モロッコの歴史 後編その2

   フランスの政策   目次に戻る

 フランスはモロッコの混乱のせいでアルジェリア植民地が脅かされているとの口実のもとにじわじわとモロッコ領に侵入していた。前にも説明したがモロッコ・アルジェリアの国境線が画定しているのは海岸から内陸140キロまでだけで、それより南の山岳・砂漠地帯の境界は未画定のままだったことにつけ込んでモロッコの勢力圏にあるオアシスを占拠していったのである。そのままモロッコ全土を植民地化したいところであるが、そのためにはまず他の国への根回しが必要である。

 フランスが特に気を使ったのはイギリス・イタリア・スペインの3国である。イギリスはジプラルタル(註1)の安全を確保するためにモロッコの安定を欲しており、スペインは何度も言うように昔からモロッコの沿岸部に拠点を持っており、イタリアは北アフリカの地中海沿岸に植民地を欲しがっていた。

註1 イベリア半島の南端に近い要衝。1704年以来イギリス領。


 フランスはまず1900年、その頃オスマン帝国領のリビア(註2)を狙っていたイタリアと話し合いを持ち、イタリアがフランスのモロッコ政策を容認してくれるならフランスとしてもイタリアのリビアにおける自由な行動を認めてやるとの「仏伊協定」を成立させた。実際にイタリアがリビアを侵略するのはこの11年後のことである。続いて1904年、今度は「英仏協商」が成立し、イギリスがフランスのモロッコ政策を認めてくれるならフランスとしてもイギリスのエジプト支配を認めてやる(註3)ということになった。

註2 リビアはもともとオスマン帝国の領域であったが本国から遠いために半独立していた。しかし同じような状態になっていたアルジェリアが1830年にフランスに征服されたことに驚いたオスマン帝国は1835年にリビアを再征服した。詳しくは当サイト内の「イタリアのアフリカ侵略」を参照のこと。

註3 エジプトもリビア・アルジェリアと同じようにオスマン帝国から半独立していたが、1882年にイギリス軍によって占領された。しかしエジプトはフランスにも狙われていたため、英仏はその後20年以上に渡って激しく対立するようになってしまった。この対立を解決したのが1904年の英仏協商なのである。


 残りはスペインである。スペインは去る1898年の「米西戦争」でアメリカ合衆国に敗れて海外植民地のフィリピンやキューバを失っており、その埋め合わせをモロッコでしたいと考えていた。フランスはこのスペインと話し合い、モロッコにおいて将来スペインが植民地化しても構わない範囲を取り決めた。その地域では何をしてもいいから残りの地域はフランスが貰って構わないねという意味である。この取引には実はイギリスの意図も絡んでいた。イギリスとしてはモロッコが丸ごと全部フランスという大国のものになってしまうよりも、その一部(なるべくジブラルタルに近い地域)が「弱国」スペインのものであってくれた方が安心、という意向であった。スペインとしては素直に喜んでいいのかどうか分からん話である。

   タンジール事件   目次に戻る

 1905年3月31日、ドイツ皇帝ウィルヘルム2世が「ハンブルグ」号でタンジール港を訪れ、モロッコの独立を擁護するとの発言を行った。世に言う「タンジール事件」である。ドイツとフランスは日頃から仲が悪い(後述)が、ちょうどこの頃フランスの同盟国であるロシア(註4)が「日露戦争」で苦戦していたことがドイツを勢いづかせ、フランスの外交政策に釘を刺してやろうと皇帝みずからアフリカくんだりまでやって来たのである。ヨーロッパの元首がモロッコを訪問したのはこの時が最初で、ドイツ皇帝は大歓迎を受けたという。

註4 両国は1891年から同盟。


 ドイツがモロッコに公使館を開設したのは1873年のことだが、それからしばらくの間は通商程度の関心しか示しておらず(註5)、そのせいかどうかフランス政府はドイツをモロッコ植民地化に関する根回しの対象としていなかった。しかしドイツ政府は1904年の末頃からタンジールの公使館を通じてフランスのモロッコ政策を掣肘するような発言を繰り返しており、ついには今回の皇帝自らのモロッコ来訪となったのであった。

註5 ただしそれは政府レベルの話であって、民間にはモロッコを植民地化すべしとの運動が存在した。


 ここでドイツという国について簡単に説明しておく。「ドイツ」という国が出来たのは割と最近のことであって、1860年代までは中小の諸国が乱立していたのだが、その中で頭角を現した「プロイセン王国」による統一事業が進み、1871年をもって「ドイツ帝国」が誕生した(プロイセン国王がドイツ皇帝として即位)。その過程で、プロイセンの強大化を警戒したフランスとの戦争(普仏戦争)が発生し、後者が敗北するという出来事があったのだが、フランスは講和条約で課せられた20億フランの賠償金をたったの3年で完済し、その後もドイツへの反攻を目指して内政外交に努力するに至った。そんな訳でフランスの報復を非常に恐れたドイツは、フランスの矛先を海外植民地の獲得に振り向けさせる(ドイツへの復讐に向かないようにする)ことにした。それにフランスとしても、植民地を拡大・開発することによって普仏戦争の痛手から立ち直りたいと思った。特にモロッコは過去に多くの強力な王朝を生み出してきた土地だけあって農地は肥沃、大西洋岸は漁場として優れているし、鉱物資源も見込まれていた(註6)

註6 21世紀現在のモロッコはアフリカ第4位の国内総生産を誇り、農業・漁業・鉱業・軽工業がバランスよく発達している。


 という訳でドイツはこれまでモロッコについて何も言わなかったのだが、日露戦争の戦局を見ているうちに考えを変えてしまったのである。

 ただ、これはドイツ帝国宰相ビューロー公のイニシアチブによるものであって皇帝の本意ではなかったともされる。それにドイツとしては、イギリスの動きが気がかりであった。フランスとイギリスはここ20年程のあいだ植民地の獲得競争でかなり険悪な関係を続けており、ドイツはその争いを利用することで利益を得ようと思っていたのだが、モロッコとエジプトの取り扱いに関する「英仏協商」で両国が手を握ってしまったのは想定外の展開であった(註7)。そういう状況下において、ロシアが行動不能に陥っている今のうちにフランスに一撃を与えたいというのは当然の発想であった。

註7 英仏協商が成立したのは1904年4月だが、これはその2ヶ月前に勃発した「日露戦争」の影響が大きい。当時の日本はイギリスの同盟国、ロシアはフランスの同盟国であったから、何かのはずみで英仏戦争に発展する可能性が危惧され、それを防ぐ意味で英仏協商の締結が急がれたという訳である。また、フランスがロシアと同盟したのはドイツに対抗するためであったのだが、そのロシアがドイツと反対方向の日本との戦争に全力を尽くしているようでは同盟の意味がないことになる。そこでその穴を埋めるためにも是非イギリスと結びたいという発想もあった(ただし、イギリスの方にはこの協商によってドイツに備えるという意図はなかったようである)。


 ドイツ皇帝がモロッコに現れることはフランス政府も数ヶ月前から知っていた。フランスはドイツがどうこう言い出す前にモロッコ植民地化にリーチをかけようと、この年1月にいつもはタンジールに詰めている公使サン・ルネ・タイヤンディエをモロッコ首都のフェズに特派、モロッコ政府に軍制の改革や国立銀行の創設、道路建設や電信線設置といった近代化を実行させようとした。「近代化」といえば聞こえがいいが、たとえば国立銀行を通じてフランス資本を進出させようというのである。まぁスルタンの方も近代化に熱意を持ってはいたのだが、その費用は外国に借金する以外になかったし、フランスはスルタンの政府がフランス以外の国から借金しないように工作していた。当時のモロッコの首都であったフェズは内陸に位置して交通不便であったことから諸外国の外交官はもっぱら大西洋沿岸のタンジールで仕事をしていたのだが、フランスだけはフェズに領事館を置き、スルタンに圧力をかけ易いようにしていたのである(註8)

註8 ただしフランスも公使館はタンジールに置いていた。それに対してモロッコ政府は外国に外交代表を常駐させていなかった。


 そのようなフランスのゴリ押しにむかついていたスルタンは、ドイツ皇帝の来訪に勇気づけられ、フランスに対して非妥協的に接することにした。とはいっても、近代化に関する交渉に追われていたスルタンはタンジールのドイツ皇帝に会いに行けず、ドイツ皇帝の方は海が荒れていたことからさっさと帰ってしまったのだが……。しかし駐タンジールドイツ公使のタッテンバッハが「近代化の話はフランス・モロッコ2国間協議ではなく国際会議で決めるべきである」と言い出し、ドイツ本国政府も「もしフランスが会議を受け入れないならば、ドイツは戦力をもってモロッコの後ろ盾となるであろう」と声明したため、フランス政府は会議案を受諾せざるを得なくなった。迂闊に拒絶して独仏戦争にでもなったら困るからである。もちろんドイツも単なる善意で言っているのではなく、陰でこっそりとスルタンと交渉して(国際会議開催をフランスに受諾させた恩をネタにして)経済利権をゲットしたのであった。

   アルヘシラス会議   目次に戻る

 1906年1月15日、スペインのアルヘシラス市にイギリス・ドイツ・オーストリア・ベルギー・スペイン・アメリカ・フランス・イタリア・オランダ・ポルトガル・ロシア・スウェーデンの12ヶ国とモロッコの代表団が集合、国際会議を開催した。世に言う「アルヘシラス会議」である。このうちのイギリス・スペイン・イタリアは既にみたとおりモロッコに関するフランスとの協定が出来てしまっており、ロシアはフランスの同盟国、それ以外の国は招待状を貰ったから出席しただけであってモロッコなんかどうでもいい、という具合でドイツに味方したのはオーストリア(註9)ぐらいであった。

註9 ドイツとオーストリアは1882年から同盟関係。


 ともあれこの会議の結果「アルヘシラス議定書」が成立、フランス・スペインが既に得ている権益を確認した上でのモロッコの独立・領土保全・門戸開放、それから武器密輸の防止、会議参加国国民のモロッコにおける治外法権、といったことが確認された。「武器密輸の防止」というのは、ドイツが反フランス政策の一環としてモロッコの地方部族に武器を売り込んでくる可能性を封じるための措置である。また、フランスはスルタンに貸している金の担保としてモロッコ政府の管理する税関(スルタンの最大の財源は関税)に注目していたため、その意味でも密輸は断固として阻止せねばならなかった。

 同議定書ではさらに、「モロッコ国立銀行」の創設、フランス人・スペイン人が教官をつとめる警察の新設、税制改革といったモロッコ近代化の推進が決められた。国立銀行には独仏英西が1名づつ監査役を派遣し、新警察の「総監察」職にはスイス人が就任することになった。ドイツ人やスイス人を入れることによってフランス・スペインの野心をカムフラージュした訳だが、実質的にはフランスがスルタンに要求していた近代化案が国際的な承認を受けた訳である(スルタンも議定書に署名)。

   カサブランカ事件   目次に戻る

 「領土保全」とか言いつつ、フランスとスペインはモロッコ領土を狙うのをやめなかった。この2国でモロッコを分割する約束をしていた(この約束は仏西英以外には内緒であった)のだから当然である……。とはいえ、一挙に植民地化するようなことはなく、他国の顔色を確かめつつ慎重にことを進めていく……。

 1907年5月、フランス資本の「モロッコ会社」がカサブランカの町で築港工事を開始した。カサブランカ港はそれまで突堤がなくて沖の船から艀で荷物を陸揚げしていたのだが、フランス資本による近代的な港湾が完成すると、荷揚げ人夫が失業してしまうことになる。

 人夫だけでなく、港の税関の役人たちもフランスに不満を抱いた。彼らは密輸や脱税を見逃すかわりに賄賂をとるのが常だったのに、アルヘシラス会議で押し付けられた「税制改革」のせいで賄賂がとれなくなったからである。さらにまた、突堤の建設に用いる石材を石切り場から運んでくるためにフランスが建設した鉄道はモロッコの一般庶民から見れば「悪魔的な被造物」であった。カサブランカに住むアラブ・ベルベル人たちは築港工事をやめさせるようスルタンの政府に陳情したが、なしのつぶてであった。フランスの横暴になすすべを持たないスルタンの威信は極めて低下した。

 7月30日、石切り場からカサブランカに向かっていた列車が線路に置かれた岩に停車させられ、そこをアラブ・ベルベル人多数に襲われてヨーロッパ人9人(国籍は仏西伊)が死亡するという「カサブランカ事件」が発生した。このニュースを聞いたカサブランカ在住のヨーロッパ居留民の多くは身の危険を感じて沖合に停泊していた船舶へと脱出した。カサブランカに住むアラブ・ベルベル人はこの騒ぎに興奮して暴動を起こした。スルタンの政府が暴徒を鎮めるための軍隊を派遣したが、どうにもならなくなった。

 続いてフランス・スペインが自国居留民保護の名目で軍艦数隻を派遣、陸戦隊を上陸させて暴徒を砲撃したが、相手の怒りを増幅させるだけであった。しかもカサブランカの周辺にはただでさえスルタンの政府に従わない部族が出没しており、彼らが続々とカサブランカに集結してきて仏西陸戦隊を攻撃した。そこでフランスは増援として6000人もの兵員を上陸させ、激戦を繰り返して8月末にはカサブランカを制圧、さらに町の後背地のシャウィヤ地方にたむろする反フランス部族の平定にとりかかった。フランス軍の戦力は1万5000人に増強された。

   兄弟戦争   目次に戻る

 カサブランカ事件のどさくさにまぎれ、現スルタンの兄でマラケシュ太守をつとめていたムーラーイ・ハフィッドが弟に戦争をしかけてスルタン位を奪取しようとした。こうして8月16日から始まったのが「兄弟戦争」である。ハフィッドは世論を味方につけようとフランスに対する「ジハード(イスラムの聖戦)」を宣言した。しかしこれは人気取りのためのものであって、本気でフランスと戦うつもりはない(全く戦わなかった訳ではない)。

 正統スルタンであるアブドゥル・アズィーズはフランスに援助を求めた。しかしフランスはシャウィヤ地方の掃討を進めつつも、ハフィッド軍に対してはあまり手出しをしなかった。カサブランカを占領したのはあくまで自国居留民保護のためであって、内戦に介入するようなことは(他国が反発するだろうから)今の段階ではまだ出来ないと考えたのである。そうなると、「兄弟戦争」の戦局は形だけとはいえフランスに対するジハードを掲げるハフィッド軍の方が民衆に訴えかけやすいだけ有利となる。アブドゥル・アズィーズは討伐軍を編成しようにも金がなく、時価800万フランの宝石を質屋に入れてなんとか120万フランだけ工面出来たという有り様である。結局アブドゥル・アズィーズ軍は1908年8月19日の「ブー・アジバの戦い」にて味方の裏切りで敗れた後、フランス軍の占領するカサブランカに逃走、そのまま亡命した。

 この戦争の最中、本稿の上の方で登場した盗賊ライスーリは要領よくハフィッドに50万フラン相当の金品を贈って臣従を誓い、タンジール周辺の6つの部族を公的に従える官職を貰っている。その一方で、アブドゥル・アズィーズのもう1人の兄であるシディ・モハメッドが「ハフィッドより年長の自分こそスルタンに相応しい」として反乱を起こしたが、ハフィッド軍によってあっさり鎮圧・処刑された。

 それはともかくとして……、新スルタンとなったハフィッドはしかし、というか、言うまでもなく、フランス軍を追い出すようなことはしなかった。フランス政府は最初この新スルタンを承認しなかったが、新スルタンに軍資金を貸していたドイツに圧力をかけられたため承認に踏み切った。フランス(1908月5月にシャウィヤ地方の制圧を終了)は新スルタンに「カサブランカ事件」の責任をとらせ、事件の際にフランス軍が費やした戦費を新スルタンに支払わせる協定を締結した。ハフィッドは自分の政権を安定させるために(シディ・モハメッドの反乱のような事態を防ぐために)フランスの助力を得て軍隊の近代化を急ぐことにした。フランスはシャウィヤ地方を平定した後も、「治安維持」の名目でカサブランカに7000名の軍隊を駐留させることにした。

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