ブランキの「四季の会」

 ルイ・オーギュスト・ブランキは1805年2月1日生まれ、若い頃にジャーナリストとして共和主義的秘密結社カルボナリ党とかかわったことから革命家の道へと投じることになった。1830年にフランスで起こった「七月革命」(註1)実現に一役かったことから勲章を授けられるが、しかし彼は七月革命後の大ブルジョアの支配(註2)に見切りを付けて極左共和派へと突き進み、31年と32年、さらに36年と3度に渡って獄に投じられた。彼の信条は「革命達成のための唯一の具体的要素、それは力である。剣を持つ者はパンを持つ。武装した労働者のみちみちたフランス、それこそ社会主義の到来に他ならぬ」というもので、官憲の目を逃れつつ徹底的な暴力革命を遂行するために極秘裡に結成した「四季の会」がよく知られている。

註1 この革命の起こる前のフランスの政府(ブルボン王家主導)は憲法と議会を認めてはいたがそれは極端な制限選挙によるものであり、1830年の選挙ではさらに制限が加えられようとしていた。これに対抗して自由派が起こしたのが「七月革命」である。結果、ブルボン王家の中でも自由主義者の王族であったルイ・フィリップが国王として即位、「七月王政」を開始した。

註2 七月革命の後、実際に権力を握ったのは一部の大ブルジョアジーのみであった。中小ブルジョアや労働者の選挙権獲得運動に対し、首相のギゾーは「選挙権が欲しければ金持ちになればいい」と放言したという。

 「四季の会」の特色はその組織にある。まず7人が1「週間」と呼ばれる小隊を結成し、「日曜日」がその指揮をとる。4つの「週間」をあわせて「月」、3つの「月」をあわせて「季節」、4つの「季節」をあわせて「年」となり、これだけで365人のメンバーを統轄することになる。この中では指揮官のみが口頭で相互の連絡をとるものとされ、それ以外の会員間の連絡は禁止されていた。メンバーは武器や弾薬の準備を義務付けられ、新入会員の勧誘法や逮捕された際の心得といったことも徹底されていた。

 その「四季の会」は39年5月12日にパリ市庁と警視庁を襲撃した。赤旗を掲げる数百人の会員は極左学生、青年弁護士、ジャーナリスト、労働者、一部のブルジョアからなっていた。しかし彼等はその日の夕刻には壊滅し、ブランキ本人も捕えられて死刑の判決を受けてしまう。もっとも国王ルイ・フィリップは刑死したブランキが英雄になることを恐れて終身禁錮に減刑し、さらに47年4月に釈放した。

 48年2月、「二月革命」が勃発して(註3)共和政が発足(第二共和政(註4)の成立)し、ブランキもパリに馳せ参じて左派系政治団体の結集に尽力した。しかしこの革命によって成立した臨時政府もまだ極左の要求を満足させるには至らず、ブランキを先頭にした国会乱入の結果またしても大弾圧を受けてしまった。ブランキは懲役10年も食らい込んだあげくアフリカに追放となった。

註3 七月革命で成立した「七月王政」は中小ブルジョアや労働者の反対運動を受けて次第に保守化していたが、46年の凶作や47〜48年の工業恐慌によって社会不安が増大、それが爆発したのが「二月革命」である。

註4 18世紀のいわゆる「フランス革命」で成立したのが「第一共和政」。

 59年に一旦自由になったブランキは61年に今度はナポレオン3世(註5)(51年に全権掌握、翌年に帝位につき「第二帝政」を樹立(註6))によって逮捕・投獄された。これで彼は七月王政・第二共和政・第二帝政と、歴代すべての政権に逮捕されたことになる。

註5 二月革命の後は左右の対立が激化して政情不安定となった。この両者の勢力の上でバランスをとる形で政権を握ったのがナポレオン3世である。彼を最も強く支持したのは自分の土地を守るために政情の安定を望む農民たちであり、安心感という意味でナポレオン3世(1世の甥)というブランドは絶大であった。

註6 言うまでもなく叔父さんの1世の時代が「第一帝政」。ちなみに2世(1世の子)は若死にしている。

 70年、普仏戦争(註7)に敗れたナポレオン3世が失脚した。ブランキは例によって蜂起を企て、例によって逮捕・投獄された。おかげで彼はパリ市民が71年3月に樹立した「パリ・コミューン」(註8)には参加出来なかった。ブランキの秘密結社による革命思想はこの頃のフランスでは既に時代遅れになりつつあったが、しかし彼の名は抑圧的な体制に反発する者たちにとってシンボル的なものとなっていた。「パリ・コミューン」の後に成立した「第三共和政」(註9)ではブランキは合法路線に転換し、一度は当選したものの議会の否認にあい、2度目の選挙は落選した。亡くなったのは81年1月1日のことである。

註7 1870〜71年の、フランスとプロイセンの戦争。

註8 1871年、プロイセン軍がパリに入城してフランス側の臨時政府(ナポレオン3世が前線で捕虜となったため、臨時に作られた政府)と講和条約を結んだ。これに反対するパリ市民が結成したのが「パリ・コミューン」である。一時はパリ市の実権を握ったがプロイセンの援助を受けた臨時政府によって鎮圧された。

註9 パリ・コミューン鎮圧後も政情は不安定で共和派と王党派の対立が見られたが、75年に普通選挙制を持つ「共和国憲法」が議会にてわずか1票差で成立した。こうやって出来たのが「第三共和政」。

おわり   

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