ロシア革命 第2部その1

   

   二月革命   目次に戻る

 1917年2月23日は国際婦人デーであった。この日、ロシアの首都ペトログラードのヴィボルク区のいくつかの工場で女子紡織工によるストがおこなわれ(誰が最初に声をあげたのかは謎)、男子労働者を巻込んで約9万人によるデモに拡大した。この時点ではデモ隊の声は「パンよこせ」程度の穏健なものであり、警察との衝突もほとんど見られなかった。首都の治安を預るハバーロフ将軍はこのデモに対し、初日には警官隊を、2日目には鞭と槍を持つ騎兵隊を投入し、それ以上のことはその後の事態の進展によって考えるとの方針をたてた。

 24日、ストが他の地区にも波及した。すでに全市の労働者の半数近くがストに参加していた。規模だけでなくスローガンも拡大した。「戦争やめろ!」「専制反対!」ハバーロフ将軍の計画通りコサック(註1)騎兵が出動して槍で労働者の頭を叩いたりしたが、本格的な衝突はなく(註2)、あちこちで労働者とコサックが話し合う様子が見られた。帝政において昔から革命運動の鎮圧を担当してきたコサックの友好的態度に、デモ参加者はほっと安堵の溜息をもらした。「彼等(コサック)がいたる所にひっぱっていかれ。送り込まれ、民衆とまっこうから衝突させられ、神経を苛立たせられ、試練にさらされていたのである。彼等はその全てに嫌気がさして、家に帰りたがっていた(ロシア革命史)」のであった。政府は「パンよこせ」をなだめるために徴兵されていたパン焼き職人1500人の召集解除を行ったが、そんな程度ではおさまらなくなってきた。

 註1 もともとは帝政の支配を嫌って南ロシアに逃れた自由の戦士たちを起源とするが、18世紀頃から帝政の支配を受け入れてナポレオン戦争やカフカース侵略戦争に活躍、軍務につく代わりに特権を付与され「帝政ロシアの尖兵」とも言うべき役割を担っていた。しかし……。ロシア語では「カザーク」であるが本稿では日本での慣例に従い英語で「コサック」と表記する。勇猛な騎兵隊として知られている。

 註2 そのような光景は当時外交官補としてペトログラードに駐在した芦田均(後に首相)も目撃している。

 25日、労働者の9割がストに参加していた(註3)。これは明らかに自然発生的なストであり(これはもう例外なく全部の人がそういっている)、警察の方でも「政党の参加はまったくみられない」との見解を示していた(ロシア革命)(註4)。そもそも、ボリシェヴィキやエス・エルといった主要な革命派の指導者の多くはこの頃までに帝政の弾圧にあって国外に亡命していた。しかしデモ隊の一部は警察署を襲撃し、学生の多くも無期限ストに入った。新聞も出なくなり、電車もとまった。この時モギリョフの大本営にいた皇帝はペトログラードのハバーロフ将軍に対し、ストを「明日早々にも終息せしめる」べきことを下命した。首都の軍隊が皇帝につくか労働者につくかが問題となった。「機関銃が蜂起を一掃するか、あるいは蜂起が機関銃を奪取(ロシア革命史)」するのか否か?

 註3 この時のデモやストライキの際に歌われていたのはフランス革命の歌「ラ・マルセイエーズ」のメロディにロシア語の歌詞「古い世界を拒否しよう」をつけた「労働者マルセイエーズ」であったようである。

 註4 ロシアを大戦から脱落させようとのドイツ外務省の謀略が働いていたという説もあることはある。

 26日、大規模な衝突がおこった。市民の側に多数の死傷者が出たが、銃撃した(させられた)軍隊の方も動揺していた。あくまで鎮圧を命じる将校と躊躇う兵士との対立が表面化してきた。貴族や地主出身者の多い将校の大多数はあくまで戦争を続行するつもりで「戦争やめろ」デモを鎮圧しようとしたが、戦争目的もよく知らずただただ死を恐れる一般の兵士たちの多くは労働者に深く同情し、発砲命令を受けてもなるべく空に向けて撃とうとした。

 この日、市民への銃撃に憤激したパブロフスキー聯隊第4中隊(前線からの負傷帰還兵を主体とする)が反乱を宣言した。彼等はすぐに他の部隊に武装を解除されたが、武器を持った兵士数十人が逃走し、労働者の中に紛れこんでしまった。撃たれた市民の側も軍隊を味方につけようと必死になる。「兄弟姉妹を撃つな!」「我々と一緒になれ!」国会議長ロジャンコはモギリョフの大本営にいる皇帝に向け次のような電報を発送した。「首都は無政府状態にある。政府の機能は麻痺している。交通機関および食糧と燃料の供給ルートはズタズタになってきている。一般の不満は増大している。街では無謀な撃ち合いが行われ、あちこちで部隊が同士討ちをやっている」。

 27日、実際に市民への銃撃をおこなった部隊の兵士たちも憤激していた。まずヴォルイニ聯隊教導隊の下士官が将校を殺して反乱を起こし、他の3つの聯隊や労働者と一緒になって大砲工場を襲撃、大量の武器を強奪した。正午頃には帝政に最も忠実な部隊とされる自転車部隊(金持ちの子弟が多かった)が反乱部隊の砲撃を受けて崩壊した。刑務所に服役中の政治犯が解放され、夕方までにさらに5つの聯隊が反乱に加わった。反乱に加わった兵士は6万6700人に達した。それ以外の部隊も、デモ隊に接触するとそのままその中に溶け込んでしまった。「その日、蜂起しなかったのは、蜂起する暇がなかった部隊だけであった(ロシア革命史)」ハバーロフ将軍は電話でクロンシュタット軍港の部隊に応援を頼んだが、そちらの司令官は、自分の受け持ち地区の方が心配だといって取り合わなかった。蜂起はペトログラード市の外にまでひろがっていた(註5)。軍隊が明確に労働者の側についたこの日、革命の勝利は100%確定した。あまりに長引き、被害も尋常一様でない「第一次世界大戦」は、全軍の兵士の間にかつてない反戦機運をもたらしていた。「第一革命」の悲劇は繰り返されなかった。

 註5 モスクワでは27日に、その他の都市では3月1〜2日にデモがはじまった。ペトログラード以外では戦闘はなかった。

 28日、反乱軍の兵士は12万6700人にも達した(革命勃発前の首都の兵力は約15万)。ハバーロフ将軍は手許に残ったわずかな部隊と共に海軍本部に籠ったが、昼過ぎにはその部隊も解散した。かくして首都ペトログラードにおける皇帝の権力は完全に消滅した。これが「二月革命」(註6)である。(『ロシア革命史』によれば、この革命におけるペトログラードでの死傷者は1443人であったという)

 註6 この当時のロシアは西欧諸国とは異なる暦(ユリウス暦)を用いており、西欧のグレゴリウス暦よりも13日ずれていた。従って西欧諸国ではこの時の革命をグレゴリウス暦を用いて「三月革命」と呼ぶことがあるが、しかし当事者のロシア人はグレゴリウス暦に改暦した後もずっと「二月革命」と呼んでおり、本稿もそちらに従うものとする。

   

   二重権力   目次に戻る

 で、これからどうするのか? 誰がこれからの革命を率いていくのか? ペトログラード全市はひたすら混乱の極みであった。国会もただ混乱していた(註1)。市議会もただただ混乱していた。今回の革命には指導者が不在であり、これから何をすればいいのか、帝政に変わる新政権を築くにしても具体的にどうすればいいのか、これからのことについて誰かが何らかのビジョンを持っていたとしても、それを誰がどうやってみんなに納得させ実現させるのか、さっぱりわからなかった。

 註1 国会議事堂は反乱軍の攻撃対象とはならなかった。『菊池ロシア革命史』によれば、国会は反乱軍の兵士と労働者にとって「どうでもいい」機関だったからだという。

 27日午前10時、労働者の代表・左派知識人・メンシェヴィキ議員が集まり、1905年の第一革命の時と同じく、「ソヴィエト」の結成を呼びかけた。これは「労働者は1000人に1人、兵士は中隊に1人の代表を選出してダヴリーダ宮に集まれ」というビラを配っただけである。そのダヴリーダ宮は国会議事堂として使われていた。誰が呼びかけたのかは分からないが、宮殿には反乱部隊が続々と集まってきていた(註2)。メンシェヴィキ議員のスコペレフに「工場の秩序維持のためにソヴィエトを組織するから部屋を借りたい」と頼まれた国会議長ロジャンコはトルドヴィキ(労働派)のケレンスキーに「どうかね、君、少し危険過ぎはしないだろうか」と相談した。ケレンスキーの返事は「危険と言われるが、いったい、何が危険なのですか。いずれは、誰かが労働者を統制する必要がありますから」というもので、ロジャンコも納得した。(ケレンスキー回顧録)

 註2 ケレンスキーは「私が呼びかけた」と言っている。

 ダヴリーダ宮の予算委員会の大部屋で行われたソヴィエト臨時執行委員会の設立は数時間のうちにテキパキと完了した。この大混乱の最中での「代表者の選出」がどの様に行われたのかは全くの謎(註3)であり、ケレンスキーによればソヴィェトの主導権は最初から組織や政治活動に熟達したグループに握られていたという。

 註3 「短時間に適正な選挙を組織するなどということは、とうてい不可能であったから、労働者の代表は多かれ少なかれ、でたらめに選出されたのは当然なことだった(ケレンスキー回顧録)」

 その日の夜、ソヴィエト議長にメンシェヴィキのチヘイゼ、副議長にケレンスキー他1人が選出された。ケレンスキーはその場におらず、自分が選ばれたのを知ったのも後になってからだった。ボリシェヴィキは出遅れ、執行委員15人のうち2人だけであった。この間、皇帝の政府の高官たちが次々と拘束され、タヴリーダ宮に連行されてきた。トロツキーの『ロシア革命史』はソヴィエト創設に対して「革命はみずからの確かな拠点を得た。労働者、兵士、やがては農民もこれからはソヴィエトだけを頼りにすることになる」との積極的な評価をくだしているが、ケレンスキーは「(ソヴィェトは)ダヴリーダ宮の中に本部を持つことにより〜中略〜政治的に無知な人々の目には、ソヴィエトが物理的に新政府(後述する臨時政府のこと)と密接に結合しているために、何となく、対等の組織であり、従って、全国に支配力を有しているように見えたのである」との酷評を記している。

 兵士や労働者や逮捕者でごった返すダヴリーダ宮にて、国会のブルジョア議員たちは何をしていたか? 皇室の意に従うだけの極右の議員はどこかに消えており、今ダヴリーダ宮にいるのはある程度以上の進歩思想を持つ議員だけである。しかし彼等は迷っていた。このまま革命に合流するのか、あくまで皇帝に忠誠を誓うのか……(註4)。例えばカデット(自由国民党)のミリューコフは、ソヴィエトが創設された27日の時点でもまだ「すべてについて正確な情報を収集する必要がある。そうすれば事態について審議出来る。だが今はまだ時期尚早である」と述べていた。そもそも彼等は極端な制限選挙で選ばれた「ブルジョアの代表」であり、今回の革命を引き起こした労働者や兵士の利害を代表している訳ではない。革命に合流して、もし前線から皇帝に忠実な部隊が引き返してきたら、自分たちまで謀反人にされてしまうかもしれない。とりあえずは会議すべきだが、右派の議員たちは皇帝の命令によらない会議なのだからその名称はあくまで「非公式」会議とすべきと主張し、ケレンスキー等左派議員は皇帝の権威と無関係に「公式」会議を名乗ればよいと主張した。ケレンスキーは、皇帝ではなく国会こそが、皇帝ではなく国民の意志に基づく国家の代表たることを宣言すればよいと考えたのである。議会制民主主義の信奉者であるケレンスキーはその制度に対する民衆の絶対的期待を確信していた。今現在の国会は制限選挙によって選ばれたものだが、それでも(ケレンスキーは)「他の誰よりも彼等(戦場の兵士たち。民衆)は国会の権威を承認(ケレンスキー回顧録)」していると強く信じていたのである。現に今、ダヴリーダ宮には大勢の兵士たちが集まっており、つまり彼等は国会に革命政府の樹立を求めているのである!(これはあくまでケレンスキーの分析)

 註4 議員の多くは逃げることだけを考えていた。(ロシア革命史)

 しかし会議は非公式のものとなってしまった。その会議では左派の議員たちが国会を「革命の頭脳」たらしめることを主張したが、右派はこれを退け、とりあえず「秩序の回復」それから「人々、諸機関との交渉」という曖昧な目的を持つ「国会臨時委員会」を組織することにした。しかし、これでは国会の外で騒いでいる労働者や兵士を誰がまとめるのかさっぱりわからない。しかも、それを先にやる、つまり新しい政権を築きそのイニシアティヴを握ってしまいそうな連中が他にいるのだ……ソヴィエトである。比較的社会主義政党に近い立場に立つカデット(国民自由党)ですら「1905年の経験は、労働者と農民の勝利が君主制にとって危険なのと同じくらいブルジョアジーにとっても危険であり得ることをあまりに強烈に教え(ロシア革命史)」てくれたと考えていた。そしてソヴィエトは首都の郵便・電信・鉄道・印刷所を押え、それらの施設の労働者や事務員はソヴィエト以外の誰にも従おうとしなかった(前掲書)。国会議長で臨時委員会委員長のロジャンコ(オクチャブリースト所属)ですら「諸君(ソヴィエト)には武力と権力があるのだ。諸君はもちろん私を逮捕出来る。おそらく諸君は我々全員を逮捕するだろう」と嘆く有様だった。臨時委員会が何をしようと、「蜂起から生まれた労働者と兵士のソヴィエトが事態の当然の支配者となり、かつ万人に疑いなくそのように見えていた(前掲書)」のである。

 ところが、ソヴィエトの結成を呼びかけたメンシェヴィキの議員たちは、別にソヴィエトを権力機関たらしめようなどとは考えていなかった。メンシェヴィキの革命理論によれば、今回の二月革命があくまで「ブルジョア革命」である以上、ここで権力を握り、革命政府を組織するのはあくまで「ブルジョアの代表」である国会(臨時委員会)でなければならない。プロレタリアート(と兵士)の代表機関であるソヴィエトは、あくまで「ブルジョアの代表」である臨時委員会の外から圧力を加えていればよいのである。(ボリシェヴィキはまだ主な党幹部が亡命・流刑先から戻っておらず、意見の一致をみなかった)

 一方、ケレンスキーにいわせれば、帝政を打倒し民主国家を樹立するためには将校の協力が必要であった。その(上流階級出身である)将校(註5)はソヴィエトよりも臨時委員会(上流階級の利害を代表する)を信頼しているのである。権力を握るのはソヴィエトではなく臨時委員会でなければならない。ケレンスキーは臨時委員会と反乱軍との結合につとめ、何度も言うようにダヴリーダ宮殿内は武器を持った兵士たちで溢れかえっていたが、将校の姿がほとんど見えないことがケレンスキーを苛立たせていた。

 註5 高級将校の大半は貴族出身である。1913年の陸軍において、尉官の50.35%、佐官の72.6%、将官の89.19%を占めていた。ただし、大戦勃発後は庶民からも大量の将校が登用されていた。(『ロシア革命史』の訳注)

 ソヴィエトの執行委員会代表が臨時委員会委員長のロジャンコを訪れ、革命政府をつくれとしつこく言い寄った。まだ帝室に未練があるロジャンコは「これはどういうことになるのか、謀反か謀反でないのか」と悩みに悩んだが、カデット(最も代表的なブルジョア政党)のミリューコフは喜色満面であった(ロシア革命史)。ロジャンコよりは左に立ち西欧風の立憲国家を標榜する彼は、自分たち(ブルジョアジー)に権力が転がり込んできたことに大喜びしたのである。とはいえミリューコフも帝政の廃止を唱えるほど急進的ではないので、ニコライ2世を退位させた上で、皇弟ミハイルの摂政のものとに皇太子アレクセイを即位させるという案を持ち出した。「アレクセイは病気の子供、ミハイルは全くの愚物」。立憲君主政は保守的ブルジョアジーが最も望む体制である。28日午前2時、ロジャンコもようやく権力を掌握する(自分たちが革命のイニシアティヴを握る)決意を固めた。若い頃カメルパーシ(註6)だったロジャンコは忠実な君主主義者であり、国会議長にして臨時委員会委員長という立場にいなければ「陰謀家・謀反人・暴君殺し(前掲書)」から「権力をとれ」と詰寄られることもなくどこかに逃亡するか、ダヴリーダ宮の片隅に埋没するかしていたであろう。今回の決心も、「その機会が来たらすぐにでも皇帝に喪失物(専制権力)を返すため、忠臣としてそうした(前掲書)」のであった。

 註6 軍学校の生徒の中で、特に選ばれて皇族の従卒になった者の呼称。優秀かつ家柄の立派な者に限られる。

 28日朝、臨時委員会がソヴィエトの軍事委員会を支配下におさめ、ついで各省庁の接収に乗り出した。官僚と将校の大部分は臨時委員会に従った。これまで戦々恐々として革命をやり過ごしていた将校たちは、臨時委員会という味方を得てようやく安心した。

 

しかし、これは手遅れであった。問題はその前日夜に生じていた。司令官を追放したり殺したりした部隊の兵士たち(を代表するソヴィエト軍事委員会の代表団)は、しかし自分たちがこれから何をやったらいいのか見当もつかないため、国会軍事委員会議長のエンゲルハルト議員に命令を発してくれるよう頼んでいた。ところがエンゲルハルト議員はかような面倒な問題を先送りにしてしまい、兵士たちを失望させてしまった。ソヴィエトの兵士たちは将校が自分たちから武器を没収して反革命にまわるのではないかと恐れており、そこで、自分たちで作成した「命令第1号」を決議した。「(臨時委員会の支配下に入ってしまった)軍事委員会の命令は、それがソヴィエトの命令に反しない限り受け入れる」「いっさいの武器は兵士の委員会が管理し、要求があっても将校に引き渡してはならない」。それでも将校が指揮官として兵士を指揮するという軍隊の根本組織は表面的には変化なしだが、一部の部隊では兵士たちが革命派将校を指揮官に選出するという光景が見られていた。これに対して(自分たちの支持する臨時委員会が権力をとったことに力付けられて)帝政以来の将校たちは激昂し、3月1日には「軍隊の規律の回復」を要求する将校大集会に訴えた。臨時委員会は「命令第1号」を無力化しようとしたが、もはや兵士の多くは将校の言うことを聞かなくなっていた。

 ソヴィエトは純粋には兵士(と労働者)のみの機関ではなく、兵士の代表として参加した下級将校もかなりいた。上の段落の「命令第1号」発布の事情についての話は『ケレンスキー回顧録』によったが、トロツキー『ロシア革命史』によると、臨時委員会のロジャンコが兵士に対し将校への服属を命じたため、それに反発する形で「命令第1号」が起草されたのだという。また、彼によればこれは全く一般の兵士の意志によるもので、ソヴィエト幹部はその場にいなかったともいう。ケレンスキーとトロツキーのどちらが正しいにせよ、この「命令第1号」は、兵士を主体とするソヴィエト(上層部は知識人だが)と、臨時委員会(将校・官僚を掌握する)とが対等の力を持って並立する、いわゆる「二重権力」が固定化する最大の要因となった。この2つの力のバランスをどのように保つかが問題となる。

 ケレンスキーによると、「命令第1号」は本来ペトログラード駐留軍のみを対象としていたが、正体不明の何者かによって全ロシア軍に流されてしまったのだという。そのことの真偽はともかくとして、前線でドイツ軍と対峙していたロシア軍の兵士たちの間では、国会臨時委員会ではなくソヴィェトの権威が急激に浸透していった。これはケレンスキーに言わせれば臨時委員会がさっさと権力をとらなかったせいなのだが、兵士は将校の命令を聞かなくなり、将校の方も兵士に命令するのを躊躇うようになっていた。前線で続々と「兵士委員会」が結成された。ドイツはこれを絶好の好機ととらえ、白旗を掲げてロシア兵との戦闘を停止する一方で、部隊をひとつひとつ西部戦線(対英仏戦線)へと移していった(註7)。3月21日には一部のドイツ軍部隊が中央の意向を無視してロシア軍を襲うという事件が起こったものの、ドイツ参謀本部は「こんなことは2度とやらない」という声明を発し、これはその後しばらくの間守られたのである。

 

 註7 平和攻勢によってロシア軍を麻痺させておいてこれまで対ロシア戦線にいた部隊を西部戦線に転出し、全力をもってそちらを叩く、という計画である。

   

   帝政の滅亡   目次に戻る

 二月革命勃発の際、皇帝ニコライ2世はモギリョフの大本営におり、首都ペトログラードには不在であった。皇帝は革命の報を聞くと、ただちにイヴァーノフ将軍に首都への進撃を命じたが、この時点ではまだ首都の情勢を把握出来ず、イヴァーノフ将軍も友人たちへの土産物を買いととのえてから出発するというのんきさであった。しかしこの鎮圧軍はツァールスコエ・セローの反乱軍に阻まれ、撤退のやむなきに至った(イヴァーノフ軍の兵士が革命熱に感染する可能性を恐れたため、何もしないでひきあげたのだという〜「ロシア社会の危機と二月革命」)。

 ペトログラードの軍隊は完全に皇帝の手を離れ、ニコライ2世に対する感情は最悪であった。革命は全ロシアにひろがり、全国の都市でソヴィエトがつくられ、前線では兵士委員会が生まれた。特にクロンシュタット軍港の革命では、バルチック艦隊司令長官ネペニン提督や要塞司令官ヴィレン提督が水兵たちに残殺されるという事態がおこっていた。艦隊と軍港で数百人の将校が殺害・監禁され、無事でいるわずか12人の将校は実は最初から水兵の味方だったという有り様である(クロンシュタットの水兵たちは以後最も過激な革命派となる)。大本営の将軍たちにも革命を鎮圧する自信がなく、北部方面軍司令官ルースキー大将までもが臨時委員会のロジャンコ(国会議長)を首班とする「責任内閣」を認めるよう迫ってくる有様であった。3月2日午前零時、皇帝はついに革命に屈服した。責任内閣の組織を認め(まだ組閣していない。後述)、革命鎮圧のために出動していたイヴァーノフ軍の解体を承認したのである。

 しかし革命は皇帝の理解を越えて進んでいた。カデットのミリューコフがニコライ2世の退位を考えたのは前述の通り、臨時委員会のロジャンコからの電報も暗にニコライ2世の退位をほのめかしており、ニコライもやむなく皇位を皇太子アレクセイに譲る決意を固めた。とにかく人気のない自分が退位することにより、少なくともロマノフ王朝(註1)の皇統だけは守ろうとしたのである(「ロシア社会の危機と二月革命」その他)。しかしその後侍医と相談したニコライ2世は、病気を持つ皇太子の即位は無理と判断し、かわりに皇弟ミハイル大公に皇位を譲るとの声明を発した。実は皇太子の病気は血友病だったのだが、そんな「国家機密」を知らない国民は、幼い皇太子よりも壮年の皇弟の即位を警戒してしまった(ロシア史3)。カデットのミリューコフはソヴィエトからの(後述する臨時政府への)入閣要請に対し、ミハイルを君主とする立憲君主政の樹立をその条件としたのだが、ミハイルは帝位を辞退し、かくしてロマノフ王朝は300年の歴史を閉じたのであった。(厳密にいうと皇帝がいなくなっただけで、帝政そのものが廃止された訳ではない。その後、帝政の「国会」もそのまま存続し、議員たちも引き続き敬意を払われることとなった)

 註1 ロシア帝国の皇帝は代々ロマノフ家の当主がつとめている。

   

   臨時政府の成立   目次に戻る

 さて、前述の通り、首都ペトログラードには「臨時委員会」と「ソヴィエト」という2つの権力が並び立つに至っていた。この中から、どのような政府をつくりだすかが問題である。臨時委員会はソヴィエト執行委員会に対し閣僚ポストを2つ提供すると申し出ていた。そのソヴィエト内には「ソヴィエトのみによる臨時革命政府樹立」論も存在したが、自分たちの革命理論「ブルジョア革命においては、プロレタリアートはあくまで政府の外にて活動する」に忠実なメンシェヴィキは政権参加を考えず、エス・エル(社会革命党)もこれに従って(後述する)、結局臨時委員会のみによる「臨時政府」が誕生するに至った。この頃のソヴィエトは「ブルジョア政府に対する勤労者の利益擁護のための社会主義諸政党の一種の組合にとどまっていたといえた(ロシア革命)」とはいえ「命令第1号」によるソヴィエトの兵士掌握はまだ続いており、実質的な「二重権力」状態はその後も継続することになる。

 ただし、トルドヴィキ議員のケレンスキーのみはこのような動きを無視し、ソヴィエト副議長でありながら司法相として臨時政府に入閣した。ケレンスキーはマルクス主義者ではないからメンシェヴィキの方針に従う必要はないのである。またケレンスキー本人にいわせれば、ソヴィエトの代表を1人も含まない政府が全国民の支持を受けるかどうかは疑問(ケレンスキー回顧録)であった。臨時委員会がケレンスキーを入閣させたのは、恐らくケレンスキーからの工作もあったのであろうが、どうやら彼をソヴィエトから切り離そうという思惑があったようである(ロシア革命史)。しかし、そうだとすると臨時委員会よりもケレンスキーの方が役者が上であった。

 ソヴィエトの全体会議に登場したケレンスキーは次のように演説した。「臨時政府に参加するのにソヴィエトの信任状をとらなかったのは、単に時間がなかったからである」「私は旧体制の議員(革命前の制限選挙で選ばれたブルジョア議員)を政府で監視するのだ」「私は(司法相として)すべての政治犯(革命前に帝政に反対したせいでシベリア送り等に処せられていた人々)の釈放を命令した」。会議は大喝采でこれに応じた。こうしてケレンスキーはソヴィエトの支持を得ると共に、「臨時政府に入閣する他の大臣たちに、自分だけは君たちのようなお手盛りの大臣ではなく、人民大衆(ソヴィエト)の支持でなった大臣であるという印象を刻みつけた。このことが、ケレンスキーに臨時政府のなかで特別の発言力を持たせることになった(松田ロシア革命史)」のである。ちなみに他の閣僚は、首相兼内相がカデットのリヴォフ公、外相に同じくカデットのミリューコフ、陸海軍相にオクチャブリースト(10月17日同盟)のグチコーフ等がおり、ケレンスキーを除けば実にみごとな「ブルジョアの政府」であった。この政府の中核はカデットの中心人物たるミリューコフであり、ブルジョアジーの全国機関である工商業評議会、連合貴族団評議会、さらに事務職員の上層部、自由業の団体、国家官吏といった人々がカデットのまわりに集まった。対して労働者や兵士の人気は最初からケレンスキーに集中していたのであった(ロシア革命史)。

 3月3日、臨時政府の成立が公表(3月1日の時点で、英仏両国の駐露大使が臨時政府を承認していた。詳しくは後述するが、連合国側に立っての戦争を継続してくれる見込みがあったからである)され、「テロリスト・軍反乱・農民暴動を含む政治犯の釈放」「言論・出版・集会の自由及び団結、ストライキの権利」「普通・平等・直接・秘密投票による憲法制定会議招集の準備」等々が確認された。別に選挙で選ばれた訳ではない「臨時政府」はあくまで「臨時」のものである。国の統治形態及び憲法は「憲法制定会議」によって確定するとされていた(註1)。それから、臨時政府とソヴィエトとがどういう関係にあるのかという一番重要な問題については一言も言及されなかった。

 註1 さっきちらりと述べたが、帝政以来の「国会」も存続している。しかしここには憲法等を考える権利はないということである。

 ……もっとも、(ブルジョアの)臨時政府と(労働者の)ソヴィエトとが対立して並び立っているという図式は、ケレンスキーにいわせれば、ソヴィエトの指導者たちが、民衆の一般的な感情にこたえるというよりも、自己の政党のイデオロギーに対応させるために作り上げたものであった(ケレンスキー回顧録)。ケレンスキーにとっては臨時政府の方が「司法の独立・信教の自由・男女平等の政治的権利、等々を実現した、まったく欠点のない民主主義政府」なのに、ソヴィエトの策謀によって「ブルジョア的」というレッテルを貼られてしまった、ということなのである。ただし、ミリューコフもグチーコフも極端な制限選挙で選ばれた議員であり〜それはケレンスキーも認めている〜それを「民主的」というのは強引極まりないし、その原因が何であれ臨時政府とソヴィエトが微妙な関係にあるのは事実なのだから、ケレンスキーも、ソヴィエトの代表をもっと政府に入れて「国内の勢力の分布をより正確に反映するよう」主張することになる。臨時政府は戦時下(まだ大戦が継続中。それに対する臨時政府の対応については後述)であるにもかかわらず兵器工場での8時間労働を即時実現し、私企業もそれにならう動きを見せた(註2)。国内諸民族への自治が約束された。

 註2 とケレンスキーは言っているが、実際にはなかなか実現しなかった。(菊池ロシア革命史)

   

   エス・エル   目次に戻る

 ソヴィエトの中核となる社会主義政党は、メンシェヴィキ、エス・エル(社会革命党)が主流であり、ごく少数のボリシェヴィキをあわせたこの3派の違いは一般の労働者や兵士にはよく知られていなかった(ロシア革命史)。ボリシェヴィキは帝政の弾圧によってその幹部のほとんどが流刑・亡命を強いられており(註1)、下級の党員の多くは徴兵されて首都ではなく前線に所在した。つまり二月革命勃発時のボリシェヴィキは組織として壊滅状態にあった。そんな中、農民出身の一般兵士は「ナロードニキ」の伝統からなんとなくエス・エルを支持し、労働者はこれもなんとなくメンシェヴィキを支持していた(猪木ロシア革命史)。

 註1 レーニンとジノヴィエフは亡命。スターリンとカーメネフはシベリア送りになっていた。

 革命的大衆(革命を起こした労働者・兵士)とブルジョアジーの間に立つ新中間層(下級将校・医師の助手・書記等)は、自分たちの思想的立場的な曖昧さから、やはり(他の社会主義政党と比べて)確固たる革命理論を持たずに無難な主張を掲げているだけのエス・エルに大挙入党した(2月以降無原則に入党を認めていた)が、彼等のうち特に下級将校や軍官吏は「とりあえず革命支持を声に出して言える者(教養があるから)」として主に兵士たちによってソヴィエト代表に選出されていた(ロシア革命史)。という訳でソヴィエトにおける兵士の代表は彼等を選んだ兵士たち自身よりずっと穏健でブルジョア的であり、ソヴィエトが臨時委員会による権力掌握を積極的に望んだ理由の1つがここにあった(前掲書)。もっとも、新中間層以外にもケレンスキー等トルドヴィキの合流を受ける(3月に合流した)ことになるエス・エルはあまりに急激に膨張した(党員40万とも70万ともいわれる。4月頃のボリシェヴィキで約8万人であった)ことから内部における意見の相違をきたし、メンシェヴィキに同調する「右派エス・エル」と、ボリシェヴィキに賛同する「左派エス・エル」とに分裂することになる。

 『ロシア革命史』には、エス・エルに新たに入党した「新米のナロードニキ(新中間層)」は農民のためを思っていたが、彼等はブルジョアよりも、自分たちの利権を脅かしかねないボリシェヴィキの指導するプロレタリアートの攻勢を恐れていた、とある。これも同書にいわく「エス・エルはボリシェヴィキから見れば三流のカデットであり、カデットから見れば三流のボリシェヴィキであった」「エス・エルの党員証は、革命の施設への臨時の入構許可証であり、もっとまともな党員証と交換されるまで効力を持っていた」のであった。また、カデットは閉鎖的なブルジョア政党、メンシェヴィキは農民の革命的役割を軽く見、ボリシェヴィキはとるにたらない少数派、というこの頃、エス・エルは農民の党として「農民の側に立つ党に接近したいという兵士の願望(兵士の多くは農民出身)、その兵士にもっと接近したいという労働者の願望、兵士や農民と隔絶したくないという下層市民の願望」を実現する党と見られていたが、そんな彼等が自分たちの代表として選んだ「新米のナロードニキ(新中間層に限らず、店主・地主・役人・いくらかの将軍を含む将校たち)」の多くは、結局はプロレタリアート(ボリシェヴィキ)の伸長を恐れ、ブルジョアの側に加担してしまうのであった(トロツキーにいわせればそういうことになる)。ともあれ、もはや「党」というにはあまりに漠然としたものになったエス・エルは、党派の代表ではなく「国民の直接の選良」たらんとするケレンスキーにぴったりの居場所となったのであった。(全国の都市と軍隊につくられたソヴィエトは3月末から4月初めにかけて「全ロシア・ソヴィエト協議会」を開き、全国9地方と前線の13個軍の各代表1名をペトログラード・ソヴィエトに加え、これを全国執行委員会とする取り決めを行なった。臨時政府の方は革命前の県知事や郡警察署長にかわる役職として、また軍隊内の政府全権代表として新たに「コミサール(全権代表)」を任命、彼等をして地方の中心たらしめようとした)

第1部その2へ戻る

第2部その2へ進む

戻る