコルシカ軍は退却中に同士討ちを起こしたことから組織として崩壊した。(この戦いにおけるコルシカ軍の戦死者数は大岡昇平著『コルシカ紀行』によったが、田之倉稔著『麗しき島コルシカ紀行』によると「4224名」「250名」「20名」等の諸説があるという。どうしてこんな無茶苦茶に違うのか理解に苦しむが、とりあえずコルシカ軍が大敗したことだけは間違いない)

 フランス軍はその後しばらくゴロ川の右岸に滞陣し、とりあえず周辺の村々の制圧・武装解除を行った。本拠地のコルチに退いていたコルシカ軍の側では、パオリは継戦の決意を示したが他の幹部は諦めてしまい、フランス軍がコルチに迫ってきたならこれを受け入れる(コルチを明け渡して降伏する)という評決をくだした。パオリはコルチから退出し、山岳でのゲリラ的な戦闘を続けることにした。コルチは5月22日をもってフランス軍に降伏した。

   四十年戦争の終結   目次に戻る

 コルチに総司令部を置いたフランス軍は沿岸部との連絡を密にするために道路を整備しつつ周辺地域の平定作戦を遂行した。「もし彼等(コルシカ人)が降伏しなかったら、一瞬たりともないがしろにせず、麦の束に火をつけるか、他の手段を使っても村を破壊しなければならない」「降伏を拒否するものたちの穀物、葡萄、オリーブにも手加減を加えてはならない。これが彼等に恐怖心をうえつけ、服従させるただひとつの方法である」。5月26日には西海岸の海港リーズラロッサがフランス軍の手に落ちた。ここはパオリが独立コルシカと外国との貿易を振興するために建設した港町であった。

 パオリに従って山中に逃れていたコルシカ人たちはなかなか頑強に抵抗したが、6月4〜8日にはパオリの弟の率いる部隊がヴェッキョ川付近の戦いでフランス軍に敗退し、これで完全に勝敗が決した。山間の険しい道を敗走していたパオリは同月13日にポルトヴェッキョ港に辿り着き、そこから300人ほどの仲間と共に2隻の船に乗り込み島を脱出、イタリア・ドイツを経由してイギリスへと亡命した。フランス軍司令官のドゥ・ヴォー伯爵は22日に「コルシカ全土征討終了」を宣言し、1729年から断続的に続いてきた「四十年戦争」はここに終結した。

 それまでパオリの副官兼官房長官をつとめていたシャルル・ボナパルトという人物はうまく立ち回ってフランス貴族の資格を得たが、彼こそは後のフランス皇帝ナポレオン・ボナパルトの父である。ナポレオンが生まれたのは四十年戦争が終結した年(1769年)の8月15日で、その数ヶ月前には彼の母レティツィアは身重のままフランス軍の攻撃を避けて山中を逃げ回っていた。ごく若い頃のナポレオンはパオリを崇拝してコルシカの独立回復を夢見ており、「わたしは、パオリの副官だったくせに、コルシカのフランス併合に協力した父がどうしてもゆるせない」と語っている。対してナポレオンの兄のジョセフは至って冷静に、「父がフランス人になりきったのは、自分の国が併合されれば、計り知れぬ利益を得ることになると見てとったからだ」と述べている。それは全くその通りで、シャルル・ボナパルトはフランスに取り入ったおかげでアジャクシオの裁判所の陪席判事の職を手に入れ、息子のジョセフをフランス本国の神学校に、ナポレオンを陸軍幼年学校へと進学させることが出来たのである。ちなみにボナパルト家は生え抜きのコルシカ人ではなく、16世紀にイタリアのトスカナ地方から出てジェノヴァ軍の傭兵としてコルシカに移り住み、そのまま土着化したものである。(ナポレオンの母親の実家であるラモリーノ家も15世紀にやはりイタリアから移住してきた家である)

   バンディ   目次に戻る

 フランスに対する抵抗は完全には終息しなかった。パオリの部下だった者のうちの少なからぬ部分が山中に潜み続けており、フランス軍は彼等「バンディ(匪族)」を討伐してまわるとともに島のあちこちに部隊を展開して島民の動向を監視しなければならなかった。74年にはイタリアのトスカナ大公国に亡命していたパオリ派の残党パスクワリーニが極秘裏にコルシカに舞い戻って小規模な蜂起を起こしたが、フランス軍に敗れて11名が処刑、30名あまりがフランス本国の獄に繋がれるという結果に終わった。コルシカ総督マルブフ伯爵は語った。「武器を手にするお尋ね者はことごとく、容赦なく死刑に処する。逮捕された者はいかなる裁判形式も抜きで、ただちに手近な木に縛り首にされるであろう」。1本の木に一度に11人もの逮捕者を吊るしたり、鉄の棒で両腕を砕いたり、さらには車裂きの刑といった残虐な刑罰が行われた。バンディが潜んでいそうなマキ(コルシカ独特の密生林)を焼き払ったりもした。小蜂起はその後も頻発したが、フランス当局はバンディの首に賞金をかけ、それを目当てにフランス軍に協力するコルシカ人も少なくなかった。フランスはコルシカ人多数を官憲に採用してコルシカ人同士で憎み合うように仕向けた。82〜84年には飢餓に伴う食糧危機が発生し、バスティアだけで300件以上もの暴動が起こった。

   フランスの統治   目次に戻る

 コルシカ人の話す言葉「コルシカ語」はイタリア語のトスカナ方言に近い言語なのだが、フランス当局は彼等にフランス語を教え込み(註17)、さらにフランス人男性とコルシカ人女性の結婚を奨励、奨学金制度を整備して青少年にフランス留学の機会を提供したりした。バスティアには劇場を建て、フランス演劇を上演してフランスの文化を普及する。フランス人から見ればコルシカというのは「民度の低い」「野性の地」であったから、教育と文化を与えてやれば大人しくなってバンディも消滅すると考えた訳である。また、フランスは、以前のジェノヴァによる統治の悪い部分を誇張して言い立てたようである。それと比べればフランスの統治は紳士的だという訳である。

註17 ジェノヴァはこのような言語政策は行わなかった。ジェノヴァとコルシカは言語的に近い(書き言葉が同じ)ため、そんなことをする必要がなかったのである。フランスの学校で学んでいたナポレオンはフランス語の習得に手間取り、コルシカ訛りが抜けなかったことから級友たちに「ラ・パイユ・オ・ネ(鼻の穴に突っ込んだ麦わら)」と呼ばれたりした。


 その一方で、イギリスにおけるパオリはなかなか快適な生活を送っていたようである。当時のイギリスは植民地獲得競争でフランスと対立していたため、そのフランスと戦ったパオリは結構な人気者として扱われ、イギリス国王ジョージ3世に拝謁したり2000ポンドの年金を貰ったりした。その一方で86年1月にフランス陸軍の砲兵少尉となったナポレオンは同年4月に綴った短文『コルシカ論』の中で「コルシカ人は正義のあらゆる法則に従って、ジェノヴァのくびきを振りはらうことができたし、同じようにフランス人のくびきをはらいのけてもかまわないのである」とか書いている。

   パオリの帰還   目次に戻る

 1789年7月、「フランス革命」が勃発した。この革命の初期の指導者の1人であったオノーレ・ミラボーという人物は若い頃にコルシカでの作戦に参加したことがあったが、彼はその経歴を深く恥じ、「自由のために戦ったコルシカ人は法律上なんの罪もおかしていない」と主張してパオリたちコルシカ人亡命者に対する恩赦を主張、これが12月4日をもって認可される運びとなった。ただし、それまでフランスはコルシカをあくまで一時的に統治しているにすぎないという立場だったのだが、今後は完全にフランスの領土に組み入れて他の県と同等に扱うという取り決めもなされた。これにはジェノヴァが怒ったが、むろんフランスは聞く耳もたずであるし、ジェノヴァの方もいまさら具体的に何か出来る訳でもなかった。「コルシカ県」の首都はバスティアに置かれた(註18)

註18 フランスはコルシカ全島をひとつの県とした。これは東岸の「山のこちら側」と西岸の「山のあちら側」の風俗習慣の違いを無視するものであったが、1975年に至ってようやく別々の県となった。


 翌90年4月、パオリはイギリスからひとまずフランスの首都パリにやってきた。この時にフランス革命の指導者の1人ロベスピエールと会見し、「あなたはわれわれが自由を望むなんて思いもつかなかった時、それを守られた」と讃えられている。そして7月14日、パオリは故郷コルシカ島への21年ぶりの帰還を果たした。船から島に降り立ったところで膝を折り、大地に接吻したという。かつてパオリが本拠地としていたコルチの市民たちは彼に「エル・バッブ・デッラ・パートリア」という称号を贈った。「祖国の父」という意味である。

   パオリとナポレオン   目次に戻る

 同年9月、休暇をとって帰省してきたナポレオン・ボナパルト中尉がこのコルシカの英雄と会っている。20年前に決戦が行われたポンテノヴォの地でパオリから当時の模様を聞かされたナポレオン(21歳)は「当然の結果でしたね」とコメントし、相手(65歳)を傷つけたといわれている。まぁそのエピソードは作り話であるという説もあるのだが、パオリの方も、自分をさっさと見限った男(シャルル・ボナパルト)の息子のことをあまりよく思っていなかったともいわれている。パオリはやがて、コルシカ県の県会議長兼コルシカ民軍最高司令官という役職に選出された。ナポレオンの方は……、既に述べたように彼はもともとはコルシカからフランスの勢力を追い払うつもりでいたのだが、この頃にはフランスの革命を利用してコルシカの地位を向上させるという考えでいた。

 当時のコルシカは人口約15万、全島に380の村が点在していて、都市は一番大きなバスティアで8000人しか住んでいなかった。村々の大半は農牧業を営み、農業技術は焼き畑とか耕地を長期間休ませるとかの甚だ旧式のものであった。交通も不便で、最初の「馬車道」はフランス領になって初めて建設されたという有り様であった。

 92年4月、革命フランスはオーストリアへと宣戦を布告した。やや遅れてプロイセン、イギリス、サルディニア等がオーストリア側に立って参戦してきた。「フランス革命戦争」の勃発である。フランス政府はコルシカのパオリに対し、サルディニア島の攻略を命じた。サルディニアは家畜・米・小麦・葡萄・塩漬け食品が豊かな島であったが、パオリは全く熱意を示さず、甥のコローナ・チェッサリ大佐を指揮官に任命して彼に適当に失敗するよう言い含めた。コルシカのすぐ南に位置するサルディニア島の島民はコルシカ人に近い言語や習俗を持ち、フランスの官憲に逐われたコルシカのバンディたちをよく匿ってくれたため、パオリとしてはそれを叩くなど考えられなかったのである。

 そんな訳で93年2月、チェッサリ大佐の部隊はとりあえずサルディニア島の北に位置する小島サンステファノ島に上陸、近隣のマッダレーナ島にいるサルディニア軍へと砲撃を開始した。この砲撃は当時コルシカ駐留のフランス軍部隊に勤務していたナポレオンの采配で行われた。ナポレオンは真面目に任務を遂行したのだが、チェッサリ大佐は当初の目論み通り適当なところで戦闘を中止し、撤収を命じた。

 ナポレオンはすっかり腹を立て、コルシカに戻るやことの次第をフランス本国政府に訴えた。さらにフランスのツーロンに住んでいたリュシアン・ボナパルト(ナポレオンの弟)がパオリの罷免を要求する演説をぶった。これを受けた政府はパオリの逮捕を指令した。満足したリュシアンはコルシカの家族に宛ててそのことを書いた手紙を送ったが、それが途中でパオリ派の手に落ちた。パオリはフランスに対して本格的に反旗を翻す決意を固め、コルチで開催した評議会においてナポレオンとその一族を法の保護の外に置くと決議した。その結果パオリ派に捕まりそうになったナポレオンは家族を伴ってコルシカを脱出、それ以降はコルシカのことはあまり考えずフランス軍人として生きていくことにした。

 翌94年2月、島にイギリス艦隊が到来した。これはパオリの要請によるものであり、イギリスの側でもフランス軍と戦うための拠点を求めていたところであった。この辺の詳しい話は別稿に譲るとして、以後しばらくのコルシカ島はイギリス王ジョージ3世がその国王を兼ねる「イギリス・コルシカ王国」を名乗ることとなった。パオリは95年には出先のイギリス代表とうまく行かなくなってロンドンに移り、そちらで1807年2月5日に亡くなった(註19)。その間の96年、コルシカはフランス軍で将軍に出世していたナポレオンによって「解放」され、今現在に至るまでフランス領となっている。

註19 とりあえずイギリスの墓地に埋葬されたが、1889年にコルシカの故郷に移された。


                                おわり

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