三十年戦争第四部 フランス・スウェーデン戦争

       本稿は「スウェーデン戦争」の続編です。

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 フランスの参戦により、これまでバルト海沿岸に逼塞していたスウェーデン軍が勢いづいた。南下してエルベ川沿いにボヘミアを目指し、そこからウィーン(註1)を目指すとの作戦を立てる。フランス軍はアルザスからライン川を渡河、バイエルンを経てウィーンを攻略する予定である。オランダ軍は南ネーデルランドのスペイン軍を引きつけ、海上のスペイン勢力を叩く。一方で皇帝の主な味方はスペインとザクセン選帝侯、それからバイエルン大公である。

註1 オーストリア・ハプスブルク家の主要な領地オーストリアの中心地。それまで皇帝の居所は一定していなかったのだが、この頃からウィーンが皇帝の常駐する「恒常的な首都」として機能するようになる。


 まずフランスの動き。35年11月、国王ルイ13世自ら率いる軍がロレーヌにてガラス伯率いる皇帝軍と衝突したが戦闘よりも疫病のため撤収した。フランス政府がフランス国内で軍勢を集めた場合、有力貴族が部隊を私物化して手に負えなくなる傾向があったため、宰相リシュリューはドイツで傭兵を集めることにした(フランス人の部隊の使用をやめた訳ではない)。そこで隊長として雇われたベルンハルト侯はもともとはワイマールの領主で、グスタフ・アドルフの下で31年の「リュッツェンの戦い」に騎兵指揮官として参加し、34年の「ネルトリンゲンの戦い」にも参加したが敗れたために領地を失って、部下の兵士たちと共に流浪状態にあった人物である。リシュリューは年400万ルーブル(と領地や年金)の報酬で彼に1万8000の兵を用意させるとの契約を行った。ところがフランス側は金の工面に手間取り、その間(36年夏)にガラス伯率いる皇帝軍とヴェルト率いるバイエルン軍、南ネーデルランドのスペイン軍が進撃してフランス領に侵入、パリに迫った、しかし、フランス国王ルイ13世と宰相リシュリュー枢機卿は落ち着き払った態度を見せて臣民を安心させ、ベルンハルト侯の傭兵隊とともに敵軍を食い止めた。皇帝・バイエルン・スペイン軍はドイツ方面が心配なのと疫病とで撤収した。

 その頃のスウェーデン軍の動き。こちらは36年10月4日、司令官バネール将軍の指揮下「ヴィストックの戦い」にて皇帝・ザクセン軍に勝利した。この戦いでは皇帝・ザクセン軍は陣地を構えてとりあえずそこに籠ろうとしたが、スウェーデン軍は退却と見せかけてこれをおびき出し勝利したのである。皇帝・ザクセン軍の戦死者5000人という。2年前の「ネルトリンゲンの戦い」にスウェーデンが敗れて落ち目になった時に真っ先にこれを見限ったザクセン選帝侯への制裁とも言える戦いであった。これまで陣中にあったスウェーデン宰相ウクセンシェルナは一安心して本国に戻り、そちらを固めて補給を強化した。

 翌37年2月15日、「三十年戦争」のそもそもの発端をつくった張本人である皇帝フェルディナント2世が亡くなった。享年59歳。長年の激務と喘息が彼の身体を痛めつけていた。長男が新皇帝となって「フェルディナント3世」を号した。新皇の滑り出しは好調で、ライプツィヒを攻略してきたバネール率いるスウェーデン軍を退けた。

   ベルンハルトの野心   目次に戻る

 しかしこの年10月10日、オランダ軍が南ネーデルランドのブレダを占領した。翌38年3月、フランスの傭兵隊長ベルンハルト侯の軍がライン河を渡った。ベルンハルト軍は渡河地点のラインフェルデで皇帝軍と戦闘となり、河の両側に分断されてしまったが、渡河した部隊が離れた地点からこっそり河を渡って取り残された部隊と合流、油断していた皇帝軍を撃破した。上の段落以来しばらく不調だったスウェーデン軍の方には本国から援軍が到着し、盛り返してボヘミアに侵入した。

 6月、ベルンハルト軍がブライザッハに接近した。ここは北イタリアのスペイン領と南ネーデルランドを結ぶ陸路「スペイン街道」を扼していた。皇帝方のバイエルン軍が立ち向かってくるが7月31日の「ヴィッテンヴァイアーの戦い」はベルンハルト軍の勝利に終わった。6日後、テュレンヌ元帥率いる新手のフランス軍が到着した(それはベルンハルトの指揮下に入ると最初から決まっていた)。

 ここで突然、ベルンハルト侯がフランス王に要求をつきつけた。ただの傭兵隊長でなくフランス王の同盟者として扱えというのである。フランス政府との交渉は難航した。ベルンハルト軍はそのまま何ヶ月も動かなくなり、困り果てたフランス宰相リシュリューも妥協に傾きかけたが、39年7月になってベルンハルト侯の方が病死した。都合が良すぎる話だが毒殺説は否定されている。

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 10月、ベルンハルト侯の傭兵隊を引き継いだ彼の弟は改めてフランスと契約した。この傭兵軍団の雇用にはスウェーデンと、亡命中のファルツ選帝侯、さらに皇帝までもが目を付けたのだが、フランスが一番いい条件を示したのである。以後、旧ベルンハルト傭兵軍団はフランスの総司令官の指揮に従う(以後この集団を単に「フランス軍」と表記する)。

 かわってスペインの情勢。この月21日、「ザ・ダウンズの海戦」にてスペイン艦隊がトロンプ提督率いるオランダ艦隊に壊滅させられた。この海戦でスペイン艦隊は77隻中70隻を失った。翌40年には戦時負担に怒りだしたスペイン本国のカタロニア地方が反乱を起こした。カタロニアにはフランス軍が入り込んで手が付けられなくなった。その次にはポルトガル(註1)が反乱を起こした。その結果独立したポルトガルにももちろんフランスの手が回っていた。41年にはスペイン領南ネーデルランド総督フェルナンドが亡くなるが、後継人事をめぐってスペイン王と皇帝が対立した。そんな最中にスペイン国王フェリペ4世は享楽に耽って舞踏会や闘牛に大金をつぎ込んだ……こうしてスペインは、これまでドイツやオランダ方面で費やしてきた莫大な戦費のもともとれないまま、大国の地位から転落していくこととなる。スペインは43年の末から、とりあえずオランダとの講和交渉を開始する。

註1 ポルトガルは1578年に国王が戦死し、その2年後から親戚にあたるスペイン国王がその王位を兼任するという形になっていた。

   最後の混戦   目次に戻る

 皇帝の方も次第に戦いに飽き、話が前後するが40年から講和のための話し合いを開始した。しかしこれだけたくさんの国が関わっている上に、どの国も自分に有利な既成事実をつくっておこうと戦いを続けることから話し合いは何年もかかってしまう。とりあえず関係者を全員あつめる国際平和会議をオスナブリュックとミュンスターにて42年5月から開催することが決定するが、それまでの間にもあちこちで戦いが繰り返される。

 スウェーデン軍は40年にはレオポルト大公(皇帝の弟)率いる皇帝軍の反撃の前にまた不調に陥った。逆転をはかるスウェーデン軍は41年のはじめ、皇帝が会議を開いていたレーゲンスブルク市を襲撃しようとした。スウェーデン軍の行動は隠密・急速だったため、いきなり身近に迫られたレーゲンスブルク市民は驚愕したが、皇帝は踏みとどまった。スウェーデン軍がレーゲンスブルクに入るためには市の北を流れるドナウ河を渡る必要があり、厳冬で氷結しているから歩いて渡れるはずだったのだが、突然寒気が緩んだことから渡河不能(流氷のため船も使えなかった)となった。やむなくスウェーデン軍は大砲を撃ち込むだけで撤収した。

 5月、スウェーデン軍司令官バネールが陣没し(彼も死ぬ直前にベルンハルトと同じような行動をとった)、トルステンソンが引き継いだ。その際に内紛が発生するがすぐに鎮められる。トルステンソンは身体が悪くてほとんど常に担架に乗っていたが司令官としては有能だった。彼は翌42年まずモラヴィアにてザクセン軍を撃破して占領地から物資を調達した。モラヴィアには大した獲物はなかったのだが、修道院の墓地を暴いて副葬品を奪い去った。そして同年11月2日、レオポルト大公率いる皇帝軍を「第2次ブライテンフェルトの戦い」にて大破。この戦いが始まったとき皇帝軍はまだ戦闘準備が完了していなかったので猛烈な砲撃で時間を稼ごうとしたのだが、トルステンソンはこれを見抜いて騎兵隊を突進させ勝利を掴んだのである。皇帝軍の死者は5000、捕虜は4500と報告された。逃走した皇帝軍では司令官レオポルト大公が敗北の責任を部下になすり付け、高級将校全員を斬首、下級将校を絞首刑、兵士の1割を銃殺にした。

 ブランデンブルク選帝侯(35年の「プラハの平和」の後はとりあえず皇帝に従っていた)は皇帝を見捨てて中立を宣言した。実はブランデンブルク(他所もそうだがここもさんざん荒らされて収入が8分の1まで落ち込んでいた)では少し前に当主が死に、新当主フリードリヒ・ヴィルヘルムが立っていた。彼こそがドイツ史に名高い「大選帝侯」である(註1)

註1 彼の家はブランデンブルク選帝侯だけでなくプロイセン公国の主をも兼ねていた(彼の領国を総称して「ブランデンブルク・プロイセン」と呼ぶ)。プロイセンは帝国の外のポーランド王国内にあり、彼はプロイセン公としてはポーランド国王の家臣であったのだが、後にポーランドの宗主権を解除することに成功し、領国を拡大して「大選帝侯」と呼ばれることになるのである。そして彼の息子フリードリヒが18世紀に皇帝から王号を認められ、「プロイセン王国」が誕生するのである。


 フランスでは42年12月4日、これまで巧みな外交で関係諸国を操ってきた宰相リシュリュー枢機卿が亡くなった。享年57歳。死ぬ前の数年間は軍の改変に努力した。貴族が部隊を私物化するという欠陥を除きにかかり、有能ならば身分が低い者でも昇進の機会を与え、規律を厳格にして、さらに捕虜を自軍に取り込む(それが普通だった)のをやめにした。フランスでは不幸が続き、翌43年5月15日には国王ルイ13世が亡くなった。5歳の幼児ルイ14世……後にフランス王国の全盛期を築く人物……が即位し、母后アンヌ・ドートリッシュと、リシュリューの部下だったマザラン枢機卿がこれを後見することとなった。彼らはスウェーデンとの同盟を再確認した。軍の総司令官はリシュリューが死ぬ少し前に任命したアンギャン公である。

 そのアンギャン公の軍勢2万2000は5月19日の「ロクロワの戦い」にてスペイン軍2万6000と対戦した。戦闘は夕方からはじまり、まだ23歳のアンギャン公はあまりの激戦に休戦しようとしたのだが、彼自らが交渉に赴こうとスペイン陣地に踏み出したところに誤認射撃を受けた。怒り狂ったフランス軍は司令官の制止も聞かずに突進してスペイン軍を踏み潰した。スペイン軍は戦死8000、捕虜も8000という壊滅的打撃を受けた。ただ、フランスが大勝したことは、これまでそのフランスと同盟してスペインと戦ってきたオランダにかえって警戒心を抱かせた。スペインの方も疲弊しきっていることから、蘭西両国は単独で講和の準備を進めることとなる。

 皇帝の方はバイエルン大公の支援のもとにしぶとく戦い続ける。バイエルン大公は35年の「プラハの平和」で旧教連盟を解散して以降はまるきり皇帝に従属する立場になっていた(それ以前は皇帝にヴァレンシュタインの罷免を要求したりと強腰の態度に出ることもあった)のだが、財政を立て直し軍勢を強化して、スペインが弱り果てた後の皇帝陣営の主力となりつつあった。42年11月24日、皇帝・バイエルン軍は「ツトリンゲンの戦い」でゲブリアンの率いるフランス軍(アンギャン公の率いる軍とは別のもの)を破った。大雪に隠れての奇襲が成功したのである。フランス本国は増援を送るとともにその軍の司令官をテュレンヌに交代した。

 ところで「デンマーク戦争」の敗北によってドイツの情勢から離れていたデンマーク王クリスティアン4世は、反皇帝陣営、その中でもバルト海の覇権をめぐるライバルであるスウェーデンの勢力があまりに拡大することを恐れるようになった。そこで彼は皇帝方に加担、スペインの援助を得てスウェーデン軍の背後を突こうとする。しかしスウェーデン軍司令官トルステンソンはデンマーク側の動きを素早く掴んで43年9月電撃的にデンマークに侵入した。これは、フランス軍が前述の「ツトリンゲンの戦い」で敗れた後はスウェーデンの負担が大きくなっており、しかもドイツでは戦乱で荒れ果てて食糧の調達もままならないことから、デンマークの領内で物資を調達しようとの目論見であった。皇帝がデンマークを支援するためガラス伯率いる1軍を派遣したが、急遽引き返してきたトルステンソンに打ち破られた。44年9月、18歳になったスウェーデン女王クリスティナ(グスタフ・アドルフの娘。これまでは幼少で政治に関与しなかった)が親政を開始したが彼女は平和を望んでおり、45年8月デンマークと「ブレンセブロ条約」を結んで和睦した。ただしドイツでの戦いはまだ数年続く。

 スウェーデン軍はデンマークとの講和がまとまる前からドイツでの戦いを再開していた。45年2月「ヤンカウの戦い」で皇帝・バイエルン軍に勝利し、ボヘミアの首都プラハに迫った。プラハにいた皇帝は数人の召使いだけを伴ってウィーンに逃走した。スウェーデンはトランシルヴァニア公まで味方に引き込んだ。もっともスウェーデン軍はボヘミアが完全に荒廃していて物資が調達出来ないのとブルーノ市の抵抗とでそこから進めず、トランシルヴァニア公は皇帝にハプスブルク家領のうちハンガリーの一部を譲ると言われて引っ込んだ。しかしこの年8月にはザクセン選帝侯がスウェーデンと休戦した。スウェーデン軍内部ではトルステンソンが健康上の理由で司令官職を引退し、ウランゲルが引き継ぐことになった。

 フランス軍ではテュレンヌ軍が一旦はバイエルン軍に敗北したが、その後アンギャン軍等と合流し、45年7月24日の「第2次ネルトリンゲンの戦い」にてバイエルン軍に勝利した。ただしこの戦いではフランス軍の損害も大きく、バイエルン軍に決定的な打撃を与えることは出来なかった。46年、スウェーデン軍がバイエルンに侵入した。バイエルン大公は焦土戦術で対抗したが翌年3月にはいったん休戦した。いい加減疲弊し尽くしていたことからやむを得ない選択だったのだが、皇帝はこの強力な味方の脱落に危機的状況に陥った。ただ、スウェーデン軍はもちろんこの機にさらに皇帝に打撃を与えるべく活動を活発化したのだが、フランスはそれに足並みを揃えなかった。スウェーデンがこのまま強くなりすぎることを警戒したのである。その間に、皇帝がバイエルンを戦線復帰させるべく工作を行った。皇帝はバイエルンの騎兵隊長ヴェルトを引き抜き、それに従った兵士は少数だったものの、バイエルン大公は休戦をやめて戦線に復帰することにした。バイエルンの援軍が加わった皇帝軍はスウェーデン軍をボヘミアから追い払った。

 48年1月、スペインとオランダが講和した。もともとスペイン領だったオランダは1568年から独立戦争を開始し、1609〜1621年の休戦期間を除いてずっとスペインと戦い続けてきたのだが、ここにきてやっと決着がついた訳である。
 
 バイエルン軍と皇帝軍は48年7月、テュレンヌ率いるフランス軍及びウランゲル率いるスウェーデン軍の連合軍との「ツルマルズハウゼンの戦い」に敗れた。バイエルン領内はさんざんに荒らされ、大公マクシミリアンは逃走した。もっともフランス・スウェーデン軍も現地を荒らしすぎたために食糧を調達出来なくなって引き揚げたが。その一方でアンギャン公率いるフランスの別軍が8月の「ランスの戦い」にてレオポルト大公率いる皇帝・スペイン軍を破った。その少し前の7月、ケーニヒスマルク率いるスウェーデン軍の一隊がボヘミアの首都プラハに突入した。プラハ市民は激しく抵抗し、3ヶ月に渡って持ちこたえて、後述する「ウェストファリア条約」の知らせによってようやく休戦した。

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 かねて予定のオスナブリュックとミュンスターにおける国際平和会議は計画より2年遅れの44年12月から始まった。これはヨーロッパ史上初の大規模国際会議と呼ばれている。参加国は66ヶ国、代表は148人、スイスのような戦争にほとんど関係しなかった国(註1)も代表を送り込んできた(註2)。席次を決めるだけで半年かかり、長々と議論が続く間にも既に述べたような戦闘が続いていた。というか、決定的な勝敗がつくまではうかつな結論は出せないし、引き延ばそうとする国もある。しかし、これも既述のごとく48年7〜8月にスウェーデン・フランス両軍に連敗し、プラハにまで突入される状況となるともはや皇帝も万事休すである。これまで皇帝を支えてきたバイエルンも、もはや皇帝と心中するつもりはない。また、スウェーデンは本国での徴兵が限界に達し、フランスは本国にて貴族の反乱「フロンドの乱」が起こる寸前となっていてそちらへの対処を迫られていた(註3)。1648年10月24日、遂に和平条約が署名された。条約は複数あった(どういう順番で署名するか決めるのに3週間かかった)のだが、全部あわせて「ウェストファリア条約」と総称されている。70門の大砲が3回の一斉射撃をしてこれを祝福した。このニュースが市街戦のプラハに届いたのはそれから9日後であった。

註1 スイスはスウェーデンに誘われはしたが中立。しかし傭兵(スイスは産業が乏しく、傭兵稼業が盛んであった)を各国に提供していた。フランス軍だけでも5万4000人のスイス傭兵がいた。戦争末期にスウェーデン軍がスイス領に接近してきたが、スイスはこれに対抗して独立を堅持するための3万6000の軍勢を動員した。これが現在に続くスイスの武装中立のはじまりとされる。

註2 イギリスは不参加。この頃「清教徒革命」の最中だったからである。

註3 フランスでは亡き宰相リシュリュー枢機卿の時から国内の有力貴族の力を押さえ中央集権をはかる数々の改革を行っていた。そのことへの不満がリシュリュー死後に吹き出してきたのである。貴族の拠点である高等法院は48年6月に「27ヶ条宣言」を突きつけ、フランス政府の側はいったんこれに譲歩した。しかし8月に「ランスの戦い」でフランス軍が皇帝軍に勝って三十年戦争の結果が見えると政府は譲歩を撤回し、翌年から本格的な内乱「フロンドの乱」へと突入する。これの鎮圧に活躍するのが三十年戦争でも勇戦したアンギャン公(コンデ親王)である。しかし反乱終了後の50年コンデ親王は望みの報酬が得られなかったことから政府に反旗を翻す。コンデ親王はこの時、三十年戦争の時の同僚だったテュレンヌとも交戦している。59年にコンデ親王側が政府に帰順。詳しくは当サイト内の「フロンドの乱」を参照のこと。

 まず、ハプスブルク家領を除く帝国全域の信教の自由が黙認されることとなった。「三十年戦争」の初期は宗教戦争の側面もあったのだが、そのうちカトリック優勢国のフランスがプロテスタント陣営に肩入れしたりして、宗教色は年を経るごとに薄くなってきていた。それから帝国諸侯が皇帝選出権を除いて平等の権利を認められ、諸侯は皇帝に敵対しない限りにおいて全く自由に行動出来るようになった。帝国諸侯はもともと独立性が強かったのが、ここに来て明確に立法・課税・外交権を手にした訳である。このことでウェストファリア条約は「古い帝国の死亡証明書」と呼ばれている。もっとも、帝国と皇帝の権威にはその後も敬意が払われ続けるし、中小の諸侯は単独では生きていけないのでクライス議会(帝国内の地方自治機関のようなもの)や帝国裁判所といった帝国の行政・司法機関を必要としたのだが。

 ボヘミア・ファルツ戦争の時に潰されたファルツが復活して選帝侯位も取り戻す(註4)が、その位を奪っていたバイエルン大公も改めて選帝侯として認められる(註5)こととなった。戦闘を有利にすすめていたフランスは帝国内のメッツ・トウル・ベルダンの司教代理職を確認(註6)、さらにアルザス地方の10都市の代官職、等を獲得して帝国会議の議席も手に入れた。スウェーデンは、宰相ウクシェンシェルナは色々な要求を考えていたのだが、若い女王クリスティナは理想主義的な見地から大幅に譲歩した。ポンメルン公領(37年に断絶)の半分とブレーメン、フェールデンの司教領、それから賠償金500万ターラーだけである(宰相の考えでは賠償金だけで1200万ターラー)。ただし、ポンメルンを巡ってはブランデンブルク選帝侯等周辺諸国との紛争がしばらく続くことになる。

註4 帝国内のプロテスタントを支援しようとのスウェーデンの要求だった。

註5 皇帝陣営の重鎮だったバイエルンに恩を売って味方に付けようとのフランスの要求だった。

註6 これらは16世紀に既に確保していたが、ここで改めて確認。

 それと、スペインとフランスの戦いはまだ終結せず、1659年の「ピレネー条約」まで継続することになる(註7)。その時スペイン王フェリペ4世の娘マリア・テレジアとフランス王ルイ14世との結婚が取り決められるが、1700年に当時のスペイン王カルロス2世(マリア・テレジアの兄弟)が亡くなると、ルイ14世が自分とマリア・テレジアの血を引く孫のスペイン王位継承を主張して「スペイン継承戦争」を引き起こすことになるのだが、そこまでは本稿の述べるところではない。とりあえず、三十年戦争とそれに続くフランスとの戦争によりスペインは完全に没落した。対して親戚の皇帝家は帝国全体のことを考えるのをやめた(ウェストファリア条約で帝国諸侯に事実上の独立を認めた)ことから自家領の経営に専念出来るようになり、1683年に東方から攻め込んできたオスマン・トルコ帝国の大軍を撃退(その時フランスは外交的にオスマン帝国を支援していた)、逆にオスマン軍を追撃する形でそちら側に領土を拡大した。中欧の大国としての復活である。

註7 先に少し述べたコンデの反乱は、その時までスペインの援助で続いていたのである。

 それからオランダの独立が国際的に承認された。何度も何度も書いているがオランダは本来スペイン領であったのが1568年に独立して以来80年に渡ってスペインとの戦争を続けており、スペインに対抗する諸国からは実質的に独立承認されていたのを、ここでようやくスペインからも正式に認めてもらえたということである。オランダはこの頃が最盛期だが、数年後にはイギリスとの「英蘭戦争」が始まって次第に衰えていく(註8)

註8 英蘭戦争については当サイト内の「北米イギリス植民地帝国史」を参照のこと。イギリスは「三十年戦争」の前半には首を突っ込んでいたが後半には国内で「清教徒革命」が始まって他国どころではなくなっていた。それが一段落したのが49年、貿易の争いからオランダに戦いを挑んできたのが52年である。

 そして、「三十年戦争」の犠牲者の総数は……とにかく膨大である。戦場となったドイツの人口は、昔の通説では、1800万から800万まで減ったとか1600万から400万に減ったとか言われてきたが、そのような数字の根拠になった同時代人の書き物には誇張が考えられるため、正確な数は今でも不明である。最近では教会の出生・死亡記録という最も信頼出来る資料がこの問題を考える有力な材料になっており、それらに照らし合わせて、総人口が半分以下に減ったという説はなくなったが、それでも人口の2〜4割が失われたとか、1600年と1650年の総人口を推定すれば実は増加しているとか、色々な説がある。何度も軍隊に踏み荒らされた不幸な地域もあれば、ほとんど無傷ですんだ地域もあった。何にせよ、この戦争はヨーロッパ史の中で最も破滅的な戦争のひとつに数えられ、全体としてドイツは経済的に著しく停滞し、ウェストファリア条約で諸侯の独立性が強まったことから近代的な統一国家の建設も19世紀後半まで持ち越されることになったと定義されている。

 最後にこの戦争の名称であるが、ウェストファリア条約が結ばれて以降もしばらくの間は「三十年戦争」という語は存在せず、人々は各局面をそれぞれ別の戦争と見なし、それらをミックスして語る場合には「戦争」という語を複数形で表記していた。これらを「三十年戦争」と表記したのは1667年のプーフェンドルフ著「ドイツ帝国」が最初であるという。

                                おわり     

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