オマーン・ザンジバルの歴史 第1部

   スワヒリ都市   目次に戻る 

 東アフリカのインド洋沿岸地域は古くからエジプトやアラビア半島、ペルシア(イラン)との交易が盛んであり、そのことは1〜2世紀頃にエジプト在住のギリシア人が記した『エリュトゥラー海案内記』で既に言及がなされている。詳しい様子が分かってくるのは8世紀頃のことで、「ダウ」と呼ばれる木造帆船に乗り組んでアラビア・ペルシアの港を旅立った商人たちは、11〜3月の北東モンスーン(季節風)にのって現在のソマリアからケニア、タンザニア、そしてモザンビークに至る、南北3000キロにも及ぶ東アフリカ沿岸部の各地の港湾に立ち寄りつつ南下して、買い付けが終ると4〜10月の南西モンスーンにのって北へと帰っていった(ただし7月頃は風がきつすぎるので休業)。商人たちがアフリカで買う品物は金・香・象牙・材木・スパイス・奴隷であり、アラビア方面からは手工業製品が持ち込まれた。商人たちは商売がてらにイスラム教の布教も行ったため、このルートは東アフリカからメッカに向かう巡礼路としても活用された。海上交通路は東方のインドにも伸びており、やがては中国の南部とも間接的に連絡するようになった。ただ、交易ルートの南限はモザンビークの中部であって、アフリカ大陸の南端までは伸びなかった。そのあたりは強力な磁気を持つ鉄の山があって船の針路を狂わせると信じられていたからである。
 
 13〜15世紀の東アフリカ沿岸部には、キルワ、モガディシオ、パテ、ラム、マリンディ、モンバサ等の港町が栄え、各々に「スルタン」と呼ばれる君主を戴きつつも、商人の集団が強い発言権を有する都市国家の様相を呈していた。これらの町の支配層は「シラジ」と呼ばれ、彼らはもともと12世紀頃にペルシアのシーラーズからやって来た人々の子孫であったという。キルワの町の歴史を綴った『キルワ年代記』という史書によると、シーラーズを旅立った人々は7隻の船団に乗り組んでいたが、途中でバラバラになって東アフリカの7つの港に漂着し、それぞれの地の支配者になったのだという。ちなみにシーラーズは10世紀の半ば頃に「ブワイフ朝」の首都となり、外港のシーラーフともども繁栄したが、977年頃に起こった大地震のためシーラーフが壊滅、そこの商人たちが南方に脱出するという出来事があった。東アフリカの「シラジ」というのは、これが100年以上かけて移ってきたものであるらしい(註1)。ペルシア人やアラブ人は現地の黒人たちと混血し、三者の言葉が混じった「スワヒリ語」を形成した(ベースとなっているのは現地の黒人の話すバントゥー語)。「スワヒリ」とはアラビア語で海岸を意味する「サワーヒル」から来ている。彼らの築いた諸都市を「スワヒリ都市」と呼んでいる。

註1 シラジの子孫を名乗る人々は今でもタンザニア連合共和国の島嶼部に大勢おり、肌の色は黒だが、大陸部の人とはやや容貌が異なるという。ただ、ブワイフ朝はイスラム教シーア派を奉じていたのだが、現在シラジの子孫を名乗る人々はスンナ派を奉じている。また、キルワにおける王位継承のシステムはペルシア風ではなく黒人のやり方で行われていたことから、ペルシアの影響が実際にどれほどのものであったのかは判然としない。


 14世紀頃に最も栄えたスワヒリ都市であるキルワの町は、現在の地名でいうタンザニアの南部に位置し、モザンビーク中部のソファーラ港を飛び地として支配して、そちらの内陸部(現在のジンバブエのあたり)からもたらされる金を扱って繁栄した。1331年にキルワを訪れたイスラムの大旅行家イブン・バットゥータは「世界でいちばん美しい整然と作られた町の一つである。町じゅうの造りが上品である」と書き留めているが、同時にこの町の人々は外敵との戦いに忙殺されていたとも記している。

 15世紀の初頭、はるばる中国(明代)から鄭和の艦隊がやってきた。彼らは特に波乱を起こすこともなく、獅子・麒麟・斑馬等を船に乗せて帰っていった。中国側の記録に記されている地名「麻林」はマリンディ、「木骨都束」はモガディシオを指すと考えられている。その頃の東アフリカ沿岸部には現在知られている限りで37の都市があり、同盟や抗争を繰り返していた。1497年には今度はヴァスコ・ダ・ガマのポルトガル艦隊が現れた。この艦隊はモンバサやマリンディに立ち寄って食糧や水、さらに水先案内人を補給し、インド方面へと旅立っていった。スワヒリ都市の人々から見れば、ポルトガル人の船は小さく、ヨーロッパから持ち込まれた交易品は貧弱であったようである。

 そして、16世紀初頭から本格的なポルトガルの侵略が始まった。ポルトガル人は数は少なかったが、強力な鉄砲や大砲を持っていた。まず1505年にソファーラを占領、こことその北のモザンビーク島に要塞を建設した。他の町も、あるいは占領、あるいは友好関係を結んでいく。例えばマリンディとは同盟し、その商売敵だったキルワは占領・破壊するといった具合である。キルワは先にポルトガル軍にソファーラを占領されたことで交易路を寸断され打撃を受けていた。キルワの北のモンバサはポルトガルに服属と反抗を繰り返し、最終的に降伏したのは1592年のこととなった。ポルトガルはモンバサに強力な要塞を建設し、東アフリカ一帯に睨みをきかせる要とした。ちなみに1586年には日本の天正遣欧使節団が東アフリカに来航し、風待ちのために半年間モザンビーク島に逗留している。

 しかしポルトガルは17世紀の後半には衰え、かわってアラビア半島東南部のイスラム国家オマーンが東アフリカへと進出してきた。ここでオマーンの歴史について、時代を遡って解説する。

   オマーンの沿革   
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 現在のオマーン国の主要民族であるアラブ人がアラビア半島の東端まで移り住んできたのは紀元前2世紀頃と考えられている。そのアラブ人たちは西方の「オマーン渓谷」というところからやってきたため、新しい居住地もオマーンと呼ぶようになったのだという。彼らは最初はササン朝ペルシア帝国の支配下に置かれていたのだが、7世紀に入ってアラビア半島西部にイスラム帝国が勃興すると、オマーンのアラブ人たちはイスラムの教えを受け入れ、ペルシア(ゾロアスター教を信奉していた)の代官を追放した。

 さらに時代が進んで8世紀の後半、イスラム帝国はスンナ派を奉じる「アッバース朝」の一族によって仕切られるようになる(註2)が、オマーンの人々はスンナ派と対立する「イバード派」を奉じてアッバース朝に反抗した。つまりオマーンは一個の国として独立したのである。

註2 いわゆる「イスラム帝国」は、イスラムの最高権威者である「カリフ」を合議で選出していた「正統カリフ時代」、ウマイア家がカリフを世襲した「ウマイア朝」、アッバース家がカリフを世襲した「アッバース朝」の3期に分けられる。アッパース朝は9世紀頃には各地の総督たちが自立してバラバラになってしまう。


 この国では「イマーム」と呼ばれる宗教指導者が選挙で選ばれて政治を行う政教一致体制をとり、オマーン北部のハソール港を拠点として活発な交易活動を行った。『千夜一夜物語』の船乗りシンドバットは実はこの頃のハソールの人という設定である。オマーン自体には特に目立った産品はないのだが、国の位置がインド洋とペルシア湾のつなぎ目を扼しているうえにハソールのような良港を持つという地理的好条件に恵まれていた。東アフリカに関しては、オマーンの人々は記録の上では10世紀頃から姿を見せており、彼らが建設した都市も存在する。

 14世紀、オマーンの沿岸部はペルシア方面の「ホルムズ王国」によって征服され、イマームの勢力は内陸部に押し込められた。さらに15世紀に入る頃にはポルトガル人があらわれてオマーン沿岸部を占領、マスカット(現在のオマーン国の首都)港やソハール港、ホルムズ港に拠点を建設した。

   ヤアーリバ朝   
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 17世紀の初頭、それまで選挙で選ばれていたイマームが特定の家に世襲されるようになり、オマーンの歴史にいう「ヤアーリバ朝」が成立した。本稿ではこの国のことを単に「オマーン」と表記する(註3)。その頃ポルトガルの支配していたマスカット港は急速な経済発展をとげており、内陸のオマーンもそのおこぼれに与って潤った。しかもこの方面のポルトガル軍は紅海方面から侵入してきたオスマン・トルコ帝国軍と潰し合っており、オマーンの軍勢はこの情勢を利用して、ポルトガルの拠点をひとつづつ奪取していった。ポルトガルは本国が小さいのに調子にのって植民地を広げ過ぎ、それを守るための要塞や艦隊を維持出来なくなっていたのである。

註3 正確には「ヤアリーバ朝オマーン国」とでも表記すべきだが、面倒なので単に「オマーン」と書く。


 1650年、オマーン軍はマスカットを占領してアラビア半島東部におけるポルトガル勢力の駆除を完了し、そこからインド洋へ、そして東アフリカへの雄飛を開始した。そちらでもポルトガルの支配に対する諸都市の反乱が起こっており、オマーン軍はそれへの援軍という大義名分を得た。52年にはザンジバル島のポルトガル居留地を攻撃し、96年からはモンバサのポルトガル要塞フォート・ジーザスを2年9ヵ月にも渡って包囲、陥落せしめた。要塞の中で生き残っていたのは十数人だけだったといい、陥落の数日後にインドのポルトガル植民地ゴアから援軍が到着したが、城壁にオマーンの旗が翻っているのをみて撤収した。東アフリカにおけるポルトガルの勢力は大幅に後退し、せいぜいモザンビークを押さえるのみとなる。オマーンは東アフリカ諸都市に総督を置き、関税の徴集を行った。

   ブーサイード朝   
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 その後、オマーン本国は内紛やペルシア軍の侵入のためしばらく海外を顧みる余裕がなくなり、東アフリカでは本国と疎遠になったオマーン系の有力者が勝手に独立した。モンバサ総督のマズルイ家がその代表である。しかしオマーン本国では18世紀半ばに新たに「ブーサイード朝」が成立、再び海外への雄飛を目指して動き出した。これが現在のオマーンの王家である。この家は最初はヤアーリバ家と同じく世襲のイマームであったのだが、1780年には政教分離を断行してイマームの称号を捨て、世俗の君主である「スルタン」を称するようになった。何故なら、オマーンのイマームはイバード派というイスラムの中では少数教派の代表に過ぎない(註4)ため、様々な宗派の人々が住む広大な地域を征服・支配するには都合が悪かったからである(ただし、政教一致をやめただけで、イバード派のイスラム教徒であることをやめた訳ではありません)。

註4 現在のオマーン国ではこの教派が多数派だが、イスラム世界全体の中では少数派にすぎない。


 中東と東アフリカをつなぐ交易ルートは紅海ルートとペルシア湾ルートの2本があるが、紅海ルートはその頃エジプトが混乱状態に陥っていたことから荒廃し、かわってオマーンの目の前を通るペルシア湾ルートが栄てきた。オマーンはまずペルシア軍を追い払い、1797年にはパキスタン南部のグワダルの領有に成功した。これは別に戦争で奪った訳ではなく、83年にオマーン内部の権力闘争に敗れた1人の王族がパキスタン南部にあったカラート王国に亡命、そちらでグワダルの統治を任されたのが、後になってその王族が母国に帰ってうまいことスルタンになってしまったことからグワダルもオマーン領になってしまったのだという。さらに、ヨーロッパではその頃ナポレオン戦争の真っ最中であったため、これに関して中立を守ったオマーンの商船隊が大いに活躍した。1804年、オマーンの新しいスルタンとしてサーイドが即位した。彼の治世は約50年に渡って続き、オマーンの全盛期を演出して「大王」と呼ばれることになる。

   ザンジバルの隆盛   
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 1817〜27年、オマーン軍はモンバサのマズルイ家を攻撃してこれを降伏させた。この時期になるとエジプトの政情が安定(註5)して紅海ルートの交易路が復活し、ペルシア湾ルートの重要性が相対的に低下していたことから、オマーンとしては新たな財源を東アフリカに求める必要があった。32年、サイード大王はモンバサの南のザンジバル島に出向き、王宮を築いてそちらに遷都した。

註5 当時のエジプトの情勢については当サイト内の「ムハンマド・アリ」を参照のこと。


 当時のインド洋には、すっかり衰えたポルトガルにかわってイギリスの進出が著しくなってきていた。イギリスはインドや南アフリカの植民地化を進めていたが、東アフリカに対しては特に牙をむくようなことはせず、オマーンと友好関係を結んだ上で通商活動に専念することにした。その頃アラビア半島の内陸部で「ワッハープ派」(註6)の勢力が拡大しており、これに地理的に近いオマーンと、インド洋交易ルートの安全を考える上でワッパーブの動きが気になるイギリスとはワッパーブ対策という観点から手を結ぶことが出来たのである。

註6 18世紀の中頃にアラビア半島内陸部に起こったイスラム教スンナ派の一派。これの指導者が現在のサウジアラビア王家の先祖である。


 ザンジバルには各国の商館が軒をつらねた。イギリス、フランス、ドイツ、ポルトガル、そしてはるばるアメリカ合衆国の商人たちが来着した。主要な取引き品はまず象牙、それから奴隷であった。象牙はアメリカ商人が喜んで買い取り、かわりに綿を売り込んでいった。奴隷の買い取り先はブラジル植民地での労働力を求めるポルトガルと、中東のイスラム諸国であった。ポルトガルはもともと西アフリカで奴隷を買っていたのだが、これをイギリスが(人道上の理由を掲げて)邪魔するようになったため、やむなくブラジルから遠く離れた東アフリカに奴隷市場を移さなければならなくなったという事情が存在した(これに対するイギリスの反応は後述する)。インド洋ルートの奴隷貿易はこの頃が最盛期で、ザンジバルには巨大な奴隷市場が存在した。たとえば1839年の1年間だけで4万人もの奴隷を出荷したという。むろんザンジバル島の中でも奴隷の需要は存在し、丁字の農園で大量の人員が用いられた。

 サイード大王はイギリスから買った大型艦「リバプール」を旗艦とする海軍の整備にも意を用い、オマーンは当時の環インド洋地域においてイギリスと並ぶ大海洋帝国へと成長した。東アフリカにおけるその領域は、北は現在のソマリア民主共和国のモガディシオ、南はタンザニア連合共和国のキルワにまで広まることになる(ただし、オマーンの政治的支配が及んだのは東アフリカの沿岸部だけで、内陸奥深くまで支配していた訳ではありません)。

 ザンジバルの市場で扱う象牙や奴隷は、もともとは内陸の黒人部族の方がキャラバンを仕立てて沿岸部まで売りにきていたのだが、そのうちにこの立場が逆転した。オマーン商人の率いるキャラバンはビクトリア湖やタンガニーカ湖、さらにその向こうにまで進出し、往復数年かけてザンジバルに帰ってきた(キャラバンの人員のうち7〜8割は途中で死んだという)。といっても内陸の黒人部族の方も別にオマーンに圧迫されたり支配されたりしたという訳ではなく、むしろ、奴隷・象牙と引き換えに入手する鉄砲を用いて周辺部族を切り従え強大化する部族も存在した。キャラバンと一緒にイスラム教や、沿岸部限定の言語であったスワヒリ語が内陸部に普及していく。ただ、イスラム教徒の商人は宗教的な規制のため利息をとることが出来なかったため、かわりにヒンズー教徒のインド人が資本を提供した。インド人は昔から東アフリカに商売に来ていたのだが、サイード大王の治世において急速にその数を増してきた。この点で、サイードが宗教指導者「イマーム」ではなく世俗君主「スルタン」であったことは都合がよかった。

 しかし19世紀の後半に入り、蒸気船が普及してくると、帆船で交易を行うオマーンは次第に世の趨勢から取り残されていった。1856年にサイードが亡くなり、後継をめぐって内紛が発生した。そこにイギリスが介入し、オマーンの領域をサイードの2人の息子によってアラビア部分(三男スエィニー)とアフリカ部分(六男マージド)に分割させた。アフリカ部分を相続した息子の家系をヨーロッパ人は「ザンジバルのスルタン」、彼の領国を「ザンジバル」と呼んだ。

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