モロッコの歴史 後編その4

   フェズ反乱   目次に戻る

 話を戻して……、フェズ条約が結ばれたすぐ後の1912年4月17日、フェズに駐留していたモロッコ軍(約5000名)のうち歩兵2個大隊がフランス顧問の命令に服することを拒否し、スルタンのもとに出向いて不満をぶちまけた。モロッコの兵隊は野外で行動する際には腰に荷物を吊るしていたのだが、フランス顧問が背中に荷物を背負うというヨーロッパ式のやり方を命じてきたことに反発したのである。モロッコの人々にとって、「荷物を背に負う」のはロバのすることであって人間のすることではなかった。

 スルタンは話を聞いてくれなかった。兵士たちは兵営に帰るやフランス顧問を殺して反乱を開始、それにつられてフェズ市街で下層民の暴動が発生した。暴徒の群はフランス人だけでなく、ユダヤ人やアラブ・ベルベル人の経営する商店まで襲って略奪を働いた(註1)

註1 それらの被害者はただ単にどさくさ紛れの略奪に曝されたのか、それとも日頃から下層民に恨まれていたのかは資料になく不明。ちなみにモロッコに住むユダヤ人には裕福な者も少数おり、その経済力をもって歴代のスルタンを補佐していたが、大多数は貧しくて日頃から差別されており、人の嫌がる仕事を担当させられていた。


 当時フェズに滞在していたヨーロッパ人はドゥ地区にまとまって居住しており、地区内のオーヴェール病院に籠って反乱軍と暴徒に抵抗した。そのうちに郊外に駐留していたフランス軍部隊約370名が救援に駆けつけ、翌18日にはメクネスに駐留していたフランス軍(外人部隊)も到着、これらが24日までかけてフェズ市街を制圧した。この反乱の結果、モロッコ軍に顧問として勤務していたフランス人19名と、フランス軍の将兵35名および民間のヨーロッパ人9名が死亡し、軍民あわせて72名が負傷した。ユダヤ人の犠牲者は死亡51名と負傷40名、アラブ・ベルベル人の犠牲者数については不明だが、とりあえず百数十人が逮捕・銃殺刑に処せられ、暴動に加わった地区に対して罰金が課せられた。

 フェズの反乱と前後して、地方の山岳地帯でアル・ヒバという族長が本物のスルタンを名乗ってフランス軍に戦いを挑んできた。そもそもモロッコの国土の4分の3(人口比で半分)はスルタンの政府に税金を払っていなかった、つまり半独立していたのだから、フランスが真面目にモロッコを統治しようと思うのなら、それらの地域を徹底的に制圧していく必要がある。

 フランス本国政府は初代モロッコ統監としてリヨテー将軍を送り込んできた。リヨテーはこれまでにインドシナやマダガスカルで仕事をした経験を持つ植民地統治のプロフェッショナルであった。リヨテーはまずアラブ人・ベルベル人の風俗習慣、部族ごとの利害関係をきっちり把握し、占領した地域に市場や学校を建設して住民を満足させ、その地域を政治的経済的に完全に支配してからでないと次の地域に侵入しないという「油滴戦術」を採用した。住民に仕事を与えて稼がせればフランス製品を買わせることが出来るし、住民の生産する品物をフランスが買って外国に輸出して儲けることにもなる。帰順してきた部族の首長にはポストを与えて懐柔する。

 これは時間のかかる戦術ではあったが、しかし非常に優れた統治策といえた。1914年に第一次世界大戦が勃発するとフランス本国政府はリヨテーに「モロッコは海岸地域のみ維持して内陸部は放棄」を命じてモロッコ駐留部隊を削減した(ヨーロッパ戦線用に引き抜いた)が、リヨテーは少数の兵力で内陸部の統治を継続した。一部の部族がリヨテーを「聖者」と崇めて忠誠を誓ってくれたからである。その一方であくまで抵抗を続ける部族もおり、彼らは快速のラクダ隊でゲリラ戦を展開したが、フランス軍は1915年から自動車を、20年代からは飛行機を投入して次第にゲリラを圧倒していった。抵抗が終息したのは34年の3月のことである。ちなみにリヨテーは25年に本国の政争に絡んで辞任している。

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 スペイン領となった地域でも抵抗が続いていた。スペイン領での戦いを語るうえで外せないのが後の独裁者フランシスコ・フランコである。1892年にスペイン北西部のガリシア地方において代々海軍軍人を出してきた家の次男として生まれ、彼自身も海軍を目指していたが、たまたま軍縮で海軍関連の学校の募集がなかったことから陸軍士官学校に入学し、1910年に卒業、少尉に任官した。卒業時の席次は312人中251番とイマイチであったが12年にモロッコに配属されて以降は急激に運が開けてきた。まずその年のうちに中尉に昇進、14年に大尉になり、16年にはゲリラとの戦闘で重傷を負うが、その武勲で少佐に昇進した(彼の軍人生活において負傷したのはこれ1回だけ)。ちなみにスペインは第一次世界大戦には参戦していない。フランコは17年に本国の部隊に転属となるが20年には新設の外人部隊の指揮官(第1大隊長)としてモロッコに戻ってきた。

 その頃、ゲリラの側ではベルベル系リーフ族の支族ワリギール族の首長アブドゥル・クリムが主導権を握り、その勢力を急激に拡大させていた。アブデゥル・クリムはもともとはスペインに忠誠を誓って裁判官や教師をつとめていたが、やがてスペイン官吏と対立して投獄されたことから反スペインに転じたという人物である。

 フランコがモロッコに戻ってきた1920年、スペインはゲリラの息の根を止めるべく数万の大軍を動員し、スペイン領西部のセウタと東部のメリリャからそれぞれ大部隊を出撃させた。こうして始るのが「第三次リーフ戦争」である。最初は抵抗はなく、セウタから進撃する部隊は10月にはベルベルの聖地の1つクサウエンを占領、翌年2月にはメリリャから進撃してきた部隊がメリリャとセウタの中間点にあたるアメクラン河を渡った。そこから先がアブデゥル・クリムの勢力圏である。

 メリリャから来た部隊の兵力は約2万5000、指揮官はシルベストレ将軍であった。シルベストレ軍の進路にはろくな道路がなかったため、道を補修し補給拠点を設置しながらの進撃となるが、進めば進むほど補給船が伸び、各拠点を守るための守備隊が分散されていった。

 ゲリラの本格的な反撃は6月から始った。少数の部隊でスペイン側の補給拠点を襲撃してまわる作戦である。シルベストレ軍は武器弾薬を奪われ、水の補給も覚束なくなった。それでも前進を続けたシルベストレ軍は7月には内陸部のアンワールというところに到達したが、同月21日にはメリリャへの撤収を決意せざるをえなくなった。すると当然のようにゲリラが襲ってくる。既に疲弊しきっていたシルベストレ軍はたちまち総崩れに陥った。この「アンワールの戦い」におけるスペイン軍の損害は戦死者8000、負傷者4000に達したという。シルベストレ将軍も行方不明となった。アブドゥル・クリムの卓越した戦いぶりもさることながら、この頃のスペイン軍は内部の腐敗が激しくて装備は劣悪、兵士の半分は文盲、指揮官は無能(貴族出身士官がやたらに多く、彼らの給料が軍の予算を食い潰していた)で「アンワールの戦い」でも飛行機があったのに運用がまずくて活用出来ない有り様であった。

 ともあれゲリラたちはこの勝利で大量の武器弾薬を確保、勢いに乗ってメリリャの郊外まで押し寄せた。メリリャのスペイン軍は民間人を動員して守備隊を増強し、セウタ方面にいたフランコの部隊を船で呼び寄せ、海軍や航空隊の掩護のもとにどうにか持ちこたえることに成功した。フランコはこの頃から繰り返し武勲をたてて「外人部隊のエース」と呼ばれるようになるが、戦局全体はなかなか好転しなかった。勲功に見合った待遇を貰えなかったフランコは自分から願い出て本国の部隊に転属した。

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 ゲリラ側は23年初頭、「リーフ共和国」を組織した。アブドゥル・クリムが大統領をつとめるこの国では部族の首長を集めた議会や徴兵制度が整備され、支配地域に鉱物資源があったことからイギリス・ドイツの財界の秘密の援助を受けることが出来た。といっても「スペイン領モロッコ」に住む全ての部族が結束してこの国を支持していた訳ではなく、スペインに忠誠を誓う部族もいたのだが……。

 同年6月、リーフ軍が大攻勢に出てスペイン軍を圧迫した。スペイン政府はフランコを中佐に昇進させた上でモロッコに送り返した。フランコはこの期待にこたえ、リーフ軍9000人に襲われていた前進基地をわずか2個大隊で救ったといわれている。スペイン本国ではその年9月、政変が起こってプリモ・デ・リベラ将軍による軍事独裁政権が成立した。

 リベラは24年6月にモロッコに視察に出向き、フランコと会食した際にモロッコを全面的に放棄したいと言い出した。フランコは猛反対し、お互いの部下たちが腰の拳銃に手をかける程の気まずい雰囲気になったといわれている。その後またリーフ軍が大攻勢に出てきたため、リベラはフランコの意向に構わず戦線の縮小を命令した。前線のシャウエン基地で包囲されていた友軍を救出しつつ撤収する作戦は困難を極めたもののどうにか成功し、この時の戦闘でも手柄を立てたフランコは大佐に昇進した。リベラはモロッコ放棄案を撤回した。
 
 その頃、リーフ軍の勢いに警戒心を強めたフランス軍がスペイン領のワルハ峡谷へと進駐していた。その兵力は大きなものではなく、正面切ってリーフ軍に戦いを挑むでもなかったのだが、ワルハ峡谷はリーフ軍の補給路を扼する要地であった。これを放置する訳にはいかないリーフ軍は25年4月からワルハ峡谷への攻撃を開始、フランス軍を追い散らして6月にはフェズを脅かす勢いを見せた。7月、仏西両国は共同作戦協定を結んでリーフ軍に対抗することにした。フランスはペタン元帥の率いる16万もの大軍を投入することにした。

 9月7日、リーフ共和国首都アジールに近いアルホセイマ湾に新手のスペイン軍が上陸作戦を敢行した。これはフランコの案によるもの(彼自身が第一波の指揮をとる)で、戦艦3隻を含む仏西連合艦隊の支援を受け、新型の水上機母艦による空からの掩護のもとに兵員のみならず戦車まで揚陸するという野心的な作戦であった。上陸地点が遠浅だったことから上陸用舟艇の接岸に難儀し、さらに事前に情報が漏れていたことからリーフ軍の反撃もかなりのものとなった。苦戦に陥ったスペイン軍の司令部は総退却を指示したが、先頭を進むフランコはこれを無視して戦闘を続行、勝利を掴んだという(リーフ軍の抵抗は大したものではなかったという資料もある)。

 スペイン軍はそれから2週間の間に続々と新手を上陸させ、2万3000の兵力をもって内陸部のリーフ共和国首都アジールの攻略にかかった。リーフ軍はスペイン軍のみならず南から迫ってくるフランス軍との戦いにも兵力を割かねばならず、毒ガス攻撃まで受けたことから足腰が立たなくなった。ちなみに毒ガスの使用はこの時点では合法である。リーフ軍は10月にはアジールを放棄、その後しばらくは冬(雨期)のため膠着状態に陥るが、スペイン・フランス軍の総兵力はやがて50万以上に達した。リーフ軍は翌年2月と3月に反攻に出るも失敗した。

 リーフ共和国大統領アブドゥル・クリムが降伏したのは5月27日のことである。小規模なゲリラ戦は33年3月まで継続された。アブデゥル・クリムはインド洋のフランス領の島に流刑となるが、1947年に脱走し、亡命先で63年に亡くなった。

 フランコの方はリーフ戦争終盤の26年2月に准将に昇進した。まだ33歳だった彼は、当時のヨーロッパで最も若い将軍であったという。スペイン本国のリベラ軍事独裁政権は30年には崩壊するのだが、その後の36〜39年の「スペイン戦争」を経て成立し75年まで続く長期独裁政権となったフランコ政権の軍事的中核は「第三次リーフ戦争」を通じて形成された集団なのである。

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