ハプスブルク家とスイス盟約者団 前編その1

   ハプスブルク家の発祥と神聖ローマ帝国   目次に戻る

 ヨーロッパ最高の名門のひとつとされる「ハプスブルク家」といえば一般的にはオーストリアの領主というイメージが定着しているが、本来は現在のスイスの北部からドイツ・フランス国境地帯のあたりに住み着いていた一族であった。この家はもともとはドイツ・フランス国境のエルザス(アルザス)地方から出た小貴族であったとされているが、1020年頃にスイス北部のアールガウ地方に現在も残る「鷹の城(ハビヒツブルク)」を建設して一族の本拠地とした。「ハプスブルク」という家名はこの城に由来する。ここから東に進めばアウグスブルクやミュンヘンといったドイツ南部の諸都市、西に進めばバーゼルを経由してフランス北東部のシャンパーニュ(註1)、南へ進めばザンクト・ゴットハルト峠(後述)を経由して北イタリアの諸都市へと通じているという交通の要衝である。ハプスブルク家はここに居座ることによって次第に富を蓄積し、近隣の領主の所領を戦争や婚姻や買収によって獲得、勢力を拡大していった。

註1 地中海商業圏と北欧商業圏のつなぎ目にあたり、12〜13世紀にかけて毎年6回大規模な市場が開催されていた。


 ここでいきなり話がそれるが、当時のドイツやイタリア北部及びその周辺の地域は「神聖ローマ帝国」という国に含まれていた。この国においては、有力な帝国諸侯(註2)がまず「ローマ王」を選出し、そのローマ王がローマ教皇に戴冠してもらって「神聖ローマ皇帝」を名乗るということになっていた。しかしローマ王になれても教皇から冠を貰えないこともあり、その場合は「ドイツ王」と呼ばれることになる。

註2 帝国諸侯というのはつまり帝国内の大貴族のことだが、司教とか修道院長とかの聖職者の身分で皇帝から領地を与えられる「聖界諸侯」と、俗人の「俗界諸侯」の2種があった。本稿で単に「帝国諸侯」と表記する場合は基本的に後者のことである。また、そのような諸侯の支配をうけずに自治を行う「帝国都市」や皇帝の直轄地である「帝国代官領」もあった。


 そして、ハプスブルク家から最初にローマ王に選出されたのがルドルフ1世である。その時の選挙で第一の有力候補とされていたのはボヘミア王のオットカル2世であったのだが、他の帝国諸侯は力のある人物……オットカルは現在のチェコ・ドイツ東部・オーストリアにかけての広大な地域を支配していた……が皇帝として自分たちの上に君臨することを好まず、比較的に弱小(で操りやすい)と思われたルドルフを1273年ローマ王に選出したのであった。ルドルフは1239年に22歳でハプスブルク家の家督を継いでから婚姻等を通じて所領を拡大し、ローマ王になった頃には現在のスイス(という地名はまだないが)地域で最大の領主となっていたが、帝国全体では無名といっていい存在であった。

 無論オットカル2世も黙ってはいない。ルドルフとオットカル2世は1276年と78年の2度に渡って戦争を起こし、この争いに最終的に勝利したルドルフはオットカル2世の所領のうちオーストリアやシュタイアーマルクを奪取、一族の本拠地をオーストリアの首府ウィーンに移した。ハプスブルク家がオーストリアの領主となったのはこの時からである。まぁもっとも、ルドルフは皇帝にはならなかった……それよりも自分の領地の経営に専念した……ため、「ドイツ王」どまりということになるのだが。

 1291年7月にルドルフが死ぬと、帝国諸侯はすっかり強大化したハプスブルク家を敬遠して弱小領主のナッサウ公アドルフをローマ王に選出した。ルドルフの遺子アルプレヒトは領地の経営に専念することにしたのだが、これを強く警戒したのがハプスブルク家揺籃の地アールガウに近いスイス中部の「ウリ」「シュヴィーツ」「ウンターヴァルデン」の3地域に住む人々であった。この3地域はどれも高峻な山間部に位置して耕作地に乏しいことから強力な(地場の)領主が存在せず、かわりに小領主や修道院領、そして原始ゲルマンの自由民(後述)の流れをくむ自由農民(註3)の土地が散在しており、それらが寄り集まって小さな共同体を営んでいた。彼らは共同牧場で家畜を飼っており、季節にあわせて放牧の場所を変える「移牧」を行っていたため、牧場の開拓や道路・山小屋の修繕、家畜の移動の日時といったことを家畜の所有者みんなで管理するための共同体を組織したのである。

註3 「自由農民」とは、皇帝のみの支配を受ける(皇帝以外のどこの領主にも属さない)、ある程度の財産を持つ農民のこと。余所の地域では自由農民は早い時期に没落して近在の領主の土地で働かされる農奴と化していたが、スイスでは比較的に自由民が生き残っていたのである。ただ、自由農民の中には、農奴たちがそれまで人の住んでいなかった地域を開墾することで領主から一定の「自由特権」を賦与される「開墾自由人」というカテゴリもあり、スイスの自由農民もこれに属する人が多かったようである。


   スイスの沿革   目次に戻る

 ここで時代を古代にまで遡る。スイス地域には古くは「ケルト人」の一派である「ヘルウェティイ族」や「ラエティア族」が居住していたが、紀元前1世紀にはローマの支配下に組み込まれた。続いて3世紀の中頃になると北方から「ゲルマン人」の一派である「アレマン族」が、5世紀になると同じくゲルマン系の「ブルグント族」が侵入してきた。スイスの西部からフランスの南東部にかけての地域に居着いたブルグント族が次第にケルト人やローマ人と融合してローマの文化を受け入れていったのに対し、スイスの東部に住み着いたアレマン族は古来のゲルマン文化を保持し続けた。ゲルマン人には「貴族」「自由民」「奴隷」といった身分があり(註4)、そのうちの「自由民」が前述のスイスの「自由農民」の起源のひとつとされている訳である。宗教面では、ブルグント族がスイスにやってくる以前からキリスト教を信じていたのに対し、アレマンのキリスト教化はかなり遅れることになった。

註4 原始ゲルマンに関する詳しい話は当サイト内の「ローマ時代のゲルマニア」を参照のこと。


 現在(21世紀)のスイス連邦において、その東部ではドイツ語(ゲルマン系の言語)、西部ではフランス語(ローマの言語であったラテン語の方言)がそれぞれ優勢なのは、古代の民族移動の名残である。6世紀にはゲルマン系「ランゴバルト族」がイタリアに侵入、スイス南部もその支配下に置かれるが、ランゴバルト族は全面的にローマ文化を受け入れた。そのせいでスイス南部のティチーノ地方では現在に至るまでイタリア語が話されている。ただ、スイスの東南端に位置するグラウビュンデン山地にはゲルマン人はあまりやってこず、ケルト系のラエティア族が独自の文化を保ち続けた。この地域には今でも「ロマンシュ語」という独自の言語が残っている。

 534年、ブルグントの王国は北フランスのゲルマン国家「フランク王国」に併呑され、その2年後にはアレマンの王国もフランクの支配下に落ちた。それまでキリスト教化が遅れていたアレマンの地にはフランク王家の後押しで「コンスタンツ司教」が設置され、修道士の活動によって布教が進められた。フランク王国は7世紀には内紛で衰え、その隙に乗じたアレマンが独立を回復するのだが、やがて勢いを取り戻した(王家が変わった)フランク王国によって再び制圧された(この時「血の沐浴」と呼ばれる凄惨な殺戮が起こった)。イタリアのランゴバルト王国もフランクによって滅ばされ、グラウビュンデン山地もフランクの支配下に入った。

 843年、フランク王国は「西フランク王国」「東フランク王国」「中フランク王国」に分裂、ブルグントの地は中フランクに、アレマンの地は東フランクに組み込まれた。しかし中フランクの王家は早期に断絶したためブルグントが独立を回復(888年)、911年には東フランクの王家も断絶したことからアレマンも独立した。その後の東フランクでは有力貴族の選挙によって国王が選ばれることになるのだが、919年の選挙で即位したザクセン大公ハインリヒが920年にアレマンを制圧した。そして962年、ハインリヒの子オットーがローマ教皇から皇帝の冠を貰い、本稿の上の方で説明した「神聖ローマ帝国」を建国した。ブルグントは1032年に神聖ローマ帝国軍と戦って敗れ、その支配下に組み込まれた。

   ツェーリンゲン家   目次に戻る

 こんな具合にして、スイスの全域は神聖ローマ帝国の支配下に組み込まれていった。しかし、実のところこの国の皇帝の権力は強力なものではなく、帝国の各地には有力諸侯が割拠していた。特にスイスは人口が疎らで未開墾地もあったため、開拓事業を通じて中小の領主があちこちに自生した。ハプスブルク家もそのひとつであるが、とりあえずはドイツ南部に本拠地をおいていた帝国諸侯ツェーリンゲン家が勢力を拡大、1098年には「帝国代官領(皇帝の直轄支配地)」という扱いを受けていたスイス中央部の「ウリ」の代官職を入手した。

 ツェーリンゲン家はライバルであったホーエンシュタウフェン家に備えるためにスイスの各地に都市を建設した。まず1157年頃に「フリブール」を建設したのを皮切りに、1170年頃に「ムルテン」、1180年頃に「ブルクドルフ」、1191年には現在のスイス連邦の首都となっている「ベルン」を建設した。さらに、フランク王国時代に王宮が置かれていた「チューリヒ」の支配権を獲得してその町を拡張している。この頃のスイスでは「三圃農法」の普及に伴う農業生産の拡大によって人口が増えており、その受け入れ先としての都市の建設がブームになっていた。ツェーリンゲン家のみならずハプスブルク家やヌシャテル家、サヴォア家といった各地の領主があちこちに都市を築いている。領主たちは周辺の農村から人を呼ぶために都市に経済特権を与えたため、各都市は次第に強大な経済力を蓄えていくことになる。

 ところがツェーリンゲン家は、1218年になって男系相続人が途絶え、潰れてしまった。統治者不在となったウリやベルン、チューリヒ等は当時の皇帝であったフリードリヒ2世(ホーエンシュタウフェン家)の直轄領となり、彼の派遣する代官が支配することになった。他所の領主に取得された地域もあり、スイス各地の領主たちはツェーリンゲン家の断絶によって生じた権力の空白を埋めるための軍事拠点としてますます多くの都市を建設した。中世のスイスには全部で197の都市があったが、そのうちの152は13世紀に建設されている。まぁもっとも、その大半は人口200人以下という零細都市で、政治・軍事的機能を優先していたことから経済的な立地はイマイチなものが多かった。

 ハプスブルク家も所領を拡大した。フリードリヒ2世に貸していた金の抵当としてウリの支配権(代官職)を獲得したのである(といわれている。詳細は不明)。その頃ウリの南では「ザンクト・ゴットハルト峠」が開削されて(1200年頃に開通したらしい)この峠がドイツと北イタリアをつなぐ大動脈となりつつあったが、皇帝フリードリヒ2世はこのルートを利用してのイタリア方面への進出(いわゆる「イタリア政策」)に熱心であり(註5)、そのために必要な軍資金をハプスブルク家から借りるためにウリの代官職を抵当に出したという訳である。

註5 フリードリヒ2世は母方から南イタリアのシチリア王国を相続しており、その関係でイタリア政策に力を入れていた。


 ちなみに、ドイツからアルプス山脈を抜けてイタリア方面に向かうルートは他にもあるのだが、ザンクト・ゴットハルト峠を通るルートは他よりも短く、河川や湖の水運を利用出来るので荷物の運搬が楽であった。ウリの住民たちは峠越えに使う荷獣の組合を結成し、さらに牧畜で生産した肉やチーズを峠の向こうのイタリア諸都市に売り込んでかなり潤った。この時代のザンクト・ゴットハルト峠を通過する年間荷物量は現在の貨物列車2便程度であったというが、それでも当時としては莫大な量だったようである。

   自由特許状   目次に戻る

 そして1231年、ウリの人々はザンクト・ゴットハルト峠を通じて得た収入を用いて自力で抵当を解除、皇帝側から「自由特許状」を取得した。ハプスブルク家のような地方領主ではなく皇帝に直属し、帝国税の徴集と帝国のための徴兵、帝国による重罪犯の裁判を受け入れる以外は自治を認められるというものである。「これにより諸君らをハプスブルクの占有より買い戻し、解放した。今後は、授与によってであれ、担保としてであれ、諸君らを手放すことをせず、永久にわれわれと帝国の奉仕のために保持し、保護することを約束するものである」。皇帝フリードリヒ2世は前述の「イタリア政策」を通じてローマ教皇と喧嘩していたのだが、この喧嘩に勝つための戦略的重要交通路であったザンクト・ゴットハルト峠を扼する地域であるウリの人々に自治を与えるという形で自分の味方につけたのである。それにしても、神聖ローマ帝国においては都市が自由特許状を獲得することは多々あった(そういうのを帝国都市と呼ぶ)が、ウリのような農村部の共同体がこの権利(皇帝のみに属する権利)を獲得することは稀であった。

 ウリの近くの「シュヴィーツ」と「ウンターヴァルデン」には、ウリと同じように小領主や自由農民が散在していたが、その「自由」の程度はウリの自由農民と比べれば低いもので、この頃はハプスブルク家の分家であるラウフェンブルク家の支配を受けていた(註6)。ラウフェンブルク家はフリードリヒ2世皇帝のイタリア政策に際して教皇側に与したのだが、シュヴィーツの人々は皇帝側に加担、喜んだ皇帝は1240年シュヴィーツに対し「皇帝と帝国のみに従い自由民にかなう」として自由特許状を発行した。

註6 ハプスブルク家のような地方領主のもとで一定の自由を保障される農民よりも、皇帝のみに直属する農民の方が高貴なのである。


 ウンターヴァルデンは、東半分の「ニートヴァルデン」がラウフェンブルク家とともに教皇派、西半分の「オプヴァルデン」が皇帝派であった。42年、ラウフェンブルク家が皇帝側に寝返るとニートヴァルデンは同家の代官を実力で追放して自治を獲得した(ただし法的根拠はなかった)。ニートヴァルデンはザンクト・ゴットハルト峠を通じて商売していたイタリア諸都市が教皇派であったことからそちらとのつきあいを優先したのであった。オプヴァルデンの方はラウフェンブルク家が教皇派だったから(シュヴィーツと同じ効果を狙って)皇帝派についたのに、皇帝が特許状をくれる前にラウフェンブルク家が寝返ったために意味がなくなり、この後しばらくはラウフェンブルク家の支配を受けることとなった。

 1250年、フリードリヒ2世が死に、次男のコンラート4世が皇帝となった。しかしコンラート4世は4年後に死に、以後の帝国は皇帝不在の混乱期「大空位時代」に突入する。これを収拾する形でローマ王に選出されたのが本稿の最初の方に登場したハプスブルク家のルドルフ1世という訳なのだが、ルドルフはローマ王になる前後にラウフェンブルク家の領地を婚姻を通じて取得した。

 ルドルフはドイツ王(実質的には皇帝)としてウリの自由特許状を認めた(更新した)が、シュヴィーツのそれは認めなかった。シュヴィーツはハプスブルクの分家(ラウフェンブルク家)が支配していたのにフリードリヒ2世皇帝が不当な特許状を与えてしまったのだと解釈したのである。しかしルドルフはシュヴィーツに対し特に何か強圧的なことをするでもなく、とりあえずは本稿の上の方で述べたボヘミアのオットカル2世から奪った領地の経営に力を入れることにし、スイス方面においてはシュヴィーツの近くのルツェルン、ツーク、グラールスといった地域の支配権を購入するにとどまった。(たまたま断絶した領主の所領を取得したりした)

   永久同盟   目次に戻る

 そして、ルドルフの子のアルプレヒトの代となる。ルドルフが死んだわずか2週間後の1291年8月1日、ウリ、シュヴィーツ、ニートヴァルデンは「リュトリの野」において「永久同盟」を締結し、無償の相互援助を誓い合った。「すべての人々に知らしめよう。今日当面する奸策(ハプスブルク家の野心)に鑑み、また、各人の生命と所有物をより容易に保護し、至当なる立場でよりよく保持できるように、ウリの谷間の住民、シュヴィーツの谷間の共同体、ニートヴァルデンの谷間の共同体は相互に生命、財産を捧げて、援助、忠告、助成をすることを通じて味方しあうことを、誠実に誓約する。それは、これらの谷間のこなた彼方を問わず、ここに住む人々全体、あるいはそのうちの1人に暴力を加えて苦しめ、不正をなし、彼らの生命・財産に対して悪企みをしようとする集団や個人に対して、全力をもって行うものである。(同盟の)各共同体のいずれも、他の共同体のために援助を必要とする限り、いかなる場合にも援助に赴くことを約束する。しかも、悪意を持つ者の攻撃に抵抗し、加えられた不正に報復する必要がある時には、自らの費用で援助するものである」。

 同年12月にはオプヴァルデンもハプスブルク家の支配から離脱、同盟に加入してきた。ここに出揃ったウリ、シュヴィーツ、ウンターヴァルデンの3つはスイス史において「原初3邦」と呼ばれ、永久同盟が結ばれた8月1日は現在のスイス連邦の「建国記念日」となっている。シラーの戯曲やロッシーニの歌劇で有名な「ヴィルヘルム・テル(ウィリアム・テル)」の物語はこのような史実をもとにして15世紀頃に形成された伝説である。ちなみにテルはウリのビュルグレン村に住んでいた猟師で弓矢の達人だったというが、その実在性については今のところ証明されていない。

 この時点では3邦全体を統括する政府や議会のようなものは存在せず、各々で共和政治を行いつつ協力しあうということになっていた。邦はスイスの言葉では「カントン」と呼び、現在のスイス連邦においても26のカントンが各々独自の憲法・行政権・立法権を有している(註7)。アルプレヒトの方はたまたま他の領地で起こっていた反乱に対処するのに忙しく、永久同盟を潰しにかかるようなことはしなかった。

註7 むろん現在のスイスには連邦議会や連邦政府がある訳だが、そういったものが出来たのはずっと後世のことである。


   モルガルテンの戦い   目次に戻る

 1298年、皇帝アドルフ(ルドルフの次にナッサウ家からローマ王に選出された人)が帝国諸侯の会議によって罷免された。アドルフは諸侯の操り人形として選出されたのに、その期待に答えなかったのである。この罷免を執行した、つまりアドルフを攻めて殺したのがアルプレヒトである。そんな訳でめでたくローマ王に選出されたアルプレヒトは、しかし10年後には相続問題で甥に暗殺された。帝国諸侯は弱小領主のルクセンブルク伯ハインリヒをローマ王に選出した。ハインリヒはローマに行って教皇から冠を貰うために、その通路にあたるザンクト・ゴットハルト峠を扼する永久同盟の3邦に一括して自由特許状を授けてこれを味方につけた(1309年)。ハインリヒはめでたく戴冠式を挙行して「皇帝ハインリヒ7世」となった。

 1313年、皇帝ハインリヒ7世が死に、次のローマ王位はハプスブルク家のフリードリヒ(アルプレヒトの子)とバイエルン公ルートヴィヒによって争われることとなった。スイスの3邦はもちろんルートヴィヒに加担した。たまたまその頃、ハプスブルク家の保護下にあった「アインジーデルン修道院」とシュヴィーツが放牧地の管理をめぐって境界争いを起こしており、14年1月にはシュヴィーツ側が修道院を襲って略奪暴行を働くという事件が発生した。同年秋、フリードリヒの弟レオポルドの率いるハプスブルク軍9000名がシュヴィーツを討伐すべく出陣した。そのうち2000名は頑丈な鎧をまとい馬に跨がった騎士たちである。

 対するシュヴィーツ軍の兵力はウリとウンターヴァルデンからの援軍をあわせてもわずかに1300名であった。11月15日、ハプスブルク軍はエーゲリ湖とモルガルテン山に挟まれた細い道路を通って進撃しようとした。ここで起こるのが「モルガルテンの戦い」である。シュヴィーツ軍はまず小部隊でハプスブルク軍の行く手をふさぎ、次いで本隊が山の上から石や木を投げつけ、そして山を駆け下り突撃を敢行した。シュヴィーツ軍の歩兵隊は山道で細長い縦隊になっていたハプスブルク軍の騎士たちを見事に粉砕、ハプスブルク軍は2000の戦死者を出して潰走した。大将レオポルドは敗戦の悲しみのあまり半死状態になったという。

 シュヴィーツ軍の歩兵隊は付近の地形を知りつくしていたうえに「ハルバート(長さ2〜3.5メートルの柄を持つ斧と槍を合わせたような武器)」を巧みに用い、ハプスブルク軍の騎士を落馬させて串刺しにするという騎士道も何もない戦いぶりで勝利したのである。それまでのヨーロッパの戦争というものは、美々しい甲冑を身にまとった騎士同士の華麗な一騎打ちで相手を捕虜にして身代金をとることに眼目をおく「芸術品としての戦争」であったのだが、3邦の軍勢は敵軍を震え上がらせるために捕虜を情け容赦なく殺すという「邪悪な戦争」を繰り広げたのであった。

 「モルガルテンの戦い」の1ヶ月後、3邦は同盟をさらに強固なものに更新した。これを「モルガルテン同盟」と呼ぶ。ローマ王位を巡る争いの方はバイエルン公ルートヴィヒが勝利し、同盟は改めて彼に忠誠を誓ったが、皇帝となった彼の代官が同盟の支配地域に現れることは1331年以降絶えてなくなった。ルートヴィヒとしてはハプスブルク家との対抗上、3邦に自由を与えるという形で味方につけておく必要があったのである。もっともルートヴィヒは1325年になってハプスブルク家と和解し、ルートヴィヒが皇帝、ハプスブルク家のフリードリヒがローマ王ということになったが、フリードリヒはその5年後の1330年に亡くなり、次のローマ王にはルクセンブル伯カール(ハインリヒ7世の孫)が選出された。以降のハプスブルク家は1438年までローマ王・皇帝に選ばれなくなった。

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