ペリリュー

 1943年の太平洋の戦局は既に日本軍の劣勢が明らかであった。6〜8月にはサイパン島・グアム島・テニアン島の日本軍守備隊が玉砕した。米軍が次に狙ったのはパラオ諸島であった。米軍では既に3月の時点で来る9月にはパラオ諸島を攻略するとの作戦をたてており、最初はパラオ全島をとるつもりでいたが、議論と研究の結果とりあえず諸島のうち南西に位置するペリリュー島・アンガウル島だけを占領することが決定された。ペリリュー島には飛行場があり、来るべきフィリピン・沖縄攻略に欠かせない存在と思われたのである。パラオ諸島のそれ以外の島は放置して餓死するにまかせる(註1)

註1 諸島のうちパラオ本島には2万5000もの日本軍がいた。この強力な拠点を損害を払って攻略するより、パラオ諸島で一番フィリピンに近いペリリューとアンガウルだけに的を絞って落とした方が効率的。


 そして9月6日、空母11隻・戦艦3隻を主力とする米艦隊がペリリュー近海に現れた。上陸を担当するのはルバータス少将の率いる第1海兵師団を基幹とする約2万8400名である。空母から飛び立った編隊がパラオ諸島全体への爆撃を繰り返し、7日にはペリリュー飛行場を使用不能とした。米軍の首脳部では、ペリリューは激戦にはなるであろうが4日もあれば占領出来るとの見通しであった。12日から3日間に渡り艦艇が17万発の砲弾を叩き込んだ。13日には潜水部隊が上陸予定海岸の少し沖にある暗礁を破壊、2日後に予定されている上陸作戦を円滑に実行出来るようにした(その潜水部隊は危険な仕事のためか黒人が主であったという)。

 ペリリュー島の日本軍は陸軍部隊が歩兵第2聯隊と、歩兵第15聯隊第3大隊、独立歩兵第346大隊の計5個大隊を基幹とし、海軍部隊が西カロリン方面航空隊ペリリュー本隊・第45警備隊ペリリュー派遣隊等々、合計約9000名であった。大砲は75ミリ野砲8門と10センチ榴弾砲4門その他である。陸海軍あわせて「ペリリュー地区隊」と総称し、第2聯隊長の中川州男大佐がその指揮をとる。陸軍部隊は数ヶ月前に満州から転出されてきた部隊を主力とするが、ペリリューの現地で召集した兵員もいた(註2)。海軍の航空隊の主力は去る8月にはフィリピンのダバオに移動したため米軍到来の時点では8機しか残っておらず、それも7日の爆撃で破壊されてしまった。

註2 ペリリュー島を含むパラオ諸島(カロリン諸島に属す)は第一次世界大戦の時から日本の統治下にある。詳しくは当サイト内の「南洋群島」を参照のこと。日本人居留民には沖縄出身者が多く、現地で召集されて「糸満兵」と呼ばれた。


 米軍の上陸地点は日本側にも予測がついていた。島の南西部の平坦な海岸(飛行場もその近くにある)である。ペリリュー島は南北9キロ、東西3キロもあって1万足らずの兵力で全周を防御するのは難しいが、周囲を珊瑚礁が取り巻いていることから上陸部隊を乗せた艦艇が入り込める水路は限られており、内陸には山岳が不規則に連なっていて無数の洞窟や断崖絶壁が存在した。日本軍はまず南西部の海岸に設置した陣地で米軍の上陸を遅らせ、ついで内陸の山岳帯で長期持久戦に持ち込むとの作戦を立てた。他の島の日本軍が敵軍の上陸を防ぐために水際防御に全力を尽くそうとして最初の数日で敵の砲爆撃で壊滅させられるというパターンにはまっていたことへの反省であった。南西部に置くのは歩兵第2聯隊第2大隊(富田大隊)635名と歩兵第15聯隊第3大隊(千明大隊)750名である。それから島の北部にも独立歩兵第346大隊(引野大隊)556名を置く。残りは島の中部に展開した。

 9月15日午前5時30分、米艦隊が上陸直前の砲撃を開始した。6時15分、輸送船団から大型舟艇50隻が動き出し、事前に日本側が予測した通り島の南西海岸に接近、陸地から2000メートルの地点でさらに300隻の上陸用舟艇への分乗が行われた。いくらかは日本軍の仕掛けた機雷に触れて沈没したが8時には準備を完了、艦砲と煙幕の援護のもとに敵前上陸を開始した。

 日本軍は米軍が海岸から150メートル前後に近づいた時点で反撃を開始した。堅固な陣地に籠っていた日本軍は米軍の砲爆撃にもさしたるダメージを受けていなかった。日本側の大砲は内陸の洞窟陣地に隠されており、射撃の時だけ入り口の鉄扉を開いて米軍の舟艇を狙い撃ちした。ただ、海岸の日本陣地の電話や無線は壊れ伝書鳩も死んだため、内陸の砲兵隊との連絡には2匹だけ生きていた軍用犬を用いなければならなかったが……それでも砲撃の効果は絶大で、米軍は事前の砲爆撃が足りなかったのかと悔しがった。米軍の第1波は日本側の機雷や砲撃のため上陸用舟艇60隻あまりに戦車3両を破壊され、死傷者は1000名近くに及んだという。このことは東京の大本営にも打電され、天皇からペリリュー地区隊に対し「緒戦に戦果を得て、甚だ結構だが、益々奮闘するように」との言葉を送られた。

 しかし第1波の後ろに続く米軍第2波は8時30分頃にはなんとか陸地にとりついた。米戦車の中には落とし穴にはまって動けなくなったものもあった。それでも米軍は猛烈な砲爆撃の援護のもとにジリジリと前進を続けた。日本軍は海岸の陣地1つに1個小隊づつを配備していたが、米軍は1個大隊を最少単位として行動した。米軍は艦砲で珊瑚礁を砕き断崖を崩し平坦にならし、その上に鉄板を敷いて戦車を通らせた。その猛攻の前に日本側は死傷者続出の惨状となる。

 南西海岸を守る日本軍の千明大隊の陣地群と富田大隊の陣地群の間にはかなり大きな隙間があり、米軍はそこに1個聯隊を投入して地歩を拡大した。日本軍の自爆攻撃によって戦車を多数破壊されたが14時20分頃には飛行場の西南端にとりつく。米軍は戦車が破損してもすぐに修理する体制が出来ていた。日本側には味方の艦隊が来援してくれるという僅かの期待があったのだが、聯合艦隊司令長官から「必ズシモ貴方ノ期待ニ副エザルベキヲ遺憾トス」との電文が送られてきた。

 16時30分、それまで隠されていた日本軍の虎の子95式軽戦車17輛が第2聯隊第1大隊(市岡大隊)の一部等の兵員をのせて、飛行場を全速で横切って米軍に突進した。米軍は最初は慌てたが、戦車と、既に陸揚げしていた無反動砲とバズーカ砲とでこれに反撃、ほぼ全滅させた。日本軍がもっと早く(米軍が無反動砲等を陸揚げする前に)戦車を繰り出していればよかったのだが、時期を逸した理由ははっきりしない。これと前後して日が暮れた。この日1日の戦闘における米軍の死傷者は約2000名といい、日本軍は戦死者のみで800名を数えていた。日本側の千明大隊が夜襲を試みたが米軍が間断なく照明弾を打ち上げたため大した効果をあげられなかった。翌16日には新手の米軍が膨大な物資とともに上陸し、飛行場はほぼ米軍の手に落ちた。飛行場付近を守っていた日本側の海軍部隊は奥地に退いた。陸軍の千明大隊長も富田大隊長も戦死した。富田大隊の残部が夜襲を行ったが失敗した。砲兵隊も大部分の砲を失った。

 17日、ペリリューの南西11キロに位置するアンガウル島への米軍の上陸が開始された。ここに到来した米軍は第81歩兵師団、通称「山猫部隊」を基幹とする約2万1000名であったが、日本側守備隊は歩兵第59聯隊第1大隊長後藤丑雄少佐指揮のわずか約1200名であった。日本軍は島の北西に無数に存在する鍾乳洞に籠りつつ少人数による斬り込みを繰り返して奮戦したが、10月19日には約50名の生還者をのぞいて玉砕した。米軍は死傷者約1600名を出していた。アンガウル島民(註3)約200名が軍夫として日本軍に協力していたが大部分米軍の呼びかけに応じて投降した。ちなみにペリリューでは島民有志が日本軍への協力を申し出ていたが日本側はこれを退け、米軍が上陸してくる前に島外に退避させていた。

註3 日本人ではなく、島の原住民のこと。


 話を戻してペリリューの米軍は上陸2日目の9月17日には島の飛行場北方の山岳帯へと進撃、富田大隊を猛攻しつつ飛行場のすぐ北に位置する富山と中山を占領した。猛烈な砲爆撃の前に損害続出の富田大隊はその日の夜、負傷者にトタンを乱打させて米軍の注意を引き付けその隙に一挙に突撃に出るという非情の手段に訴えた(註4)が、照明弾に照らし出されて失敗した。富田大隊が北に後退する一方で千明大隊は島の南端に追いつめられ、翌18日午後には全滅、一部の者は断崖から飛び降りた。富田大隊の方はその日また夜襲を行って今度は迫撃砲11門を破壊するという戦果をあげたが、その兵力は150名を切っていた。以降の日本軍は島の中部の山岳帯に構築した無数の洞窟陣地に籠り、昼間は狙撃、夜間は斬り込みという持久戦に突入した。米軍は斬り込みを非常に恐れ、爆撃や艦砲射撃を止めるから夜間の斬り込みをしないでくれと日本語の放送で訴えたという。しかし日本軍の損害も逐次増大しており、20日頃にはペリリュー地区隊の基幹である歩兵第2聯隊は戦力の3分の2を失うに至り、砲兵隊も主力の10センチ榴弾砲すべて使用不能となっていた。現地召集の沖縄出身水夫20名に夜間敵艦に機雷をぶつけさせる「人間機雷」作戦も行われたが成功したのは5名だけであった(註5)

註4 『ペリリュー島玉砕戦』105

註5 『ペリリュー島玉砕戦』108

 米軍は山岳帯の無数の陣地に対し繰り返し攻撃をかけたが、ほとんどそのつど大損害を出して撃退された。22日までの米第1海兵師団の死傷者は4000名近くにも達し、特に敵前上陸を行った第1海兵聯隊が死傷者1749名を出して壊滅状態となっていた。そこで先にアンガウルに上陸していた山猫部隊のうち1個聯隊(陸軍第321聯隊)をペリリューにまわすことにした。23日に飛行場近くに上陸した山猫部隊は日本軍の主力が籠る中部山岳帯を横目に見つつ島の西岸を北上、それまで手付かずだったペリリュー北地区に侵入し、そちらを守っていた日本軍1個大隊(引野大隊)との戦闘に突入した。

 引野大隊は23日と24日の夕刻の戦闘では山猫部隊を撃退したが、そのあと夜襲を準備中に砲撃を受けて大損害を出し、26日には中部山岳帯の味方から完全に遮断されてしまった。北地区にはさらに海兵1個聯隊が進撃してきた。ペリリュー北端のすぐ北に位置するガドブス島に日本側の小さな野砲陣地があって米軍を苦しめたが、米軍はこれに対して28日、まず戦艦1隻を含む4隻で艦砲射撃、次いで飛行機20機で爆撃、そして2個大隊を上陸させてほぼ制圧した。引野大隊は堅固で巨大な地下洞窟陣地に籠り奮戦したが、ブルドーザーや火炎放射装甲車を用いて攻撃してくる米軍の前に10月2日頃ほぼ全滅した。

 話を9月21日まで戻す。ペリリュー島の40キロ北東に位置するパラオ本島(ここは米軍は上陸しなかった)の日本軍司令部では激戦の続くペリリューになんとかして増援を送ろうとの議論が続いていたが、この日ようやく歩兵第15聯隊第2大隊をもって逆上陸をかけるとの決定がなされた。第15聯隊からは一部がペリリュー地区隊に派遣されていてそちらで奮戦中であり、今回の逆上陸は第15聯隊長の福井義介大佐のたっての望みであった。実は在ペリリューの第15聯隊第3大隊(千明大隊)は米軍が上陸してきた南西海岸の防備にあたっていたことからこのころ既に全滅していたのだが……。22日深夜、先発隊として250名が大発動艇(陸軍の小型輸送艇)5隻等に乗り組んで出発、途中で米軍艦艇に発見・攻撃されつつも翌23日未明にはペリリュー北端に上陸を果たした。その日夜には飯田義栄少佐率いる逆上陸部隊本隊約900名が出発したが、ペリリューまでもう少しのところで座礁事故が発生した上に米艦艇に発見され多大の損害を被った。

 なんとか上陸を果たしたものの、指揮官飯田少佐の把握する兵員はとりあえず100名程度、島の中部山岳帯で奮戦している友軍に合流する目処も立たない有り様となった。飯田少佐はこの状況(これ以上の逆上陸はやるだけ無駄)をパラオ本島の司令部に報告すべく奈良四郎少尉を海中伝令として飛ばすことにした。無線機が壊れていたからである。奈良少尉は16名の部下とともに敵機の銃撃を受けたりしながら島伝いに力泳し、何とか少尉と部下3名だけが味方のいるガランゴル島に行き着いた。パラオ本島では更に1個大隊を逆上陸させようと準備していたが、奈良少尉の報告を聞いて取りやめた。奈良少尉は途中でペリリューからの脱走兵と思われる海軍の将兵60名を載せた舟艇に行き会っているが、そちらはパラオに着いたところで追い返されている(註6)。飯田少佐の逆上陸部隊の方はどうにか先発隊もあわせて約400名の兵員を掌握し、27日にようやく中部山岳帯の味方に合流した。他に100名ほどが北地区の引野大隊に合流してそちらと一緒に全滅している。

註6 『玉砕の島』224 その後の消息は不明。


 さて、中部山岳帯の日本軍は大山・東山・水府山・南征山・観測山といった小さいが険しい山々が連なる地域に南北800メートル・東西350メートルの複郭陣地を構築していた。米軍はこの狭い地域を5個大隊で包囲して猛烈な砲爆撃を行い、特に10月2日の夜には4万発もの砲弾を叩き込んだ。3日、総攻撃を行った米軍は複郭陣地のうちの東山山頂等を占領したが、5日の戦闘では水府山を占領しようとして撃退された。米軍は序盤に占領していたペリリュー飛行場を整備・拡張し、ここを利用しての日本陣地爆撃を活発化した。特に8日に2回に渡って行った大爆撃では水府山付近の洞窟陣地の大部分の入り口を破壊した。米軍はこの水府山を重点的に狙うこととし、猛烈な砲撃で断崖を崩して歩兵や車輛が進撃しやすいようにした。その上で10日から水府山への突入を開始し、火炎放射器の援護のもとに翌11日午後には目標の大部分を占領した。日本軍が夜襲に出てきたが撃退した。しかし12日の夜には米軍の方が大山に夜襲をかけようとして撃退された。

 13日、ペリリュー地区隊長中川大佐の掌握する兵員は1150名にまで落ち込んでいた。武器は小銃500と機関銃16その他であった。正確には、中川大佐たちが籠る複郭陣地から少し離れたところに100名ほどが孤立していたのだが、これについては後述する。14日、米軍は大山を攻撃すると見せかけて別のポイントに総攻撃を行い、16日までに日本軍を南北450メートル、東西150メートルの範囲に押し込めた。米軍ではこのころ激戦と炎暑で疲弊しきった第1海兵師団が撤収して陸軍の第81歩兵師団(山猫部隊)と入れ替わる作業が続いており、新着の部隊が日本軍を猛攻した。なお山猫部隊は先に述べたとおりアンガウル島に上陸した部隊だがそちらの日本軍は1200名しかいなかったため、一部を残してペリリューに移動とされたのである。そのうち1個聯隊は早い段階でペリリュー北部に投入されて引野大隊と交戦したことも既に述べた通り。

 17〜18日、米軍は南征山に猛攻をかけたが撃退された。しかし23日の攻撃では南征山をほぼ占領、27日にはその南西にあるペリリュー唯一の水源地の池を制圧、鉄条網で囲い夜間はライトで照らして封鎖した。日本軍は夜間斬り込みで水を奪取しようとしたが失敗し、以降は天水に頼るしかなくなった。米軍は日本軍の銃撃を防ぐために土嚢を積み重ねて陣地を構築し、これをじりじりと前進させた。ペリリューは珊瑚礁の島なので土の調達に苦労したようである。日本軍は土がないため味方の死体を土嚢がわりにする惨状となった。10月末には米軍は海兵隊と陸軍とが完全に入れ替わったが、日本軍の戦闘可能人員(中川大佐把握の兵力)は軽傷者を含めて500名にまで落ち込んでいた。

 11月2日、米軍は観測山を占領した。日本軍の支配地域はペリリュー地区隊本部のある大山とその周辺の南北300メートル、東西100メートル(と、他に孤立している小部隊)だけとなった。米軍は観測山に運び上げた小型の大砲(75ミリパック・ハウザー砲)で大山の洞窟陣地を狙い撃ちした。しかし4日から8日まで豪雨・台風となったため戦況一般は小康状態となった。その合間にも米軍の土嚢陣地がじわじわと前進した。日本側のパラオ本島の部隊はペリリューに補給品を届けるための小部隊の逆上陸を何度か行ったが失敗した。乏しい飛行機を飛ばしての爆撃も焼け石に水である。

 8日、もはや最後の総攻撃に出て全滅した方が楽である(もしくは何とかして島から脱出するか)と考えるに至ったペリリュー地区隊はパラオ本島に対しその許可を求める旨の電文を発した。しかし返事は「アクマデ持久ニ徹」せよとのことであった。米軍上陸後50日以上に渡るペリリューの奮戦は全軍をこの上なく奮起させており、天皇からも8度に渡って嘉賞の言葉を受けていた。ペリリューが1日粘るごとに米軍の損害も増し、他の戦線の味方の戦備を整える余裕が出来るのである。

 13日、米軍が大山への総攻撃を開始した。ブルドーザーで戦車道を造りながらの進撃である。米軍は洞窟陣地の奥めがけてホースでガソリンをまき散らし、そこに火炎放射器で火をつけた。18日、中川大佐把握の兵力は軽傷者を含めて150名に低下した。22日には米軍はその僅かの日本軍に対して2個聯隊以上の戦力を投入していた。それでも日本軍の反撃にあって撃退されている。

 24日午後4時、健在者50名に重軽傷者70名を率いるのみとなったペリリュー地区隊長中川大佐は軍旗と機密書類を焼却し、その旨を伝える符号「サクラ サクラ」をパラオ本島に向け打電した。午後5時、通信機用の電池が底をつくので「本日ヲ以ッテ通信期シ難」きこと、今後も持久戦に徹し「一同志気旺盛、闘魂ニ燃エ、神出鬼没、敵ノ心胆ヲ寒カラシメン」ことを伝える電文を発送した。武器は小銃だけ、弾薬は20発、手榴弾や食糧は20日には尽きていた。この打電の後、中川大佐以下の幹部と重傷者は自決、残った根本甲子郎大尉以下56名は午後6時「夜鬼トナリ、之ガ粉砕ヲ期セントス」との最後の電文を発して17組に別れて大山洞窟陣地を出た。27日午後7時頃までに全滅したとされている。

 しかし、そこから少し西に離れた北部天山洞窟陣地ではまだ80名ほどが組織的な抵抗を継続した。彼らは9月25日には本隊との連絡手段を失っており、12月の半ばになってようやく本隊が全滅したことを把握した。彼らはその後、島の西岸の湿地帯やその周辺の洞窟に数組にわかれて潜伏し、米軍から盗んだ武器や食糧を使って約2年半に渡りゲリラ戦を継続した。彼らの生き残り34名が元日本軍少将の呼びかけに応じて投降したのは47(昭和22)年4月21日のことである(註7)。もちろんそれ以前の戦闘で捕虜になった者もかなりおり、ペリリュー戦を生き残った日本兵(朝鮮人の軍属も含む)は全部で446名となった。しかしペリリュー地区隊の総兵力はパラオ本島から逆上陸してきた飯田少佐の部隊を合わせて9838名であった(正確な数字は諸説あってはっきりしません)のだから、実に95パーセントが死んだことになる。対して米軍は全部で約4万2000名の兵員を投入して戦死者1684名、負傷者7160名であった。

註7 島の北部でも引野大隊の生き残りが戦後2年ほど活動していたという。


                                おわり

   参考文献

『戦史叢書中部太平洋陸軍作戦2 ペリリュー・アウンガル・硫黄島』 防衛庁防衛研修所戦史室 朝雲新聞社 1968年
『ペリリュー島玉砕戦』 舩坂弘著 光人社NF文庫 2000年
『玉砕の島 太平洋戦争 激闘の秘録』 佐藤和正著 光人社NF文庫 2004年

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