藤原広嗣の乱

 藤原広嗣は藤原不比等の孫にして宇合の子である。宇合には3人の兄弟(武智麻呂・房前・麻呂)がおり、この藤原の4兄弟は天平元(729)年、その頃の朝廷の第一人者であった長屋王を自殺に追い込み、次いで妹の光明子を聖武天皇の皇后に擁立した。彼女が「光明皇后」である。しかし天平9(737)年に流行した天然痘によって藤原4兄弟は全滅、かわって光明皇后の異父兄にあたる橘諸兄という人物が奈良の朝廷の中枢に君臨することとなった。諸兄は敏達天皇の子孫である。

 この諸兄政権において重きをなしたのが吉備真備と玄ボウ(この漢字はパソコンのソフトにない。「日」偏に「方」旁)である。この2人は霊亀2(716)年から天平7(735)年まで遣唐使の一員として大陸に学んだ人物であった。彼等は本来たいした家柄ではなかったのだが唐からの帰国の際に多くの経典や文物、並々ならぬ学識を持ち帰って聖武天皇の信任を得ることに成功した。玄ボウは天皇の母の宮子の病を祈祷で平癒したことが知られ、真備は唐から帰ってきた時には従八位下という下っ端の官人でしかなかったのが3年間で従五位上にまで昇進するというスピード出世をした。

 彼等の躍進と反比例する形で藤原一族は落ち目になっていた。特に広嗣は天平10(739)年に式部小輔・大養徳(大和)守という2つの要職を兼務していたのが「親族を誹謗した」として(具体的に親戚の誰に何を言ったかは不明)九州の太宰府に左遷され、不満をかこつようになる。

 その不満の矛先は主に、成り上り者の玄ボウと吉備真備に向いていた。広嗣は従五位下だから、従五位上の真備に負けていることになる。ちなみに玄ボウと真備が大陸に渡った時の遣唐使(総員557名)の副使(次官)は広嗣の父の宇合であった。宇合は1年で帰国しているが、留学生・学問僧である真備と玄ボウは18年も大陸に留まっていた。それはともかくとして天平12(740)年8月末、広嗣は玄ボウと真備を退けるべきとの上奏を行った。九州はこの前年に飢饉と疫病に襲われていたが、そのような天災はつまり政治が悪いから起こるのであり、それは玄ボウ・真備のような輩を重く用いているからである、と。この上奏を聞いた朝廷はとりあえず広嗣に上京せよと命令した。

 そして9月3日、広嗣が兵を動かしたとの報告が朝廷にもたらされた。広嗣自身は別に天皇に叛いたつもりはなかったのだが……しかし聖武天皇は「これは謀反である」と判断し、大野東人を大将軍、紀飯麻呂を副将軍に任じて1万7000の兵を与えて広嗣討伐にあたらせることにした。さらに佐伯常人・阿倍虫麻呂を勅使として従軍させる。寺社には戦勝祈願を行わせた。

 広嗣の軍勢は九州各国の正規の軍団1万や豪族の手勢、それから「隼人」を含んでいた。隼人とは九州南部にあって長らく朝廷の支配に服さなかった人々のことである。隼人は養老4(720)年から翌年にかけて大伴旅人(万葉の歌人として有名だが、武門の人でもあった)の率いる朝廷の軍勢と戦い敗れて以降は概ね恭順を示すようになり、「遠の朝廷」と呼ばれた太宰府の高官である広嗣の挙兵に際して居住地の薩摩・大隅から合流してきたのである。ただ、彼等は広嗣と同じく自分の行動が天皇に対する反逆になっているとは考えていなかったようである。広嗣は父の宇合が晩年にやはり太宰府につとめていたことがあり(これは別に左遷とかではなかった)、親子2代の顔をきかせて相当数の軍勢を集めることが出来たのであるという。

 隼人の一部は5世紀頃から畿内に移住させられていた。これを「畿内隼人」と呼ぶ。今回の広嗣の反乱軍が隼人を含んでいることを予期した朝廷は畿内隼人から24人を征討軍に参加させることにした。

 21日、関門海峡まで進んできた大将軍の大野東人は長門国豊浦郡の額田部広麻呂という人物に40人の兵士を与えて渡海、上陸拠点を確保させた。その上で翌22日、勅使の佐伯常人・阿倍虫麻呂が24人の畿内隼人を先頭にする4000の兵とともに九州に上陸した。そこから前進して板櫃の鎮(現在の北九州市小倉)にいた広嗣方の軍勢を打ち破る。広嗣方の指揮官数人が戦死、1767人が投降したという。24日になると広嗣の本営が筑前国の遠珂郡の郡衙(郡の役所)にあることがわかり、その翌25日には広嗣軍から脱落して投降してくる者が相次いだ。その後しばらく朝廷からの帰順工作が続けられるが、10月9日になると広嗣軍の方が決戦を挑んで進み出てきた。その兵力は1万、板櫃川を挟んで朝廷軍6000と対峙する。この朝廷軍を率いるのは勅使の佐伯常人と阿倍虫麻呂である。広嗣は自ら隼人の部隊を率い筏を組んで川を渡ろうとしたが、朝廷軍は弩を使ってこれを阻止した。「弩」というのは機械仕掛けの弓のことで中国や西洋ではよく用いられたが日本では古代の一時期にしか用いられなかった。

 以後は川を挟んでの矢合戦となるが、朝廷方の隼人が相手方の隼人に向かって「逆人広嗣に随ひて官軍を防拒ぐ者は、直にその身を滅ぼすのみに非ず、罪は妻子親族に及ばむ」と呼びかけると広嗣軍は隼人だけでなく一般の兵士も矢を射るのをやめた。

 やがて広嗣が馬にのって現れた。「勅使到来すと承る。その勅使は誰にあるか」。佐伯常人・阿倍虫麻呂が名乗り出ると、広嗣は馬から下りて拝礼し、「広嗣は敢へて朝命を捍まず、但、朝廷乱す2人を請はく耳(広嗣は朝廷の命令を拒むつもりはない。ただ朝廷を乱している2人……真備と玄ボウ……を退けることを請うだけだ)」。しかし、では何故軍勢など引き連れてきたのかと問われると、答えることが出来ずに馬に乗ってその場から出て行った。これを見た広嗣方の隼人20人ほどが川に飛び込んで朝廷軍に投降した。その中の1人が、広嗣の軍勢は3隊にわかれているがこの場にいるのは1隊だけで、残りの2隊はこちらに向けて進撃中であると注進した。

 その後の戦局は不明である。広嗣方の別軍が到着する前に朝廷軍が総攻撃に出たのであろうか。とにかく広嗣は五島列島まで逃走し、そこから耽羅(済州島)に行こうとした。しかし4日かけて耽羅とおぼしき島影をみとめたところで風に邪魔され、広嗣の「我は是れ大なる忠臣なり。神霊我をすつるか。乞はくは、神力に頼りて風波暫く静かならむことを」との祈りも虚しく五島まで押し戻されてしまった。そして10月23日、広嗣は値嘉嶋の長野村に潜んでいたところを阿倍黒黒麻呂という兵士に捕らえられ、11月1日には弟の綱手とともに処刑されたのであった。

 広嗣の与党に対する処罰は翌天平13(741)年正月23日に行われた。処罰対象者は直接反乱にかかわった人(太宰府に拘禁されていた)だけでなく、都にいた広嗣の弟たちまで含まれた。死刑26人・没官5人・流罪47人・徒罪32人・杖罪177人である。没官とは奴婢の身分に落とすこと、徒罪とは一定の労役を課すこと、杖罪とは杖で打つことである。流刑については広嗣の弟の田麻呂が隠岐に、同じく良継が伊豆に流されている。

 話が遡るが、広嗣を捕縛したとの報が都に届いた10月の29日、聖武天皇はふと思い立って伊勢へと行幸した。天皇は伊勢・美濃・近江をまわって12月には山背国の相楽郡にやってきた。この地は橘諸兄の別邸があり、天皇は恐らくその諸兄の進言によって天平13(741)年正月、この地に新たに造営することにした「恭仁京」へと都を移してしまった。先に述べた広嗣の与党に対する処罰はここで行われたものである。平城京は藤原不比等(広嗣の祖父)の尽力で創建された、藤原氏ゆかりの都であったから、諸兄は恭仁京遷都によって朝廷の藤原色をさらに弱めたいとの意向を持っていたと思われる。ところが天皇は翌天平14(742)年8月には今度は近江国の甲賀郡に「紫香楽宮」の造営を始めてそちらに移った。ただし紫香楽宮は離宮という扱いで都はあくまで恭仁京とされており、天皇はその2つを行ったり来たりした。

 その頃から亡き広嗣の従兄弟の藤原仲麻呂が朝廷の中で重きをなしてくる。彼は天平9(737)年の天然痘で死んだ藤原4兄弟の1人武智麻呂の子である。天皇は紫香楽で大仏の造営を始めるが、仲麻呂は積極的にこの事業に参画して天皇の機嫌を取り、さらに光明皇后(仲麻呂の叔母)にも取り入った。

 天平16(744)年2月、都が恭仁京から摂津国の「難波京」へと移された。これは諸兄に対抗する藤原氏の策であったとされている。しかし大仏造営は引き続き紫香楽で続けられていたので天皇はすぐにそちらに移り、さらに天平17(745)年5月には都をもとの平城京に戻す運びとなった。これは仲麻呂の献策による。大仏造営事業も紫香楽から平城京に移される。藤原氏ゆかりの地に帰ってきたことはつまり藤原仲麻呂の橘諸兄に対する勝利を意味していた。以降の仲麻呂の活躍については別稿で述べることとする。

 その年11月、諸兄政権下で重きをなし広嗣の乱の原因のひとつとなった玄ボウが九州の筑紫観世音寺に左遷され、翌天平18(746)年6月に亡くなった。広嗣の怨霊に殺されたとの噂が流れたという。吉備真備も天平勝宝2(750)年、こちらも九州に左遷された。彼はそこで広嗣の怨霊を陰陽道を用いて調伏したともいわれているが、その翌年には遣唐副使として大陸行きを命じられた。彼にとっては2度目の入唐であり、3年後の帰国の際にはかの鑑真和上を伴っていた。その後の真備の活躍についても別稿で触れることになる。

                                 おわり

   参考文献

『奈良の都』 青木和夫著 中央公論社日本の歴史3 1965年
『奈良朝政争史 天平文化の光と影』 中川収著 教育社 1979年
『続日本紀(中)全現代語訳』 宇治谷孟 講談社学術文庫 1992年
『続日本紀2巻』 青木和夫他校注 岩波書店新日本古典文学大系13 1990年
『隼人の古代史』 中村明蔵 平凡社新書 2001年


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