ワイルド・ビル・ヒコック

 1837年イリノイ州うまれ。本名はジェイムズ・バトラー・ヒコックだが、高い鼻とややめくれあがった上唇から「ダック・ビル(鴨の嘴)」、縮めて「ビル」と呼ばれている。一家の先祖は17世紀前半に移民してきたという古参のアメリカ人であった。父親は奴隷解放論者で、息子のビルも常にそちら側に立って行動するこことなる。18歳の時に運河の建設現場で最初の殺人(正確には未遂)をおかして逃走するが、その頃カンザス準州で起こった北部派と南部派の抗争に参加する。61年7月、南部派の10人の男に襲撃されるが、ビルは6発の銃弾で6人を倒し、さらに1人を鉄拳でぶちのめして、残り3人もナイフで刺し殺した。そしてビル自身も24ヶ所の傷を負っていた……どの程度まで本当かわからない「ロック・クリークの殺戮」事件である。

 この後ビルは「南北戦争」にて北軍に入り、御者やスカウト(偵察兵)として活躍、戦後ミズーリ州スプリングフィールドにて除隊した。しかしここでディーブ・タットなる人物と決闘して相手を殺したことが作家ワード・ニコルスの耳に届き、前述のロック・クリーク事件をクライマックスとするノンフィクション「ワイルド・ビル」が雑誌『ハーパーズ』に掲載されて大評判となる。「既に100人殺した男」とかなんとか。翌年ビルはリレイ砦で連邦保安官補佐に任命され、ついで有名なカスター大佐率いる第7騎兵隊にスカウトとして参加した。カスターはこの男を激賞している。

 その後ビルはカンザス州ヘイズ・シティの保安官となり、この「平原のソドム」にて大いにその有名を馳せた。無法者に不意打ちされかけても相手が引き金を絞る一瞬の間に銃を引き抜き相手の額に銃弾を喰らわせる、2丁の拳銃で同時に射撃する、といった武勇伝が知られている。他にも各地の保安官や軍のスカウトの仕事を6年間続けてまわり、殺した人数は本人によれば36人であった(公的な記録では確実に殺した数は9人という)。それも、基本的にチームを組まず1人で仕事をしたというから驚きである。アビリーン市保安官を勤めた時には通常の3倍の給料を貰ったという。もっとも、彼のやり方があまりに暴力的だったことから(直接ビルを知る)市民の支持はいまいちで、保安官の選挙に落選したことも何度かあった。

 72年2月、ビルが保安官をつとめていたアビリーン市が牛の取り引き事業を停止し、乱暴なカウボーイたちが去って行ったことから治安担当のビルもこの機に「西部ショー」に転職した。巡業の舞台で自分自身の役を演じたりするのである。ただ、ビルは実生活では大変に芝居がかった男伊達で女たちにも大人気だったのだが、舞台の上では全く使い物にならなかった。むしろカンザス・シティーでの興行で南部の曲「デキシー」を要求して騒ぐテキサス人の前に立ちはだかって一斉射撃を受けたが1発もあたらなかった、とかいう舞台と関係ない話の方が有名である。とにかくビルは存命中からその活躍を(かなり誇張して)雑誌に紹介されて大人気となり、その、自分の虚像(といってしまっていいのかどうか)を自分自身で舞台で演じることによってまた新たな伝説をつくりだす、という、この時代以外では考えにくいことをやっていた訳である。もちろん本物のガンマンとしての実力も相当のものであったはずなのだが。ショーの相棒で親友でもあったバッファロー・ビルもこれ同じで、こちらは大成功をおさめている(その後破産)。

 結局、ビルはショーを辞め、ガイドや賭博をして生活するが、恐らくショー時代の照明の影響で目を悪くし、ガンマン時代とは別人のように衰えてしまうことになる。そして76年8月2日、ビルは金採掘に出かけたサウス・ダコタの酒場にて、突然うしろから後頭部を撃たれて即死したのであった。犯人はビルを仇と呼んだが、単に大物を殺して名をあげたかっただけだとも言われている。

おわり

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