アイスランドとグリーンランドの歴史 第2部

   漁業の発展   目次に戻る

 先に軽く触れたとおり、現在のアイスランドの第1の産業は漁業である。水産物が島の外に売られるようになったのが確認出来るのは14世紀に入る前後からのことで、同世紀の中頃にはノルウェーに大量の魚と魚油を輸出するかわりに毛織物を輸入していたことが分かっている。当時のヨーロッパ(大陸)では都市人口が増加しており、キリスト教の行事で断食する時でも口に入れてOKだった魚の需要が増していた。アイスランドの側では、冬場に浅瀬で産卵するというタラの習性が知られるようになり、手漕ぎの小型船を用いるタラ漁が盛んになってきた。ただしその頃になってもまだアイスランドの基幹産業は農業だと考えられており、漁業というのはあくまで特定の季節(農閑期)だけにやるものであって、専門の漁村といったものは19世紀まで登場しなかった。しかも、15世紀の初頭と末期に疫病が大流行して人口が半減し、結果的に農地が余ってしまったことから当分の間は漁業に頼らなくてもすむようになった。

 それと並行して、15世紀の前半にはイギリス人の漁民がアイスランド周辺海域に進出し、その数は年間100隻ほどにも達した。彼等は漁業や魚の買い付けのみならず人身売買にも手を出してアイスランド人の子供を売買、あるいは誘拐したりした。

   宗教改革   目次に戻る

 その一方で……先にも触れたことではあるが……カルマル同盟は1523年にスウェーデンが離脱したことによって崩壊した。デンマークは手許に残ったノルウェーに対する支配を強化し、アイスランドもデンマークの植民地のような存在となってしまった。さらにその前後からアイスランド近海にいるイギリス人漁民は海賊のような行為を働いてデンマーク政府と対立するようになり、さらに15世紀の後半に入るとドイツ人の漁民が増加するようになった。デンマークはドイツ人と手を組んでイギリス人を駆除、そのうえでドイツ人も追い払った。1534年にデンマーク王として即位したクリスチャン3世はアイスランドを王室の個人財産とみなして独占貿易を行い、アイスランドはデンマーク以外の国とは全く接触出来なくなった。

 続いて1536〜37年、クリスチャン3世は「宗教改革」を断行し、ルター派のプロテスタントを導入した。しかし、ヨーロッパ(大陸)ではプロテスタントは主に都市部で流行っていたのだが、アイスランドには都市というものは存在せず、プロテスタントの教説自体ほとんど普及していなかった。そんな訳なのでクリスチャン3世的にはアイスランドでの宗教改革には慎重な構えをみせたのだが、アイスランドに駐在しているデンマークの出先機関は強引に事をすすめて修道院の財産を没収、アイスランド人と衝突した。(宗教改革というのは単なる教義上の問題ではなく、国家が教会の財産を奪うことによって財政を強化したいという目論みが働いていた)

 アイスランドに2人いる司教のうちスカウルホルト司教のオゥグムンドゥル・パウルスソンは、引退する時に隠れプロテスタントのギッスル・エイナルスソンを(相手の正体を知らないまま)後継者に指名してしまい、これでスカウルホルト司教区における宗教改革が実現した。しかしホーラル司教のヨーン・アーラソンはこの動きをよしとせずに(私物化していた教会財産を改革の名のもとに没収されたら困るので)デンマークに対する反乱を起こしたが、やがて捕えられて財産没収、斬首刑に処せられた。以後のアイスランドはプロテスタント優勢となり、現在(21世紀)でも84パーセントの国民がルター派のプロテスタントを奉じているが、しかし彼等もカトリック派もヨーン・アーラソンのことを「デンマークの支配に反抗した英雄」とみなして尊敬しているという。

 アイスランド語の新約聖書が初めて出たのは1540年のことで、88年には聖書全訳が出版された。スカウルホルトとホーラルの司教座教会にはデンマーク本国の高等教育機関への進学希望者に初級の勉学を施す学校が設置され、そのおかげもあって当時のアイスランドは北欧の他の地域と比べて識字率が高かった。その一方でアイスランド人たちはアイスランド語を価値ある民族の財産であるとみなし、非常に大切に維持するようになった。アイスランド語は現在に至るも外来語の採用を極力排除し、古風な色合いにこだわっているそうだ。

   暗黒時代   目次に戻る

 1602年、デンマーク王クリスチャン4世はデンマークの3つの都市(コペンハーゲン、マルメョー、ヘルシングアー)の商人に対してアイスランド貿易の独占権を付与した。貿易業者間の競争は禁止で、収益の一部は国庫に入るようになっていた。この体制が廃止される1787年までの約200年間はアイスランド史上でも最悪の暗黒時代となった。まず教会で魔女狩りが行われて25名が火刑に処せられ、1627年にははるか遠い北アフリカから海賊が来襲してきて350名以上のアイスランド人が拉致された(註1)

註1 北アフリカの海賊については当サイト内の「モロッコの歴史」を参照のこと。


 17世紀後半以降はデンマークによる統制がさらに強化され、1700年にはアルシングから立法機能が奪われた(その後は司法機関として存続)。さらに相次ぐ天災がアイスランドを襲う。まず1707〜9年に天然痘が大流行して人口の4分の1が失われ、1751〜58年には寒冷化に伴う飢餓が発生、1783年には火山が大噴火してその灰が飼い葉を汚染、家畜を痛めつけ、その翌年には大地震が発生して約400の農場が崩壊、さらに折からの厳冬でまた飢饉が起こって人口の5分の1が死んだ。あまりにも酷い状況を憂慮したデンマーク政府は全アイスランド島民をデンマーク本国に移住させるという計画まで考えた。しかし、アイスランド人たちは住み慣れた島を捨てるようなことには断固反対した。アイスランド人たちは自分たちの祖先の英雄的事績をアイスランド語で描いた「サガ」を朗唱することで厳しい時代を生き抜いたのであった。

 この頃のアイスランドの行政機構は、「総督」の下に2〜3人の「地域長官」が置かれ、財政に関しては「財務官」が担当するというものであった。役人の大半はアイスランド人であったが、総督・地域長官・財務官の3要職は概ねデンマーク人によって占められていた。1787年にはデンマーク商人による貿易独占権が廃止となり、貿易業者間の競争が認められたが、その後も1855年まではデンマーク王の臣下以外のものはアイスランド貿易に携わることは出来なかったし、しかも実際の取引はデンマーク人に牛耳られ続けた。

   レイキャヴィクの発展   目次に戻る
 
 話が前後するが……1751年、アイスランド人として初の財務官となったスクリ・マグヌスソンがレイキャヴィクに毛織物工場を開設した。ドイツから腕利きの職人を招聘し、最盛期には60〜100名の工員が働いたこの工場は商業的にはあまり成功しなかったが、しかしやがてその周囲に人家が立ち並ぶようになり、レイキャヴィクはアイスランドの歴史に登場する最初の都市となった。もっとも、ここが「最初のアイスランド人」インゴルフが定住した土地だったのは単なる偶然で、そういう歴史をふまえたうえで工場を建設した訳ではないらしいのだが……。

 工場だけでなく、他の施設もレイキャヴィクに集まってきた。まず、1784年の大地震で打撃を受けたスカウルホルトの司教が引っ越してきた。1800年にはアルシングが完全に廃止となり、その司法機能は「国家高等裁判所」が引き継ぐのだが、それもやはりレイキャヴィクに所在することになり、1806年にはそれまでベッサスタジルに住んでいたデンマーク総督もレイキャヴィクに引っ越してきた。

 その頃のヨーロッパは「ナポレオン戦争」の最中であった。この戦争の基軸はフランスとイギリスの対立である。デンマーク本国は当初は中立を標榜していたが、そういうあやふやな態度をイギリスに責められて(武力攻撃されて)海軍を潰された。そこでデンマークはフランスと同盟することにした。

 1812年、ナポレオンが「ロシア遠征」を起こして失敗した。それまでフランスに屈服していたオーストリアやプロイセンが「対仏大同盟」を結成してナポレオンに反抗し、これにスウェーデンも加わった。実は当時のスウェーデン国王はナポレオンの元部下ベルナドット元帥を養子(王太子)にしていたのだが、ベルナドットはかつての上官(ナポレオン)が落ち目になったとみるやさっさと見切りを付けて対仏大同盟に加わったのである。スウェーデン軍はフランスとの同盟を守っていたデンマークを攻撃、屈服せしめ、1814年の講和条約「キール条約」でノルウェーを奪い取った。しかし、もともとノルウェーの領土だったアイスランドはその後もデンマーク領として留まることになった。

   独立運動の芽生え   目次に戻る

 当時のデンマークの政体は強固な絶対王政であった。むろん既に19世紀に入っていることとてそういう体制は時代遅れになりつつあり、たとえば隣国のスウェーデンでは1809年に憲法を制定(註2)して絶対王政から立憲君主制へと脱皮していた。デンマークにおいても自由主義を掲げる運動が台頭してきてはいたが、その歩みは険しかった。

註2 貴族の特権を廃止し、出版の自由を認め、王権に制限を加えるというものであった。


 1839年に即位したクリスチャン8世は自由主義運動には対してはあまり理解を示さなかったが、40年にはアイスランドのアルシングを復活してやった。その頃のデンマークの領内には4つの地方議会(大した権限はなかった)が存在しており、それぞれ数十万の人口を抱える地域の代表ということになっていたから、6万弱の人口しか持たないアイスランドが議会(アルシング)を持たせてもらえたのは(これも大した権限はなく、立法問題に関して勧告機能を持つだけであったが)かなりの好待遇といってよかった。クリスチャン8世は北欧の古い言語(ヴァイキングの言葉)を守り「サガ」を通じて古代北欧の王たちの事績を伝えてきたアイスランド人に敬意を示したのである。そしてアイスランド人の側ではこの頃から、デンマークから独立して自分たちだけの国を持ちたいという「ナショナリズム」が芽生えてきた。

 初期の独立運動を指導したのはヨウン・シグルズソンという文献学者である。「独立運動」とはいっても暴力に訴えるようなことは決してせず、まずアイスランド語の古典を出版し、各種学校を設立して医学や法学を普及するといった文化活動に尽力した。アルシングの復活は彼の意見をクリスチャン8世が採用したことによって実現したのである。

 1848年2月、フランスで「二月革命」が勃発、王制が転覆して共和制へと移行した。これに刺激されたデンマーク人たちも3月20日に首都コペンハーゲンのカシーノ劇場で市民集会を開催、革命を求める宣言を採択した。翌日には1万5000人もの市民が王宮へとデモ行進を行った(童話作家のアンデルセンも参加した)が、この年1月に即位していたフレゼリク7世はあっさり市民の要求を受け入れ、ここにデンマークの絶対王政は終焉した(註3)。この動きを見て完全独立の好機と考えたシグルズソンは、アイスランドは法的には「デンマーク王室の領地」であって「デンマーク国の領土」ではなく、従って絶対王政が終了した(国王イコール国家ではなくなった)時点でアイスランドは独立を回復するのだと主張した。

註3 王制が廃止になった訳ではないが、憲法が制定されて男子普通選挙や出版・結社・集会の自由が認められた。


 残念ながらこの主張は通らなかった。デンマーク側がアイスランドというサガの文化豊かな「小さな宝石」を手放すのを惜しんだからである。しかし55年にはそれまでデンマーク人が支配していた貿易が自由化され(ただし実際にはその後数十年間はデンマーク人が仕切り続けた)、その頃ちょうど気候が温暖化して牧畜が躍進したのと相まってアイスランド経済は相当の上向きを見せた。まぁ60年代に入ると家畜の伝染病が流行ったうえにまた寒冷化してしまったため牧畜も農業も大打撃を受けてしまい、大勢のアイスランド人が食い扶持を養いきれなくなって外国(主にカナダ)に移民に出ざるを得なくなってしまうのだが、90年代になると再び気候が好転、今度は漁業が盛んになってきた。漁業はもともとは手漕ぎ船でやっていたのが、「スクーナー」というタイプの2本マストの縦帆大型帆船が使われるようになったのに大いに助けられた。主な産品は塩漬けタラとニシンで、それらを大量に輸出したことによって外国貿易の大半をアイスランド人自身が仕切れるようになった。

   自治の確立   目次に戻る

 独立運動に話を戻すと、1871年にデンマーク本国議会において「アイスランド憲法」が制定された。しかしこれは地方行政権の一部を認めただけというシロモノで、アイスランド世論を非常に怒らせた。そこでデンマーク政府は74年、「(インゴルフの定住から数えて)アイスランド植民1000周年」に対する国王からの贈り物という名目で新憲法を発布した。これはアルシングに立法・財政権を付与しつつデンマーク国王にも拒否権と行政権を与え、司法の最高位はコペンハーゲンのデンマーク最高裁がつとめるというもので、しかも行政はデンマーク政府閣内の「アイスランド担当相」とレイキャヴィクの総督(デンマーク政府の法相に対して責任を負う)が執行することになっていた。アルシングを構成する議員は36名で、うち30名は25歳以上の男子納税者によって選出されるが、残りの6名は勅撰(国王による任命)とされていた。

 無論これはアイスランド人にとってはまだまだ不十分なものであったため、デンマーク政府に憲法改正要求を出しては拒絶されるを繰り返したが、やがてアイスランドの世論はあくまで独立を求める「自治派」と、デンマークと連合し続けるのが望ましいとする「妥協派」に分裂するに至った。ところが1901年、デンマークにおいてアイスランド独立運動に同情的な左派連合内閣が成立し、アイスランド側でもアルシング選挙で自治派が勝利した。その結果、デンマーク政府は1904年をもって総督職を廃止し、かわりにレイキャヴィクに常駐する「アイスランド大臣」を新設、初代の大臣に自治派の代表者ハンネス・ハフスティンを任命した。さらにこの大臣職はアルシングの過半数の支持を得なければならないということになった。つまり、変則的ではあるが「議院内閣制」が導入されたということであり、アイスランドの自治はここに確立したのである。しかしアイスランド大臣はあくまでデンマーク政府に従属するという立場であったし、外交権はデンマークに握られ、アルシングの勅撰議員も数は減ったが廃止にはならなかった。

 その後のハフスティンは交通・通信網を整備し、高等教育の普及や病院の建設に努力した。1906年には他国との電信電話回線が設置され、その翌年には義務教育制度を導入、11年にはレイキャヴィクに「アイスランド大学」が創立された。漁業界では1902年、16歳の少年が手漕ぎ漁船「スタンリー」にデンマークから取り寄せた2馬力の重油モーターを取り付けたのをきっかけにして動力船が普及した。これに19世紀の末頃からひろまっていたトロール網(底引き網)があわさり、一種の産業革命となって漁獲量が激増する。すると当然漁業関連の雇用が増えて労働運動が盛んになり、15年には社会主義政党が結党された。同年にはデンマークで憲法が改正されて参政権が拡大したのにあわせてアイスランドもアルシングの選挙制度を改正、財産資格を撤廃して普通選挙に移行するとともに勅撰議員を廃止、さらに40歳以上の女性に参政権が認められた(3年後に25歳に引き下げ)。

   連合条約   目次に戻る

 そんな最中の1914年、「第一次世界大戦」が勃発した。デンマークは中立を宣言したが、16年にドイツが「無制限潜水艦戦」を開始、中立国の船舶であっても敵国(ドイツの敵国)に向かうものは容赦なく撃沈したことにより、デンマークとアイスランドの連絡すら困難になってしまった。これでデンマークは経済困難に陥ったが、アイスランド(戦域から遠い)はイギリス・アメリカとの取引を続けて潤った。

 18年に大戦が終結した後のヨーロッパでは「1民族1国家」を標榜する「民族自決論」が盛んになった。デンマークは最後まで中立だったにも関わらずドイツ北部のデンマーク人居住地域の割譲を要求(20年の住民投票の結果デンマークに帰属決定)、アイスランドは自治権のさらなる拡大を望んだ。こういう状況ではデンマークもアイスランドの希望に沿う以外になく、1918年12年1日をもって「連合条約」が成立した。以降のアイスランドとデンマークは共通の国王を戴く「同君連合」となり、外交に関してだけはデンマーク政府がアイスランド人の意向を汲みながら行うとされた以外にはアイスランドの主権と独立を認めるというものである。連合条約の期限はとりあえず43年までとされ、両国が更新を望まないならばその後3年の交渉期間を経て撤廃しうることが定められた。防衛に関しては、非武装の永世中立でいくことにした(デンマークには軍隊があります)。

   完全独立の達成   目次に戻る

 1939年9月、「第二次世界大戦」が勃発した。デンマーク政府は中立を宣言、しかもドイツと不可侵条約を結んだが、翌40年4月9日には電撃的にドイツ軍が侵攻してきた。ドイツ政府は民族的に近いデンマークを「モデル保護国」として扱い、今後も内政には干渉しないと宣伝した。結局デンマーク政府は流血を避けるために1日(正確には数時間)で降伏した。戦闘はほとんどなく、デンマーク側の戦死者はたったの14名だった。

 アイスランドはその後も中立を維持しようとしたが、5月10日にはイギリス軍2万5000名が進駐してきた。イギリスにとって、アイスランドは北大西洋におけるドイツ海軍の動きを監視するのに格好の戦略重要拠点であった。アイスランド政府はイギリスに対して強く抗議したものの、非武装ではどうしようもないので結局「冷静にイギリス軍を客人として迎え入れる」ことにした。翌年7月にはアメリカ軍6万がイギリス軍と交替して進駐してきた。その時点ではアメリカはまだ参戦していないので甚だしい問題行動ではないかと思うのだが、しかしアメリカ軍とアイスランド人とが揉め事を起こすようなことは特になく、むしろ基地関係の雇用が出来たおかげで思わぬ好景気となった(英米軍ともにアイスランドの内政には干渉しなかった)。レイキャヴィクの西50キロに位置するケフラヴィクには飛行場が建設され、そこから飛び立つアメリカ軍機がドイツ潜水艦との戦いに活躍した。

 デンマーク本国との連絡がほとんど途絶するという状況下において、アイスランド政府は18年の連合条約の更新は不可能になったと判断、思い切って破棄するのが望ましいと考えるようになった。つまりこの機にデンマークからの完全独立を達成しようというのである。無論そういう発想はデンマークに対して誠実ではないという意見もあったし、アメリカもイギリスもドイツのプロパガンダに利用される可能性を危惧して反対したが、アイスランド人の独立への思いを押し止めることは出来なかった。

 そして1944年5月、連合条約破棄の是非を問う国民投票が実施され、投票率98.6パーセント、破棄賛成95パーセントで破棄が決定した。破棄を正式に宣言したのは同年6月16日……19世紀の独立運動の指導者ヨウン・シグルズソンの誕生日であった……その翌日には新憲法を採択、中世にアルシングが開催されていたシングベリールにおいて「アイスランド共和国」の独立記念式典が挙行された。式典の日は折悪しく豪雨であったにもかかわらず、アイスランド国民の4分の1が出席し、ドイツ軍の占領下にいるデンマーク国王クリスチャン10世から祝電が届けられた。初代の大統領にはスヴェイド・ビョルソンが選出され、秋には独立党・進歩党・社民党の連立政権が発足して独立党党首オーラブル・トルスが首相に就任した。大統領が首相を任命するという政体だが、前者は主に儀礼的な仕事を担当する名誉職であって、実権は後者が握ることになっていた。とりあえずの目標はアメリカ軍が落としてくれる金を用いての漁船の近代化と社会保障制度の拡充である。政党について説明しておくと、独立党は保守的な中産階級、進歩党は農民、社民党は労働者の利益をそれぞれ代表している(この3つ以外の有力政党として共産党があるが、これについては後述)。それらの中で突出するような有力な政党は存在せず、21世紀の現在に至るまで常に複数の党による連立政権が行政を担っている。

   冷戦下のアイスランド   目次に戻る

 国防は……、アイスランド単体としては非武装である。国土面積に比して人口が少なすぎる(註4)ので自力の国防なんてやりようがないからである。アメリカ軍は当初の予定では戦争が終わった時点で撤収することになっていたが、しかし彼等は45年に戦争が終結した後もアイスランドに居座り続け、それどころか軍事基地用地を3ヶ所99年間貸与したいとか言い出した。この動きに対してアイスランドの世論は強い反発を示したが、政府は46年9月、「1年半以内」という期限付きでケフラヴィク空港の使用を認めるという妥協案を提示、これがアルシングを32対19で通過した。

註4 現在のアイスランドの総人口は約30万、国土面積は北海道よりやや大きい程度である。


 で、アメリカ軍は47年には撤収してくれたのだが、49年頃になるとアメリカとソ連の対立、いわゆる「冷戦」が激化するようになり、アイスランドもこれに無関係ではいられなくなってきた。地球儀で確認すればよく分かるが、アイスランドという国は実はアメリカのワシントンDCとソ連のモスクワを繋ぐ最短直線経路の真下に位置するという戦略上の要衝なのである(註5)。ソ連はアイスランドに強く注目し、戦後まもない46年3月に通商条約を締結、アイスランドから魚類を買う(かわりに石炭や木材を輸出)等して親善につとめていた。そのおかげか、アイスランドの政界は北欧諸国の中で最も共産党(親ソ連)の勢いが強く、アルシングにおいて2割ほどの議席を占めていた。

註5 アイスランド経由の空路はロンドン経由の空路の約半分の距離である。


 49年春、アメリカ及び西ヨーロッパ諸国が対ソ連の軍事同盟「北大西洋条約機構(NATO)」を結成することになった。参加を求められたアイスランド政府は「アイスランド自身はあくまで非武装であり外国軍の駐留も有事以外には認めない」という条件付きでNATO加盟を決意、37対13でアルシングの承認を得た。この時のアルシングの場外では加盟賛成派と反対派が激しく衝突して催涙弾や石が飛び交い、怪我人や逮捕者が出る騒ぎとなった。しかし、NATOはNATO不参加国に対してはいかなる協力も提供しないということが明白であったし、アイスランドと歴史的に深い関係を持つデンマーク及びノルウェーが早々とNATO加盟を決めていたことがアイスランド政府の背中を押したという訳であった。NATOにおけるアイスランドの役割は、有事発生の際には速やかにアメリカ軍が進駐するであろうから、その時までケフラヴィク空港とフヴァールフィヨルズ港を安全な状態にしておくというものであった。

 その一方でアメリカが、大戦の被害をこうむった諸国に対して大規模な経済援助を行うことでそれらの国における共産主義の伸長を阻止するという「マーシャル・プラン」を展開していた。特に何らかの戦災があった訳ではないアイスランドは対象外(むしろ他国を援助すべき立場)である筈なのだが、アメリカは他の国の2倍比の援助をまわしてくれた。

 50年、極東で「朝鮮戦争」が勃発し、世界レベルで緊張が高まった。むろんアイスランドそのものが戦争に巻込まれた訳ではないのだが、アメリカ政府が軍を駐留させたいと言って来た。これを受けたアイスランド政府は翌51年5月5日、アイスランド側が基地と必要な便宜を提供するかわりにアメリカ軍がアイスランドの防衛を担当するという協定を成立させた。今度は共産党が反対したのみで、世論一般は特に反発を示さなかった。この防衛協定に基づいて約5000名のアメリカ軍が到着し、基地関係からアイスランドにもたらされる利益は外貨収入の5パーセントに達した。

 しかしその後の56年、左派系の連立政権が成立し、アメリカ軍を撤退させるかわりにアイスランドが自力で武装するという法案が決まりかけたが、この年に起こった「ハンガリー動乱(註6)」で国際情勢が緊迫したため棚上げとなった。さらに71年にもアメリカ軍撤退を求める声が高まるのだが、現状維持を求める請願が有権者の50パーセントの署名を伴って提出されたためこれも立ち消えとなった。既に60年代には核ミサイルを搭載する潜水艦が登場しており、ソ連の北方艦隊の活動が活発になってきていた。グリーンランド〜アイスランド〜イギリスを結ぶ線の北側はソ連軍の活動範囲、南側はアメリカと西ヨーロッパを結ぶ主要交通路であるから、有事の際にアイスランドの存在が(アイスランドの意志がどうであれ)重要な意味を持つことは明らかであった。80年にはアイスランド駐留アメリカ軍が核兵器を持ち込んでいるのではないかという疑惑が持ち上がったが、これは否定されている。

註6 ハンガリーは第二次世界大戦が終わった後はソ連の衛星国になっていたが、56年に反ソ派が政権を握りかけた。しかし同年11月にソ連軍が侵攻して反ソ派を潰してしまったのである。

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