サファヴィー朝

   

   白羊朝と黒羊朝

 モンゴル帝国が侵入した後の混乱期、現在のイラン西部、イラク北部、トルコ東部にまたがる地域にはトルコ系遊牧民の起こした「白羊朝」と「黒羊朝」という二つの王朝が存在した。両国は14世紀後半に中央アジアから勃興してきた「ティムール帝国(註1)」に敗れたり服属したりしていたが、ティムール朝が弱体化すると独立を回復、1467年には白羊朝が黒羊朝を壊滅させて現在のイラン・イラク・アゼルバイジャンからトルコ東部にかけての地域をほぼ制圧した。

 註1 モンゴル帝国系のチャガタイ・ハーン国の貴族ティムールが起こした国。

 白羊朝は1469年にはさらに東のティムール朝を破って崩壊寸前にまで追い込むが、その覇権は長くは続かなかった。白羊朝の西隣に、去る1453年にビザンティン帝国を滅ぼして意気あがるオスマン・トルコ帝国という恐るべき強敵が存在したからである。この頃オスマン帝国に苦しめられていたヨーロッパの諸国は白羊朝を同盟を結びたがっており、白羊朝の方もさらに西の地中海に出たがっていた。1473年、バシュケントにて白羊朝とオスマン帝国が激突、白羊朝軍の騎兵隊はオスマン軍の火器に壊滅させられた。以後、白羊朝は短期間で君主が何人も交替し、(一時的に盛りかえしたこともあったが)次第に没落していった。

   

   サファヴィー朝の開幕

 この頃、イラン西部のアルダビールに「サファヴィー教団」というイスラム教シーア派の教団が存在した。この教団はサフィー家が世襲の教主をつとめており、15世紀前半にはさらに東方のトルコ系遊牧民の間にまで教勢を伸ばしていた。白羊朝はこの教団と姻戚関係を結んだこともあったが結局は敵対し、弾圧を行ってその教主の命を奪ったりもした。1499年、それまで白羊朝の弾圧を避けてカスピ海の近くに潜伏していた若き教主、なんとたったの12歳のイスマーイエルが挙兵した。

 最初の部下はわずか7人にすぎなかったが、そのうちに、これまでサファヴィー教団が勢力を植え付けてきたトルコ系遊牧民の七つの部族からなる騎馬軍団「キジルバシ」が馳せ参じてきた。キジルバシとは彼等がかぶっていた赤い帽子のことである。1500年、イスマーイエル軍はイラン北西部のダブリーズ(白羊朝の首都)を占領、「シャー(王)」を称した。これが「サファヴィー朝」の始まりである。ダブリーズに入ったイスマーイエルはシーア派の一派である「十二イマーム派」を国教とすることを宣言し、これまでスンナ派が優勢だったイランに積極的にシーア派を広めていくことになる(かなり時間がかかっているが)。現在のイランが圧倒的にシーア派優勢なのはこのためである。

 サファヴィー朝の王家は伝説によると予言者ムハンマド(マホメット)の娘婿アリーの息子フサインと、イランがイスラム化する前に存在した「ササン朝ペルシア」最後の王ヤズデギルド3世の娘シャハル・バーヌーの結婚によって始まったとされている。その、特に「(イラン史上の)大帝国ササン朝の末裔」というポイントが文化的な中華意識の強いイラン人を惹き付けたこと、サファヴィー朝が信奉する「十二イマーム派」というのは予言者の娘婿アリーの子孫にして神秘的な能力を持つ「イマーム」が救世主となるという考えを持つ(註2)のだが、イランではスンナ派でもイマームを崇拝する習慣があったこと……アリーの子孫を崇拝するのだからこれはシーア派的な習俗である……が、イラン人がサファヴィー朝の政策を通じてシーア派を受け入れて行った要因と考えられている。

 註2 予言者ムハンマド(マホメット)の娘婿アリーの子孫のみが宗教・政治の最高権を握るとするのがシーア派。かような最高指導者は必ずしもアリーの子孫でなくても問題ないとするのがスンナ派。

 サファヴィー軍は白羊朝の残存勢力を掃討しつつ現在のイラン西部からイラクにかけての地域を席巻したが、これとほぼ同時期に中央アジアの西トルキスタンから出てイラン東部を征服していたのが「シャイバーニー朝」である(註3)。1510年、サファヴィー軍とシャイバーニー軍とが決戦し、退却と見せかけての待ち伏せ攻撃を行ったサファヴィー軍が大勝した。シャー・イスマーイエルは討取った敵の大将シャイバーニー・ハーンの髑髏に金箔を塗って酒宴の杯にしたと言われている。こうして現イラン地域はサファヴィー朝によって統一された。……ただし、シャイバーニー朝はまだ滅んだ訳ではないのだが……。(註4)

 註3 この王朝の始祖はチンギス・ハーンの長男ジュチの5男シバンの子孫アブル・ハイル・ハーンである。宗家のキプチャク・ハーン国(モンゴル帝国の分家。ジュチ・ウルスとも)から独立、ティムール帝国の弱体化に乗じて勢力を拡大した。アブル・ハイルの死後分裂した彼の勢力を再統合したのが孫のムハンマド・シャイバーニー・ハーンで、彼以降の王統を「シャイバーニー朝」と呼ぶ。

 註4 この少し後に勢力を回復するシャイバーニー朝とは別に、その傍系のイルバルスという人物が1512年にホラズム地方に独立・建国したのが「ヒヴァ・ハーン国」である。この国は18世紀の末には王朝が交替し、1876年にロシア帝国によって保護国化されるに至る。

 ここで少し余談。この頃、やはりシャイバーニー朝に苦しめられていたティムール朝(註1を参照)系の小集団にバーブルという若者がいた。バーブルは多くもない軍勢を率いて中央アジアのサマルカンドやアフガニスタンのカーブルといった地域に転戦していたが、1510年にサファヴィー軍がシャイバーニー軍を破った際に、バーブルは以前シャイバーニー朝に奪われていた姉をサファヴィー朝に送り届けてもらうという出来事があった。このバーブルこそが、後に北インドを征服して「ムガール帝国」の初代皇帝となる人物である。バーブルは1512年には勢力を回復したシャイバーニー軍に敗れ、やむなくインド方面へと転進するのである。

 話をサファヴィー朝に戻す。西方に目を向ければ、そこにはスンナ派を奉じるオスマン帝国が相も変わらず勢いを伸ばしていた。オスマン帝国は国内のシーア派に大弾圧を加えていたことから、サファヴィー朝との激突は必至であった。政治的にはオスマン領の東部にいたトルコ系遊牧民がオスマン帝国よりサファヴィー朝の方が待遇がよさそうだとみてそちらに走りつつあったという背景が存在した。オスマン帝国ではトルコ系遊牧民はあまり重用されていなかったのに対し、サファヴィー朝ではトルコ系騎馬部隊「キジルバシ」が大活躍していたのである。

 そして1514年8月23日、チャールデラーンにて行われた大会戦にて、サファヴィー軍は敗北を喫してしまった。サファヴィー軍は騎兵のみ6万、オスマン軍は12万で(数については諸説ある)、数にまさるオスマン軍がさらに鉄砲や大砲の威力を発揮する形となった。シャー・イスマーイエルにとって、生涯最初の敗戦であった。イスマーイエルはこの、たった一度の敗北から立ち直ることが出来ず、酒と狩猟に耽溺しつつ10年後に亡くなった。

   

   大帝アッバース

 長男のタハマースプが10歳で即位した。サファヴィー朝は東にシャイバーニー朝、西にオスマン帝国という強敵に領土を挟まれており、タハマースプの代にはオスマン帝国に要地ダブリーズやバグダッドまで奪われてしまった。ただし、オスマン本国からみればサファヴィー朝は距離的に離れすぎている上に気候風土も違い、タハマースプは繰り返し遠征してくるオスマン軍に対し焦土作戦を行ってなんとか持ちこたえることが可能であった。このタハマースプの代には、インドのムガール帝国第2代皇帝フマーユーンが戦いに敗れて亡命してきたのに軍勢を貸しあたえ、故国を回復させるという出来事があった。

 そして、タハマースプの次の次の次のシャーとなったのが「大帝」アッバース1世である。アッバースは国境地帯の領土を譲るという思いきった譲歩によってオスマン帝国と和睦し、その余力を持って1597年のヘラート近郊の戦いにてシャイバーニー軍を撃破(註5)、かえす刀でオスマン軍をも打ち破った。

 註5 シャイバーニー朝はこの頃までが全盛期であったのだが、1599年には男系が途絶えて新しい王朝「ジャーン朝(アストラハン朝とも)」が立つことになる。ジャーン朝は内部の諸部族の独立化を押さえきれないまま1756年に「マンギト朝」にとってかわられる。この国は別名「ブハラ・ハーン国(ブハラ・アミール国とも)」と呼ばれ、1868年にロシア帝国に保護国とされた。それとは別に1712年、シャイバーニー朝の血を引くシャー・ルフという人物がブハラ・ハーン国の勢力圏だったフェルガーナ盆地に自立して建国したのが「コーカンド・ハーン国」である。東方の清(当時の中国の統一王朝)と交易して栄えるが、1876に滅亡してロシア帝国に併呑される。

 この戦いでは技術的にはイギリス人技術者の助力で編成した大砲部隊の威力がものをいったといい、編成面では王朝創業以来の軍事力の中核だった「キジルバシ(トルコ系遊牧民の騎馬部隊)」を解体してシャーのみに直属する近衛軍団を編成していたことが大きく勝利に貢献した。キジルバシは各部族ごとに結束していてシャーよりも族長の意見を重視することが多く、族長は中央の要職を歴任し、地方の知事になった場合には中央におさめる一定額以外の税収を自分の懐に入れてしまっていた。アッバース1世は自分が即位した時の内紛でキジルバシ同士が争っていたのを利用して、これを各個に片付けることに成功したのであった。

 新しく創設された近衛軍団には、キジルバシの若者を部族から引き抜いて(族長ではなく)シャーから直接俸給を与える形にした「コルチ」部隊と、サファヴィー朝北西部のグルジアやアルメニアから集めたキリスト教徒の子弟をイスラムに改宗させた「王のゴラーム(奴隷)」部隊とが存在した。「王のゴラーム」は、オスマン帝国がバルカン半島のキリスト教徒の少年を改宗させて組織した「イェニチェリ」とよく似た組織だが、イェニチェリが歩兵なのに対してゴラームは騎兵主体といった違いがある。また、同時期に編成された鉄砲隊「トゥファングチ」及び大砲隊「トプチ」は主にイラン人によって編成されていた。

 サファヴィー朝はカフカース(黒海とカスピ海に挟まれた地域)のキリスト教徒を重用した。東方正教(註6)徒であるグルジア人は武勇と美貌で知られ、サファヴィー朝に取り立てられて、男は地方の総督、女はシャーを含む高官の妻になるものが多数いた。屯田兵として地方に移住させられた集団もおり、現在のイラン・イスラム共和国にもグルジア語を話せる人が1万人程度、グルジア語を忘れた人も合わせれば約30万人が居住するとされている。

 註6 キリスト教の一派。バルカン半島やロシアに多くの信徒を持つ。1054年にローマ教会(カトリック)と完全に決裂して現在に至る。

 「アルメニア使徒教会」(註7)を奉じるアルメニア人はサファヴィー朝とオスマン帝国の係争の地に居住しており、オスマン帝国との国境地帯をなるべく無人の荒野にするとのアッバース1世の政策によって、多くの人々がサファヴィー朝の首都イスファハーンへと強制移住させられた(現在もいます。現イスファハーン市にはアルメニア使徒教会の教会が13あるとのこと)。

 註7 キリスト教の一派。451年の「カルケドン公会議」で異端とされた。当サイト内の「中東のキリスト教」を参照のこと。

 それから、この地域で21世紀の現在グルジア・アルメニアと並んで独立国を形成しているのがアゼルバイジャン人(アゼリー人)である。彼等はもともと11〜13世紀頃に東方からやってきたトルコ系遊牧民(と土着の人々が混交したもの)で、サファヴィー朝の創業期に騎馬軍団「キジルバシ」を形成してその主力となった集団である。言語はトルコ語の方言、宗教はシーア派イスラム教を奉じでいる(註8)。話がずれるが彼等の一部は19世紀の前半にロシア帝国に組み込まれ、ソ連時代を経て現在の「アゼルバイジャン共和国(人口は約800万)」を形成している。もちろん現在のイラン・イスラム共和国にも多くが居住(註9)し、その数は一説に1200万人に及ぶとされている。(註10)

 註8 その西の現在のトルコ共和国にすむ「トルコ人」は主にスンナ派。

 註9 「アゼルバイジャン」という地名は現在の「アゼルバイジャン共和国」だけではない。イラン・イスラム共和国北西部にも「イラン領アゼルバイジャン」という地方がある。両者は分断されている、という発想は現在も強く存在する。

 註10 ところで、古い歴史概説書にはサファヴィー朝というのはイラン人のたてたイラン的王朝であるということが強調されているが、実際にはこれまでにみたとおりその創業にはトルコ系遊牧民が深くかかわっており、初代のシャーであるイスマーイエル自身からして母と祖母がトルコ系であった。歴代のシャーが好んでグルジア女性と通婚したこと、カフカースから連れてこられた人々が要職についたことも既にみたとおりであり、最近の論調ではサファヴィー朝を「イラン的」と評することはあまりなくなっている。ちなみに、サファヴィー朝のライバルであるオスマン・トルコ帝国も、これと同じような理由で、昔は「トルコ帝国」と呼ばれていたりしたのが、最近では単に「オスマン帝国」と表記されるようになっている。

 さて勢いに乗ったサファヴィー軍はかつてオスマン帝国に奪われていたバグダッドやダブリーズを回復し、北西のクルディスタンにまで版図を拡大した。アッバース1世は地方豪族でもあったキジルバシをさらに押さえ込むことによって王室直轄地を拡大し、道路網を整備して商工業の興隆に尽力、1598年にアッバース1世自らの基本設計によって建設された新首都イスファハーンは約60万もの人口を数えて「世界の半分」と称される栄華を誇ることとなる。アッバース1世はイギリス・フランス・オランダの商人を歓迎し、イラン(とその周辺の)産の絹糸や絨毯が世界に知られるようになった。この繁栄には、商才にたけるアルメニア人の活動が大きな力となっていた。イスファハーンに居住するアルメニア人は既にみたように強制的に移住させられた人々ではあるのだが、その商才を見込まれて様々な特権を与えられ、主に絹糸をヨーロッパに輸出する事業を行う彼等の居住区は最盛期で約3万の人口を持っていた。

   

   停滞期

 名君アッバース大帝は1629年に亡くなった。彼は、跡継ぎのことは全く考えていなかった。ある程度成長した王子が3人いたが、アッバースはその3人を3人とも疑い、長男を処刑、あと2人の目を潰してしまっていた。結局、処刑された王子の子が「シャー・サフィー」として即位した。

 シャー・サフィーは幼時から祖父の方針により、(祖父に歯向かわないよう)ハーレムにて愚昧に育てられていた。彼は政治は大臣たちに任せきりで自身は酒と阿片に耽り、気分の赴くままに多くの人々を殺した。1638年にはオスマン帝国との戦いに敗れて現在のイラクに相当する地域を奪われた。在位13年で死んだのは毒殺が原因ともいう。

 次のシャーとなったアッバース2世は私生活はともかく政治にはそれなりに熱心で民衆にも公平であった。懸案だったオスマン帝国との和平を実現し、北東から繰り返し侵犯してきていたウズベク人(註11)に対してはその内紛を調停する形で抑え込む。アッバース2世は芸術の才を有したことから首都イスファハーンはますます華美に彩られ、ヨーロッパ諸国との交流もさらに盛んになった。

 註11 註4と5で説明したヒヴァ、ブハラ、コーカンドの3ハーン国の主体となる人々のこと。これらは3つあわせて「ウズベク3ハーン国」と呼ばれる。もともとはモンゴル系キプチャク・ハーン国東部にいたトルコ系遊牧民のことで、註3で説明したシャイバーニー朝(その創始者自身はキプチャク・ハーンの傍系)の主要構成員でもあった。ちなみに15世紀後半にウズベク人から分裂したのがカザフ人で、17世紀には大中小の3つの部族連合を形成するが、19世紀中頃にあいついでロシア帝国の支配下に組み込まれる。ウズベク人もカザフ人もスンナ派が優勢。

 その次のシャーとなったスレイマーンの代にはハーレムの宦官たちが政治を動かす傾向が顕著となってきた。次のシャー・ホセインは即位したとき馬に乗ることも出来なかったが、西方のオスマン帝国がヨーロッパ諸国との戦いに集中していたこともあって、出番の少ないサファヴィー朝の軍隊は次第に弛緩していった。いや、正確にいうと、オスマン帝国の後背を突いて領土を奪うことは可能であったし、辺境では色々と騒がしいことが起っていたのだが……。

 スレイマーンの次は弟のフサインが即位した。彼は大臣たちの進言をなんでもそのまま受け入れ、そのせいでシーア派の原理主義者の台頭を許してしまうこととなった。サファヴィー朝は建国以来シーア派を国教としながらもある程度王朝の土台が固まって以降は他宗に寛容で、スンナ派だけでなくキリスト教の諸派をも認めていた(近衛軍団に入れる時は改宗させたが)のだが、シャー・フサインの代から急激に他宗を圧迫することとなる。

   

   アフガン人の侵入

 イランの東、インドの北西は現在でいうアフガニスタンである。サファヴィー朝に属したりインドのムガール帝国の一部になったりしていたが、この頃はサファヴィー朝に押さえられていた。ここの人々「アフガン人」はスンナ派を信仰しており、サファヴィー朝の総督によるシーア派の押し付けに激怒していた。1704年、アフガン人の中のギルザーイー部族がミール・ヴァイスに率いられて反乱を起こし、この時は鎮圧されたものの、首都イスファハーンに護送された首謀者ミール・ヴァイスはシャー・フサイン(善人)に気に入られて自由を回復した。彼はイスラムの聖地メッカに巡礼に出かけ、そこでイスラムの法学者の門を叩いて、スンナ派たる自分とアフガン人がシーア派サファヴィー朝に反抗することの正統性を認めてもらうという成果をあげた。

 そして5年後、ミール・ヴァイスと配下のアフガン人は再び決起して今度はカンダハールを占領、サファヴィー朝の総督を殺害した。アフガン人たちはサファヴィー軍をことごとく退け、新国家「アフガニスタン」の基礎がここに築かれることとなった。

 1721年、ミール・ヴァイスが亡くなり、その息子で新しくアフガン人の首領となったミール・マフムードが軍勢を率いてサファヴィー領へと侵入した。その兵力は1万8000人、多くの兵士は馬がないので牛に乗っていたという。翌22年3月、サファヴィー軍4万2000人と正面から激突、サファヴィー軍の内紛に助けられたアフガン軍が勝利した。これまでシーア派政権下で圧迫されていたゾロアスター教徒(註12)がアフガン軍の味方についた。

 註12 イランがイスラム化する前に広く信じられていた宗教。

 サファヴィー朝のシャー・フサインが優柔不断で対策を講じられないでいる間に、アフガン軍は首都イスファハーンを包囲した。地方からの援軍はことごとく撃退され、首都内では病気が流行り人肉食まで行われた。10月23日、シャー・フサインは首都を出てアフガン軍に降伏した。

 ただし、これでアフガン人の天下が完全に定まった訳では決してなかった。まず、イスファハーン陥落の際にシャー・フサインの子タハマースプ2世が600の兵と共に脱出して地方から反抗を企てており、西からはオスマン帝国がサファヴィー朝の実質的滅亡に乗じて勢力拡大の意図を示し、北からはロシア帝国が南下をはかっていた。アフガン軍内部でも勢力争いが激化していた。アフガン兵の中にはこれまでの戦いで得た戦利品に満足して故郷に帰ってしまう者もおり、心細くなってきたアフガンの首領ミール・マフムードは現地で雇用したイラン人の官吏や軍人を必要以上に疑いその多くを殺害した。ここにナーディル・シャーという人物が登場する。

   

   最後の征服者

 ナーディル・クリーは1688年秋、イラン東北部のホラサンにて羊皮外套の製造・販売を営むトルコ系の両親のもとに生まれた。その一家はもともとはキルクルー族に属していたがその弱体化によりアフシャール族に併呑されていた。子供の頃に父を失い、18歳の時には母ともどもウズベク人に拉致されて4年間を捕虜として過ごすという経験をした。22歳の時、ナーディルはウズベク人のもとから脱出して故郷ホラサンに逃げ帰り、地元の豪族バーバー・アリー・ベクに仕えて次第に頭角をあらわしていった。やがてナーディルはバーバーの娘婿となり、その勢力を手中におさめることに成功した。

 そして1722年、ナーディルはイスファハーンから逃れてきたタハマースプ2世を助け、アフガン人との戦いを開始した。ナーディルは自分の所属するアフシャール族と、さらにクルド族を率いてアフガン軍を連破、29年には遂にイスファハーンを回復することに成功した。カスピ海沿岸をうかがっていたロシア帝国は、25年に皇帝ピョートル1世が亡くなったことから北に引き上げた。ちなみに、アフガン軍によるイスファハーン占領とその後のナーディルによる回復という一連の事件はオランダ経由で日本の江戸幕府にも伝わっていた。

 ただ、ナーディル個人の名声があまりに高まることはタハマースプ2世の望むことろではなかった。そこで31年に単独でオスマン帝国に戦いを挑んだ彼は、しかし戦いに敗れ、グルジア・アルメニアを割譲するという甚だしく不利な講和を結ばされた。この報を受けたナーディルはもちろん激怒、タハマースプ2世を廃位してその子を即位させ、自分は摂政職に就任した。

 33年、オスマン帝国に戦いを挑んでバグダードを占領、この時は地方反乱勃発の報を受けたために一旦オスマン軍と和を結んで退却したが、35年には再びオスマン領に攻め込んでグルジア・アルメニアを奪回した。

 36年、飾り物の幼帝が病死した。ナーディルは配下の人々を集めてサファヴィー家の誰を後継者にするかとの相談を持ちかけ、「いつそナーディル自身が」と言われた後(たぶん形だけ)1ヶ月悩んだあと遂にシャーとなった。「ナーディル・シャー」の誕生である。サファヴィー朝はここに滅び、新たな王朝「アフシャール朝」が成立した。ちなみにナーディルは宗教的にはシーア派でもスンナ派でもなく、イスラム諸派を、出来得ればキリスト教まで含めて統一したいと考えていた。「もし自分に時間的余裕があれば、既存宗教を全廃して新しい宗教を創り出しただろう」。もちろんそれは出来なかった。

 ナーディルの遠征でもっとも名高いのは1737年から39年にかけて行われたインド遠征である。これはインドのムガール帝国がアフガン軍の敗残兵を匿ったことを口実とするもので、アフガニスタン攻略と連動しており、ナーディル軍はカンダハールからガズニー、ガズニーからカーブルを攻略、そしてカイバル峠を越えてインドへと侵入した。ムガール軍が迎え撃つがそのゾウ隊はナーディル軍の大砲の轟音に驚いて使い物にならず、カルナールの会戦にて大勝したナーディル軍はそのまま首都デリーに進撃、1739年3月9日をもってこの都市を占領した。ナーディルは当初は紳士的に振舞うつもりでいた(という)のだが、翌10日にデリー市民が暴動を起こし、その翌日には市内のモスク(イスラム教の寺院)に入ろうとしたナーディル本人が狙撃されたことから大虐殺の命令がくだされた。情けも容赦もない殺戮の嵐によって約10万のデリー市民が命を落としたといわれている。ナーディルは大人しく投降してきたムガール皇帝ムハンマドについては丁重に扱ったものの、ムガールの皇帝権を象徴する「くじゃくの王座」やダイアモンド「光の山(コーヒ・ヌール)」は遠慮なく強奪した。この時のナーディル軍の略奪品があまりにも莫大であったため、イランの農民はその後3年間税を免じられることとなった(すぐに取り消し)。

 ただ、今回の遠征の目的はあくまで戦利品の確保に限られていた。ナーディルはムガール皇帝の位を奪うこともなければデリーに居座ることもなく、インド北西部を割譲させただけでその後は潮が引くようにイランへとひきあげていった。ナーディル・シャーは「アジアにおける最後の征服者」と呼ばれている。イギリスの援助を得てカスピ海とペルシア湾に海軍を建設しようともした(実現せず)。中央アジアにも遠征し、そちらが済むとまたオスマン帝国を攻めて勝利する。彼が何故これほどの戦勝をあげることが出来たのか、ナーディル個人の軍事的才能以外の要因、例えば軍隊の編成といったことは今のところよくわかっていない。

 ナーディル・シャーは自らの武勇に驕るのみで、建設的なことはほとんど何もしようとしなかった。インド遠征の頃から彼の性格は急速に凶暴化し、圧政にたまりかねた地方が次々と反乱の狼煙をあげるにいたる。そして1747年、故郷ホラサンに起った反乱を鎮圧に赴いたナーディルは、実にあっけなく暗殺されてしまうのであった。(現在のイランではそれなりに人気のある歴史人物のようである)

   

   ザンド朝、そしてカージャール朝

 ナーディル・シャーの没後、イランとその周辺は当然のごとく混乱状態に陥った。ナーディルの配下にあったアフガン人の部隊長アフマッド・ハーンは故郷に戻ってアフガニスタンの王を名乗り、現在に続くアフガニスタンの独立を確定させた。イランのホラサン地方ではナーディル・シャーの孫シャー・ルクが立ったもののそれ以外の地域では群雄割拠の状態がしばらく続き(全部で46人の群雄が立ったという)、やがてイラン南西部から身を起こしたカリーム・ハーンの「ザンド朝」がほぼイラン全域を統一した。カリーム・ハーンの出身はイラン系ともクルド系ともいわれ、ナーディル・シャーの軍の兵卒あがりで寛容な名君、自身は摂政を名乗ってシャーの位にはサファヴィー家の一族をつけてやり、ホラサン地方のシャー・ルク(ナーディル・シャーの孫)政権を滅ぼすこともしなかった。カリーム・ハーンの治世(1750〜79)の間、イランとその周辺は比較的平和であった。

 カリーム・ハーンの死後、新しくイランをおさめて「カージャール朝」を起こすアーガー・ムハンマド・ハーンは、王朝の始祖としては、おそらく世界史上唯一の「去勢された王」である。彼はサファヴィー朝創業の力になった「キジルバシ(トルコ系の騎馬軍団)」の1つカージャール族の首長の子として生まれたが、ナーディル・シャー没後の混乱期に敵(ナーディル・シャーの甥のアーデル・シャー)に捕われて去勢され、その後さらにザンド朝のカリーム・ハーンのもとで人質として成長した。カリーム・ハーンはわずか5歳で去勢されたアーガー・ムハンマドをかなり優遇し、その姉を妃としていたが、本人は人質という境遇に激しく憤っていた。

 1779年、カリーム・ハーンが危篤に陥ると、アーガー・ムハンマドは都の郊外に出かけて脱出の準備を整え、姉からカリーム・ハーン死去の知らせを受けるや即座に馬を飛ばして故郷のカージャール族に戻って軍勢をかき集めた。そして1794年、アーガー・ムハンマドはカリーム・ハーンの曾孫ロトフ・アリー・ハーンを倒してザンド朝を滅ぼした。ロトフ・アリーは目を潰された上で絞殺された。

 そして、96年には正式に新王朝「カージャール朝」を開くことになる。この年にはザンド朝の時代にも独立を保っていたホラサン地方のシャー・ルク(大征服者ナーディル・シャーの孫)政権をも滅ぼした。アーガー・ムハンマドはナーディル・シャーがインド遠征の際に持ち帰った財宝のありかを聞き出すためにシャー・ルクを苛烈な拷問にかけ、しかる後に惨殺したという。

 その前後、アーガー・ムハンマドは異母兄弟のモルタザ・クリー・ハーンと戦ってこれを追放したが、そのモルタザを受け入れたロシアがイランの北方へと軍勢を送り込んできた。ところがその直後にロシア女帝エカテリーナ2世が亡くなったため、ロシア軍はやむなく撤収した。

 ちなみに、テヘラン市を首都と定めたのがアーガー・ムハンマドである。1796年には人口わずか1万5000にすぎなかったこの町は以後急速に発展し、現在に続くイランの首都となっている。まあもっとも、カージャール朝の初期のシャーたちは遊牧民の出らしく定住生活を嫌い、軍勢を引き連れて領内のあちこちを移動することを好んでいたのだが。

 アーガー・ムハンマドは王朝を起こした翌年の1797年には部下によって暗殺され、(幼時に去勢されてるから当然子供はいないので)政権は甥のファト・アリー・シャーが引き継ぐこととなった。1797年と言えばヨーロッパでは既にフランス革命が始まっており、フランスとイギリスとがカージャール朝を味方に付けようと外交戦を繰り広げることになる。カージャール朝がロシア帝国と初めて本格的にことを構えて領土を奪われたのが1812年、以後のカージャール朝は列強の侵略に苦しみ続けることとなるのだが、そこまでは本稿の述べるところではない。

                                

おわり   

   参考文献

『イランの歴史と文化』 蒲生禮一著 博文館 1941年

『三日月の世紀一「大航海時代」のトルコ、イラン、インド一』 那谷敏郎著 新潮社 1990年

『インドと中近東』 岩村忍他著 河出書房新社世界の歴史19 1990年

『中東世界 国際関係と民族問題』 岡崎正孝編 世界思想社 1992年

『成熟のイスラーム社会』 永田雄三・羽田正著 中央公論社世界の歴史15 1998年

『近代イスラームの挑戦』 山内昌之著 中央公論社世界の歴史20 1996年

「三つの「イスラーム国家」」 羽田正著 『岩波講座世界歴史14』 岩波書店 2000年

『中央ユーラシア史』 小松久男編 山川出版社新版世界各国史4 2000年

『西アジア史2』 永田雄三編 山川出版社新版世界各国史9 2002年

トップページに戻る