ロシア革命 第3部その1

   

   蜂起の準備   目次に戻る

 とはいえレーニンはまだ指名手配中の身であり、蜂起の具体的な準備はトロツキーを中心としておこなわれることになる。レーニンの心配も一理あり、首都ペトログラードの周辺には、まだボリシェヴィキの影響をうけないまま臨時政府支持を続ける部隊が存在していた。10月16日のボリシェヴィキ中央委員会拡大会議でも、あまり楽観的な報告はなされなかった。特に蜂起反対派のジノヴィエフとカーメネフは臨時政府が鉄道・郵便・電信を押さえていることを強調した。うだうだやってるうちに、「全ロシア・ソヴィエト大会」まで残り4日になってしまった。大丈夫なのか? この会議ではついに正式に武装蜂起が決定されたのだが、ジノヴィェフとカーメネフはあくまで蜂起に反対し、その旨を記した書面を党員はもとよりメンシェヴィキとエス・エルにまで送りつけてしまった。この話を聞いた臨時政府は首都の主要施設の防備を固めることにした。もっとも臨時政府は13日の時点で既に蜂起の噂をキャッチしていた(註1)。16日までに冬宮(ケレンスキーの執務場所)に6門の大砲が据えられ、地方の士官学校に首都への応援が要請されていた。

 註1 どうやら、ボリシェヴィキ党中央委員会もしくはその周辺に臨時政府のスパイがいたようである。(菊池ロシア革命史)

 臨時政府が確保している兵力は約3万、その内訳は陸海軍の将校7〜8000、突撃隊及び特別部隊(臨時政府を支持し、兵士委員会を持たない部隊)6〜7000、士官学校生徒9000〜1万、婦人部隊数百人、それからコサック部隊その他であった。このうち、将校は別に1ケ所にまとまっている訳ではないので身動きがとれず、そもそも彼らの多くはコルニーロフ反乱の失敗の後完全に意気沮喪していた。将校による軍支配復活を目指したコルニーロフとケレンスキーが敵対してしまった以上、積極的・消極的どちらにしても臨時政府(ケレンスキー)に加担しようという将校は少数派であった。士官学校生徒には貴族の息子もいれば平民の息子もおり、少数ながらボリシェヴィキ派の生徒も存在した。しかも首都に散らばるいくつかの士官学校は周囲の兵舎や労働者街の厳しい監視の目にさらされていた。もっとも、将校の卵としてボリシェヴィキ(将校の権威を否定する)に敵意を燃やす士官学校生徒は将校と違って数カ所の学校に数百人単位で固まっており、臨時政府にとって、いざという時に最も頼りになりそうな存在であった(それでもケレンスキーを積極的に支持するかどうかは微妙)。コサック部隊は臨時政府から強く信頼されていた(註2)のだが、その将校はほとんどコルニーロフ派であったことからケレンスキーに冷淡で(ボリシェヴィキはもっと嫌いだが)、一般のコサック兵は次第に左傾化しつつあった(ロシア革命史)。10月5日の臨時政府閣僚会議では、いっそのこと「革命の首都」ペトログラードがボリシェヴィキに呑み込まれる前にドイツ軍に引き渡し、政府をモスクワに移転させようとすら考えられたが、この話は翌日の新聞にすっぱ抜かれ、民衆を激怒させてしまった。食料品の値上げも臨時政府の人気を下落させていた。

 註2 コサックは帝政において特権を有していたため、(そのような階級的な特権を全否定する)ボリシェヴィキに敵対的であるという点で臨時政府に近いと見られていた。

 臨時政府は、ドイツ軍が接近しているからという名目で、ボリシェヴィキ派の部隊を首都から前線に移動させようとしたが、部隊の兵士委員会は、それは純粋に軍事的な理由によるのか政治的な理由によるのかを確かめる必要があるといってゴネ通した。

 首都においてボリシェヴィキが頼りとするのは、労働者の「赤衛隊」と、七月事件の時にも活躍したクロンシュタット軍港の水兵たちであるが、やはりペトログラード近辺の陸軍部隊を味方につける、少なくとも中立の立場にする必要が絶対にある。トロツキーはひとまずペトログラード・ソヴィエト内に「反革命(コルニーロフ派)から首都を防衛する」との名目で「軍事革命委員会」を設置した。もちろんこれは蜂起の準備を隠すためのカムフラージュであった(本来メンシェヴィキの提案であったのを利用した)。委員会にはトロツキーの他に左派エス・エルも加わり(註3)、「すべての権力をソヴィエトへ」には賛成だがボリシェヴィキには反対、という分子(後述する)の取り込みに役立てられた。しかし委員会の構成員の80%はボリシェヴィキである。つまり、蜂起はボリシェヴィキ党単独の責任と権威によって行うのではなく、ペトログラード・ソヴィェト内の公式機関である軍事革命委員会の名を用いて蜂起の準備(部隊への根回しや武器の調達)に便ならしめようというのである。

 註3 「軍事革命委員会」の議長はトロツキーであったとする資料があるがそれは間違いである。正確には、最初は左派エス・エルのラジミール、次いでボリシェヴィキのポドヴォーイスキーであった。

 ボリシェヴイキ蜂起の噂はあちこちに流れていたが、大多数の人々は「それは反革命分子のでっちあげだ」というボリシェヴィキ側の宣伝に騙されてしまった。臨時政府の調査によっても、一般の労働者が臨時政府打倒のアジ演説をぶっていることはわかったが、蜂起に関する具体的な日程といったことは不明であった。対して、軍事革命委員会が労働者を武装させるのは簡単だった。彼等の多くはもとから武器をもっていた上に(註4)、兵器工場があっさりとボリシェヴィキの側についたのである。

 註4 トロツキーは、プロレタリアートは武器を持っていなかった、と記しているが、実際には相当数が出回っていたと思われる。

 10月17日、(レーニンが恐れたように)臨時政府は「全ロシア・ソヴィエト大会」の期日を20日から25日に延期させ、右派エス・エル、メンシェヴィキの党員を少しでも多く大会に出席させる(ボリシェヴィキに多数をとらせない)よう懸命の努力をし始めた。しかし、この猶予期間は臨時政府よりもボリシェヴィキに有利に働いた。この日臨時政府は自派の民警に拳銃500挺を支給したが、すぐにそちらも「極左分子(ボリシェヴィキ派)が非常に多い」ことが判明した。

 18日、ペトログラード各地に展開する部隊の代表からなる「守備部隊会議」の第1回会議が開かれ、ほとんどの部隊が軍事革命委員会支持を表明した。ここでは、各部隊が勝手に動かないことが要請された。この前日に開かれた軍事革命委員会会議では、七月事件の際にボリシェヴィキと対峙した第176聯隊がボリシェヴィキ化したことが報告された。しかし『ノーヴァヤ・ジーズニ』紙に蜂起反対派のカーメネフの文章が掲載され、蜂起が「全ロシア・ソヴィエト大会」の数日前(それは間違いだったが)であることまでが暴露されてしまった。

 20日、軍事革命委員会は60人のコミサール(軍部隊に派遣される政治委員)を任命し、彼等によって、まだ去就の決らない各部隊への説得を開始した。軍事革命委員会はソヴィエトの正式の機関ではあるが、各部隊にはもちろん臨時政府側の指揮官が粘っており、どちらが部隊の指揮権をおさめるかの舌戦が繰り返された。同日ボリシェヴィキ党中央委員会が開かれ、蜂起反対派のカーメネフとジノヴィェフに対する処分が話しあわれた。レーニンは両名の除名を要求したが、スターリン等は問題の先送りを主張し、トロツキー等は両人を「除名」するのではなく中央委員から「辞任」してもらってはどうかと発言した。結果、カーメネフは「辞任」、ジノヴィエフは党の方針に反対しないことを義務付けられた上で中央委員会に残るものとされた。臨時政府は首都の主要拠点の確保を急いだ。川と運河にかかる橋の防衛が重視された。二月革命の際には蜂起した群集が凍結した川を歩いて渡ったが、今の季節なら橋を押さえるだけで蜂起軍の足を止められると考えられた。

 21日、守備部隊会議の第2回会議にて、「(臨時政府ではなく)ソヴィエトを最高権威と認め、軍事革命委員会への完全支持を約束する」との決議がなされた。棄権はいたが反対は皆無であった。「二月体制(臨時政府)の首にかけられた縄は固く締められ、しっかりした結び目をつくっていった(ロシア革命史)」対してこの日冬宮(ケレンスキーの執務場所)を守備していた臨時政府の兵力は……士官学校(第2ペチェルゴーフ及び第2オラニエンパウム士官学校)生徒及びその指揮官(教官?)が662人、砲兵学校生徒及びその指揮官が68人というのはともかくとして、普通の部隊(装甲自動車大隊・第1自転車大隊(註5)第4中隊)はたったの72人であった(菊池ロシア革命史)(註6)。装備は小銃以外には大砲6門、装甲自動車5台、機関銃19挺、弾薬はひとりあたり50発程度であった(前掲書)。

 註5  金持ちの子弟が多い。「自分が他の人々と違ってチェーンでつながった2個の車輪の上に乗っていることを感じさえすれば、少なくともロシアのような貧しい国では、その人間の高慢さはタイヤのようにふくれはじめる。アメリカではそのような効果を生み出すには、自動車が必要になる(ロシア革命史)」

 註6 あと士官学校所属の兵士(従卒?)が6人いる。全部で808人であった。

 23日には重要拠点ペトロパウロ要塞の守備隊がトロツキー自身の説得によってボリシェヴィキの味方についた。男子労働者の赤衛隊や女子労働者の衛生隊も訓練を始め、クロンシュタット軍港他の海軍部隊も戦闘態勢を整えた。軍事革命委員会の指揮下に入った(少なくとも好意的中立に立った)部隊は30万人にも達した。レーニンはこの時もまだ臨時政府の実力を過大に見積もり、こちらの準備が整う前に相手の方から攻撃を仕掛けてくるのを憂慮していたが、トロツキーは勝利を完全に確信し、臨時政府が先に動くのを待つことにした。「蜂起は攻撃としてのみ勝利しうるとはいうものの、防衛に似ていればいるほど、うまくいく(ロシア革命史)」様々な噂や情報に危機感を募らせる臨時政府の側も士官学校生徒にさらに動員をかけるとともに、首都近辺の部隊の集結・トロツキー等の逮捕等を命じた。しかし地方から首都への移動命令を受けた部隊の多くは、その理由を知るとすぐにストップしてしまった。「軍事革命委員会に手を出す勇気のある者はいないし、これからもいないだろう(ロシア革命史)」委員会が把握していないの(地方から来る部隊)は、キエフのコサック部隊と士官学校生徒、ツァールスコエ・セロの突撃隊のみとなった。

 23日、町にボリシェヴィキ蜂起の噂が流れ、役所・銀行・商店は営業を停止した。1917年10月のペトログラード市は連日くもり、時々雨もしくは雪、平均気温は日中で0度、夜間で氷点下5〜7度であった。

   

   十月革命   目次に戻る

 10月24日午前5時半、ケレンスキーは蜂起を扇動したとの理由でボリシェヴィキ党機関紙印刷所の占領を命じ、士官学校生徒隊が『ラボーチイ・プーチ』紙の印刷所を襲ってその機械を破壊した。「労働者の新聞を防衛するために」ただちに軍事革命委員会が動いた。午前10時には委員会の指令を受けた部隊が先に襲われた印刷所に急行して機械を修理した。11時に印刷された復刻第1号には「臨時政府打倒!」「全権力をソヴィェトへ!」の見出しがおどった。ボリシェヴィキ党本部のあるスモーリヌイ女学院に赤衛隊と巡洋艦「アウローラ」の水兵が集合した。ケレンスキーはボリシェヴィキの蜂起が始まったと解釈し、11時からダヴリーダ宮で開催された共和国評議会(予備議会)の席上にて「断固鎮圧」を訴え、評決を待たずに冬宮の執務室に戻った。有力政党で臨時政府無条件支持を約束したのはカデットのみ、メンシェヴィキと右派エス・エルはとにかく臨時政府は土地改革を即時進展すべしと訴えた。12時には婦人突撃大隊が冬宮に到着して士官学校生徒とともに臨時政府を守る態勢を整えた。同刻頃にはスモーリヌイ女学院のボリシェヴィキ党本部の全電話回線切断が指令され、午後2時には首都の全ての橋に士官学校生徒が前進、3時には渡橋禁止、4時にははね橋があげられた。これに対してボリシェヴィキ派の赤衛隊本部も橋の確保を指令し、一部の橋を占領した(註1)。士官学校生徒は抵抗することなく退却した。その一方で午後3時には官庁や銀行が仕事を停止し、冬宮前広場に機関銃が据えられた。ただし、今まで冬宮の警備にあたっていた自転車部隊が持ち場を放棄したのは(ケレンスキーには)痛かった。午後7時には赤衛隊がニコライ橋を除く全市の橋を(やはり無血で)占領した。同じ頃にはバルチック艦隊から水兵を満載した巡洋艦・水雷艇が出発した。しかし、この日朝に開かれたボリシェヴィキ党中央委員会特別会議でも、同じ頃の軍事革命委員会でも、まだ蜂起の発動が正式に宣言された訳ではなかった。「全ロシア・ソヴィエト大会」開催は明日であり、昼ごろでも即時蜂起派と慎重派の論争が続いていた。大会開催と同時に、などといわず1時間でも早く蜂起を始めたいレーニンがしつこくせっつき、この日午後8時頃にようやく「断固たる行動、臨時政府の廃絶、権力奪取を、第2回ソヴィエト大会の開幕を待つことなく着手する」との指令が発せられた〈と言われている〉。正式に蜂起が始まった時刻は24日夜から25日早暁という以上のことは不明である。「10月24日から25日にかけて、夜は緊張と期待のうちに過ぎた(ケレンスキー回顧録)」

 註1 このような動きから、24日の午後には既に蜂起は始まっていた、とする説があるが、正式の蜂起指令が発されるのはもう少し後である。

 25日午前0時、コサック部隊の代表がケレンスキーを訪問して臨時政府に忠誠を誓ったが、一般のコサックたちは中立を決めていた。午前0時25分、ボリシェヴィキ派の兵士・水兵・赤衛隊が中央郵便局を占領した。早朝までに発電所・停車場・国立銀行・13ケ所の印刷所がボリシェヴィキ派、いや「蜂起部隊」によって占領された。コサック部隊の指揮官はすっかり怖じ気付き、ケレンスキーが何度出動を命じても、「いま馬に鞍をつけているところだ」と繰り返すばかりだった。ケレンスキーは自分の所属する右派エス・エルに応援を求めたが、その右派エス・エルは、自分で動かせる武装兵力を全く持っておらず、何の援助も出来なかった。ケレンスキーは地方の部隊に援軍を求めていたが、それらは全く到着せず、そのうち電話線が切断されてしまった。午前7時、蜂起軍が中央電話局を占領した。冬宮では士官学校生徒がバリケードを構築した。アメリカ人ジャーナリストのジョン・リード(註2)が「公用!」と言いながらパスポートをかざして冬宮を訪問しケレンスキーとの会見を要請したが、「ただ今非常に忙しい……、実を言うと、あの方はここにおられないのです……」と告げられた。この日の午前10時、ケレンスキーは地方の部隊に直接援軍を頼むべく、ペトログラードを脱出していたのである。この時女装してアメリカ国旗を掲げた車に乗っていたという有名な話があるが、本人は強く否定している。後にアメリカ大使館は、ケレンスキーに星条旗の付いた車を「没収された」と証言したという。同時刻、軍事革命委員会は「臨時政府は打倒された。国家権力は、ペトログラード・ソヴィエトの機関である軍事革命委員会に移った」との声明「ロシア市民へ」を発した。午後1時、蜂起軍がマリヤ宮の共和国評議会(予備議会)を包囲して解散を要求した。評議会は56対48でこれを受け入れた。午後2時35分、ペトログラード・ソヴィエトの特別会議が開催され、レーニンが7月以来初めて公式の場に姿を現した。夜半すぎにペトログラード・ソヴィエトの中央執行委員会が開かれた。メンシェヴィキのダンがボリシェヴィキを非難したが、ここでも多数はボリシェヴィキである。ダンがいくら「演台を叩いても効き目がなく、哀願しても聴衆の心に響かず、威嚇しても聴衆は恐れない。手遅れ、手遅れ……(ロシア革命史)」この場にいたトロツキー曰く「諸君が動揺しなければ、内戦はおこらない」。

 註2 だいぶん前にちらりと説明したが、十月革命を現場からルポした大作『世界をゆるがした10日間』の著者である。

 蜂起軍2万3000人による冬宮の包囲は午前6時にはほぼ完成していた。冬宮の側を流れるネヴァ川には軍艦9隻が碇泊した。予定よりもかなり遅れていた。しかし「いかに輝かしい勝利も、重大な失敗なしには、得られない(ロシア革命史)」ものである。首都の各部隊にいた将校たちは、逃亡するか、兵士によって解任されるか、あるいは逮捕されていた。カデット、メンシェヴィキ、右派エス・エルの中の気骨のある党員たちが冬宮に入ろうとしたが、包囲軍によって追い払われた。冬宮を守る部隊は21日からいる人数(自転車部隊が抜けたが)に、第2ペチェルゴーフ士官学校から新たに320人、工兵士官学校から530人(冬宮に来る途中ですら脱落者が出た)、北部戦線士官学校から300人、婦人突撃大隊200人、コサック部隊200人、義足の二等大尉に率いられた傷病兵など(菊池ロシア革命史)、あわせて約2700人であった。その主力は士官学校生徒1846人である。

 蜂起軍の作戦本部は冬宮のネヴァ川を挟んだ向い側にあるペトロパウロ要塞に置かれ、前線本部は第1陣がパヴロフスキー聯隊、第2陣が第2バルチック艦隊海兵団、第3陣が巡洋艦「アウローラ」にそれぞれ置かれていた。作戦は午後9時に発動するものとされ、ペトロパウロ要塞からの合図によって、冬宮の正面からペトログラード聯隊、左翼からケクスゴリム聯隊と第2バルチック艦隊海兵団、右翼から赤衛隊とパヴロフスキー聯隊主力が総攻撃、さらにリトヴァ聯隊・ヴォルイニ聯隊とパヴロフスキー聯隊の一部が正面に加わり、他の兵士はスモーリヌイ女学院のボリシェヴィキ党本部を守備するものとされた。

 午後7時、冬宮守備軍のうちコサック中隊が「自分たちはだまされていた」と述べて持ち場を離れ、蜂起軍に投降してきた。つづいて士官学校生徒のうちミハイロフスキー士官学校の生徒が大砲4門とともに投降した。蜂起軍の指揮官たちは素人ばかりで凡ミスをくり返していたが、とりあえず指揮する軍隊を有していた。冬宮内のプロの指揮官たちは次第に指揮すべき軍隊を失いつつあった(ロシア革命史)。それどころか、冬宮の部隊は食糧の不足に苦しみ始めていた。散発的な銃撃戦が起こったが、犠牲者はわずかであった。

 午後8時頃、ペトロパウロ要塞の蜂起軍に砲撃命令が下された。しかし砲手たちは、砲が錆ついていて危険であるとしてこの命令を拒否した。9時40分、ようやく要塞が総攻撃の合図の空砲を放ち、続いて巡洋艦「アウローラ」が射撃を開始した。婦人突撃大隊が冬宮から打って出たが、たちまち反撃の銃火を浴びてその多くが降伏した。10時40分、予定通り「第2回全ロシア・ソヴィエト大会」の開会が宣言された。代議員650人のうち半分はボリシェヴィキであった。比例に基づきボリシェヴィキを多数とする新しい幹部委員会が選出された。そのすぐ後の11時、一旦停止していた冬宮への砲撃が再開され、議場も騒然となった。メンシェヴィキと右派エス・エルは「ボリシェヴィキによる権力奪取に抗議する」として退去した。深夜の街では「ロシアの市民諸君へ」と題するビラが配付された。「臨時政府は廃止された。国家権力は、労働者兵士代表ペトログラード・ソヴィエトの機関、すなわちペトログラードのプロレタリアートと守備隊の先頭に立つ軍事革命委員会、の手に移った」。一部の人々はせせら笑った。「聞いたかね、ボリシェヴィキが政権をとったんだって? 3日以上はもたないね、ハ、ハ、ハ」……「周知のように、その3日間はひどく長引いた(ロシア革命史)」冬宮内部からソヴィエト大会まで取材に駆け回っていたジョン・リードもビラの配付を手伝った。彼は車で冬宮の近くに戻ってきたが、そこで、ソヴィエト大会から退席してきたメンシェヴィキや右派エス・エルの代表たちが冬宮に入ろうとしている所に遭遇した。「冬宮へ死ににいくんだ!」彼等は水兵たちに押し止められ、結局引き下がった。

 冬宮には30〜35発の砲弾が撃ち込まれた。これらは基本的に威嚇であり、2発が宮殿の上の横木に命中、1発は窓ガラスを破って部屋の中で炸裂したが、それによる死傷者はなかった。続いて歩兵が突撃した。バリケードを乗り越えて冬宮の建物に取り付くまでは機関銃弾の嵐だったが、宮殿の中では戦闘というよりつかみあいであった。敵味方が入り乱れすぎて飛び道具が使えないからである。臨時政府の閣僚18人が逮捕された。彼等は言った。「臨時政府閣僚は暴力に屈し、流血をさけるために降伏する」。蜂起軍の兵士が激昂し、閣僚数人が殴りつけられた。しかし、赤衛隊の労働者たちが「プロレタリアの祭日を台なしにするな」と叫んで閣僚を保護し、ペトロパウロ要塞の独房へと連行した。士官学校生徒や婦人大隊は武装解除され、冬宮は26日午前2時10分に完全に制圧された。冬宮攻撃における蜂起軍の戦死者は6人、臨時政府側の戦死者は皆無であった。冬宮内での略奪や暴行はかなりの程度抑制された(註3)。蜂起軍の突入直後に冬宮に入ったジョン・リードは、略奪が始まりかけた直後に誰かが「同志諸君! 何にも手を触れるな! 何もとるな! 人民の財産だぞ!」と叫んで秩序を(ある程度)回復したことを記している(註4)。彼によると、投降した士官学校生徒もポケットにたくさんの略奪品を詰め込んでいたという。

 註3 『世界をゆるがした十日間』の付録によれば、婦人部隊のうち3人が強姦され、1人が「自分の理想に失望した」という遺書を残して自殺したという。実際にはそれよりは多かったであろう。

 註4 『世界をゆるがした十日間』の付録によれば、臨時政府側の新聞は5億ルーブル相当の物品が盗まれたと記したが、実際に持ち去られたのは5万ドル相当であった、ということである……。

 以上が「十月革命」の顛末である。冬宮のすぐそばでは平常通り市電が走り、劇場ではプーシキンのオペラ「ボリス・ゴドゥノフ」が上演されていた。

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